令和の名将、世界を制す。

 栗山英樹が5月末をもって野球日本代表監督を退任した、というニュースが流れた。

 実質的な仕事は3月のWBCで終わっており、本人も退任の意向を口にしていたので、それ自体は特にニュースではない。ただ、6月2日に開いた退任記者会見は興味深い。NHK全文を記事にしている。

 <選手がどういう形で集まって来てくれるのかっていうのは、正直プレッシャーもありましたし、そういう中ですべての選手が自分のことを捨てて日本野球のためにというふうに集まってくれた。それだけには本当に感謝しています>

 <たぶん彼らにこれから何度会っても「ありがとな」とたぶん言い続けるんだろうなと、そういうふうに思います>

  なるほど、こういう人がこういう思いでやっていたのだな、と改めて腑に落ちる。

 

 PCのデスクトップを整理していたら、4月上旬にブログ用の文章を書きかけて、そのまま放置していたことに気がついた。上の栗山談話に通じる面もあるので、少し手直しして以下にアップすることにする。

 

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 週刊ベースボールの最終ページに、廣岡達朗のコラム<「やれ」と言える信念>が隔週で連載されている。202345日に発売された4.17号には、「侍ジャパン、2つの勝因」と題した、第5回WBCを総括した文章が載っている。

 廣岡によると、日本の勝因は<一つは投手力が良かったこと><2つ目はWBCが平等ではなかった点>だという。

 1つ目は、大会を見た人なら誰もが同意することだろう。廣岡も<本調子でなかったのはダルビッシュ有、松井裕樹くらい。ほかはみんな一生懸命にやった。そこは評価できる。人選にはほぼミスはなかった>と書いている。

 2つ目はどういう意味かといえば、<日本は勝ちたいから選りすぐりの選手を監督自ら選んだ。だが、ほかの国は金をもらえるから参加するかという程度>なのだという。このブログでも2006年からたびたび書いてきた通り、USAの本気度(の低さ)は常にこの大会の最大の課題なので、廣岡の記述が全面的に間違っているとは思わない。が、今回のUSA代表の本気度は過去5大会で最も高かったように私は思うし、それ以外の国については……廣岡さん、日本プール以外の一次ラウンドはご覧になっていないのかもしれないね。私は大会中にドミニカの選手たちに「WBCか、ワールドシリーズか」と質問する動画ツイートを見て、WBCと答える選手が結構いることに驚いたものだった。

 

 話を廣岡コラムに戻す。アメリカの野球も堕落したとか本気度が足りないと力説するうちに、廣岡は栗山英樹監督を批判しはじめる。

 <そんなアメリカに勝ったからといって栗山監督を実力以上にもてはやす風潮はおかしい。選手任せで細かいサインもなし。これで監督と言えるのか。監督とは組織の頭であり全責任を持ってコーチ、選手を教える人間のことをいう。それが、選手のほうが主導権を握っていた。戦争で指導者が陣頭指揮を執らずに一番後ろから「突撃」と言って誰が付いていくだろうか>

 

 この広岡の評論(と呼ぶのもどうかと思うレベルの文章ではあるけれど)を読むと、むしろ今大会での栗山監督の何が優れていたかが、浮き彫りになるような気もする。

 

 <監督とは組織の頭であり全責任を持ってコーチ、選手を教える人間>と廣岡は定義する。21日からシーズン終了までほぼ毎日、新人を含む選手たちと行動をともにし、選手の起用に関する権限を持つ(さらに契約継続の可否についても影響力を持つ)NPBの監督なら、そうあることが可能なのだろうし、廣岡はそうやって勝ってきたのだろう。

 しかし、代表監督が選手とともに過ごす時間は少ない。栗山は特に少なかった。就任したのが202111月末。WBCの本番前合宿以前に、実際に選手を集めて練習や試合をする機会は2022年のシーズン前と後の短い期間しかなかった(223月に予定されていた台湾との強化試合はコロナ禍のため中止されたので、実際には22年のシーズン後だけだった)。

 

 球団から預けられた選手で勝負するNPBの監督にとっては、廣岡が言うように、選手を教えて育てることは大事だ。代表監督には、その時間は与えられない(とはいえ、ピンポイントの助言ならともかく、監督が事細かに何かを教えなくてはならないレベルの選手は、そもそも代表には呼ばれないだろう)。

 その代わり、代表監督は、選手を選ぶという大きな権限を持つ。ただし、選手にはそれを断る権利があるし、それで職を失うこともない。だから代表監督は、NPB監督のように“人事権”をタテに選手を服従させることはできない。

 とりわけメジャーリーガーの招集は困難だ。廣岡自身もコラムの中で、<アメリカは複数年契約で何十億という額で契約する。ということは、個人的な思惑でWBCに出ることは許されない。出場の可否に関する権利はメジャー・リーグの球団が持っているのだ>と力説している。

 MLBから日本代表に参加した選手たちは、レギュラー候補の若手であるラーズ・ヌートバーは別として、ダルビッシュ有、大谷翔平、吉田正尚、一度は出場を決めたものの故障で辞退した鈴木誠也は、まさに<複数年契約で何十億という額で契約>している選手で、日本代表への招集は容易ではなかったはずだ。

 監督がリストに名前を書いただけで、選手が宮崎合宿にやってくるわけではない。後で<人選にはほぼミスはなかった>と評するのはたやすいが、問題は<人選>した後なのである。組織論としていえばそれはGMの仕事かもしれないが、栗山は交渉を人任せにはせず、自分自身で選手に語りかけることで、実現に漕ぎ着けた。

 

 選手を招集する機会に乏しかった分、栗山は自ら選手に会いに行った。22年のシーズン中、各地の球場で試合を視察し、代表候補選手に声をかける栗山の姿が頻繁に報じられていた。アメリカにも渡り、MLB所属選手たちを訪ね歩いた。

 栗山は2012年から21年まで10年間、北海道日本ハムファイターズの監督を務め、2度のリーグ優勝と1度の日本一を勝ち取った。選手への愛情の深さ、我慢強く選手を育てる手腕は、さほど熱心なファイターズファンというわけでもない私にも強く印象づけられた。今回の代表では大谷のほか近藤健介、伊藤大海が栗山のチームでプレー経験がある。彼らだけでなく、その10年を通じて、他球団の選手たちも栗山の監督ぶりや人柄について知るところはあったはずだ。

 

 ダルビッシュは第2回WBCで胴上げ投手になった後、第3回、第4回大会では出場を辞退したと伝えられた。今年2月には36歳にして6年総額1800万ドルの契約を結んでいる。契約の大きさ、調整の困難さを思えば、参加しない蓋然性が高いはずの彼は、しかし代表キャンプの初日から日本にいて、初出場の若手たちに声をかけ、チームをひとつにまとめていった。優勝した後に勝因を問われてダルビッシュの名を挙げた選手は少なくない。彼のキャンプ参加は、このチームにとって決定的な出来事だった。

 廣岡の例えを援用するなら、監督がいちいち「突撃」と言うまでもなく、選手が自ら突撃していったのが今回の日本代表であり、そんなチームになるように選手を選び、語りかけることが、栗山の最大の仕事だったのだと思う。そうやって集められた選手たちが、試合を通じて自己組織化していった。<細かいサイン>だけが監督の仕事ではない。

 

 ダルビッシュは宮崎キャンプの最中に、栗山についてこう語っている(彼は栗山が日本ハムの監督になる前年に渡米しており、同じチームにいたことはない)。

<やっぱりすごく、自分かなり(栗山監督より)年下ですけど(コミュニケーションが)上手だなと。出るところと引くところというか、選手のことを上げてくれたりとか。人を基本的に傷つけるとか、恥をさらすことは言わないじゃないですか。そういうことって難しくて、日本の指導者ってなかなかいないので、そういうところにすごみは感じます>

 

  廣岡は周知の通り、ヤクルトでも西武でも<人を基本的に傷つけるとか、恥をさらすこと>を口にすることで選手を動かそうとする監督だった。この大会の代表監督が廣岡のように<人を基本的に傷つけるとか、恥をさらすこと>を盛んに口にする人物だったら、ダルビッシュは代表のユニホームを着ただろうか。

 <細かいサイン>を出す技術がどれほど優れていたとしても、それをグラウンドの中で実行するのは選手である。WBCが選手にとってシーズン前の調整を困難にするリスクを伴う大会であり、招集への拒否権がある以上、代表監督は、選手を選ぶ存在であると同時に、選手に選ばれる存在でもある。監督がどれほど素晴らしい人選をしたところで、集まらなければ絵に描いた餅に過ぎない。NPBの監督と日本代表の監督は、同じ名で呼ばれていても、まったく性質の異なる仕事だと思う。

 

 廣岡がNPBの監督を務めたのは197679年(ヤクルト)、8285年(西武)。いずれも下位に低迷していたチームを立て直した。ヤクルトでは弱いチームを鍛えて強くした。西武では、新しい親会社の力で集められたベテランのスター選手たちの再生と、才能ある若手の育成を並行して成功させ、勝ちながら世代交代を進めた。性質の異なる(リーグも異なる)2つの球団を日本一にした、押しも押されもせぬ名将である。選手に対しては、しばしば厳しい言葉をメディアの前でも(時にはメディアを通じて選手の耳に入るように)投げつけた。田渕や石毛など、廣岡への怒りを原動力に戦ったと公言する当時の選手も少なくない。そして彼らは最終的には、優勝を経験させてくれた廣岡への感謝を口にする。彼らには廣岡のやり方が適していたのだろう。

 廣岡が退任してからすでに40年近くが経過した。廣岡の下でプレーした若松勉、尾花高夫、大矢明彦、田渕幸一、田尾安志、石毛宏典、東尾修、森繁和、渡辺久信、工藤公康、伊東勤、辻発彦、大久保博元、田辺徳雄らが監督を務め、その座をすでに退いている(今後またやるかもしれないが)。

 面白いのは、このうちリーグ優勝や日本一を勝ち取った若松、東尾、渡辺、工藤、辻らが廣岡のように選手に対して辛辣だったかといえば、むしろ人当たりは柔らかく、もちろん厳しいところは厳しいのだろうけれど、選手を人として尊重しながら、のびのびとプレーさせていた印象が強いことだ。彼らが選手を<傷つけるとか、恥をさらす>言葉を口にしてメディアで報じられた記憶はほとんどないし、想像もしにくい。それぞれ廣岡から学んだものを自分なりに消化した上で、この時代の若い選手を動かすのにふさわしいやり方で監督を務めていたように見える。

 

 野球界に限らず、世の中一般で、辛辣な言葉を浴びせることで人を動かし育てるという方法論は、成立しがたくなって久しい。成果が出ないだけならまだしも、選手からパワハラを告発されて解任に追い込まれるのがオチだろう(Jリーグでは実例がある)。

 そんな時代に開花した若い才能を集め、彼らが力を発揮できる環境を整えることで勝利を掴んだ栗山は、令和の名将と呼ぶにふさわしい。その手腕が昭和の名将には理解できなかったとしても、この世界一という実績には、傷ひとつ付くことはない。

 

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17年目の答え合わせ ~ WBC余話として。

 WBCが始まっている。

 

 テレビ朝日で放送された前触れ番組のひとつを見ていたら、大谷、村上、吉田正尚ら代表選手たちが「子供の頃からの憧れ」「あの舞台に立つのが夢だった」と語っていた。

 

 これが2006年の答え合わせだ、と思った。

 

 もう忘れてしまった人も、そもそも知らない若い人も多いのだろうけれど、今世紀初頭の日本プロ野球の状況は厳しいものだった。球団合併とそれに伴うストライキ、アマ選手への裏金などの問題が起こり(正確には、構造的な問題の弊害がそれらの形で噴出し)、08年の北京大会を最後に五輪競技から除外されることも決まった。

 

 そんな時期に突然MLB主導で開催が決まったWBCは、今回AmazonPrimeVideoで配信された中国戦の解説で王貞治初代監督も話していたように、どんな大会になるのか誰にもわからない状態で開幕を迎えた。当時はファンばかりかNPB内にも懐疑的な空気があったように思う。多くの選手が出場を辞退し、公然と大会を批判する球団もあった。

 

 この時期、戦後日本において長らくスポーツ・エンタテインメントの王座を占めていたプロ野球の地位は、危うくなり始めていた。

 1993年にJリーグを開幕させたサッカーは、その93年秋に、W杯の出場権をほぼ手中に収めながら失った、いわゆる「ドーハの悲劇」を経験し、98年にW杯初出場、2002年にはW杯を(韓国と共催ながら)自国開催。着実に「世界に挑み、前進する日本代表」の姿を示して、国民的人気を獲得した。

 野球でも、95年の野茂英雄を嚆矢にイチロー、松井秀喜らトップスターが次々にMLBに挑んだ。

 もはや、国内リーグだけでファンを満足させられる時代は終わりつつあった。

 

 五輪競技ではなくなると決まった野球にとって、WBCは唯一の「世界に挑む日本代表」を見せられる場となった。

 その本質がMLBの金儲けだろうと、サッカーW杯に遠く及ばない規模だろうと、日本のプロ野球にとってはWBCに出場し、いい試合をして勝つ姿を見せることが、とてつもなく重要だ、と当時の私は考えていた。だから、WBCを軽視するような言動を見せた一部のNPB関係者に苛立ち、当ブログにも不満をぶちまけていた。

 

 一方で、「選手が契約しているのは球団である、そんな怪しげな大会よりもペナントレースを重視するのが当然」と当ブログのコメント欄に意見する人が何人も現れ、延々と議論を続けたこともあった。

 その種の意見にも理はある。国内リーグに専念すればNPBも球団も選手も安泰なのであれば、それが正解だ。だが、経営の展望が立たないから球団数を削減しようとオーナーたちが考えるような状況ではどうだろう。船室をどれほど磨き上げたところで、船自体が沈んでしまったら、そこに客が訪れることはできない。

 そんな私の言い分を、ある程度は理解してくれた人もいたし、受けつけない人もいた。

 

 いずれにしても、シーズンへの準備を整えるべき大事な時期に、見知らぬ相手と試合をし、時差のあるアメリカにまで行くことは、選手個人にとっては未知の大きなリスクだったはずだ。ケガでもすればシーズンを棒に振る可能性もある。

