落合博満とは何だったのか。

 私は来年で48歳になる。年男というやつだ。
 このくらいの年齢になると、プロ野球の監督のほとんどは、その現役時代から見ている、という状況になってくる。と書いてから確認したら、来シーズンのNPBの監督12人は、ほとんどどころか全員の現役時代を知っている。なるほど、久しぶりの草野球で飛球を追う足がもつれるようになったのも無理はない。

 その監督たちを見ていると、現役時代とはかなり印象が変わった人物もいれば、なるほど彼らしいと思う人物もいる。
 前者の代表格は西武ライオンズの渡辺久信だ。外見の印象もかなり変わったが(トレンディドラマ全盛期に、いかにもそれらしい服装で遊び歩いていた当時の彼から、今の姿は想像しづらい。遊び仲間だったらしい工藤公康の変わらなさぶりも驚異的だが)、それだけではない。ストレート一本勝負のスタイルのままモデルチェンジできずに引退していった渡辺が、ああいう包容力のある指導者になるとは驚きだ。以前このブログでも著書を紹介したことがあるが、台湾時代の経験が、彼のそんな資質を引き出したのだろう。

 一方、「変わらないな、この人は」と思わされる機会が多かった方の代表格が、先ごろ中日の監督を退いた落合博満だった。シーズン終盤に退任が決定した際には、「契約が切れてやめる。それだけ」というようなコメントを残していたが、それも含めて彼らしい「オレ流」を貫いた8年間だったと思う。
 
 何が「落合らしさ」かについては人によって意見があるだろうが、私は「自分の流儀で結果を出す」ことにあると思っている。「結果至上主義」といってもよい。

 現役時代の落合は、すさまじい打者だった。特に、右中間に棒のように伸びていく打球が印象に残っている。が、見ていてさほど面白い選手ではなかった。当たり前に結果を出し、感情を表に出すこともない。打っても喜ばず、凡退しても平然とベンチに戻っていく。投手や捕手から見れば、この見逃し三振も何かの伏線ではないか、球筋を見切られてしまったのではないか、というような疑心暗鬼が生じて、打ち取った気がしなかったのではないかと思う。
 
 現役時代の落合が最初に書いた本のタイトルは「なんと言われようとオレ流さ」という。最年少で三冠王を獲得し、世の中に名を知られるようになった当時から、パブリックイメージも、彼のセルフイメージも「オレ流」だったわけだ。
 かといって、目立ちたがりの反逆児、というわけでもない。たぶん、彼には望む結果を出すための道筋が見えていて、そこを歩いているだけなのだろうと思う。そして、その道筋が他人にとっては面白くなかったり困ったりするものであったとしても、それには一切考慮しない。周囲の事情が彼の道筋と抵触して、はじめて「オレ流」となる。
 退任後に出演したテレビ番組で(日本テレビでの江川卓との対談だったか)、「普通って何?オレは普通だよ」という意味のことを口にしていたが、彼にとっては「普通のことを普通にやってきただけなのに、なぜか他人がとやかく言う」という感覚なのだろう。
 
 現役時代に、制度としては存在していても誰も利用することのなかった年俸調停を初めて申請したのは落合だった。選手会を退会しながら、選手会がフリーエージェント制度を勝ち取ると、初年度に利用して中日からジャイアンツに移籍した。どちらの行動も、何かの規則に抵触するわけではない。ただ、凡人なら「空気」に配慮してやらないだけだ。
 一方で、MLBにはまったく興味を示さなかった。オフのエキシビジョンゲームであった日米野球では、よく日本側の選抜チームに選ばれて活躍し、MLB側の監督に絶賛されていたが、新聞記者らからの「大リーグに意欲は?」という質問には「通用しないよ」「どうせ行けないでしょ」といったニベもない返事をするのが常だった。野茂英雄のように当時の規則を超えてアメリカに渡る、という意欲はなかったようだ(監督就任後のWBCへの無関心ぶりを見ると、本当に国際試合に興味がなかったのかも知れない)。

 つまり、落合は一貫して「規則には従う。空気は読まない」という人物だった。
 規則で許される範囲内で、ぎりぎり最大限のことをやる。明文化された根拠のない空気は無視する。それが彼の「オレ流」だ。
 そうやって、目的合理性を追求してきたという点では、現役時代も、監督になってからも、彼の言動は変わらない。「強打者なのに守備的なチームを作ったのは意外」という声も散見されたが、私は同意しない。落合が、勝つ確率を下げてまで自分の好みを優先する姿は想像できない。目的のためには手段を選ばない、身も蓋もないリアリスト。それが落合なのだ。

 監督になってからの落合は、中日ドラゴンズの勝利のために、あらゆる手を尽くし、実際に勝利してきた。中日ファンにはよい監督だっただろう。中日の勝利を喜びとしない人間にとっては、特に面白くはない監督だった。その評価のギャップが表面化した典型が、例の日本シリーズでの山井降板だったともいえる。

 ジャイアンツファンである私にとっては、落合が率いる中日は嫌な相手だった。手ひどい敗北を何度も見せられた。
 野球のスタジアムにはそういう慣習はないけれど、サッカーの試合では、アウェーの選手紹介の際に相手選手の名が呼ばれた時にサポーターがブーイングをする。手強い選手ほどブーイングは強くなる。その大きさは、裏返しの評価とも言える。
 落合中日監督は、私にとって最大級のブーイングに値する人物だった。中日ドラゴンズのどの選手よりも。
 そして、強くて嫌な落合ドラゴンズだからこそ、勝った時の喜びも、また大きかったのである。
 
 
 落合の監督としての実績には揺るぎないものがある。一方で、「コーチを育てなかった」「選手を育てなかった」という批判がある。

 「選手を育てなかった」という言い方は、正しくはない。現在の投手陣はほぼ落合監督下で育った選手ばかりだ(岩瀬も落合によってはじめてクローザーに抜擢された)。野手でも、井端、荒木、森野、和田、谷繁らの主力は、移籍組も含めて、落合監督の下で1ランク上の選手に成長したといってよいと思う。
 ただし、若い野手は伸びなかった。彼が監督をしていた8年間にドラフト経由で入団した野手に、これまで規定打席に達した選手がいないという(自分で確かめたわけではないが、東京新聞に書いてあったのでたぶん事実だろう)。これをどう評価するか。結論を出すのは来シーズン以降でよいと思う。
 
