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2004年12月

MVP goes to SHINJO.

 長い一年が終わる。野球、サッカー、オリンピック、さまざまなスポーツを見てきたはずだが、振り返って目に浮かんでくる最も印象深い場面は、記録の上では平凡きわまりないひとつのプレーだ。
 西武と北海道日本ハムが闘ったプレーオフの第二戦。連打で逆転した日本ハムは、9回裏の守りで、最後の打者フェルナンデスを打ち取った。
 センターやや後方へのフライ。捕球した中堅手は、そのまま両手を突き上げ、後押ししてくれたファンで埋まったレフトスタンドにボールを高々と放り込むと、仲間が待つベンチの方へ走っていった。彼が満面に無邪気な笑顔を浮かべていることは、背中から見てもわかっていた。これで優勝したわけではなく、対戦成績をタイにしたに過ぎない。それでも、ひとつのアウト、ひとつの勝利が、これほどまでの幸福感を醸し出すものなのだな。レフトのポール際の内野席で見ていた私は、しみじみと思った。

 昨年の秋。
 新庄剛志が北海道日本ハムへの入団会見で「これからはパ・リーグです」と口にした時には、正直に白状するが「また言ってるよ」としか思わなかった。
 ひとりだけ他の選手とは別の飛行機で、派手な服装とサンダルでキャンプインした時も同じだ。
 だが、オールスターゲームで単独ホームスチールを決めてMVPに選ばれたSHINJOが、再び「これからはパ・リーグです」と高らかに言った時、その言葉は半年前とはまったく違う意味と重みを帯びていた。
 そのことにSHINJO自身が気づいていないはずはない。だが、外から見る限り、まったく同じ無邪気な笑顔、まったく同じ軽みで話すSHINJOに、なんてすごい奴だろう、と畏敬の念さえ覚えた。

 新天地でスタートを切った球団に札幌の人々の目を惹き付けたのは、間違いなくSHINJOだった。芸能人や愛玩動物を見るような人々の態度にも(記者会見の質問内容、つまり地元メディアにさえ、そんな空気は漂っていた)、SHINJOは何の屈託もなく笑顔で応えていた。
 今になって振り返ってみれば、彼は広告塔としての自らの役割を、よく理解していたのだと思う。「ファンに愛される」ことがプロ野球選手の仕事だということを彼は知っている。直接見たことはないのだが、札幌ドームの外野スタンドに、かなりの金額を払って自分自身の広告を出していると聞く。筋金入りのショーマンシップなのである。

 6月に近鉄とオリックスの合併構想が露見して以来、重苦しい話題で野球のイメージに陰がさす中で、SHINJOの元気溌溂としたプレーは、人々の気持ちを明るくしてくれた。宙を跳ぶ俊足、定規で引いたような一直線の送球。力強いスイング、糸を引くライナー。そして何よりも、あの天衣無縫の笑顔。試合前の練習でのカブリモノが何度も話題になったが、チーム状態やスト問題の経過などを感じつつ、ここぞというタイミングを狙っていた節がある。そして確か、あれをやった日の試合には、ことごとく勝っているはずだ。

 SHINJOを見ていれば、それだけで楽しくなれる。オールスターでホームスチールが成功し、うつぶせのまま両手をばたばたさせて喜ぶ姿は、まるで三歳児のように微笑ましかった。プレーオフ進出を決めたサヨナラ満塁「本塁打」は、走者追い越しでアウトになってしまったことも含めて、彼でなければできないプレーだった。
 西武とのプレーオフでも、北海道日本ハムのビッグイニングはSHINJOの出塁から始まっている。彼のプレーには、人々の心に火をつける何かがある。プレーオフの3試合、左翼席のファイターズファンの応援は、ものすごい圧力となって西武ナインに襲いかかっていたはずだ。サッカーで言う「12人目のプレーヤー」を野球場で実感したのは、私はあれが初めてだ。
 あれほど酷評されたプレーオフがこれほどまでに盛り上がったのは、ファイターズが踏ん張ったからだ。そして、ファイターズとそのファンをここまで引っ張ってきたのは、SHINJOだと言って差し支えないだろう。

 今年のスポーツ界にも、いろいろなことがあった。優勝、タイトル、金メダル、最多安打記録、奇蹟的な勝利や苦渋の敗北が、人々の心を震わせた。
 だが、スポーツ、とりわけプロスポーツにおいてもっとも価値があるのは、結果の軽重にかかわらず、目の前のプレーそのものの力によって観客の心を惹き付け、幸せな気持ちにさせることだと私は思っている。
 そんな見物人の論理に則り、このblogの2004年のMVPを、プロ野球・北海道日本ハムファイターズのSHINJO選手に差し上げたい。
 彼は野球選手として、2004年のプロ野球を救った。


 これで本blogの2004年の書き込みは最後になります。
 訪ねてくださった皆様に、よいお年を。そして長寿と繁栄を。

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知は力なり <旧刊再訪>

後藤健生『サッカーの世紀』 文藝春秋 1995
小関順二『プロ野球問題だらけの12球団』 草思社 2000年から毎春刊行中

 日本でスポーツライティングにかかわる人物のほとんどすべては、3つのカテゴリーに分類することが可能だ。
1)スポーツ選手か指導者、スタッフの経験がある
2)スポーツメディア(新聞、雑誌、テレビ)に属していた経験がある
3)別の世界ですでに名をなしている(小説家、大学教授など)

 あ、あと「外国人である」というのもありますね。しかし、セルジオ越後もマーティ・キーナートもフローラン・ダバディも、おおむね上記のどれかに分類可能だ。
 小林信也は著書『スポーツジャーナリストで成功する方法』の中で、「お笑い芸人か、有名なスポーツ選手になるのが早道だよ。それが無理なら、経済力のある伴侶を見つけること」と書いている。言わんとするところは、ほぼ同じだ。

 ではこの3つに属さない、単なるファンにチャンスはないのだろうか。
 「なくもない」というのが正解である。
 この2人がいるからだ。後藤健生と小関順二。

 後藤健生がどのようにしてサッカーライターになったかについては、最近は彼自身の口から語られる機会も増えたようだ。スカパーのワールドカップジャーナルでかなり昔話をしていたし、早大サッカー観戦会での講演内容が、つぶさにネット上にアップされている。http://www.wasedawillwin.com/special/0104_goto/ 要するに、専門誌の記者でさえかなわないほど試合を見ていたので、原稿を頼まれるようになったということらしい。

 私が最初に彼の文章に触れたのは「ストライカー」誌に連載されていたエッセイだ。92年ごろだったと思う。著書もほとんど読んでいる。
 正直にいえば、私のサッカー観は、かなりの程度、後藤に影響されている。時間軸と空間軸を極大にとって、現在目の前で起こっている事象をその中に位置付けようとするならば、どうしたって後藤に似てくるはずだ。選手に密着するわけでもない後藤の文章は、基本的に公開情報に基づいて書かれている。それはつまり、一ファンの目から見えるものと大きな違いはない。後は料理の腕次第であり、彼の膨大な知識と圧倒的な観戦歴に培われたサッカーを見る目がモノを言う。