 代表選手たちは、それを承知の上で、わずかな準備期間で大会に臨んだ。

 そして王貞治監督は、現職のホークス監督であるにもかかわらず、シーズン前のキャンプ期間に自分のチームを離れて代表を率いた。

 

 最初の大会で、王監督と選手たちが手探りの中で懸命に戦い、ファンの心を打つ試合をして、優勝という結果を掴みとったことで、日本でWBCという大会と日本代表チームの価値が確立された。それは、大会を見ていた野球少年たちの新たな目標となり、そこを目指して励んできた大谷や村上や仲間たちが今、代表のユニホームを着ている。

 

 当時も今も「盛り上がってるのは日本だけ」などと大会を軽視する人はいる。そう言う人たちはたぶん、例えばプエルトリコで行われた第1回大会1次ラウンドの中米諸国の盛り上がりぶりを見ていないのだろう。けれど、仮に彼らが言う通り「日本だけ」であったのだとしても、その盛り上がりがなく、野球少年たちが「WBCに出て活躍する」という目標や夢を抱くことがなかったら、果たして日本に今ほど優れた若い選手が次々と現れることがあっただろうか。

 06年、そして09年の優勝があったから、才能ある若者たちが、他の競技でなく野球を選び、プロの世界に入っただけで満足することなく、上を目指し続けたのではなかったか。

 

 そう考えると、今の日本の野球界が世界最高水準の選手を輩出し、まがりなりにも国内で人気スポーツの地位を維持できているのは、2006年に最初のWBCに挑んだ人々の勇気と心意気に負うところが大きい、と私は思っている。

 

(と同時に、「第2ラウンドでUSAに勝ったメキシコ代表のおかげ」でもある。それがなければ第1回WBCでの日本は韓国に負けっぱなし、USAに誤審で負けて終わった後味の悪い大会となり、人々のWBCへの関心は冷え切って、第2回での成功もなかったかも、と思うと恐ろしい。運命は紙一重だ)

 

 

 5回目となる目下の大会には、大谷翔平、ダルビッシュ有ら、日本の代表的なメジャーリーガーが参加している。ダルビッシュは今の代表では優勝を経験した唯一の現役選手であり、最年長でもある。メジャーリーグでの経験も豊富だ。自身が、第1回におけるイチローと大塚、第2回におけるイチローや松坂らの立場にあることを自覚しているはずだ。

 一方で、キャンプに参加して以来、彼は大会の意義として「楽しむ」「一緒に成長する」ことを強調し、「戦争に行くわけではない」と勝利への過度なこだわりをよしとしない発言をしている。第1回におけるイチローの、勝敗に対する峻烈な姿勢とは対照的だ。

 

 もちろん、長年勝負の世界に生きてきた彼が、勝敗を軽視しているとは思わない。NPB選手としてWBCに優勝し、渡米後はメジャーリーガーとしてWBCを外から見てきた中で到った境地なのだろう。

 

 私とて日本の勝利を願っているけれど、5回目となったWBCでは、大会運営も日本代表のマネジメントも、一介の見物人がブログで憤りまくらなくてはならないような状況ではなさそうだ。今大会はダルビッシュに倣って、少しリラックスして見ようと思っている。

 

(第5回WBC初戦の中国戦翌日にツイッターに書き殴った文章を再構成した。こういうのは大会が始まる前に載せとくと格好いいのだが)

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高鳥都「必殺シリーズ秘史 50年目の告白録」立東舎


 ブログでの筆名を「念仏の鉄」としていることでもお判りの通り、私は必殺シリーズのファンだ。山﨑努が演じた念仏の鉄が登場する「必殺仕置人」「新必殺仕置人」をはじめ、熱心に見たシリーズがあり、いくつかはDVD-Boxも持っている。とはいえ見ていないシリーズもあるし、関連書籍が出たら何でも買う、というほどのマニアではない。

 本書を買おうと思ったのは、著者が「映画秘宝」に掲載したインタビューの一部を読んでいたこともあったが、何と言っても山﨑努のインタビューが載ると知ったからだ。

 

 そもそも過去の出演作一般について語ることが少なく、雑誌やテレビの「必殺」特集などに登場することもなかった山﨑氏が、念仏の鉄を語るという。しかも、ご本人がツイッターで<先日、『仕置人』について話す機会がありました。 楽しかった。 聞き手がよかった。 本になるそうです。>と語っている(これに先行して、『新仕置人』の再放送を懐かしむツイートもあった)。買わないという選択肢はない。

 

 だから、Amazonで予約した本書が手元に届くと、まっさきに山﨑努インタビューのページを開き、舐めるように読んだ。

 山﨑氏は、当時のスタッフを「石っさん」「中やん」「高ちゃん」と愛称で呼ぶ。彼にとって『仕置人』の思い出を語ることは、京都映画の思い出を語るのと同じことのようである。

 『新仕置人』について<基本的には同じ役を二度と演じない主義の山﨑さんが、なぜオファーを受けたのでしょうか?>と問われて、山﨑氏は<やっぱり楽しかったんだろうね。現場も、それから鉄という役も。また石っさんや中やん、京都映画のみんなと仕事がしたかったんですよ>と答える。ファンとしては感涙にむせぶしかない。

 

 本書に登場する30人の証言者の中で、レギュラーの殺し屋を演じた俳優は山﨑努だけだ(他に大部屋俳優は2人出てくる)。大多数はスタッフである。山﨑が「石っさん」と呼ぶ石原興を筆頭に、撮影、照明、録音、演出部、記録、製作主任・製作補、編集、効果、調音、美術、装飾、殺陣、衣裳、俳優、スチール、タイトルなどの職名が並ぶ。撮影所近くの喫茶店の店主も登場する。テレビの時代劇ドラマの製作に関わる、ほぼ全ての職種である。

 『必殺』の映像を象徴する光と影の強烈なコントラストはいかにして生まれたか。奇天烈な殺しの手法の数々は誰が考えていたのか。エンドクレジットで起き上がる中村主水の名前はどう撮影されていたのか。語られるエピソードの数々に、映像作品は、あらゆる要素が人の手によって作られているのだということを改めて実感する。

 

 第1作『必殺仕掛人』から参加している人もいれば、『仕事人』以降の人、短期間携わっただけの人、関わりはそれぞれに異なる。「必殺」に思い入れの深い人もいれば、仕事としてこなしただけというスタンスの人もいる。さまざまな時期、さまざまな立場からの証言を積み重ねることで、『必殺』の制作現場が立体的に浮かび上がってくる。

 すべてのスタッフが内容に口出ししながら作っていたのが『必殺』(あるいは京都映画)の特徴、と多くの人が語っている。そんな気風の現れなのか、人物評価にも忖度のない証言が多い。

 やはり数多く言及されているのは監督だ。深作欣二、工藤栄一、三隅研二ら、映画界でも実績のある監督たちは、『必殺』の現場でも一目置かれていたことがうかがえる。

 

 面白いのは松野宏軌だ。『仕掛人』からほとんど(全部かも)のシリーズを手がけ、シリーズ監督作は最多らしいが、破天荒なエピソードはない。

 演出部の高坂光幸(山﨑努が「高ちゃん」と呼んだ人物だ)は松野について、<いわゆる巨匠ではないし、お人好しだから、みんな松野先生には好きなこと言っていた。それでまた照明部や撮影部というのは、監督にガツンと言ったら自分が偉そうに見える>と語る一方で、<『必殺』というシリーズでいちばん功績があるのは松野先生>とも評し、<新人監督のわりに生意気で、断ったホンも何本かあったんです。松野先生が全部代わりにやってくれた>と述懐している。出来の悪い脚本を引き受けて、どうにか見られる作品に仕立ててくれた、との別人からの証言もあった。

 仕事を依頼する人、現場でやりあう人、それを傍らで見ている人。立場や角度によって、松野への見方は微妙に異なる。制作サイドにとっては、困った時に何とかしてくれる職人肌の監督だったようだ。組織の片隅でほそぼそと生きてきた中年男としては、こういう人物に最も強い共感を覚える。すでに鬼籍に入っており、ご本人の証言が読めないのが残念でもある。

 

 本書が本として見事なのは、脚注を入れず、情報をすべて本文中に収容しているのに、それがまったく邪魔になっていないことだ(そういうのが読んでいて邪魔でしょうがない本も世の中にはたくさんある)。

 そして、これほど長く続いた膨大なシリーズなのに、証言者が、ええと、あれは確か●●で…などと口にすると、聞き手はすかさず「それは『必殺△△人』第○話の『××××』ですね」と補足する。現場で全ての情報が完璧に出てくるかどうかはともかく、それで話が進んでいくのだから、聞き手がその回や場面をわかった上で聞いていることは間違いない。こういう聞き手でなければ、これだけの証言は引き出せない。著者の高鳥都は1980年生まれ。私よりずっと年下で、『新必殺仕置人』の放送時には生まれてもいないという事実に驚く。

 もうひとつ印象的なのは、登場する人たちには『必殺』のことだけでなく、本人の職業歴を聞いていることだ(『必殺』の話しかしていないのはたぶん山﨑努だけ)。映画人・映像人としてのキャリアの中で、どういう時期、どういう位置に『必殺』があったのかを明確にしている。それが積み重なることで、本書は『必殺』半世紀の歴史とともに、映画・映像業界の、時代劇の、そして京都映画というユニークな撮影所の歴史をも浮かび上がらせている。

 

 インタビュー記事における聞き手の存在は、なかなか微妙だ。聞き手が前に出すぎて「いや、あんたじゃなくてゲストの話を聴きたいんだけど」と思うこともあるし、語り手の言い分を(矛盾や記憶違いも)そのまま文字に起こしただけで「もっと仕事しろよ」と言いたくなることもある。普通の読者は、いいインタビューを読めば語り手が素晴らしいのだと受け止め、出来の悪いインタビューを読むと聞き手が無能なのだと思う。

 つまり、インタビュー本の著者というのはなかなか報われにくいのだが、本書においては、取材相手の人選、質問、リアクションと情報の提供、原稿の構成、何もかもが素晴らしい。聞き手を著者名にして刊行するのに相応しい本である。

 

 というわけで、著者の高鳥氏には、本書で山﨑努氏が最後に口にしたのと同じ言葉を贈りたい。

 

 「うん、今日は楽しかった。ありがとう。」

 

 

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映画「東京2020オリンピック SIDE:A」

 河瀬直美が総監督を務めた2021年東京五輪(大会名は「TOKYO2020」)の公式映画は「SIDE:A」と「SIDE:B」の2本組になった。プログラムの「イントロダクション」には<『東京2020オリンピック SIDE:A』では、表舞台に立つアスリートを中心としたオリンピック関係者たちが描かれる。『東京2020オリンピック SIDE:B』では大会関係者、一般市民、ボランティア、医療従事者などの非アスリートたちが描かれる>と書かれている。
 
 アスリートがどう描かれているかには興味があったので、上映中の「SIDE:A」を見た。
 大傑作とも思わず、大駄作とも思わない。2時間の上映時間中、さほど退屈せず、それなりに興味深く見た。ただ、河瀬直美はスポーツそのものには興味がないのだろうな、と感じた。
 
 以下、記憶に基づいて書いているので多少の間違いもあるかもしれない。その場合はご容赦されたし。
 
 冒頭は草野球に興じる子供たちなどのイメージカット。
 開会式の国立競技場周辺の様子が映し出され、続いて聖火の日本への到着からコロナの流行、大会の延期決定、世界の主要都市から人が消えた様子、季節が巡って翌年の大会まで、映像が駆け足で示される。
 どの映像がいつの何なのかは、あまり説明されない。我々はこれらの出来事を経験したばかりだから理解できるけれども、後にこれを見る人には難解だろうと思う。
 
 再び開会式。場内の映像は天皇の開会宣言と大坂なおみの聖火点灯くらいで、主としてスタジアム周辺の様子が示される。五輪反対のデモと、花火やドローンに歓声をあげてスマホを向ける人々と。
(デモ隊の人々だけ、顔にぼかしが入っている。合法的に意見を主張するために集まった人たちの顔を隠す理由はよくわからない。顔が映っている他の人すべてに個別に承諾をもらうことが可能であったとも思えない)
 
 ここまでがプロローグ。以後はTOKYO2020に参加した選手や競技団体がオムニバス的に紹介されていく。
 
 登場する人々は、みな社会的なテーマを背負ってTOKYO2020にやってくる。出産と育児。難民。人種差別への反対運動。亡命。競技の存亡。新興競技のカルチャー。女性の文武両道。沖縄。柔道の歴史と伝統。等々(特に背負っていないのは日本の女子バスケットだけだが、主力選手の1人は大会延期と子育てのために引退し、その後もチームを見守る姿が映され続ける)。それらが相互には強いつながりもないまま、順次紹介されていく。基本的にはそれだけの映画である。
 見ていて、朝日新聞あたりが社会面でヒューマンストーリー的な記事にしそうな話ばかりだな、と思った。調べると、実際に朝日で記事になった選手も何人かいる。SDGsに関係ありげなテーマがずらずらと並ぶ中で、なぜか「貧困」には着目されない。
 個々の選手たちが背負うテーマは、実はコロナとはあまり関係がない。大会が予定通り2020年に開催されたとしても、この映画の内容は、ほとんど変わらなかったに違いない。
 
 逆に言えば、実は「SIDE:A」では、冒頭のプロローグを除けば、コロナの影響はほとんど描かれていない。
 五輪を目指した全ての選手にとって、「4年に1度の大会に自身のコンディションを最高の状態にしようと照準を合わせていたのに突然1年も延びたこと(そもそも当初は開催されるかどうかも不明だった)」「パンデミックの悪条件下で練習を続け、選手として成長すること」は、ほとんど誰も経験したことのない難題だったはずだ。TOKYO2020を選手の側から総括するのであれば、それらは欠かせないテーマだと私は思う。「世界がパンデミックに苦しむ中で、自分はスポーツをやっていていいのか」「今の東京でオリンピックを開催していいのか」と自問自答した選手も多かったはずだ。
 けれども、河瀬直美は、これらのテーマをスルーした。世界の選手たちがネットで公開していた“自宅トレーニング映像”が映し出されることもない。「SIDE:B」ではコロナを扱うのだろうけれど「SIDE:A」で扱わないということは、コロナをアスリート自身の問題とはみなさないということだ。それは参加した選手たちの実感とは、かなりかけ離れていることだろうと思う。
 
