オーバーエイジ枠は手段であって目的ではない。

 野球における五輪の地位をどう考えるのか、てな話は、このblogで何度も書いてきたのだが、サッカーにおける五輪の地位というのも、同じくらい奇妙なものだ。

 メキシコの銅メダルまでさかのぼって語ろうとは思わないが、かつてはアマチュアの大会だったものが、84年ロサンゼルス大会では「プロ容認、ただし欧州と南米はワールドカップ不出場選手のみ」という奇妙な規定に変わり、92年バルセロナ大会からは23歳以下に限定、さらに96年アトランタ大会から「年齢制限外の選手を3人まで使ってよい」ことになって現在に至る、というのが五輪サッカーのレギュレーション小史である。

 FIFAにとっては自前のワールドカップこそサッカー界で最大の大会だから、他の大会は格下にしておきたい。IOCはすべての競技で五輪を最高水準の大会にしたいし、特にサッカーは試合数が多く集客が望める人気競技だから一流選手を出してほしい。2つの国際団体のせめぎ合いの結果として出てきた妥協案が「U23+オーバーエイジ」になったのだと理解している。

 そのような妥協の産物である大会に、どういう姿勢で臨むかというのは、これはもう各国が独自に判断するしかない。伝統的には、南米やアフリカは比較的熱心で、欧州はやる気が薄い、という傾向があったように思う。
 欧州主要国では21,2歳でビッグクラブの主力だったり、主力に手が届きそうな選手は珍しくなく、そういう選手はたいてい五輪には参加しない。そもそも同じ年の6月に欧州選手権が開催されるので、代表選手は当然ながらそちらを優先する。
 一方でブラジルのように、他の主要大会では優勝しているのに五輪だけ金メダルがない、という理由で国民から追い立てられるように優勝を狙っているらしい国もある。
 「世界」といってもその実態は一様ではなく、どこかのやり方を真似しても意味はない。日本は日本の事情に応じて取り組み方を決めればよい。

 というわけで、日本の事情を考えてみる。
 日本では、五輪の社会的地位は非常に高い。44年前の東京オリンピックの成功体験がいまだに影響しているのかもしれない(その後の札幌、長野の2度の冬季五輪も、成功といってよいと思う)。
 たぶん、世界の主要競技の趨勢は、五輪から競技別世界選手権に重心を移しつつある(少なくとも両者が同等になりつつある)のではないかと思うが、日本では今も圧倒的に五輪のステイタスが高い。そういう国民の視線が、必ずしも五輪が世界一の大会ではない野球やサッカーにも、大きな影響を与えている。
 だから、国内での人気を維持するために、五輪に出場し、ある程度勝ち進むことが必須となっている。

 一方、サッカー界内部の都合としては、将来A代表入りが期待される(あるいはすでに選ばれている)有望な若手に国際経験を積ませることが重要になってくる。欧州や南米、アフリカの強豪国、あるいはその選手たちと直接対戦する機会の少ないJリーガーにとっては、五輪本大会は貴重な機会だ。長い目でみればA代表の強化に役に立つ。

 ちょうどオーバーエイジ制度が作られた96年アトランタ五輪から、日本は4大会続けて五輪に出場することになることになった。
 これまでの3大会では、枠をどう使ってきただろうか。

 96年アトランタ五輪で、西野監督はオーバーエイジを起用しなかった。結果はグループリーグ敗退。とはいえ2勝1敗、優勝国ナイジェリア、銅メダルのブラジルと同組で、かつブラジルに勝ったことを考えれば、大健闘といってよい。
 ただ、私的な感想をいえば、あのチームにカズや井原がいれば結果は違っていたかも知れない、という思いは残る。あのチームには城のほかに信頼に足るFWがいなかったし、ナイジェリア戦の終盤、精神的なもろさを露呈した守備陣に、精神的支柱となれるリーダーがいたら、とも思う(これが、たらればの結果論であることは承知している)。

 彼らの起用が見送られた理由はわからない。ただ、Jリーグが発足した時からこの96年まで、西野はずっとJFAで仕事をしていた(オフト監督時代には山本昌邦と一緒にスカウティングを担当していたはずだ)。日本リーグ時代に監督経験があったわけでもない。当時の西野には、指導者としてプロのJリーガーを扱うだけの力量がなかった、あるいは、その自信がなかったということだったのではないかと私は思っている(93年ごろ、テレビ解説をしていた西野が中継を通してカズと話す場面を見たことがあるが、「西野?誰だっけ?」というカズの軽口に絶句していた)。

 2000年シドニー大会では、GK楢崎、DF森岡、MF三浦淳が起用された。2勝1敗で決勝トーナメントに進出、アメリカにPK戦で敗れてベスト8。結果は悪くないが、もっと勝てたのでは、というもやもやを抱いたファンは少なくないだろう(2002年のワールドカップでもほぼ同じことが言えるのだが)。
 当時のトルシエ監督は、A代表と、この前年に行われたU20世界選手権の監督を兼任しており、3世代の代表が同じコンセプトの戦術で指導されていた。選手自体もかなり重なっており、合同で合宿をしたこともあったように記憶している。オーバーエイジは3人とも20代半ば。戦術理解、年齢差、監督との関係、いろんな意味で障壁は小さく、無理のない起用だったと思う。

 当時は、チーム力をアップさせるという点で、この3人にどれほどの効果があるのだろう、と思った。
 が、今にして思えば、むしろ、アトランタ世代でありながらアトランタ五輪に出場していない3人に国際経験を積ませる、という意味があったのではないだろうか。
 2年後のワールドカップ日韓大会で、楢崎は正GKとなり、森岡はフラット3の要として開幕戦に先発した(試合中のケガでリタイアし、以後は“バットマン”宮本にその座を譲らざるを得なかったが)。三浦もシドニー五輪と同年のアジアカップや翌01年コンフェデカップに出場している。シドニー五輪の時点で、トルシエが3人を2年後のワールドカップのレギュラー候補と考えていた可能性は高い。

 2004年アテネ五輪で、山本昌邦監督はGK曽ヶ端、MF小野を起用した。FW高原も呼ぼうとしたが、彼が2002年ワールドカップを断念する原因となった血栓塞栓症の再発により果たせなかった。結果は1勝2敗でグループリーグ敗退。
 この件についてはだいぶ前に少し触れたことがあるが、本大会直前にチームの心臓部を取り替える、というやり方にはあまり感心しなかった。構想通りに高原も参加できていれば結果は違ったのかも知れないが、すでに代表の主力だった2人にとってどれほどのメリットがあったかは判然としない。他の選手についていえば、山本が掲げていたキャッチフレーズ「アテネ経由ドイツ行き」を実現させた選手は、駒野と、直前に故障した田中誠の代わりに呼ばれた茂庭の2人だけだった(南アフリカに行きそうな選手は6,7人、あるいはそれ以上になりそうだが)。

 で、ようやく話は北京五輪代表にたどりつく。
 反町監督が6月30日に発表した合宿メンバーは20人。本大会のエントリー枠は18人で、基本的にはこの20人が最終候補と考えられる(故障中の長友など、リスト外から最終メンバー入りする可能性を残している選手もいるが)。
 リストに入ったオーバーエイジはMF遠藤のみ。FW大久保も招聘しようとクラブと交渉を続けていたが、結局断られて断念した、と伝えられる。

 過去3回のケースと比較すると、反町構想はアテネにおける山本昌邦のそれに似ている。
 ただ、遠藤は状況によってはサポートタイプの仕事もできる選手だ。メンバーに加えたが最後「遠藤のチーム」にせざるを得ない、ということにはならないように思う。そこは小野とは違う。

 遠藤は、キャリアと実力のわりに、代表では恵まれてこなかった。日本が準優勝した99年のU20世界選手権では、稲本の不振によりレギュラーの座を得て活躍したが、同世代が出場したシドニー五輪は予備登録メンバーとしてスタンド観戦。02年、06年のワールドカップにも出場していない(06年はベンチ入りしたが試合には出られなかった)。
 現時点で遠藤は日本のA代表のもっとも重要な選手のひとりであり、2010年にも主力と期待されている。遠藤自身も出場経験のない五輪に意欲をもっていると伝えられる。
 そんなわけで、遠藤の招集は理解できる。
 ただし、8月の北京は滞在するだけで健康に支障をきたしそうな土地でもある。9月以降のワールドカップ最終予選に悪影響を及ぼす懸念が少しでもあるならば、それを犠牲にしてまで出場することはない、とも思っている(発熱で検査入院、と伝えられるだけになおさらだ。彼は内臓疾患で長期休養を余儀なくされたこともあるのだから)。