 『サッカーの世紀』は、そんな後藤のスタイルが集約された傑作である。民族や文化の特徴と、その国のサッカーの特徴を関連づけて語るスタイルは、時には詭弁めいたところまで筆が滑ることもあるが、世界のサッカーを見る上でのバックボーンとして絶好の一冊だ。「処女作に作家のすべてがある」と言われるが、後藤の場合、これはかなりあてはまるように思う。

 後藤は結論を急がない。フィリップ・トルシエが代表監督になってまもなく、サッカージャーナリズムの世界が「トルシエ是か非か」で二分されつつあった時期に、彼は「保留」と言い続けていた。理由は明解で「まだトルシエは守備の練習しかしていない。攻撃に関しては手つかず。評価を下すのはトルシエのサッカーが完成し、全貌を見てからでいい」という。その後、アジアカップで優勝した段階で、後藤は自分なりの評価を下す。歴史家なのである。


 小関はアマチュア野球マニアだった。今でもそうかも知れない。
 2004年9月に川崎で開かれた、サッカーと野球を対比して語るシンポジウムに、小関はパネリストとして招かれた。その日は、ちょうどプロ野球のストライキが実施された直後の月曜日(祝日)である。司会者えのきどいちろうに「プロ野球がなかったこの週末は、何してました?」と問われた小関は、土曜日はどこそこでこういう大会がありましてね…と嬉々として自分が訪ねたアマ野球の試合について話した。プロ野球がなくても野球はそこらじゅうでやっていて、自分はそれを見ればいい、というある種の覚悟のようなものが感じられ、凄みさえ感じた(たぶん、えのきどはこういう答えを予測して質問したのだと思う)。

 「ドラフト会議倶楽部」という模擬ドラフトを行うサークルを主催したのが小関のキャリアのはじまりだった。小関は、単にメディアを通じて得た知識だけでは飽き足らず、自ら全国の高校や大学、社会人野球の大会を歩いて、有望選手を自分の目で見続けた。掘り出し物を探すのも楽しみになった。プロ野球球団からスカウトとして声がかからなかったのが不思議なほどだ(打診されたことも、なくはなかったようだが)。

 ここまでのアマ野球マニアは、他にもいるかも知れない。小関がユニークなところは、同時にプロ12球団のドラフト戦略を分析し、「今年のこの球団には、こういう補強が必要だ」という判断をもとにドラフト批評をしてのけるようになったことだ。これは、単に「このポジションが弱い」というだけではない。現有戦力に年齢をプロットし、「3年後、5年後にはこのポジションが手薄になるから、この選手を獲得すべき」という予測を含めた分析を行うのだ。
 言葉で説明するのは簡単だが、これが実際にできる人はめったにいない。各球団の二軍にどんな選手がおり、誰がどのように育ってくるかが予測できないからだ。しかし、小関は彼らをアマ時代から見ている。アマのいい時と現時点との違いがわかるから、この先どれだけ伸びしろがあるか、という予測もできる。

 『問題だらけの12球団』は、その小関の仕事の年報のようなものだ。
 ドラフト戦略は、経営戦略でもある。必然的に、小関の視野にはプロ野球の経営そのものも入ってくる。『問題だらけの12球団』2002年版では、日本ハムの札幌移転を予言している。予言というと大げさだが、そうでもしなければ生き延びられない、という必然性を、小関は感じ取っていたということだ。
 彼は編集プロダクションに属していたから冒頭の2)にも該当するが、現在の小関の仕事が、ドラフト会議倶楽部の活動や、道楽としての野球観戦によって築かれたことは間違いない。

 さきのシンポジウムで、えのきどは客席の大半を占めるサッカーファンに向かって、小関を「一言でいえば、野球の後藤さんみたいな人」と紹介した。
 2人に共通することは、長い間、誰に頼まれるでもなく、勝手にスポーツを見続けてきたことだ。そして、自分の見たものや知ったことを自分なりに分析し、体系化してきた。それがひとつの形にまとまった時には、もはや余人の追随を許さない水準に達していた。

 彼らの築いた体系を利用したり、真似することはできる。過去について語るのであれば、そのまま模倣することはたやすい。彼らの体系は、とてもわかりやすく整理されているから。
 にもかかわらず、彼らの仕事は、模倣者に侵食される様子がない。スポーツ選手を焼き鳥屋に連れて行く場面から始まる本がベストセラーになった途端に、同じような原稿を書くライターが急増したような世界であるにもかかわらず。

 本家と模倣者を厳然と隔てるものは、新しい事象が目の前に現れた時に、それを判断する能力である。「藤井システム」で知られる将棋の藤井猛九段は、「藤井システムを作ってみたら、システムとは無関係な局面でも強くなっていた」と語っている。「自分の手で一から体系を作る」という作業は、作った本人の力量を飛躍的に向上させるものらしい。
 法律家は法律を通して世の中を見る。解剖学者は解剖学を通して人の営みを見る。そのような意味において、後藤や小関は、自らが作り上げた「スポーツ知の体系」を通してスポーツを見ており、世界をも見ている。

 というわけで、「一ファンにチャンスはないのか」という問いへの回答は、正確に言えばこうなる。
「なくもない。後藤健生や小関順二のように、誰にも追随することのできないスポーツ知の体系を作り上げることができるのならば」

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喉元過ぎたら怒りも忘れたか。

 年末だからログの整理でもしてみるか、と古い書き込みを眺めていたら、「野球の未来を創る会」という団体について、批判がましいことを書いたのを思い出した。

 気づいている方もおられるかも知れないが、私は自分の言動の一貫性にこだわる性格だ。その後、立派に活動しているようなら自己批判しなければならないかな、と、久しぶりに「野球の未来を創る会」公式サイトを訪ねてみて驚いた。
 2度目のストが回避された直後の9月27日を最後に、更新されている形跡がない。まだ楽天の新規参入も決まっていない時期だというのに、ずいぶんとせっかちに安心してしまったらしい。
 私は他人の言動の一貫性にもこだわる性格なので、こういう人々には、はっきり言っておく。

 野球をなめるんじゃない。

 人々に呼びかけ、大量の署名を集めておいて何もしないのは詐欺に等しい。彼らが集めたのは金ではなく「期待」だが、集めるだけ集めて放りだしていることに変わりはない。Year!の編集後記によれば、この会は民主党主導らしいが、こんなふうに一過性のブームを利用することばかり考える体質があるのなら、政権をとれないのも当然だろう。
 「スポーツと政治とは人々の意識の底でつながっている」とサッカーのチベット代表の項に書いたが、そういう本質的なことでなく、表面的な上っ面の政治性を利用しようとする手合いは、いくらでも存在する。サッカーのアジアカップの時には、スタジアムでブーイングを聞いたこともないであろう人々が、ただ中国の悪口を言いたいがために試合をダシにしていた。

 こういう連中は所詮スポーツの外側の住人だから、あまりとりあっても仕方がない。
 だが、喉元過ぎたら熱さを忘れてるんじゃないか、と言いたくなる言動が、肝心の選手たちにも散見するのはいただけない。

