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ティノがブロンクスに帰ってくる。

 2003年9月、私が初めてヤンキースタジアムを訪れた時のこと。
スタンドにいたファンの何割かは、ヤンキース選手の名前と背番号が書かれたTシャツを着ていた。JETER、GIANBI、POSADA、MATSUI……。「RUTH 3」や「GEHRIG 4」といった往年の名選手のTシャツも目に付いた(当時のユニホームには、名前は書かれていなかったはずだけれど)。

 私が座った席のすぐ前の男性は、「MARTINEZ 24」のTシャツを着ていた。この年のヤンキースの背番号24はルーベン・シエラ。だが、彼が支持していたのは、2年前にチームを去ったティノ・マルティネスだった。
 引退した選手ならともかく、ティノはセントルイス・カージナルスでプレーする現役選手である。「KAWAI 0」と書かれたTシャツを着て東京ドームに通う読売ジャイアンツのファンがいるだろうか(いたら敬意を表したい。というより自分が着たいくらいだ)。
 この地味な一塁手が、どんなにヤンキースファンに愛されているかを、改めて感じた。

 ティノへの愛着を最初に実感したのは、同じ年の6月だった。出張先のホテルで点けたテレビが、リーグ交流試合のヤンキース対カージナルスを中継していた。
  ビジターであるカージナルスの攻撃中に、突然、観衆から大きな声援がおこった。ティノが打席に立ったのだ。2001年を限りにニューヨークを去って以来、彼が初めてヤンキースタジアムを訪れたのが、この日だった。見慣れないユニホームに身を包んだ、見慣れた立ち姿に、ニューヨーカーたちは「ティノ! ティノ!」と大合唱を始めた。

 以前、このblogでトーリ王朝を支えた主力選手たちについて書いたことがある。ジーター、バーニー、ポサーダ、リベラ、ペティートというリストに、もうひとり付け加える名があるとすれば、それはティノだ。
 1995年、ヤンキースはポストシーズンのディビジョンシリーズで逆転負けを喫し、ALCS進出を逃した。そしてそのオフ、この時に敗れた相手であるシアトル・マリナーズから主力打者を引き抜く。その男、ティノ・マルティネスは期待通りに活躍した。
 毎年のように100打点を挙げたティノは、チャンスに強い四番打者として、トーリ監督の、チームメイトの、そしてファンの信頼を一身に受けていた。彼と同じ96年からヤンキースのユニホームを着たトーリが勝ち取った4度のワールドチャンピオンのすべてにティノは参加している。

 そんなティノがチームを去ったのは、アスレチックスから巨砲ジェイソン・ジアンビーが移ってきたからだった。同じ一塁手、同じ左打者であるジアンビーの控えに甘んじるのを嫌ったティノは、ナ・リーグのカージナルスに去った(おかげでジアンビーは「ティノを追い出した男」としてヤンキースファンに恨まれ、チームの一員と認められるまでかなりの時間を要した)。
 引退したマーク・マグワイアの後釜に、と期待されたものの、1年目の成績は凡庸なものに終わった。
 
 名誉挽回を期した2003年シーズンも、出足は決してよくなかった。ヤンキースと対戦した時点での打率は、2割6分前後に過ぎない。だが、この六番打者が打席に立つたびに、ニューヨーカーたちはティノの名を呼ぶ。Welcome Home TINO、いつでも帰ってきてくれ、とファンは叫ぶ。
 3連戦の2試合目、かつての僚友アンディ・ペティートから、ティノはライトスタンドに見事な本塁打を放った。球場中のファンが、立ち上がってティノに拍手を送った。アメリカの球場では、ほとんど考えられないことだった。
 ティノ、ニューヨークは君を忘れない。
 ヤンキースタジアムは、そう言っていた。

 2004年、ティノはタンパベイ・デビルレイズに移籍した。奇しくもヤンキースとの開幕2連戦が東京で行われ、始球式の捕手役を務めた後のゲームで、通算300号の本塁打を放った。
 このシーズン、タンパベイはチーム創設以来初めての70勝を挙げ、地区4位という、これも史上最高の成績を残した。若い有望株が揃ったチームの中で、歴戦のベテランであるティノが果たした役割は大きかったはずだ。
 だが、.262、本塁打23本、76打点という個人成績は、ヤンキース時代の実績と比べれば物足りないものだ。
 すでに37歳になった打者にとって、3年続けての不成績は不振ではなく衰えを意味する、と誰もが考えるはずだった。