 一方、反町監督が大久保を欲するというのは解せない。
 五輪は普通のサッカーの大会よりも登録できる選手数が少なく、全部で18人しか連れて行けない。大久保のように退場の多い選手を選んだら、貴重な登録枠のひとつを数試合にわたって空費するリスクが大きくなる。北京に二十何人も連れて行けるのなら別だが、18人枠がある以上、大久保選出には賛成しがたい。

 いずれにしても、オーバーエイジに誰が選ばれるのか、という点だけに集中した報道にはいささか疑問が残る。
 ここまで書いてきたように、まず考えるべきは「北京五輪で何を目標にするのか」ではないだろうか。

 代表人気の盛り返しを狙って、どんな手を使っても北京での好成績を求めるのか。有望な若手によい経験を積ませ、「北京経由南アフリカ行き」となる選手を増やすのか。そのどちらに重点を置くかによって、オーバーエイジ枠の使い方は変わってくるはずだ。
 それとは別に、年代別世界大会に出場しそびれた中堅選手に国際経験を積ませる、という使い方だってありうる。
 また、ワールドカップ最終予選(と、順調にいけばその後の本大会)を控えた岡田代表監督にも、北京五輪はこういう選手起用をしてこう戦ってほしい、という希望は、たぶんあるのではないかと思う。

 そして、以上のどれを五輪の主目標とするか、という判断は、反町監督ではなく、JFAが決めるべき性質のことだ。
 そこを明確にしようとしないのはいつものことだが、まったく感心しない。

 ちょうどこの夏は会長の改選期となり、なかなか方針を出しづらい時期ではあるけれど、そうでなくても川淵現会長はその種のビジョンを明確にすることがまずなかった(あれほどよく喋るのに、肝心のことははっきりしないのだ)。次の会長が誰になったとしても、会長としてやるべきことをやり、現場に任せるべきことは任せる、というメリハリのあるリーダーシップを発揮してほしいものだ。
 今のまま五輪に突入してしまったら、どんな結果が出たとしても、それをどう評価すればよいかという基準が、私にはよくわからない。

 あるいは反町監督が、表向き口にはしないけれど、内心では密かに上のどれかの目標を定め、照準を絞っている、という類の腹黒さを備えていてくれたら、それはそれで頼もしいのだけれど。

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彼我の差を埋めるもの。

 EURO2008の決勝戦が行われる直前の週末。中断していたJリーグが再開した。
 6/29日曜の夜に東京MX-TVで放映されたFC東京とジェフ千葉の試合を見た(風邪ひいて伏せっていたので味スタには行けず)。

 3週間にわたってオランダの派手なカウンターやスペインの超絶的なパスワークに馴らされてきた目には、我が東京の選手たちのプレーは物足りなく映る(もちろんジェフも)。パスはスピードも精度も劣り、ミスも目立つ。雨が強かったから、と言いたいところだが、EURO上位国の選手たちは、大雨の中でも自在にボールを操っていた。

 だからといって、今週あたりいろんな職場や学校で口にされたり、ネット上にも転がっていそうな、「EUROを見ちゃうとJリーグなんて見てられないよ」などという言説に同意する気はさらさらない。
 自分の子供が属する少年野球チームの試合を、「MLBよりレベルが低いから」という理由で見ようとしない親がいるだろうか。私は子供を持ったことがないから想像で書いてるだけだが、贔屓のクラブ、自国の代表というのは、子供とまでは言わなくとも身内のようなもので、どんなに出来が悪くても関心を失うことはできない。
(もっとも逆に、EUROには日本が出てないから気楽に楽しめる、という面はある。ワールドカップもかつてはそういう大会だった)

 とはいうものの、いうまでもなく彼我の差は大きい。
 あのパスが、あのボールコントロールが、あのシュートが、あの突破が、あのオーバーラップが、あのインターセプトが、我が日本代表の選手たちにできるだろうか、と思う局面が数えきれないほどあった。一瞬のチャンスを冷徹に決め、厳しい局面を凌ぎ抜くタフな精神力を、彼らが持ち合わせているだろうか、とも。日本はスペインのサッカーを目指すべきだよ、と思った端から、あれは中盤の4人の超絶的テクニックやフェルナンド・トーレスのスピードやマルコス・セナのボール奪取があるから成り立つんだろ、という内なる声が追いかけてくる。

 監督がどうの戦術がどうのと言っても、いちばん大きいのは選手の力、というのがたぶん身も蓋もない真実なのだろう。一対一でことごとく競り負けるような力量差があれば、戦術でどうにかするといっても限度はある。監督の能力が勝負を分けるのは、あくまで選手の力量がある程度拮抗している場合。それ以上の差を埋めることのできる指導者も、いるかもしれないが、世界中探してもそれほど多くはないと思う。

 日本代表の6月の連戦の中で、すでにベテランの域にある中沢佑二は、若手が練習で100%を出し切ることをしない、と苦言を呈したと伝えられた。練習で100%の力を出し切らなければ、試合でそれを発揮することなどできない、と。
 その伝でいえば、国内リーグもまた同様。普段の試合で100%の力を出しきっていない選手が、国際試合でそれ以上の力を発揮することはない。

 EUROで見たようなあのパスを、あのボールコントロールを、あのシュートを、あの突破を、あのオーバーラップを、あのインターセプトを我々の代表選手たちができるようになるためには、まず毎週のJリーグでそれに挑み続けるしかない。
 そして、たとえばトルコのようにタフで不屈の精神力を発揮するためには、やはり日常の試合で、何点差があろうと、残り何分になろうと、諦めずにゴールに挑み続けることが大切なのだと思う。Jリーグでそれができない選手が、欧州に移籍したからといってできるようになるものなのだろうか(これまで欧州に行って成長した選手の多くは、Jリーグですごした数年の間にも、着実に成長していたと思う)。

 件の試合で、FC東京は開始早々に中盤の重鎮・今野を一発レッドカードで失った。
 ここで、例えば2トップの一角を下げて守備的MFを投入する、というやり方もあっただろう。自陣に引いて前半を無失点でしのぐ、という選択肢もあったかもしれない。だが東京は、選手交代をしないままパスを回して攻め続け、前半終了間際に先制点をもぎとった。
 後半は攻勢に出たジェフに押され、CB佐原がケガの治療で外に出ているうちに失点。それでも城福浩監督は、佐原を交代させず、3人の交代枠すべてに攻撃的な選手を投入し、最後まで攻め続けた。

 結果は1-1の引き分け。勝ち点で首位に並ぶチャンスのあった試合で最下位チームと引き分け、という結果は苦いものだ。
 だが、新監督のもと、チームも個人も成長していこうというこのクラブには、こういう戦い方がふさわしい。不利な局面でもリスクを恐れずに前に出る姿勢を貫くことは、長い目で見ればタフなチームを、そしてタフな選手を育てるはずだ。挑んで得ることを知った者だけが、さらに前に進むことができる。贔屓のクラブには、好調の時も不振の時も、そういう姿勢だけは持ち続けてほしい。

 それだけでJリーグが欧州に追いつける、とは言わない。だが、そうやって「もっといい自分」への第一歩を踏み出すことからしか、彼我の間にある長い距離を埋める作業は始まらない。


(説教臭いところは、己に言い聞かせている独り言だと思ってください…)

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宇都宮徹壱『股旅フットボール』東邦出版

 FC岐阜の練習風景を見たことがある。まだJFLに上がる前だったかどうか。
 岐阜市内の長良川河畔、住宅もまばらな郊外に、高級ホテルと会議場が忽然とそびえている。近くには立派なスタジアムも。
 練習場はそのまた近くの、こちらは地方都市によくある小さなスタンドのついたグラウンドだった。選手たちは、それぞれの前所属チームなのだろう、J1、J2、そのほか見たこともないようなユニホームを思い思いに身につけて練習に励んでいた。
 ミスター岐阜ともいうべき森山泰行は、どこか故障でもしていたのか、別メニューでトレーナーに付き添われながら、ゆっくりとピッチの外側を走っていた。
 ピッチ内にも何人か見覚えのある選手が認められたが、あの森山を、こういう場所で見ることには、特別な感慨を覚えた。

 そういう光景は、おそらく全国のさまざまな場所で見ることができる。森山ほどのビッグネームではなくても、Jリーグで、年代別代表で、あるいは高校サッカーで、名前を聞いたことのあるような選手が、JFLや地域リーグで戦い続けている。全国にはJリーグを目指すクラブがずいぶんたくさん誕生しているようだ。