 下の「社会部というリアリズム」のコメント欄にも書いたが、選手会は経営側との闘争を通じて、「ファンのために」と言い続けてきた。
 それが本気の言葉だったのか、それともファンをダシにして自分たちの主張を正当化してきたに過ぎないのか。その後の言動によって、それを問われる立場にあることを、彼らはどれだけ気づいているのだろうか。
 日本一になった西武、金には困らないはずのジャイアンツをはじめ、多くのチームで年俸の切り下げが起こっている。ここまでの経緯からすれば、当然起こりうることだ。
 思ったほど増えなかったり、大幅に減らされた年俸提示を前に、では球団の収入を増やすためにどうしたらいいか、自分にはこういうことができる、と提言した選手が、どれだけいるのだろうか。
 契約更改の直後には記者会見があり、選手たちはメディアに直接語る場を持っているにもかかわらず、選手たちの発言に全体としては変化が感じられない。ボランティアやファンサービスに熱心な一部の選手と、そうでない大多数の選手がいる、という例年の風景と大差ないように感じる(克明に報道をチェックしているわけではないので、反証があれば教えてください。しかし、今年ならそういう話は目立つように報じられるはずだ。私には、根拠なくポスティングによる渡米を求めてゴネる選手ばかりが目立って見えて仕方ない)。

 例えばジャイアンツの上原は、五輪代表でもエース格の投手だが、契約更改においては「僕はいらないということですか」という増収額への不満の声だけが伝わってくる。一連の経営改革の一環として報酬や査定の体系を変える、という清武代表の方針に対して、あまりに素朴なリアクションである。上原の立場であれば、球団をどう変えていきたいかを代表と話しあうくらいのことを、このオフだからこそ、してほしい。上原の代理人は、そういうことをクライアントになぜ教えないのか。メディアが発言を歪めているなどという言い訳は上原クラスでは通用しない。

 「構造改革協議会」の最初の会合に、選手側の代表者が5人しか集まらなかった、というのも失望した。経営側は12球団から出席したにもかかわらず、なぜそういうことが起こるのだろう。古田会長は「人数が少なくても意見は言える。入口でごちゃごちゃ言うのはおかしい」というようなことを言って反発していたが、この件に関しては誠意を欠いているのは選手会の方だと私は思う。戦術として誤っている。

 このblogで私が選手会への苦言ばかり書いているものだから、念仏の鉄は選手会嫌いだと思っている方もいるようだが、そうではない。せっかく価値のある仕事をしようとしている時に、あまりにも脇が甘すぎるのが苛立たしいのだ。半ズボンにサンダル履きで公の場に入ろうとすれば、入口でごちゃごちゃ言われるのも仕方ない。Numberだか他の雑誌だか忘れたが、選手会の中で好戦的な発言を繰り返していたある選手について「彼は去年までサインしてくれたことがなかった」というファンの発言を紹介していた。選手とは、常に見られているものなのだ。見栄えのする場所でだけ恰好をつけていても、すぐに露呈する。
 選手会のブレーンであるらしい弁護士たちは、理屈を練るのと同時に、社会人のマナーを選手たちに教えてやって欲しい。それとも、彼ら自身もそういうものがわかっていないのか。

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社会部というリアリズム。

 ジャイアンツが選手への報酬にサラリーキャップ制を導入した、とスポニチが書いている
 アメリカのプロスポーツ界にある「サラリーキャップ制度」は球団間の約束事としての制度であり、一球団でやるのならそれは単なる「予算」だが、しかしジャイアンツが予算枠を前面に出して選手への報酬を抑制にかかること自体、これまでになかったことだ。
 確かにここまで二岡、江藤、桑田と働きの悪い高額所得者たちは、激しく切り下げられている。昇給額が少ない、と上原が不満を示しているのも周知の通り。

 一場への裏金発覚により、今年8月、渡辺恒雄オーナーが退き、ジャイアンツの経営陣は一変した。滝鼻卓雄オーナー、桃井恒和球団社長、清武英利球団代表。この3人によるオフの動きが面白い。
 観客動員の実数発表。内野スタンドのグラウンド側への拡張とネットの一部撤廃。内野ネットに穴を開けて選手が観客にサインすることを可能にする、というアイデアも、細かいことだが、いい案だと思う。「飛ばないボール」の採用も然り。デーゲームを増やすのは大歓迎だ。
 選手への対応も、従来とは違ってきたように見える。清原の処遇についてだけは、人気に目がくらんだ感がなくはないが、FA宣言した清水と仁志への対応は、方針が一貫してブレがない。早々に「複数年契約は2年まで。あとは付帯条件で」という方針を打ち出し、MLB入りを目指した仁志に対しては、一定の理解を示しつつ、期限を切って残留の意思表明を求めた。仁志や上原とのやりとりに関して、球団を批判する声はほとんど聞こえてこない。

 週刊ベースボールの12/20号に掲載された清武球団代表のインタビュー記事も面白い(オフ企画の「球界を動かす人々」という連続インタビューの第3回。この連載は毎回興味深い。一言で言えば、経営側だって一人ひとりは馬鹿じゃない(少なくとも球団社長や代表は)ということが如実に理解できる。選手会の幹部の中で、これに見合う内容の話ができる選手が古田の他に何人いるだろうか)。
 2006年に開催予定のW杯について「あれはまだ本物のワールドカップじゃないでしょうね。興行、いわば招待試合のようなものですから」と言い放ち、辛口のはずの同誌・柳本元晴編集長を「ズバズバおっしゃいますね(笑)」とたじろがせている。

 このインタビューの白眉は、裏金問題についてのやりとりだろう。
 裏金は「僕の常識で信じられないし、あってはいけない」と断じた後、ドラフト制度の影響を問われて、「今のドラフト制度だから裏金が動く、という見方は違うでしょうね」と清武は言う。
 「(制度を)変えたらなくなりますという単純なものではない。この土壌を変える方法を徹底して考えなければならないでしょうね」
 「私見として挙げるなら、牽制効果は有効でしょうね。たとえば『不正防止ダイヤル』をNPBに設け、情報の窓口とし、そこで得た情報についてはしっかりと調査をし、球団、選手にしかるべきペナルティーを加えるということです。内部告発というと印象はよくないかもしれませんが、球団同士、大学同士と、お互いが牽制し合うことで、かなりの効果はあると思います」

 身も蓋もないリアリズムである。「不正防止ダイヤル」などというアイデアは保身や面子を考えたら決して出てこないだろうし、「大学同士」という言葉の中で、暗にアマ球界側の責任にも言及してしまうところも臆面がない(笑)。
 この身も蓋もないリアリズムは、清武が社会部記者出身であることと無縁ではないだろう。新聞記者や、そのOBたちを見ていると、出身部署とキャラクターはしばしば密接に関係している。
 これまでジャイアンツを動かしていたのは政治部出身者が多かった。大ボスの渡辺恒雄・前オーナーが大政治記者だったからだが、日本の政治家が公式の場では空虚な言葉を述べつつ大事なことはすべて密室で決める人種である以上、成功した政治部記者たちも、そういうやり方を好む体質を持つであろうことは想像に難くない。
 一方、社会部の行動原理はずっとシンプルだ。いいことはいい。悪いことは悪い。悪いやつはけしからん。社会面の事件記事は、常にそういう原理に基づいている。密室の交渉は暴くものだ、というのが事件記者の本能でもある。社会面の記事は、良くも悪くも読者たる世間の気分を反映することを重んじる。「大衆は決めたことに従えばよい」という多くの政治家の認識とは、これも対照的だ。