 原理原則でいえば、新人選手を一軍で使えるレベルに育てるのは、一軍監督の仕事ではない。二軍監督を含めた他のスタッフの仕事だ。一軍監督の仕事は、現有戦力を用いて勝つことだけだ。
 ただし、選手を育てるべきコーチの人事も、落合の意向に大きく左右されていたと聞く。自分で招いたコーチも容赦なく切っていたように見えた。

 しかし、これは落合監督の問題というよりは、球団側の問題だ。球団側が確固たる編成方針、育成方針を持たず、二軍のコーチ人事までも一軍監督の意向に左右されるようでは、その監督が去った後には何も残らない。落合に匹敵するプロフェッショナルが、彼を雇った中日ドラゴンズ球団にはいなかった。それが、今回の奇妙な退任劇を招いたのだろうと思う。

 落合という選手は、プロ野球選手という職業の一つのあり方、むきだしの本質を見せてくれた存在だった。
 そして、落合という監督もまた、プロ野球監督という職業の、むき出しの本質を体現していた。私にはそのように思える。

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内柴事件と「柔道の安全指導」に関する2011/12/13の連続ツイート。

 ブログの更新はすっかりご無沙汰しているが、このごろ、ツイッター(@nenbtunotetsu)にはちょこちょこと思いついたことを記している。連続ツイートしているうちに、ちょっとまとまった感じの内容になることもある。
 じっくり長文の論考に仕立て直している余裕が残念ながらないのだが、自分用の備忘録も兼ねて、「まとまった感じのもの」は、ここにまとめて記録しておこうと思います。

●内柴の件に何か言及してるだろうかと全柔連の公式サイトを見に行ったら、その件に関する記述はなかったが、「柔道の安全指導」というパンフレットのpdfを見つけた。一読して驚愕。「指導の名の下に人を殺してしまっている」という危機感が感じられない。

●本文の最初の頁に「指導者は(略)被害を最小限に食い止める努力をしています。それでも残念ながら事故が起きることがあります。そうした場合でも、従来と異なり、交通事故や医療過誤における損害賠償と同じように指導責任や管理責任を追及し、訴訟になるケースが多くなっています」とある。

●医療過誤は、基本的には病気やケガの治療における失敗だ。ほっとけば悪化するのを食い止めようとして医療行為を行う。柔道で怪我をしたり死んだりした人々は、ほっとけば何も問題はなかった。しなくてもいい柔道をしたために命を失ったり、生涯続く後遺症を背負ったりした。一緒にされては困る。

●全体を通読すると、隅々まで「指導者性善説」にのっとって書かれている。指導者が事故防止に全力を尽くしているのに不可抗力で事故が起きているかのようだ。しかし、死亡事故の報道を遡れば、指導者自身が技をかけ続けた結果、子供を死なせてしまった例が少なくない。危険なのは指導者自身だ。

●全柔連には、このパンフレットの付録として、過去の事故事例や訴訟の判例を集めた冊子を全国の指導者に配布することを勧めたい。その方がよほど抑止力になるのではないか。ただ、事故のさまざまな統計も記載されているので、資料集としては役に立つ。

●柔道界が指導者に対してこんなに甘い考えだから内柴事件みたいなことが起こる…と言ってしまうのは短絡だろう。女性の指導に若い男をあてるのは、やめた方がいいとは思うが。あれだけ女性のメダリストがいるのに、なぜわざわざ指導経験の浅い男性を招いたのか。大学側の考えも理解しづらい。

●と思ってちょっと調べたら、柔道の女子選手が引退後に指導者になる環境はあまり整っていないらしい。http://www.47news.jp/topics/entertainment/2011/08/post_4256.php 「男社会だからセクハラが横行する」という可能性もありそう。というわけで、内柴事件の再発防止には「女子の指導者を育てること」をお勧めしたい。

●ちょっと訂正。「女子の指導者を育てること」というより、「女子が指導者として生活できる環境を整えること」だ。例えば、「どこかの大学が女子柔道部の指導者を紹介してほしいと言ってきたら、女性の指導者を紹介する」みたいな。

以上。
後で「内柴の件」がわからなくなると困るので新聞記事を引用しておく。

<準強姦容疑>内柴正人容疑者を逮捕 ホテルで女子学生に

 アテネ、北京五輪の柔道男子66キロ級金メダリストで、九州看護福祉大(熊本県玉名市)の女子柔道部コーチを務めていた内柴正人容疑者(33)=同市=が部員の学生に性的暴行をした疑いが強まったとして、警視庁捜査1課は6日、準強姦(ごうかん)容疑で逮捕した。【内橋寿明、小泉大士、喜浦遊】

 捜査関係者によると、内柴容疑者は9月下旬、女子柔道部の合宿遠征で東京都内のホテルに宿泊した際、近くの居酒屋で飲酒させてめいてい状態だった未成年の学生に性的暴行をした疑いがもたれている。「納得いかない。合意だった」と容疑を否認しているという。

 同大学によると、関係者から9月下旬、「学生にセクハラ行為をした」と通報があり、調査を開始。この結果、内柴容疑者によるセクハラ行為があったことが裏付けられたとして、11月29日、「教育職員としての適性を著しく欠く」と懲戒解雇処分にした。警視庁は、女性からの被害届を受け、関係者らから事情を聴いていた。

 内柴容疑者は懲戒解雇後、自分のブログに「大学をクビになりました。そして、僕は旅に出ました」などと記していた。

 内柴容疑者は熊本県合志市出身。04年アテネ、08年北京の両五輪で金メダルを獲得。09年から同大学の非常勤講師を務め、10年4月に新設された女子柔道部のコーチになり、同年10月に現役を引退。今年1月から単年度契約の客員教授に就いていた。

(毎日新聞 12月6日(火)13時8分配信)

追記 2011.12.31
 その後、内柴は起訴されたが、それ以前に「逮捕されただけで犯罪者扱いなのか」という批判をネット上でよく目にした。内柴自身がインタビューに答えた雑誌記事などを読むと、行為そのものは認めているようだ。刑法上の犯罪にあたるかどうかは別として、「未成年の教え子に酒を飲ませて性行為に及んだ」という時点で、スポーツ指導者としてはアウトだと私は思う。

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無事是貴人。

 中日の岩瀬仁紀の通算セーブ数が286に達し、高津臣吾と並んで日本一になったことを伝える6/13の東京中日スポーツに掲載された、岩瀬の年度別成績を見ながら感心したことが二つある。