 以前、『スポーツ・ヤァ』の休刊についてこのblogで書いたことがあったが、ヤァよりもずっと残念だったのは『サッカーJ+』の消滅だ。徹底的に国内サッカーにこだわり、毎号見開きでJ1J2全クラブの特集記事を載せていたこの雑誌で、もっとも楽しみにしていた連載が、宇都宮徹壱の「股旅フットボール」だった。
 全国9つの地域リーグで、それぞれJリーグを目指すクラブを訪問しルポするという企画。9地域10クラブについての文章に、地域リーグからJFLへの登竜門である全国地域リーグ決勝大会、さらに、その予選を兼ねて特殊な地位を占める“全社”こと全国社会人リーグ選手権のルポを加えてまとめたのが本書だ。『サッカーJ+』が残した貴重な遺産ともいえる(ついでにいうと、えのきどいちろう『サッカー茶柱観測所』の白眉ともいうべき巻末の文章「一心同体 柏バカ万歳」も、この雑誌に掲載された文章だ)。

 地域リーグは、J1、J2、JFLと数えていくと、日本における4部リーグにあたる。
 紹介されているのは、グルージャ盛岡、V.ファーレン長崎、ファジアーノ岡山、ツエーゲン金沢、カマタマーレ讃岐、FC岐阜、FC Mi-OびわこKusatsu、FC町田ゼルビア、そしてノルブリッツ北海道FCと、とかちフェアスカイジェネシス。取材時から2年、すでにJ2入りしたクラブ(FC岐阜)もあれば、本書を読むまで名前も知らなかったクラブもある。
 それぞれのクラブに、誕生の背景があり、歴史があり、人々の来歴があり、地域性があり、そして夢がある。J昇格までの具体的な見取り図をもっているクラブもあれば、まだ手探りの夢でしかないクラブもある。ともあれ、この国に、これだけの多様な夢があり、夢に向かって走る人々がいる、ということに、単純に感動を覚える。


 とはいえ、宇都宮は、ただ夢を称揚するだけではなく、夢と背中合わせに存在する苦い現実についても言及、または示唆している。


 ひとつは、これは思いも寄らなかった現象だが、地方都市を拠点とするスポーツクラブの増加だ。

 以前、高松を訪れた時に、市だか県だかの観光案内施設の中に、地元のスポーツクラブに関する展示を見て、面食らったことがある。
 野球の香川オリーブガイナーズは試合を見たことがあるし、サッカーのカマタマーレ讃岐は、そのインパクトのある名前を記憶していた(羽中田昌が監督に就任してから開幕までに密着した『情熱大陸』も見たし)。だが、そのほかに女子バレーボールの四国Eighty8Queenがあり、バスケットbjリーグの高松ファイブアローズがあり、アイスホッケーのサーパス穴吹がある。こんなにあるのかとちょっと驚いた。
 こぢんまりとした高松市にこれほど多くの地元チームがあったら大変だな、とも思ったが、本書ではまさにそのカマタマーレの記事の中で、スポンサー企業を獲得する上での困難について触れられている。競技間の競争が生じてしまっているのだ。

 おそらく、高松だけでなく他の土地でも似たようなことは起こるだろう。
 とすれば彼らは、Jリーグへの道程だけでなく、地域内での経済的自立や他競技との壁の解消とも取り組んでいかなければならない。
 理想的にはFCバルセロナのように総合スポーツクラブとして統合されればよいのだろうけれど(新潟ではかなり現実に近づいている)、それぞれ出自も違えば、異なる歴史も背負っている。まして地方になるほど人のしがらみは重い。部外者が考えるほど簡単にはいきそうにない。


 もうひとつは、本書に明記されているわけではないが、最近Jリーグが発表した将来構想に関わってくる。
 現在、Jリーグのチーム数は、J1が18、J2が15の計33を数える。Jリーグ将来構想委員会では、J1はこのまま、J2は22まで増やし、以後はJFLと3チームの自動入れ替えを行う、と発表した。

 単純計算すれば、残る椅子は7。
 本書にはJ参入を目指すクラブが10紹介されている。FC岐阜はすでにJ2入りを果たし、残るは9チーム。そして、本書では取り上げられなかったJを目指すクラブも少なくない。

 正確な数を把握するのは難しいが、Wikipediaの「Jリーグに将来参加を目指しているチーム」によれば、JFLに準加盟クラブが5、それ以外でJを目指すクラブが3。地域リーグ所属クラブは20を数える。さらに5部リーグにあたる各都道府県リーグに所属するクラブにも、J参入を掲げているクラブは数多い。
 要するに、すでにJリーグのキャパシティをはるかに超える数のクラブが、J参入に手を挙げていることになる。

 もちろん、手を挙げたからといって、加入条件を満たせるとは限らない。実際に加入申請を行い、準加盟が認められるクラブはずっと少なくなるだろうけれど、残る椅子の数を上回る可能性は充分にある。

 心配なのは、Jを目指したクラブが、相応の組織力と相応の戦力を備えて、なおかつ彼らの前に同じ椅子を目指すクラブが長蛇の列をなしている時、彼らは自分たちの番が回ってくるまで、その組織力と戦力を維持することができるだろうか、ということだ。
 上位チームが入れ替え戦の対象となってはいても、JFLそのものはJ3、つまりプロリーグではなく、あくまでアマチュアの全国リーグだ。地域リーグや県リーグも同様。それはつまり、Jを目指すプロ仕様のクラブが経営を成り立たせるだけの収益構造を用意していないことを意味する。

 FC岐阜は異例のスピードで地域リーグからJ2まで駆け上がったが、彼らはある時期からそれを意図していたという。
 アマチュアの弱小クラブがJ2昇格に足る実力を備えるためには、選手の人件費を始めとする先行投資が必要となる。しかし、スポンサー収入をはじめとする収益が本格的に期待できるのは昇格後。多額の先行投資を行いながら何年もアマチュアのまま足踏みしていては、経営が支えきれなくなってしまうのだ。

 岐阜は計画通り、短期間でゴールに飛び込むことができたが、これからJ参入を目指すクラブの中には、岐阜が恐れた「負のシナリオ」に直面するところも少なからず出てくるはずだ。それは必ずしも、それぞれのクラブだけの責任ではなく、アマチュアリーグを3部扱いしているというJリーグ側の構造的な問題でもある。

 Jリーグが、百年構想だ、各県にJクラブを、と夢をふりまき、各地に種をまいた結果、それぞれの土地にJを目指す人々が生まれた。
 目指しても力が及ばないところは仕方がない。だが、Jでやっていけるだけの総合力を備えたクラブに育ったにも関わらず参入までには絶望的な壁がある、という状況に陥ったとしたら、Jリーグは、何らかの手をさしのべるべきだと私は思う。

 本書の中で、ツエーゲン金沢のGMが『余所者、若者、馬鹿者』という金沢の諺を口にしている。何事か新しいことをなすのはこの3種類の人間だという意味らしい。
 その通り、当事者たちは腹を括って馬鹿者と化し、損得抜きで突っ走らざるを得ない。
 だからこそ、夢を振り撒き、種をまいた側は、育った夢をきちんと収穫する責任がある。それができなかったとしたら、百年構想は一気に萎んでしまう危険をはらんでいる。
 取り越し苦労かも知れないが、このシナリオは、もしかすると数年後には直面するかもしれない、ありうべき未来でもある。

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伴走者が脱落する時。

 スポーツライターの石田雄太に『メダルへの伴走者』(出版文化社)という著書がある。1998年、ちょうど10年前に刊行された本だ。96年のアトランタ五輪、98年の長野五輪(刊行は大会直前の1月末だから、試合結果は反映されていない)を題材に、スケート、スキー、陸上など、主要な五輪競技における用具開発者たちの歩みを描いている。

 最終章の第六章では、「気まぐれな人魚の水着」と題して、アトランタ五輪に臨んだ水着メーカーの苦闘が描かれている。

 当時の水連は、五輪においてミズノ、デサント、アシックスの3社から水着の供給を受けていた。ただし、大会ごとに男子競泳、女子競泳、その他(シンクロ、水球、飛び込み)の3部門に分けて、持ち回りで供給を依頼していたようだ。
 とはいうものの強制力はなく、選手が「普段着ているこのメーカーの水着がいい」と言い出せば、誰にも止めることはできなかった。予選での泳ぎに納得できなかった選手が、決勝で突然、別の水着を着てプールサイドに現れる、ということも充分に起こりえた(事実、ソウル五輪での鈴木大地は、水連が決めた水着でなく、普段から着慣れていた別のメーカーの水着で決勝に臨み、金メダルを取った、というエピソードが紹介されている)。
 だから、供給メーカーの担当者たちは、選手たちが最後まで自社の水着を使ってくれることを祈りながら、スタート台に立つ選手を見つめることになる。本章は、そんな知られざる苦労が軸になっている。