 こういう社会部的なリアリズムの資質こそ、今の野球界にとっては必要なのだろうと思う。滝鼻オーナー、桃井球団社長も社会部出身と聞く。この体制がある程度の長期にわたり、彼らが打ち立てる方針が後任者たちにも受け継がれていくようなら、ジャイアンツはもっとも革新的な経営をする球団になる可能性がある。一場さまさまである。

(しかし一場も、この時期に結婚して「来夏出産予定」とは、野球部を退部してからドラフトまでの間をどう過ごしてたのか容易に想像できるような話ではある(笑)。そういう脇の甘さも大活躍すれば「エースの美徳」になってしまう世界ではあるが、そうなったらなったで利用しようと近づいてくる手合いの多い世界でもある。敢えて自由獲得枠で採用した以上、楽天野球団は、この迂闊な若者を守り、まともな社会人に育てる責任を負っている)

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ピエルルイジ・コッリーナ『ゲームのルール』日本放送出版協会

 2002年ワールドカップの決勝戦。敗退が決まり、悔しさのあまりかゴールポストにもたれて動けなくなってしまったドイツのGKオリバー・カーンのところに、わざわざ自分から出向いて握手を求めた主審が、本書の著者であるピエルルイジ・コッリーナだった。ビッグゲームを仕切る彼の姿は、一度見たら忘れられない。それは、見上げるような長身とスキンヘッドという印象的な容貌のせいだけではなく、彼のジャッジが、常にこのようなこまやかな心遣いを備えているためだろう。

 本書は、そのコッリーナが審判生活を振り返った半生記だ。当然、2002年ワールドカップをはじめ、いくつものビッグゲームが登場する。日本がトルコに敗退した時、日本のキャプテン宮本に「自分たちのしたことに誇りを持っていいと思う。悲しむんじゃない。胸を張れ」と話しかけたエピソードも記されている。
 もっとも、98年ワールドカップや2000年欧州選手権では、彼は予選リーグの笛しか吹いていない。チームが上位に勝ち上がった国の審判は、大会後半には外されてしまうのだ。サッカー大国の優秀な審判ほど主要な試合を担当できないという大いなるパラドックスに耐えなければならない寂しさも、本書には記されている。2002年大会におけるイタリアの早期敗退は世界中の人々を失望させたが、決勝戦がコッリーナという優秀な主審によってコントロールされたのは、そのおかげでもあった。

 審判の知られざる日常、喜びと苦しみ、イタリアの審判制度の仕組み(彼のような世界最高峰の審判でさえ、二週間に一度の合宿講習を受けて技術向上に努めているという)など、それぞれに興味深いが、もっともスリリングなのは、やはり試合の経験談。それも、予想を超えたトラブルに巻き込まれた時に、彼がどのように対処してきたか、というトラブルシューティングのケーススタディである。

 一度は認めたゴールが実は副審の見間違いとわかった時(しかも試合はインテル対ユベントスの首位攻防戦)。ホーム側ゴール裏の荒れたファンがGKに物を投げつけ、危険きわまりない状況に陥った時。試合中に大雨が降って続行が危ぶまれた時。コッリーナは、待ったなしの難問に直面するたびに、サッカーの常識にはないような解決方法を見いだして、試合を無事終わらせることに成功する。
 この種の困難な状況を打開するには、ただ正確にジャッジするだけでは充分ではない。コッリーナは正確さと同じくらい、選手が能力を発揮し、試合が円滑に進行することを重視する。ひとたびキックオフの笛を吹いたら、何があっても試合を無事に終了まで持っていかなければならない。彼を名審判たらしめているのは、このShow must go onの精神に違いない。

 今年の欧州選手権では、コッリーナは開幕戦と準決勝(ギリシャ-チェコ)の笛を吹いた。2005年に45歳になり、国際審判員として定年を迎えるため、ワールドカップは日本が、欧州選手権はこのポルトガルが、それぞれ最後になる。昨年はフランスに招かれてリーグ戦の笛を吹き、定年後はFAに招かれるという話もあるらしい。いいことだと思う。世界の多くの審判に、彼のスタイルを見習ってもらいたい。特に、やたらにカードを出して選手をピッチから追放するのが自分の仕事だと思っているらしい日本の一部の審判たちには。

 本書には、私生活やCM出演についての感想も記されている。大阪で放映されたというタコ焼きのCMについて言及されていないのが、唯一残念な点である。

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器の問題。

 今月初めに、毛皮族の公演を見た。
 若い女性が中心の劇団で、名前のわりには半裸で舞台を駆け回ることが多い。エログロっぽい装いでストーリーがあるようなないような芝居を演じながら、唐突に昭和歌謡が流れると男装の麗人(座長の江本純子)が現れて、レコードの歌詞に重ねてデタラメな替え歌を歌ったりする舞台で、わけがわからないといえばわからないのだが、ジュンリーと自称する江本の強引きわまりないけれど強靱な愛嬌を感じさせる進行ぶりや、突き抜けた明るさが気に入っている(といっても、見るのは今回が二度目なのだが)。

 ふだんは下北沢の駅前劇場を根城にしているグループだが、今回の公演「お化けが出るぞ!!」は新宿の全労済ホール・スペースゼロが会場だった。毛皮族にとっては、初めての中規模ホールでの公演だ。
 客席に座ってみると、えらく違和感がある。会場が変わると、こんなにも雰囲気が違うものかと改めて感じた。

 駅前劇場は、とにかく狭い。定員は180人、客席に通路らしい通路も少なく、椅子は前にも横にもくっついていて、客同士がひしめきあうように座ることになる。天井も低い。私が見た時は夏だったが、冷房もあまり効かない。ただ座っているだけで、むんむんと人いきれの熱気が充満してくるようだった。
 スペースゼロは、天井が高い。定員は560人くらいで駅前劇場の3倍以上入るが、容積率では何十分の一という感じだ。多目的ホールのために客席の桟敷は仮設式で、床の下にも空間がある。そのためか暖房があまり効かず、師走のホール内は、いささか肌寒い。

 観客の心理を形容する言葉には、「熱い」「熱気」「寒い」「冷えている」など、気温からの比喩が多い。もちろん心理面を表す言葉ではあるけれど、実際の体感温度が心理面にもたらす影響も、少なからずあると思う(サッカースタジアムのように、観客自ら歌って踊ってアツくなる場合は別ですが)。
 公演初日のスペースゼロの客席は、文字通り寒かった。開演が40分も押して、心がすっかり冷えてしまったせいもあるのだろう。客は冷ややかで、ノリがもうひとつだった。出演者たちも、台詞や転換の段取りにおける細かなミスを連発して不安げだったが、同時に、このだだっぴろい空間を、どう御せばいいのか、戸惑っているように見えた。ステージの上では舞台装置や出演者の人数、演出に工夫をこらして、いつもより広い空間を埋めていたけれど、客席の広さは、どうにももてあましているようだった。才気と自信が全身からほとばしるような江本ほどの舞台人でも、こういうことがあるのか、と、いささか衝撃を受けた。