 そして、五輪出場選手のヒューマンストーリーとしても、この映画は物足りない。
 選手が何を背負って東京にやってきて、プレーを通じてそれをどう表現し、何を持ち帰ったか(あるいは持ち帰れなかったか)。そこまでを描いて、はじめてヒューマンストーリーは完結する。しかし、この映画では、大会前の「背負ってきたもの」を選手が言葉で語り、あとは競技映像が素っ気なく示されて、そのまま終わることが多い。
 選手の成績が示されないエピソードもある。「勝ち負けが全てではない」というのは事実だけれども、選手たちは勝利を目指して東京にやってきた(本番ではメダルにほど遠い選手も、国内予選を勝ち抜いた結果としてそこにいる)。選手が大事にしてきたものを、第三者が横から「それが全てじゃない」と無視する姿勢には、作家の傲慢さを感じる。
 
 競技映像がテーマを雄弁に語っていたのはスケートボードだ。ボードによる妙技の数々の美しさ、勝敗を超えて挑戦を尊び称え合う若者たちのカルチャーは、映像からも十分に伝わってきた。サーフィンでも競技団体のトップが「人々は人間が世界の中心で何でもできると思ってるけどそれは間違い。大事なのは海であり自然なのだ。我々はオリンピックを変えるためにやってきた」のような話を豪語するけれど、競技映像にその言葉を裏打ちするだけの説得力があったとは言えない。他の多くのエピソードでも同様だった。
 
 日本の柔道界がロンドン五輪の惨敗をバネにして、いかに海外から学び、データ分析に活路を見いだしたかを監督とスタッフが語るけれども、それが大野将平の柔道にどう表現されたかは示されない。
 日本の女子バスケットを決勝に導いた米国人監督の哲学は語られるが、それがどう具体的な戦術に落とし込まれたかは描かれない(この大会での日本代表がどんなチームだったかを見せたければ、3Pシュートがばんばん決まる編集をすればよさそうなものだが、決勝戦で映し出されたのは日本選手がゴール下から2Pシュートを決める場面が多かった)。
 
 米国の女子ハンマー投げ選手グウェン・ベリーはBLM運動に熱心な活動家でもあり、国内での選考会の表彰台で国旗に背を向けたとして批判を浴びた。彼女は来日前にネットで浴びた批判を読み上げて「こんなの気にしない」と言い放つが、東京での投擲はふるわず、失意の中で競技場を後にする。が、彼女の投擲のどこに問題があったのか、なぜ敗れたのか、そもそも彼女は表彰台を狙えるレベルの選手だったのか、映画では何も示されない。だから観客は「威勢良く東京に乗り込んだ活動家選手が、競技に負けて帰った」という以上のことはわからない。
 アスリートとは、身体のパフォーマンスで己を表現する存在だと私は思うのだが、この映画が重点を置くのは彼ら彼女らが語る言葉であり、身体で表現しているものを観客に伝えようとする姿勢は希薄だ。
 
 映画のプログラムに目を通すと、この映画がなぜそういう造りになったのか、事情が垣間見える。
 河瀬直美は「競技風景主体の作品ではありませんね?」という質問への答えの中で、<IOCとOBS(オリンピック放送機構)の映像がすべて映画の素材として提供されました。ただ、その映像は競技の勝ち負けに焦点をあてた映像なんですね>と語る(だから自分の映画にはあまり役に立たない、という含意が読み取れる)。
 一方、「プロダクション・ノート」によると、この映画のスタッフは「河瀬総監督と仕事をしたことのあるお馴染みの面々を集めて」とある。
 プロダクション・ノートには2020年2月にバスケット五輪最終予選を撮影した際のことも書かれている。
 <初めてのバスケットの試合本番での撮影は、カメラテストも兼ねる意味合いもあったが、まず感じたことは、やはりカメラポジションの難しさ。世界へ中継されることからFIBAのカメラが優先的に置かれていて、我々の動きはどうしても制限されてしまう。FIBAは試合をお届けすべくカメラを回すが、我々は試合に出ている選手や、指示を飛ばすトムさんを撮りたい。なかなか相容れないのである。1日目の終了後に早速FIBAから怒られる。「あなたの所の監督やカメラマンがFIBAの中継カメラに映りすぎ」>
 
 つまり、映画の中心のひとつにしようとあらかじめ決めていたバスケットをはじめ、スポーツの取材・撮影を熟知した人材をスタッフに招いた形跡はない。だから、この映画には、そもそも「アスリートの身体パフォーマンス映像をもってメッセージを語らしむ」という考えが希薄だったのだろうと思う。
 また、コロナ下で取材が困難な中、スケートボードとサーフィンの競技団体は取材にとても協力的だった、とも河瀬は語る。この2競技が映画で比較的長いボリュームで紹介されているのは、それぞれのカルチャーが河瀬の琴線に触れたから、ということだけでもなかったようだ。
 
 IOCによる公式映画というだけで、本作を五輪礼賛のプロパガンダ作品に違いないと決めつけ、公開前から批判し、河瀬直美総監督を非難する人が世の中には結構いた。その先入観のまま映画館を訪れたのか、「意外にも反五輪的映画だった」との感想を記す人がネット上に散見される。
 私はこれが反五輪的映画であるとは思わない。選手たちのヒューマンストーリーはすべて、五輪が価値ある場である(だから、人々はそこへの参加を妨げるものと戦う)という前提の上に成立している。河瀬直美が着目したテーマの数々は、いわゆるSDGsに親和的なものが多い。近年のIOCはSDGs的な価値観をアピールすることに熱心で、その意味では、IOCから見て好ましい面も少なからずあるだろうと思う。
 
 また、「普段はスポーツに興味がなく、ほとんど見ることもないが、この映画は素晴らしかった」という感想も、いくつも見た。それはそうだろう。これは「スポーツの映画」ではなく、「スポーツ選手のヒューマンストーリーの映画」だから。
 スポーツライティングに対する書評でよく見かける常套句に「単にスポーツを描いただけでなく、人間が描けている」というものがある(私はこれが大嫌いなのだが)。
 この語法を用いるならば、この映画は「スポーツは描かず、単に人間を描いただけの映画」である。そういうのが好きな人には悪くないだろう。
 これがNHKなり民放テレビなり(あるいは海外のテレビ局なり)が河瀬直美を起用して作った「もうひとつのTOKYO2020」的なドキュメンタリー作品であれば、私もわりと好意的に評価したかもしれない。が、これはIOCが公式に残す、ただひとつ(2本だけど)の映画である。
 
 スタジアムの外側を描くという「SIDE:B」は近く公開されるが、今のところ見る意欲はない。東京のスタジアムの外側で2020年から21年にかけて何が起こったかは、河瀬直美に教わるまでもなく知っている。五輪に関する報道ではとやかく言われることの多い(そして、この映画のメイキング番組で深刻にやらかした)NHKも、コロナ一般については良質のドキュメンタリーを量産しており、個人的にはそれで間に合っている。
 IOCやJOC、組織委員会内部での知られざる出来事がいろいろ出てくるようなら別だが、当面は様子見のつもり。
 
 これまで述べてきたような意味性を棚上げすると、この作品で最も印象に残ったのは、競技場面の音だった。
 選手の足音、息遣い、プールの水音から衣擦れの音までが雄弁に聞こえてくる一方で、例えば陸上で隣のレーンを走る選手の足音は聞こえない。映像でいうクローズアップの手法を存分に使っている。すべての音を後からつけたとも思えず、現場での生音を加工したのだろうと思う。無観客大会ゆえにクリアな音が収録できたのだろうとは思うけれど、それだけのはずはない。見事なプロの仕事と感じた。

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北京冬季五輪に関する備忘録。

 ロシアがウクライナに攻め込んだ今となっては北京五輪のことなど遠い過去のようだが、忘れないうちに関連ツイートをまとめておく。

1/31

考えてみれば、コロナでなければ今ごろは、北京五輪前の調整のため、日本で事前キャンプを行う国も結構あったかもしれないな。

 

 2018年の平昌五輪では、日本で事前合宿を行う国が結構あった。当時の日経に記事がある。OAR、すなわち「ロシアからの五輪選手」のフィギュアスケートチームが新潟市で練習したり地元住民と交流する様子を伝えた上で、こう書いている。

韓国までは飛行機で数時間で、時差もない。充実した練習環境を売りに、自治体は事前合宿を積極的に誘致した。新潟市のほか、北海道の札幌市(カーリング、スキー・ジャンプ)や伊達市(スキー・クロスカントリー)、長野県軽井沢町(カーリング)などに各国の選手団が滞在している

 

 日本から北京への移動時間は少々長くなるが、時差が1時間、冬季競技の練習環境も整っている。今回、日本で事前合宿を行った海外チームがあったのか否か確認しきれてはいないが、報道は見当たらなかった。

 

2/1
そういえばアメリカでは選手に自分のスマホ持ち込みを避けるよう勧告してたはずだけど、この人たちは何からSNSに投稿してるのか気になるところ。

東京五輪と北京五輪の“ベッド比較”が話題に。米メディアも指摘「東京大会のアスリートを間違いなく嫉妬させる」

https://news.yahoo.co.jp/articles/28c6c1cf61df1515eacc881de9737dfc40c85b98

 

リンク先はというTHE DIGESTの記事。米国のリュージュ女子代表選手が動画つきで選手村のベッドを絶賛し、米NBCも東京五輪のベッドと比較してこれを紹介したという。東京五輪のベッドが段ボール製だったのは、リサイクル可能な素材で環境に配慮したという名目だったはずだが、そこはあまり気にならない人が結構いるらしい。

 

スマホ持ち込みを避ける勧告というのは、この話。

北京五輪には自前のスマホを持ち込むな、米加が選手に警告

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/01/post-97886.php

 

日本は開会式直前にようやく言い出したようで、出遅れた感があった。

https://www.zakzak.co.jp/article/20220204-RIMSL3YIBNJR5L5NWI7OERMTCU/

 

2/3

「またオリンピックか、早いな」と言う人は多いし自分でもそう感じるのだが、考えてみれば92年までは冬夏とも同年開催だった。

まあ、当時は夏冬とも五輪で日本人が活躍する競技は少なかったし、テレビなども今ほど五輪一色で煩くはなかったかも。

 

 1992年まで、冬季五輪と夏季五輪は同じ年に開催されていた。中間年になったのは94年のリレハンメルから。正確な理由は知らないが、マーケティング上の事情は大きいのではないかと思う。

 日本が冬季五輪でメダルを獲得したのは1956年コルチナダンペッツォ(次回の開催地だ)男子回転の猪谷千春の銀メダルが最初で、次が72年札幌での「日の丸飛行隊」表彰台独占。ただし札幌ではこれが全てだった。76年インスブルックが0、以後3大会は1個づつで、再び複数メダルを獲得したのは92年アルベールビル。つまり夏冬の開催年が分かれる頃からである(以来、2006トリノ以外は複数メダルを獲得)。

 その頃までのテレビ中継では、各競技をまんべんなく中継し、世界の有力選手もきちんと紹介していた印象があるのだが、それはメダルが期待できる日本選手が少なかったことと表裏一体だったのだろう(今のテレビは日本のメダリストを追うのに手一杯で、各競技の優勝者すらまともに紹介しなくなっている)。

 

東京五輪では選手の陽性は全部で41人との報道があったから、北京五輪は開会前に既に超えてしまったことになる。東京2020以上に、コロナが成績に影響する事例が出てくるかも。

北京五輪 出場予定の約50人が新型コロナ陽性に

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220203/k10013464101000.html

 

日本の41人は日本で検査したケース(オリパラ合計)だから、その条件で比べるなら、今の北京では「約20人」か。だとしても、やっぱり多い。

 

 

昨年の東京五輪開幕前ごろに連日「コロナでフェアじゃないから、選手のために中止すべき」と開催に猛反対してたジャーナリスト氏は、選手に陽性続出のいま何を書いてるかなとツイートを見に行ったら、このところ北京五輪に全く言及していない。

ホントは選手のことなんか興味ないんすね。

 

自国でコロナが増えそうだから東京五輪に反対したけど外国の五輪は知ったこっちゃない、という態度の個人を批判する気はない。自然な感情だし。

が、「選手のため」「公正な大会のため」に東京五輪を中止すべきと主張した「公器」には、たった半年で辻褄が合わなくなっても平気なのか、とは思う。

 

@VfFo7qFuD6Do7Zw 何かを批判するために「選手のため」とか言い出す人は昔から結構いて、それでも中身が的を射ていればよいのですが、実際にはスポーツ側の機序をろくに考えてない言説が結構多いので、そういう人たちにとっては「たかがスポーツ」なのだろうなと思います。

 

 自分の主張のために選手をダシに使う人たちは、昔から気になっていて、ブログに書いたこともある。東京五輪には、政治・カネ・人権・コロナなど、ありとあらゆる問題が乗っかってしまったから、スポーツ以外の文脈で批判を受けるのは当然だ。

 が、選手でも競技関係者でもなく国内外の選手を数多く取材しているわけでもない「ジャーナリスト」や「識者」が「●●だから、選手のために中止しろ」などと公然と主張しはじめると、こうやってスポーツを利用する人なのだな、と思うばかり。

 

 

2/4

入場行進の前は見てないけど、なんというか、「そちらさんにそれを言われましてもねえ…」感が満載の開会式。素直に国威発揚全開できてくれた方が、それなりに感心できたかも。

 

史上最も小さい聖火かも。台はでかいけど。

 

北京五輪の開会式、遅ればせながら録画で見た。

豪華なショーだけど、それだけだ。

海外からの選手と関係者を開催都市から隔離し、一般客を入れないという異形の五輪なのに、開会式ショーではコロナ禍は無視すると決めたわけか。ちょっと違う気がする。(2/7)

 

東京五輪の開会式は、直前の不祥事の影響もあって全体的にはヨレヨレだったけど、冒頭に「コロナ禍に苦しみ、悩み、打ち勝とうとするアスリート」のダンスを置いたことは高く評価している。あれと選手入場と最小限のスピーチと聖火点灯だけにすれば、むしろ最高の開会式だったかも。

 

東京五輪については、トラブル続出で計画通りにできる状況でなかったという面もあるが、そもそもお祭り騒ぎでスタートするような大会ではないのだから、開会式などなくていいのに、と個人的には思っていた。そもそも五輪自体の肥大化が批判されているのだから、競技ではない国威発揚ショーを競う必要などなく、簡素化に舵を切ることにすれば五輪自体への貢献にもなる。