 10年後の6月。五輪代表選手たちにSPEEDO社のLZR RACER(レーザー・レーサー)着用を認めるか否か、という論争は、個々の選手の選択に任せる、という結論で決着した。性能に明白な差が認められる以上、合理的な結論だと思う(水連は時間をかけすぎた、という批判はありうると思うが)。


 今、『メダルへの伴走者』を読み返してみて思うのは、水連と水着メーカーとの取り決めが当時のような緩いものであれば、そもそもこういう論議は起こりえなかった。選手がレーザー・レーサーを着る、と決めれば、それまでだったからだ。
 水連と3社との契約がどのように変わったのか具体的には知らないが、10年前よりも水連に提供される利益は大きくなり、その分、水着着用を義務づける拘束力が強まった、ということなのだろうと思う。それ自体は特に悪いこととは思えない。
 また、メーカーが選手個人と契約を結ぶ、ということも、当時は行われていなかったのではないかと思う。競泳のアトランタ五輪代表選手はほとんどが学生で、数少ない社会人選手も、所属チーム名を出身校で登録している選手が多い。水泳の強化を担ってきたのは、あくまで学校とクラブだった。


 とはいうものの、メーカーの開発競争じたいは、今に始まったことではない。『メダルへの伴走者』にも、水着の開発史が紹介されている。

<一九八四年のロサンゼルスオリンピックの頃から、開発者たちの主眼は「水と水着との摩擦抵抗」というところに向けられ始めた。女子競泳の水着は、ここ十年、飛躍的な進化を遂げてきたといわれるゆえんである。
 デサントと常に開発の先頭を競ってきたミズノが、イギリスのスピード社とライセンス契約を結んで販売している<SPEEDO(スピード)>という水着ブランドでは、一九八八年のソウルオリンピックのために、新素材「アクアピオン」を開発した。
(中略)
 その翌年の一九八九年には、デサントが巻き返す。アディダス社と提携するブランド<arena(アリーナ)>で、超極細ポリエステル製の糸を使った新素材「ストラッシュ」を開発、表面の凹凸を極端に減らすことに成功したため、水の抵抗をこれまでの自社のものから一二パーセントカットできるようになった。
 また競泳用水着のサプライに新規参入してきたアシックスも、一九九二年に世界初のポリプロピレン、ポリウレタン混合の新素材を使った<P2>で、水を吸わないポリプロピレンの特性を生かして、水の抵抗を抑えにかかった。>

 これほど細かい話を知っているのは関係者だけだろうが、オリンピックのたびに選手たちが身に付けている水着の形状が変わっていくことには、普通の視聴者も気付いているはずだ。
 道具の性能によって成績が変わることは、スポーツ界では少しも珍しいことではなく、それは競泳においても例外ではない。

 にもかかわらず今回のレーザー・レーサーが日本の水泳界に大きな衝撃をもたらしたのは、その成績向上幅の大きさもさることながら、それが日本以外のメーカーから登場したことにあったのではないかという印象を、私は持っている。

 上の引用部分で気付いた方も多いと思うが、かつてミズノは日本におけるSPEEDOのサプライヤーだった。両社の契約が解消されたのは昨年の今ごろのことらしい。Wikipediaの記述によると、世界的なブランドとしてのSPEEDOの成功において、ミズノの技術力が寄与した面はかなり大きなものだったようだ。

 だが、ミズノは創業100周年を機に、SPEEDOとの契約を解消し、自社の水着ブランド「ミズノスイム」を立ち上げ、看板選手として北島康介とや武田美保と契約し、チームも結成した。自社の技術力をもってすればSPEEDOを凌駕できる、という自信もあったのだろうと思う。
 書いている方の素性は不詳だが競泳水着事情に非常に詳しいblog「ぱ〜まねんとヴァケーション」の、契約解消以前に書かれたエントリからも、そのような周囲の評価がうかがえる。

 レーザー・レーサーが発表されたのが今年2月。3年をかけて開発した、と謳っているから、ミズノと提携していた当時から開発は始まっていたことになる。ミズノがこの新型水着の存在をどこまで把握していたのかはわからないが、結果からいえば、レーザー・レーサーの存在が、SPEEDOをミズノとの契約解消に踏み切らせた、という面もあったのだろう。

 いわば、見限った相手から強烈なしっぺ返しを食らったようなものだから、ミズノにとっては衝撃も大きかったに違いない。
 水野正人会長はJOC副会長でもあるから、日本のスポーツ界および水連への影響力も当然ながら大きいはずだ。レーザー・レーサーの出現から、昨日の「五輪での着用容認」決定まで、外部から見れば動きが鈍いのではないかと思えるほどの時間をかけて、水連が慎重に検討を進めてきたのは、このミズノの存在の大きさとも無縁ではないだろう。上に紹介した「ぱ〜まねんとヴァケーション」の最近のエントリでは、契約解消の経緯に触れつつ、ミズノの姿勢を厳しく批判している。ここに書かれたミズノの政治力行使ぶりがどの程度事実なのかはわからないが、ありそうな話だと思わせるだけのリアリティはある。
 とはいうものの、最終的にはレーザー・レーサー容認という結論が出たのだから、現時点でこれ以上の批判は無用だろう(今後の水連のオフィシャルサプライヤー契約のあり方については、この教訓を反映したものにしてもらいたいが)。あとは本番までにどこまでその性能に迫れるか、ミズノにもデサントやアシックスにも期待したい。


 ただし、水連は容認しても、メーカーと契約している選手にとっては、すんなりレーザー・レーサー着用というわけにはいかない。彼ら彼女らは、五輪でそのメーカーの水着を着用することが義務づけられているはずだ。
 今朝(6/11付)の読売新聞の解説に、こんな一説がある。

<問題は弱い立場にいる契約選手だ。ある代表関係者は「契約があるため、公の場でLZR着用希望を言えずに困っている選手がいる」と打ち明ける。メーカーが開発競争で敗れたことに起因する話とはいえ、双方に不幸を招いてしまった。>

 読売の記事では、水連は「各社と個人の話。その過程で問題があれば(水連として)相談に乗る」とコメントしている。解説記事は<水連が選手を守りたいのなら、今こそ水泳界の指導者として積極的な問題解決に乗り出すべきだ。>と不満そうだ。

 率直にいうと、こういう論調には違和感を覚える。
 選手とメーカーとの契約には、水着のほかにもさまざまな利便の提供が含まれているはずだ。選手は、水着を含めて、そのメーカーが供給する競技環境がベストだと判断したから契約を結んだのではないだろうか*。F1レーサーがシーズンの途中で「あっちのチームのエンジンの方が優秀だから、あっちに乗り換える」と言い出すようなものだ。

 もちろん選手にとってもメーカー側にとっても難しい局面ではある。自社製品で勝ち目の薄い戦いに挑むべきか、他社製品でもメダルを獲得できる可能性が高い道を選ぶべきか。どちらを選んでも完全な満足は得られない。
 だが、メーカーと契約し、事実上のプロ選手として競技活動を続けているのであれば、そこは選手自身がメーカーと正面から話し合い、最善の道を探るべきだろう。
 上にリンクした「ぱ〜まねんとヴァケーション」には、オランダの強豪ピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドが契約メーカーに違約金を払ってレーザー・レーサーを着用している、と紹介されているが、それもひとつの解決方法だ。

 そのような大人としての話し合いができないのであれば、選手は、水着だけを提供されていた10年前と同じ位置に戻るしかないのではないだろうか。

 善くも悪くも、この10年でアマチュアスポーツ界はずいぶんと遠いところまで来てしまった。選手にとっても、伴走者たちにとっても。


*
 この一連の議論は、あくまで、選手が最高水準の競技環境を契約メーカーから提供されている、という仮定のもとに書いている。もし、契約はしていてもアルバイトしないと食べていけない、なんてレベルであれば別。
 また、昨年5月以前にミズノと契約した選手も、同列にはとらえられない。北島康介が最初にミズノと契約した時、彼はSPEEDOのアドバイザリースタッフだった。途中で水着を変えたのはミズノの方なのだから(途中で話し合いはあったのだろうけれど)、北島に選択肢を与えないようでは道義的に疑問だ。

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コクリツをサッカー専用競技場に?