 毛皮族の名誉のために書いておくと、一週間後の公演最終日にもう一度見に行った時には(我ながら物好きだと思うが)、台詞や段取りのミスはすべて解決し(当たり前だ(笑))、転換はテンポよく行われ、客席はいい具合に温まって、よく盛り上がった大団円となった。ふだんよりも広い器への適応を、彼女たちはどうにかやり遂げたようだった。


 今週初めに、林英哲の和太鼓のコンサートを聴いた。
 会場は、初台のオペラシティコンサートホール。
 演奏が始まって、おや、っと思った。林のコンサートは3、4回聴いたことがあるが、聴き慣れた和太鼓の音とは全然違う。他所行きの音、とでも言えばよいだろうか。
 だが、楽器も叩き方も、見たところ普段と変わりはない。どうやら、ホールの音響特性によるものらしい。

 タケミツ・メモリアルの別名を持つこのホールは、97年にオープンしたコンサート専用ホールだ。ホームページを見ると、「現代の最新音響技術を用いて、設計いたしました。これにより、ホール自身が、分離よく明瞭に響き、引き締まった低音とメローで艶のある音色を持つ巨大な楽器となります。」と書いてある。

 クラシック音楽に最適になるように設計されたホールに、和太鼓の音は想定されていなかったのかも知れない。残響が長すぎて、うわんうわんという唸りが強すぎる。アタック音も明瞭に聴き取れるのだが、要するに唸りとアタック音が分離して、肝心の「太鼓の音」らしい部分がどうも聴こえてこない。
 一方で、共演者たちのマリンバや尺八の音色は実に味わい深く響く。土井啓輔の尺八が一節鳴っただけで、もう胸が熱くなるほどだ。確かにメローで艶がある。
 そして、共演者クリストファー・ハーディが使うさまざまなパーカッションの無機的な音も、エッジが立って必要十分に明瞭に聴こえる。たぶん、この会場にはこういう楽器の方が合うのだろう。
 私の席はステージに近かったので、太鼓の演奏の迫力は満喫できた。藤田嗣治をテーマにした新作の太鼓組曲は、林と若い仲間たちの演奏の充実ぶりを存分に示す力作だった。ただ、肝心の音に対する違和感は最後まで拭えなかった。

 プログラムの曲目がすべて終り、カーテンコールに続いてアンコール演奏が始まる時、思い立って、最後列に移動してみた。
 驚いた。ここでは、まぎれもなく「太鼓の音」がしている。前の方で聴くと、どうもしっくりこなかったフレーズが、最後列ではゾクゾクッと体を震えさせる。どうやらこのホールで和太鼓を聴くなら、あまりステージに近すぎない席の方がいいらしい。
 クラシック用のホールはいくらでもあるが、和太鼓の音響特性を生かすために設計された音楽ホールなどというものは、どこにも存在しない。和太鼓奏者である林は、おそらくどこのホールで演奏する時にも、この種のギャップを埋める作業を繰り返しているのだろう。先駆者の苦心というものは、こういう見えないところにも存在する。

 まるで関係のないふたつの舞台だが、どんなに美味しい料理も器を変えると、まるで別の味になってしまうことがあるのだと、それぞれに示していた。怖いものだ。

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中沢佑二という保証。

 中沢佑二がJリーグ2004年のMVPに選ばれた。ディフェンダーとしては94年のペレイラに次いで2人目。以前、ディフェンダーが評価されにくいことについて文句をつけたことがあったが、今回の受賞は喜ばしい。
 Jリーグでの仕事ぶりだけを考えれば、去年が中沢で今年がエメルソン(現実は逆)の方がふさわしかったと思うが、選考に当たった人々にも、その点で中沢に対してうしろめたい気持ちがあったかも知れない。2年連続でエメルソンもいかがなものか、というのもあったろう。
 そしてもちろん、アジアカップにおける中沢の鬼神の如き奮闘ぶりも、Jリーグの試合でないとはいえ、選考者たちの頭に残像となっていたことだろう。

 この中沢が、わずか2年前のワールドカップには出場していないというのは、今になってみれば不思議なほどだ。トルシエの下でシドニー五輪には出場し、A代表でも直前まではメンバーに入っていただけに、本人は悔しかったに違いない。ワールドカップを逃した中沢が大きく成長し、出場した松田は昨年一年間迷走し続け、ようやく復活してきた。大きな大会というのは、出場するしないにかかわらず大きな影響を選手に与えるものらしい。

 中沢の言動で印象に残っているのは、ワールドカップの前年ごろに雑誌のインタビュー記事で読んだ話だ。ワールドカップ・アメリカ大会の予選、いわゆる「ドーハの悲劇」の時に、中沢はテレビで試合を見ながら「俺がいないうちに出場するなよ」と思っていたという。
 その時点での彼は、何者でもない。年代別代表に選ばれたこともなければ、トレセンに呼ばれたこともたぶんなかったはずだ。同世代の小野伸二がそう思うならともかく、単なる無名校のサッカー部員の思いとしては誇大妄想に近い。

 そんな大それた野望の人でありながら、彼は常に謙虚でもある。自分に足りないものを自覚し、ここを強化しなければ、ということを口にする。大ベテランになっても相変わらず「僕は下手くそですから」と言い続ける中山に通じるものを感じる。
 そして、どうにかして上手くなろうという気持ちが、試合の中でも感じられる。ヴェルディで売り出した頃の中沢は、しばしば覚束ないドリブルでサイドを駆け上がり、スルーパスやクロスを試みていた。メディアに紹介される時には、判で押したように「フィードに課題」と書かれていた中沢が、今ではしばしば中村俊輔ばりのサイドチェンジを見せる。
 188センチという身長は、それだけでひとつの才能だ。中沢は身長という武器をもって自分を売り出し、人々がそこに目を惹かれているうちに、大急ぎで他の技能を伸ばして、バランスのとれたディフェンダーに成長した。そんな印象がある。

 日本が世界の強豪と戦えるようになるために即効性があるのは屈強なディフェンダーだ、と書いていたのは、確か武智幸徳だったが、今や我々はその通りの人材を得た。今回のチャンピオンシップの結果は、中沢・松田という国産ディフェンスラインの勝利でもある。
 今の日本代表は、たとえジーコが何をしようと(すまいと)、どんな相手とも、そこそこいい勝負ができるはず、と信じることができる。
 中沢がゴールの前に立ち塞がっている限り。


追記(2004.12.16)
 で、中沢がいないとドイツに0-3で負けたりする。頼むから2006年の夏まではケガしないでくれ。

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ある既視感。

 マリノスとレッズのチャンピオンシップ第2戦を見ているうちに、ある既視感に襲われた。

 劣勢を打開する見事なフリーキックの得点。
 期待に反して徹底的に封じ込められ、遂には逆ギレして退場する若き攻撃の柱。
 鬼神の如く相手の攻撃を跳ね返し続けながら、PK戦でミスを犯す守備の要。
 いずれも5年前のチャンピオンシップで見た光景だった。

