知事選ってのは候補者に投票するものじゃないんでしたっけ。

 川勝平太が出馬するというので、へえ、これはまた…と驚いて、彼のサイトでマニフェストを読んで、内容はいいと思うけど子供や家族の写真を意味もなくちりばめる手法はちょっとやらしいな、でも彼が当選すれば面白いな、と思ったのが、静岡知事選挙に対する私の関心のすべてだった。
 だから、川勝氏が当選したことは興味深く思うし、熊本の蒲島知事と並ぶ「学者知事」として、これからの仕事ぶりにも注目している。

 …でも、そんな考え方は異端なのかなあ、と選挙結果を報じる今朝のテレビを見ていて思ってしまった。
 普通のニュースでもワイドショーでも、この選挙の結果はもっぱら「民主党の候補者が勝った」「自民が負けた」「政局への影響はどうなる」という角度から報じられている。

 そりゃまあ、それぞれの党本部は、そういう捉え方をしていたのでしょう。あれだけ幹部が応援に駆けつけて、候補者そっちのけで政権交代がどうとかいう話ばかりしているのだからね(テレビがそういう部分だけを切り取って流しているのかも知れないが)。
 でも、知事選はあくまで候補者個人を選ぶものだ。団体戦である議会の選挙なら、政党が勝った負けたという言い方がふさわしいだろうけど、知事選の結果がそんなに政党の優劣に直結するもんなんでしょうかね。

 今回、川勝の対抗馬だった坂本という女性候補について私は何も知らないが、これまた結果が出た後のワイドショーで見た限りでは、相当イヤな感じの人だと感じた。
 自民党の幹部が次から次へと応援に訪れているにもかかわらず、テレビ取材に対しては「私は県民党です。自民党じゃないですから」と平然と言う。自民党の幹部が大勢応援に来られてますが、との質問に対しては、「みなさん私が一緒に仕事をしてきた友達として来ているので、自民党として来ているわけじゃありませんから」と、こわばった笑顔で目線を相手からそらしたまま話す。そうですか、みんなお友達ですか。
 ああ、この人は知事になったら議会での質問や取材に対しても、こうやって子供の言い訳みたいなことを恥ずかしげもなく言うのだろうな、とりつくしまもない官僚答弁をするのだろうな、と容易に想像できてしまう姿で、私がもし静岡県民だったら、こんな映像を一度でも見たら、絶対この人には投票しないと思うことだろう。

 川勝平太に投票した静岡県民の全員が彼の学者としての値打ちを知って選んだとは限らないだろうが、それを棚上げにして、公の場でテレビカメラに写された姿を見ている限りでも、両者の間にはかなりの差がある。むしろ、ここまで魅力に差があるのに、僅差に持ち込んだ自民党の底力は馬鹿にできないのではないかと思うくらいだ(ま、そもそもこんなタマしか出せないという点には大きな問題があるが(笑))。

 民主党にしても、同じ日に行われた兵庫県知事選では独自候補を立てることができず、自民が押す現職に相乗りしている。ま、兵庫は兵庫で事情があるんだろうが、そちらは「事情があるから」と考えたのかどうかほとんど話題にならず、静岡に関しては静岡の事情は問わずに「民主が勝った」と言い立てる報道というのは、なんだかなあ。

 という素朴な疑問でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

スター・トレック ~受け継がれたものと、受け継がれなかったもの~

 「スター・トレック」は好きだが、トレッキーとかトレッカーとか呼ばれるほど熱心なわけではない。カーク船長や副長兼科学主任ミスター・スポックが活躍するオリジナル・シリーズは大半を見ていると思うが、その後のシリーズ作品は、キャラクターの区別が付く程度というところだ。映画化作品も全部を見たわけではない。

 それでも今度の新作映画には食指が動いた。オリジナルシリーズの登場人物たちの若き日を描く、という触れ込みの予告編は、なるほどそれらしい若者たちが頑張っているように見えた。とりわけスポックは、特殊メイクの力を借りているとはいえ、当時のスポックがそのまま現れたとしか思えないような風貌だ。久しぶりにエンタープライズ号を大画面で見るのもいいかな、と映画館に足を運ぶことにした。

 映画はジェイムズ・T・カークとスポックのそれぞれの生い立ちから始まり、彼らがそれぞれの理由で惑星連邦艦隊に加わり、出会い、USSエンタープライズ号に乗船して、巨大な困難に立ち向かう中で関係を築いていく様子を描いていく。いわば、「スター・トレック」のエピソード0だ。

 これまで何本も作られてきたスタートレック映画がテレビシリーズの設定を忠実に踏襲していたのとは異なり、J.J.エイブラムスが監督を手がけた本作は、このごろよくある「リ・イマジネーション」を称している。シリーズの設定をもとに新たに構想した新しい作品、という奴だ。
 とはいうものの、監督とスタッフ、キャストたちは、押さえるべきところはよく押さえている。プロット上の大きな変更点については、オリジナルシリーズのパラレルワールドという位置づけで矛盾を処理してしまい、その分、細部においては昔からのファンを喜ばせるような目配りを利かせている。

 上述の通り、スポックの姿は本作にも登場するご本尊レナード・ニモイ(老いた…)よりもスポックらしく見えるし、カークは無鉄砲で女好きで喧嘩っ早くて、いかにもカークの若い頃だ。やたらに文句ばかり言って周囲を困らせるドクター・マッコイの初登場シーンも、笑うしかない出来ばえだし、スールー、スコッティ、チェコフ、ウフーラら主要キャストも納得できる。伝説の「コバヤシ丸」テストも印象的に用いられている。
(このへんの固有名詞のわからない方は、適当に読み飛ばしてください)

 一方で、従来のシリーズを覆っていた安っぽさからは、本作は綺麗に脱却している。エンタープライズ号は(フォルムはずんぐりしてはいるが)美しく、宇宙船どうしの戦闘はスピーディーかつ華々しく、物語の展開は早く、生身のアクションも激しい。カークとスポックが勝負を賭けた戦闘のクライマックスには息をのむ迫力があり、従来の「スター・トレック」とは無縁の人にも楽しめる映画になっているのではないかと思う。

