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2004年11月

宮本慎也という至宝。

 アテネ五輪における野球日本代表の戦いぶりは、野球ジャーナリズム(そんなものがあるとしての話だが)においては、きちんと総括されないままウヤムヤになってしまった印象がある。
 タイミングが悪かったのも一因だろう。スポーツメディアは他の競技のメダリストを礼賛することに手一杯で、期待を裏切った不景気な話には、あまり労力を割くことができなかったはずだ。選手たちは休む間もなくペナントレースに復帰。9月早々には合併問題が山場を迎え、オーナー会議での決定からスト決行へとなだれ込んでいく。終わった途端にポストシーズン。次から次へと大事件が押し寄せてきた野球界の中では、期待外れに終わった五輪について、せいぜい組織面での「北京への課題」を洗い出す程度の扱いで済ませてしまったのも、やむを得ないのかも知れない。
 だが、例えばサッカー雑誌において、大きな大会が終わった途端に(勝とうが負けようが)代表選手たちのロングインタビューが満載される慣習に比べれば、野球の五輪報道はいかにも物足りない感じが残る。
(総集編DVDが発売されたようだが、「『フォア・ザフラッグ』精神で集結し、勝ち得たブロンズ・メダル。酷暑の中行われた1次リーグ、決勝トーナメントの戦いのドラマをハイライトで収録。 」などというコピーを見ると、いかにも感動を押し売りされそうで、ちょっと見る気になれない。もし違うようならごめんなさい、だが)

 そんな欠落を一気に埋めてくれるような番組に、やっと出会うことができた。フジテレビのCS局「フジテレビ739」が28日の夜に放映した「MESSAGE from baseball#1 日の丸の重み 宮本慎也×高木豊」だ。
 アテネ五輪代表コーチにしてフジテレビ解説者の高木豊が聞き手となり、代表キャプテンの宮本と札幌ドームで再会し、五輪予選、そしてアテネ五輪について語り合う。実に1時間50分の番組のほとんどすべてを2人が語り合うだけという徹底した構成だ(フジテレビ739は時々こういうことをやる。最近はあまり見ないが、ジョン・カビラが大熊清などのゲストを招いて2時間話すだけ、というサッカー番組もあった)。
 いろいろ用事もあったので録画して後で見ようと思っていたのに、いざ番組が始まると、私はテレビの前に釘付けになって、結局そのまま最後まで見てしまった。それほど内容の濃い対談だった。

 改めて感心するのは、どの合宿の時に誰が硬くなっていたか、チームの雰囲気がどうだったか、という折々のチーム状態について、一選手である宮本が、コーチの高木と完全に認識を共有していることだ。いや、むしろ二人の会話からは、コーチ経験の浅い高木よりも宮本の方が、より具体的に、より深くチームを掌握していたのではないかという印象を受ける。

 たとえば昨年秋の予選の前。顔合わせから自主トレまでの緊張感の欠如、壮行試合ではじめてコトの重みを知った選手たちの動揺。宮本はそんな状況を知りつつも、目に見えるアクションを起こさず、じっとタイミングを待っていた。不安を抱いた高木が「ミーティングやらないの?」と聞いても「まだやりません」ときっぱりと答えたという。
「それぞれ主力でやっている選手たちだから、自分のペースもあるだろうし、あまり強制強制でやりたくはなかった。まずは自分たちどうしで食事に行ってくれ、コミュニケーションをとってくれ、と。優先順位をつけるならそっちが先だと思っていました」
 そして、決戦の地・札幌に入って3日間の練習が終り、いよいよ試合、というタイミングで、宮本は初めて選手だけのミーティングを開く。
「あそこだ、と思いましたね」
 宮本は、まず、国際試合に出場した経験を持つ松坂(シドニー五輪)と高橋由伸(台湾での世界選手権)に、経験談を語らせる。
(ここで、プロ選手として国際大会に出場した2人を選ぶところが絶妙だ。五輪をはじめ国際大会に出場経験のある選手は、他にも何人もいた。だが、「プロとして出場する」ことが、アマチュアの日本代表として五輪でプレーすることとはまったく異質な事態になるのだということを、宮本は大会前からはっきりと認識していたのだろう)
 そして、宮本は全選手に向かって呼びかける。
「野球には、一生懸命やったんだから負けても仕方ない、という場合もある。だが、この3試合はそうじゃない。言い訳は許されないんだ」

 この調子で内容を紹介しているととてつもなく長くなるのでやめておくが、アテネ本番についてのエピソードも味わい深い。
 予選を一緒に戦いながら「1球団2名」の壁に阻まれてアテネに行けなかった二岡と井端のバッティング用手袋を、宮本と高橋由伸が片手づつ分け合って試合で使っていたという話。帰国後、広島の黒田と食事をした時、黒田から「銅で良かったんですよ。あんな準備で金メダルをとってしまったら、みんな『簡単なんや』と思ってしまう」と言われたという話。
 予選でオーストラリアに負けた頃、一部の選手に造反めいた動きもあったようだ(さすがに個人名は出なかったが)。そんな事態をも乗り切り、準決勝敗退のショックをも乗り越えて、3位決定戦で勝利をつかむ。その後の表彰式で金メダルを見た時にこみあげてきた悔しさ。
 確かにこれは、未曾有の経験だったはずだ。彼ら銅メダリストの中には、自分が何を経験してきたのかをきちんと理解していない選手もいるだろうし、わかっていてもうまく言葉にして伝えることのできない選手もいるだろう。それだけに、宮本のような選手が、こうやって語っていくことは大事だ。これから年末にかけて、五輪代表の経験や内幕について、選手たちの声が、もっともっと出てきて欲しい。「伝道師」の仕事は、野球界の中で経験を伝えることだけではない。とりわけ、「1試合2名」枠の問題や準備期間不足のような野球界内部の都合による壁を破るためには、世間の理解と外圧が不可欠だ。