 エスパルスの沢登は、アレックスのそれに劣らぬ鮮やかなフリーキックを決めた。
 ジュビロの三浦文丈を足蹴にしたアレックスは、河合を蹴飛ばしたエメルソンのように、期待に応えられなかった悔しさに顔を歪めてピッチを去っていった。
 闘莉王とは違って物静かな紳士だったサントスは、この日だけは別人のように闘志を剥き出してチームを鼓舞し続け、最後に力尽きた。
 初戦を落としたチームが第2戦に追いついてPK戦に持ち込んだが敗れたという展開も、敗れた側が年間勝ち点1位というのも、今回と同じだった。

 チャンピオンシップも今回で最後。NHK-BS1での第1戦の中継では、ハーフタイムに過去の試合のハイライト場面を流した。
 ツバを吐くジーコ、ラモスの予定調和のようなループシュート、GKからボールを強奪してゴールを奪う中山、小笠原の鮮やかなフリーキック。いくつもの場面が、それらを見た時の興奮が、脳裏に甦ってくる。
 たった12年といえども立派な歴史だ。力の入った試合を重ねてきたからこそ、今回のように、過去の名勝負と重ね合わせて鑑賞する楽しみも生まれてくる。

 2ステージ制についてはいろんな批判もあるのだろうが、チャンピオンシップという制度が数々の見応えのある試合を見せてくれたのは確かだ。これに代わる舞台を、1ステージ制の中で、どうやって作っていくのか。あるいは、長い1シーズンの末の優勝は、これまでにないような劇的なものになりうるのか。
 25年続いたトヨタカップも今回で終わる。サッカー界の12月は、ずいぶんと異なるものになりそうだ。

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国を持たない人々の「ナショナル・チーム」。

 12/5の日曜の午前中、たまたま付けていたテレビでチベットのサッカー代表チームに関するドキュメンタリー「チベットサッカー 悲願の海外遠征」を放映していた。目が離せなくなって、そのまま最後まで見てしまった。

 チベットは1949年に中国の侵攻を受けて占領され、現在は国家としては存在しない。このチームは、インドで暮らす13万人の亡命チベット人社会を母体としている。
 途中から見たので経緯はよくわからないのだが、チベットサッカー協会の会長が国際試合をやろうと思い立ち、デンマークの協力を得て、デンマークのスタジアムでグリーンランド代表と試合をする、ということになったらしい。

 私が見た時には、代表選手の選考会が行われていた。10のチームが集まってそれぞれに試合を行ない、最後に代表選手の名がひとりづつ読み上げられる。みすぼらしい土のグラウンドではあるが、各チームのユニホームはそれなりに整い、ピアスをしている選手もいる。そういえば、ブータンの修行僧の少年が、ワールドカップ・フランス大会の決勝をテレビで見るためにパラボラアンテナを求めて奔走するという映画(『ザ・カップ 夢のアンテナ』)もあった。今やトップレベルのサッカーとそれにまつわる風俗に関する情報は、世界の津々浦々まで共有化されているということか。

 結成された代表チームは、約1か月にわたって合宿を行ない、デンマーク人のコーチが彼らを鍛える。レベルに関しては「マイナーリーグの水準にも達していない。デンマークで恥をかかなければいいのだが」とコーチが本音を吐く。

 しかし、チームが抱える本当の問題は、むしろピッチの外にある。難民である彼らは、パスポートを持たない。国籍もない。会長がデンマーク大使館にビザの申請に訪れるが、書類に不備がみつかると、例えば身分証にインドへの再入国許可のスタンプが捺されていない者にはビザは発給されない。
 結局、当初選ばれた選手の半数前後は渡航許可が得られなかった。「僕はチベットで最高の選手なのに、デンマークに行くことができない」と泣く青年。
 会長は、デンマーク側のコーディネーターと電話で相談し、ヨーロッパ在住のチベット人の中から選手をかき集める(ヨーロッパのチベットサッカー協会というものもあるらしい)。

 苦労の甲斐あって渡航が実現し、デンマークの芝生のピッチに立って「ここは天国だ!」とはしゃぐ選手たち。だが、今度は中国政府が彼らの前に立ちふさがる。「チベットは中国の領土。ナショナルチームを名乗ることは許されず、国際試合とは認められない」と、あらゆる手を尽くして試合を阻止しようと圧力をかける。グリーンランド政府に対して「試合が実現したら中国への輸入に深刻な影響が出るだろう」と脅す。スタジアムの管理団体に対しても中止を要請する。チベット国旗の掲揚も許さない、と。

 だが、管理団体の評議委員会は、協議の末、予定通り試合を挙行する、と決定した。
 「これは政治ではない。スポーツをしよう、ということです。公式の試合かどうかなんて関係ない。チベットとグリーンランドがやるのだから、これは国際試合なんです」
 コーディネーターのマイケルが、晴れやかな表情でテレビの取材に答える。

 ついに試合当日。ロッカールームにチベット仏教の祈りの声が響く。低くリズミカルな声明。
 選手達が着用するユニホームは、燕脂っぽい赤と青の縦縞で、なかなか恰好良い。赤と青はチベット国旗の色だ。
  選手たちが通路を抜けて広々としたピッチに出ていくと、5000人くらい入りそうなスタンドは、大小のチベット国旗とグリーンランド国旗をもった観衆で埋まっていた。ヨーロッパに住むチベット人が集まってきたのだろうか。
 試合が始まる。健闘する選手たち。チベット代表史上初の得点を挙げ、狂喜乱舞する選手とスタッフ。スタンドも盛り上がる。前半は1-1。ハーフタイムに「平常心を保て!」と指示する会長自身が、気合に満ちている。
 後半、地力に勝るのであろうグリーンランドが勝ち越し点を挙げる。足をいため、顔を歪めてベンチに退くキャプテン。絶妙のループシュートは枠を外れていく。試合終了。1-4。
 だが、選手たちは悪びれることなく、晴れ晴れとした表情で観衆に手を振る。終始冷静に、鋭い目でカメラの前で語っていた会長が、試合が終わった後のインタビューで、「こうやってここに来ることができた」と感きわまって涙を見せる。

 準備段階でさまざまな障害に遭遇するたびに、チベットやデンマークの関係者は「これは政治ではない、スポーツなんだ」と口にする。
 だが、すべてが終わった後、会長は「単なるスポーツの試合ではない、自由を得るために大きなことをやったんだ」と話す。渡航を前に、会長は選手たちに「試合だけではなく、君たちがどうふるまうかを通じて、チベットに長い歴史を持つ豊かな文化があることを示すんだ」と言い聞かせていた。
 政治目的に利用しようという直接的な意図はなくとも、スポーツと政治とは人々の意識の底でつながっている。チベット人にとって代表チームはエスニシティの象徴であり、誇りの拠り所ともなる。他国の人々は代表チームを通じてチベットの存在を認識していく。中国政府が神経質にならざるを得ないのは当然だろう(そこまでやるか、とか、そもそもチベット侵攻を認めるのか、ということは措くとして)。
 「スポーツに政治を持ち込むな」という素朴な意見には、ほとんど意味がない。「代表チーム」は、どうしたって政治的な存在にならざるを得ない。それぞれの国の政治状況によって、政治性が前面に出てきたり、目立たなくなったりしているに過ぎない。

