とりあえずCSこのままでもいいんじゃね、という話。

 日本シリーズが面白くなっている。
 戦力差は圧倒的とみられた組み合わせ。初戦は下馬評通りにホークスが圧勝し、そのまま3連勝で大手をかけたものの、試合内容ではベイスターズも着実に押し返していた。そして第4戦で濱口が7回までノーヒットノーランという圧巻のピッチングで初勝利を挙げ、続く第5戦も打ち合いに競り勝って連勝。結果はどうあれ、なかなかいい戦いを見せている。

 ソフトバンクとDeNAという組み合わせが決まった時には、DeNAが日本シリーズに出ることの正統性を疑う声が世の中に満ちていた。シーズンの結果は1位の広島から14.5ゲーム差の3位。「長いシーズンはなんだったのか」という嘆きが、カープファンに限らず、いろんなところから聞こえてきた。
 パのCSファイナルも、ホークスと、15.5ゲーム差で3位の楽天の対戦となったため、これで3位どうしの日本シリーズになったらどうするんだ、という懸念を多くの野球ファンが抱いたことだろう。結果的には、パの代表はシーズンを圧勝したホークスとなったので、日本シリーズもまあ格好がついた次第。
 
 クライマックスシリーズという制度には、常にこういうリスクがある。度々起こるようではシーズンと日本シリーズの重みがまとめて薄れてしまう。かといって、常にシーズン1位チームが勝つようでは、あまり面白くない(というのが見物人の勝手な感情でもある)。
 実際のところ、CSが始まった2007年から今年まで11回のファイナル勝者のシーズン成績を振り返ると、このようになる。

セ 1位8回、2位2回、3位1回
パ 1位10回、2位0回、3位1回

 トータルでは22チームのうち1位18チーム、2位2チーム、3位2チーム。圧倒的に1位チームが日本シリーズに進んでいる。そして、2007年の中日(シーズン2位)と2010年のロッテ(シーズン3位)は、日本シリーズを制して日本一となった。
 3位チームが日本一となれば「なんだかなあ」という印象を持つ人は多くなりそうなものだが、当時レギュラー捕手だった里崎が「史上最大の下克上」というキャッチコピーを編み出したことで、ロッテが勝ち上がっていくことがむしろ快挙であるかのように受け止められ(いや、快挙といえば快挙なんだけど)、日本一になったことを「3位のくせに」と非難する風潮は目立ったなかったと記憶している。
(3位と言ってもこの年のロッテは首位から2.5ゲーム差という僅差だった。また、敗れた中日は2007年にシーズン2位から日本一になったのだから、制度に文句を言う筋合いでもない)

 話を戻す。
 これまでのCSでは、計22のシーズン1位チームのうち、18チームはCSを勝ち抜いた。81.8%の勝率である。これを人々がどう評価するか、ということになるが、まあちょうどいいレベルなのではないか、と私は思う。野球における「勝率81.8%」は、シーズン勝率としても、特定チーム同士の対戦成績としても、まずありえない圧倒的な数字なのだから、結果としてはシーズン1位チームに優位な制度となっていると考えてもよさそうだ。
 
 そんなはずはない、もっとシーズン1位チームが負けているはずだ、という印象を持つ人もいるかもしれない。私も集計してから「あれ?」と思った。これは理由がある。
 両リーグが足並みを揃えてCSを始めた2007年に先立って、パ・リーグは2004年から3年間、独自のプレーオフを実施した。そして、04年、05年と続けて、シーズン1位だったホークスが敗れた。この結果を受けて、06年にはシーズン1位チームに1勝のアドバンテージが与えられたが、この年のホークスは3位で、アドバンテージがむしろ不利に働いたという皮肉な現象も起こった。
 ホークスにとっては踏んだり蹴ったりの理不尽なポストシーズンだったのだが、敗れた王監督はぐっと堪えて、制度批判をしなかった(唯一、1位チームが待たされる期間が長すぎることには苦言を呈していたが)。賛否ありつつも、セも採用して現行のCS制度が始まり、存続しているのは、この王監督の苛烈な自制心のおかげだと私は思っている。彼ほど影響力のある人物が本気で怒って文句を言ったら、制度自体が持たなかったのではないか。
 そして、これらの試合そのものの白熱ぶり、面白さもまた、制度の定着に一役買ったに違いない。当時、このブログにえらく熱い観戦記(テレビですが)を書いたのを覚えている。
 
 現在のCS制度のデメリットとして指摘されるのは「レギュラーシーズンの重みが薄れる」「レギュラーシーズン勝者にとって不公平である」という点にほぼ尽きている。
 一方、メリットとしては「CS自体が注目され、客が入り、テレビでも放映される」「シーズン終盤の消化試合がなくなり、真剣勝負の試合が増える」という2点が大きい。商業的にも品質的にも価値の高い試合が増える、ということだ。
 もう10年以上前のことだから皆忘れているかもしれないが、ポストシーズンが日本シリーズしかない時期、優勝が決定した後のリーグ戦の内容は酷いものが多かった。どのチームも目標を見失い、勝敗度外しで若手を起用したり、露骨な個人タイトル狙いの選手起用があったりした。優勝を狙えそうにない戦力の球団にとってはペナントレース全部が消化試合のようなものだったかもしれない。
 が、客観的に見て優勝は無理だろうというチームにとっても、3位であれば現実的な目標になりうる。優勝が決まって以後も、2位と3位を争うチームが2〜4チームはあるわけで、そうなると、いわゆる消化試合はほとんどなくなり、勝ちにこだわる戦いが増える。その点は導入時の狙いが実現されていると思う。
 CSそのものの面白さは説明するまでもないだろうし、レギュラーシーズンの試合のテレビ放送が激減した現在の状況では、CSが一部とはいえ民放地上波で放送され、熱心なプロ野球ファンではない人々の目に触れる機会となっている現状は、プロ野球にとって貴重なものとなっている。
 
 というわけで、メリットとデメリットを天秤にかけてどう評価するかはそれぞれお考えもあるだろうが、私は現行のCS制度は悪くないと思っている。
 理想論を言えば両リーグ2チームづつ増やして東西2地区に分け、それぞれの1位チームがプレーオフを戦って、勝った者どうしが日本シリーズを戦うのが公平だし、そうなれば良いと思っている。が、もしそれが実現したら、我々は、その理不尽さのないポストシーズンに、少なくとも当初はちょっとした物足りなさを味わうかのもしれない。

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「いてまえJAPAN」は、いてまえるのか。

 最後に拙い試合をしてしまったものだ。
 第4回WBCで日本代表はイスラエルを8-3で破り、1次ラウンドに続いて2次ラウンドも3戦全勝、1位で準決勝進出を決めた。
 WBC日本代表には公にアナウンスされたノルマはないけれど、もし設定するとすれば準決勝進出だと思っていたので、それが果たされたという結果については、めでたい限りである。小久保監督も選手たちも、最低限の義務は果たしたと言ってよいだろう。日本ではこのくらい当たり前だと思っている人が多いだろうけれど、ベスト4に残り続けることは容易ではなく、4大会連続でベスト4に進出した国は日本だけ(そもそも3大会連続が日本だけ)。世界の強豪としての一定の地位はすでに保たれた。
 
 とはいうものの、本当の勝負はここからだ。
 日本での6試合すべてをスタンドから見物した実感としていえば、今大会の日本代表は、過去3大会とはかなり異質だ。日本ラウンドのありよう自体が異質だったとも言える。
 5試合目のキューバ戦に競り勝った後で、ツイッターに<この代表は「いてまえジャパン」だな>と書いた。日本ラウンド(1次、2次を総称してそう呼ばせてもらう)全体を振り返っても、このフレーズはこのチームの特徴を言い表しているように思う。
 
 「いてまえ打線」というのは往年の近鉄バファローズにつけられた愛称だ。長距離砲を並べた強力打線で、不安定な投手力を補い、打ち勝つチーム。2001年、最後に優勝した年のチーム打率は.280で、チーム防御率は4.98。1試合当たりの平均得点が5.50で平均失点が5.32と書けば、どんなチームか想像がつくことだろう。
 今の日本代表の投手力は、そこまで悪くはない。けれども、優勝した2回が、強力な投手陣を前提に、少ないチャンスを生かして得点し、それを守り抜くスタイルが基本だったのに対し、今大会のチームは、少々の失点は打力でカバーする、取られたら取り返すスタイルで準決勝までたどり着いた。
 たぶん、小久保監督がそういう野球を目指したわけではないだろう。MLBの日本人投手が全員不参加、さらに絶対的エースだったはずの大谷も欠場という台所事情から、結果的にそうなっているのだと思う。
 エースと目された菅野も初登板のオーストラリア戦では実力を発揮したが、2試合目のキューバ戦では打たれ、次の試合に不安を残している。
 
 一方、打線には柱がある。筒香ほど強力な4番打者を、これまでの日本代表で見たことがない。第一回の松中は長打を捨ててフォアザチームに徹して結果を残した。第二回の城島*、第三回の阿部は、打者としては筒香に見劣りしない実力を備えていたものの、ともに正捕手を兼ねていたためか、国内リーグで見るほどの打棒を発揮することはなかった。筒香は昨年のNPBで見せたそのまま、あるいはそれ以上の活躍を見せている。爆発的な本塁打と、チャンスで内野の間を抜く打撃を兼ね備えている。打席に入る前に一度、ぶるんと大きく素振りをする姿を見ると、ありがたくて涙が出てきそうだ。これほどの「ありがたいオーラ」を感じさせる打者は、私にとっては松井秀喜以来である(というより松井と筒香しかいない)。
 周囲を固める中田、山田、坂本らも、ここぞという場面で代わる代わるよい仕事をしている。ここに大谷と柳田がいたら、どんな凄い打線になったかと思うが、現状でも大したものではある。
 
 ただし、では日本代表の優勝が有力なのかといえば、私はかなりの懸念を抱いている。渡米後はこれまでにようにはいかないのではないか。極論すれば、本番はこれからではないか、というくらいに。
 結果から言えば、日本代表がこれまで対戦したチームは、それぞれに強みはあるものの、いささかバランスの悪い戦力だった。とりわけ投手陣は、大会の中でも上位に位置するような国がいなかったのではないかと思っている。

ここまでの日本代表の試合のスコアは以下の通りだ。

●1次ラウンド
日本11-6キューバ
日本4-1オーストラリア
日本7-1中国

●2次ラウンド
日本8-6オランダ(6-6からタイブレーク)
日本8-5キューバ
日本8-3イスラエル

 トータル46得点、1試合平均は7.7点。強力打線といってよい。
 ただし、4回終了時のスコアを並べてみると、少々印象が変わる。

●1次ラウンド
日本2-1キューバ
日本1-0オーストラリア
日本5-1中国

●2次ラウンド
日本5-5オランダ
日本2-4キューバ
日本0-0イスラエル

 よく打っているのは中国戦と2次ラウンドのオランダ戦だけで、さほど点数が入っていない。大量得点の多くは中盤以降に入っていることがわかる。
 終盤に得点しているのは勝負強さの表れでもあり、それはそれで結構なことだ。ただ、WBC特有の条件として、球数制限というものがある。1次ラウンドでは65球、2次ラウンドでは80球だった。先発投手が投げられるのは通常4〜5回となる。
 従って、4回までの得点が少ないのは、あまり先発投手を打てていないことを意味する。大量得点は主に二番手以降に登場した投手を打ち込んだ結果だ。これまで対戦した国の投手の経歴をつまびらかに把握してはいないのだが、スタンドから見た限りでは、さほどレベルの高い救援陣を持ったチームはいなかったように思う。いつも好投手を擁する韓国や台湾が勝ち上がってくれば、日本の打線はもっと苦しんだかもしれない(もっとも、両国が1次ラウンドで敗退したということは、今回の投手陣は大したことがなかったのかもしれないが)。