 しかし。

 残念なことに、私は本作を手放しで称賛することができない。
 これは違う、と思わずにいられないことがある。

 「スター・トレック」という名前のテレビシリーズは、当初1966年から3年間にわたって放映された。
 オリジナルシリーズが作られた1960年代前半は、世界がUSAとソ連の二極にわかれて対立した冷戦時代であり、USA国内では公民権運動がクライマックスにさしかかり、ベトナム戦争も始まっていた。
 そんな時代に、エンタープライズ号のブリッジでは、女性、黒人、東洋人、ロシア人、そして宇宙人との混血と、ありとあらゆるマイノリティが乗り組み、力を合わせて困難に立ち向かっていた。それだけでも製作者たちの心情が読み取れる(今回、スールーやウフーラを演じた若い俳優たちは、自分が演じる役柄は当時のマイノリティ社会の誇りと憧れであり、それを演じることで両親が喜んだ、というようなコメントを残している。どこで読んだのか忘れたが)。

 プロットにも、地球上のさまざまな対立や差別をモデル化したようなエピソードがしばしば見られた。現実の問題をそのまま描くのが難しい時代に、宇宙という別の時空を借りたということだったのかも知れない(歌舞伎がそうであったように)。
 そして、それらの困難な問題に直面するたびに、カークたちは青臭く理想を語り、ヒューマニズムに基づいた解決策を見いだそうと苦悩した。それは、時には(現実のアメリカ合衆国がそうであるように)独善的で押しつけがましいものになりかねないけれども、よくもわるくも、艦隊と己の理想に殉じるというカークの覚悟は常にブレなかった。

 だから、「スター・トレック」の登場人物たちは、戦いのさなかに、しばしば議論を交わす。それはたとえば、「ネクスト・ジェネレーション」の映画化作品である「ファースト・コンタクト」においても見られる現象だ。華々しい戦闘が、クライマックスにおいて突然ディベートになってしまう場違いさこそ、スター・トレックのスター・トレックたる所以、と言ってもいいくらいだ。
 その後の他のシリーズでも、主要登場人物たちは理想を掲げ、現実とのギャップに悩む。そんな青臭いヒューマニズムこそ、「スター・トレック」の根底に流れるものなのだと私は思っている。

 本作映画においても、敵役であるネロ艦長は、現実世界を反映しているように見える。
 自らの星の破滅に直面したネロは、故郷を見捨てた惑星連邦を恨み、スポックを恨んで、艦隊やスポックの故郷であるバルカン星、そして地球を襲う。それは、たとえばUSAの攻撃によって故郷を破壊されたテロリストたちの心性や振る舞いを連想させる面がある。

 だから、私が知っているカーク船長なら、ネロと対面したら説得を試みずにはいられないはずだ。彼の行為の不毛さを語り、彼の恨みが誤解に基づくことを教え、惑星連邦と彼の故郷の未来にとって最良の道を一緒に探そうと言い出すのではないかと思う。スポックなら、ネロの復讐は復讐の連鎖を生むのだと論理的に説明したかもしれない。
 だが、本作の若きカークはそうはしない。エンタープライズの乗組員に、ネロに理解や同情や共感を寄せる人物はひとりもいない。
 最後の戦闘場面の描き方を見る限り、エイブラムス監督は、ここで私が書いてきたような事柄に気づいていないのではなく、充分にわかった上で敢えてないがしろにしているように見える。
 そういう語り口が、私にはひっかかる。彼のオリジナルなSFアクション映画なら構わないが、これは「スター・トレック」を名乗る映画なのだ。
 <社会への問い掛けを放棄したこの映画が、『スター・トレック』の精神とファンに忠実はなずはない>としたニューズウィーク誌(日本版5/27号)の記事に、私も同意する。

 この映画そのものを否定するわけではない。充分に面白かったし、エンドタイトルで流れたオリジナルシリーズのテーマ曲とナレーションには体が熱くなった。映画館を出る時にはグッズのひとつも買いたい気分だった。
 それでも、評価は留保付きにせざるを得ないし、もしも監督に対して感想を伝える機会があるなら、こう言わずにはいられないと思う。

「面白かったよ。若いキャストたちも頑張ったね。
 でも、ちょっと違うんじゃないかな、あの結末は」


※アップ後に、Newsweekからの引用部分など、細部を手直ししました(2009.6.4 12:00)

| | コメント (4) | トラックバック (0)

プロ野球監督と学歴。

 このところ、古いエントリにコメントがついて、プロ野球の育成力について延々と議論をしているのだが、その過程で思い出したテーマがいくつかある。

 以前、別のエントリで「高卒と大卒、どちらが有利か」「高卒かつドラフト下位でプロに入ることにはリスクが大きいのではないか」というような議論をしたことがあった。この件については、少し前に読んだ泉直樹『ドラフト下位指名ならプロへ行くな!』(実業之日本社)という本がさまざまな材料を提供してくれている。本自体の結論としてはタイトルの通りで、とりわけ高卒選手においてのリスクは大きくなっている、というのが著者の考えのようだ。

 では現役を退いた時にはどうなのか、という疑問もある。他の世界に転じる場合はともかく、プロ野球界の中で、いわゆる背広組の仕事に就く上で、学歴が関係する局面があるのだろうか。
 豊田泰光氏が「球団フロントに残るには大卒が有利」とか「仰木がなかなかGMになれなかったのは高卒だから」というようなことを書いているのを読むと、実際にそうなのか、といささか気になってくる。
とはいえ、球団職員としてどんな選手OBが球団に残っているのかは、部外者にはなかなか把握しづらく、調べるのは難しい。

 では、公になっているところで、監督の学歴はどうなんだろう。
 選手が引退後に球団内でする仕事の最高位といえば、ユニホーム組では監督だ。もし各球団に学歴重視という傾向があるのなら、そこにも反映されているんじゃないだろうか。

 今年の12球団の監督のうち、アメリカ人2人を除く10人を高卒組と大学・社会人出身組に分けると、次のようになる。

●2009年 4:6
<高校>渡辺久信、梨田昌孝、野村克也、秋山幸二
<大学・社会人>大石大二郎、原辰徳、真弓明信、落合博満、高田繁、大矢明彦

上述の『ドラフト下位指名なら…』によると、1980年から2007年までの間にプロ入りした選手の出身カテゴリーは高卒949人、大卒449人、社会人585人だそうだから、高卒:大学・社会人出身の比率はおよそ48:52になる。現在の監督の構成比は、そこから大きく外れてはいない(実際には80年より前にプロ入りした監督が半数を占めるが)。

では、遡ってみるとどうだろう。5年刻みに調べてみた。

●2004年 4:6(アメリカ人2名を除く)
<高校>堀内恒夫、伊東勤、王貞治、梨田昌孝
<大学・社会人>落合博満、若松勉、岡田彰布、山本浩二、山下大輔、伊原春樹