 この対談を聞く限り、コーチ陣は宮本を主将に指名した後は、ほとんど具体的な指示はしていない。ミーティングの開催についても、その他のことについても、宮本自身が考え抜いた上で、自律的に行動を起こしている。見事な主将ぶりであり、自分たちのことで手一杯だったであろうコーチ陣を見事に補ってもいる。
 とはいえ、宮本を主将に、というのは高木も中畑も一致した意見だったそうだから、少なくとも、自分たちの力不足を補ってくれる人物を的確に選んだ炯眼は評価していい。

 宮本自身にとっても、これは大きな経験だったのだろう。ヤクルト入りして以来ずっと、古田という大きな傘の下でプロ生活を送ってきた宮本にとっては、これほど難しい状況でリーダーシップを発揮しなければならない局面は、おそらくなかったはずだ。アテネ五輪によって、日本の野球界は宮本慎也という偉大なキャプテンを得た。
 それにしても、今年の野球界で、誰も経験したことのない困難な局面で見事なリーダーシップを発揮した2人の選手が、ともにひとつの球団に在籍しているというのは、果たして偶然なのか、何かの必然なのか。

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老いた鷲たちの、新しい砦。

 楽天イーグルスの公式サイトに、分配ドラフトと新人ドラフトの結果がアップされた。

 この選手リストを眺めて思うのは、このチーム、決して若くはない。
 現在リストに載っている43人(ドラフト指名の新人は別)のうち、26歳以下の選手は11人しかいない。30代が16人。そのほとんどが、旧オリックスにも近鉄にもあまり詳しくなかった私でも知っている選手だ。つまり、楽天イーグルスは分配ドラフトにあたり、過去の実績を重視する方針で臨んだ形跡がうかがえる。
 内定と報じられている選手たちも、ほとんどが30代。ドラフトで指名したのは社会人2人と大学生4人。このままいけば、来年の楽天には10代の選手はひとりもいない。
 ここから懸念されるのは<成績不振→ドラフトで即戦力ばかり指名→主力選手が長続きしない→成績不振>という悪循環に陥ることだ。末期の旧オリックスが、まさにこのパターンだったように思う。

 こういうチーム構成でスタートすると決まった以上、田尾監督と彼のスタッフの最大の課題は、30代のベテランたちを再生し、「最後の一花」を咲かせてやることだ。最初のシーズンでチームがそこそこの成績を残せば、選手も集めやすくなるだろう。
 2001年、アリゾナ・ダイヤモンドバックスは、優勝に飢えたベテランを集めて、ワールドチャンピオンまで昇りつめた。あの時のように、楽天のベテランたちが抱いているはずの「出場機会への飢え」のエネルギーを結集できれば面白いのだが。

 と同時に編成サイドは、来年のドラフトからは、長期間にわたってチームの主軸となれるようなスケールのある高校生を入団させることが必要だろう。今は目先の頭数を揃えることで精一杯かも知れないが、おそらく1、2年のうちにチームの半数近くを入れ替える必要が生じる。そこでうまく世代交代できるかどうかに、この球団の命運がかかってくる。

 そう、どうやら、生まれた途端に世代交代の心配をしなければならない“オールド・ルーキー”というのが、現時点での楽天イーグルスの実相である。

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平田竹男・中村好男編著『トップスポーツビジネスの最前線』友人社

 早大スポーツ科学部が2003年10月から翌2004年1月にかけて14回にわたって実施した同名の講義の記録である。コーディネーターはJFAジェネラルセクレタリーの平田竹男。当然ながらサッカー界を中心に、文字通りスポーツビジネスの各分野の最前線の人々が登場して、自分の仕事について話している。

 ぐだぐだと説明するよりも、各回の標題と講師を見れば本書の価値は一目瞭然だ。

第1回「スポーツビジネスとは」平田竹男(JFAジェネラルセクレタリー)
第2回「プロスポーツクラブの経営事例」牛島洋(鹿島アントラーズFC社長)
第3回「スポーツクラブの経営理念」成田十次郎(筑波大名誉教授、読売クラブ初代監督)
第4回「スポーツ用品のマーケティング戦略」クリストフ・ベズ(アディダス・ジャパン社長)、辺見芳弘(同副社長)
第5回「スポーツと環境」水野正人(ミズノ社長)
第6回「最前線のスポーツビジネス」平田竹男
第7回「スポーツの法務」小竹信幸(博報堂法務室)
第8回「ビジネスマンとしてのスポーツ選手」堀池巧(元日本代表)
第9回「スポーツメディアの現場(TV)」ジャック・K・坂崎(J坂崎マーケティング社長)
第10回「スポーツメディアの現場(新聞)」武智幸徳(日本経済新聞社運動部記者)
第11回「スポーツメディアの現場(雑誌)」戸塚隆(講談社「フットボールニッポン」編集長)
第12回「スポーツ選手のマネジメント」次原悦子(サニーサイドアップ社長)
第13回「スポーツ選手の強化育成」田嶋幸三(JFA技術委員長)
第14回「まとめ」平田竹男

 およそ、このテーマで考えうる最高級の顔触れといってよい。これが社会人向けのオープンセミナーであれば、何万円払っても聴きたいという人が殺到したに違いない。早大の学生も、実に530人が受講したという。

 そして彼らは、大学の講義だというのに、例えばこんな生々しい話をしている。
「賞金が2億2800万円。コストに関係なく入ってくるカネですから、勝たなければだめだという理由はこれです」「損益3億1200万円のうち、賞金だけで2億2800万円を稼いでいるわけですから、それ以外で稼いだ分は1億円もないんです」(牛島洋)
「セレブリティに、おカネを払うか払わないかという議論がありますが、アディダスは原則として払いません。セレブリティの方々がアディダスの商品を着たいと望む場合に、商品のご提供をさせていただいています」「見せかけで着ていただいても、結局は消費者からは見破られてしまうというのが我々の経験則から持つ考えなのです」(辺見芳弘)
「ベッカム選手が移籍するにあたって、当然ユニフォーム・サプライヤーとの契約というのが大きなファクターになっています」(小竹信幸)
「最初、某テレビ局に話をしまして、『やろう』ということになって進んでいたのですが、1か月後に編成局からノーが出た。ゴールデンタイムにFC東京とレアルマドリードの試合なんかやれない、視聴率は取れないということで、断ってきたのです」(ジャックK.坂崎)
「訴訟を起こすというのは、おカネもかかりますし、時間もかかります。本当に手間暇もかかります。でも、とにかくやられっぱなしにはしない。何か書くと、こういううるさいエージェントが出てくる。この“うるさい。めんどくさい”と思わせることが、実は大切なんです」(次原悦子)