 ひとつは、登板試合数だ。プロ入り1年目の1999年にいきなり66試合に登板し、以後昨年までの12年間、すべて50試合以上に投げている。
 こんな投手は他にいない。その後、岩瀬に抜かれて通算セーブ数で2位になった高津が50試合以上に登板したのは、各国リーグ合わせて実働19年のうち4年。3位の佐々木主浩は16年中6年(うち3年はシアトル・マリナーズ在籍時)。4位の小林雅英は12年中4年。
 登板数はクローザーよりも中継ぎの方が多くなる傾向があるが、あれほど投げまくっていた印象のある鹿取義隆でも50試合を超えたのは19年中3年に過ぎない。吉田豊彦でも20年の現役生活のうち、3年連続3回どまり。現役では、藤川球児が中継ぎ時代と合わせても10年中5年、久保田智之が8年中4年。最近ではジャイアンツの越智大祐と山口鉄也が3年連続で50試合以上登板しているが、あと9年もこのペースを続けるなんて、考えただけで気が遠くなるに違いない。
 
 もっとも、1950〜60年代には化け物じみたタフな投手が大勢いて、通算登板数トップの米田哲也は1956年のプロ入りから13年間のうち11年で50試合以上に登板している。先発ローテーションに入りながらリリーフもしていたので、投球回数も毎年200台後半から300台。金田正一も50試合以上投げた年が20年中11回、稲尾和久は14年中9回。梶本隆夫、小山正明など数え始めればきりがないほど、登板試合数の上位には、往年の大投手が並んでいる。

 昔の大投手たちがなぜそれほどタフだったのかを論じはじめたら大変なことになるので(というより私には正直よくわからない)、ひとまず棚上げして、ここではリリーフ専業投手というものが日本のプロ野球に現れ始めた1970年代半ば以降に絞って話を進めることにする。

 重ねて言うが、現代のリリーフ投手として、岩瀬の堅牢さは群を抜いている。
 これほど投げ続けるシーズンが3年も続ければ、たいていの投手は故障するか成績が落ちる。しかし岩瀬の場合、明らかにダメだった年というものがない。防御率が最も悪かったのは2001年の3.30だが、61試合に投げて8勝3敗、特に悪いとは言えない。クローザーに転向した2004年以後は、勝ち数が負け数を上回った年はないのだが、セーブが30も40もあれば文句はあるまい(そもそもクローザーにとっては、勝ち星は必ずしも成功を意味しない)。
 振り返ってみれば2004年の2勝3敗22セーブという数字は多少物足りないが、それは翌年以降の成績が凄すぎることから来る印象で、クローザーとしては及第点だろう。

 私は、プロ野球選手にとって最も大事なことは、「数多くの試合に出て、一定レベルの成績を残し続ける」ことだと思っている。
 毎年百数十もの試合を行うプロ野球では、観客がその大半を見ることは難しい。球場に足を運ぶのはさらに難しい。年に一度どころか、もしかすると一生に一度くらいしかスタジアムで野球を見ることができないファンに対して、選手がなすべき最低限の仕事は「試合に出る」ことだ。「試合に勝つ」とか「活躍する」というのは、その先にあることだ。相手のいることだから、どんなに頑張っても勝てない日もあれば打てない日もある。それでもスター選手がグラウンドに現れ、頑張っている姿を見せれば、ファンは満足はしなくても納得はできる。MLBでいうところのconstancyは、いわば選手の観客に対する誠意の結晶なのだ。
 増して岩瀬はクローザーだから、「姿を現す」ことは「勝利を見せる」ことにほぼ等しい。この「ほぼ等しい」という状況を6,7年も保っているのだから、見事というほかはない。
 
 プロ野球に関する言説では、こういう「丈夫で長持ち」する選手が話題に上ると、よく「無事是名馬」という言葉が持ち出される。これは一体どこから来た表現なのだろうかと調べてみたら、意外なことが判った。「臨済録」に「無事是貴人(きにん)」という言葉があり、競馬好きの菊池寛がこれをもじって言った言葉なのだという。元ネタは禅語というわけだ。

 <当然のことを造作なく当然にやることが平常であり、無事というわけです。いかなる境界に置かれようとも、見るがまま、聞くがまま、あるがままに、すべてを造作なく処置して行くことができる人が、「無事是れ貴人」というべきです。>と<臨済・黄檗 禅の公式サイト>に解説が書かれている。
 勝ち試合の9回表になると当然のようにマウンドに立ち、ほとんど表情を変えず、長い腕から“死神之鎌”の如きスライダーを投げ込み、何事もなかったかのように試合を終わらせる岩瀬には、まさに<すべてを造作なく処置して行くことができる人>である。「名馬」よりも「貴人」が彼にはふさわしい。
 
 
 長くなったので、「感心したこと」の2つ目は改めて。前にtwitterに書いたので、知ってる人は知ってると思いますが(笑)。

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more than one game.

 FCバルセロナには、MES QUE UN CLUBというキャッチフレーズのような言葉がある。カンプ・ノウ・スタジアムのバックスタンドにも記されている。
 英語で言えばMORE THAN A CLUB、“クラブ以上のもの”であるのだという意思と自負の表明だ。

 昨29日夜に大阪・長居で開かれたサッカーの震災復興支援試合、日本代表-Jリーグ選抜で後者の監督を務めたドラガン・ストイコビッチは、試合後のインタビューの冒頭に、似た言葉を口にした。

"That game was more than one game," said Stojkovic. "I think that the Japanese football family gave a really big heart to the people of Japan."とJapan Timesの記事にある。

 Jリーグにとって東日本大震災が起こった3/11は、前週に開幕し、第2節の試合が行われる前日にだった。リーグはただちに試合をとりやめ、まもなく、約1か月にわたるリーグ戦・カップ戦の中断を決めた。3月下旬に2試合が予定されていた代表の強化試合は被災者のためのチャリティーマッチという位置づけに替えて、予定されていたニュージーランド代表の来日がかなわないと判明すると、代表とJリーグ選抜との試合に変更した。
 仙台や水戸、鹿嶋といった被災地に複数のクラブがあったことも影響しているのだろうが、その対応は、(国内のあらゆる分野の組織直接震災に対処すべき性質のものは別にして)の中でも、迅速かつ的確だったように思う。それだけに、もうひとつのプロスポーツ団体の迷走ぶりも際だってしまったわけだが。