 準決勝で対戦するUSAの投手力は、今までより確実に向上する。
 第一に、先発投手の球数制限が大幅に緩和される。準決勝以降は95球。先発投手の調子が良ければ7回くらいまで投げられる数だ(最近の先発投手は完投しないのが普通だが、昔は100球以内の完投勝利もしばしばあった)。強力な先発投手には球数を投げさせて4回くらいでお引き取り願うことが可能だったこれまでとは枠組みが異なる。
 第二に、ブルペンが充実している。MLBで活躍するセットアッパー、クローザーが何人もいる。投手が交代してもレベルは落ちない。むしろ上がることもある。試合後半で今までのように撃ちまくるのは難しくなる。
 MLBの第一線で活躍する投手陣を、果たして日本代表の打線は打てるのか。MLBでの実績を物差しにすれば、USAの打線はオランダやキューバを上回るであろうから、ある程度の失点は覚悟せざるを得ない。
 となれば決勝進出の可否は、日本の打線がUSAの投手陣を打てるか、という一点にかかっていると思う。

 ここまでの「いてまえJAPAN」は、勢いに乗って大量点を奪う迫力はある反面、1点が欲しい時に着実に1点をもぎ取る力量は物足りない。そういう局面で思い切り引っ張って凡退する選手は少なくなく、残塁が多い、という印象がある。
 選手たちには、局面によっては、走者を進めるバッティングに切り替えることを望みたい。これまでそういうバッティングに徹していたのは小林だけだが、小林を見習えとも言いづらい。見習うべきは青木である。トータルの数字はあまり良くないけれど、彼は局面によっては、右方向にゴロを打って走者を進めるという意図がはっきりとうかがえる打撃をしている。さすがMLBで生き延びてきた打者だと思う。
 
 小久保監督については、6連勝という結果は評価したい。選手たちのコンディションやチームのまとまりを見れば、試合が始まる前までに、良い仕事をしていることはうかがえる。
 反面、試合での采配については懸念が残る。とりわけイスラエル戦。2次ラウンドの最終戦、「勝利ないし4点差以内での敗北」で準決勝進出が決まるという条件の試合だ。力量では劣るが勢いのある相手に対して確実に勝利するためには、とにかく早めに先制点を奪って「日本には勝てない」と思わせることが有効ではないかと私は思っていた。
 日本は1回から3イニング連続で、先頭打者がヒットで出塁した。しかし二番目の打者は、ただバットを振り回して凡退し、走者を進めることができなかった。結果的に3イニングとも無得点。3回表、死球で出塁した先頭打者をバントで送り、右への内野ゴロで二死三塁の状況を作ったイスラエルの方が(得点には至らなかったけれど)、よほど日本野球っぽい攻撃だった。この膠着状態から先制でもされたら、かなりまずいことになりそうだと懸念しながら見ていたのだが、幸いにも千賀がイスラエル打線をねじ伏せ、6回裏に筒香の凄まじい本塁打で先制し、そこから5点を奪った。筒香の打球は、まさに「日本にはかなわない」と思わせるに十分なものだったように思う。
 
 そうやって8-0までリードを広げたのだが、驚いたのは9回表。登板したのは牧田だった。端的に言えば「大魔神佐々木を8−0の9回に投げさせますか権藤さん」ということだ。牧田はオランダ戦、キューバ戦と、2試合続けて本当に厳しい状況を乗り切ってきた。その2チームより明らかに劣る打線に、8−0という大差の中で、集中して投げろというのは酷な話ではないか。むしろ、例の押し出し寸前でかろうじて抑えてから投げていない岡田とか、登板時にあまり良くなかった藤浪や則本が自信を取り戻す機会にでもすれば良いのでは、と。
 結果として牧田はコントロールに苦しんで3点を失い、大勝のはずの試合は、かろうじて逃げ切ったような気分で終わることになった。
 
 拙い采配だとは思うけれど、それを理由に小久保監督を強く批判するつもりはない。彼としては精一杯やっている(試合後の球場でのインタビューはいつも声が上ずっていた)。根本的には、指導経験のない人物をいきなり代表監督に据える方がどうかしているのであり、それも意中の人(人々?)に断られた末のことだ。故障辞退者はもとより、MLB所属投手が参加できないのも、監督に初心者を据えることしかできないのも、すべてひっくるめて日本野球の総力だ。本番が始まってからは、今あるこのチームが日本代表なのだと割り切って私は応援してきたし、試合を経るごとに、応援するに足るだけのチームに成長してきたとも思う。
 
 渡米後の練習試合は2連敗、芳しくない結果に終わった。試合自体を見てはいないのだが、時差ぼけ解消のための調整試合を過剰に気にしても仕方ない。選手たちは準決勝に焦点を当てていると思う。
 相手はUSA。360度から応援されてきた東京ドームからアウェーに移り、あらゆる面で真価を問われる試合となる。良いプレーを期待したい。願わくば筒香や中田や山田の目の覚める一発を。そして今大会ではまだほとんど見ていない日本式スモール・ベースボールを。豪打者たちを翻弄する牧田の締めくくりを(きりがない)。




*ここは、やや勘違い。城島が4番を務めた大会は2004年のアテネ五輪だった。第2回WBCで城島が4番を打ったのは決勝を含む2試合だけで、大会全体では主に村田、稲葉が交代で務めた。第2ラウンドで負傷離脱した村田は、出場した試合ではよく打ったが、不動の4番打者という地位を確立していたわけではない。城島は大会全体では.333の打率を残したが、4番打者としては1安打のみ。特に決勝では無安打でチャンスを潰しまくり、苦戦の原因となった。

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タイブレークの後で。

 東京ドームで24時を迎えたのは初めてだった。満員だった観客のうち、控え目に見積もっても半数以上は最後まで残っていたと思う。延長11回、オランダとのタイブレークを制して8-6の勝利は、どこまでも付き合おうと腹を括った観客へのご褒美でもあった。
 
 WBCを球場でしっかり見るのは2009年の第2回大会以来になる(第3回は海外出張と重なって、ほとんど見られなかった)。
 違いを感じたのはスタンドだった。第2回大会では、イチローが打席に立つたびに観客の多くが彼の写真を撮るため無数のストロボが発光し、スタンド全体がスパンコールになったかのようにキラキラと光っていた。当時はおそらくデジタルコンパクトカメラをオートで使っていた人が多かったのだろう。今は皆スマホで撮影するので光ることはない。そして試合中でもLINEやら何やらにしきりに写真をアップしている人も目につく。それが8年という歳月である。
 
 同じ8年の間に、日本代表には「侍ジャパン」という異名が(NPB自身に寄って)つけられ、マーケティング的には進歩している。チームが同様に進歩しているかといえば、そうとも言いづらいものがある。
 大会における日本のプレゼンスは向上せず、監督人事は混迷し、MLB所属選手の招集は相変わらず困難だ。
 ただし、選手にとっての日本代表のステイタスは向上している。今の選手たちの多くは、小中高生の頃に王ジャパンや原ジャパンが世界一を勝ち取るのを見て育ったのだから、自分もそこで戦いたいと思うのは自然なことだろう。現在では、初期に見られたようなNPB選手の招集に伴う困難は、あまり表面化することがない。コンディションに問題があって不参加の大谷、嶋、柳田らを別にすれば、「なぜこの選手を呼ばない」「なぜこんな奴が呼ばれるのか」という類の雑音は、過去の大会ほど大きく聞こえてはこない。MLB所属選手を除けば、現時点で小久保監督が考えるベストメンバーは、概ね実現しているのではないかと思う。
 
 私が今大会の一次ラウンドのバカ高い通しチケットを買ったのは主に大谷を見ることが目的だったので、彼が出場を辞退した時点で目算は外れている。とはいえ、かつてゼロ年代には、野球日本代表マニアのようにWBCの国内試合と五輪予選を追いかけていた行きがかりもあり、まあやっぱり見ておこうかと、この一週間、仕事であるかのように勤勉に東京ドームに通っている。
 
 3/7のキューバ戦は、勝ったことがすべてだった。翌朝のテレビのスポーツニュースの多くは、日本の得点シーンをつなぎ合わせて「打線爆発、宿敵キューバに快勝」というトーンで伝えていたが、それは試合を最初から最後まで見た印象とはかけ離れていた。
 確かに打線は良かった。筒香を中心に、ここで点が欲しい、と切実に思う場面で点が取れたことは好材料だ。筒香が打席に立つ直前に強烈な素振りをする姿は、拝みたくなるほどありがたいものに見えた。
 反面、投手陣は、一時は7-1と大差をつけたにも関わらず、リリーフ投手がことごとく打たれ、打線が引き離しても、すぐにキューバの追撃を許してしまった。
 キューバ代表は、ジャイアンツでまるでダメだったセペダが三番を打っていることに象徴されるように(チャンスをことごとく潰してくれた彼の存在は実にありがたかった)、脂の乗り切った世代がMLBに行ってしまい、往年の強さはない。とはいうものの下位打線も皆スイングは鋭く、打球は速い。火がつけばたちまち3、4点のビッグイニングになって追いつかれるんじゃなかろうかという恐怖は最後まで私の中から去ることがなく、「快勝」「圧勝」などという印象は全くない。大量点を奪ったとはいえ打ったのは主に二番手以降の投手である。「ブルペンがアレではお先真っ暗」てなことを、その夜のツイッターには書いた。
 
 翌日のオーストラリア戦は、一転して投手力の勝利となった。先発の菅野が良いペースを作り、続く投手たちもそれを引き継いだ。引き締まった投手リレーは、どうにかこの先も勝ち進めるんじゃないかという期待を抱かせるものだった。クローザーとして登板した牧田が、前夜とは別人のように落ち着いた投球を見せたのも嬉しい出来事だった。

 1日置いた3/10の中国戦は、すでに一次ラウンドB組の首位通過が確定した状況で迎えたため、モチベーションの置き所は難しかったかもしれない。小久保監督は、中盤に勝利が見えてきたところで、まだ出場していなかった選手たちの慣らし運転にこの試合を充てることにしたようだ。それはそれで意義のあることだったが、敵失がらみと本塁打でしか得点できないのはやや気になった。
 
