誤読される流行語。 〜「負け犬」をめぐって〜
東京新聞1/11付の特報面「本音のコラム」に、ノンフィクション作家の山下柚実が「負け犬問題」について書いている。新成人の意識調査で「早く結婚したい」という女性が2年前の11%から23.9%に急増したこと、それを伝える記事(が何のメディアのどの記事かは明記されていない)が、回答の背景を「『負け犬』になりたくないという心理が働いているのでは」と分析していたことについて、山下は次のように激しく反発する。
「『生きる』という複雑な現実を前にして、『勝ち・負け』という単純な二分割を、いまだに何の躊躇もなくあてはめるトンマな言説。単純な脅し文句に反応するその素朴さ、素直さ。質問を疑問なく受け入れる実直さは、うらやむばかり」
ここで山下がむきになって否定しようとしているのが、酒井順子が思いついた「負け犬」(30代以上・未婚・子なし)という概念そのものなのか、早期結婚を望む新成人女性なのか、それを「負け犬になりたくない心理」と伝えたメディアなのかは、明確に記されていない。ただ、「トンマな言説」は『負け犬』という概念を、「脅し文句に反応」「疑問なく受け入れる実直さ」は新成人を、それぞれ批判しているのだと思われる。
以前から気になっていたのだが、「負け犬」について言及する人々のうち、かなりの割合が、この概念を誤読しているのではないかと私は感じている。
酒井順子の著書を熟読したわけではないのだが、彼女のエッセイやインタビュー記事などを読む限り、あれは「競争から降りた方が楽だよ」という提案なのだろうと私は思っている。
前提として、「30代以上・未婚・子なし」の女性に対しては、周囲から「早く結婚しろ」「女は子供を産んで一人前」というプレッシャーが常にのしかかっている。それに対して「仕事が充実している」「結婚なんかしなくても全然困らない」といくら力説しても、既婚子持ち女性たちが抱いている優越感は微塵も揺るがない。
どうせ議論が噛み合わないなら(しかも相手は論理を超越した確信に満ちている)、いちいち反論するのはやめて「へいへい私は負け犬でございます」と言ってしまった方が楽でいいじゃない、という、当事者なりのささやかな処世訓が、「負け犬」という諧謔的なレッテルに集約されている。相手に言われる前に、自分から言ってしまうところにポイントがある。自分の立場を相対化する視線によって、はじめて成立する概念でもある。
従って、定義に該当する女性が「私は社会的に意義のある仕事をしている。結婚なんかする必要もないし、『負け犬』よばわりされる筋合はない」などと真正面から反論してしまったら、議論は振り出しに戻り、ひたすら不毛の循環が続くことになる(実際、それに近いことを力説している女性を見たことは一度ならずある)。
もちろん一方では、「キミみたいのを『負け犬』って言うんだろ」とニヤニヤしながら寄ってくる半可通オヤジだの、「ウチ、○○さんみたいな『負け犬』になりたくないしー」などと更衣室で聞こえよがしに口走るコムスメOLだのといった無神経な人種が、当事者たちの神経を苛んでいることは想像に難くないのであって、そんな女性たちにとって『負け犬の遠吠え』は、酒井の意図に反して迷惑な本になってしまったのだろう。自分から言うのならともかく、他人から「負け犬」呼ばわりされるのは、そりゃ不快に違いない。
このような流布のパターンから、「老人力」という言葉を思い出した。「負け犬」と違って神経質に怒る人が少ないので、気づかなかった人の方が多いかも知れないが、この言葉も誤読の多い流行語だった。
「老人力」は赤瀬川原平の造語で、確か97年ごろに同名書によって提唱された概念だ。
赤瀬川やその仲間内で、高齢化とともに物忘れが多くなったり動作が鈍くなってきた時期に、老化現象を「能力の低下」ではなく「新たな能力の獲得」と考えてみよう、という一種の思考実験的な遊びが流行したらしい。つまり、「記憶力が低下」したのではなく「記憶を忘れる力が向上」した、とみなすわけだ。それらの総称が「老人力」である。