 どうです?読みたくなってきたでしょう(笑)。
 スポーツビジネスに関心のある人は、ぜひ入手することをお勧めする。これで1500円(本体価格)は安い。小さい版元なので書店の店頭ではほとんど見当たらないが、Amazonなどで取り寄せることが可能だ。

追記
 この講義、今年もやっているらしい。 ラグビーや陸上の協会幹部の話が、この流れとどれだけ噛み合うか(合わないか)も含めて、興味深い顔触れ。今季の講義もぜひ出版してほしい。

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イーストウッドは観客に泣くことを許さない。

『世界の中心で、愛をさけぶ』が無茶苦茶に売れた頃からだろうか。映画の広告や書店の店頭で、「泣ける」という宣伝文句が、やたらに目につく。
 そりゃまあ、本や映画で泣くのは、相応に心を揺さぶられた結果ではある。泣きたいから映画を見る、という気分の時もあるだろう。
 だが、泣くという現象は、ある意味では単純なメカニズムによって成り立っており、「泣ける」ことが映画や小説の品質を保証するとは限らない。蛇口をひねれば水が出るが如く、心の中の特定のスイッチを押せば、涙はあふれてくるものなのだ。
 人間、生きていくうちには、いろいろな出来事に遭遇する。長く生きていれば、その分だけ「身につまされる出来事」も増えていく。女性に振られれば失恋シーンに動揺するようになるし、父親を亡くしてからは父子の交流を見ると涙が出るようになった。それは映画の出来とはあまり関係がなく、ほとんど自動化された反射現象に近い。「歳をとると涙もろくなっていけねえ」というのは、そういうことなのではないかと思っている。

 こんなことを考えたのも、今年見た映画の本数を数えていて、『ミスティック・リバー』に行き当たったからだ。今年のベストに挙げたいような出来栄えでありながら、この映画は、泣けない。正確に言えば、泣きたくても泣けない。

 物語は25年前のプロローグから始まる。ボストンに住む仲の良い3人の少年、デイブ、ショーン、ジミーに、ある悲劇が訪れる。デイブが2人の中年男に騙されて、他の2人の目の前で誘拐され、陵辱を受けたあげく、数日後に保護される。だが、デイブはこの事件で心に傷を負い、精神に小さな失調をきたす。大人になって家庭を持っても、完全に回復してはいない。
 クリント・イーストウッド監督の隙のない演出は、この導入部を簡潔に、無駄なく、それでいて観客に理解させるべきことは充分に伝えながら、テンポよく進めていく。

 久しく顔を合わせることもなくなっていた3人は、ある事件によって再会する。若い女性が惨殺され、公園で遺体が発見された。ジミーが被害者の父親であり、ショーンはこの事件を担当することになった州警察の刑事だった。そして、ジミーと姻戚関係(妻どうしが従姉妹)にあるデイブは、はじめジミーをなぐさめる旧友として登場するが、事件の夜の彼の不審な行動に妻が脅え始めたことから、事態は新たな悲劇に向かって急速に転がり始める…。

(未見の方のために、あらすじはここで止めておく。映画を見ていないと、この先の記述が判りにくいかも知れないが、ご容赦を。)

 そして、すべてが終わった朝。
 かつてデイブ少年が誘拐された路上で、旧友たちは再び出会い、事件の真相が、取り返しのつかない新たな悲劇を生んだことを知る。この場面で終わっていれば、『ミスティック・リバー』は、普通の「泣ける悲劇」になったかも知れない。
 だが、その後のエピローグが、この映画にただならぬ凄みを与えている。

 地元での祭りのパレード見物に、すべての主要登場人物が姿を見せ、人々はそれまで見せることのなかった様相をあらわにする。ある者は弱々しく崩れ落ち、ある者は神々しく光り輝き、ある者は安息を得て、ある者は慟哭する。
 そして、新たな悲劇は清算されることがなく、皆がそれぞれに新たな十字架を背負って生きていかなければならないことを示唆して、映画は終わる。
 観客には逃げ場もカタルシスも与えられない。むしろ、登場人物たちに課せられた運命の理不尽に対して、ある種の後ろめたさを抱かされてしまう。

 涙は心の重荷を洗い流す。暗闇で思いきり泣くことができれば、映画館を出る時には、さっぱりと気持ちも軽く、現実に戻っていくことができる。
 だが、『ミスティック・リバー』は、それを許さない。イーストウッドは、観客に泣くことすら禁じている。彼は、例の眩しそうな視線で観客を見つめて、ミスティック河の向こうにある善悪の彼岸から、この重荷を現実世界に持ち帰ることを要求しているに違いない。

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グールド進化理論が示すイチローの価値。

 イチローはアメリカン・リーグのMVPに選ばれなかった。選ばれたウラジミール・ゲレーロ(エンゼルス)は、攻守にすぐれ、パワーも備えた素晴らしい外野手だし、打率、安打、本塁打、打点ですべてトップ4に入っているのは彼だけだ。今年加入したエンゼルスはリーグ優勝決定戦に進出した。ゲレーロの選出そのものは申し分のない結果だ(しかも彼は昨年まで弱小エクスポズにいたために、監督や選手の間では「もっとも過小評価されている選手」とさえ言われていた。ここらで報われてもいい頃だ)。
 ただし、イチローの得票数が7位というのは、いささか残念だった。もう少し上位でもいいんじゃないか、という印象は残る。