 試合の内容は、こういう時期にしては、というよりも、こういう時期だからこその、気持ちの入ったものだったように思う。
 日本代表には、欧州のクラブに在籍する選手たちが結集した。それぞれのクラブは、Aマッチではない非公式戦と知りつつ、選手たちを快く送り出したようだ。アジアカップに出場した選手はもとより、参加しなかった阿部や、その後スペインに渡ってから代表に加わった家長らの顔もあった。
 「勝敗よりも被災者の力になることが大事だった」と語ったザッケローニ監督は、しかし初めて3-4-3の布陣を敷くというチャレンジで、強化の上でもこの試合を活用した。中盤の左に配された長友は、力強い突進でこのサイドを制圧。日本代表は、遠藤のフリーキックと岡崎の裏に抜ける突破により2点を先行した。

 Jリーグ選抜は、「ほぼ日本代表OB選抜」と呼びたいような顔触れだった。昨年のワールドカップ南アフリカ大会で日本のゴールの前に立ちふさがった中沢とトゥーリオがセンターバックを組み、川口、楢崎、中村俊輔、中村憲剛、小笠原、小野ら、日本サッカーの顔役ともいうべき選手たちが並んだ。
 そんな中で、仙台から参加し10番を背負ったリャン・ヨンギは、豊富な運動量でピッチを駆け回り奮闘した。日本テレビの中継が、アナウンサーの実況においても映像においても、彼をクローズアップする機会が著しく少なかったのは、彼が被災地のクラブから参加した選手だという点を抜きにしても、不当であったと思う。
 
 選手をごっそり入れ替えた後半も、中村俊輔が中盤の低い位置からゲームをコントロールし、選手たちは急造チームとは思えないコンビネーションで代表ゴールに迫った。GKのキックをトゥーリオがヘディングで競り勝ち、前にこぼれることを予期した飛び出しを見せたカズのゴールは、90年代前半に高木と組んだ2トップを彷彿とさせるものだった。バウンドする浮き球の処理の巧さは若い頃から抜きんでいた。

 「まだ苦しい大変な日が続くと思いますけど、日本全体、世界全体でこの危機を乗り越えましょう」

 言葉だけ抜き出せば、さほど特別なものではない。だが、日本サッカーの現代史を築き上げ、国内に知らぬ者のない「生ける伝説」が、この特別な試合で特別なゴールを挙げたことによって得たインタビューの機会に語られたからこそ、カズの言葉は特別な響きをもって人々の心に伝わる。
 
 カズやザッケローニやストイコビッチの名とともにこの試合のニュースが報じられること自体が、そのまま「日本はくじけないぞ」という世界へのメッセージとなる。被災者を元気づけるために開かれたこの試合の意義は、同時にそういう面にもある。彼らは、そのことをよくわかって、この試合に参加し、よく選ばれた言葉でコメントしている。その意味でも、この試合のために帰ってきてくれたザッケローニやストイコビッチには感謝している。
 
 Jリーグ選抜の顔触れに「顔役」という言葉を使ったが、岡田武史やラモスといったOBたちもスタジアムに駆けつけて、募金活動などに協力したという。まさに日本サッカー界の顔役が集まって、ひとつのことをなそうとした。
 それがどのくらい被災者のためになったのかを云々する立場に私ははないけれど、被災地以外の人々の心を奮い立たせ、被災地支援に向かわせる上では、大きな力になったはずだ。

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しかし全力を尽くせば。

 本棚から崩れ落ちた本の山を片付けていたら、古い蔵書の1冊が目についた。ニューヨーク・タイムズのスポーツコラムニスト、アイラ・バーカウのコラム集「ヒーローたちのシーズン」(河出書房新社、1990/新庄哲夫訳)だ。
 表題作の中の、こんな一節が好きだった。

<世界が激動している時代にあっては、良きにつけ悪しきにつけ、スポーツの存在意義などほとんどないかのように思われるかもしれない。
 しかし全力を尽くせば、スポーツやスポーツ選手は、クリスマス・シーズンに人々がことのほか尊ぶものを見せてやれるし、あまつさえあたえることもできるのである。それは希望と喜びと勝利だ。>
 
 
 このたびの震災で亡くなられた方に心からのお悔やみを、被害に遭った方に心からのお見舞いを申し上げる。
 
 被害の規模の大きさ、救援活動の長期化、そして原発事故処理の長期化を思えば、発生直後に「今は野球どころではない」と話した選手の気持ちには共感する。と同時に、それでも我々は前に進んでいかなくてはいけない。
 
 いずれ選手たちには、被災地のスタジアムで全力を尽くせる日が来る。イーグルスの臙脂やベガルタ・ゴールドや、水戸や鹿嶋や、ほかのそれぞれの色に埋め尽くされたスタンドの前でプレーできる日が必ず来る。
 その日に被災地にもたらすべき<希望と喜びと勝利>のために、選手たちも、そうでない我々も、それぞれの場でできることをする。今はまだ、そういう時期なのだと思う。
 
 もうひとつ大事なのは、忘れないことだ。
 メディアの報道は「復興」「希望」の色彩が濃くなってきたが、原発事故の被害を別にしても、あれほど広域に渡った震災なのだから、まだまだ復興どころではないほど困窮したままの地域や人々もいるのではないかと思う。
 今後、さらに復興が進んでいくと、その落差がますます広がっていく怖れもある。取り残される人を作ってはいけないし、やむない事情で復興の順番や速度が遅くなったとしても、止まってしまってはいけない。忘れられた人々がいるのではないかと心配し、探し、発見したら手当をする。そんな作業が、長いタイムスパンで必要になっていくだろうと思う。

 そのための第一歩は「忘れない」こと。震災翌日の気持ちと今の気持ちは、すでに違ってきているかも知れないし、時間がたてばさらに変わっていく。だから、私はここで自分に釘を刺しておく。忘れるな、と。

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「相撲を守ること」=「日本相撲協会を守ること」ではない。

 大相撲の八百長が表面化して、とうとう本場所まで中止になってしまった。
 「徹底的に解明する」という放駒理事長個人の誠意を疑うものではない。が、仮に解明が成功して、星の買収や貸し借りに手を染めた経験者を角界から追放したら、その後に何が残るのだろうかと考えると、理事長には同情を禁じ得ない。