 一次ラウンドの3試合で、最も印象に残った選手は捕手の小林誠司だ。代表チームの全貌があきらかになった時、彼は嶋、大野に次ぐ3番手捕手で、おそらく出番はほとんどないのだろうと私は想定していたし、大方の見方も似たようなものだったはずだ。だから、初戦のキューバ戦で小林が先発した時は驚いた。
 日本代表の強力打線の中にいる小林はまるで場違いに見えたし、最初の打席でバントを失敗したことで、その印象はさらに強まった。次の打席で小久保監督が再びバントを命じ、これを成功させた時、スタンドの空気はまるで、初めて二足歩行を試みる幼児を見守る親戚一同のようだった。捕手としての振る舞いも、いささか浮き足立っていたような印象はある。客席からは細かな投手リードの内容は分からないけれども、救援投手たちが次々に打たれたことに小林が無関係であったとは思えない。

 しかし、翌日のオーストラリア戦で、小林の振る舞いは随分と落ち着き、自らの投手陣と、試合の状況を掌握しつつあるように感じられた。先発投手が、ジャイアンツでも組んでいる同学年の菅野だったことも幸いしたのだろう。リリーフした岡田や千賀は年下ということもあり、小林が主導権を持ってリードしているように見えた。
 5回途中、菅野が残した1、2塁の走者を背負ってリリーフした岡田が、ストライクが入らずに満塁となり、さらにボールを重ねたところで、小林はタイムを取ってマウンドに歩み、岡田に何やら話しかけた。直後のボールを相手打者が引っ掛けてダブルプレー、日本は窮地を逃れる。この場面は、小林の、というよりも、この試合の白眉だった。
 期待できないと思われていた打撃でも、ここまで好成績を残している。中国戦では強烈な本塁打を放ったものの、次のオランダ戦では勘違いすることなくコンパクトなセンター返しを心がけて2安打。一度は勝ち越した6点目を挙げたタイムリーヒットは見事だった。捕球も安定し、この試合の終盤では、たびたび投じられたワンバウンドの投球を、後ろに逸らすことはなかった。テヘダ主審の判定は、とりわけ外角が不安定であるように見え、捕手にとってはやりにくい状況だったのではないかと思うが、小林は不満を表現することなく冷静に対処した(相手はラテン系だ、抗議なぞしようものなら報復される恐れは十分にある)。
 この4試合を通じて、小林は傍目にもわかるほど成長している。初戦で2度成功させたバントにも自信をつけたことだろう。
 もちろん代表チームやWBCは育成の場ではない。とはいえ捕手に関しては誰を出しても物足りないのだ。小林がこのまま、第1回大会における里崎のように化けてくれれば、日本代表にとっては喜ばしいことになる。
 大野は中国戦の後半に出場し、大過なく試合を終えた。嶋の故障離脱に伴って緊急招集された炭谷にはまだ出番がない。試合中のグラウンドに姿を見せるのは、イニングの切り替え時、小林に代わって投球練習を受ける時くらい。NPBでも国際試合でも3人の中で圧倒的に豊富な経験を持つ炭谷が不満を表現することなく小林のサポートに徹しているようなら、このチームはもっと強くなる。
 
 そして2次ラウンド初戦のオランダ戦。所用で到着の遅れた私が水道橋駅に着いた時、携帯で見た速報は3回表に中田の本塁打と秋山のタイムリーで5-1とリードしたことを伝えてきた。しかし、席に着いた途端にボガーツが犠牲フライ、そしてバレンティンがレフトのポールにぶつける強烈な本塁打を放って、リードは消滅した。
 以後は両チームとも走者は出してもなかなか得点に至らないヒリヒリした展開が続く。
 オランダの上位打線は強力、というより強烈だった。シモンズ、ボガーツ、グレグリウス、スコープと一線級のメジャーリーガーが並び、その中で4番に座るバレンティンの恐ろしさは日本人の我々が熟知している。リリーフ投手陣がしばしばピンチに陥ったのも無理はないところで、むしろ走者を背負っても粘り強く立ち向かい、4回から8回を無失点で切り抜けたことを評価したい。結果として四球を出すことはあっても、それはキューバ戦のように萎縮したがゆえではなく、打者に立ち向かう気持ちは揺らいでいないように見えた。
 
 日本は5回表に小林のタイムリーで勝ち越し点をもぎ取ったが、その後は走者を出すもののホームに戻れない。9回裏、則本がスクープに同点打を許したが、責めを負うべきは則本よりも、追加点を奪えなかった打線の方だろう(則本がグラウンドに現れた時に「クローザーは牧田じゃなかったのかよ」と思ったのも事実だが)。中前に抜ける当たりに、菊池が超人的な反応でグラブに当てながら弾かれてしまった場面には、第1回大会のUSA戦で西岡が二遊間への打球を取れずにサヨナラ負けした場面が重なって見えたけれども、この夜はまだ負けたわけではない。

 10回表に満塁のチャンスを逃し、その裏を牧田が危なげなく3人で片づけて、試合はタイブレークとなった。無死一、二塁からのスタート。
 タイブレークを現場で見るのは初めてのことで、どんな奇妙な代物なのだろうかと思っていたが、打順は前のイニングの続きであり、初球が投じられてしまえば、あとは普通に試合が続いていく。状況は確かにピンチではあるが、投手にとっては、2人の走者は自分が出したわけでもなく、誰かが打たれたわけでもない。いわば「誰も悪くないピンチ」なので、投手は案外冷静に事態に対処することができるんじゃなかろうか、と牧田の投球を見ながら感じた。
 
 話を戻す。
 タイブレークで、日本は先頭の鈴木誠也がきっちりと送りバントを決めて走者を二、三塁に進めた。続く中田がレフト線に安打し、2人が生還した。日本代表らしい、つなぐ攻撃だった(左翼手が無駄な本塁送球をする間に中田は二塁に走れたのでは、とは思ったが)。
 一方のオランダは先頭打者プロファーがフルスイングで内野フライ。
 プロファーは前の打席で見逃し三振。外角低めの判定が気に入らず、主審に詰め寄ろうとしてボガーツにたしなめられていた。それだけに「俺が決めてやる」という意欲が強すぎたのだろう。そのボガーツも三塁ゴロに倒れる。そして、鈴木と同様、途中出場で4番に入っていたサムズが打ち上げたファウルフライが小林のミットに収まり、日本は苦しい試合を乗り切った。
 明暗を分けたのは、このタイブレークの先頭打者の振る舞い、あるいは作戦であったように思う。
 しびれる試合を乗り越えた今では、一週間前とは比較にならないほど、私はこのチームに愛着を抱いている。
 
 
 最後に、最も印象に残った事象について記しておく。
 オランダ戦では、日本の投手が窮地に陥ると、スタンドの全方向から拍手が湧いた。例えばボールが先行し、カウントが2-0となったりした時に、その瞬間ではなく一拍おいて、投手が捕手からの返球を受け取る頃に拍手が湧き起こり、投球動作に入る頃に静まる。
 つまりその拍手は、投手を励ますためのものだ。
 
 日本の攻撃の際には、ライトスタンドを中心に、打者ごとのチャントが歌われる。今は日本にいない青木の打席でも、ヤクルト時代の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の替え歌が歌われている。日頃はNPB各球団で応援している人たちが用意しているのだろう。
 ただ、NPBの試合での習慣として、応援団は贔屓チームの攻撃時にしか応援しない。そして、今回の相手国は遠方の国が多く、まとまった応援がないため(そもそもそんな習慣もないのか)、相手の攻撃の際には場内は静かなことが多い(韓国や台湾が2次ラウンドに進んでいたら、大挙して応援団もやってきたののだろうけれど)。
 我らが投手たちにとって、慣れない静寂の中で強力打線に立ち向かわなくてはいけないという状況は、より緊張を増す要因になっていたかも知れない。なのに、我々は窮地に立った味方投手を応援する手段を持っていなかった。
 2試合目のオーストラリア戦で、菅野の後を継いだ岡田が全くストライクが入らずマウンドで立ち往生していた時にも、拍手が湧き起こった。ただ、その時には「こんな時に拍手したら、まるでストライクが入らないのを喜んでるみたいだけど、いいんだろうか。岡田は僕らの本心を分かってくれるだろうか」という懸念を抱きつつ、観客はそれでも見るに見かねて、おそるおそる手を叩いていたように感じた。

 しかしながら、そんな状況が4試合も続けば、我が投手を応援したいという気持ちは、徐々に形になってくる。オランダ戦の終わり頃には、そういう拍手が日本の投手たちに対する激励の表現だということがスタンドではすっかり暗黙の了解になっていて、おそらくは選手たちにも理解されていた。その激励が効いてかどうか、彼らは多くの危機を乗り切った。監督や選手が口々に「チームがひとつになった」と語るのと同様、スタンドもまた、試合を重ねるごとに、ひとつになっている。

 こういう情景はNPB球団同士の試合では起こらない。国際試合でしか見られない現象である。
 このような、この場でしか起こらない何かを見たいから、私はWBCのスタンドに通い続けているのかも知れないな。東京ドームからの帰り道、そんなことも考えた。

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「チェアマン続投」に思うこと。

 Jリーグの村井満チェアマンの再任が内定したという。
 それ自体の是非は今は問わない。ここで書きたいのは別のことだ。

 私はこのニュースを朝日新聞の紙面で知った。次の記事だ。

Jチェアマン 村井氏続投へ サッカー

 Jリーグは2日、役員候補者選考委員会を開き、3月に任期が切れる村井満チェアマン(56)の続投を決めた。3日にある臨時理事会をへて内定、3月の総会と新理事会で正式に再任が決まり、2期目(1期2年)に入る。(以下略)>
 
 気になったのは、見出しにもある<続投>という表現だ。
 あまりにも日本語に浸透しすぎて今さら意識することもない人が多いと思うが、これはもともとは野球から来た言葉である。例えばYahoo辞書でこの言葉をひくと、大辞林第三版の、こういう解説などが見つかるはずだ。
<①野球で,投手が交代せずに引き続いて投球すること。
②転じて,任期を終わろうとしている者が,辞任せず引き続き任にあたること。 「今度の事件で首相のーーの目はなくなった」>
 
 一般的な日本語では「再任」とか「留任」という言葉で表現される事態を表すわけだが、野球で「続投」という言葉が使われる典型的なケースは、投手が走者を出してピンチを招き、ベンチから投手コーチがマウンドに行って何やら話し合いが行われたけれど、交代せずに投げ続ける、というような状況である。単に次のイニングも引き続き投げるというだけでなく、交代も考えられるけどやっぱり続けることにした、というニュアンスが付与されているので、比喩として用いるにはなかなか味わい深い。
 
 だから、政治家や企業人など別の世界の人事に対して比喩として用いられることには何の違和感も持たないのだが、サッカーとなるとスポーツどうし。わざわざ別の競技から引っ張ってこなくてもいいんじゃないかな、という印象がある。だいぶ前にも誰かとそんな議論になり、じゃあ「続蹴」がいいのか、などという話も出たが、そんなサッカー用語はない。わざわざ意味のよくわからない造語を使うのも妙な話で、なんとなく結論が出ないままに終わった。
(球技ライターの党首こと大島和人さんは「契約続行」の略語として「契続」を使おうと提唱している。「ケイゾク」とカタカナにすると何か禍々しい未来が待っていそうでもあるが)。