 このページに、試合にまつわる事情がいろいろ紹介されている。中国政府が試合を阻止しようと圧力をかけまくったことは、デンマーク国内で大きく報道された。そのため、この試合自体も広く知られるところとなり、大勢のデンマーク人観客が詰めかけたという。中国の行動が、いい宣伝になってしまったわけだ。融通の利かない官僚主義は、時として滑稽な結果を生む。
 対戦相手にデンマークの自治区であるグリーンランドが選ばれたのは、代表チームはあるけれどFIFAに加盟していないので、FIFA非加盟のチベット代表と試合をする上でFIFAにお伺いをたてる必要がない、という事情もあったようだ。なかなか絶妙だ。
 試合そのものがデンマークの映画学校のプロジェクトだったようで、映像そのものも見事な出来栄えだ。試合は2001年6月30日に行われ、作品は2003年に完成した。
 私が見たのは再放送だったので、今後さらに再放送があるかどうかはわからないが、機会があったらご覧になることをお勧めする。

(文中の登場人物の発言は筆者の記憶によっており、必ずしも正確ではありません)

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エースは監督に向かないのか。

 清原はジャイアンツに残ることを決めたそうだが、それは彼にとって決して幸福な選択ではないと思う。さんざん報じられている通り、堀内監督との感情的なしこりが存在するのであれば、それはたぶん、解消できないだろうという気がする。

 清原に関する堀内の言動を見ていると、私は鈴木啓示が近鉄の監督だった頃を思い出す。鈴木は当時すでに大エースだった野茂に、独自の調整スタイルを認めず、抑圧し続けた。確か、野茂がもっとも信頼していたコンディショニング・コーチの立花龍司が解雇されたのもこの時期ではなかったか。
 野茂がもともとMLB行きを志望していたのは確かだが、最終的に近鉄と喧嘩別れしてアメリカに向かうという蛮行に至る引き金となったのは、鈴木の下ではやっていられない、という絶望感だったのではないかと思う。

 そのころ、鈴木と野茂の確執に関する記事を読みながら、きっと鈴木は自チームのエースと張り合わずにいられない性格なのだろう、と感じていた。
 鈴木が独特のエゴイズムの持ち主であることは、疑う余地がない。現役時代、ヤクルトから鈴木康二朗が移籍してきた時には、新聞に「鈴木啓」と記されるのを嫌って「近鉄の鈴木といえば私のことだ。あっちを鈴木康と書けばええでしょ」と言い放ったというエピソードがある。引退後、解説者になってからも、目の前の試合そっちのけで、私の時はこうでした、ああでした、という話をしていることが多い。
 そんな鈴木には、野茂の存在によって、自分の影が薄くなることが我慢できなかったのかも知れない。監督にとってエース投手は誰よりも自分を助けてくれる存在なのに、報じられた鈴木の言動からは、そんな気持ちは微塵も感じられなかった。

 堀内にもまた、似た匂いを感じる。
 長嶋茂雄が二度目のジャイアンツの監督に就任した93年、堀内はコーチとして指導陣に参加した。就任が決まった際のインタビューの中で、堀内は当時のジャイアンツの大エースであった斎藤雅樹のことを「サラリーマンのように何日かに一度出てきては、きちんと勝ち星を稼いでくれる、ベンチにとってはありがたい投手だ」と表現した。
 「ありがたい」と言ってはいるけれど、少しもありがたそうには聞こえない。ジャイアンツファンが聞けば、斎藤を小馬鹿にしているようにしか思えないだろう。テレビ解説者として口走るのならともかく、これから同じベンチに入って仲間になる相手に対して言う言葉ではない。
 堀内の談話はいつも、選手に対するこの種の冷淡さを感じさせる。言葉の上で何を話してはいても、その裏に「俺の方が上だ」という気持ちが透けて見えるような話しぶりである。

 では、投手出身者が監督に向かないのかといえば、そうとは限らない。80年代の終りごろには、投手出身の監督が脚光を浴びた時期もあった。
 星野仙一が中日を優勝させ、藤田元司が二度目のジャイアンツの監督となって二連覇を果たした頃だ。その後も、権藤博と東尾修が日本シリーズで戦ったこともある。
 しかし一方で、同じ投手出身でも、前述の通り鈴木が失敗し、オリックス二連覇のころは有能な投手コーチと見做されていた山田久志も、中日の監督としては十分な結果を残せなかった。
 鈴木が就任した時期の近鉄は、しばしば優勝を争う強豪だったし、山田の中日も、後を引き継いだ落合がさしたる補強もなしにリーグ優勝を果たしている。どちらも戦力不足だったとは言いづらい。もちろん、今年の堀内も然り。

 近年の成功組と失敗組の現役時代を比較すると、後者の3人はチームの大エースとして君臨し、先発投手のまま引退していった。大きな故障をしてシーズンを棒に振ったこともないし、チーム内での役割や投球スタイルを大転換して第二の投手人生を歩んだ経験もない。もちろんトレードされたこともない。
 前者の4人は、全盛期に大きな故障をして投手生命を絶たれたり、リリーフ専業としてチームを支えた経験を持っている。
 エース投手はチームの中で、常に配慮され、尊重される存在だ。あくまでそういう立場のままで(力が落ちて信頼されなくなった不満を抱きつつ)引退していった者と、エースの座から転げ落ち、尊重されない立場を経験して、それでも自らの努力で別の立場を作り上げた(あるいは、作り上げようとした)者の間では、チームを見る視野に差があるのは当然かも知れない。
 大雑把な仮説ではあるが、もしこれが当たっているとしたら、来季の堀内ジャイアンツに大幅な改善は期待しづらい。

 ジャイアンツの来季を占う上で、きわめて簡単な指標がある。堀内監督が宮崎キャンプでクローザーを決めるか否か、だ。私は、それでほとんど来季の命運は決まってしまうだろうと思っている。
 ジャイアンツには、伝統的に「先発至上主義」ともいうべき思想がある。
 <先発完投するのが一人前の投手。それができない半端な奴がリリーフに回る>
 そう考えているとしか思えないような投手の扱い方を、ジャイアンツは常にとってきた。近年では藤田元司に顕著だったように思う(もっとも、斎藤・槙原・桑田ほどの先発投手陣を揃えていれば、そのくらい豪語してもいいかも知れないが)。長嶋も口ではいろんなことを喋っていたが、クローザーをきちんと指名してシーズンに臨んだことはほとんどなかったし、あったとしても、その方針は彼自身によってあっさり覆された。
 近年の例外は、就任一年目の原辰徳くらいだ。原はキャンプイン早々に河原をクローザーに指名し、河原の活躍によって優勝を果たす。その河原がまったく通用しなくなったことで、原は二年目に優勝を逃し、辞任に追い込まれることになる。