●1999年 4:8
<高校>野村克也、王貞治、東尾修、仰木彬
<大学・社会人>星野仙一、長嶋茂雄、権藤博、若松勉、達川晃豊、上田利治、佐々木恭介、山本功児

●1994年 6:6
<高校>高木守道、三村敏之、野村克也、森祇晶、仰木彬、鈴木啓示
<大学・社会人>長嶋茂雄、中村勝広、近藤昭仁、根本陸夫、八木沢荘六、大沢啓二

●1989年 2:10
<高校>森祇晶、仰木彬
<大学・社会人>藤田元司、山本浩二、星野仙一、関根潤三、村山実、古葉竹識、上田利治、杉浦忠、近藤貞雄、有藤道世

●1984年 4:8
<高校>王貞治、稲尾和久、岡本伊三美、植村義信
<大学・社会人>古葉竹識、山内一弘、安藤統男、武上四郎、関根潤三、上田利治、広岡達朗、穴吹義雄

●1979年 3:8(アメリカ人1名を除く)
<高校>中利夫、梶本隆夫、広瀬叔功
<大学・社会人>古葉竹識、別当薫、長嶋茂雄、広岡達朗、西本幸雄、大沢啓二、山内一弘、根本陸夫

疲れてきたのでこのへんでいったんやめるが、どうやら傾向ははっきりしている。

<大学・社会人>のカテゴリーには高校から社会人を経てプロ入りした人もいるから、必ずしも「大卒優先である」とは言いきれない(実際には大学を卒業していない人が結構いるという話もあるし)。
だが、「高校から直接プロ入りした監督」が少数派である年が多いことは明らかだ。しかも、調べた範囲では、古い方がその傾向が強く、今はそれほどでもない。
実力の世界と言われるプロ野球でも、実力が計りづらい分野では学歴が影響する余地がある、ということだろうか。正直なところ、ここまで差があるとは、調べてみるまで気付いていなかった。

この件、もう少し調べてみようかと思っている。

| | コメント (12) | トラックバック (0)

夢枕獏「東天の獅子/天の巻・嘉納流柔術」(全4巻)双葉社

 夢枕獏は「魔獣狩り」で売り出した頃に何冊か読んだが、熱心な読者ではない。格闘技については、経験もないし、熱心な見物人というわけでもない。格闘小説についても然り。

 というわけで通常なら守備範囲外の本書だが、講道館柔道の始祖・嘉納治五郎について少し調べたことがあり、以来、関心が持続していた。講道館の草創期を描いた小説と知って手に取ってみた。

 単行本4冊を、一週間もかからないうちに一気に読み切った。それほど面白い。
 戦後、木村政彦がブラジルで前田光世の弟子と闘うプロローグに始まり、嘉納が講道館を創設した頃から、その名を天下に知らしめた警視庁武術大会での他流派との戦いあたりまでを描く。史実に基づいた小説、という形をとっているが、相当によく史料を調べていることを伺わせる。

 いわゆる講道館四天王をはじめ、九州や千葉の古流柔術家たちのキャラクターの強烈さ、その魅力は、著者が後書きで書いている通り、<時代小説の剣豪もの>の趣がある。格闘場面の迫力には凄まじいものがあり、互いに人体を破壊していく描写には紙面から目を背けたくなるほどなまなましいけれど、同時に、彼らがその凄絶な戦いを通して自分を、互いを見出していく喜びが存分に描かれている。

 嘉納治五郎が、彼のよき理解者であり後援者でもある勝海舟に<この時代遅れの柔術が、鉄砲より優れているものを持っているのです>と語る場面がある。

<敵である相手を敬い、相手のことを思いやる気持ちです>

<銃で、離れたところから相手を撃ち殺すのでは、絶対に伝わらぬものがあります。互いに、相手の身体に触れ、相手の力や技をその身に受けることで、相手がこの日のためにどれだけの研鑽を積み、どれだけの努力をしてきたのか、それがわかるのです。それは、自分がやってきたことだからです。自分と同じものに、相手も耐えて、そしてこの場に立ち今自分と向きあっているーーそれがわかれば、それは、自然と相手への尊敬の念にかわりますーー>

<今、西洋から、海を越えて新しいものや新しい考え方が、この国が消化できぬほどの速さで入ってきています。その時、わが日本国が忘れてならないのは、この日本人の精神です。そのためにも、今、柔術が必要なのですーー>

 この精神が、夢枕が描く試合場面のすべてに通底しているのだろう。だから、どんなに凄惨な戦いにもカタルシスがある。

 この対話の中で、嘉納は勝から<おまえさんが、新しいことをやろうってえ言うんなら、そいつを、新しい名前で呼ぶのがいいかもしれねえ>と、「柔道」の名を贈られる(もちろん、史実ではなく著者の創作だと思うが(笑))。
 
 
 当blogの講道館柔道に対する関心事は、前述のエントリの経緯から、主に嘉納の政治力にあるのだが、もちろん著者の関心は格闘にあるので、政治力方面の記述はほとんどない(二度の警視庁武術大会をクライマックスとしているので、話がそこまで行っていないせいもある)。
 ただ、講道館が初めて武術大会に参加するにあたって、投げ技での一本を認めさせる、といういきさつが描かれている。当時の柔術界では、投げ技は寝技や絞め技に持ち込むための過程と考えられ、投げだけで決着がつくことはなかった。しかし、講道館だけは、投げ技によって勝敗が決まるというルールをとっていた(野外で戦い、固い地面や岩に投げつけられれば、それで戦闘能力は失われる、という理由による)。
 嘉納は大会の前に警視総監に談判し、野外であったら戦闘能力が失われるであろう投げられ方をした場合は一本と認める、という合意を得た。これもまた、畳の外での戦いであることは言うまでもない。
 
 
 講道館以前の柔術は、流派の技は門外不出であり、相手の知らない技を持っていることが有利になる世界として描かれる。また、それまで本土ではほとんど知られていなかった琉球空手に接した時の柔術家たちの反応も興味深い。
 
 つまり、この時期の柔術(柔道を含む)は、それ自体が総合格闘技であり、他流派との試合は異種格闘技戦と捉えることができる。
 著者はあとがきでこう書いている。

<このところ柔道はJUDOとなって、嘉納治五郎が始めた頃、頭に思い描いたものとは大きくかけ離れたものになっている>
<柔道には、歴史の中に消えていった、あるいはゆこうとしている多くの古流柔術に対する責任があると思うのである。
 柔道が、世界に広まるためにJUDOとなってゆくのはしかたがないとしても、それとは別に、一年に一度か、二年に一度くらい、当時の柔術に近い柔道のルールを作って、講道館で大会を開催していただきたいと思っているのである。誰でも、どの競技の人間でもこれに参加できるものになればいいと思っている。当然、ぼくにとっては、こちらの大会の方がオリンピックよりも上位概念となる。
 そうでないと、日本柔術の多くの技や形、精神までが滅んでしまうのではないか。>