だから、開会式の後で、ショーとしての出来が悪い、と批判する人がいたことには、当時いささか面食らっていた。今回も同じだ。まして、「北京の開会式はよかった、それに引き替え東京はダメだ」という話には、関心のありようが全然違うのだな、というほかない。

 

2/5

「オリンピックなんか要らない、競技別大会があればいい」という意見、去年の夏前には偉い先生が新聞で語ってたり、今でもツイッタ界でちらほら目にする。

そうなれば、陸上や水泳やフィギュアスケートあたりはともかく、集金力に乏しいマイナー競技が世間にアピールする機会はほぼなくなる。

昨夜の北京五輪開会式や東京五輪の開会式では、小さくて豊かでない国の少人数の選手団も、テレビの前の世界の人々に温かく見守られ、存在をアピールできたけれど、そんな機会もなくなる。

(世界陸上の開会式に選手入場があるかどうか知らないが、あっても見る人は五輪よりずっと少ないだろう)

 

五輪が巨大ビジネスでIOCが巨大集金マシンであることは事実だけど、そうやって集めた金のうち、それなりの割合はマイナー競技や貧困国のスポーツ振興のために使われているはず。

五輪とIOCがなければ、世界の檜舞台に参加する機会や道を失う国や競技は結構あるんじゃないかな。

 

例えば、欧州のどこかで開かれたカヌーの世界大会で日本人が銅メダルを取ったからといって、日本人の大半は関心を持たないだろう。

五輪があるから、マイナー競技の選手がスターになり、競技自体が注目され振興するチャンスが生まれる。

そこに意義を見いだすか、そんなのどうでもいいと考えるか。

 

オリンピックは巨大であり巨額の金が動くから邪悪、とみなす人は結構多いと思う。

そういう面があることは否定しない。

だが、巨大だからこそ、小さくて弱いものを引き上げる力が生まれる、ともいえる。その良さを守りつつ邪悪さをどう減らすかが問題。

 

 なんでこのタイミングでこれを書いたのかはよく覚えていないのだが、ずっと思っている持論のひとつ。

 

2/6

小林陵侑、見事だなあ。こんな不安定な競技で、2本とも安定したジャンプ。素晴らしい。

 

この日はスモールヒルで金メダル。ラージヒルでも銀。小林陵侑はこのほか混合団体、男子団体と4種目に出場、本番で計8回飛んで、失敗と言われるようなジャンプは一度もなかったのではないか。風や環境に左右されるこの競技で、すごい安定感だ。

 

川村あんり、初出場の17歳に「金メダル候補に挙げていただいたのに、メダルが取れなくて申し訳ない」なんて言わせちゃいけないな。解説の上村愛子さんも心なしか目を赤くしてたような。

 

 川村に限らず、若い選手たちがしっかりしていることには感心する。冬季の個人競技の選手は、ワールドカップで海外を転戦することで、人として鍛えられるのだろうか。

 そういえば、スノーボードの選手が服装や記者会見での発言で激しく批判されたのは2010年バンクーバー大会でのことだったが、それから12年、スノーボード界と五輪の間に折り合いがついてきたのかもしれない。

 

 ちなみに、この上の文を書くために検索したら、その国母和宏選手が当時を振り返った2021年のインタビュー記事をみつけた。ご本人の今の感想は以下の通り。

スノーボーダーとしてクソ真面目すぎたんだと思う(笑)。ピシッとネクタイを締めたりするのは、なんかいつもとは違う方向に自分を持っていってることだと思うから、オレはスノーボーダーらしく振る舞っただけ。あれが一番の正解だったと思うし、それがスノーボーダーだから。だから叩かれたけど、別に何とも思わなかったですね

https://backside.jp/interview-048/

 私は当時彼について<ある既成の行動規範に従い、全力を尽して自分をその型に嵌め込もうと振る舞っている、生真面目な青年に見えた>と書いたが、おおむね正しかったようだ。

 

 

2/8

高梨沙羅のスーツで失格、ジャンプでは時々起きることではある。

ただ、個人種目なら自分が大会から消えるだけだが、団体戦でやられると当該選手へのダメージは比較にならないほど大きいだろう。その意味で出場40人中4人、10チーム中4チームというのは、大会運営としてどうよ、という数ではあるな。

 

4人じゃなくて5人だった。「全く新しい方法で」ってのは疑問。せめてシーズン当初からじゃないとトラブルの元でしょ。

高梨沙羅を含め5人が失格「なぜ女子だけなのか?」 各国から怒りと疑問の声

   https://www.tokyo-sports.co.jp/sports/3982373/

 

氷点下約15度の極寒で筋肉も萎縮する。「寒さが厳しかった分、うまくパンプアップ(トレーニングによる一時的筋肉増大)できなかった」と同ヘッドコーチは分析した

https://www.nikkansports.com/olympic/beijing2022/ski_jump/news/202202070001350.html

そんなことがあるのか。他国も含めた失格続出はそういうことかな。ドイツやノルウェーの方が怒ってる。(2/8)

 

 ジャンプ混合団体。個人で4位、メダルを逃した高梨が1回目に大ジャンプを決めて喜んでいたら失格と伝えられ、泣き崩れる姿は見ていて辛かった。ドイツやノルウェーの選手や関係者は激怒。各国の報道も様々で、大会が終わった今でも、検査方法がいつも通りだったのか違ったのか、事実関係すらよくわからない。

 それでも高梨は2回目をきっちりと跳んだ。高梨だけでなく全員が次々に高得点を挙げて、4人×2回のうち1回が得点ゼロなのに表彰台まであと一歩の4位に食い込んだのだから、この日本代表は凄いチームだった。

 

2/8

今日のミスは自分ではどうこうしようもない。何より自分の感覚で「ミス」ではないので、あれは

終わってすぐこう言えるのは凄いな。だからこそ冒頭のアクシデントの後も崩れなかったのだろう。

https://www.daily.co.jp/olympic/beijing2022/2022/02/08/0015046914.shtml

 

 リンク先の記事が消えていたので、デイリースポーツの一問一答を貼っておく。3連覇を期待された羽生結弦のショートプログラム。私は職場で見ていたが、冒頭の4回転半を失敗した瞬間、周囲から悲鳴があがった。世界中のテレビの前で同時にあがったことだろう。

 それでも羽生は残りのプログラムを揺るぎなく滑りきった。順位は8位。試合後のインタビューでは、驚くほど冷静に状況を分析して振り返っている。

(しかし内心が冷静ではなかったことは、フリーを終えた後のインタビューなどで明かされている)

 

カーリングのロコ・ソラーレも、五輪代表決定戦で2連敗の後、個別要素では何も悪くないし劣ってない、ただ運がないだけだ、だから運命を変えよう、とメンタルを切り換えて大逆転した。

結果が出なくても「やってることは間違ってない」と言えるだけの準備をしてきた人にのみ可能な立て直し方。

 

 結果が出なくても自分を信じられるのは、彼ら彼女らが、やれる準備をすべてやってきたからだろう(もちろん、単なる自信家もいるけれど)。

 

2/10

堂々とひとつの時代を終えた、という感じの感慨があるな、羽生の演技。いやこれで引退かどうかはわかんないけど。

 

でも4回転半は、今季の世界選手権までチャレンジを続けるという選択肢もあるのかな。彼の心身の状態次第か。

 

全部終わったら、「いいものを見せて貰った」という感慨が全てのフィギュア男子。

 

いやもう、一生懸命頑張りました。正直、これ以上ないくらい頑張ったと思います。報われない努力だったかもしれないですけど、確かにショートからうまくいかないこともいっぱいありましたけど、むしろうまくいかなかったことしかないですけど。でも一生懸命頑張りました

https://www.nikkansports.com/olympic/beijing2022/figure_skating/news/202202100000627.html?cx_testId=154&cx_testVariant=cx_undefined&cx_artPos=1#cxrecs_s

 

このクラスの偉大な選手の「一生懸命頑張りました」は、とてつもなく重い。

 

 

2/11

平野歩夢の3本目、凄いな。素人目にも誰より難しい技を連発して、全く失敗しそうにない。ここ一番で最高の演技。

ショーン・ホワイトが最後の滑りを終えた後の表情も印象的。勝って終わるのも美しいけれど、後を追う者に負けるところまでやり切るのも王者の務めなのだろう。 

 

穏やかな笑顔、落ち着いた口調。平野歩夢の優勝インタビュー、心身ともに良い状態だったことがうかがえる。一時の勢いやテンションではなく、持てる力をそのまま出して、勝つべくして勝った、という感じ。いや普段見てない競技に何言ってんだと自分でも思うけど、そう思わせるだけの語り口。

 

 ほとんど4年に1度しか見ないような競技にも、ついこんなきいたふうなことを書きたくなるほど感銘を受けた。平野歩夢選手はいつも落ち着いているけれど、落ち着きの中にも喜びがにじみ出ていて、見ていてとても気持ちのよいインタビューだった。俳優業の人たちは、こういうのをよく見ておくといいんじゃなかろうか。大げさな身振りや叫びではない「心からの喜び」を表現するお手本になる。

 

2/14

北京五輪のテレビ中継アナには、競技をよく知っていると感心することが多いのだが、選手インタビュー(現地スタジオ出演も含む)では、「それ、さっき話したろ」と思う質問を重ねるアナが結構いる。

それでも苛立ちも見せずにさらりと答える選手が多いのには感心する。

 

北京五輪のNHK、スタジオでの選手インタビューがイマイチなことが多い中(さっきの小林陵侑インタビューでの青井アナも雑で準備不足)、デイリーハイライトで村瀬心椛に取材する鳥海アナはさすがベテランスポーツアナ、安心して見てられるし、話の中身も濃い。このレベルでお願いしますよNHKさん。2/16

 

 最近はスタジオ解説だけでなく、インタビューも巧みなアスリートOBが増えてきた。もはやアナウンサーに固執する必要はないんじゃないか。まして芸能人など不要(もちろん、例えば村上信五のようにスポーツキャスターとして優れていれば歓迎)。

 

2/15

CASがワリエアの出場を認めた理由は「16歳未満で保護対象だから」「陽性結果が出たのが五輪直前で本人の責任ではないから」だそうだが、これ、両方ともロシアがコントロールできる事項ではあるな。

 

「それなら根本的に出場資格を16歳以上に変更すべきでは」との「日本のフィギュア関係者」および記者の意見に全く同感。今回の裁定では「15歳はドーピング可」も同然で、フェアでも健全でもない。

フィギュア界は以前も若年齢化が問題になって年齢制限を設けたのに、また繰り返されるのか。

ワリエワ15歳だからOKでは五輪の根幹崩れる 不公平ない環境整備を/記者の目

https://www.nikkansports.com/olympic/beijing2022/figure_skating/news/202202140001268.html?utm_source=twitter&utm_medium=social&utm_campaign=nikkansports_ogp

 

2005年、年度の基準日に14歳だった浅田真央がグランプリファイナルを制した時、朝日新聞などの一部メディアは「真央ちゃんを特例で(06年の)トリノ五輪に出すべき」と言い立て、「いや年齢制限にはフィギュアのために合理性があるから尊重すべき」とブログに書いたら、賛同も得たが叩かれもした。

年齢制限の意義は、この「選手人生が長く続かぬ競技に希望ない」という町田樹の言葉に尽きる。体重が増えては勝ち目がないのなら、フィギュアスケートは子供専用の競技になってしまう。今回、羽生やチェンが見せたような「成熟した演技」も衰退する。

https://www.nikkansports.com/olympic/beijing2022/figure_skating/news/202202050000614.html?utm_source=twitter&utm_medium=social&utm_campaign=nikkansports_ogp

 

 

 ロシアの女子フィギュアスケーターが12月の大会の検査でドーピング陽性判定が出た、とロシアのメディアが大会中に報じたことで、大会で最も注目される問題になってしまった。すぐ出場停止にすればまだしも、ROCが出場を容認し、提訴されたCASも出場OKとの結論を出したので、特に現場からは猛反発が出た。当然である。祖父の薬だろうが何だろうが、検体が陽性判定を受ければ大会から除外されるのがドーピングコントロールの大前提。特例を認めれば制度が崩壊する。

 問題が発覚する前にワリエアが出場し、ROCが金メダルを獲得した団体は、銀銅の国も含めて大会中のメダル授与ができなかった(そもそも国としての参加は許されず、クリーンが証明された選手が個人として参加しているはずのロシア=ROCが団体戦に出場できるという理路が理解できないのだが)。さらに、最終結論が出ないままワリエアが出場する女子個人では、ワリエアが1~3位になった場合は*つきの暫定順位にする、との話まで出てきた。

 

ドーピングが疑われていたバリー・ボンズが、ハンク・アーロンのMLB記録に並ぶ通算755本目のホームランを打った時、スタンドの観客たちが「*」と書いた紙を掲げて異議を示していたのを思い出す。2/17

 

 ショートプログラムでは完璧な演技で格の違いさえ感じさせたワリエアが、フリーでは転倒につぐ転倒。消沈して氷から降りた彼女を厳しい表情と口調で迎えたコーチにも批判が集まった。

昨夜のフリーの演技とその後の様子を見ると、CASが規則通りに出場停止にすることと、恣意的な判断で出場を容認することのどちらが、より「取り返しのつかない」ダメージを彼女に与えることになったのか、まったくわからない。(2/18)

「取り返しのつかない」悪影響に配慮、CASがワリエワ出場を認めた裁定文公表

https://www.yomiuri.co.jp/olympic/2022/20220218-OYT1T50233/

 

 そんな異様な状況で出場した坂本花織は銅メダル。ロシアトリオの牙城を崩したのだから見事だった。

 

坂本、良かったなあ。演技中は自信に満ちあふれて見えたのに、リンクを降りるとコーチに抱きついて泣き崩れた。絶望に立ち向かった時間、どんなにかタフな挑戦だっただろうか。

 

2/19

NHKのデイリーハイライト、今日で終わりなの? 明日はカーリング決勝に日本が出るんだから、閉会式の後でもやればいいのに。正直、中国の国威発揚ショーやバッハ会長の演説なんかより、市川さんが解説するカーリング決勝のアフターゲームショーが見たい。