 記事が掲載された日の夕方、朝日新聞のサッカーを専門とするベテラン記者がツイッターでこの記事を紹介していたので、つい<サッカーの記事で「続投」はやめませんか?>などと@ツイートをしてしまった。返事はなかったもののリツイートされたので、それに対するコメントが彼のタイムラインにいくつか見られた。
  <(サッカーファンは細かいなー)>という書き込みもあった。これを書いた人は21歳だそうなので、まあ知らなくても無理はない。彼が生まれる前のことだから。
 
 チェアマン、という言葉で英和辞典を引けば、議長、座長、司会者、委員長、会長、頭取といった訳語が並ぶ。だから、肩書きを英訳すればチェアマンと呼ばれることになる日本人は少なくないはずだ。
 だが、日本国内でカタカナの「チェアマン」という肩書きを名乗り、ほぼ全国に知られた人物は、川淵三郎の前にはいなかった。Jリーグの初代チェアマンである。
 この耳慣れない呼称を、川淵はあえて選んだ。それだけではない。Jリーグは、さまざまな耳慣れない言葉とともにスタートした。スタンドを埋める人々は「ファン」ではなく「サポーター」。クラブの本拠地は「フランチャイズ」ではなく「ホームタウン」。そして、「会長」や「コミッショナー」ではなく「チェアマン」。
 競技スペースを「ピッチ」と呼ぶのはもともとのサッカー用語だが、上記の3つはJリーグが独自に定めた言葉といってよい。川淵は、日本のプロ団体スポーツの先行者で成功例である野球との差異を強調するために、あえて新しい言葉を用いた。
(孫引きになるが、たとえばこういうところに当人たちの証言が紹介されている)
 新しい言葉が、Jリーグというものの新しさを、より印象づけた。それが1993年だった。
 
 そんな経緯を記憶している者にとっては、まさにその川淵三郎の数代後の後継者の人事を伝える記事に、無造作に野球用語が使われているのは驚きだった。当時の状況を私などよりずっと熟知しているであろうベテラン記者が、その言葉を使っていることにも驚いたのだった。
 
 ツイッターでは「続投」に肯定的な書き込みも散見された。 「再任」では微妙なニュアンスが伝わらないという意見もあった。
 ただし、検索してみると、このニュースを伝える新聞の多くは「再任」という表現を使っている。ネットで検索して確認できた範囲では、読売、毎日、報知、スポニチ、日刊スポーツが「再任」を使っていた。朝日と時事通信は「続投」だ。「やっぱり野球がサッカーより上だ」、あるいは、「もはや言葉にこだわる必要もないほどサッカーが定着した」などと朝日新聞が判断したのかどうか、私にはわからない。単に言葉に無頓着なだけかもしれない。
 
 野球用語には、このように一般社会で比喩的に使われる言葉が多い。
 昨今相次いでいるニュースキャスターの交代においても、岸井氏もフルダチも国谷さんも、伝える記事の多くは「降板」と表現している。「登板」も同じように使われる。「代打」「空振り」「外野」などもよく耳にする。
 
 このように言葉が一般化しているスポーツは、他に相撲くらいしか見当たらない(「寄り切る」「仕切り直し」「徳俵に足が掛かる」等々)。もともと日本発祥で、昔からあり、人々の生活に根を下ろしてきた相撲と比較可能なほど、野球の言葉が土着化しているというのは驚くべきことだ。そもそも、これほど競技用語が日本語化されている西洋発祥のスポーツが他にあるだろうか。
 
 昨年、女子サッカーやラグビーで「ブームから文化にしたい」という代表選手の言葉が話題になった。どうなったら文化になったと言えるのか、という問いも議論になった。このように「用語が一般社会で比喩として用いられ、出自が忘れられるほど定着する」という現象は、そのスポーツが文化となったことを示すひとつの指標といえるかもしれない。

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続・公式戦を引退試合にするのは、あまり感心しない場合もある。

 10月7日に、山本昌が最後の登板を果たした。ナゴヤドームではなく広島で。展開次第では出番を作るのが難しくなると判断したのか、「打者1人限定の先発」である。結果は1番打者の丸をニゴロに仕留め、「史上初の50歳登板」は幕を閉じた。
 広島は、試合前にスクリーンに山本昌の足跡をまとめた映像を流し、降板に際しては新井から花束を贈ったという。手厚いおもてなしである。
 
 一方でこの試合は広島にとっての今季最終戦。「勝てばCS」という大きなものがかかっていた。MLBからの黒田復帰で膨れ上がった優勝への期待に背いて低迷した今季、雪辱を果たす最後のチャンスだった。
 だが、山本昌が降板した後も打線はふるわず、5位の中日に完封負けを喫して、希望は潰えた。
 もし前田がこのオフにMLBに旅立てば、今季は前田と黒田が二本柱として並び立つ最初で最後のシーズンだったことになる。前田が抜けたカープが、その穴を即座に埋めることは難しい。黒田も今年は活躍したものの、突然成績が落ちることが起こりうる年齢ではある。
 そう考えると、カープにとってこの試合は、何としても勝たなければならないはずだった。

 山本の「サヨナラ登板」が、勝敗の帰趨に影響したかどうかはわからない。ただ、もし私が広島カープの選手であったなら、試合前の映像や試合中のセレモニーを見て、「ウチの球団、こんな大事な時に何やってんだろうな」と鼻白んだかもしれない。広島は10/2の中日戦でも、選手としての引退を表明した谷繁に対し、試合前に記念の映像を流し、ベイスターズ時代の同僚である石井琢朗コーチから花束を贈呈したという。ずいぶんと手厚いおもてなしである。
 (最終戦の翌日、広島は東出の引退を発表した。生え抜きの主力選手だった彼には、シーズン最終戦でファンの前で挨拶する機会は与えられなかった)
  
 今年の野球界は有力選手の引退ラッシュだ。オリックスの谷、西武の西口、楽天の斎藤隆、DeNAの高橋尚成、阪神の関本。中日は特に多く、山本昌、谷繁のほか、和田と小笠原も引退だ。
 シーズンを通して低迷し、早々にCS進出の望みがなくなったこともあってか、中日は4選手それぞれ別の日に「最後の出場」と、セレモニーの機会を設けた。しかも谷繁は古巣・横浜スタジアム、山本昌は前述の通り広島だ。
 私にとっては、皆、売り出した時から見てきた選手だから、引退となれば感慨もあるし、最後の勇姿を映像で見れば、じいんと来るものもある。それでも、この中日球団の振る舞いは、やりすぎと感じる。
 
 以前から、引退の決まっている選手を公式戦にサヨナラ出場させて「引退試合」と呼ぶ風潮には違和感を抱いている。このブログで反対意見を書いたエントリをアップしたのは、2007年のことだった(このエントリのタイトルに「続」とついているのは、そういうわけだ)。
 それから8年経って、風潮は衰えるどころか、ますます盛んになっている。
 
 折しもプロ野球界では、ジャイアンツの福田聡志投手が野球賭博に関わったことが発覚し、大問題となっている。この種の教育についてはしっかりしている球団だと思っていたので、報道に接した時には強いショックを受けた。残念で、悔しくて、忌々しい。

 野球協約では、野球賭博で自身が所属する球団に賭けた者は永久資格停止(いわゆる永久追放)、野球賭博をしたり、その常習者と交際した者は1年または無期の資格停止、という厳しい罰則を定めている。

 プロ野球の選手や指導者が野球賭博に関わることが、なぜ許されないのか。
 賭博自体が犯罪である。また、それが反社会的組織の資金源になることも好ましくない。が、それだけなら一般人も同じだ。
 プロ野球選手が特に許されない理由は、賭博が八百長につながる可能性があるからだ。賭博に携わる人々が、自身に有利な結果を求めて、チームや選手を思い通りに動かそうとする可能性がある。
 八百長は、英語でMatch fixingという。あらかじめ勝敗を決めてしまう、という意味だろう。NPBがファンに提供する商品は、どちらが勝つか判らない真剣勝負である。Match fixingが行われると、それがたとえ特定の1試合だけであったとしても、他の試合についても勝負の真剣さが疑われ、プロ野球全体の商品価値が著しく損なわれてしまう。
 
 八百長が行われた試合でも、160キロの剛速球や飛距離150メートルの本塁打を見ることはできるかもしれない。ひとつひとつのプレーの質は、物理的には他の試合と変わらないかもしれない。
 だが、例えばシーズンオフに行われる日米野球では、目を見張るようなプレーをたびたび見ることはできても、心臓を鷲掴みにされるような緊張や興奮、感動を味わうことはない。両チームの選手たちが勝利を目指して懸命に戦う姿があればこそ、ファンは試合に熱中し、情緒を揺り動かされる。

 ラグビーW杯イングランド大会で、日本が南アフリカに勝った試合を見て、ハリー・ポッターシリーズの作家、J・K・ローリングは「こんなの書けない」とツイッターに書いたという。
 細かく言えば、彼女はこういう物語を書くことはできる。だが、一流の作家が技巧と情熱を尽くして同じ物語を書いたとしても、読者にあの試合と同じ感動を与えることは、ほぼ不可能だろうと思う。それはまさに、小説では試合結果を作家がfixせざるを得ないからだ。どうなるかわからないものを同時進行で見ているからこそ、その結果に観客は興奮し、感動する。
 
 そういう大前提を踏まえた上で考えれば、すでに引退を表明した選手、とりわけ、シーズン中に実力で一軍に上がることができなかったり、故障ですでにトップレベルのプレーができないとわかっている選手を試合に出し、さらに試合を中断して花束贈呈などのセレモニーを行うことは、手放しで称賛するようなことではない、と私は思う。試合の前や後でセレモニーを実施するだけならともかく、それが試合そのものに侵入するというのは、好ましいことではない。
 
 だから、福田の野球賭博関与が発覚し、それを厳しい論調で批判していたメディアが、その2日後には山本昌の最終登板を無批判かつ感傷的に伝えていることが、私には奇異に感じられる。この人たちは、選手が野球賭博をすることがなぜいけないのかを、真剣に考えているのだろうかという疑問さえ抱いてしまう。

 これが、上位進出の可能性も潰え、もはや真剣勝負としての価値にも乏しい消化試合であれば、そんな試合にも足を運んでくれるファンのためのサービスにもなるし、あまり目くじらを立てなくてもよいかもしれない(ただし、個人タイトルの帰趨に直接影響するような場面での登場は避けるべきだろう)。
 だが、CSの導入によって、その種の消化試合は著しく減った。ホームチームの最下位が確定していても、対戦相手には懸かるものがある、というケースが頻繁にある。そもそも、消化試合を減らし、シーズン終盤まで真剣勝負を増やし、観客の興味を引きつけることが導入の目的だったのだから、当然である。
 だから、今のプロ野球では、引退選手のサヨナラ出場は、なかなか難しいはずなのだ。それでも無理に出場させようとすると、今回の山本昌のようなことになる。
(もし「史上初の50歳登板」という記録を作らせることも目的だったのだとしたら、そんなやり方は記録に対する冒涜でもある。宇佐美徹也さんが存命だったら、激怒されたのではなかろうか)