 柔道とJUDOは違う、という表面的な言葉は多くの柔道家と似ているが、夢枕のベクトルはたぶん彼らとは逆方向を向いている。「柔道」という世界に引きこもるのではなく、JODOをも飲み込んだ大きな概念として柔道を捉えている。
 それは魅力的な考え方だ(実際にやる人には大変だろうけれど)。そして、嘉納の歩んだ道は、夢枕の考えに近いのだろうと思う。

 あとがきによると、本書は次の4つの小説の構想をのみこんだものになるらしい。

1)講道館創成期の物語
2)明治大正における、日本にやってきた外国人格闘家との異種格闘技戦の物語。
3)コンデ・コマこと、前田光世の物語(『東天の獅子』)。
4)コンデ・コマ以外の、海外へ渡った日本人格闘家の物語。

 3)を書くつもりで始めたら、1)の部分が膨らみすぎて、とりあえずそこまでで区切りをつけたのが、この「天の巻」4冊。2)3)4)は、いずれ「東天の獅子/地の巻」として書かれるという。私は特に4)に関心がある。
 数多くの連載を同時進行させ多忙を極めているであろう作家のことだから、いつになるのかわからないが、「地の巻」を楽しみに待つことにする。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

見物人の節度。(再録)

 いずれはこういうことも起こるのではないかと懸念してはいた。

プロ野球観戦中にファウル直撃 男性が楽天など提訴

仙台市宮城野区のクリネックススタジアム宮城で昨年5月、プロ野球の試合を観戦中にファウルボールが右目に当たり、失明寸前の大けがを負ったとして、宮城県大崎市の税理士の男性(47)が7日、球場を所有する県と球団を運営する株式会社楽天野球団に対し、約4400万円の損害賠償を求める訴えを仙台地裁に起こした。

 訴状によると、男性は昨年5月18日、同球場の3塁側内野席で家族と試合を観戦中、楽天の打者が打ったファウルボールが右目を直撃。右目眼球破裂とまぶたを切る重傷を負い、今年3月23日まで通院治療を行ったが、以前は裸眼で0・3だった視力が0・03まで低下するなど回復しなかったという。男性が座っていた席には防護ネットなどは張られておらず、ライナー性の打球がそのまま男性の目に当たる形になった。

 担当の弁護士によると、男性は「ビールを席の下に置いて顔を上げたら、目の前にボールがあった」と話しているという。>(産経新聞より)
 
 
 ケガをした男性には、気の毒なことだったとは思う。不幸な事件だ。
 具体的に彼がどのような席に座っていたのかはわからないし、クリネックススタジアム宮城のフェンスが今どうなっているのかも直接は知らない(私があそこを訪れたのは、まだフルキャストと呼ばれていた2005年が今のところ最初で最後だ)。

 ただ、一般論として言えば、防護ネットのない席に座るのがどれほど危険なことなのか。強い打球が直接飛び込んでくる危険がゼロに近い席がほかにたくさんあるはずなのに、あえて防護ネットがない席に座ることがどんな意味を持つのか。そこに座る観客には自覚してもらいたいという思いはある。

 東京ドームの内野ネットの内側に設けられたエキサイトシートはとても人気のある席だが、当然ながら強いファウルボールが直撃する可能性がある。そこではすべての座席にヘルメットとグローブが用意されているのだが、先般のWBCで3試合続けてすぐ後ろから見た時には、ヘルメットを着用しない観客がかなりの割合に及んでいた。ヘルメットをつけないまま、インプレー中に後ろ向きで子供の世話をしている若い母親もいて、見ている方が冷や冷やした。
 
 
 プロ野球のフランチャイズ球場が、グラウンドと客席を隔てるネットを外したり、下げたり、ネットの内側に客席を設けたり、フェンスを低くしたりということを一斉に始めたのは、近鉄が消滅し、楽天が誕生し、球団も選手会も声を大にしてファンサービスを唱えた2005年シーズンのことだった。

 その頃にこのblogに書いた<見物人の節度。>というエントリがある。後半でこの話題を扱っている。
 今読み返しても、私の言いたいことはほぼ書き尽くされているので、後半部分を再録する。

 今回の事件で野球界の側に足りなかった点があるとすれば、ここでいう「社会的合意」を形成するための努力だったのだろうし、今後取り組むべき方向もそこにあると思う。

********************************

(前略/冒頭はMLBについての話です)

 ネットがなければ、観客自身にも危険がある。一、三塁ベースの斜め後方あたりの客席には、痛烈なライナーのファウルボールが飛び込む。それもジアンビーやプホルスの打球である。並みの速さではない。ボールに当たってケガをする人がいないはずはないと思うが、それが大問題になったという記憶もない。「熱いコーヒーをこぼして火傷したのは店の責任」などという理不尽な訴訟がまかり通る国なのに、野球場でのケガに関する訴訟が大きな話題になったという記憶もない。

 たぶん、アメリカ人にとっては、「野球というのは、そういうもの」なのだろう。理屈ではなく、昔からそういうものだと決まっているのだ。時にはプレーの邪魔をする不届き者がいたり、打球に当たってケガをする不運な人がいたりもするけれど、だからといって野球を「そういうもの」でなくしてしまうことはできない。それが関係者にとっての、あるいは国民にとっての合意なのだろう。

 日本でも今シーズンから、ネットのない観客席を設ける球場が増えてきた。
 従来のスタンドの内側に、防護ネットのない内野席エキサイトシートを設けた東京ドーム。内野席のネットをなくした横浜スタジアム。フルキャスト宮城でも、外野のファウルグラウンドを極端に狭くし、フェンスを低くしている。
 メディアはこれらの試みを「グラウンドと観客を一体化する」と好意的に伝えている。私もいずれ座ってみたいものだと思っている。
 だが、これらの席には、いつか必ず痛烈なライナーが飛び込む。一定の確率でケガ人が出ることは避けられない。清原やローズがフルスイングした打球を、誰がよけられようか。また、選手が捕るべきボールを先につかんでしまう不心得者も、いずれ現れることだろう。

 そんな事件が発生した時が正念場だ。球団や球場は、自分たちの決断を疑わずにいられるだろうか。メディアは、掌を返して「主催者の管理責任」を追及するいつもの習慣を、我慢できるだろうか。
 それはつまり、我々は「野球というのは、そういうものだ」という合意を形成できるだろうか、ということでもある。