 MLBのMVP選考は、伝統的に、打点の多い打者に有利な傾向が強い。割を食っているのは安打製造機タイプだ。
 80年代から90年代にかけて両リーグの首位打者をとりまくったトニー・グウィン(首位打者8回)とウェイド・ボッグス(同5回)は、ともに一度もMVPになっていない。彼らの前、70年代に君臨したロッド・カルー(同7回)は一度だけMVPに選ばれたが、この年(77年)のカルーは、生涯最高の.388という高打率とともに、これも生涯最高の100打点を記録している。3人とも本塁打の少ない打者で、グウィンは現役時代から「コンタクト・ヒッターは不当に軽視される」と不満を漏らしていた。
 どうやらイチローも、彼らの列に並ぶ羽目になりつつある。むしろ、ルーキーシーズンにイチローがMVPに選ばれたことの方に驚くべきだったのだろう。

 アメリカ人がイチローのシーズン最多安打記録をどのように捉えているのかを直接知るすべは私にはないけれど、おそらく、ジョー・ディマジオの56試合連続安打に匹敵するほどの重要な記録だとは思われていないはずだ。少なくともSports Ilustlated誌は、新記録達成後にイチローを表紙にはしていない。
 「シスラーと同じ試合数までに記録を抜くことができなかったのだから無意味だ」と主張するライターもいるそうだ。ロジャー・マリスがベーブ・ルースのシーズン本塁打記録60本を抜いた時に受けた数々のいやがらせを思い出させる(マリスの記録はしばらくの間、レコードブックに「61*」と表記されていたという。試合数がベーブより多いという理由で、まるで参考記録のように扱われたわけだ)。

 もちろん、反論は可能だ。有色人種や外国籍選手の参加、試合数の増加による疲労、変化球の多様化など、シスラーの時代よりも不利な条件を数え上げることはできる。だが逆に、旧式の交通機関や冷暖房のない宿泊施設、品質の悪いバットやボールなど、当時の悪条件を持ちだして反論されることも予想できる。
 野球における記録は、対戦相手との力関係によって生じる相対的な数字だから、さまざまな解釈を許す余地がある。当時より有利だという説も、当時より不利だという説も、それぞれ相応の説得力をもつ。

 というわけで、双方が自説に有利な状況証拠を数え合っている限り、「昔の打者と今の打者はどちらが偉いか」という論争は不毛なのだが、この議論に、きわめて独創的な角度から光を当てた人物がいる。スティーヴン・ジェイ・ゴールド、古生物学や進化理論を専門とするアメリカの科学者だ。彼は『フルハウス 生命の全容』(早川書房)という本で、MLBの歴史から4割打者が消えた理由を、彼の進化理論をもとに論じている。

 グールドは、19世紀末から10年ごとに、すべてのレギュラー打者の平均打率、最高打率、最低打率をそれぞれ算出し、平均打率は一貫して.260前後で動かないのに対し、最高打率と最低打率の幅は、時代が下るごとに狭まっていることを示す。そしてそこから、4割打者が減少した理由は、打者の能力が低下したせいでも、打者を取り巻く環境が悪化したせいでもなく、野球選手全体のプレーが向上したために、打率の変異が広がる余地が狭まったからだ、という結論を導き出す。
(どうしてそう言えるのかを彼の進化理論を踏まえて説明しようとすると長くなりすぎるので、興味のある方は本書を読んでみてほしい。非常に面白く読みやすい本で、数字や統計が苦手な人でも大丈夫。グールドが本書で論じている進化理論を一言で言えば、「進化は進歩ではなく、予測不能かつ偶発的に生ずる多様性である」ということになる<注>。一言で言えてしまうところが素晴らしい。「およそ理論というものは、一言で要約できなければ理論の名に値しない」と書いたのは確か岸田秀だった)

 グールドは言う。
秀逸さが全般的に増加し、その結果として変異の縮小が起こっても、卓絶の可能性がなくなるわけではない。それどころか、以前よりも狭まった余地は今やそのような可能性に配分されるのだから、卓絶は以前よりもはるかに興味と興奮をそそるものとなるのだと、私は言いたい。しかも、よりいっそうの苦闘がなければ、それは達成できなくなるのだから。」
 彼が論じているのは4割打者で、安打数ではない。だが、MLBが4割打者を輩出した時期と、シーズン安打数ランキングの上位を占める記録が生まれた時期は、ほぼ一致している。もちろん、選手たちの顔触れも。とすれば、この議論をシーズン安打記録に援用するのは、それほど無理なことではないだろう。
 たいへん残念なことに、グールドは2002年5月に60歳の若さで亡くなっている。もし彼が健在であれば、イチローの「よりいっそうの苦闘」に、とても強い「興味と興奮」を表明したのではないかと私は思っている。

<注>
進化と進歩が別物だとすると、以前、私が絶賛した「進化する怪物」というコピーは科学的に適切ではない。お恥ずかしい限り(笑)。

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遅れてきた「松坂世代」。

 ドラフト会議の結果を見て、ほお、と思ったのは、楽天が最後の7巡目に指名した平石洋介外野手(24・トヨタ自動車)だった。
 松坂大輔の横浜高校が98年の夏の甲子園で優勝した時、準々決勝で対戦して延長17回を戦ったPL学園の主将だった。主将だったがスタメンでは出場していない。平石は控えの外野手だった。三塁コーチャーズボックスに立っていた平石は、捕手・小山良男の構えから球種を見抜き、密かに打者に伝えることで、難攻不落の松坂から3点の先制点をもたらしている。NHKのドキュメンタリー番組で紹介されたことをご記憶の方もいるはずだ。
(もっとも、実際にはそれほど話は単純ではないらしい。アサヒグラフ特別取材班『ドキュメント 横浜vs. PL学園』(朝日新聞社)には、さらに詳しい内情が書かれている)
 この試合では8回に代打で登場し三振したが、そのままライトを守って、延長11回裏にはレフト前ヒット、同点のホームを踏んでいる。トータル3打数1安打。