2/20

カーリングは、トリノ五輪のマリリン人気の頃に比べると、俺ら素人のリテラシーがずいぶん上がってきて、競技そのものを楽しめる人が増えてきたんじゃないかな。

試合数が多く、試合時間が長く、選手の役割分担が明確で、一投ごとに戦略があるから、いい試合を見れば見るほど理解が進む。

 

金村萌絵さんの解説も明快で、このショットが何を狙って、それが成功したのか否か、この結果が戦局にどう影響し、日本が次に何をすべきなのか、全部リアルタイムに説明してくれる。ストーンの速度が遅く、選手間の相談が全部聞こえるカーリングならではとはいえ、スポーツ解説のお手本のようだった。

 

ロコ・ソラーレのインタビューでは、いつも吉田知那美の談話に感心する。自分たちの状態を把握し、分析し、打開策を見出し、言葉にして指針を示す力が卓越している。きっと氷の上でもそうなのだろう。中心が1人だけではなく、〝エース〟と〝精神的支柱〟の2頭があるチームだから強いんじゃないかな。2/21

 

最年長メダルが話題のカーリング石崎選手は、たまたまフィフスで出番がなかったけれど、他国代表には40代の選手もいたし、ロコ・ソラーレと日本代表を争ったフォルティウスの船山選手は44歳で現役。将来は、出場選手による最年長メダル記録更新も十分にありそう。2/21

 

それにしても、東京に通年カーリング場のひとつもあれば、今ごろ体験希望者殺到だろうに。スケートリンクは減ってるけども、大人の娯楽としてはスケートよりカーリングの方がずっとハードル低いと思うんだけどね。海外では酒飲みながらプレイもOKらしいし。2/21

 

 予選落ちと思ってインタビューに応じていた最中に準決勝進出を伝えられ、泣き崩れた選手たち。準決勝は大会中でもベストゲームだったのでは(大逆転のデンマーク戦も素晴らしかったが、最後の一投までずっと劣勢だった)。

 平昌五輪と同じチーム、同じ顔触れ(試合に出ないフィフスのみ交代) だったので、こちらも選手たちをよく知っている。平昌の後はうまくいかない時期もあったが、昨年秋の代表決定シリーズの大逆転は本当に見事だった。あそこでチームとして一皮むけたのではなかろうか。

 長野五輪から24年。日本国民の競技リテラシーは着実に向上している。首都圏に競技場ができれば競技人口もレベルも一気に底上げできるんじゃなかろうか。平昌の後で高木美帆が自民党の党大会で「国立のスケート場を」と要望していたが、カーリングも含めて、あっていいんじゃないですかね。

 その高木美帆については、ほとんどツイートしなかった。結構見てはいたのだが「残念!」「やった!」くらいしか書きようがなかった気がする。こんなに数多くの種目に出た選手は橋本聖子以来ではないか。素晴らしい滑り、素晴らしい人間性。幼い頃から見てきた一国民として、成長と活躍を心から祝福している。

 

バッハ会長、何をどう考えたら、ここまで時宜にも場所にもそぐわないスピーチ内容を思いつけるのだろうか…。

本当にオリンピック以外のことは何も視界に入らないのかな。中国がやってること、ロシアがやってることを考えたらとても言えないことばかりだ。

「ワクチンがすべての人に平等に行き渡りますように」

オリンピックのために関係者の接種を優先させた張本人が何言ってるのかとしか。

 

NHKの近ごろの五輪開会式や閉会式の中継って、アナウンサーが妙にハイテンションに盛り上げる、というより勝手に盛り上がってるのが苦手。特に女性アナ。もっと落ち着いて淡々とやってくれればいいのに。東京も北京も、競技はともかく、大会自体は手放しで賛美するようなもんじゃなかったでしょ。

 

 閉会式はテレビはつけていたがあまり興味がなく、ただバッハ会長の挨拶の空疎さだけはひっかかった。ドイツのテレビでは閉会式中継の中でも中国批判をしてたらしい。NHKくらいは盛り上げ一辺倒ではなく是々非々で冷静にやってもらいたい。

2/21

北京五輪の開幕前までは北京や参加予定選手のコロナ感染者数が報じられていたが、開幕してからは選手村内の選手・関係者どころか北京市内の感染者数のニュースすら目にしなくなった。選手が感染すれば当該国でニュースになるから隠せるはずもない。バブル内での封じ込めは成功したということかな。

 これはいまだに数字が見当たらない。そのうち中国から誇らしげな発表があるのかどうか。もはや世界の目はオリパラどころではないけれど。

 

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野球で起きることは、すべて水島漫画の中ですでに起きている。

 水島新司「野球狂の詩」に、東京メッツの老雄・岩田鉄五郎がエディ・ゲーデルという元大リーガーについて語る場面がある。高校生の女性投手・水原勇気のドラフト1位指名を主導した鉄五郎が、入団を拒む勇気を説得するため水原家に通っていた、ある日のことだ。

 

 エディ・ゲーデルは身長約1メートル10センチ、おそらくMLB史上もっとも背が低い選手だ。

 1951年、セントルイス・ブラウンズ(現在のボルチモア・オリオールズ)の選手として、一度だけ打席に立った。オーナーのビル・ベックが、生まれつき体が小さく、パフォーマーをしていたゲーデルを、ある日のダブルヘッダーの間のアトラクションに出場させるとともに選手として契約し、第二試合で代打に送ったのだ。背番号は1/8。クラウチングスタイルで構えるゲーデルに、投手はストライクが入らず、ストレートの四球。ベックはゲーデルにバットを振るなと厳命していたと言われる。

 どんな投手でもストライクを取れそうにない打者の存在をアンフェアとみなしたのか、リーグ会長は試合後にゲーデルの試合出場を禁止し、以後、彼が打席に立つことはなかった。

 

 鉄五郎は勇気に、上記のようなゲーデルに関する一部始終を語り、最後にこう告げて、水原家を後にする。

 

 「エディーはもっと野球をやりたかっただろうに」

 

 エディ・ゲーデルの一件は、MLB史の中で、ビル・ベックの破天荒なアイデアマンぶりを示す逸話として語られることが多い(例えば伊東一雄・馬立勝「野球は言葉のスポーツ」中公新書)。私もそういう出来事として知っていた。

 だから、鉄五郎の言葉を目にした時には、虚を突かれた。エディ・ゲーデルをこの観点から語る人はなかなかいない。

 だが、考えてみれば、水島新司なら当然そう言うだろう。

 幸福とは、ユニホームを着てグラウンドに立ち、野球をプレーすることである。

 すべての作品のすべてのページのすべてのコマが、紙面からそう訴えかけてくるような野球漫画をひたすら描き続けてきた水島新司なら。

 

 水島新司が亡くなった。

 2020年暮れに水島新司が画業引退を表明したのを受けて行われたこの対談で、オグマナオトは1977年を水島の全盛期としている。

<『ドカベン』(6年目)、『野球狂の詩』(6年目、この年でいったん連載終了)、『あぶさん』(5年目)、『球道くん』(2年目)、『一球さん』(3年目、この年で連載終了)。さらに、野球マンガ専門誌『一球入魂』を創刊して責任編集長まで務め、この雑誌上で『白球の詩』の連載を開始。あるインタビュー(『月刊経営塾』9510月号)では、最盛期には月に450枚描いていた、と明かしています>

 「ドカベン」が少年チャンピオン、「野球狂の詩」が少年マガジン、「一球さん」が少年サンデー、「球道くん」がマンガくん(後に少年ビッグコミック、ヤングサンデー)、そして「あぶさん」が「ビッグコミックオリジナル」。少年ジャンプ以外の主要少年漫画週刊誌3誌で連載していたのだから、漫画を読む子供ならほぼ全員が水島漫画に触れていたはずだ。

 筆者が浴びるように水島漫画を読んでいたのは、75年ごろから10年ほどの期間。人生で初めて買った単行本漫画は「ドカベン」の10巻と21巻だった(近所の書店の店頭在庫がその2冊だった)。まさに水島漫画の全盛期をリアルタイムで体験し、浴びるように読んでいられたのは幸運だった。

 

 当時の自分や同級生たちは、「ドカベン」の何が好きだったのだろう。

 まずは、その明るさだったと思う。岩鬼や殿馬が口にするちょっとしたギャグは、すぐに仲間内で流行した。みな、「ドカベン」のキャラクターたちが大好きだった。

 山田太郎は,地味な性格だが、どっしりと落ち着いて迷いがなく、穏やかで、それでいて明るく、仲間思いで、誰に対しても優しい。揺るぎなく確かなものがそこにある、という安心感を、チームメイトのみならず読者に対しても与えてくれる。こうやって文章にすると退屈そうな人物だが、破天荒で賑やかなキャラは周囲に大勢いたから、作品そのものは賑やかだった。

 

 そして、どの少年誌にも複数の野球漫画が連載されていた時代にも、水島が他の追随を許さなかったのが、その画力だった。

 山田太郎の力強いスイング。里中智の華麗なアンダースロー。不知火守の、これぞ速球投手というフォーム。打つ、投げる、走る、捕るといった野球の動作を、躍動感たっぷりに、しかも美しく描くことにおいて、水島新司の右に出る者は、おそらくいない。

 「ドカベン」は76年からアニメ化され、それなりに人気もあったはずだが、私は全く興味が湧かなかった。実際に絵が動くアニメよりも、水島が紙に描いた山田たちの方が、はるかに生き生きと動いていたからだ。

 厳密にいえば、水島新司が描くプレー画像は、実際の分解写真とは違う。人間の足はあんなふうにたわんだりはしないし、投手のリリースポイントはそんなに前ではない、という絵もあった。

 けれども観客の目には、野球選手のプレーはそんなふうに見える。水島の絵は、加速感や残像も含めた“人の目に映る野球”を描いていた。

 

 浦沢直樹や江口寿史ら当代の名人上手たちが、水島の訃報に接した際のツイートを見ても、水島の画力がいかに優れていたかがうかがえる。

 

水島新司先生の描く野球漫画は、人間の本当の躍動を描くという革命を漫画界にもたらしたと思っています。私も中学生の頃あの躍動感に憧れ、どれほど先生の絵を模写したことでしょう。素晴らしい作品をありがとうございました。心よりご冥福をお祈りします。>浦沢直樹

 

ぼくにとって水島新司先生は、ちばてつや先生と並んでよく模写した漫画家ですが、このスパイクの裏側とグラブの(中指、薬指、小指を閉じた)描き方は、パイレーツでもそのまんま丸パクリで描いてましたね。>江口寿史

 水島作品は、例えば「文藝別冊」や「ユリイカ」に特集されるような意味での「批評」の対象になることは、昔も今もほとんどない。だが、そういう場で好んで扱われる江口や浦沢は、水島漫画に大いに影響を受けているらしい。

 

 訃報に際して水島について書かれた文章の多くは、「野球狂の詩」における女性投手の登場、あるいは「ドカベン」における競技規則の隙間をついた得点シーンが後に甲子園で実際に起こったことなどを例にひいて、「将来を予見していた」ことを高く評価していた。

 その通りではあるのだが、私にはどこか違和感がある。

 他にも、ドラフト制度を拒否する高校生を描いた「光の小次郎」のように問題提起を強く意識した作品があるのは事実だし、「野球狂の詩」の水原勇気編も、初期には野球協約の壁との闘いが描かれている。

 一方で、「野球狂の詩」には荒唐無稽なエピソードもたくさんある。野球の上手なゴリラが阪神に入団しそうになったり、マサイ族の勇者が代走専門で活躍したり。不動の四番打者・国立玉一郎は歌舞伎の名門の御曹司に生まれ、入団当初は女形と掛け持ちでホームゲーム限定の選手だった。後に実現したかどうかで評価を決めるのなら、これらの作品は大外れだが、もちろん、作品の価値はそんなところにはない。

 

 水島は単に、野球のすべてを描きたかったのだと思う。野球に関わるすべての人々、野球で起こりうるすべての出来事を、何もかも描きたかった。だから、あらゆるプレーの可能性を考え、野球に関する制度を調べ、公認野球規則の盲点や野球協約の理不尽に気づいたら、それを作品にした。

 そうやって描かれた「何もかも」のうちのいくつかが、後で現実に起きた。そういうことだったのではないかと思う。

 水島新司の野球漫画が偉大なのは、将来を予見したからではない。野球で起こりうる、あらゆることを描こうとしたから偉大なのだ、と私は思っている。

 三谷幸喜がドラマ「王様のレストラン」のために捏造したエピグラムに倣って言えば、<野球で起きることは、すべて水島漫画の中ですでに起きている>のである。

 

 「野球狂の詩」は連載当時も好きな漫画だったが、“おっさんくさい漫画”という印象ももっていた。東京都国分寺市をフランチャイズとする架空の球団・東京メッツを取り巻く人々の群像劇だが、全編を通しての主人公は50歳を過ぎても投げ続ける岩田鉄五郎だ。引退間際のベテラン選手を主役としたエピソードも多い。

 ただ、水島の訃報を機に、改めて全17巻を買い直して読んでみると、おっさんが大勢出てくるからというだけでなく、プロットそのものが“おっさんくさい漫画”である。

 

 野球、という最大の属性を取り払ってみると、水島漫画には“貧しくても前を向いて明るく生きる人々の話”がとても多い。とりわけ「野球狂の詩」には顕著だ。

 例えば「メッツ本線」。オールスターで打ち込まれて引退を考え始めた鉄五郎が、かつてバッテリーを組んだ現監督の五利と2人で気分転換に温泉旅館を訪ねたら、駅から温泉までのバスの停留所の名は、2人が活躍したメッツ全盛期の選手の名が打順通りに並んでいた。実は…という話。老いた投手と老いたファンの気持ちが交わる、しみじみと沁みる作品だ。

 そういうエピソードがあるのは覚えていたが、自分が岩田鉄五郎の年齢を超えた今になって読み返すと、当時とは比較にならないほど、深々と心に刺さる(これを描いた頃の水島がまだ30代というのが、ちょっと信じられない)。

 

 水島新司は、貧しさゆえに高校進学を諦めて中卒で就職、働きながら独学で漫画を描きはじめ、大阪の貸本漫画から人気漫画家にはいあがった。“貧しくても前を向いて明るく生きる人々の話”に描かれる人々は、若き日の水島自身であり、水島の周囲の人々だったのだろう。時に野球を断念する若者の話が描かれるのは、高校野球に憧れながら断念せざるをえなかった自身を投影しているように見える。