 私個人は相撲に対する関心が薄く、相撲への愛着はおそらく40代日本人の平均値を下回ると思われるので、今回の事態に対して、感情的な動揺はあまりない。長年のツケを払う時が来たな、と感じるだけだ。
 もともと私は、相撲が、例えば五輪競技に比肩しうる現代スポーツ競技だとは思っていない。対戦の組み合わせに公平性が担保されていない、という一事をもってしても、その資格はない。大相撲とは神事や芸能や興行などさまざまな属性を持つ運動体であり、その中にスポーツに近い身体運動も含まれている、というくらいの認識だったから、勝敗を決する上で当事者の力量と土俵上のパフォーマンス以外の要因が紛れ込んでいたとしても、まあそんなものかな、と思っていた。
 こうやって言語化すると奇異に感じられるかも知れないが、日本人の相撲観の平均的なところから、実はそれほど大きく外れてはいないのではないだろうか。
 
 その種の曖昧さが許容されなくなってきたのは、世の中一般の風潮であると同時に、日本相撲協会自身にも理由がある。朝青龍の行状を批判する際に、彼らは大相撲の品格というものを振りかざした。かのモンゴル人力士を引退に追い込むために、彼らは自分たちの格調をどんどん上げていった。上げすぎたハードルに自分たちでつまづいているのだから世話はない。
(ただし、朝青龍の行状のうち、故障による休業中にモンゴルでサッカーに興じていたこと、一般人に暴行したこと(事実であればだが)、本場所中に暴行したかどうかも覚えていないほど泥酔したことの3点は、現代のスポーツ選手として失格だと私は考える。特に2点目の暴行事件は、どんな格闘技でも資格停止処分に相当するのではないか)
 
 閑話休題。
 八百長の全容解明は理事長と委員会に任せるとして、再発防止のために制度改革をするとしたら、どういう方法があるだろうかとつらつら考えてみた。
 八百長相撲には大きく2種類があるのだろうと思う。強い力士が優勝や連勝のために金を出して星を買うケースと、幕下転落の危機に瀕した力士がそれを免れるために星を買ったり、貸し借りを行うケースだ。

 後者をなくす、少なくとも減らすことは制度的にできるのではないかと思う。
 幕下に落ちるといきなり固定給がなくなる、という経済的な落差の大きさが原因のひとつだとしたら、ここをもう少しなだらかにするという手がある。
 千秋楽に勝ち越しがかかっている力士に、勝ち越し(または負け越し)が決まっている力士が星を貸すというケースが多いのであれば、千秋楽の取り組みは相星どうしにしてしまえばよい。
 さらにいえば、現行の東西番付の取り組みをやめてしまって、幕内は16人限定、1場所ごとに総当たりリーグ戦を行う。当然はみだす力士がいるから2部リーグ、3部リーグと階層化し、上位リーグ最下位と下位リーグ1位の入れ替え戦を行う。給料も賞金も順位ごとに傾斜配分。ここまで透明化してしまえば星の貸し借りをしている余裕もないだろう。
 ドラスティックな改革には、伝統だの格式だのと抵抗する人もいるだろうが、大相撲の伝統などというのはすこぶる頼りないもので、過去の歴史を見ても、その時々の都合でどうにでも変わってきている(横綱が番付上の地位になったのは明治以後のことだし、場所の数だって戦前と今とでは違う)。
 伝統を守るためにこそ変化が必要なのは、どの分野においても同じことだ。
 
 そうはいっても上位者が星を買うことを止めるのは難しいし、そもそもあの人たちにこんな思い切った改革ができるものやら…などと考えているうちに、根本的な疑問が湧いてきた。

 相撲は日本相撲協会だけのものなのか?
 日本相撲協会を存続させなければ相撲は守れないのか?

 日本相撲協会の公式サイトには相撲そのものの歴史に関する記述はない。私は新田一郎先生の「相撲の歴史」を所有しているはずなのだが手元に見あたらないので、とりあえずウィキペディアを参照すると、相撲の項は「古事記」あたりから始まり、例の「日本書紀」の野見宿禰と當麻蹶速がすもうをとった話が出てくる。これが相撲の伝統とやらに正統性を与えている。
 日本中の神社仏閣で奉納相撲が行われ、そこから興行としての相撲も起こってきた。江戸時代には各地の殿様が力士のスポンサーとなり、大阪と江戸での興行が盛んになった。明治維新で殿様の庇護を失い、西洋化の中で「裸は不道徳」などと糾弾されながら自営の道を模索した人々の集まりが、今の日本相撲協会の始まりということになる。

 だから、日本書紀に始まる相撲の伝統は、別に日本相撲協会だけのものではない。今はそれ以外の相撲が衰退したから、我々は相撲が彼らだけのものであるかのように考えがちだが、相撲は日本人すべてのものであって、彼らに独占される筋合いはない。
 かつてほど盛んではないにせよ、今でも地方の祭りで奉納相撲が行われているところもあるだろう。高校や大学の相撲部もある。日本相撲協会の外にも相撲はあるのだ。
 
 …とすれば、と妄想は広がる。
 今の協会の人々が自浄作用を発揮する、などという極小の可能性に賭けることはやめて、彼らとは無関係に、一から競技団体を作ったっていいんじゃないだろうか。

 コンプライアンスにすぐれた企業人や相撲の伝統に精通した学識経験者、格闘技の指導者らを招いて、日本古来の文化である相撲の伝統と格式を守り、不正の温床とならず、青少年を惹きつけ、世界に通用するスポーツマンを育成できるような競技団体を制度設計する。
 力士を職業化する必要はない。他のアマチュアスポーツ一般と同様、職業をもったアマチュア力士や学生力士によるリーグ戦やトーナメント大会を競技団体が主催する*。両国国技館は旧協会の解散に伴って国が接収し、新団体が優先的に使えるように計らう。
 現在の相撲協会に属する指導者や力士は、新団体が個別に精査して、八百長への関与なしと認められ、かつ本人が希望する場合には、新団体の一員としての参加を認める。
 ただし、新団体は彼らに報酬を払うことはしないので、どう生計を立てるかは本人次第となる。彼らがこれまで言ってきたように、日本の伝統文化を守る気概と使命感があるのなら、無給でも新しい相撲界のために貢献してくれることだろう。

 これで何か問題があるだろうか?
 日本相撲協会の周辺で生計を立てている人たちを別にすれば、日本国民一般にとって、これで何か不都合があるだろうか?私には思いつかない。
 競技そのもののレベルが下がる? 今の日本相撲協会が主催する大相撲のレベルが、10年前、20年前と比べてどうなのか、私にはよくわからない。幸か不幸か相撲にはオリンピックもワールドカップもないので、国内の競技レベルが下がったとしても、それが顕在化することはまずない。