 観客はボールの行方から一瞬たりとも目を離さず集中すべきだ、選手と一緒に戦え、ビールなど飲んでいる場合ではない等々と主張する「ネット不要論者」も世の中にはいるようだが、すべての観客がそうあるべきだとは、私は思わない。野球はそもそも退屈な時間の多い見世物であって、ビール飲んで弁当食って友人たちとお喋りしながら見物するにも適している。そういう楽しみを否定してしまうのは惜しい。
 それに、実際にスタンドに座って見ていると、ファウルボールが近くに飛んできた時、アメリカの観客はほぼ例外なくボールをつかもうと争うけれど、日本の観客は必ずしも全員がそうではなく、ボールから逃れようとする人も結構いる。別に、どちらが正しいというわけでもない。ただ、そこで逃げてしまうような人が、うっかりネットに守られていない席に座ってしまうような宣伝や売り方は、しない方がいい。
(その意味で、エキサイトシートに萩本欽一という老人を座らせた日本テレビは、間違ったメッセージを視聴者に伝えており、感心できない)

 要は、それぞれが求める楽しみにふさわしい席を得られれば、それでいい。
 歌と鳴り物で応援したい人は外野席へ。弁当とビールと談笑を楽しみたい人はネット裏へ。一投一打に集中して観戦したい人だけが、ネットのない内野席へ。そんな社会的合意ができていれば、ネットのない席でファウルボールに当たってケガをする人が出たとしても、それが「防護ネット復活キャンペーン」につながる可能性は下がる。

 ネットを外すという試みは、責任回避を重視する日本の組織にとっては、簡単にできることではないと思う。フルキャスト宮城は県営球場、横浜スタジアムは第三セクター、どちらも自治体がかかわっているだけに、なおさらだ。
 おそらく打球の危険性については、それぞれの組織内部で相当厳しく指摘され、それでも実現するという決断を誰かが下しているに違いない。
 だとすれば、その勇気に敬意を表し、支持をする覚悟を、メディアも観客も持つべきだろう。我々は、MLB100年の伝統に匹敵する合意を、これから形成していこうという立場なのだから。


追記(2009.4.10)
コメント欄でご指摘いただいたが、MLBでも類似の訴訟はある。一般的には球団側が勝つか棄却されることが多いようだが、状況によっては原告の主張が認められる場合もあるようだ。

http://www.boston.com/news/local/massachusetts/articles/2004/06/10/
court_sides_with_red_sox_in_foul_ball_injury_lawsuit/
(うまく表示されないので途中で改行しています)

http://www.desmoinesregister.com/article/20090314/NEWS/903140337

また、NPBの「試合観戦契約約款」には、主催者の免責事項として以下の事柄が挙げられている。ただしこれが観戦者全員に充分に周知徹底されているかといえば疑問ではあるが。

第13条 (責任の不存在)

 主催者は、観客が被った以下の損害についての責任は負わないものとする。

(1) ホームラン・ボール、ファール・ボール、その他試合又は練習行為に起因する損害
(2) 暴動、騒乱等の他の観客の行為に起因する損害
(3) 球場施設に起因する損害
(4) 本約款その他主催者の定める規則又は主催者の職員等の指示に反した観客の行為に起因する損害
(5) 第6条の入場拒否又は第10条の退場措置に起因する損害
(6) 前各号に定めるほか、主催者又は主催者の職員等の故意行為又は重過失行為に起因することなく発生した損害
2  主催者が負担する損害賠償の範囲は、治療費等の直接損害に限定されるものとし、逸失利益その他の間接損害及び特別損害は含まれないものとする。

| | コメント (11) | トラックバック (0)

100万ヒット記念・自選エントリ集(本と映画とその他篇)

 あんまりいつまでも記念興行をやってるのもナンなので、駆け足でいきます。本と映画とその他の話題に関する雑文を集めました。これで自選エントリ集はひとまず打ち止めです。


ベッカムに恋して、ミア・ハムに憧れて。
映画「ベッカムに恋して」を素材にした雑文。ベッカム本人がアメリカに行くなんてこと、当時はまったく想像つきませんでした。

国を持たない人々の「ナショナル・チーム」。
サッカーのチベット代表チームの海外遠征を描いたドキュメンタリー番組の紹介。実質的にはサッカーを通してチベット問題を扱った番組でした。

誤読される流行語。 〜「負け犬」をめぐって〜
「負け犬」ブームの頃の、ある新聞コラムについてのコラム。ディスコミュニケーションもコミュニケーションのうち、という気がします。

マックイーンは何と答えたか。
リバイバルで見た「荒野の7人」の感想です。

佐藤優『国家の罠』新潮社
ストレートな感想文ですが、Googleで「佐藤優」を検索すると上位に来るせいか、4年近く経っても検索して訪れる人の多いエントリです。こんなに引っ張りだこの書き手になるとは想像外でした。

森達也を読みながら。
ときどき読み返して自戒したい文章です。

星新一のメディア・リテラシー論。
この後、古書店でエッセイ集を何冊か入手して読んだのですが、まだ出典が見つかりません。ホントに星新一だったんだろうか…? 自信がなくなってきました。

『必殺仕置人』とその時代。
タイトル通りの番組紹介。「念仏の鉄」の名を借りるからには一度は書いておかないと。「必殺仕事人2009」、最初はつまらないと思ったんですが、だんだん調子が出てきた気がします。

勝利か、教育か。 〜『コーチ・カーター』の指導論〜
西武の裏金騒動の頃に思い出しました。

神話に著作権者はいない。 〜「バットマン」と「スターウォーズ」〜
SW3を褒めていた人たちは、今はどう思っているのでしょう。

ピーター・ジェニングスの死。
偉大なニュースキャスターの追悼文。後にNHKのスタッフが書いた評伝「ザ・アンカー ピーター・ジェニングス」(平凡社)が刊行されました。

戦争を知らない世代が語る戦争のリアリティ。
漫画「夕凪の街 桜の国」などについて。紹介しそびれましたが、映画化作品も素晴らしい佳作でした。

今日が日本の敗戦記念日。
9月2日をほとんど誰も気にしていないという状況はその後も変わらないようです。

『ホテル・ルワンダ』を観て、勝海舟を思う。
アフリカ現代史を理解するために、明治維新という補助線を引いてみた、という文章。シンポジウムに出てくる松本仁一氏の近著「アフリカ・レポート」(岩波新書)もお勧めします。