 ありていにいえば、水島漫画にはベタな人情話が多い。落語であり演歌であり浪花節であり、ごりごりの昭和である。読者が子供のうちは素直に楽しめても、「若者」になると、少々ださく感じられる。そういう話が多い。特に女性観は、今どきの水準でいえばかなり古くさい。東京メッツのエース、火浦健が愛した女性は、幼なじみの家族を支えるために火浦との結婚を諦める。かくのごとく、男女の仲が描かれても「恋愛」より「家族愛」に着地することが多い。

  訃報に接して、何か水島作品を読み返したくなった。昔買っていた単行本の多くは手元になく、すぐには読めない。いろいろ考えた末、連載時にはあまり読んでいなかった「平成野球草子」全10巻を古書で買った。90年代にビッグゴールドに連載された作品だ。プレーそのものよりも、野球に関わる人々の哀歓が描かれ、「野球狂の詩」をさらに人情話寄りにしたような漫画である。

 連載誌も中高年向けであり、当時30歳かそこらの自分の琴線には触れなかったのだろう。が、50代後半の今の私には触れまくる。うかつに外で読むとすぐ泣きそうになるので、家で少しづつ読んでいる。子供の頃は水島漫画で泣いたことなどなかったのに。

 

 水島新司が描く人情話は、「故郷の実家」のようなものだ。子供の頃は好きだったし楽しかったけれど、ある時期から気恥ずかしくなって距離を置いたりする。だが、大人を通り越して老いを感じる頃には、改めてその良さに気づく。

 残念なことに、今は水島の代表作の多くが入手しにくい。どんな事情があるにせよ、早く水島作品が電子書籍化され、かつての子供たちや、今の子供たち、未来の子供たちが数々の傑作を身近に読めるようになることを、心から望んでいる。

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東京五輪で日本野球が金メダルをとれた、たった2つの理由。

 東京五輪の決勝でアメリカを破り、全員がプロの代表チームとして初めて金メダルを獲得した直後に行われた坂本勇人のインタビューに、印象深い言葉があった。

 「僕の1つの夢でもあったので、金メダルがとれて感無量です」

 これまでプロとして五輪に出場した野球選手の中に、金メダルを取ることが夢だった、という選手がいただろうか。坂本の言葉は私の耳に新鮮に響いた。

 

 筆者の知る限り、彼らにとって五輪の金メダルは「義務」だった。

 はじめてプロ野球選手だけのチームで臨んだ2003年のアテネ五輪予選。主将を任された宮本慎也は、開幕直前に開いたミーティングで、選手たちにこう語りかけたという。

 「野球には、一生懸命やったんだから負けても仕方ない、という場合もある。だが、この3試合はそうじゃない。言い訳は許されないんだ」

 絶対負けられない試合が、そこにあった。

 

 かつて、オリンピックの野球は「世界のアマチュア球界の最高峰」だった。オリンピック自体がアマチュアリズムの世界だったからだ。

 1984年のロサンゼルス五輪で公開競技となって以来、日本野球の五輪代表チームは、社会人主体のチームに優秀な大学生が加わる形で構成されてきた。ロス五輪で金メダルを獲得した日本は、その後も常にメダルは手にしたものの、頂点に立つことはできなかった。

 2000年のシドニー五輪でプロ選手の参加が解禁され、状況が変わる。対応は国によって異なった。世界最強のメジャーリーグを擁するアメリカ合衆国では、MLBは選手の派遣を容認せず、代表は主に元メジャーリーガーと、有望なマイナーリーガーによって構成されるようになった。韓国やメキシコなど国内にプロリーグを持つ国は、そこを主体にチームを作った。制約なしの最強チームを五輪に送り出せたのは、社会主義国のキューバくらいだったろう(そのキューバも、主要選手がMLB入りするようになった今では他国と同じ状況だ)。

 

 日本の場合、五輪は多くの社会人選手にとっての目標で、五輪に出るためにプロ入りの誘いを断ってきた選手もいる。解禁されたから「では五輪代表はプロ選手で」というわけにはいかなかった。プロの側も、シーズン大詰めの時期にスター選手がごっそり抜けるのは困る。そもそも五輪に選手を派遣する主体はJOCに加盟するアマ団体で、NPBではない。

 様々な話し合いがあったのだろう。結論は「社会人主体のチームに少数のプロが参加する混成チーム」だった。全部で8人、1球団からは1人だけ。松坂大輔らが参加して、予選は突破したものの、本大会では準決勝、3位決定戦と敗れて、五輪で初めてメダルを得られずに終わった。

 

 もはやアマ主体では五輪で勝てない、とアマ球界の偉い人たちも腹をくくったのだろう。次のアテネ五輪に担ぎ出されたのは、2001年限りでジャイアンツの監督を退いていた長嶋茂雄だった。当初は強化本部長という肩書で「プロアマ横断で最強チームを作る」という話だったが、やがて長嶋は監督となり、チーム自体もプロ主体になっていく。五輪に関心の薄いプロ選手でも長嶋に招かれたら簡単には断れまい、という計算もあったに違いない。

 そのスター揃いのチームで主将を任されたのが宮本である。同志社大時代の彼の先輩には五輪3大会に主力投手として出場した杉浦正則がおり、プリンスホテル在籍時にも社会人選手の五輪への思いに触れている。アマ選手の夢を奪う形で自分たちが出場するからには予選敗退など許されない、と考えたことを宮本自身がのちに語っている。それが「言い訳は許されない」という言葉になったのだろう。

 

 中国、台湾、韓国を相手に2つの出場枠を争った予選で、日本は3連勝し、アテネ行きの切符を手にした。異様な緊張感の中で戦った3試合を通じて、チームの一体感も生まれてきた。

 だが、アテネ五輪が開催される2004年になって、最大の求心力であった長嶋が脳梗塞に倒れるというトラブルがチームを襲う。数か月後の本大会の監督など誰が見ても不可能と思われたが、監督の交代は行われず、本番直前の8月になってようやく「長嶋の渡航は断念、ヘッドコーチの中畑清が代行(大会での公式な肩書は中畑が監督)」と決まる。「長嶋ジャパン」という看板を下ろしたらどうなるかわからないような基盤の脆弱さがうかがえる。

 そうでなくてもチームに与えられた条件は厳しいものだった。会期中もペナントレースは続くため、選手選考には「1球団2人まで」との制約を課され、予選からのメンバー入れ替えを余儀なくされた。選手が集合してからイタリア合宿、現地練習を経て試合開始まで、わずか10日間。即席チームである。

 長嶋不在の「長嶋ジャパン」は準決勝でオーストラリアに敗れ、3位決定戦でカナダに大勝して銅メダルを手にする。選手たちには忸怩たる思いもあったのだろう。宮本は後にCSフジテレビ739(当時)の番組で、代表の一員だった黒田博樹の「銅で良かったんですよ。あんな準備で金メダルをとってしまったら、みんな『簡単なんや』と思ってしまう」という言葉を紹介している。

 

 次の2008年北京五輪も野球代表はオールプロで臨み、監督には星野仙一が就任した。すでに、この大会限りで野球が五輪競技から除外されることが決まっていた。

 

 これに先立つ2006年春に、MLB主導の「ワールド・ベースボール・クラシック」が開かれた。参加主体はNPBである。当時ソフトバンクの監督だった王貞治が監督として率いた日本代表は、苦戦の末に勝ち上がり、決勝でキューバを破って優勝、初代王者となった。様々な問題点も指摘され、最初は業界人も野球ファンも「どんな大会?」と半信半疑で見ていたようだが、まがりなりにも一流メジャーリーガーが多数出場した中での世界一である。大会前には多くの選手が出場を辞退した「野球日本代表」は、日本中から絶賛される存在へと飛躍した。プロ選手による「野球日本代表」のブランドが確立したのは、この大会だったといってよい。

 

 翌200712月、北京五輪の予選が台湾で開かれた。星野が選んだメンバーには、宮本をはじめ上原浩治、里崎智也、西岡剛、川崎宗則、青木宣親らWBCの世界一メンバーが多く含まれていた。当時35歳で初代表の稲葉篤紀は、予選の後で「WBC組についていくのに必死だった」と話している。WBCは本番で8試合、事前合宿から決勝まで約1か月をともに過ごしただけに、出場した選手たちの間には特別な一体感が醸成されていたのだろう。

 北京五輪には中国が開催国枠で出場するため、アジア予選の出場枠は1のみ。厳しい条件下ではあったが、日本代表は3連勝して北京行きの切符をつかんだ。

 

 北京五輪本大会の代表には、アテネのように球団ごとの人数制限はなかったが、8月下旬の会期中もペナントレースは続いた。代表合宿が始まってから本番までは、アテネ同様10日程度。星野監督は予選の出場選手を中心に代表を選んだが、シーズンで不振や故障の選手が多く、そのうち数人は、結局は本番でも本来の力を発揮できなかった。予選ラウンドを4勝3敗の4位ギリギリで通過し、準決勝で韓国に敗れ、3位決定戦でもアメリカに敗退。最後になるかもしれない五輪で、日本代表はメダルを逃した。 野球にとっては、東京大会がそれ以来の五輪ということになった。

 

 五輪競技からは外れても、「野球日本代表」の活動は続いた。むしろ活発になったと言ってよい。

 北京五輪の翌年、2009年春に第2回WBCが開催された。読売ジャイアンツと監督を兼任した原辰徳が率いた「サムライジャパン」は準決勝でアメリカ合衆国、決勝で韓国を破り、2連覇を成し遂げた。以後、第3回(2013年/山本浩二監督)はプエルトリコに、第4回(2017年/小久保裕紀監督)はアメリカ合衆国に、ともに準決勝で敗れたものの、日本は唯一4大会すべてでベスト4入りする安定した実力を見せてきた。

 並行して、2015年には世界野球ソフトボール連盟(WBSC)主催のプレミア12が創設された。国際野球連盟(第2回からは世界野球ソフトボール連盟)が各年代のランキングをもとに招待する12の国と地域が参加する。メジャーリーガー不在の大会ではあるが、日本は第1回大会で3位、第2回(2019年)には優勝した。

 

 この間に日本代表には大きな変化があった。

 2013年のWBC終了後、社会人、大学、女子、若年層など、すべてのカテゴリーの野球日本代表を「侍ジャパン」の愛称でユニホームを統一。プロの日本代表の監督には小久保裕紀が就任し、2017年に開催予定の第4回WBCを目指して、代表を常設化することになった。

 サッカーのように定期的に公式な国際大会が開かれるわけではないにせよ、WBCやプレミア12以外にも、従来はその場限りの選抜チームが出場していた日米野球なども「小久保ジャパン」が戦うことになり、首脳陣と選手が代表チームとして活動する機会は格段に増えた。

 

 第4回WBCの終了後に小久保監督が退任し、まもなく稲葉が代表監督に就任した。

 稲葉は2008年の北京五輪で初めて代表に選ばれ、09年、13年のWBCにも出場した。2014年に現役を引退すると、すぐに日本代表の打撃コーチとなり、そのまま17年のWBCまで務めて、小久保の後を引き継いだ。つまり、選手、コーチ、監督と立場を変えながら、北京五輪以来の主要な日本代表の大会に参加し、成功も失敗も経験してきた。プロ化以後、これほどまでに日本代表を知り尽くした人物は他にいない。2009年のWBCは選手として、19年のプレミア12は監督として、それぞれ優勝したけれど、稲葉は「五輪の借りは五輪で返す」と言い続けた。

 

 長々と昔話をしてきた。ご覧の通り、プロの参加が解禁されて以後の野球五輪代表の立場は、実に奇妙かつ矛盾に満ちたもので、私はこのブログでもしばしばそれを指摘してきた。

 五輪の全競技を見渡すと、出場するほとんどの選手にとって、この大会は競技生活における最大の節目であり、中でも上位に入賞するような選手は、ほぼ例外なく、直近4年間(今回は5年間だ)を五輪の金メダルを取るために捧げてきた。

 野球も、アマチュア時代はそれに近かった。4年間、キューバを倒すことを考え続けた選手もいただろう。だが、アテネや北京の野球日本代表に、そんな選手はおそらく一人もいなかった。主力として予選を勝ち抜いた選手でさえ、本大会について聞かれれば「それは代表に選ばれ、合宿が始まってから考えます。今はペナントレースが優先です」と答えるのが常だった。

 他の競技の選手は4年間、金メダルを思い続けたが、野球選手たちは4週間にも満たない。彼らには、ペナントレースとオリンピックに軽重をつけることは許されていなかったし、「日本プロ野球にとって(メジャーリーガーが参加しない)オリンピックとはいかなる位置づけの存在なのか」「そこで目指すものは何なのか」を、誰も彼らに示さないまま、ただ「金メダルのために頑張れ」とだけ言ってきたように思う。

 それでも、日本社会でオリンピックはあらゆるスポーツの大会を圧して人気があり、そこで得た金メダルは、(一部のプロ競技を除けば)同じ競技の他のあらゆるタイトルよりも価値があるものと見做される(その競技の世界では、必ずしもそうではなかったとしても)。

 そこに、この五輪の難しさがある。

 

 2020年大会の開催都市が東京に決まり、1回限りの追加競技として野球(とソフトボールほか)が採用された。

 地元開催とあって、NPBは初めて五輪開催中にペナントレースを中断した。直前の強化合宿が始まったのは初戦の9日前で、それだけを見ればアテネや北京と同じだが、今回はすでに4年がかりで稲葉監督が作ってきたチームがあった。

 稲葉は、投手陣は今季好調な若手を多くピックアップし、野手陣は2019年秋のプレミア12優勝チームを中心に、24人の代表を選抜した。ペナントレースで調子の上がらない選手や故障した選手が多いことを批判するメディアも少なくなかったが、稲葉はメンバー発表後に出演した「報道ステーション」で、選考基準を問われて「ジャパンに対する思い、日の丸を背負って戦うという情熱ですね」と答えたという。 

 そこで例に挙げたのは、プレミア12で不振で代打を送られた後も、ベンチで率先して応援した坂本の態度だった。

 

 東京五輪の初戦、選手たちが緊張もあってか苦戦したドミニカ戦の後、AERA.dotは「山田哲人、坂本勇人…侍ジャパンの選手選びのツケと采配に早くも不安」と題した記事を載せた。西尾典文記者は<今シーズンのプレーぶりよりも、実績を重視してメンバーを選んだことの“ツケ”が早速出た格好と言えるだろう>と書いている(とはいえ坂本はその試合でサヨナラ安打を放っているのだが)。