 引退試合はオフのファン感謝デーか翌年のオープン戦でやればよいではないか。公式戦でファンに最後の挨拶を、というのであれば試合後にセレモニーをすればよい。無理に公式戦に出場させることはない。
 だいぶ前のことだが、ヤクルトの鈴木健が最終打席で三塁側に打ち上げたファウルフライを村田修一が(十分取れる位置にいたにもかかわらず)捕球しなかったことが、美談のように伝えられた。今年も楽天の斎藤隆の最終登板で、細川は明らかなボール球を振って三振した。
 村田はその後、広島の佐々岡の最終登板で本塁打を打ち*、観客から「空気の読めない奴」と冷たい視線を浴びた(と、その日スタンドにいたという知人が話していた)。結局は、相手チームの選手までもが、真剣勝負ではない何かの片棒を担ぐことを無言のうちに求められる。衆人環視の中で、投手と打者の対戦がfixingされていく。

 最後に出場する選手は嬉しいだろうし、相手チームも含めて選手や監督たちも感動するだろう。スタンドのファンも喜ぶ。球団も潤う。誰も損をしない、いいことづくめのように見える。
 一方で、こういうやり方は、「1打席、1人分くらいいいじゃないか」が「せっかくだから花を持たせてやろうよ」「なんでそこで空振りしないかな」とエスカレートしていく。そこでは、目には見えず、小さいけれども、何かが確実に損なわれていく。
 長年活躍した選手の労を報い、功績を祝福し、次の人生に送り出す、せっかくの機会なのだ。できるだけ瑕疵のない方法で実現されることを望んでいる。
 
 
*前のブログにも書いたように、村田はこの本塁打により初の本塁打王のタイトルを獲得し、高橋由伸はこの本塁打により、タイトルを取り損ねた。おそらく高橋は打撃タイトルに縁のないまま現役生活を終わることになりそうだ。

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スポーツ選手に与えられる、最上級の褒め言葉。

 イチローのMLBでの通算安打数がベーブ・ルースに近づいたとか並んだとか抜いたというニュースを、このところよく目にする。そのたびに多くのメディアがベーブ・ルースを「野球の神様」と形容している。例えばこのように。

イチロー“神様”ルース超え2875安打も…マーリンズ泥沼8連敗 スポニチアネックス 5月23日(土)
 
 これ以上の褒め言葉はなさそうだし、ベーブ・ルースは「これ以上ない褒め言葉」にふさわしい選手でもある。ただ、自分はそこそこ長くMLBを見て、その歴史にも日本人の平均よりは通じているつもりだったが、ベーブ・ルースが「野球の神様」と呼ばれているとは知らなかった。出典を探そうとネットを少し検索してみたが、なかなか見つけることができない。例えばWikipediaを見ると、日本語版の「ベーブ・ルース」の項には、冒頭の概要部分に<野球の神様と言われ、米国の国民的なヒーローでもある>と書かれている。が、英語版の<Babe Ruth>の項目の同じ部分には<Nicknamed "The Bambino" and "The Sultan of Swat">とあるだけだ。Bambinoはもともとはイタリア語で「赤ん坊」や「坊や」の意味。Sultanはイスラム世界の君主で、swatは「激しく打つ」「長打」などの意味があるから、Sultan of Swatは「打撃の帝王」くらいの意味か。そもそも彼の本当の名前はジョージ・ハーマン・ルイスであって、ファーストネームとして扱われているベーブ自体が「赤ちゃん」という綽名である(「坊や哲」「お嬢吉三」みたいなものか)。
  
 日本野球には、「神様」と呼ばれた人物がいる。代表的なのが「打撃の神様」川上哲治だ。卓越した技術と成績に加え、厳格で人を寄せ付けない人物像、求道的な打撃への姿勢、そして「球が止まって見えた」という発言に代表される神秘性などが相まって、「神様」という綽名が定着したのだろう。
 赤坂英一が川相昌弘について書いた「バントの神様」という本もあるが、これは川相の綽名として定着したというほどではない。ただ、ひとつの分野、ひとつの技術に精通した人物を「○○の神様」と呼ぶことは、日本ではさほど珍しくないように思う。
 
 「神対応」「神回」というような形容がごく普通に使われる昨今の風潮を見ても、日本人にとって「神」は、尊敬する対象ではあっても、さほど畏怖されるものではないらしい。人間を「神」と呼ぶことに対するハードルはかなり低い。
 そんな日本にあっても、1人の選手を「野球の神様」と呼んだ例は記憶にない。「野球の神様」は、例えば「野球の神様が助けてくれました」みたいな談話に代表されるように、野球というゲームを司る絶対者、というようなニュアンスで語られるのが一般的だろう。
 
 ルースの人柄は「ベーブ」と呼ばれたことからもわかるように、子供っぽくて、よく言えば天真爛漫、悪く言えば自分勝手な人だったようだ。彼自身はヤンキースの監督になりたかったようだが、声がかかることはなかった。その意味では、川上哲治とはかなり異なるキャラクターだったようだ。
 
 なぜルースが「野球の神様」と呼ばれたことになっているのかを見つけることはできていないのだが、ネットで検索すると、この形容が、昨年、大谷翔平が達成した10勝&10本塁打に関する記事に多用されていることがわかる。
 
大谷“野球の神様”に並ぶ!96年ぶりの10勝&10発
 
 ベーブ・ルースといえばホームラン。普通なら「伝説的な長距離砲」とでも呼んでおけば済むのだが、この話題で彼の名を出す時ばかりは、それでは物足りない。投手としても優れていたことを同時に示さなくてはならないからだ。大谷の凄さを示すためには、なぞらえる相手も偉くなくてはならない。形容に窮した誰かが、えいやっと「野球の神様」にしてしまった、てなことだったのではないか…と想像したのだが、Yahoo!知恵袋にはそれ以前にもルースを「野球の神様」としている質問があるので、昨年から突然呼ばれ始めたのではないらしい。
 
 この件が気になるのは、そもそも一神教が支配的な社会で、人間に対して「神」という綽名が定着したりするものなのだろうかという素朴な疑問があるからだ。
 上にも書いた通り、日本では偉人をすぐに神様と呼びたがる。ペレも「サッカーの神様」とする記事をよく目にするが、ペレといえばキングと昔から決まっているので、これには強烈な違和感がある。ジーコにも「神様」という形容がよく使われたが、これは彼の日本での業績に対する尊称だから、まだしも納得できる。
 スポニチや他のメディアがルースを「野球の神様」と決めて勝手に使うのならともかく、「大リーグで“野球の神様”と呼ばれた」などと書いてあると、誰が呼んでるの?と気になってしまう。 
 イチローがルースの通算安打数を抜いたことはSIなど米メディアでも話題になっていたが、ルースの名は形容抜きで記述されている記事が多い。日本のスポーツメディアにとって長嶋茂雄が説明不要な人物であるのと同様、ベーブ・ルースという名前は、USAのスポーツメディアにとっては説明不要な名前なのだろう。
 
 MLBの「神様」といえば、私の頭に浮かぶのはルースではなく、テッド・ウィリアムズだ。彼は日本では「打撃の神様」と呼ばれていた。米国のwikiでは<Nicknamed "The Kid", "The Splendid Splinter", "Teddy Ballgame", "The Thumper" and "The Greatest Hitter Who Ever Lived",>とされている。たくさんあるが、神に類するものはない。
 
 ただ、彼には神にまつわる有名なエピソードがある。
 現役最後の試合の最後の打席で本塁打を放ったウィリアムズは、観衆のスタンディングオベーションにも、ベンチを出て応じようとはしなかった。なぜ手を振ってやらないんだ、と問われて、「神様というものは、手紙に返事を書かないものだ」と答えたという。たとえば伊東一雄・馬立勝「野球は言葉のスポーツ」(中公新書)に紹介されている。もっとも、実際にはこれはウィリアムズ自身の言葉ではなく、作家のジョン・アップダイクがこの場面を評して書いたものらしい。米国版wikiにも<Williams' aloof attitude led the writer John Updike to observe wryly that "Gods do not answer letters.">とある。
 
 私自身は現役時代のウィリアムズを見たことはないが、このエピソードは知っていた。知っていたから驚き、胸を熱くした場面がある。1999年のオールスターゲームでのことだ。
 この年のオールスターはボストンのフェンウェイ・パークで行われた。始球式に招かれたのは地元レッドソックスの生ける伝説、テッド・ウィリアムスその人だった。彼がマウンドに立つと、両リーグの選手たちが、みな集まって握手を求めた。選ばれたスターたちを野球ファンの子供に戻してしまう、スターの中のスターが彼だった。
 始球式の後、ウィリアムズはカートで場内を回った。立ち上がって拍手を贈る観客に向かって、ウィリアムズは高々と手を振っていた。< He proudly waved his cap to the crowd — a gesture he had never done as a player.>“選手としては決してやらなかった仕草だった”、と米国版wikiには書かれている。神が人間に戻った瞬間だった。
 
 「神」でもうひとり、思い出すスポーツ選手がいる。とあるゴールについて「ディエゴの頭と神の手が決めた」と語った、あの人物だ。マラドーナには「神の子」という綽名もあったようだが、これまた出典がすぐには見つからない。奔放な性格は、伝えられるベーブ・ルースのそれに似ているが、ディエゴはベーブと違い、希望通りにアルゼンチン代表の監督になった(成功はしなかったが)。
 
 マラドーナと綽名について語るならば、マラドーナにつけられた綽名よりも、「マラドーナという綽名」の方が意味があるかもしれない。彼が活躍した80年代半ばから90年代にかけて、卓越した技術を持つ中盤の選手は、よくマラドーナになぞらえられていた。「カルパチアのマラドーナ」と呼ばれたゲオルゲ・ハジ、「砂漠のマラドーナ」と呼ばれたサイード・オワイラン。日本にもいたはずだ。あのころ、世界中に何人のマラドーナがいたことだろうか。

 日本野球で最初の三冠王、中島治康は「和製ベーブ・ルース」と呼ばれていた。早稲田実業の期待の長距離砲、清宮幸太郎も、リトルリーグの世界大会で米国メディアに「和製ベーブ・ルース」と呼ばれたそうだ。ルースもまた、綽名をつけられることよりも、綽名となることにふさわしい。
 
 スポーツ選手にとっては、「神様」と綽名をつけられることよりも、自分の名が他人の綽名に冠せられることこそ、最上の栄光なのかもしれない。

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アギーレ八百長疑惑があぶりだす日本メディアのメンタリティ。

 サッカー日本代表監督に就任したばかりのハビエル・アギーレに、スペイン時代の八百長疑惑が持ち上がって2か月余り。裁判所が検察の告発を受理するに至っていないということもあり、年明け早々のアジアカップには、アギーレ体制のままで臨むことになった。
 アジアカップの成績次第でメディアの態度も変わるだろうから、大会直前の今、2014年末時点で思うところをまとめておく。
 