たとえば「いやあ、兄んとこの電話番号が出てこなくてね、私も老人力がついてきましたよ」「○○さん、歩くのが早すぎますよ、ちょっと老人力が足りないんじゃないですか」などという会話は想像するだけでバカバカしいのだが、誰もが嫌がり怖れる「老化」という現象を、こうやって弄んでしてしまおうという強靱な諧謔心に、この言葉の面白さがある。
ところが、当時の新聞や雑誌、テレビ番組などでは、明らかに「元気な老人」「老人パワー」という意味で「老人力」を用いた例が、いくつも目に付いた。本来の意味とは正反対の誤用である。せっかく赤瀬川が転倒させた概念を、もう一度ひっくり返して元通りにしてしまう頑固な人が世の中には結構多いらしい。
「負け犬」についてもまったく同様。酒井が転倒させた概念を元通りに置き直した上で、蔑称ととらえることによって、上述したようなセクシャルハラスメントや年増ハラスメントに用いられてしまう。
要するに、諧謔が通じない人が、世の中には結構多いのだ。
酒井が看破した通り、人は、結局は自分が理解したいようにしか物事を理解しない。皮肉な話だが、たぶんどちらの言葉も、多くの人々に誤読されることによって、はじめて流行語たりえたのだろうと思う。
酒井にとっての誤算は、同じ立場の仲間に向かって発したはずの言葉が、外側の人々にも広く使われるようになり、誤読されたまま一人歩きされてしまったことではないだろうか。そして、山下もまた、そんな誤読者のひとりであるように私には感じられる。
山下のコラムは、上記の引用のあと、次のように続いていく。
「私なんか、まじめに答える時間があったら、『勝ち・負け』の前提そのものを、かき回していじりたくなる。まさしくおふざけ系。そもそも猫派だから、犬にたとえられることそのものを、拒否しちゃうもん」
軽い文体をねらったのであろう山下の「おふざけ」は、ここでは見事なまでに滑っている。「しちゃうもん」に至っては痛々しくさえある。酒井や赤瀬川の「軽み」を裏打ちしている「『私』を相対化する視線」が、ここには欠落している。
山下の書くものの多くは生真面目すぎるほど生真面目な文体で、興味のあるテーマだと思って読み始めても、なかなか最後まで読み切れないことが私には多い。人にはそれぞれ資質というものがある。酒井のような文体をまねるのは、山下には似合わない。
(私見では、女性の社会進出や結婚に対する生真面目さの度合や肩肘の張り具合は、現在の40歳あたりを境に、かなりの温度差があるという印象を受ける。もちろん上の人々の方が激しく生真面目なのだが、山下と酒井は、ちょうどこの線の上下2年づつに位置している。ちなみにこの境界線は、就職活動時に1986年施行の男女雇用機会均等法が存在したか否か、という時期とほぼ一致してもいる)
ただし。
「負け犬」言説に対する苛立ちや、滑った「おふざけ」は、山下の「ノンフィクション作家」としての価値を損なうものではないけれど、冒頭に引用した意識調査に対する見解は感心しない。
「早く結婚したい」と回答した新成人の女性が急増した調査結果は現実に存在するとしても、それが「『負け犬』になりたくないという心理」によるものだというのは、調査機関か記事を書いた記者の勝手な推測に過ぎない。女性が結婚を急ぐ理由は他にもいろいろあるだろう。結婚を急ぐ女性は2年前より増えたかも知れないが、4年前、6年前と比べたらどうなのか。そして何より、「早く結婚したい」という回答は、増えたとはいえ23.9%である。決して多数派ではなく、若い女性一般を代表する意見とは限らない。
そのような諸条件を考えると、新成人の女性たちが「単純な脅し文句に反応」したと判断できるほどの材料は、ここにはない。非難するのは早計だ。
そもそも「早く結婚したい」のは批判されるようなことだろうか。そう回答したというだけの理由で彼女たちを非難することは、<結婚する/しない>という「単純な二分割を、いまだに何の躊躇もなくあてはめるトンマな言説」ではないのか。「『負け犬』になりたくないという心理が働いている」という安易な推測を「疑問なく受け入れる実直さ」は、うらやましくはなく、単に軽率なだけだ。こういう調査結果をいちいち「負け犬」に結びつけたがるメディアが気に入らないのなら、そう書けばいいのだ(そういう批判ならもっともだと思うが)。