 以後4試合。日本は金メダルを勝ち取り、山田はMVP、坂本はベストナインに選ばれた。稲葉監督は自分が信じた選手選考で最高の結果を出した。

 

 冒頭に挙げたように、坂本は東京五輪での金メダルを「夢だった」と話している。

 彼は1988年生まれの32歳。この代表チームでは田中将大、大野雄大、柳田悠岐と並ぶ最年長の学年だ。坂本は2006年秋のドラフトで読売ジャイアンツに指名され、翌07年に高卒でプロ入りした。06年春に第1回WBCで日本が世界一になった時点では、まだ高校生だ。

 つまり、今回の代表選手は皆、WBC創設以降の日本代表の活躍ぶりを、プロを目指す野球少年として見ながら育ってきた。ここで述べてきた大人の事情による葛藤など目に入らず、他のスポーツにいそしむ少年少女が代表選手を仰ぎ見るように「侍ジャパン」に憧れてきたとしても不思議はない。

 五輪がアマチュアの最高峰だった時代を肌で知らなければ、宮本が抱いてきた屈託やプレッシャーが彼らを縛ることもないだろう。もちろん、坂本自身が先のインタビューで「僕らにしかわからない部分があった」と語っているように、地元五輪で金メダルを、という期待からの重圧はあっただろうけれど。

 五輪での5試合で、坂本や山田哲人は、バントや右打ちをごく自然にこなしていた。打席に立つ坂本や甲斐が「こうしましょう」と告げた策は自分の考えと一致していた、と大会後に稲葉は語っている。アテネや北京の選手たちにも代表チームへの帰属意識はあっただろうけれど、練度が違う。もはや日本代表は即席チームではない。

 

 野球の五輪代表には金メダルを取るために4年間生きてきた選手などおそらく一人もいなかった、と書いたけれど、今回の日本代表には少なくとも1人、「五輪で金メダルを取る」ことを4年間考え続けてきた人物がいる。稲葉監督だ。コーチ陣もそうかもしれない。その執念が、代表を我がチームと思う選手たちに伝わらないはずはない。

 長嶋ジャパン発足から数えて19年目にして、野球五輪代表は「4年間、金メダルを取るために生きてきた指導者」と、「代表を『自分のチーム』としてプレーする選手たち」を得るに至った。プロ野球界も彼らに妙な枷をはめることはなかった。

 

 MLB選手が出場しない以上、過去の五輪でも、日本代表の戦力は他の参加国に劣ることはなかったはずだ。その力を発揮できなかった最大の要因は、ここまで延々と書いて来た通り、五輪に対するプロ野球界のスタンスが中途半端で、代表チームと選手たちに無用の制約を課していたからではなかったか。

 それがようやく除かれて、選手たちが素直に目標に向かうことができたのが、TOKYO2020で金メダルを掴めた最大の理由だと私は思っている。

 

 今後の五輪野球がどうなるか、WBC、代表監督人事がどうなるかは、まだわからない。ただ、今回うまくいった要因については、NPBは二度と間違わずに継承してもらいたい。そして、次に開かれるWBCには、日本人メジャーリーガーの多くが参加できるよう交渉力を発揮してほしい。

 次の大会には、それができる余地は十分にあると思う。大谷翔平がいない世界大会など、アメリカの野球ファンからブーイングが起きるはずだ。

 

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私的プロ野球ベストナイン(平成篇)

 だいぶ遅れたが、昭和篇の続き。

 サンデースポーツの視聴者が選んだ平成のベストナインは以下の通りだった。

 

先発:田中将大

中継ぎ:浅尾拓也

抑え:佐々木主浩

捕手:古田敦也

一塁:清原和博

二塁:山田哲人

三塁:中村剛也

遊撃:松井稼頭央

外野:イチロー

外野:松井秀喜

外野:柳田悠岐

DH:大谷翔平

 

 まあ順当だが、大谷を選ぶならDHではなく、「2WAY」のポジションを用意すべきだろう。

 

 順当と言いながら、私のセレクトはだいぶ違う。

 

●先発投手:野茂英雄(近鉄、ドジャースほか)

 サンデースポーツの投票で、田中が選ばれたのはよいとしても、上位3人(田中、松坂、ダルビッシュ)の中に野茂の名がなかったのは承服しがたい。

 私が思うに、野茂は日本のプロ野球で最も重要な3選手のうちの1人だ(他の2人は三原脩と長嶋茂雄。大谷翔平が二刀流で大成すれば4人目になる)。

 プロ1年目の平成2年=1990年に先発投手のタイトルを独占し、MVPと新人王と沢村賞を受賞。そのまま4年連続最多勝&奪三振王をとり、1年おいて平成7年=1995年に近鉄を任意引退となってロサンゼルス・ドジャースと契約。13勝6敗の堂々たる成績で奪三新王と新人王のタイトルも獲得した。渡米当時は、ルール破りだの通用するわけないだのと非難を受けたが、その成績ですべてを黙らせた。日本のプロ野球選手がMLBに移籍する道を切り拓いたのは彼だ。野茂が日本のプロ野球界すべてを敵に回す覚悟で渡米しなければ、田中も松坂もダルビッシュもメジャーで投げられたかどうか分からない。その意味で、他の選手とは違う偉さがある。

 野茂は延べ8球団(ドジャースには2度在籍)を渡り歩き、2008年まで投げ続けて123勝を挙げた。いずれ田中が追いつくだろうけれど、まだ先のことになる。

 野茂が渡米した1995年、メジャーリーグは選手会ストライキの最中だった。前年夏から始まったストは労使交渉がまとまらず、渡米はしたものの開幕の目処は立っていなかった。結局、開幕したのは4月24日。大金持ちのメジャーリーガーがさらなる富を求めた身勝手な闘争とみなされ、ファンの目は冷たかった。そんな状況の中で、日本から来た見知らぬ投手が、奇妙なフォームからの快速球と魔球フォークで三振を奪いまくる姿はロスのファンを熱狂させ、「ノモマニア」という新語まで生まれた。

 一方の日本では1995年は1月の阪神大震災、3月の地下鉄サリン事件と、大いに世の中が震撼する中で、海の向こうで大リーガー相手に快投を続ける野茂の姿は、ある種の救いにもなっていた。だからこの年の野茂は、日米両国にとって、単なる一投手にとどまらない存在だったのである。

 コロナ禍に世界中が苦しむ今年だからこそ、あの25年前を思い出す。

 

●中継ぎ投手:山口鉄也(読売)

 山口は面白い投手だった。今どき珍しいほど善良でおとなしい人柄ながら、マウンドに立つと剛腕で打者をねじ伏せる。先発への転向は失敗し、クローザーにも向かず、しかしセットアッパーとしては無類の安定感を誇った。自らの栄光よりも、チームの中で役割を果たすことに喜びを見出しているように見えた。9年連続60試合以上登板(うち3年は70試合以上)と耐久性も抜群。中継ぎをやるために生まれてきたような投手だった。WBCにも二度出場、原監督の世界一メンバーでもある。

 

●抑え投手:岩瀬仁紀(中日)

 「こいつが出てきたらもうダメだ」と相手に思わせることができればクローザーも一流だ。その威圧感においては(そのルックスともあいまって)佐々木主浩の印象は強い。だが、佐々木が日本で本当に君臨したのは4年間(MLBの分を足しても計7、8年)で、優勝は1回だけ。

 岩瀬は本格的にクローザーになったのは2004年。翌2005年から9年続けて「50試合以上登板・30セーブ以上(うち5年は40セーブ以上)」し、その間に中日はリーグ優勝3回、日本シリーズ出場4回、日本一1回だ。クローザーは、どれだけチームを勝たせたかという結果で評価されるべきだろう。

 クローザーになる前は、ルーキーイヤーから5年間、一流のセットアッパーを務めた。ジャイアンツファンとしては、本当に嫌な投手だった。

 

●捕手:城島健司(ダイエー、マリナーズ、阪神)

 本人のキャラは昭和っぽいけれど、昭和の捕手のイメージとは違う。スケールの大きさでは類を見ない。低めのボール球をスタンドに放り込むパワー、座ったまま一塁走者を刺す強肩。華やかな選手だった。平成は名捕手の多い時代だったが「四番・捕手」として君臨したのは城島と阿部慎之助の2人だけだろう。そして城島は、まがりなりにもMLBでレギュラーを務めた唯一の日本人捕手であり、第2回WBCの世界一捕手でもある。

 

●一塁手:松中信彦(ダイエー)

 最後の三冠王だが、白状すると、私はホークスでの活躍はさほど見てはいない。それでも彼を選ぶのは、第1回WBCの印象が強いから。4番打者として全試合に出場、13安打はチーム最多だが本塁打はゼロ、打点は2。とはいえ空砲だったわけではない。11得点はイチローより多いチーム最多。松中は世界の大舞台で一発を求めて振り回すことなく、つなぎの四番として着実に出塁し、懸命に走ってホームベースを踏み続けた。

 第1回WBCは、実際に始まるまでは日本の球界での大会そのもののプレゼンスは高いとは言えず、王監督から代表入りを打診されても断る選手が続出した。そんな状況に異を唱えた松中は、大会が始まってからもチームを背負って戦い、王監督の胴上げを実現した。あの優勝の最大の功労者はイチローでも松坂でもなく、松中だと思っている。

 

●二塁手:菊池涼介(広島)

 長いこと野球を見てきたが、「こんなの見たことないよ」というプレーを次々に見せてくれる。彼が引退して10年くらい経った頃に、菊池を見たことがない人に彼の守備を言葉で説明してようとしても、あまりに現実離れしていて、喋ってる自分に自信がなくなってきそうな気がする。つまらない打球を取り損なうこともあるし、打撃にはムラがありすぎるし、トータルとしては彼を超える選手は何人もいると思うが、それでもあの守備は捨てがたい。

 

●三塁手:小笠原道大(日本ハム、読売、中日)

 最近のプロ野球選手は「マン振り」という言い方をするらしいが、常にフルスイング。あれほどの強さで振り続けて、かつあれほどの打率を残した打者を知らない。さほど大きな体ではなく、アマチュア時代の実績も平凡。それでもプロ入り後の鍛錬であれほどの打者になれることに感嘆する。試合中も手を抜くことを知らないメンタリティ。北海道移転の前年、日本ハムの東京ドームで最後の試合で打ったフェンス直撃の二塁打は忘れられない。

 

●遊撃手:坂本勇人(読売)

 坂本は高卒2年目の開幕戦で二塁のスタメンに起用され、二岡の故障により本来の遊撃に移って、そのままレギュラーになった。確かその開幕戦だったと思うのだが、エラーをした時に全く悪びれない表情をしていたのを見て、なんて神経の太い10代だろうかと驚いたのを覚えている。ジャイアンツで高卒の選手が若くして中心選手になるには、この種の鈍感力が欠かせない(松井秀喜然り、岡本和真然り)。

 早熟の天才肌は20代半ばから伸び悩んだものの、30歳前後からさらに成長を見せている。名遊撃手の多い平成年代にあっても、総合力ではトップグループの一員といってよいだろう。

 

●左翼手:松井秀喜(読売、ヤンキース ほか)

 古今東西好きな野球選手を1人挙げろと言われたら迷わず松井を選ぶ。彼のデビューから引退までを見届けられたのは、見物人としての幸福だった。長嶋監督の育成計画よりは少し時間がかかったけれど、四番打者に定着してからの彼は、揺るぎない確かなものがそこにある、という安心感を見る者に与えてくれた。

 MLBでの打者としての成績はイチローには及ばないし、今後、彼を超える打者も出てくるだろう。ただ、彼はどんな状況でも、どんな立場でも、チームの勝利のために全力を尽くし、相応の結果をもって応え続けた。あれほど次から次へとスター選手を買いあさっては使い捨てるニューヨーク・ヤンキースで7年間も主力選手として活躍するのは並大抵のことではない。放出の3年後に1day契約の引退セレモニーを行い、その後も球団内にポストを用意し続けていることが、ヤンキースの松井への評価を物語っている。

 

●中堅手:柳田悠岐(ソフトバンク)

 フルスイングから飛び出していく打球の凄まじさもさることながら、あの大きな体をあれだけのスピードで動かせること自体が凄い。単純に、何も考えずにただ見ているだけで楽しい選手で、プロ野球という興行で最も大事なのはそういうことではないかと思う。アマチュア時代に無名だった柳田が売り出した頃、新しい時代が来たと感じた。WBCは開かれるたびに「●●がいれば…」と思う大会だが、第4回に彼がいないのも残念だった。

 

●右翼手:イチロー(オリックス、マリナーズ、ヤンキース ほか)

 毎朝、東から太陽が空に上るように、試合に出ればヒットを打った。グラウンドのどこにでも自在に打球を運ぶバットコントロール、単なる内野ゴロを安打にする俊足、幾多の足自慢たちを本塁で茫然とさせた肩、不利な本塁突入でも捕手を混乱させる身のこなし。誰にも真似のできない技を、ひとつならずいくつも持っていた。バッターボックスでも塁上でも外野の守備位置=エリア51でも、ユニホームを着てグラウンドに立っていれば何かを起こす、一瞬も目が離せない、そんな選手だった。オリックス時代は東京ドームの日本ハム戦を何度か見に行った。彼が一塁走者で右方向にヒットが出た時、二塁を蹴って三塁に向かう加速感が好きだった。

 

●DH:ラルフ・ブライアント(近鉄)

 野球とはなんと恐ろしいゲームか、と呆然とした試合がある。1989年10月12日の近鉄ー西武戦だ。激しく優勝を争っていた両チームの、シーズン最後の対戦となるダブルヘッダー。第1試合、大きくリードされていた近鉄は、ブライアントが郭泰源からソロ、そして満塁本塁打を放って同点に追いつき、さらに渡辺久信から勝ち越し本塁打を放って、6-5で勝利した。近鉄の6点はすべてブライアントの本塁打によるものだ。2試合目も敬遠の後、2-2の同点から4打数連続となる勝ち越し本塁打を放ち、近鉄は圧勝して優勝をほぼ手中に収めた。全盛期の西武ライオンズを、ブライアントが1人で粉砕したのだった。長いこと野球を見ているが、あんなのは他に記憶にない。