 そのチームを引き継いだのだから、堀内がやるべきことは明白だった。にもかかわらず、堀内は「河原が復活するだろう」という根拠に乏しい期待を口にするだけで、復活しなかった場合の手当てをしなかった。フロントは一応シコースキーを獲得したが、千葉ロッテ時代の彼の仕事は、クローザーの小林雅につなぐセットアッパーだった。堀内の本心は、要するにそんなのは大した問題じゃない、と思っていたのではないかと私は疑っている。
 当然のように河原は復活せず、彼に代わるべき強力なクローザーも現れないまま、ジャイアンツはシーズンを終えた。打線はシーズン本塁打数を更新したが、投手陣は気前よく相手に点を与え続けた。
 この屈辱の一年から堀内が学習し、方針を変えるのなら、ジャイアンツが優勝することは、さほど難しくないはずだ。だが、現時点ではジャイアンツの投手陣に目立った補強はなく、堀内の口から来季のクローザー候補の名が挙がることもない。聞こえてくるのは「スピード重視」という抽象的な言葉だけだ。

 投手出身の監督といえば、牛島が横浜の新監督に就任した。彼はリリーフで売り出し、先発もこなし、トレードされて両リーグを経験、大きな故障を克服してマウンドに復帰したこともある。中日時代には日本シリーズでも投げた。およそ投手として経験できることは一通りしている。つまり、彼の経歴は「成功する投手出身者」の類型に近い。また、横浜のチーム事情はジャイアンツに共通するものがある。多村や佐伯が成績を大きく落とさず、ウッズに代わる新外国人打者が機能すれば、あとは投手陣の整備がチーム成績を左右するはずだ。

 来季の12球団で、投手出身の監督は、この2人だけだ。「大エース」vs「苦労人」、2人の動向は興味深い。

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ナカタが世界に売り出した頃。

 バルセロナvs世界選抜で中田が活躍、という記事が新聞各紙を賑わしたのが数日前。
 最近では、この手の記事を見ても「安全第一のチャリティーマッチを、そんなに大扱いしなくても」という醒めた考えしか浮かばなくなったが、中田英寿がこの手の試合に初めて出場した時には、ワクワクしながらテレビ中継をながめたものだった。

 7年前の、ちょうど今ごろ。ワールドカップ・フランス大会の組み合わせ抽選会に先立つイベントとして、マルセイユで行われた「ヨーロッパ選抜」vs「その他の世界選抜(確かREST OF WORLDと表記されていた)」である。出場32か国から主力選手が1人づつ参加した。中田が属した「その他の世界選抜」には、ロナウド、バティストゥータらが出場していた。
 久しぶりにHide's Mailを覗いてみたら、この試合のことを「どぎまぎしていた思い出があるな」と書いていた。中田自身にとっても、それなりに思い出深い試合のようだ(関係ないけど、このHide's Mail、今回の試合で会ったマッカーシーとトルシエ話で盛り上がった、というくだりが可笑しい)。

 当時も今と同じように新聞やテレビは「中田が世界選抜で活躍」と書き立てたが、実際に試合中継を見た印象は全く異なっていた。
 右MFとして先発した中田は、攻撃陣から完全に無視されていた。フリーでどんなにいい位置にいても、ロナウドやバティからはパスが回ってこない。唯一、中田にボールを渡していたのは、すぐ後ろの右サイドバックに入っていた洪明甫だけだった(当時、2人はベルマーレ平塚の僚友だった)。洪はいい人だなあ、と思った記憶がある。
 それでも中田は淡々と、的確なポジションを取り、ダイレクトでパスを回し、相手からボールを奪ってはロナウドにパスするという堅実なプレーを繰り返す。こいつは案外使えそうだ、と思われたのかどうか、前半15分あたりから、ロナウドが中田にボールを預けはじめた。そして中田はロナウドやバティに次々と決定的なパスを供給するようになる。確かバティのすさまじいボレーシュートをアシストしたはずだ。
 中田自身もおそらく、初めてこれほどのスター選手の中に入って、自分がどれだけやれるのか、という懸念があったから「どぎまぎしていた」のだろう。そして、自分なりのプレーをしていくことで、彼らにチームの一員として受け入れさせることに成功した。単に「世界選抜で活躍した」からではなく、そんなプロセスがあったからこそ、あの試合は印象に残っている。

 先日、思わぬところで、この試合の話題を目にした。下で紹介した『トップスポーツビジネスの最前線』の中で、講談社の編集者・戸塚隆が話している。
 戸塚は洪明甫に、この試合について「なぜ、ヒデにパスを出したの?」と訊ねたことがあるという。洪の答えは「彼はまったく世界では有名ではないから、この機会にと思ってフォローをした」というものだった。まったく、洪ヒョンは立派な人である。この言葉に感銘を受けた戸塚は、まもなく洪と中田の共著『TOGETHER』を作る。

 今になって思うのは、JFAはよくも中田を選んだものだ、ということだ。
 あの試合は確か、FIFAが選手を選んだのではなく、各国協会が選んだ選手をマルセイユに派遣したと記憶している。そして、あの時点で国際的に多少なりとも名が知られていた選手といえば(ただひとりセリエA経験のある)カズであり、井原という大功労者もいた。仮にFIFAから「中盤の選手を」と指示されたのだとしても、名波もいれば山口も北沢もいた。
 その中で、その年に代表に加わったばかりで最年少の中田をああいう場に送り込むというのは、かなり思い切った選択だったはずだ。英断というと大げさだが、いい判断だったと思う。
 今回中田が出場した「世界選抜」には、たぶんJFAは関与していないだろう。中田に限らず、ヨーロッパにいる日本人選手に主催者が直接声をかければ事足りる。
 代表選手が全員日本にいてJFAのコントロール下にあった古き良き時代の終りが、ちょうど、あの試合あたりだった。
 そして、その頃の日本代表選手たちが、今は「日本選抜」として新潟でチャリティーマッチをしている。十年一昔というが、サッカーの世界のサイクルは、もう少し短い。

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ポスト古田はどこにいる。

 古田が七期目の選手会長を務めることになった

 当然の選択だろう。今年噴出したプロ野球の諸問題は何ひとつ解決してはいない。これから始まるプロ野球構造改革協議会で、経営サイドと渡り合える人材は、古田の他には考えにくい。
 できれば当分の間はこのまま会長を務めて欲しい、と誰もが(もしかすると経営サイドでさえも)思っているだろうが、問題は、古田といえども、そういつまでも現役でいられるわけではないという点にある。
 今年は好成績を残した古田だが、来年8月には40歳になるのだ。並みの選手なら、とっくに引退している。1,2年先には引退が現実性を帯びてくる可能性が高いが、その時に、選手会長を引き継げるような選手がいるだろうか。下のコラムで絶賛した宮本にしても来年11月には35歳。古田と同時に引退してもおかしくない年齢だ。

 過去の選手会長は、中畑、原、岡田、正田。彼らが選手会長だったこと自体、覚えている人も少ないのでは。現在のアグレッシブな組織は、古田自身が作り上げたといってよい。
 後継者選びは大変になるだろう。過去の会長の顔触れからもわかる通り、選手会長には、ベストナインの常連になる程度の実績は不可欠だ。現在はそれに加えて、球界改革のビジョンと交渉力を兼ね備えている必要がある。五輪代表の主将を選ぶよりも、はるかに難しい選択になりそうだ。自民党には中二階というのがあるそうだが、プロ野球選手会の後継候補たちは、海の向こうの離れに住みたがるし。

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