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ナカタが世界に売り出した頃。

 バルセロナvs世界選抜で中田が活躍、という記事が新聞各紙を賑わしたのが数日前。
 最近では、この手の記事を見ても「安全第一のチャリティーマッチを、そんなに大扱いしなくても」という醒めた考えしか浮かばなくなったが、中田英寿がこの手の試合に初めて出場した時には、ワクワクしながらテレビ中継をながめたものだった。

 7年前の、ちょうど今ごろ。ワールドカップ・フランス大会の組み合わせ抽選会に先立つイベントとして、マルセイユで行われた「ヨーロッパ選抜」vs「その他の世界選抜(確かREST OF WORLDと表記されていた)」である。出場32か国から主力選手が1人づつ参加した。中田が属した「その他の世界選抜」には、ロナウド、バティストゥータらが出場していた。
 久しぶりにHide's Mailを覗いてみたら、この試合のことを「どぎまぎしていた思い出があるな」と書いていた。中田自身にとっても、それなりに思い出深い試合のようだ(関係ないけど、このHide's Mail、今回の試合で会ったマッカーシーとトルシエ話で盛り上がった、というくだりが可笑しい)。

 当時も今と同じように新聞やテレビは「中田が世界選抜で活躍」と書き立てたが、実際に試合中継を見た印象は全く異なっていた。
 右MFとして先発した中田は、攻撃陣から完全に無視されていた。フリーでどんなにいい位置にいても、ロナウドやバティからはパスが回ってこない。唯一、中田にボールを渡していたのは、すぐ後ろの右サイドバックに入っていた洪明甫だけだった(当時、2人はベルマーレ平塚の僚友だった)。洪はいい人だなあ、と思った記憶がある。
 それでも中田は淡々と、的確なポジションを取り、ダイレクトでパスを回し、相手からボールを奪ってはロナウドにパスするという堅実なプレーを繰り返す。こいつは案外使えそうだ、と思われたのかどうか、前半15分あたりから、ロナウドが中田にボールを預けはじめた。そして中田はロナウドやバティに次々と決定的なパスを供給するようになる。確かバティのすさまじいボレーシュートをアシストしたはずだ。
 中田自身もおそらく、初めてこれほどのスター選手の中に入って、自分がどれだけやれるのか、という懸念があったから「どぎまぎしていた」のだろう。そして、自分なりのプレーをしていくことで、彼らにチームの一員として受け入れさせることに成功した。単に「世界選抜で活躍した」からではなく、そんなプロセスがあったからこそ、あの試合は印象に残っている。

 先日、思わぬところで、この試合の話題を目にした。下で紹介した『トップスポーツビジネスの最前線』の中で、講談社の編集者・戸塚隆が話している。
 戸塚は洪明甫に、この試合について「なぜ、ヒデにパスを出したの?」と訊ねたことがあるという。洪の答えは「彼はまったく世界では有名ではないから、この機会にと思ってフォローをした」というものだった。まったく、洪ヒョンは立派な人である。この言葉に感銘を受けた戸塚は、まもなく洪と中田の共著『TOGETHER』を作る。

 今になって思うのは、JFAはよくも中田を選んだものだ、ということだ。
 あの試合は確か、FIFAが選手を選んだのではなく、各国協会が選んだ選手をマルセイユに派遣したと記憶している。そして、あの時点で国際的に多少なりとも名が知られていた選手といえば(ただひとりセリエA経験のある)カズであり、井原という大功労者もいた。仮にFIFAから「中盤の選手を」と指示されたのだとしても、名波もいれば山口も北沢もいた。
 その中で、その年に代表に加わったばかりで最年少の中田をああいう場に送り込むというのは、かなり思い切った選択だったはずだ。英断というと大げさだが、いい判断だったと思う。
 今回中田が出場した「世界選抜」には、たぶんJFAは関与していないだろう。中田に限らず、ヨーロッパにいる日本人選手に主催者が直接声をかければ事足りる。
 代表選手が全員日本にいてJFAのコントロール下にあった古き良き時代の終りが、ちょうど、あの試合あたりだった。
 そして、その頃の日本代表選手たちが、今は「日本選抜」として新潟でチャリティーマッチをしている。十年一昔というが、サッカーの世界のサイクルは、もう少し短い。

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