 翌年同大に進学して活躍、ここでもキャプテンを務めた。卒業後はトヨタ自動車に就職した。昨年、都市対抗のシダックス-トヨタ自動車戦を見に行った時には、確か二番センターだったと記憶している。シャープでスピード感のある選手だった。楽天の田尾監督は同志社の大先輩だ。同じ左打ちの外野手でもあり、バッティングを指導されたこともあったらしい。

 楽天の現在の陣容では、プロの一軍レベルの選手を9人スタメンに揃えられるかどうかも、まだ覚束ない。ドラフト指名された選手は全員が即戦力として期待されているはずだ。
 「攻走守にバランスはよいが、飛び抜けた部分がない」というのが、常に平石について回る評価だった。だが、得点力に多くを望めない打線の中では、数字に表れない実戦的な能力が、生まれたての寄り合い所帯の中では、肩の手術で試合に出られないのにチームメイトに主将に推されたキャプテンシーが、それぞれ貴重な力となるかも知れない。案外、こういう選手が楽天の浮沈の鍵を握っているんじゃないだろうか。

 そして、平石に球種を見抜かれた小山捕手も、亜大からJR東日本を経て、中日に8位で指名された。いわゆる「松坂世代」の選手がまとまってプロ入りするのは、このあたりが最後になる。PLのエースだった上重アナ(日本テレビ)も、バラエティばかり出てないで野球中継もしてくれないかな(笑)。

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清原に見る「最後の昭和」。

 16日付の日経の夕刊に、清原の去就に関する記事が載っていた。掲載されていた清原の年度別打撃成績を眺めて、しみじみと思った。
 これは、一流選手の成績ではない。

 よく知られているように、彼は打撃三大タイトルをひとつも獲得したことがない。「3割 30本塁打 100打点」をクリアしたことは一度もない。
 ジャイアンツ移籍後に冷遇されたせいだ、と思っている人もいるかも知れないが、西武時代の最後の2年間の成績と、ジャイアンツ1年目のそれに大差はない。
 そもそも、西武時代の彼は、それほどの大打者だっただろうか。チームは圧倒的に強かったが、清原が圧倒的に打ったわけではない。同時期に秋山やデストラーデは何度もタイトルを取っている。

 西武時代の清原には、「チャンスに強い」「大舞台に強い」という評判があった。
 確かに日本シリーズやオールスターゲームでは活躍した。レギュラーシーズンでも、試合を決める活躍をすれば、新聞の見出しになった。だが、そうでない試合を見ていた人が、どれだけいるだろう。「大舞台に強い」のは事実としても、「普通の舞台」での清原を知る人は少ない。
 端的に言えば、西武の四番打者に一か月ホームランが出なくても、よほど熱心な西武ファン以外は気にも留めない。
 だが、ジャイアンツの四番打者は、一週間ホームランが出ないと、あらゆるメディアに「不振」「どうした」「チャンスに弱い」と騒ぎ立てられることになる。
 いい時だけ活字になり、悪い時には目立たない。西武時代の彼の「大打者」的なイメージは、多分にメディアの協力で作り上げられたものだったと私は思う。

 印象に焼き付いているスポーツニュースの一場面がある。
 彼が西武からFA宣言して移籍先を検討していたオフのある日、自宅から出て車に乗ろうとする清原に、テレビカメラを向けた取材陣が問い掛けた。
 「ゆうべは、よく眠れましたか?」
 清原は今にも泣きだしそうに表情を歪め、裏返りそうな声で、こう答えていた。
 「眠れるわけないでしょう」
 この時期、誰も彼を責めたり批判したりしていたわけではない。単に、大物打者の去就を注目し、追いかけていただけだ。
 それでも彼は、これほどまでに消耗し、自ら追い詰められたと感じてしまっていた。高校生ではない。すでに11年間も西武の四番打者として君臨し、グラウンドの内外で誰よりも傲岸にふるまっていたキング・オブ・キングスである。
 この神経の細さでは、ジャイアンツでは到底やっていけまい、と私は思った。開幕戦でホームランが出なかったら、たぶん一年間ダメなままだろう、と。

 実際、ジャイアンツでの彼は、期待に応えたとは言えない。移籍一年目の97年が.249、32本塁打、95打点。以後、故障もあって規定打席に達しない年の方が多かった。四番打者を満足に務めることはできなかった。
 ただ、彼はある時期に松井秀喜と張り合うのを諦め、松井の脇を固めるのが自分の仕事だと理解したのではないかと思う。それからの数年間は、彼にとってもジャイアンツにとっても幸福な時期だったのではないだろうか。やや奮わなかった松井の打撃を補い、自己最多の121打点を挙げた2001年が、ジャイアンツでの彼のベストシーズンだったと思う。

 ただし、成績とは無関係に、彼はスタジアムのファンから絶大な支持を受けている。声援は年々高まっている気がする。
 彼は「メジャーに行きたい」などと口走ったりはしない。日本野球が最高で、その中でもジャイアンツが最高だと信じている(今の清原人気は、原辰徳の晩年を思わせるものがある。彼らは、チームから失われゆく「ジャイアンツ的なるもの」を象徴する存在だ)。
 清原は勝てば喜び、負ければ悔しがり、監督の起用法が気にいらなければ機嫌が悪くなる。勝っても負けても六本木で豪遊する(かどうかは知らないが、そういうイメージがある)。節制なんか知ったことではない(かどうかは知らないが、そういうイメージもある)。
 清原は、常に感情むきだしのままだ。
 そこが彼の魅力なのだろう。松井やイチローの超人的な自制心が、上原や高橋由伸や二岡のジャイアンツ愛の欠如が、彼には理解できないのだ。そして、彼と同じように感じているファンも、実は多いに違いない。
 清原は、昭和の匂いを感じさせる最後の選手なのだ。

