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レイ・ブラッドベリ『華氏451度』ハヤカワ文庫

 マイケル・ムーアの『華氏911』の公開で久しぶりに脚光が当たったが、原著は1953年(ハヤカワ文庫の初版は1975年)。刊行から十数年後にフランソワ・トリュフォーによって映画化もされている。華氏451度は、「本のページに火がつき、燃えあがる温度……。」(本書扉より)だ。ムーアの映画の広告で「それは自由が燃える温度」とあるのは、もちろん、これを下敷きにしている。

 舞台は、ほとんどすべての本が禁書となっている未来のアメリカ。本を焼き捨てる「焚書官(原書ではFireman。「消防士」と同じ言葉だ)」のガイ・モンターグは、自宅近くの夜道で不思議な少女と出会ったことから、自分の仕事に疑問を抱き、書物を持ち帰って読みふけるという禁断の行為に手を染めるようになっていく…。一昨年作られたSF映画の佳品『リベリオン-反逆者-』の設定は、本書に酷似していた(禁止されているのは本ではなく「感情」だが)。半世紀を経て、なお強い影響力を持っている、ということだろう。

 小説の途中までは、書物や自由に関する議論がどうにも古くさく紋切り型で、率直なところ、読み進むのに努力が必要だった。だが、最後まで読み終えると、ちょっとそれだけでは済まない、という感じが残る。
 管理社会の思想統制の危険さを指摘し、自由と個人の尊厳を謳い上げた文明批判の名作。本書は、たいていはそんなふうに紹介される。そして、「自由」と「尊厳」を象徴するのが「書物」である、と。ところが、全部読み終えてみても、主役たる書物は、さっぱり印象に残らない。

 皮肉きわまりないことに、本書の中で書物が重要な役割を果たすのは、もっぱら人の口によって読み上げられた時だけだ。
 モンターグが書物と一緒に焼き殺してしまう老女が最後に口にする引用文。モンターグの迷いを見抜き説得しようとする上司、ビーティ署長が会話の端々に引用する書物の一節。ヴァーチャルリアリズム放送に狂騒する妻とその友人たちに苛立ったモンターグが、朗読して聴かせる詩。それぞれが、くっきりとした強い言葉として、聞かされた相手の心に楔を打ち込んでいく(このビーティという男が曲者で、彼自身、焚書官の仕事を通じて本に興味を持ち、古今東西の書物を読んで自在に諳んじながら、書物のくだらなさをこきおろすものだから、やたらに説得力がある。本書の実質的な主役は、実は彼なのではないか)。

 一方で、例えばモンターグが密かに自宅に持ち帰った書物を妻と2人で読みふける時、それらの書物は妻に対して何の影響も及ぼすことができない。反抗を決意したモンターグが傍らに持ち歩く書物は、しかし、1ページづつ破り捨てられ、投げ出され、落とされ、唯一役に立ったのは同僚の家に仕掛ける罠としてのみだ。ここでは書物は徹底して単なる「物」でしかない。
 これは、ほんとうに人々が言うように、書物の素晴らしさを謳い上げた小説なのだろうか?

 モンターグは逃亡の果てに、ある老人たちと出会う。彼らは、おのおのが一冊の書物を暗誦することで“生きた書物”と化し、再び書物を読むことが許される日まで、その中身を保存していこうという壮大な構想と数千の仲間を持つ地下組織だ。にもかかわらず、この人たちは何だかみすぼらしくて、少しも魅力的ではない。これは私だけの感想ではない。モンターグ自身が、失望感を表情に出してしまい、彼らのひとりに「表紙を見ただけで、書物の価値をきめなさるな」とたしなめられるのだ(笑)。リーダー格の老人も、「忘れてならぬ重要なことは、わしたちだけが衆にすぐれた存在だというわけでない点だ」などと妙に謙虚で、あまり世界を救いそうな雰囲気でもない。
 いったいブラッドベリはどういうつもりなのかと訝しくなってくる。ともかく小説全体を強烈なペシミズムが覆っている。

 その中でほとんど唯一、前向きな力のこもった言葉だと私が感じたのは、ラスト近くの、モンターグのモノローグだ。長くなるが引用する。

そうだ!おれたちは、きょうからでも、歩きだすことにしよう。そして、世の中を見、社会のうごきと、社会の語ることを知り、それがどのような現象をしめすか、事実を知らなければならぬ。おれはあらゆることを見たかった。それが、おれの胸のうちにはいりこんでくるあいだは、どれもこれも、不可解なものばかりであろうが、いつの日か、おれの胸のうちに、ひとつのまとまった形をとり、おれそのものとなることであろう。
 さあ、世間を見よう。おれのうちにある神よ、あの場所へ行って、おれの外へ出て、おれの外にある現実に触れるのだ。それだけが、最後にはおれ自身であるものに触れることのできる唯一の道である。それではじめて、それはおれの血液となる。日に、一万回の一千倍も脈動するおれの血液に。おれはそれをにぎりしめて、はなすべきでない。二度とおれの手もとから逃げ出さぬように。いや、かならずやってみせる。この世界をしっかりこの手ににぎりしめる日が、かならずいつか訪れる。いますでに、指を一本、それにかけた。これがおれの仕事の手はじめだ

 マイケル・ムーアが実際に本書を読んだかどうかは知らないが、彼がやっている仕事は、まさにこういうことだ。歩きだし、あらゆることを見て、この世界をしっかり手に握りしめようと、指を一本かける。
 ブラッドベリはムーアの映画について「私の政治的立場に反する無断使用だ」と怒ったそうだが(今でもそんなに元気だとは喜ばしいことだ(笑))、この部分の精神は、確かに受け継いでいると思う。
 ただし、本書はご覧の通り、ムーアの仕事のように単純明快ではない。未来社会のイメージの奔流、登場人物たちの無闇な饒舌さが渾沌に拍車をかける。いっそ、本書をそのまま脚本として、芝居として上演してみたら、『華氏451度』がどういう作品であるのか、明瞭に浮かび上がってくるのではないだろうか。
(と思ってネットで調べてみたら、3年前に木山事務所が俳優座で上演したそうだ。ネット上で見つけた感想文によれば、ビーティ署長の人物像が原作より膨らまされていたそうだ。唯一、陰影のあるキャラクターだから、そうしたくなる気持ちは判る)

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