 まず、現時点での事実を確認しておく。

アギーレ監督、八百長疑惑を否定
AFP=時事 12月28日(日)8時34分配信

アギーレ監督、八百長疑惑を否定
都内で行われた記者会見に臨むサッカー日本代表のハビエル・アギーレ監督(2014年12月27日撮影)。
【AFP=時事】サッカー日本代表のハビエル・アギーレ(Javier Aguirre)監督は27日、サッカー界を揺るがす八百長疑惑について、その関与を否定した。
 スペイン検察は、2011年にレバンテ(Levante)に勝利したレアル・サラゴサ(Real Zaragoza)がスペイン1部リーグからの降格を免れた一戦で、サラゴサの指揮官だったアギーレ監督ら41人が不正が行ったと主張している。
 アギーレ監督は、来年2月にはバレンシア(Valencia)の裁判所に出頭することになっている。
 都内で行われた会見でアギーレ監督は通訳を通じ、「12年間スペインサッカーにかかわって過ごしたが、倫理やプロフェッショナリズムに反したことはない。何も受け取ったことはないし、何かを頼んだこともない」と語り、当局に協力していくと誓った。
 検察当局は、サラゴサが総額96万5000ユーロ(約1億4000万円)をクラブのコーチ陣やスタッフ、選手の銀行口座に振り込み、その金を「賄賂」としてレバンテの選手に手渡したとしている。
 日本サッカー協会(JFA)は、疑惑がある中、アギーレ監督が来月オーストラリアで開催される第16回アジアカップ(2015 AFC Asian Cup)で指揮を執るとしている。【翻訳編集】 AFPBB News

 読んでおわかりの通り、AFP=時事は「スペイン検察は…主張している」「検察当局は…としている」と、疑惑の内容については、あくまで、検察がそう主張している、という書き方に終始している。有罪判決が出るまでは被告人を無罪として扱うべし、という「無罪推定の原則」に則った書き方で、事件報道の基本のキであり、報道というより法治国家の基本のキでもある。
 だが、この基本のキにまったく敬意を払う気のなさそうなメディアが少なくない。
 その典型例がスポーツニッポンの次の記事だ。

 逆ギレ!辞めない!アギーレ監督 釈明会見で潔白主張も根拠示せず
 八百長疑惑でスペイン検察当局に告発された日本代表のハビエル・アギーレ監督(56)が27日、東京都文京区のJFAハウスで釈明会見を行った。会見は約40分に及び、逆ギレ気味に潔白を主張したが、肝心の“疑惑の金”に関する説明はなく、無実の根拠は一切なし。辞任の意向がないことを強調し、騒動の渦中にいることに対する謝罪もなかった。[ 2014年12月28日 05:30 ]

 長いので前文だけの引用にとどめたが、「逆ギレ気味」「無実の根拠は一切なし」「謝罪もなかった」などの文言は、あきらかに書き手が「アギーレが悪い」という前提に立っていることを示している。

 別の日のスポーツ報知の記者コラムには「潔白証明できなければ身を引くべき」とあった。
 犯罪の疑惑にもいろいろある。犯罪が行われた日時と場所が特定されている殺人のような事件なら、疑われた者が自ら潔白を証明することは可能だ。その日時に別の場所にいたことを証明すればよい(いわゆる「アリバイ」という奴だ)。
 だが、アギーレにかけられた疑いは、試合相手に対する買収への関与だ。日時も場所も相手も特定されていないのだから、それを「した」ことの証明はできても、「していない」ことの証明などできるはずがない。告発内容がこの記事の通りであれば、アギーレの潔白が立証されるケースは「捜査当局が有罪を立証できなかった時」でしかない。逆に言えば、捜査当局が有罪を立証できない限り、アギーレは潔白なのだ。自分で証明する必要などない。
 
 八百長疑惑がなかったとしても、アギーレは評判の悪い代表監督だった。
 そもそもの出発点として、6月のワールドカップブラジル大会で日本が2敗1分と惨敗した後で、原専務理事兼強化委員長がすみやかに後任監督をアギーレに選んで就任させたことに対して、「総括もしないのに早すぎる」と不満や不信感をあらわにしていたメディアやサッカーライターは少なくなかった(4年前には「監督選びが遅い」と非難されていたものだが)。
 そして、アギーレが前任者とはかなり異なる顔触れを代表に選び、しかも試合ごとに大幅に入れ替えることに対しても、非難がましい声は強かった。とりわけ10月に行ったブラジルとの試合に代表経験の浅いメンバーで臨み、大敗したことに対しては、「ベストメンバーで臨むべきだった」と批判する声がとても強かった。
 就任以来、試合ごとにメンバーが大幅に入れ替わっているアギーレ代表にあって、なぜこの人たちはこれが「ベストメンバー」ではないと断言できるのだろうかと、私は不思議だった。ザッケローニ時代のベストメンバーが6月に「世界」にまったく通用しなかったのだから、今度は別のメンバーで試してみる、という考え方には合理性がある。ザッケローニはある時期からメンバーを固定して新しい選手の起用に消極的になっていたから、今のJリーグの20代前半には、国際経験に乏しい有望選手が大勢いる。彼らを厳しい環境下に放り込んで、どの程度やれるのかを試してみるには、このブラジル戦は絶好の機会ではないか。
 その後、アギーレはアジアカップ前の最後の2連戦には遠藤らザッケローニ時代のベテランも呼び戻し、難敵オーストラリアを相手に手堅く勝利した。初期のテスト期間に試した選手からも、武藤ら数名を確保している。就任から半年足らずで大陸選手権を戦わなければならない監督の準備期間の使い方としては申し分がないと私は思うのだが、そう思わないメディアやライターは少なくないようだ。
 
 八百長疑惑の報がスペインからもたらされたのは、そんな状況の中だ。当初は現地メディアが取りざたしていただけだったが、12月に検察当局が告発に踏み切ったことで、アギーレ批判(というより非難)報道は爆発した。その多くがアギーレを黒と決めつけんばかりの勢いであることは前述の通りだ。
 
 スポーツ紙がアギーレを黒と決めつけるのは、単に事件報道の基本など知らない人が多いからなのかも知れない。
 だが、キャリアの最初に事件報道の基本を叩き込まれるはずの全国紙でも、ほとんど同じような論調が見られることには驚いた。

 朝日新聞のベテランサッカー記者である潮智史編集委員が12/20付のスポーツ面に書いた署名コラムのタイトルは<アギーレ監督続投 グレー状態でいいのか>だった。ネット上では有料なのでリンクは貼らないが、コラムには<でも、それは法律上の話であって、ピッチの上に目を向ければ、このままグレーの状態では相当にややこしい話になる><将来、無実が証明されたとしても、それまでに傷ついた名誉や損失は取り戻せるだろうか>といった文言が躍っていた。グレーでいいのか、と協会に詰め寄りながら、決して「解任すべき」とは書かないところには計算を感じる。日本経済新聞の武智幸徳記者も、ほぼ同じ趣旨のコラムを前日の日経に掲載していたが、具体的な提案を示していた分だけ、武智記者の方が潔いと思う。
 日経は経済新聞だから、物事の判断基準が損得勘定にあったとしても、それなりに納得はできる。だが、朝日新聞は長年、人権の守護者のように振る舞ってきた新聞だ。その紙面に、疑わしきは罰せよと言わんばかりのコラムが堂々と掲載されたことには本当に驚いた。

 潮記者が無罪推定の原則を知らないとは考えにくい。それでもこんなふうに書かずにいられないのはなぜなのか。Jリーグ以前からサッカーを取材している記者やライターからは、サッカーが取材対象というより、自身がサッカーファミリーの一員としてサッカーに貢献したい、という気持ちをひしひしと感じることがある。潮記者や武智記者もその世代の人だ。潮記者は確か筑波大で中山や井原と一緒にプレーしていた大学サッカー部出身と聞く。
 そういう経歴の人たちにとって、アギーレは「俺の大事な日本サッカーに傷をつける、ろくでもない人物」と感じられるのかも知れない。この件に関する潮記者のツイートを読んでも、とにかく感情的でナイーブな印象を受ける。
 武智記者にしても、彼には珍しいタイプの文体と感じる。あまり一喜一憂せず、落ち着いた独自の視点に立ったこの人のコラムが私は好きだったので、この文章の冷淡さにはかなり衝撃を受けた。彼にも潮記者にも、そしてスポーツ紙にも共通して感じられるのは、アギーレに対する冷たさだ。
身内を信用しないわけにはいかないんじゃないかなというのが、自分自身の哲学ではあります>と本田圭祐は語ったそうだが、記者たちはアギーレを身内とは思っていないようだ。「外国人が外国で起こした問題なのだから、さっさと厄介払いしてしまえばよい。俺たちには関係ない」という考えが、アギーレを非難する記事には通底しているように感じる。
 
 だが、本当にそうなのだろうか?
 
 報道によるとスペインでは2010年に八百長を禁じる法律が設けられ、今回が最初の適用事例になりそうだという。欧州サッカー界で八百長が深刻な問題になっていることも確かなようで、UEFA.comの日本語版を検索しただけでも、UEFAが真剣に対策に取り組んでいると伝える記事がいくつも見られる。

UEFA、八百長との徹底抗戦をあらためて表明 
UEFAとユーロポール、八百長対策で覚書締結
UEFAが八百長防止の新システムを導入 

 90年代にフランスのマルセイユ、2000年代にはイタリアのユベントスが、それぞれ八百長を仕組んで発覚し、大スキャンダルになったことは記憶に新しい。どちらも欧州主要リーグの強豪クラブである。アギーレはスペイン。どこで何が起こってもおかしくはない。一方で、欧州に渡って活躍する日本人選手は増えるばかり。つまり、日本人選手が八百長問題に巻き込まれる可能性も、着実に大きくなっている。例えば本田圭祐にロシア時代の八百長疑惑が持ち上がったりしたら、日本のメディアや記者は「疑惑をかけられた選手は代表から身を引くべき」「危ない橋をこの選手と一緒に渡る義理はない」と書くのだろうか。
 
 今年7月に邦訳が出たデクラン・ヒル「あなたの見ている多くの試合に台本が存在する」(カンゼン)は、世界のサッカー界における八百長について書いたノンフィクションだ。思わせぶりな邦題から暴露本を想像して敬遠していたのだが、アギーレの疑惑を機に読んでみた。邦題に反して、実際の内容は学術書に近く、豊富な実例を集めて、八百長のメカニズムを解説している。原題は「The Insider's Guide to Match Fixing in Football」という。Matxh Fixingが八百長のこと(余談だが「八百長」という日本語は「tsudaる」とか「エガワる」のような符丁に近い言葉なので、翻訳記事や本に使う訳語としては違和感がある。もっと単刀直入な訳語を考えた方がよいのでは)。
 八百長とならぶスポーツ界の大問題、ドーピングについて、このblogではかつて「ドーピングの社会学」という優れた研究書を紹介した。本書はそれに匹敵する八百長の研究書のように思う。私にとってはさまざまな発見があった。
 もっとも基本的な事項としては、世界の八百長組織の中心地は東南アジアなのだそうだ。賭博のために八百長を行う組織があり、彼らが欧州サッカーの現場にも進出している(もちろん欧州オリジナルの組織もある)。賭博のために八百長を試みる人々が選手や審判に接近する方法は、日本で暴力団員がスポーツ選手や芸能人に近づく方法にとてもよく似ている。ご承知の通り、Jリーグは近年、東南アジアを市場として強く意識し、進出を図っている。元Jリーガーで東南アジアのリーグに移籍する選手も増えている。ヒルの著書によれば、八百長に関与する選手は決して特別な悪人ではない。ごく普通の選手が、さまざまなきっかけで八百長の世界に引きずり込まれてしまう。
 