 
 いくら相撲に関心が薄いといっても、相撲が消滅することは私とて望まない。
 だが、日本相撲協会が解散することと、相撲が消滅することはイコールではない。
 日本国民が望んでいるのは「相撲の伝統が守られること」であって、「日本相撲協会が存続すること」ではないはずだ。
 「相撲の伝統」が奈辺にあるのかは、じっくり考えてみる必要がある。それが両国のあのへんにあるとは限らないのだから。
 
 
 
* 追記)
 このような枠組みの中で、柔道や剣道は運営され、金銭スキャンダルや八百長トラブルなど起こさずに(推定)、立派に伝統を守って存続している。一般人への普及という点でも、柔道や剣道は町の道場が各地にあって、青少年や成人の愛好家に門戸を開き、競技の裾野を広げている。職業格闘家の育成機関であるボクシングジムやプロレス、総合格闘技の団体も、道場に一般愛好者を参加させている。相撲だけが例外といってもいい。つまり、日本相撲協会は所属競技者を職業化し、特殊な髪形と体形にすることによって、競技を協会内に独占し、一般への普及を阻害している、と考えられなくもない。
 そもそも、髪を伸ばしてマゲを結うことは、相撲に絶対不可欠な本質なのだろうか?
 野見宿禰と當麻蹶速が江戸風の大銀杏を結っていたことは、まずありえないと思うのだが。

追記2)
と、これだけ書いた後で、アマチュア相撲の統括団体である「財団法人日本相撲連盟」が存在することに気がついた。そりゃあるでしょうな、世界大会もあるんだから。「連盟」の実情については何も知らないので、「連盟」がここに書いた「新団体」のような存在になりうるのか、というような議論はさしあたり控えておく。

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早すぎる中間試験をクリアしたザッケローニ。

 かつてワールドカップの中間年に開かれていた頃、アジアカップは代表監督にとっての中間試験のような意味合いを持っていた。

 1992年、史上初の外国人監督となったハンス・オフトは、史上初めてこのタイトルを日本にもたらした。就任当初は主力選手(特にラモスだ)との確執が伝えられたものの、夏に北京で開かれたダイナスティカップに優勝して選手たちの信頼を勝ち取り、秋に広島で開催されたアジアカップを日本人の目の前で勝ち取ったことで、メディアを含めた日本のサッカー界を味方につけた。「オフト・マジック」という言葉が広く流布されるようになったのは、この頃からのことだ。アジアカップで彼が手にした信頼は、翌年秋のワールドカップ1994アメリカ大会最終予選の最後の数分まで有効だった。
 
 日本が次にアジアカップをとったのは2000年の秋だった。前年にU‐20日本代表を率いてワールドユースのファイナリストとなり、この年にはU‐23日本代表を率いてシドニー五輪でベスト8に進んだフィリップ・トルシエが、年齢制限のないフル代表にすべての年代を結集し、満を持して臨んだ大会で、日本はグループリーグで圧倒的な得点力を見せつけ、危なげなく優勝した。ワールドカップ1998フランス大会組の名波、シドニー五輪世代の中村俊輔、ナイジェリアワールドユース世代の高原(シドニー五輪でも活躍したが)の3人がベスト11に選ばれるなど、世代的なバランスがとれ、西沢・高原の2トップ、名波・中村のダブル司令塔がそれぞれ機能した理想的なチームだった(振り返ればトルシエの日本代表はこの時期がピークだったかもしれない)。
 翌2001年、フランスとの親善試合で大敗したことから(おそらくはそれまでのエキセントリックで独裁的な振る舞いに対して積もり積もっていた不満が爆発し)、協会内やメディアでトルシエ解任論が持ち上がった時、岡野JFA会長がトルシエを支え、ワールドカップ2002日韓大会まで指揮を執らせることになった上で、このアジアカップ優勝という実績は、大いに役立ったものと想像する。
(と書きましたが、コメント欄の武藤さんご指摘のように、トルシエ解任論が持ち上がったのは2000年春で、シドニー五輪とアジアカップの前。前後関係が間違っていました。失礼しました/2011.2.6)

 トルシエの後に代表監督となったジーコが、ワールドカップ予選で危なっかしいマネジメントを続け、解任デモまで行われたにもかかわらず、結局はワールドカップ2006ドイツ大会まで任期を全うすることになったのも、2004年の夏に開催されたアジアカップにディフェンディングチャンピオンとして大苦戦しながらも優勝したことが大きく影響していたと思われる。少なくともアフリカ大陸では数々の輝かしい実績を持つトルシエと異なり、初めて率いたチームが日本代表だったジーコにとっては、これがほぼ唯一の指導者としての実績だったのだから。

 この間、1996年大会でクウェートに敗れてベスト8止まりだった加茂周は、1997年のワールドカップ最終予選の最中に解任された。
 つまり、92年にオフトが初優勝して以来、アジアカップで優勝した監督はワールドカップ(または最終予選の最後)までの任期を全うし、優勝できなかった監督はそれ以前に退任している。「中間試験」と書いた意味がおわかりだろう。

 前回の2007年大会は7月に東南アジア4か国で共同開催され、イビチャ・オシムが率いた日本代表はベスト4に終わった。オシムはその年の暮れに病に倒れて代表監督を退任し、後任の岡田武史が予選を勝ち抜いてワールドカップ2010南アフリカ大会に出場している。結果的にはジンクス通りになっているが、オシムの退任とアジアカップの結果との間には、おそらく関係はない。

 冒頭に「かつてワールドカップの中間年に開かれていた頃」と書いた通り、この2007年大会からアジアカップの開催年は1年繰り上がり、ワールドカップの翌年開催となった。スポンサー営業などの都合で五輪開催年を避けたということなのだろうが、そのおかげで、ワールドカップへの出場やそこでの躍進を現実的な目標とする国にとっては、位置づけの難しい大会になってしまった。「中間試験」としては早すぎるのだ。

 オシムがアジアカップに臨んだのは就任から約1年後だが、前任者がベテラン選手を重用しすぎて世代交代が最大の急務となっており、戦術やトレーニングの面でも異質だったため、ほぼゼロからチーム作りをスタートさせなければならなかった。
 オシムはアジアカップで、酷暑の環境にもかかわらず同じ選手を起用し続けた。準決勝と3位決定戦で接戦の末に競り負けたという結果は、その体力面での消耗が影響していた可能性はある。それでもオシムが同じメンバーにこだわったことについて、後藤健生が当時「オシムはアジアカップをトレーニングキャンプとして使った」というような解釈をしていた。