『単騎、千里を走る』、無力な高倉健という試み。
現時点でもこれが健さんの最新作。そろそろ新作を…。

ジョン・ル・カレ『ナイロビの蜂』(上・下)集英社文庫
小説の感想文からも1冊くらいは。ル・カレは若い頃から好きな作家の1人です。

本宮ひろ志というマンネリズム。
サラリーマン金太郎、また帰ってきましたね(笑)。

えのきどいちろう『サッカー茶柱観測所』駒草出版
2月に東伏見で行われた日本選手権の日光アイスバックスの試合を見に行きました。そこで買った10周年記念誌がまた力作でした。

対象となっている本を読まずとも意見を書く気を起こさせてしまうのがブログというものではないんでしょうか。
梅田さん、結局スルーしっぱなしですね。blogで紹介されていた水村さんとの対談は読んでいません。blogで始めた問題提起なのですから、blogの上でも何らかの落とし前をつけていただきたかったのですが…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

100万ヒット記念・自選エントリ集(スポーツ一般/スポーツライティング篇)

 第3弾は野球とサッカー以外のスポーツを扱ったエントリと、スポーツライティングの書評のようなものです。

<その他のスポーツについて>

美を採点するという困難
野球とサッカーの次に多く取り上げているスポーツは、フィギュアスケートかも知れません。そんなに熱心なファンというわけでもないんですが。

氷上に咲く「時分の花」。
「浅田真央をトリノ五輪に出すべし」という騒ぎを真っ向から否定したので、荒らしさんも来ましたが、貴重なコメントもいくつかいただきました。
コメント欄の最後に書いた「幸福なシナリオ」、今のところは十分に可能性があることを嬉しく思いつつ、実現を祈っています。

ワタシをスキーに連れてってくれないのなら。
ウィンタースポーツが低迷する構造について。アイスホッケーのSEIBU廃部もショッキングな出来事です。これもいろいろ教えてくれる方がいて勉強になりました。

普通の人の、普通の人による、普通の人のための競技。
カーリング礼賛。後で出た小野寺さんの本を読むと、競技の背景に関する推測はだいたい当たっていたようです。チーム青森は世代交代に成功しているようで幸甚。

クール・ビューティーの威厳。
荒川静香の金メダルの滑りについて。その後、リンクで見たことはありませんが、時折テレビで見る彼女のスケートは、やはり味わい深くなったように感じます。

国立競技場をとりまくイヤな空気について。
サッカー専用に改修しようという動きも出てきましたが、2016年五輪が実現するか否かにもかなり影響されそうな雲行き。

歌っていた女王。
安藤美姫の世界選手権制覇に寄せて。浅田、荒川、安藤とエントリを立ててきましたが、いちばん好きなスケーターは武田奈也だったりします。

柔道の国際的地位は嘉納治五郎の政治力によって築かれたのではなかったか。
その後、嘉納家が全柔連と講道館のトップを退くことが決まったようです。嘉納家を悪役にするつもりはありませんが、全柔連や講道館が普通の組織になって国際戦略を練っていく上では、たぶんよいことではないかと思います。

伴走者が脱落する時。
競泳のレーザーレーサー問題について。日本のメーカーが悪いとか水連が悪いとか選手がかわいそうとかいう皮相的な論調には違和感がありました。日本メーカーも新作を投入して巻き返しを図っているようです。


<スポーツライティングについて>

井戸を掘った男たち<旧刊再訪>
blog開設初期には、古い本を2冊セットで語る、という趣向の<旧刊再訪>シリーズというのを時々やってました。これはJリーグ草創期を書いた本2冊。
手間がかかるのでシリーズは消滅しましたが(笑)、2冊組にするかどうかは別として、古い本を掘り起こして紹介する作業はしていきたいと思っています。

あるアメリカ人の詭弁術−−三木谷浩史社長に捧ぐ。
マーティー・キーナートの楽天GM就任を機に、彼が昔ネットに書いたコラムを批判した文章。元のサイトがなくなってしまったので微妙ですが。

『星屑たち』と、もうひとりの「アトランタ組」。
10年後くらいにさらに続編を読んでみたい本です。金子氏は今も落とし前をつけてはいません。

木村元彦『オシムの言葉』(集英社インターナショナル)
不朽の名著。加筆した文庫版も出ました。

名もない野球人へのまなざし<旧刊再訪>
これはもう、ぜひ原著を読んでいただきたい。木庭さんは野球殿堂入りすべき人物だと思います。

田口壮『何苦楚日記』主婦と生活社<旧刊再訪>
ワールドチャンピオン記念、という感じです。最近の田口サイトを見ると、寛くんはもう幼稚園児。他人の子供は早く育つものです(笑)。

真冬にビキニはたいへん結構だったのだが。
SPORTS Yeah!の休刊について。その後、老舗雑誌がばんばん潰れており、もはやスポーツ雑誌だから云々という次元ではなくなってきました。Yeah!は買い手を見つけたらしく、同じ編集長や執筆陣によるムックが出ています。WBC前に出たものは読みごたえがありました。

ベッテ/シマンク『ドーピングの社会学』不昧堂出版
ドーピングに関しては何度か書いてますが、いちばん読んで欲しいのはこのエントリ。というか、原著を読んでもらいたいわけですが。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

100万ヒット記念・自選エントリ集(サッカー篇)

 第2弾はサッカー関連エントリです。サッカーと野球にまたがるような話も収めました。

シュンスケ・コールが響く前に。
中村俊輔の変遷について。その後もよい方向に進み続けているのが嬉しいことです。

今の小倉隆史が好きだった。
今でも「ケガさえなければ」と言う人が多いですね。2009年現在の「今の小倉隆史」については何とも言いかねますが…。

キング・カズが横浜に降臨した夜に。
このblogでは珍しい観戦記。山口の挨拶に注目された方も多かったようです。そういえば彼は引退試合の開催を断念したそうで、理由は「フリューゲルスの名を使えない」からだと…。

その日の老将。
ナビスコカップで優勝した時のオシムについて。彼の戦術そのものを論じる力はないのですが、オシムについては結構よく取り上げていました。たぶん、食えない年寄りが好きなのでしょう(笑)。

ナイジェリアに見た黄金世代の夢、ポルトガルに見た現実。
今のところは黄金世代というより遠藤ひとりの物語になりつつありますが、さて、来年6月までに戻ってくる選手がいるかどうか。可能性のある選手はまだいると思っています。

スポーツのことはスポーツに還せ。
ワールドカップドイツ大会で出てきた「電通悪玉論」への批判。北京五輪では北島康介が「世界記録が出なかったのは決勝の時刻が早過ぎたから」という意味のことを言ってましたが、気に留めた人はあまりいなかったようです。アメリカのテレビ中継の都合でそうなったのですが。