 それまでブライアントに本塁打を打たれたことがなかった渡辺久信が投じたのは、ブライアントが苦手なはずの高めストレート。失投ではなかった。BS1「古田敦也のプロ野球ベストゲーム」でこの打席を論じた際、当事者の捕手・伊東勤は「なんで打たれたかわからない」と言い、古田も「神がかってた」と言う。当代の名捕手2人にも分析不能、まさに奇跡のバッティングだった。

 

●2WAY:大谷翔平(日本ハム、エンゼルス)

 2018年にMLB入りした大谷が投打で実績を残したことで、MLBには「TWO-WAY」という登録枠が作られた。野球の長い歴史の中で、「初めて●●をした男」は何人もいるだろうけれど、「ポジションを増やした男」が他にいるだろうか(高井保弘を「パ・リーグにDHを作らせた男」と呼んでもいいかもしれないが)。

 ただ、私個人の願望としては、MLBで打者に専念したらどこまでやれるかを見てみたい。160キロの速球を投げる日本人投手は今後も出てくるだろうけれど(というか実際にいるけれど)、メジャーリーガーの球を左中間スタンドにぼんぼん放り込む左打者は、まず出てこないだろう。あのサイズであれだけ巧みにバットを操り、力みのないスイングで本塁打を量産する。MLBにもめったにいない才能だと思う。

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私的プロ野球ベストナイン(昭和篇)

 5月3日のNHK「サンデースポーツ」で、「あなたが選ぶ昭和&平成プロ野球ベストナイン」という企画をやっていた。COVID-19の影響でプロ野球が開幕できず、残念な思いをしているファンのための企画ということだろう(と同時に、競馬以外は試合がないので、伝える中身がなくて困っている番組自身のための企画でもある)。

 ネットで公募していたので参加した。この日の番組で発表された結果は次の通りだった。

 

 【昭和】

先発:金田正一

中継ぎ:鹿取義隆

抑え:江夏豊

捕手:野村克也

一塁:王貞治

二塁:高木守道

三塁:長嶋茂雄

遊撃:吉田義男

外野:福本豊

外野:山本浩二

外野:張本勲

DH:門田博光

 

 順当である。順当すぎて退屈でもある。

 もう昭和の野球を見て記憶しているのは50歳くらいから上に限られるだろうから、投票者の中には、記録や今の知名度を頼りに選んだ人も多いのではないか。そんな印象を受ける結果となった。

 数字で決めるなら人間が選ぶ必要もない。せっかくなので、自分なりにベストナインを選んでTwitterに書き散らしたものを、多少加筆して再録する。そんなわけで、リアルタイムに自分の目で見た印象で決めている(私が明瞭に記憶しているのは昭和51年=1976年ごろ以降)。何人かについては、通算記録よりも、全盛期の瞬間風速的なインパクトを優先した。

 

●先発投手:山田久志(阪急)

 昭和50年代前半、阪急の黄金時代に君臨したエース。なにしろアンダースローのフォームの美しさが卓越していた。昭和51、52年の日本シリーズでジャイアンツは連敗、特に52年は打てる気がしなかった。格のある投手でした。

●中継ぎ投手:永射保(クラウン・西武ほか)

 左のサイドスローで、クラウンから西武に生き残り、ワンポイントリリーフでレロン・リーらパの左の強打者たちを苦しめた。YouTubeで動画も見られるけど、最初はオーバースローっぽい動きが途中から切り替わる変則フォームで、タイミングが取りづらそう。

抑え投手:鈴木孝政(中日)

 江夏豊でもいいんだけど、江夏の全盛期は先発の頃だろう。昔のエースは先発の合間にリリーフもやっていた。江夏の場合は抑え専門になってからも、最後まで「先発投手が抑えをやってる」ような印象があった。鈴木孝政は高卒からリリーフエースとして売り出した純正の抑え投手なので彼を推したい(後に先発もやったけど)。とにかく球が早くて手がつけられなかった。

●捕手:中尾孝義(中日ほか)

 本当に良かったのは入団2年目、中日が優勝してMVPになった昭和57年だけだが、その瞬間風速的な印象が強烈。捕手といえば野村や森(や山田太郎)のようなずんぐり型だった時代に、細身の体格で機敏な動きが新鮮だった。肩も強かった。ツバのない捕手用のヘルメットを守備時に使い始めたのは彼だったと記憶している。後にジャイアンツに移籍して、89年の優勝時には主力捕手となった。

一塁手:王貞治(読売)

 なにしろ俺が生まれてから10歳まで、王が本塁打王でなかったことがない(1年おいて、また2年連続)。3割40本100打点が当たり前というのがどれほど異常なことか、気づいたのは王選手の引退後だった。

 若い頃は知らないが、晩年は無茶苦茶に打球が速かったわけでもなく、さほどのパワーは感じさせなかった。けれど、打球はフェンスを越えていったし、極端なシフトを敷かれても引っ張り続け、それでも3割を打ち続けたのだから、何がどうなっていたのか不思議。77年ごろのバッティングを何試合かじっくり見直してみたいところ。

二塁手:篠塚利夫(読売)

 イチローの登場以前は、バットコントロールの巧みな打者といえば彼だった。特に流し打ちは芸術的。守備のグラブ捌きも見事。小柄で華奢、身体能力より技術で活躍した華のある選手。たまに見せた、狙いすまして引っ張った本塁打も爽快だった。

●三塁手:落合博満(ロッテ、中日、読売、日本ハム)

 この手の企画では落合をどこに置くかが難題。サンデースポーツでも、あちこちに名前はあるがベストナインには入っていない。二塁、三塁、一塁でベストナインを獲得しているが、連続三冠王をとった昭和60-61年が三塁だったので、ここがキャリアハイでもある。守備範囲は広くなさそうだが、グラブさばきは上手だったと思う。ともかく打撃技術ではプロ野球史でも片手に入るだろう。右中間に棒のように伸びる打球が強烈。中日時代、パーフェクトを逃した直後の斎藤雅樹からサヨナラ本塁打を打って地獄に叩き落とした苛烈さが印象に残る(笑)。

●遊撃手:石毛宏典(西武ほか)

 昭和の遊撃手は守備の人のイメージが強く、打てる選手も小柄だった。1メートル80以上で守備が上手くて、よく打ち続けた遊撃手は、たぶん石毛が初めて。続いて池山や田中幸雄が現れて、遊撃手のイメージが変わった。常勝西武のリーダーでもある。

左翼手:蓑田浩二(阪急ほか)

 全てにバランスの取れた好選手。売り出し当初は福本の後を打つ二番打者だったが、後にはトリプルスリーを達成する強打者に。守備も巧く、送球が巧みで左翼、右翼ともにこなした。渋い男前でもあった。

中堅手:福本豊(阪急)

 鉄板。この手の企画で最初に満票で埋まる守備位置のはず(笑)。足だけでなく全てに優れ、小さい体で結構本塁打も打った。センターの守備位置は、びっくりするくらい浅かった。後ろの打球に追いつく脚力に自信があったのだろう(昭和の球場は狭かったし)。

●右翼手:秋山幸二(西武、ダイエー)

 西武時代はセンターだけど、ダイエーではライトも守ってたということで。身体能力に優れたアスリートタイプの野球選手は、秋山以前にはほとんどいなかったのでは。今でいう5ツールプレーヤー。ダイエーを初優勝に導いた静かなリーダーシップも見事だった。

●指名打者:門田博光(南海、オリックス、ダイエー)

 若い頃は強肩の右翼手だったらしいが、アキレス腱を切った後の指名打者の印象が強い。小さな体をムキムキに鍛えて30代になってから長打力を伸ばした。漏れ伝わる気難しそうなエピソードが、いかにも当時のパリーグっぽかった(笑)。

 以上。

 打順を組むとしたら、こんな感じか。

(中)福本

(左)蓑田

(一)王

(三)落合

(指)門田

(右)秋山

(二)篠塚

(捕)中尾

(遊)石毛

  3-5番で100本塁打、チーム全体で200本は楽勝。盗塁も福本、蓑田、秋山、石毛で150くらいになりそう。

 

追記

 抑え投手については、実は成績でいえば、佐藤道郎も相応しい。日大からドラフト1位で、野村克也が兼任監督になった南海に入団し、昭和45年に55試合に登板して18勝6敗で新人王と防御率1位。以後、76年までほぼリリーフ専門で382試合も投げている。1年あたり54.6試合だ。しかもほとんどの年で既定投球回数を超えている。セーブが正式記録に採用された74年には13セーブを挙げて初代セーブ王(76年にも)。

 野村とリリーフエースといえば、江夏豊を「野球界に革命を起こそう」と口説いて転向させた話が名高いけれど、「リリーフエース」という存在は既に当時の南海にいたわけだ(佐藤は江夏の加入により先発に転向)。私自身は残念ながら、昭和54年に横浜に移籍した後、力の落ちた晩年しか見ていないので、ここでは選ばないけれど、これほどの投手がほぼ忘れられているのも残念なので、あえて記しておく。

 

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宿沢広朗「TEST MATCH」講談社 1991<旧刊再訪>

「日本ラグビーは、宿澤のパスを継承する」
 
 奥田瑛二の渋いナレーションとともに始まるSMBC三井住友銀行のCMを、ラグビーW杯の試合会場の掲示板ビジョンで見た。
 宿沢、森、松尾、平尾、そして大畑、福岡。歴代の名選手たちがパスを出しては受け取り、ひたむきに前進を続ける。格別ラグビーファンというわけではなかった私でさえ、折々の時代に活躍を目にしてきたほどの名選手たちである。モノクロの映像に涙がこみあげてきた。
 もちろん、日本のラグビーの歴史が宿沢広朗から始まるわけではない。そこは、SMBC三井住友銀行が自社の行員であった宿沢を誇りたいという理由もあるのだろう。
 そして、ラグビーの側から見ても、宿沢は誇るに値する人物である。
 
 私は彼らの中で、宿沢だけは現役時代のプレーを見たことがない。実業団で長く活躍した他の選手たちと異なり、宿沢が第一線の選手だった時期は短い。
 宿沢は早大のSHとして活躍、1971,72年と連続して日本選手権で社会人チームを破って日本一になった。社会人の1位と学生の1位が1試合で雌雄を決するという、1960年度から96年度まで続いた日本選手権のシステムの中で、大学が連覇したのはこの時だけ。日本ラグビー史上に輝く黄金時代を築いた一員である。日本代表としてキャップ3。
 1973年に早大を卒業して住友銀行に入社。ラグビーは2年ほどで引退し、以後は銀行業務に専念していた。7年半のロンドン支店勤務から帰国した後、1989年春から2年8か月にわたって日本代表監督を務めた。
 監督としての初戦でスコットランドに勝利し、翌90年には第2回ワールドカップ のアジア予選を突破。91年に開かれた本大会ではジンバブエを52-8で破り、日本にワールドカップ初勝利をもたらした(そして、日本代表が次の勝利を挙げるまでには、24年の歳月を要することになる)。
 後には日本ラグビー協会の理事、強化委員長などを務め、銀行では取締役専務執行役員の要職にまで上ったが、2006年に55歳の若さで急逝した。
 
 前置きが長くなった。
 このCMを見て、そして、自国開催のワールドカップでの日本代表の活躍を見て、久しぶりに本書を読み返したくなった。
 「TEST MATCH」は、宿沢が自らの代表監督としての仕事を振り返って記録した本だ。ワールドカップでの3試合を終えたのが1991年10月。本書は早くもその年の12月20日に発行されている。
 内容は主に4部に分かれる。就任から初戦のスコットランド戦に向けた準備。ワールドカップ予選に向けた準備と予選の経過。英国時代に見た英国のラグビーや日本ラグビーへの提言などのエッセイ。そして、ワールドカップ本大会の日記。
 文章には無駄がなく、歯切れがよい。書くべきことを明確に書く。頭が良く、自分自身もそう自負している人の文章だなと感じる。
 
 日本が勝ったことのなかったIRB加盟国、今でいうティア1の一員であるスコットランドを倒すために、宿沢は戦略を練る。対戦相手の情報をどう集め、どう分析するのか。その結果を選手にどう伝えるのか。国際試合で勝つために、どういう選手を集め、どう指導するのか。 明確な基準を持って選手を集め、目的を明らかにしながら練習を積む。スコットランドの戦力を分析し、弱点を探し、そこを突くためにまた練習を積む。相手国を知るために、西サモアやトンガに遠征を行い、自らジンバブエに乗り込んでいく。
 刊行直後に本書を読み、ひとつの試合、ひとつの大会のために、これほど周到に準備をするのかと、いたく感動したのを覚えている。
 
 久しぶりに読んでみると、その点に強く感動することは、今はない。現代の、世界のトップレベルに近い水準の競技のどれかに通じている人が今はじめて本書を読んだとしても、「そりゃ、このくらいの準備はするでしょ」と、宿沢の準備そのものに驚くことはないだろう。
 2019年のスポーツ界では、情報収集とその分析手法も、戦略も、コーチングもそれぞれに発達を遂げ、競技の現場にいないファンにまでよく知られるようになっている。それがこの28年間の変化だ。
 
 逆に言えば、30年前、ラグビーではまだワールドカップが1度しか開かれておらず、日本代表がティア1と試合することなどほとんどなく、インターネットも海外スポーツ専門チャンネルもなく、海外の情報を入手するには人脈を頼るほかはなかった時代に、自らの考えで現代に近い水準の準備を行ない、それまでにない結果を導いた宿沢は、やはり偉大というほかはない。
 本書に記された具体的な戦術が現代のラグビーにおいてどういう位置になるかは私には判らないけれども、代表選手の選考や指導に関する考え方の多くは、今でも有効なのではないかと思う。
 
 宿沢はエピローグにこう書いている。
<念頭に置いたのは、次代のジャパンを目指す若いプレーヤー達に私達はこう考え、こう戦ったということを知ってほしいということだった。そして彼らが将来ジャパンの伝統の幹を少しでも太くしてくれることを期待しながら書きしるした。>
<この本はサクセスストーリーではなく、ラグビーのテストマッチを戦う人間達の記録であり、それは書き残すに値するものだと思っている。>
 
 その通り、今も読むに値する本である。
 ひとつだけ瑕疵を挙げるなら、勝利したスコットランド戦の、試合そのものに関する記録や分析がないのが残念。

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«別れを告げに来た男。