山下の著作は、ふだんはこんなに軽率ではない。「負け犬」関係の記事がよほど癇に障ったのだろうが、しかし、だからといってここまで冷静さを失っては、「ノンフィクション作家」として書く文章の信頼性を損なってしまう。文章における「おふざけ」は、山下が思っているほど簡単なものではない。
それと、私は犬派でも猫派でもないが(あ、ここにも「単純な二分割」が(笑))、たぶん猫という生き物は、犬に例えられたとしても、まるっきり気にも留めないのではないだろうか。
追記
この文章をアップする前に念のためと思い、書店の店頭で『負け犬の遠吠え』を立ち読みしてみた。酒井は前書きの中で、本書における自分の立ち位置や基本的概念を明確にしており、私が上で「前提として…」以下に記した認識に、特に訂正の必要はなかった。
また、「人生が単純に勝ち負けで割り切れるものではないとわかってはいるが、あえて乱暴に分けてみる面白さもある」という意味のことも書かれている。おまけに、あとがきには「負け犬負け犬と連呼しているうちに、勝ち負けなどどうでもいいような気になってきた。このどうでもいい感じを読者にも共有してもらえればうれしい」ともある(記憶で書いてるので正確な引用ではありません)。
要するに、山下がここで書いているレベルの批判に対しては、すでに原著の中に反論が織り込み済みなのだ。そのことに気づかずに声高に批判すれば、原著の読者の目には滑稽に映るだけだ。
そして、「負け犬」を連呼することで、なし崩しに勝ち負けを無化しようという酒井の成熟した戦略(結果的にそうなっただけかも知れないが)と比べると、山下の生硬な言挙げは、いかにも素朴で素直なものに見えてくる。
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コメント
最近、某日テレ系で負け犬の遠吠えをドラマ化していましたね。これは途中で(というか最初の15分で)飽きて最後まで見てません。鉄さんが取り上げた記事以上に、見事に中身が薄そうでした。
投稿: nipponiapenguin | 2005/01/12 19:11
まさしく、その「負け犬」の条件に当てはまっております。(笑)
ご指摘の通り、会社の同僚(男性)に、そのことで
「負け犬じゃん!」
と、言われたことがあります。
確かに、「生殖の為の性(生)」と捉えた場合、現時点で子孫繁栄になんら貢献出来ていず、そういう点では確かに「残念ながら、負け犬だわ~」と、妙に納得(笑)。一方で、そう言われた事に対して特になんの憤りも感じず、
「そこまで枯れてしまったのか?」
と、違った意味で感慨深かったです。
>要するに、諧謔が通じない人が、世の中には結構多いのだ。
本当にそう思います。
だからこそ逆に、そういう人たちに「負け犬」呼ばわりされたとしても、特に気にならないのだと思います。
投稿: cimbombom | 2005/01/13 00:02
>nipponiapenguinさん
つまり、途中までは見たということですね(笑)。酒井順子は「気づいたらいつのまにか負けていた」と書いてますが、例えば30代の恋愛をテーマにしたドラマで、結末を「結婚を示唆するハッピーエンド」に持っていくかどうか、というようなことが、積もり積もって彼女たちを「気づいたら負け犬」という立場にしているのかも知れませんね。
>cimbombomさん
>会社の同僚(男性)に、そのことで
>「負け犬じゃん!」
>と、言われたことがあります。
あ、やっぱりいるんだ、そういう人(笑)。
私も酒井の定義によれば「男の『負け犬』」に該当します。
「すべての生物は遺伝子の乗り物」という生物学理論に従うならば、子供を作らないとご先祖様の遺伝子に申し訳ないのですが、反面、「世の中こんなに人で溢れてるんだから、無理に作らなくたっていいだろう」という気もします(笑)。
投稿: 念仏の鉄 | 2005/01/13 08:57