『ペレを買った男』
面白い映画でした。もうDVDになっています。

彼我の差を埋めるもの。
贔屓クラブと言ってるわりにFC東京について書いたものが少ないので、ひとつくらいは入れておきます。

サッカー界はなぜ鈴木桂治を見逃したのか。
サッカー界はフィジカルに強い人材を獲得しそこねているのではないか、という暴論シリーズのひとつ。脇の甘い文章で、突っ込まれることも多かったのですが、いろいろ知らないことを教えてくれる人がいて勉強になりました。問題提起としては面白かったかな、と。


<野球とサッカーにまたがる話>

アンバランス・ゾーンに惹かれる。
その後ぱっとしなかったおかわり君、昨年は大ブレイクを果たしました。しかもデーブ大久保コーチの下で。

『ようこそ先輩』に見る野球とサッカーの差。
はてなで妙にたくさんブックマークされたエントリ。そろそろ北沢を起用するクラブがあってよさそうに思います。

Jリーグが「戦力均衡化」を唱えない理由。
野球とサッカーの育成と補強の構造の違いについて。比較対照する存在が生まれ、自らを相対化できるようになったことで、野球界はずいぶんと救われたように思います。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

100万ヒット記念・自選エントリ集(野球篇)

 当blogは3/24の未明に累計100万ヒットを記録しました。blogを開設したのは2004年8月ですが、アクセス解析を始めたのは2005年3月なので、ほぼ丸4年。ずっと熱心に見物してきた野球日本代表が2度目のWBC決勝を戦った日に到達したというのも、ささやかに心温まる暗合となりました。

 バックナンバーの参照にあまり親切でない造りの当blogですが、この機会に何度かにわけて、自分で気に入っていたり、節目となったエントリをご紹介します。昔話に興味のある方はどうぞ。まず野球関連から。

で、誰か大阪ドームに行ったのか?
球団合併問題が紛糾していた時期のエントリ。当時の世論に真っ向から反するアマノジャクな感じが、その後の芸風を規定している気が。blogを開設した途端に前代未聞の選手会ストライキが起こったことで、方向性が決まってしまった気もします。

英智はいつも途方に暮れている。
その後の英智は、ヒーローインタビューで微妙にブレイクしたものの、全体的にはあまり変わらない位置にいるあたりが好ましく思えます。守備のうまい若手が続々加入しているので踏ん張ってほしいところ。

落合博満『プロフェッショナル』ベースボール・マガジン社
書評の体裁をとった落合監督論、という感じです。

滑り込んだ松井。
松井のMLB一年目、レッドソックスとのリーグ優勝決定戦について。結局はあれがメジャーでのピークだった、なんてことにはなってほしくないのですが。

それでもまだ沈黙している人々。
選手会に批判的なエントリが多い当blogの中でも、特に嫌味な文章でした(笑)。裏金騒動における選手会の無力は、この延長上にあるのだと思います。

清原に見る「最後の昭和」。
ジャイアンツ末期の清原について。今読むと、何とも言えない結語ですが。

グールド進化理論が示すイチローの価値。
イチローのシーズン安打記録とグールドの進化論について。書評だか時評だかよくわからなくなってますが、そういうどっちつかずな文章を書くのが好きなようです。

ティノがブロンクスに帰ってくる。
ヤンキースの一塁手、ティノ・マルティネスについての感傷的な文章。彼が好きな方はどうぞ。続きもあります。

「中の人」の値打ち
楽天が、横浜のマスコットの中の人をスカウトした件について。この後、彼の力によって希代の名悪役Mr.カラスコが生まれたわけですから、楽天にとっては大ヒット人事でした。

上原君、頼むからカート・フラッドの名前くらい覚えてくれ。
上原君、果たして覚えてくれたでしょうか(笑)。

イチローは視線に脅えている。
イチローがシーズン安打記録を樹立したオフに文芸春秋に掲載されたインタビューについて。ここ1、2年でずいぶん彼は変わりましたね。第1回WBCでの経験が影響しているのかも知れません。第2回大会はどういう影響を彼に及ぼすか、楽しみです。

長嶋のいない4月、または「昭和33年体制」の終焉。
長嶋茂雄氏が病に倒れた翌年のシーズン開幕に寄せて。今季、日本テレビがジャイアンツ戦をほとんど中継しない、という現状は、まさに「ポスト長嶋期」なのだなと実感します。

ジーターを見ていればわかること。
タイトル通りのジーター評。熱心にヤンキース戦を見ていた頃でした(最近あまり見ていないのは、別に嫌いになったからではなく、地上波しか見られないマンションに引っ越したからですが)。先日のWBC対日本戦での悪送球には驚きました。

日本人がMLBの監督になる日。
今年、「ほぼ日」に掲載されたインタビューを読むと、ご本人、意欲が芽生えてきているようです。

「投げる文化遺産」の彼我。
遂に日本にもナックルボーラーが出現しましたね。舞台は関西独立リーグ、しかも女子。見てみたいものです。

斎藤雅樹が見せたエースの真価。
苦しかった試合を通しての斎藤論。「5点失っても6点目はやらない」というのは私の座右の銘のひとつです。

三角ベースの復権。
アフリカ野球友の会の活動は活発に発展しているようですが、国内小学生の草野球離れは…。

プロ野球に二軍は必要か。
暴論シリーズの代表作(笑)。江本孟紀氏とか豊田泰光氏とか、近いことを言う人も増えてきたようです(どっちが先だかよくわかりませんが)。

早熟の選手・遅咲きの指導者〜仰木彬氏を悼む。
この人こそ、代表チームを率いて世界で戦う姿を見たかった。忘れられない、忘れたくない方です。「35歳から53歳」の間にいる自分を叱咤激励するためにも。(この項、3/28に追加しました)

根本陸夫、最後の傑作。
根本氏については一度書いておきたかったので。存命なら城島の世界一を喜ばれたことでしょう。

「頑固な人」への信頼と懸念。
WBCアジアラウンド終了直後に書いた王監督論。その後発生した誤審への態度が、まさに「頑固な人」の真骨頂でした。

This is the YAKYUU.
第1回WBCの総括。いろいろありましたが面白く意義のある大会でした。

コミッショナーからのエアメール。
ある種の家宝になってます。その後転居したので、案内が送られてきたかどうかはわかりませんが。

「オレの魔球」を、もう一球。
朝日新聞の高校野球県大会の企画記事について。甲子園でもこの調子で報道したら、かなり好感が持てるのですが。

早実の斎藤はなぜ4連投しなければならないのか。
このblogでもっとも多くの人に読まれたエントリでした。今のところ斎藤も田中も大きな故障はないようで同慶の至り。

裏金を受け取るアマチュア野球側には、構造改革は必要ないのだろうか。
高校野球側にもいろんな改革の動きは出てきたようですが、「表に出して制度化」はまだ当分なさそうな感じです。