 毎日新聞(の記事が載ったエキサイトニュース)から。

<国立競技場>大規模改修も視野…研究会29日発足 文科省 [ 05月29日 02時30分 ]

 文部科学省は国立競技場(東京都新宿区)について、サッカー専用競技場化などの大規模改修も視野に入れ、施設としてのあり方を見直すことを決めた。老朽化への対応が必要なことに加え、16年のオリンピック招致に向けて東京都が晴海地区に建設を計画している陸上競技場とのすみ分けも課題となるため。文科省は29日、有識者らを集めた調査研究協力者会議を発足させ、具体策の検討に入る。

(中略)

 現状ではトラックが8レーンしかなく、五輪など大規模な国際大会を開く規格(9レーン)を満たさない。トラック拡張にはスタンド改築が必要で、文科省幹部は「都が規格を満たす競技場を建設すると、(陸上競技場としての)需要が低下するため、サッカーなどの専用競技場にした方が現実的」と話す。

(後略)


 去年、ここに書いた通りの展開になってきましたな。誰だか知らんが文科省幹部を支援。会議の顔触れにサッカー関係者は入っているのだろうか。

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44年前の聖火リレー。

 市川崑監督の映画『東京オリンピック』の冒頭では、確か、アジア各国を東京に向かって走る聖火ランナーの姿が映し出されていた記憶がある。

 調べてみると、1964年の東京五輪では、確かに聖火がアジアを通過している。
 ギリシャ・オリンピアのヘラ神殿跡で採火式が行われたのが8/21。ギリシャ国内を走ってアテネに着いた火は、“シティ・オブ・トウキョウ”と名付けられた特別機で東京に向かったのだが、直行したわけではない。JOC公式サイトの東京五輪特集ページには、こう記されている。

<ギリシャから日本までは、イスタンブール(トルコ)→ ベイルート(レバノン)→ テヘラン(イラン)→ ラホール(パキスタン)→ ニューデリー(インド)→ ラングーン(ビルマ)→ バンコク(タイ)→ クアラルンプール(マレーシア)→ マニラ(フィリピン)→ ホンコン(ホンコン)→ 台北(台湾)と、11の中継地を経て、9月7日に沖縄に到着した。>

 このページにはルートの地図も載っている。途中まではともかく、ビルマ(現在はミャンマー)から東は、第二次大戦の戦場となった地域だ。戦争の終結から19年目。各地には、複雑な思いで聖火を見送る人もいたのではないかと思う。


 東京五輪の聖火リレーは、なぜこのようなコースを辿ったのか。
 NHKのテレビ番組「その時歴史が動いた」では、昨年1月に、「東京オリンピックへの道 ~平和の聖火 アジア横断リレー~」と題して、この聖火リレーを取り上げている。残念ながら私は見ていないが、番組サイトに概要が示されている。

<戦争で多くの教え子を失った田畑は、戦後、平和の祭典としてのオリンピック開催に再び挑戦する。しかし待ちかまえていたのは、アジア諸国の根強い反日感情だった。
田畑は、日本が平和な国を目指していることを伝えるため、戦争被害を与えたアジア諸国を10万人の手でつなぐ大聖火リレーを計画した。アジアの人々は東京への聖火を受け入れてくれるのか。
平和の祭典を目指した東京オリンピック、その知られざる長く険しい道のりを描く。>

 「田畑」とは当時の日本水泳連盟の田畑政治会長。元朝日新聞の記者・役員で、JOCの幹部、1964年の東京五輪誘致の中心人物のひとりだ。1940年の東京五輪(戦争のため中止)誘致にも尽力したらしい。


 番組は、“聖火リレーは成功、平和ニッポンはアジア諸国に受け入れられました、めでたしめでたし”というトーンでまとめられていたらしい。「テレビ批評的視聴記」というサイトでは、そのようなまとめ方に疑義を呈している。 
<侵略戦争の許しや反日感情をスポーツ大会で測る(悪く言えば請う)というのは、田畑の考えたスポーツと国際問題の別離とは言えないものである。オリンピックや競技大会を平和のアピールの場にしようという発想の起点からして、論理的には国威発揚や代理戦争と性格を同じくするものである。>

 まっとうな見解だと思う。NHKの番組サイトに紹介されている田畑の言葉は、国威発揚のために五輪を利用しようという点で、終始一貫している。

 東京五輪における最終聖火ランナーは早大陸上部の選手、坂井義則だった。五輪代表になれなかった一陸上選手が、大会を象徴する最終走者に選ばれた理由には、彼が、広島市に原爆が投下された日に、広島県内(山間部の三次市)で生まれたことが大きく影響している。
(「最終聖火ランナーは原爆の落とされた広島出身の人にやってもらいたい」という田畑の言葉も残っている)

 要するに、東京五輪の聖火リレーは、コース選定から最終走者まで、全体が政治的アピールの場として設計された示威活動だった、と言うことができる。
 “平和の祭典を開催することで、平和を愛する平和国家に生まれ変わったことを世界に知らせたい”というのは、あくまで日本の主観的な目的であって、相手がそのように受け取ってくれたかどうかは、また別の話だ。

 上記のNHK番組サイトの中に、戦後の五輪誘致に際して田畑と岸信介の間にあったやりとりが紹介されている。
<「平和を願ったオリンピックを開催すればアジアの国々も日本は変わったと感じてくれる」「戦争を起こした日本が、都合よく世界平和などといってオリンピックを開催できるような立場ではない」>
 「日本」を「中国」に入れ替えれてみれば、私の心情は岸に近い。同じように感じる人も多いのではないだろうか。


 オリンピック大会における聖火リレーは、ヒトラー政権下のドイツで開催された1936年のベルリン大会に始まる。以後、採火したギリシャから開催国までは何らかの交通機関を利用しつつ運ばれ、国内では走者によってリレーされるのが通例だった。上述の東京大会も、その原則から大きく外れてはいない。
 聖火リレーが世界各地を巡ったのは、2004年のアテネ大会が初めてで、過去の五輪開催都市を中心にリレーが行われた。

 1896年の第1回以来、ほぼ1世紀ぶりに発祥の地で開催される記念大会のために特別に行われた行事を、北京五輪で踏襲する理由が、IOCの側にあるとは考えにくい。北京側の強い意思によるものだろうし*、それが今、こうして墓穴を掘っている。
 そう嗤ってしまうのはたやすいのだが、こと聖火リレーについていえば、我々がやってきたことも、今の中国とそう大きな違いはない。


 上の方に引用した東京オリンピックの聖火リレーのルートをよく見てもらうとわかるが、東京への聖火は中国を通ってはいない。
 中国が拒否したとか日本が遠慮または警戒した、というわけではない。
 中華人民共和国が成立し、中華民国政府が台湾島に移った後もIOCが中華民国の加盟を認めていたことを不服として、1958年に中国はIOCを脱退した。復帰するのは1979年。そのため、東京五輪に中国は参加していない。不参加国を通る必要もないから、聖火リレーのコースに中国を加えるという選択肢は、最初から存在しなかったと思われる。

 もし東京オリンピックに中国が参加していたら、聖火リレーは中国を通っただろうか。その時、聖火は無事に中国を通過することができただろうか。
 長野での聖火リレーのテレビ中継を見ながら、そんなことも考えた。


*
スポンサーの意向が影響した、という報道もある。
http://office.kyodo.co.jp/sports/olympics/beijing/47news/034746.html

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カルラス・サンタカナ・イ・トーラス『バルサ、バルサ、バルサ!』彩流社

 FCバルセロナの本拠地カンプ・ノウ・スタジアムのバックスタンドには、MES QUE UN CLUBというカタルーニャ語の文言がくっきりと記されている(正しくはMESのEの上に’がつく)。
 英語でいえばMORE THAN A CLUB。「単なるクラブ以上のもの」という意味だという。
 これはこのクラブの標語のようなもので、FCバルセロナ周辺のいろんなところで目に付く(たとえば公式サイトのクラブ名の下にも記されている)。

 「単なるクラブ以上のもの」とはどういう意味か。なぜFCバルセロナは「単なるクラブ以上のもの」なのか。
 そんな疑問に回答を与えてくれるのが本書だ。

 日本語版の副題が「スペイン現代史とフットボール 1968〜78」。原題は、直訳すると「バルサとフランコ体制 カタルーニャにとって決定的だった数年間の年代記(1968〜1978)」という意味になるという(訳者の山道佳子が、なぜこういう邦題をつけたのかはよくわからない)。そのへんからもわかるように、これはスポーツライティングというよりは歴史書だ。
 スペインにおいて、バルセロナを州都とするカタルーニャ州は、独自の歴史と文化、言語を持つ地域で、今も独立を志向する動きがある。FCバルセロナは、そんなカタルーニャの地域性を代表するサッカークラブでもある。
 バルセロナ大学地理歴史学部教授で現代史が専門の著者は、クラブにまつわる豊富な史料と当事者たちへのインタビューに基づいて、FCバルセロナがいかにしてカタルーニャの地域性を代表するに至ったかを描き出す。