 アルベルト・ザッケローニ現代表監督にとって、今回のアジアカップはオシム以上に厳しい条件下で迎えた大会だったはずだ。9月に就任し、10月に親善試合を2試合戦った後、2か月ぶりの試合がいきなりアジアカップの本番。しかも日本国内のリーグ戦と天皇杯が1月1日まで詰まっており、事前キャンプで選手全員がそろったのは大会直前だった。
 オシムがアジアカップを「トレーニングキャンプとして使った」のだとしたら、ザッケローニは「トレーニングキャンプとして使わざるを得なかった」と言うのが適切だろう。

 そのカタール・キャンプを、ザッケローニは、これ以上考えられない理想的な形で終えることに成功した。優勝という結果はもちろんのこと、チームの掌握や新戦力の発掘・育成という難しい課題にも一定の成果を挙げることができた。
 選手の顔触れや戦い方、戦いぶりを見ると、今の代表チームは、ワールドカップ2010南アフリカ大会のチームを継承し、なおかつ新世代をそこに加えて、進化しつつあると実感できる。
 中沢、闘莉王という守備の要を故障で欠いたものの、川島、遠藤、長谷部、本田、長友らをそのまま残した現在のチームは、その骨格を南アフリカから継承している。ザッケローニはチームを自分の色に染めることよりも、岡田武史が作ったチームを土台として、弱点を補強し、長所を伸ばそうとしているように見える。
 ワールドカップが終わり、監督が替わるたびに、チームを作り直していた日本代表の近代史から見ると、これは特筆すべきことだ。
(サッカー協会の人脈から選ばれた監督たちが、そのたびにチームをリセットしていたのに、初めて日本とまったく無縁なところからスカウトしてきた監督が最も強く既存のチームに敬意を払っているというのは、皮肉なことともいえる)

 と同時にザッケローニは、南アフリカに行ったがチャンスに恵まれなかった選手たちや、そもそも南アフリカに行けなかった選手たちにチャンスを与え、それぞれが結果を出した。特筆すべきは、吉田、伊野波、細貝、李と4人もの選手が代表初得点を挙げたことだろう。それぞれが試合を決定づける(あるいは死の淵から日本を生還させる)、とてつもなく貴重なゴールだった。2人のベテランの存在があまりに大きかったセンターバックのバックアップ、あるいは後継者候補たちが経験を積んだことにも大きな意義がある。

 大会を通じて、私が最も印象に残っているのは、ピッチサイドに立つザッケローニの表情だ。就任以来、親善試合の間も穏やかで温厚な印象を崩さなかった彼が、しばしば(というよりかなり頻繁に)猛々しく、時には凶悪とさえ言える表情を見せていた。
 表現は悪いが、普段は好々爺にしか見えない元暗黒街の顔役が何かの拍子に往年の貌を垣間見せたような印象を受けた。なるほどこれがセリエAを生き抜いてきた勝負師の貌か、と納得できるものがあり、私には好ましく感じられた。

 2014年大会までは3年半もある。これまでのアジアカップウィナーのように、この勝利がワールドカップでの采配(もちろん予選を勝ち抜けばの話だが)を保証するものではないかも知れない。
 だが、この勝利は今後、ザッケローニ代表監督の仕事をとてもやりやすくするはずだ。その意味で、彼にとって非常に大きな意義を持つ。そして、彼の指導を受ける期間を得た日本代表(とその候補)の選手たちにとっても。

 試合後にザッケローニが言った通り、私は日本国民として、我々の代表チームを誇りに思う。そして、そのチームをアジアの頂点に導いた代表監督も、誇りに思っている。

 さらにいえば、ザッケローニを選んで口説いて極東まで連れてきた原博実技術委員長に感謝する。脳裏に甦る日本代表のゴールは、どれも「いい時間に入った」ものばかりだった。

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えのきどいちろう「F党宣言! 俺たちの北海道日本ハムファイターズ」河出書房新社

 あれほど野球のことばかり書いたり喋ったりしてきた著者にとって、これが初めての野球に関する単著らしい。シンジラレナイ。反面、この本は、そういう立場に置かれるのにとてもふさわしい内容でもある。
 日本ハムファイターズが札幌に移転したのが2004年シーズン。本書はその前年の夏から始まった北海道新聞の連載コラムを、2010年シーズン終了分までまとめたものだ。4人によるリレーコラムだが、えのきどだけが隔週で書いている。
 移転前夜から初年度、新庄フィーバー、2連覇、梨田ファイターズ発足に中田翔の覚醒。もちろん、この間にダルビッシュが大エースになり、田中が引退し、森本や田中賢介ら鎌ケ谷育ちの若手が主力選手に育っていく。2週に1度づつ、7シーズン半にわたって書きためたコラムが、気がつけば北海道ファイターズのクロニクルになっている。
 読み返して思うのは、時評的なコラムでありながら、えのきどは折々に、いま目の前で見ているものの位置づけを論じる。ファイターズの歴史にとって何なのか、彼の野球人生にとって何なのか、北海道というフランチャイズにとって何なのか。一編一編がそのように書かれているから、ひとまとめに読んだ時にも、単なる寄せ集めではなく、ひとつの歴史を綴ったものになっている。コラムニストを本業とする著者の面目躍如でもある。

 連載は北海道の読者を想定して書かれているから、最初のうちは紹介目線である。別に「上から」ではなく、「ぼくの大事な人がそっちに行くから、ぜひよろしくお願いします」という姿勢であり、「ファイターズってこんなチームなんだ、いいでしょ」という少年のような素直な自慢でもある。それがだんだんとタイトル通りの<俺たちのファイターズ>になっていく。

 一方で、道新以外の雑誌などに寄稿したコラムが、その年度の最後にまとめて記載されている。ある意味では、これらが本書の白眉でもある。
 北海道の読者の前では意識して抑えていたようだが、東京生まれ東京育ち東京在住で70年代前半からのファイターズファンで東京ドームに年に何十回も通っていた著者にとって、ファイターズが東京から去ることのダメージは巨大なものがあったはずだ。それでも著者も誰も、移転に反対する声を挙げたりはしない。単に大人しくて控え目だからという性向もあるかも知れないし、著者のように、球団の生き残りを考えたら北海道に移った方がよい、というオトナの判断もあったのかも知れない。
 そんな複雑な思いのたけが、「さらば東京ファイターズ!」「ファイターズが東京を去った日」の2つのコラムに吐露されている。