 とすれば、彼を受け入れて、最後の一花を咲かせることができるのは、「西鉄ミサイル打線」で育ち、「近鉄いてまえ打線」を作り上げ、選手に率先して夜遊びに走ったという伝説を持つ、仰木彬監督を措いてほかにない。オリックス・バファローズは全力を挙げて清原獲得に動くべきではないか。合併球団の負のイメージを払拭する力を持っているのは、日本球界に彼しかいない。

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鷲はいまだ舞い降りず。

 旧近鉄と旧オリックスの選手を、新オリックスと楽天イーグルスが山分けする分配ドラフトが実施されてから1週間。
 楽天イーグルスの公式サイトには、1週間後の11月15日午後10時現在に至っても、所属が決定した選手40人のリストが掲載されていない(一場投手の自由獲得枠指名内定も)。
 スピードがウリのインターネット業界から参入した新球団としては、いかがなものでしょうか(笑)。

 ま、いまだにオリックス・ブルーウェーブ公式サイトのままの新オリックスよりはマシかも知れないが。
(もっとも、こちらには分配ドラフトの結果が示されている。楽天入りの40人も、こちらのサイトでわかります)

追補
後述の通り、楽天公式サイトにはすでに選手リストもアップされた。また、上記のブルーウェーブ公式サイトにアクセスすると、オリックス・バファローズの公式サイトのアドレスに転送される。開設は2004年12月1日とのこと。(2004.11.27記す)

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万人の夢を背負う男(3)

 「あいつは風呂屋のタイル絵の富士山だ」
 谷口ジロー(狩撫麻礼原作)の『LIVE!オデッセイ』という漫画で、貧乏のどん底から一気に頂点に駆け上がっていく主人公のロックンローラーを、プロデューサーが評していう言葉だ。
 浪花節で、力強く、庶民的で、俗っぽく見えるけど、誰にでもわかりやすく、誰もを惹き付ける魅力がある。
 カズもまた、風呂屋の富士山のような選手だった。いや、過去形にしてはいけないな。

 例え話をもうひとつ。97年に米アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞を受賞した、モハメド・アリの記録映画がある。キンサシャでのフォアマンとの戦いと、それを待つ間のアフリカでの日々を撮影し、実に20年かかってようやく完成したという作品だった。アリと同じ肌の色の群衆が彼を取り囲み、後に日本のプロレスラーに引き継がれた「アリ、ボンバイエ!(ぶっ殺せ!)」というシュプレヒコールを繰り返す場面が印象に残っている。
 日本では『モハメド・アリ かけがえのない日々』という題で封切られたこの映画は、原題を『WHEN WE WERE KINGS』という。WHEN HE WAS KINGではない。この原題を見た時、ジョホールバルでの戦いが延長に入る際にNHKの山本浩アナが口にした言葉を思い出した。
 「この日本代表は、私たちそのものです」
 まさにそれだ。カズは俺たちだった。

 カズはイタリアでは成功できなかった。かの国でクラブの主力選手として一定の評価を受けている中田や中村の方が、いい選手なのかも知れない。だが、カズは彼らが決して引き受けようとしないものを背負っていた。むしろ、人々の期待を背負うことによって、彼は自分以上のものになろうとしていたのだろうと思う。

 そして、酷な言い方をすれば、多くの人が彼にそれを望まなくなってからも、彼は依然として期待を背負おうとしていた。たぶん、世の中の誰ひとりとして彼に期待しなくなる日が来ても、カズは自分自身に期待することをやめないだろう。
 彼の能力の真髄は、そこにあるのかも知れない。
 静岡からブラジルに旅立った時、彼の将来に期待する人は家族の他にはおそらくいなかっただろうし、ブラジルで彼に期待する人は限りなくゼロに近かったはずだ。
 もともと彼の出発点は、そういうことだったのだ。

 今のところ、私が最後にカズの姿をスタンドから見たのは、昨年11月、味の素スタジアムで行われたFC東京とヴィッセル神戸の試合ということになる。
 たまたま暇ができた日曜日、お、今日はキング・ダービーだな、と思い立って、急きょ京王線に飛び乗ったのだった。キング・カズと“キング・オブ・トーキョー”アマラオの対戦は、これが見納めになるかもしれない、という予感があった。
 味スタの試合前の選手紹介で、場内アナウンサーはいつも、アウェーの選手の名をきわめて素っ気ない調子で棒読みする。彼がカズの名を告げると、東京側のゴール裏から大きなブーイングが起こった。試合が始まってからも、カズがボールを持つたびに、東京のサポーターたちは容赦なくブーイングや口笛を浴びせた。

 Jリーグの生ける伝説に対して失礼な?
 訪れた敵地のスタンドから温かい拍手を受けたとしても、たぶんカズ自身は喜ばないだろう。
 FC東京のサポーターたちは、もうひとりのキングを歴史上の人物としてではなく、アウェーチームの手強く憎らしい点取り屋として遇していた。
 それが、彼らなりのカズへの敬意の示し方だったようにも感じられた。

 それから1年後の今も、カズは神戸でプレーしている。どうやら来年も現役生活を続ける可能性が濃厚だ。見納めになったのはキング・オブ・トーキョーの方だった。
 Jリーグ草創期の選手たちが、次々と指導者の道を進んでいる。反町のような名監督も生まれた。およそコーチなど似合いそうになかったラモスも、S級ライセンスを得た。
 だが、カズがライセンス講習を受講しているという話は、寡聞にして知らない。現役選手でないカズの姿は、ちょっと想像することができない。
(この項おわり)

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万人の夢を背負う男(2)