 20世紀初頭の内戦の後、フランコが独裁体制を築くと、スペインはマドリードを首都として中央集権化した。フランコが率いた反乱軍にとっての敵対勢力、共和国側の拠点だったのがバルセロナだった。そのためか、フランコ独裁体制が確立すると、カタルーニャは政府から強く危険視され、当初はカタルーニャ語を用いることも、自治を要求することも禁じされていた。

 そんな状況下で、カタルーニャの人々が公然とカタルーニャへの愛国心を発露することのできた数少ない(もしかすると唯一の)場が、FCバルセロナのホームスタジアムだった。FCバルセロナの会長ジュアン・ラポルタは日本語版への序文に、フランコの独裁体制下について、こう書いている。
<民主主義やカタルーニャ主義といった価値にとって、私たちのクラブが数少ない避難所のひとつとなった時代>

 とはいうものの、スポーツやサッカーの世界が政治から自由だったかといえば、そんなことはない。内戦以前はプライベートな活動だったスポーツは、フランコ独裁体制下では、独裁政党ファランヘの「国民スポーツ局」によって管理されることになる*。国民スポーツ局は各競技連盟の会長と副会長の任免権を握り、会長は地方連盟の会長・副会長を指名するという中央集権体勢がスポーツ界にもできあがった。

 そして、その体制の下では、FCバルセロナは何かにつけて連盟から苛められ、タイトルがかかった重要な試合では必ず審判がバルサに不利な判定を下し、外国人の獲得などのクラブ運営においても不利な裁定を下されることが多かった、とバルセロナの人々は考えている。逆に、常に優遇されたのが首都のクラブ、レアル・マドリードだ。この本を読むと大抵の人はレアルが嫌いになるだろう(笑)。
(もっとも、英国人フィル・ボールがスペインサッカー事情について書いた『バルサとレアル』では、それらはあくまでカタルーニャ人の主観的な見解とされている)

 だから、ラポルタがいう<避難所>は、決して安全かつ安泰な場であったわけではない。バルサが<避難所>たりうるために、歴代会長や役員たちは絶えず戦わなければならなかった。本書は、彼らがいかにしてクラブのカタルーニャ性を拡張してきたか、いかにして政府や連盟の抑圧と戦ってきたかを、過去の新聞雑誌や関係者たちの書簡、そして直接の証言などをもとに明らかにしていく。

 ピッチの上でのプレーについてはほとんど記されていないけれど、唯一ヨハン・クライフだけはクラブ史上の重要人物として登場する。
 それまでスペインリーグでは外国人選手は中南米のスペイン移民の子孫に限って許されていたが、実際には抜け道はいくらでもあったらしい。しかし、他クラブと同じように書類をでっちあげて移民の子を装わせた選手の獲得を却下されたことから、バルサはスペインフットボール連盟に国籍制限の撤廃を働き掛けて、ついに実現させた。
 そんな経緯があるだけに、意地でも世界一の選手を、と狙ったのがクライフである。1973年のシーズン途中に加入したクライフはすぐに大活躍し、クラブを13年ぶりの優勝に導いて、FCバルセロナの名を世界に轟かせた。まもなく生まれた長男につけた名前JORDI(ジョルディ)はカタルーニャ人にとても多い名でもある。クライフが今なおバルセロナで特別な存在であるというのも、わかる気がする。

 75年にはフランコがこの世を去り、スペインでは王制復活と民主化が進んでいく。カタルーニャは自治を取り戻す。以来30年、FCバルセロナは今も「単なるクラブ以上の存在」としてそこにある。今では、ユニセフへの支援と結びつき、貧困に立ち向かうクラブ、という意味合いも帯びているようだ。


 以上をお読みいただければわかるように、これは「スポーツに政治を持ち込んだ」クラブの歴史である。スポーツに政治を持ち込むのが悪なのであれば**、FCバルセロナは厳しく非難されるべきだろう。事実、独裁政権下でのバルサは、そのような批判を何度も受けている。そのような事実をどう捉えればよいのだろう。
 著者のサンタカナは「はじめに」の中で次のように書いている。

<スポーツの世界には、政治とスポーツは混同すべきではないと力説する指導者たちが多くいることを私は知っている。(中略)多くの場合そこには、民主体制の到来のために指一本さえも動かさなかった人たちの名前が連なる>
<スポーツへの政治の介入に反対する人たちは、実際のところある特定の「政治」に反対しているのであって、あらゆる政治、たとえば自分たちの「政治」はそれには含まれないのだ。>(P.9)

 本書の日本語版の刊行は2007年6月、原著は2005年にカタルーニャ語で出版されているから、著者がこれを書いた時には、2008年春に北京五輪の聖火リレーが走る先々で起こった出来事など知る由もない。
 けれども、このサンタカナの言葉は(とりわけ後半は)、「政治をスポーツに持ち込むべきではない」と言い続ける中国政府に対して、そのままあてはめることができる。

 本書を読めば、たいていの人が「バルサ万歳! カタルーニャ万歳!」と叫びたくなると思うけれど(私も多少なっている)、冷静に考えれば、スポーツクラブがこのようにエスニシティや愛国心と直結することを全面肯定してよいものかどうか、というためらいが私にはある。権力者がスポーツに政治を持ち込むのはダメだが反権力ならいい、というほど単純な整理もしづらい。例えば、木村元彦が描いてきたユーゴスラビア・サッカーにおけるクラブ愛と愛国心との結びつきのうち、どれが権力でどれが反権力か、などという判別ができるだろうか。

 ただ、たぶんこういうことは言えるのではないかと思う。
 フランコ政権のようにスポーツを政治の道具として利用しようとした者は、しばしばそこから強烈なしっぺ返しを食らう***。
 スポーツが帯びている政治性は、小賢しい知恵で利用できるほど生やさしいものではないのかも知れない。

*
1992年のバルセロナ五輪の際にIOC会長だったファン・アントニオ・サマランチ(本書によると正しくは「サマランク」だそうだ)は、この国民スポーツ局長を務めていた。バルセロナ出身のカタルーニャ人ではあったが、中央政府内での自身の立場を守るためにカタルーニャには冷淡に振る舞った人物、という印象を本書からは受ける。

**
わたし個人の中にはスポーツに政治が介入することに対する強烈なアレルギーがあった」と書いたスポーツライターがいるが、彼は一時期バルセロナに住んでいたはずだ。FCバルセロナが備えているこれほど強烈な政治性については何とも思わなかったのだろうか。不思議だ。

***
中国政府も以前、サッカーのチベット代表チームがデンマークで試合を行うことを阻止しようとして、かえってデンマーク全土に試合の開催を宣伝してしまったことがある。詳しくはこちら。今回の聖火リレーの経緯を見ると、彼らはデンマークでの出来事から何も学んではいないようだ。

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森本健成アナに10点さしあげる。

 NHKの朝の連続テレビ小説『ちりとてちん』は、毎日欠かさず、とはいかなかったが、近来になく魅き込まれるようにして見ていた。私にとっては『ちゅらさん』以来かも。何十年とやっているシリーズの中でも稀に見る傑作だと思う。明日で終わりというのが残念だ。

 同姓同名の同級生の美少女へのコンプレックスをずっと抱えて生きてきた女流落語家・徒然亭若狭こと和田喜代美(貫地谷しほり)の屈託を軸に、福井県の小浜で伝統若狭塗箸の職人を営む実家と、祖父がこよなく愛した上方落語家・徒然亭草若の一門、ダメだが愛すべき人物揃いの2つの“家族”を描くことに徹底的にこだわってきたシナリオ(藤本有紀)は、ブレることなくきっちりと結末をつけようとしている。

 今朝のラス前は、こんな話だった。
 亡き師匠・草若の宿願だった上方落語の常打ち小屋「ひぐらし亭」のこけら落としに出演した若狭は、満員の客席から拍手を浴びた後で、「わたしの最後の高座におつきあいいただき、ありがとうございました」と頭を下げる。
 若狭が落語をやめるなどという話は誰も聞かされてはいない。もったいないやないか、と理由をただす兄弟子たち、血相を変えて楽屋にやってきた家族を前に、若狭は「おかあちゃん、ごめんな」と言い出す。