 サッカーはグローバルな競技で、日本国内で完結しているわけではない。リーグも選手も世界に出て行く以上、世界で起こっている潮流と無縁でいられるはずもない。「スペインに学べ」とか「世界基準で戦え」とか日頃から声を大にして書き立てているサッカーメディアやライターが、アギーレの八百長問題についてはかたくなに国内基準を当てはめようとしているのは奇異なことだ。
 八百長という問題は、アギーレを切り捨てれば厄介払いできるようなことではなく、日本のサッカー界がいずれは直面する可能性のあることなのだという覚悟があれば、今回の一連の報道も少し違ったものになると思うのだが。
 
 念のため書いておくが、私はアギーレが無実だと信じているわけではない。現時点では何とも言えないと思っているだけだ。スペインの司法当局がまだ判断できていないことが、私にわかるはずもない。検察が、関係法の初の適用事例として告発するのであれば、絶対勝てそうな事案を選ぶのが人間の心理というものだ。FOOT!での倉敷保雄アナのように「欧州サッカーに詳しい人にとってはよくあること」などと過小評価するつもりはない。
 外国の司法当局の動きを日本で先回りして把握したり、影響力を行使することなどできるはずもないのだから、JFAに対しては、現時点ではアギーレ率いるアジアカップで最善の闘いができるように代表チームをサポートし、全体的には今後起こりうるあらゆる事態を想定して、すみやかに対応できるよう準備しておくことを望むばかりだ。
 仮に2月以降にアギーレが退任するような事態に発展したとしても、このアジアカップでアギーレから学べるものはあるはずだ。この経験豊富な指導者を無駄遣いせず、美味しいところを絞り尽くすことを考えてもらいたい。
 
 さしあたり、欧州から帰国した選手たちから聞こえて来る談話は「今は大会に専念するしかない」という落ち着いた内容ばかりだ。「選手が動揺したらどうするんだ」と協会に詰め寄っていた記者たちは、振り上げた拳を降ろす先に困ったのか、「選手が質問しないからよいというものではない」などとつぶやいたりしている。
 
 そもそも、多くのサッカーメディアやライターは、6月の惨敗の後、日本人には戦う気持ちが足りないとか勝者のメンタリティーが必要だとか声を揃えていたはずだ。今、我々の代表監督は、八百長に関与した疑惑を受けて司法当局に告発されても「有罪判決が出るまでは無罪だ」と言い張って戦い続けようとしている。この図太い神経と戦う姿勢こそ、彼らが日本人に足りないと主張していた類いの精神性ではないのか。
 アギーレがこの段階で「世間をお騒がせして申し訳ない」と身を引いてしまうような人物だったら、そもそも2014年8月のタイミングで呼ぶ価値はない。我々の代表選手はぜひここにも学んでもらいたいし、この問題で動揺してアジアカップに失敗するような選手は代表には必要ない。転んでもただでは起きないしぶとさをオーストラリアの地で見せてほしい。

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そうまでして東京五輪で野球をやりたいのかどうか、よく考えておいた方がよい。

 IOCの臨時総会で、開催都市の組織委員会が追加種目を提案できるという改革案が承認されたというニュースを、「これで東京五輪で野球やソフトボールがやれる可能性が出てきた」とテレビや新聞やスポーツ紙は祝賀ムードで報じていた。
 私とて五輪で野球をやるとなれば、テレビにかじりついて見るに違いないとは思う。だが、今の時点では、むしろ「何だかなあ」と思う材料が多すぎて、素直に祝賀ムードに乗る気にはなれずにいる。
 
 最初に思ったのは「また代表監督が大変なことになる」という件だ。
 現在、「侍ジャパン」と呼ばれる(というより自分で名乗っている)日本代表の監督は小久保裕紀が務めている。前のエントリでも書いた通り、おそらく2017年のWBCまでは彼が監督を務めることになるのだと思う(来年開かれるらしいプレミア12で、よほどひどい負け方でもしない限りは、そもそも解任する理由を見つけるのが難しい)。

 2017年のWBCでファイナリストになるくらいの好成績を残せば、小久保は、本人が望めば代表監督を続けられるかもしれない。彼の心中は(現時点ではたぶん彼自身にも)わからないけれど、一度は福岡で監督をやりたいのではないかという想像は、そう無理なものではないと思う。WBCでの好成績は、そのためには有力な材料となることだろう。逆にWBCで国民が失望するような結果となれば、そのまま代表監督を続けることは難しい。だから、いずれにしても小久保は2017年までで一区切りになる可能性は強い。
 
 目下の主要大会の開催間隔は、WBCが4年に1度、プレミア12はその中間年に開催されることになるようなので、ポスト小久保の代表監督は、おそらくこういうスケジュールに直面することになる。

2019 プレミア12
2020 東京五輪
2021 WBC
 
 これは大変だと思う。とりわけ東京五輪では、監督はとてつもない重圧にさらされることになるだろう。
 ただでさえオリンピック大好きな日本人が、地元開催となれば、金メダルはほとんどノルマのように期待されることになるだろう。追加種目は開催都市が決める。野球をやろうなどと考えるのは、日本のほかにはアメリカ合衆国、メキシコ、韓国くらいしかなさそうだから(野球が盛んなキューバやドミニカがオリンピック開催に手を挙げるとは考えにくい)、2020年の次の機会はいつ来るかわからない。つまり、ここで失敗すると取り返すチャンスは二度と来ない。
 
 試合内容自体も難しい。連戦になることはもちろんだが、特異なレギュレーションになる可能性がある。昨年だったか、IOCに追加種目として選ばれるために7回制を検討していると伝えられた。タイブレークは北京五輪で実際に採用された。WBCの投球数制限どころではない不慣れな試合形式だ。
 
 こんな大変な大会で監督を引き受けようという指導者が、果たしているだろうか。NPBでの指導経験を持たない小久保が代表監督に選ばれたのは、打診した候補にことごとく断られたからだ。第2回WBCでも代表監督選びは罰ゲームの様相を呈していた。WBCに2度優勝し、プロ野球における代表チームのプレゼンスは上昇し、「代表を目指す」的なことを口にする若い選手も出てきた。だが、「代表監督になりたい」と明確に発言した日本人指導者を私はいまだに知らない。小久保の業績やその評価によっては、若い指導者の中からそういう人が出て来るのでは、と期待してはいるが、そう信じられるだけの材料は今のところなく、あくまで希望に過ぎない。
 
 もうひとつ、どんよりした気分になったのは、野球とソフトボールの元代表監督が並んで満面の笑みで記者会見する写真を見た時だ。これも五輪競技に復帰するための方策として、野球とソフトボールの国際競技団体は合併してひとつになった。男女平等を重んじるIOCに気に入って貰おうと、「男の野球と女のソフトボール、合わせて一つの競技」という枠組みをこしらえたのだ。
 もともとオリンピックでは、野球は男子のみ、ソフトボールは女子のみしか行われていないので、合理的といえば合理的ではある。だが、野球そのものにも女子競技はあり、しかも日本はこの分野では、ワールドカップで3連覇している圧倒的強豪国であり、国内リーグも行われている。それなのに五輪種目となる可能性を、競技団体自身が閉ざしてしまっているわけだ。
 
 私は女子野球の選手でも指導者でもないし、特にファンというわけでもないので、女子野球の立場を代弁するような僭越な真似はしない。ただ、傍からみれば、おかしな話だと思うだけだ。
 
 もうひとつ言えば、いわゆる「侍ジャパン」はプロの代表チームだけでなく、あらゆる年代の日本代表チームに共通の愛称とされ、そこには女子代表も含まれている。侍ジャパンの公式サイトには女子のページもあり、ワールドカップでの活躍も誇らしげに報告されている。そして、各年代に共通の「侍ジャパン」のユニホームを、女子代表たちも着用している。彼女たちは「侍ジャパン」だけれども五輪代表ではない、というのもまた、筋が通らない話だと思う。
 
 男子ソフトボールについても同じことが言える。ソフトボールは女性専用の競技ではなく、日本にも男子ソフトの社会人リーグもあれば日本代表もある。私はソフト男子でもないし、関係者に知り合いもいないが、自分が当事者だったら、あんまり面白くはないかもしれない。
 
 という具合に、オリンピックに対する野球界の姿勢には、いろんな無理や屈折がある。あまり無理をしすぎて後遺症が残るようなことにならなければよいと思う。
 
 本番でどういうレギュレーションになるのかわからないが(全体の人数もぎりぎりまで絞らなくてはならないから、過去の五輪と同様、選手が打撃投手を務めるようなことになる可能性も高い)、いざ試合をやってみて、あまりに普段と異なる規則の数々に戸惑って不成績に終わったりしたら、関係者の誰かが「こんなのは野球ではない」などと言い出すかも知れない。
 確かにそれは日本でやっている野球とは違う。だが、IOCに追従し、そんな奇妙な形に競技内容を変化させてまでオリンピックの場で試合をすることを望んでいるのは、野球界自身なのだ。

 そうまでして東京五輪で野球をやりたいのかどうか。
 そして、やるとなったら腹を括って、野球界の総力を結集して勝利を目指すという、これまで一度も実現したことのない取り組み方をする覚悟があるのかどうか。
 野球界は今のうちによく考えておいた方がいいと思う。今の祝賀ムードのまま何となく大会に突入して、「こんなはずじゃなかった」などということになったら、いちばん傷つくのは、日本野球そのものなのだから。

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「侍ジャパン」商法の行方。

 日米野球は、東京ドームで11/16に行われた第4戦を見に行った。藤浪が先発し、MLBが初勝利を挙げた試合だ。
 テレビ視聴率はずっと苦戦だったようだが、この日は日曜の夜ということもあってか、試合開始前から立ち見席までよく観客が入っていた。日本代表の先発メンバーがアナウンスされると、1人ごとに大歓声が湧く。私が座ったのは左翼ポール近くのファウルグラウンド側の前の方だった。周囲には20代から30代とおぼしき若い男女が多かった。耳に入って来るそれぞれの会話からは、シーズン中にも多少なりとも野球場に足を運んでいる人が多いようにうかがえた。代表戦とリーグ戦の観客層が分離してしまった印象のあるサッカーに比べると、健全なことのように感じた。ユニホームを着ている観客がずいぶんと多いことに驚いたが、これは、「ユニホーム付き応援席」というチケットが用意されたためでもあるようだった。
 