 ワールドカップ・フランス大会の出場メンバーからカズが外されたことを、私は発表の翌朝のニュースで知った。
 ショックだった。予期していた以上にショックだった。
 あのころ、「カズはどうなるの」と人に聞かれるたびに、「入ってもおかしくはないし、入らなくてもおかしくはない。ただしフランスに行ったとしても先発は難しいだろう」と答えてきた。カズの落選が報じられた夜にも、そうとは知らず、サッカー好きの知人と深酒しながら同じことを話していた。
 しかし、結局のところ私は、カズが落ちる可能性を、あまり突き詰めて考えたくはなかったのだと思う。
 朝のニュースの“街の声”で、高校生くらいのねえちゃんが「当然じゃないですかあ」「体力落ちて足手まといになっても困るしー」などと言ってるのを見て、今すぐテレビをぶち壊したいという凶暴な衝動に駆られた。自分でもどうかと思うほど腹を立てていた。てめえらに何が判る。てめえなんかに何が判る。
 私が『万人の夢を背負う男』という文章を書いてから、たった5年しか経っていなかった。

 それより3週間ほど前、フランス大会に臨む25人の候補を決めた5月7日の記者会見で、岡田武史監督は「誰某を選ばなかったのは何故か」という類いの質問のすべてに丁寧に答えた。ラモス、柱谷、前園…。「ラモスがいなければ日本のサッカーは10年は遅れていた」と岡田が話すのを聞きながら、過去の数多くの人たちの努力と執念の産物として、岡田とそのチームはフランスに行くんだな、彼らの夢を背負って、日本のサッカーを代表していくんだな、と、しみじみと実感した。
 チームというのは駅伝のようなものなのかも知れない。闘い、支え、そして力尽き、続く者にタスキを託す。あの時点でカズを外していたら、岡田は会見でカズについて何と言っただろうか。

 カズと北沢が合宿を去った途端に、キャプテンの井原は練習で大きな故障をした。かろうじて間に合ったアルゼンチンとの初戦、試合前のコイントスの際には、相手のキャプテンに何度も何度も握手を求めている。平常心を欠いているのは明らかだった。カズに代わるFWの軸に指名された城は、ゴールに向かう気持ちを内心では持っていたのだろうけれど、それはスタンドまで伝わっては来なかった。
 結果から言えば、試合中にビビるという心性とは無縁だったカズと北沢がベンチにいたら、彼らの気持ちにも少しは余裕ができたのかも知れないと思う。
 カズが代表から落ちたのと同じ日、ロマーリオがセレソンから外れるというニュースを見た。合宿中のケガが理由だった。記者会見で涙を浮かべ、両手で顔を覆い、「世界が音を立てて崩れていく」と話していた。それでも、ロマーリオには94年の栄光が残る。カズには何もない。(この項まだつづく)

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万人の夢を背負う男(1)

 ワールドカップ一次予選の最終戦であるシンガポール戦に、日本代表の功労者であるカズなどの選手を起用する、というジーコの腹案は、結局、実現されなかった。
 私自身は、ジーコが自分のアイデアを実行しようがしまいが、どちらでもよかった。ただ、どんな呼ばれ方をしたとしても、カズはたぶん、「光栄です」と語り、練習では11番のビブスを手放さず、試合になればシンガポール相手にむきになって点を取ろうとしただろうな、と思った。

 カズこと三浦知良には、特別な思い入れがある。ただし、カズのファンだったことはない。そのへんの心理の綾のようなものを、『万人の夢を背負う男』という題で短い文章に書いたことがある。

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 野球の話から入る。
 今でこそみんな長嶋茂雄を愛していたと言うけれど、昭和40年代半ばに長嶋ファンを自称する人は案外少なかった。「ファン」というのは「私の○○さん」という意識によって成り立つ。「ミスタープロ野球」と呼ばれるメジャーそのものの人物を「私の」と思い込むのは案外難しいものだ。
 つまり、カズは今やそういう位置に立っている。
 カズこそが日本のサッカーをここまで導いた男である。もちろん今の隆盛を築いたのは彼ひとりの力ではない。それでもやはり、彼の帰国によってすべての歯車が噛み合い、山が動き始めたことに疑う余地はない。
 プレーヤーとしては甲乙つけがたい井原やラモスや福田との決定的な違いはそこにある。カズは、長嶋を知らない世代の子供たちが初めて持ち得た「万人の夢を背負う男」なのである。

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 93年秋、ワールドカップ・アメリカ大会のアジア最終予選を前にした時点で書かれた文章だった。井原やラモスや福田とカズが「甲乙つけがたい」かどうかは異論のある方もおありだろうが、本稿の趣旨とはあまり関係ないので見逃していただきたい(でなければ適当に誰かに置き換えて読んでいただきたい)。
 振り返ってみれば、カズの代表キャリアの中で、この時がピークだった。カタールの地元紙が彼を「KING KAZU」と呼んだのも、この最終予選の最中だった。
 そう、いつだってカズは万人の夢を背負っていた。
 いくつかの節目を経て、残酷なメディアが彼を「放逐された王」とみなすようになってからも、カズは万人の夢を背負おうとすることをやめなかった。1997年の秋以降、彼のキャリアが悲喜劇と化し、言動がある種の滑稽さを帯びてみえるようになったのは、そのためだ。(この項つづく)

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セクハラよりも重い罪。

 ダイエーのオーナー代行だった高塚猛が強制猥褻罪の疑いで逮捕されてから、さまざまな雑誌が彼の過去の行状を書き立てている。彼がホテルを建て直して中内功の目に留まるきっかけとなった盛岡時代から、盛大に女子社員を触りまくっていた、という記事もあった(それまで「奇跡の再建請負人」などと持て囃していたビジネス書のライターは、密着取材していながら彼の行状に気づかなかったのだろうか)。

 彼が球団を去ること自体は歓迎だ。だが、できれば、セクハラのような野球と無関係な犯罪によってではなく、彼が野球に対して行なった罪によって放逐されてほしかったし、批判されるべきだと思っている。逮捕後に、井口との「オーナーかオーナー代行が退任したら自由契約にしてよい」という、わけのわからない契約条項が明らかになったことで、彼が本を書きまくって自画自賛していた球団経営というものの実態も、少しは世間に理解されてきたのかも知れないが。