 謝ったのは、落語をやめることについてではない。
 13年前、小浜を出る時に「おかあちゃんみたいになりたくないねん!」と言い放った一言を、喜代美は悔いていた。自分のやりたいこともせず、家族の心配ばかりしているおかあちゃん。でも、おかあちゃんはそうやって太陽のようにみんなを照らしていた。それがどんなに素敵なことかわからなかった。
 「私はおかあちゃんみたいになりたいねん」。
 高座で脚光を浴びるようになっても心の奥底から消えることのなかった長年のコンプレックスから、喜代美が本当に解放された瞬間だった。

 以前、父(松重豊)が職人として表彰を受け、一家が集まって宴会をしているさなかに、おかあちゃんが突然泣き出したことがあった。おろおろする周囲におかあちゃんは、「おとうちゃんがこんな立派な賞をもらって、子供たちもやりたいことを一生懸命やって、みんなが笑顔で、それが嬉しくてな…」と話す。あれもきっと、この伏線だったのだな。ちょっと前にある人から聞いた建築家アントニ・ガウディの言葉、「誰かひとり家族のために犠牲になれる人がいれば、その家族は幸せだ」という言葉を思い出したりもした。あれはつまり、こういうことなのだろう。

 で、おかあちゃん(和久井映見がこんなにいい俳優だとは知らなかった)が「…何を言うてんねん、この子は…」と涙を浮かべて番組が終わる。エンドタイトルの後はいつも「8時半になりました。ニュースをお伝えします」と森本健成アナウンサーが登場するが、今朝はいつもと違った。森本アナの第一声は「明日の最終回もお楽しみに。」だったのだ。

 この時間の森本アナはいつも、画面に映る瞬間にモニターを見おろしていて、そこから顔を上げて喋り始める。その表情がしばしば、『ちりとてちん』のラストに見事に対応して(おもろい場面では微笑んで、深刻な場面では難しく、しんみりする場面ではしんみりして)いたので、森本さん、ホントに『ちりとてちん』が好きなんだな、と思っていた。
 もしかするとこの台詞、ラス前の朝の恒例なのかも知れないけれど、そんなわけで民放でよく見るような番宣臭さは微塵も感じず、つい言いたくて言ってしまった、という風情に見えて、とても共感が持てた。
 朝からちょっといい気分にさせてくれた森本アナに10点さしあげる((c)高橋洋二)。

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貧乏なマネー・ボール、金持ちのマネー・ボール。

 ボストン・レッドソックスとオークランド・アスレチックスの開幕戦が行われた東京ドームのスタンドで、日本にいた頃と同じように球数の多い松坂大輔を眺めながら、相手打線は知らない選手ばかりだなあ、と、ぼんやりと考えた。

 ここ1,2年はMLBの試合をろくに見ていないので(なにしろ今住んでいる部屋では地上波とMXTVしか映らない)、単に私が無知なだけかと思ったが、公式プログラムをめくってみると、出場している選手の多くは実際にほとんど実績がない。
 唯一のスターといってよいチャベスが故障で来日しなかったため、無名選手ばかりのラインナップになってしまった(<シャヴェス、エリス、クロズビー以外はみんなルーキーか、それに近い若手>と「メジャーリーグ完全データ名鑑2008」(広済堂出版)には書かれている)。もっともなじみ深い名前は、打撃コーチのタイラー・バンバークレオ(元西武ライオンズのバークレオ)だった。
 松坂はもちろん、マニー・ラミレス、オーティズ、ローウェル、バリテックと年俸10億円クラスのスター選手が並ぶレッドソックスとは、人件費総額に相当な差がありそうだ。
 そうか、これは“貧乏なマネー・ボール”と“金持ちのマネー・ボール”の対決なんだな、と改めて気がついた。


 2月の初めにNHK総合テレビで、ボストン・レッドソックスの選手獲得法を扱った番組が放映された。「NHKスペシャル 日本とアメリカ」というシリーズの第3回「日本野球は“宝の山” 〜大リーグ経営革命の秘密〜」というタイトルだ。内容は、Number創刊時の編集長だった岡崎満義がインターネット上のコラムに詳しく紹介している。

< 6年前にレッドソックスを買収してオーナーになったジョン・ヘンリー氏は、巨大マネーを操るヘッジファンド経営者で、「金融も野球もデータから始まる」「金融界では意味のある指標を見つけられなければ、いいトレーダーとはいえない」という哲学の持主。自らスコアブックをつけながら、野球観戦をする。子供の頃から野球のデータが好きだった。その哲学の信奉者がルキーノ球団社長であり、エプスタインGMであり、データ分析専門家のマックラッケン氏である。みんな客観的なデータを信頼する人材の集まりだ。

 松坂投手のようなスターに大金をつぎこんで獲得するためには、半面ではいかに安い俸給でいい選手を発掘するかが大切だという。その基礎資料となるのがデータである。

 しかも、そのためには世間に通用している常識的なデータではなく、データを分析し、新しい価値を構築して、選手の隠された可能性を発見しなければならない。レッドソックス独得の「新しい指標」を編み出しているのが、すこぶる興味深かった。>

 私はこの番組を、出張先の地方都市の宿で見ていた。
 確かに岡崎が書くように興味深い番組だったのだが、反面、最後まで見終えた時には少々驚いた。こういう内容の番組を「ビリー・ビーン」「ビル・ジェイムズ」「セイバーメトリックス」「マネー・ボール」という言葉をひとつも使わずに制作するという姿勢に面食らったのだ(NHKの番組内容を紹介し絶賛するだけで、そのことにまったく言及していない岡崎のコラムについても然り。いや、普通の書き手ならいいんだが、スポーツジャーナリストを名乗って書いている以上、これでは物足りない)。


 2003年(日本語版は翌年)に刊行された『マネー・ボール』は、日本でも評判になり文庫化もされている著名な本なので、今さら紹介するのもいささか気恥ずかしい。詳しくはAmazonの商品説明などをご参照いただきたいが、簡単にいえば、MLBの中でも資金力に乏しいアスレチックスのGMビリー・ビーンが、いかにして他球団が目をつけない優良選手を安く手に入れて強豪チームを築き続けているかを描いたノンフィクションだ。

 その「いかにして」の部分こそ岡崎がいう「新しい指標」、すなわち市井の野球愛好家ビル・ジェイムズが考案し、私家版の冊子で紹介したデータ解析方法だ。ジェイムズはそれをセイバーメトリックスと名付けている。

 打者であれば打率や打点よりも出塁率に着目する、攻撃側はアウトにならないこと、守備側はアウトを増やすことを最も重視する、というような、従来の野球界の常識とは異なる指標によって選手を選別することにより、他球団の評価は高くないけれど勝利に貢献できる選手を安価に集めることができる。それがビーンの方法論だった。

 『マネー・ボール』の終盤には、レッドソックスを買収したジョン・ヘンリーが、ビル・ジェイムズを顧問に招き、さらにビリー・ビーンをGMとして引き抜こうとするくだりが描かれる。ほとんどその気になっていたビーンは、しかし土壇場で翻意してアスレチックスに残ることを決意する。
 ビーンに振られたヘンリーが、代わりに雇ったのが当時最年少GMとなったセオ・エプスタインだった。そしてヘンリーは、セイバーメトリックスを用いた選手の獲得を試みる。その成功例としてNHKスペシャルが紹介したのが主砲デビッド・オーティズであり、岡島秀樹だ。ボストンの一塁を守るユーキリスも、その出塁率の高さにビーンが獲得を熱望した選手として『マネー・ボール』に印象的に登場している。

 かくして新生レッドソックスは2004年、2007年と二度のワールドシリーズ制覇を成し遂げる。21世紀初頭のレッドソックスの栄光は、『マネー・ボール』の後日談とも言えるわけだ。
 言い換えると、アスレチックスが、貧者が金持ちに対抗するために開発した方法論を、巨額の富によって実行したらどうなるか、という試みを実践したのがレッドソックスだった。
 バレーボールでは1960年代から70年代にかけて、背の低い日本選手が速攻という戦術を武器に世界を制したが、背が高く身体能力に優った欧米の選手たちが同様の技術を身に付けてしまったことでアドバンテージが失われ、日本は久しくメダルから遠ざかっている。そんな状況を思い出させるような構図が、ここにはある。


 NHKの番組を見てからしばらくして、そこで感じた不満を埋めてくれそうなドキュメンタリー番組をみつけた。アメリカのディスカバリーチャンネルが制作したテレビ番組のDVD「ベースボール革命 勝利の統計学」だ。