 そのティノ・マルティネスと、ヤンキースは契約した。
 このオフ、ヤンキースは控え一塁手を一掃した。ジョン・オルルッドもトニー・クラークも解雇された。
 レギュラー一塁手であるはずのジアンビーは、ドーピング使用の発覚で現役生活の危機にある。キャッシュマンGMは公式には「彼はチームの一員だ。復帰を待つ」とコメントしているが、それが本心だとしても、そもそも昨年は原因不明の内臓疾患(もはや原因は明らかかも知れないが)によってシーズン後半を棒に振っており、今年まともにプレーできる保障はない。
 いったいヤンキースは一塁をどうするつもりなのか、と思っていたら、答えはここにあった。

 日本経済新聞1/11付夕刊のコラム「メジャーリポート」で丹羽政善が、昨年春の東京遠征の際、ティノがジーター、アレックスと一緒に寿司を食べに行った、というエピソードを紹介している。
 公の場では互いを「親友」と呼ぶジーターとA-RODは、しかし、A-RODがシアトルからテキサス・レンジャーズに法外な高額契約で移籍した際に、ジーターより自分の方が価値がある、という意味のコメントをした頃から微妙な緊張関係にあるらしい。丹羽はこう書いている。
 「後日、ニューヨークの記者にその話をすれば、やはり目を丸くした。『信じられない』」

 このオフ、ティノがFAになった頃、ホーヘイ・ポサーダは「復帰すれば正解だったということがたくさんあるだろう。本当に一緒にプレーしたいね」とティノの獲得を求めていたという。
 96、98、99、2000年と、トーリ監督の下で4度のワールドチャンピオンを勝ち取った時期のヤンキースは、決してスーパースター軍団ではなかった。投手陣こそ豪華だったが、野手陣のオニール、ブローシャス、ノブロック、ジラルディらは、現在も在籍するバーニー、ジーター、ポサーダも含めて、むしろ“仕事師”という印象が強い(元タイトルホルダーのボッグスやフィルダーは、すでに峠を越えていた)。
 全盛期のスーパースターをかき集めはじめたのは、一塁手をティノからジアンビに替えた2002年以降で、それ以来ヤンキースはワールドシリーズに勝っていない。
 組織の力で勝つのがトーリ監督のスタイルであり、ティノはその最盛期に要だった選手だ。打線の中心だっただけでなく、選手間の人望も厚かった。A-ROD、そして新たに加入するランディ・ジョンソンとはシアトル時代のチームメイトでもある。
 ヤンキース復帰が決まったティノは、ジアンビについて、こんなことを話している。
 「彼が復帰すれば僕はベンチだ。奇妙な状況だよね。僕は、それが何であれ、チームのためになることなら実現してほしいと思っている。彼が復帰すればチームを勝利に導くだろう。ならば、それを望むまでだ」
 こういうことをさらっと言える男がベンチに座っていれば、それだけでチームに好影響を及ぼすに違いない。
 丹羽の記事で、先のニューヨークの記者は、こうも話している。
 「ヤンキースは、彼のフィクサー的な力に期待して呼び戻したのかな」

 ジョー・トーリが信じている古い格言に、こういうのがあるそうだ。
 「きみをここまで連れてきた者とともに行け」
 ティノはまぎれもなく、トーリをここまで連れてきた者のひとりだ。
 前にも書いたように、トーリ王朝は確実に終焉に近づいている。ティノの現役生活も然り。最後の栄光に、彼らはともに挑もうとしている。

 春が来て、ブロンクスのグラウンドに、ピンストライプのユニホームを着たティノが立つ時。ヤンキースタジアムの観衆は、また立ち上がって彼を迎えるのだろうか。


追記
その日のヤンキースタジアムがどうであったかは、こちらのエントリを参照されたし。

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