「756*」。
バリー・ボンズの通算本塁打記録達成に寄せて。結語を書いた時には、まさか彼もお仲間になっていたとは露知らず。ドーピング問題の陰からMLBはなかなか逃れられません。失われたのは10年どころではなさそうです。

禁句。
あまり結果で批判するのは好きじゃないんですが、北京五輪については、この点だけは許し難い思いでした。

代表監督は罰ゲームじゃないんですから。
最終的なセレクトについての感想は、最後の方に書いた通りです。

原辰徳ほどジャイアンツの監督にふさわしい人物などいるはずがない。
最後から2つめの文章は間違っていました。喜ばしいことに。

プロ野球におけるOver35世代の変遷の一例。
ちょっとした発見でした。こういう調査もの、やってみたいことはいろいろあるんですが手間がかかりすぎるのが難。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

ひょっとしてUSAにこそ野球を普及しなければいけないんじゃないか。

 最初に断っておきますが、「baseball」は「野球」に学べ、という話ではありません。念のため。

 WBCが始まる前には、前回と同様、「こんな大会に価値はない」「熱くなってるのは日本だけ」というような声がいろんなところから聞こえてきた。価値にはいろんな捉え方があるだろうから措くとして、蓋を開けてみて思ったのは、たぶん「熱くなってないのはUSAだけ」というのが正しいんじゃないだろうか(ま、南アフリカあたりも国を挙げて熱くなってるなんてことはないだろうけど)。

 ベスト4に残った日、韓、キューバはもとより、プエルトリコやベネズエラといった国々では、相応に高いモチベーションをもって大会に臨んでいたように思う。イタリアやオランダは、MLBおよび傘下チームの選手だけではなく、自国の国内リーグの選手も結構いたけれど、メジャーリーガーで固めた国と渡り合っていたのは驚きだった。欧州で開かれる次の五輪で野球が行われないのは残念だ。

 チームUSAにも、有力選手が参加してないとか、準備期間が全然なかったらしいとか、チームとしてのまとまりがないとか、いろんな問題はあるけれど、日本との試合を見ていていちばん印象的だったのは、ほとんど白人ばかりだったことだ。ジーターのほかにはロリンズとグランダーソンくらいか。ま、ハワードやデレク・リーが辞退したせいでもあるが、そのリーやケン・グリフィ、ランディ・ウィン、バーノン・ウェルズらが主軸に並んでいた前回とはだいぶ印象が違う(A-RODもいたからか)。
 「アメリカでは黒人の野球離れが進んでいる」という報道をここ数年、目にするようになったが、どうもそれは深刻なのではないか、という気がしてきた。

 「野球離れ」の理由として挙げられるのは、主として経済的な理由だ。都市部の貧困層にとって、野球は道具に金がかかるし、そもそもグラウンドがない。ボールひとつあれば路地裏でできるバスケットに人気が集まるのは当然でもある。
 また、プロ入りしてすぐに大金を稼ぐ、という点ではアメリカンフットボールやバスケットの方が有利らしい。NFLやNBAの事情はあまりよく知らないのだが、野球では大学卒のルーキーがいきなり活躍することは少ないし、最初のうちは報酬額も抑えられてしまうから、人生設計としてリスクが大きいのは確かだろう。

 USAの国内リーグは、ありとあらゆる人種が参加して、世界最高レベルでの野球が繰り広げられている。だが、そのプレーを担う選手のかなりの部分は、世界各国から集まっている。
 日本から見ていると<MLB=アメリカ>だけれども、<アメリカ>だと思っていたものから各国の選手を取り除いて残ったのが、あの<USA代表>だ。有力選手が大量に辞退したのは確かだが、それはドミニカやベネズエラも同じこと。

 世界中からかきあつめた選手たちのおかげで普段は見えにくいけれど、USAの実態は各国に比べてそれほど突出したものではない、というのが、今大会で明らかになったことのひとつのように思う。
 日本でも子供の野球離れが懸念されているが、USAの青少年の野球人口はどう推移しているのだろうか。子供たちは今も父親とキャッチボールをしているのだろうか。そういう風景自体がすでに神話なのだろうか。ご存知の方がいらしたらご教示ください。

 懸念されるのは普及の面だけではない。
 無限に上昇するかと思えたMLB選手たちの報酬も、さすがにこの不況で頭打ちになりつつはあるようだ。もともと一部の球団を除けば決して儲かってはいないとされる(そんなはずはない、会計上のカラクリだ、という見方もあるようだが)だけに、経営が厳しくなる球団も出てくるかも知れない。
 MLBの収益構造を支える柱のひとつは地元自治体だ。豪華な球場を自治体に(造ってくれなきゃ出て行くぞ、と脅して)造らせ、それを独占的に使用して、なおかつ球場を用いた商売(売店その他)の収益は球団が手にする、という、日本のプロ野球経営者から見れば信じられないほどおいしいビジネスモデルがあるわけだが、これだけ税収が落ち込むご時世に、自治体がこれまでのような負担をしつづけてくれるのかどうか。
 MLB機構の幹部たちからは、WBCのビジネス的成功を寿ぐ談話ばかりが聞こえてくるが、普及の面でもビジネスの面でも、少し足許を見直した方がよいのではないかと他人事ながら心配になる。

 MLBが揺らげば世界中が揺らぐのが、残念ながら今の野球界の実状だ。しっかりしていてもらわなければ困る。
 いや、ホントは、MLBに隙があるなら世界の有力選手をさらってきて主導権を奪おう、というくらいの元気がNPBにあってくれると嬉しいのだが。
 日本代表チームは、寄せ集めたコーチ陣と選手たちがひとつになってチームとして有機的に機能し、世界一を勝ち取った。
 NPBの偉いさんたち、いや、アマチュアも含めた野球界の競技団体幹部たちは、今こそ彼らに見習って「チーム」を目指してほしい。まずは監督人事に習って、若返りから始めてみたらどうか。アメリカ野球は日韓に学べ、と書いたアメリカの報道を見て満悦している場合ではない。って、最後は日本の話になってしまいましたが。

| | コメント (14) | トラックバック (0)

«終わりよければすべてよし(増補版)。