 試合は終始、MLB選抜が優勢だった。
 日本代表先発の藤浪は、球は速いがしばしばコントロールを乱す投手だ。そういうタイプはメジャーリーガーにとって扱いやすそうだ。前日にノーヒットノーランを喫したことで、気合いも入っていたのだろう。アルトゥーベ、プイグ、モーノーの1~3番が活躍し、MLB側が大勝した。
 カノが前日に死球による骨折で大会を去ったのは残念だったが、もともとプイグ見たさに買ったチケットだったので、その猛獣ぶりが堪能できて、満足度は高かった。地上2~3メートルをフェンス近くまで飛んでいくミサイルのような打球、キャッチボールで見せる強肩、そして筒香のライト前ヒットをもぎとった水平ジャンプ。球場で見たことを自慢したくなるタイプの選手だった。
 ほかにもモーノーやロンゴリアの打撃、捕手ビュテラの強肩、アルトゥーベの爆発的な盗塁など、メジャーリーガーらしさが随所に見られて楽しめた。

 日本代表にも見るべきところは少なくなかった。
 柳田は、同じ右翼を守っていたこともあってか、見ていてプイグを連想した。大きな体を軽々と動かす身体能力、何をやらかすかわからないプレーぶり、バットで自分の背中を叩きそうなフルスイング。今季ブレイクして一流の数字を残したが、まだまだ伸びしろがありそうに感じた。
 ショート今宮の守備には、どんなゴロでも自分の間合いで捕球するリズム感の良さを感じた。筒香の、腰の据わった力強いバッティングも見応えがあった。
 スタンドの声援が最も大きかったのは丸だった。早いテンポで「ヨシヒロ」「ヨシヒロ」と名を呼びながら交互に立ち上がる応援が他球団のファンにも受けたようで、打席を重ねるたびに参加者が増えて行った(私の後ろに座っていた女子も「いいなー、やりたい」と話していた)。その大声援に後押しされるように、美しいスイングで2安打を放った。
 広島勢でいえば途中出場した菊池も印象的だった。守備時に走者がいない時、彼はインフィールドラインの後方で構える。かつてカンザスシティ・ロイヤルズが来日した時、センターを守ったウイリー・ウィルソンが福本豊よりも前に守っていたのを見て感嘆したが、菊池の守備位置はメジャーリーガーよりも深い(念のため書いておくが、一般論として、足と肩に自信がある選手ほど、外野では前に、内野では後ろに守る傾向がある)。打球への反応も早く、普通ならセンターフライになるような当たりに、誰よりも早く落下点に入って捕球してしまった。地方の大学リーグから柳田や菊池のような逸材が出てくるのだから、日本野球の選手層は分厚い。

 このようにプレーのひとつひとつを見るのが楽しく、彼我の良いところを堪能した。帰途につく人々の表情は満足しているように見えた。申し分のない試合だった。花相撲としては。
 
 日本代表が日本で試合をして外国チームに大敗したのだから、本来であれば観客は満足などするはずがない。それでも「いいものを見た」などと言っていられるのは、勝敗が二の次の試合だからだ。
 この大会、日本代表とMLB選抜の5試合を公式戦扱いし、宣伝ポスターでも「ガチンコ」などと大書して、真剣勝負を謳っていたけれど、観客は実体をよくわかっている。
 そもそも「代表」と「選抜」の試合が真剣勝負になるはずがない。当初発表されていたプホルスやハーパーは結局来日しなかったし、打線はともかく投手陣はMLBを代表する顔触れとは言いがたい。コンディション調整も十分ではなかったようで、ファレル監督が大会後に、十分な準備ができなかったことに不満をこぼしていた。
 それでも、とりわけノーヒットノーラン後の(沖縄での親善試合を含めた)3試合ではコンディションもモチベーションも上がってメジャーリーガーらしいプレーが見られた。彼らの本気を引き出したのは日本代表の戦いぶりそのものであり、そこは小久保監督の手腕と評価することができるだろう。

 しかし、この日米野球を活動のスタンダードとして、常設化した日本代表、いわゆる「侍ジャパン」が今後の2年間を過ごして行くのだとしたら、それが2017年に予定されているWBCへの準備になるのかどうかは、いささかあやしげに思われる。
 
 WBCで選手が直面する精神的な重圧は、たぶん他に類がない。クライマックスシリーズや日本シリーズでも味わえるかどうか、というほどの重さがあるのだろうと、過去3大会を見ていて感じた。オリンピック種目から野球が除外された現在、同じような重圧を味わう機会を設けることは難しいだろう(来年開催予定の「プレミア12」に各国のメジャーリーガーが参加できるようなら、多少は近いものになるかもしれない)。
 
 ただ、これまでは、大会前のキャンプに「日本代表」として集まること自体が、非日常的な状況だった。今日から特別な時間が始まるのだという心理的なスイッチを入れる効果もあったように思う。
 しかし、日本代表が常設化され、シーズンの前後に試合を行うことが恒例化すれば、「侍ジャパン」のユニホームは日常的なものに近づいて行く。そして、それが今回のような微温的な親善試合ばかりであれば、選手たちに対して「これは花相撲をする時のユニホーム」という条件付けをしているに等しい。そんな試合を重ねた選手たちが、WBCの重圧とうまく付き合えるのかどうか。
 今大会では、小久保監督による動機付けが功を奏したと報じられている。ただ、それは代表歴の浅いフレッシュな顔触れが多かったことも幸いしたように思う。彼らが順調に成長し、代表歴を重ねて行った時に、今回の緊張感をずっと維持することができるだろうか。
 
 それでも、選手たちは公式戦で重圧のかかる局面を経験していくだろう。監督やコーチ陣はどうだろうか。指導陣のうち、監督の小久保、コーチの稲葉、矢野、仁志はNPBでの指導経験がない。
 小久保が監督に就任した際の記者会見の質疑応答を読むと、2017年のWBCまで一貫して指揮をとることが就任の前提となっているようだ。借り物の選手で年に数試合を経験するだけの環境下で、彼はどうやって監督としての能力を磨けばよいのだろうか。私には想像がつかない。これで好成績を残せるようなら、小久保はよほど指導者としての天憫に恵まれているのだろう。

 テレビ視聴率が低迷したのはよくない材料だが、スタジアムに観客がよく入り、ユニホームもよく売れたとなれば、「侍ジャパン」の日米野球は、ビジネスとしては上々だったのだろう。
 黒字に縦縞が入った代表のビジターユニホームは、レトロ調のデザインでなかなかカッコいい。大人のタウンウエアとしても、まずまず様になる。
 だが、黒い布地の上に茶の輪郭線だけで記された背番号は、遠目には見づらく、スタンドの私の席からは、打席に立った選手やグラウンドの右半分を守る選手の背番号は判読できなかった。
 きっと、背番号が何のためにあるかを知らない人が、デザインを決定したのだろう。

 侍ジャパンのマーケティングを行うNPBエンタープライズの社長には、日本テレビの幹部が就任した。テレビマンが悪いとはいわない。今村司氏は、かの「DASH村」を世に送り出した優れたテレビマンだ。「侍ジャパン」をはじめ、日本のプロ野球から新しいビジネスチャンスを作り出すのは必要なことだし、そのポジションに悪くない人材を得たと思う。

 ただし、彼が担うのは、あくまでビジネスだ。日本代表の強化の在り方を考え、責任を持つべきは彼ではない。では、誰が強化に責任を持ち、2017年に向けて日本代表の強化をどうデザインしていくのか。小久保監督ひとりの仕事ではないはずだ。今年始め、テクニカルディレクターに鹿取義隆が就任したが、今回の日米野球で彼は投手コーチを務めていた。それは筋が違う。
 日米野球という大きな節目を経た今も、代表強化の体制や方針は判然としない。ただマーケティングだけが着々と整備されていく。そんなふうにも見えてしまう。やはり顔が見えるゼネラルマネジャーが、代表には必要ではないだろうか。

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10年。

 初めてこのblogにアップした文章は、西部謙司の著書の感想文だった。2004年8月27日のことだ。
 それから昨日で丸10年が過ぎた。気がついたら人生の5分の1を、このblogとともに過ごしてきたことになる。
 
 格別の目的や意図があって始めたわけではない。ただ、少し仕事が暇になった時期で、スポーツ系のサイトの掲示板で長話をする機会が多くなり、他人様の庭で長っ尻するくらいなら自前で土俵を作ってみるか、というくらいの気分だった。ちょうどblogというものが流行しはじめ(アルファブロガーというものが選ばれるようになったのもこの年あたりからだったように思う)、プログラムの知識のない私のような者でも気楽に作れるホームページ、という認識だった。
 
 blogを始めた途端にプロ野球が激流に入り込んだ。選手会が日本プロ野球始まって以来のストライキを実施し、すったもんだの末に新球団が仙台に生まれることになった。日本ハムが北海道に移転した年でもあり、やがてWBCが始まって、「プロ野球の日本代表」というものが誕生した。語りたいテーマに事欠かなかったので、何年かは熱を込めて書きまくっていた。
 
 が、何年かすると、「前にもこんなことを書いたな」と思うことが増えてきた。太陽の下にそうそう新しいものはない。仕事も忙しくなり、blogに費やせる時間も労力も減ってきて、休眠状態に至った。最近はツイッターに軸足が移っている。

 休眠状態のblogだけれども、閉鎖しようとは思わない。ツイッターで(相変わらず)偉そうな口調で書いていられるのも、ひとつにはこの10年分の思考と調べ物の集積が後ろ盾になっているからだ。ここで詳細に論じたテーマについて論じている時は、ツイッターで「根拠を示せ」と言われても即座に出すことができるので気が楽だ。これ自体が「念仏の鉄」の名刺のようなものでもある。まとまった考えを書き残しておくには、私にとって、やはりblogにまさるツールはない。
 
 この10年を生き延びたものがもうひとつある。独立リーグだ。
 あらゆる意味で、いつ潰れてもおかしくなかった四国アイランドリーグは、10周年を迎えている。2年ほど前に久しぶりに観戦したが、技術レベルも選手の体格も、スタート当初に比べて飛躍的に向上していた。
 ロッテの角中が首位打者を獲得し、(育成ではない方の)ドラフト2位で指名された又吉が今や中日投手陣を支えている。NPBに選手を供給するだけでなく、NPBから若手選手を預かったり、審判員の研修の場にもなっていると聞く。まだまだ経営は苦しいとは思うが、BCリーグも含め、ささやかながら応援してきた身としては、独立リーグが自分の期待した方向に進んでいくのは嬉しい。
 
 自分自身はこの10年、このblogを通して何か進歩したのかどうか、はなはだ心許ない。初期の文章を読んでも、考えていることが大して変わっていないので、結局一歩も動いていないような気もする。ただ、このblogを通じて知り合った人もいて、尊敬できる人と,細々とながら付き合ってもらえるようになったのはありがたいことだ。尊敬できない人も大勢知ったが、そういう人とは付き合ってはいないので、まあどうでもよい。ネットの現実を教えてもらったと言えなくもない。
 たぶんこの先も、生きていて、極端な貧困に陥らない限りは、blogとツイッターとは今のような付き合いが続くのだと思う。というわけで時々思い出したように更新するblogですが、たまに覗いてやっていただければ幸甚。コメント欄もいまだに生きてます。ツイッターの方が話が早いかもしれませんが。
 
 

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