 私は彼のことが大嫌いだった。きっかけは、99年にダイエーが日本一になった直後に、工藤がFA宣言してダイエーを去った時のことだ。
 東京新聞(おそらくは提携している西日本新聞からの転載)に掲載されたインタビュー記事で、工藤はこんなふうに語っていた。

「自分なりに頑張ってきた火曜日登板を“客が入っていない”とけなされ、“君の家族サービスを考慮に入れたものだ”とも言われた。監督から週の頭が大切といわれ、意気に感じて投げていたのに…。火曜日に投げれば、日曜日はピッチング。そんなことも判っていないのかと悲しくなった」

 当時はパも月曜を移動日にしていたから、試合日程は火水木-金土日の3連戦×2が基本だった。当然、もっともよい投手が火曜日に投げることになる。
 しかし、観客動員は週末に集中する。東京では酒場は木曜や金曜に混雑する。中洲でも、たぶんそうだと思う。火曜の夜から野球を見に行こうという人も少ないはずだ。それを工藤のせいにされても困るだろう。だいたい、先発ローテーションを決めるのは監督であって、投手ではない。「家族サービス」云々のくだりに至っては論外だ。工藤が週末に休んでいたのかどうかは、チームの練習を見てみればわかることだ。
 工藤のような偉大な投手に対して、ホテル経営には詳しいかも知れないが野球のことなど何も知らない雇われ経営者風情がこんな口をきくということが私には許せなかった。
(もちろん、これは工藤側の言い分でしかない。ただし、高塚は当時、さまざまな雑誌で工藤に反論していたが、この発言そのものに対しては否定も反論もなかったと記憶している)

 小久保を無償でジャイアンツに譲渡した時にも、同じようなことが繰り返された。小久保自身は黙して語らなかったが、西日本新聞は、高塚が小久保をないがしろにした経緯を詳しく書いていた(同紙は井口の契約に関しても厳しく批判していた。よほど腹に据えかねている記者がいるのだろう)。

 彼の自画自賛本を読めば、なるほどと思うことも書いてある。例えば、ホークスのロゴ使用を地元企業に無料開放するというアイデアは秀逸だ。観客動員を伸ばし、収支を好転させたのは彼の手腕によるものだったのかも知れない。
 だが、営業面では優秀だったかも知れないが、野球そのものに対しては彼は無知であり、にもかかわらず、あまりにも傲慢にふるまった。

 残念でならないのは根本陸夫の急逝だ。99年の春、球団社長に就任して数ヶ月で世を去ってしまった根本が健在であれば、こんなことにはならなかったはずだ。高塚がユニホーム組の領分に口出しすることなど、根本が決して許さなかったに違いない。
 工藤、小久保、井口、みな根本が集めた選手だった。根本が作り上げた王国を、高塚が壊していく。やるせない、というほかはない。

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首都、制圧。

 FC東京がナビスコカップに優勝。あんな凄まじい試合の前には、言葉を失う。ただチームと選手を称えるのみだ。
 退場になったジャーンを含めて、みんな頑張ったが、私は特にこの男を称えたい。

 藤山、日本一!

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新球団が継いだ、懐かしい名前。

 仙台に本拠地を置くプロ野球の新加盟球団は、東北楽天ゴールデンイーグルスに決まった。
 略称は、楽天イーグルスとするのだという。
 若い野球ファンには新鮮に響くであろう、この「イーグルス」という名前、戦前のプロ野球にも存在したことがある。
 昭和12年に誕生し、その後、黒鷲、大和と名を変えて、戦時下の昭和18年を最後に解散した。戦後の球団の系譜には、つながっていない。名捕手バッキー・ハリス、ハワイ出身の日系二世で、アンダースローのノーコン速球投手・亀田忠、柔らかい股関節から「タコ足」と呼ばれた名一塁手・中河美芳ら、個性的な選手を擁したチームだったという。米国人ハリスは昭和12年秋のリーグの最高殊勲選手に選ばれ、翌13年には本塁打王(6本)に輝いている。亀田はノーヒットノーランを2回達成した。

 この球団の創設者は、河野安通志という。早大野球部創設期のエースで、第一回早慶戦に先発し、第一球を投げた人物だ。大正8年に「日本運動協会」(芝浦協会、とも呼ばれる)を創設し、日本で最初のプロ野球球団をつくった人物でもある。

 今年は「日本プロ野球70年」とNPBはさかんに宣伝している。70年前の1934年、つまり昭和9年は、アメリカから招いた大リーグのオールスターチームと対戦させるために、読売新聞社が集めた選手たちによって、大日本東京野球倶楽部が作られた年だ。このチームが巨人軍になり、これを核として現在の日本のプロ野球リーグが作られた。従って、現在のプロ野球リーグ、すなわちNPBが70周年を自称する限り、これは間違いではない。だが、日本で最初のプロ野球チームは、それより前にも存在したことがある。

 河野が作った日本運動協会は、関東大震災で大きな打撃を受けて解散した。阪急の小林一三の援助を受けて、宝塚協会を作ったが、これも挫折。その後、正力松太郎が作った野球連盟に、一球団として参加したのがイーグルスだった、ということになる。戦争が終わった昭和20年冬、河野は解散した大和の選手を集めて「東京カッブス」という球団を結成し、野球連盟に加盟を申請するが却下され、幻に終わった。

 楽天の三木谷社長と彼のスタッフが、このような歴史を知った上で、「イーグルス」という名を新球団につけたのかどうかは知らない。NPBの異分子になるべき新球団にふさわしいとも言えるし、旧イーグルスの球団史および河野の苦闘を考えれば、縁起が悪い、と言えなくもない。
 いずれにしても、すでに彼らはスターティングブロックを踏んだ。あとは、走り出すしかない。個性ある選手を集めた魅力あるチーム、という点では、約70年前のイーグルスに似たものになってほしいと思う。

参考 Baseball Monthly http://www.hitbypitch.com/BM/back/043/kujib.htm
    小川勝「幻の東京カッブス」 http://www.puresoul.com/ogawa/
    

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