<最終戦、東京ドームに駆けつけたファンは、皆、少数派としてこの街で暮らす人たちだ。満員の入りでもウェーブひとつするわけじゃない。普段は市井のどこかで肩身の狭い暮らしをしている。万年弱小球団を見て、どこか自分に似ていると思ったのだ。そして、自分を見放すことができないように、弱小球団を見放すことができなかった。>(「ファイターズが東京を去った日」)

 今やファイターズは、ぎっしり埋まった札幌ドームのファンが地鳴りのような声援を送り続ける、地元のナンバーワンチームであり、毎年のように優勝を争う強豪チームでもある。だが一方で、ファイターズの原点はあのまばらで、でも何ともいえずにいい雰囲気のあった東京ドームであり、こういう観客たちだった。だから何だ、という話ではないけれど、「スポーツを観ること」からいろんなものを削ぎ落としていって最後に残るのは、こういう姿であるような気がする。

 そして、そんな球場で弱いチームを長年見続けた著者が、選手ひとりひとりに注ぐまなざしの温かさが快い。田中幸雄の打席に吹く春風を受け、森本ひちょりの心の震えを感じながら、著者は選手たちを眺めてきた。かつて東京ドームのスタンドにいた人々。二軍の若手たちが鍛える鎌ケ谷スタジアム。ここには、プロ野球のあらゆる楽しみ方のサンプルがある。
 「今の野球はつまらなくなった」という年配者の言説を私は信じない。野球そのもののレベルはともかく(それが低くなったとも私は思っていないが)、それを見ることが面白いかつまらないかは、見る側の力量にもかかっているということを、本書を読むと改めて感じる。

 なんだか最後はわけのわからない思い入れを語っている文章になってしまったが、たぶん、「スポーツを観ること」のスタンスにおいて、私は著者に似たところがあるのだと思う。著者は私のような屁理屈をこねることは、めったにしないけれど。
 
 
 
 これが今年最後のアップになります。
 相変わらずの半休眠ブログですが、こんな感じでときどき思い出したように更新するペースが続くことになる見込みです。訪ねてくださる奇特な方々に感謝します。
 皆様がよい年を迎えられますように。

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佐藤岳「中澤佑二 不屈」文藝春秋

 ワールドカップ南アフリカ大会の後で出た書籍の中で、読む価値のあるものを1冊選べといわれたら、たぶんこれを挙げる。報知新聞記者の著者が、中澤の半生をたどりながら南アフリカ大会でのチームや戦いぶりを記している。
 
 まずは中澤のストイックな生き方に感服する。ここまで自分を追いつめた上に彼のプレーがあるのかと、改めて思い知った。
 そして、ワールドカップ。中澤が出場した2つのワールドカップが、当然ながら本書の大きな山となっている。内部崩壊したドイツ大会と、それに対する反省を抱いた経験者たちがどう南アフリカ大会に臨んだか、という部分を軸に、著者はワールドカップを書く。
 
 著者は5月以降の岡田監督には批判的なスタンスをとっている。巷間ほめたたえられた戦術の変更、キャプテンの交替。スイスでのミーティングの成果についても、そう劇的なものとしては捉えていないし、岡田がそれをネガティブに受け取ったかのような書き方でもある。
 ただし、本書の中で著者は岡田自身には取材をしていない。岡田に対するネガティブな見方の根拠は、主に「ある選手」の言葉として示される。それがすべて同一人物なのか、複数の選手なのかも定かではない。
 ワールドカップ後に多勢を占めた「岡田礼賛」の言説が間違っていて本書だけが真実だ、とは思わない。ひとつの結果の背後にはさまざまな要因があり、立場によって見方は変わる。出場した選手、それも、レギュラーと控えとの間だけでなく、試合に出ていた選手たちの見方でさえ、ひとつではないだろう。
 本書では、少なくとも中澤の言葉として語られる部分については信頼が置ける。中澤という1人の中心選手にとって2つのワールドカップがどうであったか、ということだけでも、書き残される値打ちがある。

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木村元彦「社長・溝畑宏の天国と地獄」集英社

 溝畑の存在を知ったのは、著者の木村が「サッカー批評」に書いた記事が最初だったと思う。本書の後書きに紹介されている18号での文章が、たぶんそれだ。
 溝畑はまだ自治省(当時)の官僚だった。大分県に赴任していた時期にトリニータを立ち上げ、ほぼ1人で切り盛りしていた人物が、異動して本省に戻った後もクラブを遠隔操作していることの異常さについて書いていた。記事の中に溝畑の実名は出ていなかったように思う。
 その後、ついに官僚を辞してトリニータの社長となり、背水の陣で経営の最前線に立ったことで彼の名を知った。その後の大分の躍進ぶりは言うまでもないし、ナビスコカップをとった時には彼自身もずいぶんとメディアにもてはやされていた。
 が、そこからの転落も早かった。
 
 本書は、それほど早い段階から溝畑に注目していた著者が検証した、大分トリニータの経営破綻に至る一部始終である。著者は溝畑に対して決して好意的な立場にはなかった。それは「サッカー批評」に発表した一連の記事が示している。それでも溝畑は彼の取材に協力し、木村は是々非々で溝畑の功罪を記していく。
 立場を超えて被取材者の信頼を得られるのはなぜなのか、それは本書を読めばわかると思う。
 
 サッカー界では悪者扱いの溝畑だが、本書を読めば、ひとりの悪役を仕立てて攻撃すれば済むような単純な話ではないことはわかる。私はつい溝畑に肩入れしたくなりそうになったが、読後しばらくして、観光庁長官になった溝畑が、BSフジの「東京会議」という緩い番組で小山薫堂らが訪ねる形で出演し、異様なテンションでおおはしゃぎして、訪ねた小山たちが気圧されたり退いたりしているのを見て呆れた。
 これは確かにある種の怪物だ。私が知っているどんな類型にもあてはまらない人物だ。トリニータを潰した男が長官か、という素朴な反感は私にもあるけれど、たぶん、海外から観光客を日本に招くなどという仕事は普通の官僚にはできないし、なかなかの適材適所かもしれない、という気もしている。
 
 
追記
当初、文中でサッカー批評最新号の犬飼前JFA会長のインタビュー記事が木村元彦氏の手によるものと記していましたが、コメント欄でのA吉氏のご指摘の通り、ミカミカンタ氏の誤りです。当該の記述を削除しました。

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