 こちらは2006年の制作。セイバーメトリックス理論そのものを紹介することに主眼が置かれ、ほぼ全編にわたってビル・ジェイムズ本人が語り手として登場している。ビルはそこで「出塁率こそ重要」「送りバントは得点の可能性を損なう」「盗塁は得点の可能性にほとんど影響がない」といった持論を展開している。

 興味深いのは、ボストンの監督テリー・フランコナが登場して、こう語っていることだ。
「私はあらゆる情報をかき集めて、それを最大限利用しようと思ったんです」
「時には賛成しかねるアイデアもありますが、彼(ジェイムズ)との会話は示唆に富んでいて、今でも楽しいものです」
 『マネー・ボール』でジェイムズがいかにMLB各球団から無視され続けてきたかを読んだ後でこの発言を聞くと、隔世の感がある。

 ジェイムズのデータ分析の主たる関心事は「どのプレー、どの数値が勝利に結びつくのか(あるいは結びつかないのか)」を解明することにある。彼が編み出す指標は、「どの数値が勝利を導くか」を意味し、それがひいては「どの指標にすぐれた選手がチームを勝利に導くか」を示すことになる。
 だから、セイバーメトリックスは、チーム編成だけでなく、選手起用や試合中の戦術という監督の仕事にもダイレクトに活用できるはずだ(というよりも、具体的な采配と結びつけなければ、せっかく集めた選手を生かすこともできないだろう)。

 そう考えれば、セイバーメトリックスを采配に取り入れることに心理的抵抗をもたないフランコナは、まさに現在のレッドソックスを率いるにふさわしい監督といえる。また、『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2008』によれば、昨年就任したボブ・ゲラン監督が率いた2007年のアスレチックスは、リーグで四球数2位、盗塁数とバント数は最小と、ジェイムズの理論に忠実な戦術を貫いた(が地区3位となり、久しぶりに勝率5割を下回った)。
 この両チーム、編成だけでなく戦術的にも兄弟のような関係にあるようだ。


 両者が戦った3/25の開幕戦は、好ゲームとなった。立ち上がりに被本塁打と四死球連発で松坂が2点を失うが、二転三転の末、9回表にレッドソックスがモスの本塁打で同点に追いついて延長に入る。9回から登板したアスレチックスのクローザー、ヒューストン・ストリートは、大学球界で活躍したが体が小さい(といっても183センチ、88キロもあるが)と他球団から敬遠されたためにアスレチックスが目をつけたという。

 十回表のレッドソックスの攻撃は、先頭の9番ルーゴが三塁線を襲う内野安打で出塁し、一番ペドロイアは初球送りバントを決める。二番ユーキリス三振の後、オーティズは何と敬遠。四番ラミレスが右中間フェンスに直撃する二塁打を放って2点を勝ち越した。裏にはアスレチックスも猛反撃するが、5点目を奪うタイムリーヒットのクロスビーが三塁を欲張って挟殺されたことでチャンスは潰え、6-5でレッドソックスが逃げ切った。

 ビル・ジェイムズの理論では勝利に結びつかないはずの送りバントや敬遠を両チームが実行して、一方は成功し、一方は失敗した。そして、終わってみれば、勝負を決めたのは年俸2000万ドルの高額所得者マニー・ラミレスの打棒。ビッグマネー・ボールとスモールマネー・ボールの対決としては、いささか皮肉な結末と言えるかもしれない。まあ、一試合だけの結果であれこれ語るのは、統計と確率を基盤とするセイバーメトリックスの考え方とは相容れないものかもしれないが。

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ベッテ/シマンク『ドーピングの社会学』不昧堂出版

 著者のカールーハインリッヒ・ベッテはハイデルベルク大学スポーツ科学研究所所長、ウヴェ・シマンクもドイツの社会学者。原著は1995年刊行、「近代競技スポーツの臨界点」というサブタイトルをつけた日本語版は2001年に刊行されている(木村真知子翻訳)。

 いわば一昔前の本のはずなのだが、古さを感じさせない。いや、ドイツや欧州ではすでに古くなっているのかも知れないが、日本ではたぶん1995年よりも現在の方が、この内容にリアリティを感じる読者が増えているのではないかと思う。日本のスポーツを取り巻く状況が、良くも悪くもヨーロッパに近づいてきた、ということかも知れない。

 まずは目次。

序章 ドーピング問題への社会学的アプローチ

第一部 競技スポーツの構造的ダイナミズム

第1章 無限の勝利コードと酷使される身体

第2章 周囲からの煽り

第3章 選手生活の罠

第二部 構造の結果としてのドーピング

第4章 社会的産物としてのドーピングの定義

第5章 不当なイノベーションとしてのドーピング

第6章 ドーピングへの罠

第7章 社会の競技スポーツ離れ

第三部 競技団体の問題解決策

第8章 ドーピング撲滅策とその難しさ

第9章 ドーピング問題の無視・もみ消し

展望 競技スポーツの自己変革に向けて

ドーピングに関する本はいろいろ刊行されているが、その多くは“汚れた実体を暴く!”という類のノンフィクションだ。「ドーピングはけしからん」「スポーツからドーピングを追放すべきだ」と言い切ってしまえば話は簡単なのだが、そういう正義感だけでは割り切れない何かがある、というのが、喉に刺さった小骨のように、私の中ではずっと引っかかっている。話を簡単に済ませたところで、現実のドーピング問題が解決するわけではない。

 本書では、そんな「割り切れない“何か”」を、実に丹念に掘り下げている。著者たちは過去の豊富な研究や文献に基づいて、ドーピングがいかにして生まれ、行われているのか、当事者たちとスポーツを取り巻く環境はドーピングをどのように見なしているのか、といった事柄を論じる。私がこのblogのエントリやコメント欄で示してきた疑問や議論の多くは、すでに本書の中で、ずっと高く深いレベルで論じられている。

 目次を眺めてもわかるように、著者たちは、スポーツ界にドーピングが蔓延する根本的な原因を、競技スポーツが置かれた構造にあると考えている。

 オリンピックのような競技大会における勝利の価値が高まるにつれて、競技レベルは高まり、勝つために選手は練習量を増やすことが求められる。それはスポーツ選手の職業化、さらには選手のみならず、彼をサポートするスタッフ集団“チーム○○”の出現へとつながっていく。

 また、スポーツ大会への人々の注目が高まるにつれて、政治・経済・メディアはそれぞれにスポーツを支援し、スポーツはそれらから主として財政的なサポートを得る。

 そうやって、ひとつの勝利に多くの人々の利害が絡むことになる。だが、マーケティングやビジネスのシステムが精緻な塔のように積み上げられたところで、それらが乗っている基盤は、選手の生身の身体という、いつ崩れるかわからないものなのだ。

経済行為としての投資は、必然的に配当を求める。が、スポーツにおける勝敗とは本質的に不確定なものであり、投資-配当という概念とは相容れない。その相容れないものを、あえて投資-配当の枠組みに押し込めようとする欲望が、勝利の確実性を高める圧力と化す。

つまりドーピングとは、不確定な勝利を少しでも確実なものにするための方法のひとつなのだ。かくして選手自身にとっても、周囲の利害関係者(本書では身も蓋もなく「取り巻き」と表現される)にとっても、ドーピングは有益な手段とみなされる。

 本書の中で特に興味深く感じたのは、ドーピングの定義をめぐる議論だ。

 ドーピング・コントロールの動きは、まずドーピングの本質的定義を定めようとするところから始まる。

1963年特にプロ自転車競技のドーピング・スキャンダルの後、欧州会議はもっと包括的で威力のあるドーピング定義を行った。すなわち「ドーピングは、人為的で不公正な競技成績向上を唯一の目的として、人体にないすべての物質を、あるいは生理的物質であってもそれを異常な形や異常な方法で、健康な人間に施したり用いたりすることである。さらに選手の成績向上のための心理的処方もドーピングと見なされなければならない」(Sehling u.a. 1989:18から引用)と。>P.116

 しかし著者たちは、その本質的定義がいかにして論破されてきたか、どれほど成り立ちがたいものであるかを、身も蓋もなく記している。かなり長くなるが、面白いのでかいつまんで引用する。(以下はP.116-121から)

<この定義は、ドーピングの本質規定にとって後々尾を引くことになるすべての要素を含んでいた。本質規定の決め手になる言葉は《不公正》と《非自然性》である。>

 では、競技スポーツからすべての不公正を排除することができるのだろうか。著者たちは2つの点から否定的だ。

<第一は、周知のことであるが、どんなトレーニングを始める前にも人間の身体的・心理的諸前提は依然として非常に違っているということである。>