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テレビの時間。あるいは制作現場への圧力について。

 自民党の圧力によって自分が手がけた番組内容が改変された、とNHKのチーフプロデューサーが開いた記者会見は、ずいぶんと大きな話題になった。
 NHK幹部が自民党の圧力に屈したかどうかについては、私はほとんど興味がない。どうせ、日常的に屈しているに違いない。もちろん、それは正義に反することだけれども、「けしからん」と言ったくらいで安倍晋三が反省して態度を改めることはありえない(現にそんな兆候は微塵もない)。

 制作現場の人間にとって大事なのは、日常的にやってくる圧力に対して、どのような手練手管を用いて相手や上司の目をごまかし、やりたいことを実現するかに尽きる。
 具体的には、三谷幸喜が『ラヂオの時間』や『笑の大學』で繰り返し描いているようなことだ。『ラヂオの時間』の中で、ラジオ局の脚本懸賞に投稿して、当選した自作がラジオドラマ化されることになった主婦は、プロデューサーからの要請で脚本がズタズタに改竄されるのを目の当たりにしてブチ切れ、「ホンの通りにやってくださーい!」と絶叫する。彼女は三谷自身を投影しているのか、と聞かれた三谷は、「あの主婦は嫌いです」と答えていた。「それでも何とかするのがプロというものです」と。
 そういう文脈から見ると、NHKのチーフプロデューサーの今回の会見は、戦術としてはうまくない。彼の目的は「圧力に屈した上司」を告発することにあったのだろうが、具体的な政治家の名を挙げてしまえば、必然的に政治家たちの攻撃を受けることになる。しかも、それは伝聞情報に過ぎないのだから、むざむざ相手に攻撃材料を与えているようなものだ。もっとましなやり方はなかったものかと思う。

 一視聴者として、私がこの件についてもうひとつ態度を決めかねているのは、当該の番組そのものを見ていないからだ。もちろん、「表現の自由」の建前として、「内容にかかわらず政治家が番組内容に口出しするのはけしからん」とはいえる。しかし、いかなる政治的立場の人間が見ても公平を欠いているような番組だってありうるのであって、その点について番組を見ていない私は判断のしようがない。見ようと思っても手段がない。NHKのアーカイブセンターに行けば見られるのだろうか?だとしても、わざわざそこまで足を運んでいるほど暇でもない。

 だが、そもそもテレビというのは、そういうものではないかとも思う。送りっ放しだから「放送」という。放映した端から消えていくのが電波媒体の最大の特徴だ。最近ではアーカイブ化が進んだり、ネットを通じて録画された動画が流通したりと、多少は残留性を帯びてきてはいるけれど、図書館やデータベース、ネット書店を通じてたやすく追跡できる紙媒体に比べれば、問題の番組を見ることの困難さは、まったく次元が違う。ほとんど不可能といってよい。

 ここで、放送の非残留性を批判するつもりはまったくない。むしろ言いたいことは逆で、どのみち送った端から消えてしまうものを作っているのだから、件のチーフプロデューサー氏は、終わった番組のことなど忘れて、次の番組を作ればいいのに、と思う。
 4年も前のことをくどくど悩んだり蒸し返して揉めたりしている暇と労力があるのなら、それを新しい番組を作ることに費やせばよいではないか。彼が表現したいことを余さず表現し、上司や政治家が口を出す隙のない次の番組を作ればいいではないか。
 世間を巻き込んで騒ぎを拡げたところで、今さら番組の内容を元に戻して放映することはできないのだ。彼が誠意を尽くすべき対象は、いま手がけている番組と、これから作る番組であり、過去に作った番組ではない(現場でできることに限界を感じ、万策尽きて自爆テロとしての会見を開いた、ということなのかも知れないけれど。改竄どころか、そもそも同種の企画すら通らなくなっているのかも知れない)。
 実質的には、今回のことで、NHK内部で彼のプロデューサー生命は終わるのだろうと思う。暴論を承知で言うけれど、どうせ終わるのなら、たとえば、圧力を無視して元の番組を独断で放映し、「言われた通り公平公正にやりました!」とぬけぬけと言ってのけるような蛮行によって処分されることの方が、はるかに彼自身の目的に合致したものになったのではないだろうか。

 民放はこの問題をワイドショーやニュースショーでずいぶんと大きく伝えていた。水に落ちた犬を叩くのが大好きな彼らにとっては恰好のネタだったわけだが、もしかすると、それだけではない。たぶん民放の制作現場の人々は、政府のほかに、大小のスポンサーから絶えずくだらない干渉を受け続け、それをごまかしたり騙したり妥協したり、たまには無視して後で謝ったりしながら、日々番組を作り続けているはずだ(テレビに限らず、どんな仕事でも、責任者というものは、部外者からの干渉を逃れるための無数の些事に、かなりの労力を割いているはずだ)。
 そういう日常に比べれば、NHKのプロデューサーというのはずいぶんと青臭くて甘っちょろい商売だな、と民放の人々は思ったのではないかと、私は勝手に想像している。

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コメント

とても共感できます。
立場としては、私も民間会社ではないのでNHKに近い「甘え」のまっただ中にいます。しかし、報道を見ていて何となく釈然としない思いを、見事に、論理的に説明して頂いた気がします。分析力に脱帽です。

投稿: | 2005/01/25 19:29

ええと、お名前は存じませんが(笑)、いらっしゃいませ。書き込み、ありがとうございます。
政治的(というか党派的)な対立にどんどん突き進んでいく報道には、私も釈然としません。私は紙媒体に携わる人間なので、現場の職人のモラールを大事にしたいと思っています。大上段に振りかぶって「政治介入はけしからん」と告発することも時には大事ですが、現実には、現場の人間が日常的にどれほど抵抗できるのか、という積み重ねが状況を規定しているのだと思います。だからこそ、チーフプロデューサー氏には、ああいう形でキレたりせずに、現場で物を作る中でこそ踏ん張って貰いたいと、自戒を込めて感じています。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/01/26 00:41

鉄さま

この「見物人の論理」については、珍しく肯定できませんでしたので、8/13付けメールで反論させていただきました。
現時点で自分なりに考えをまとめてみましたので、TBさせていただきました。

長井氏の内部告発は、メディア全体の問題だと思います。
「NHK vs 朝日新聞」に移行していったため、問題の本質が議論されずに終わったことに不満がありました。そこにまで、政治家の「介入」があったということですね。

投稿: 影絵 | 2005/10/21 08:59

>影絵さん

こんにちは。
TB先のエントリーでご紹介されているNHKに関するリンク先の資料、それぞれ興味深く拝見しました。

いただいたメール(TB先のエントリーとほぼ同じ内容でした)に、私は次のようにお返事しました。

「ご意見はそれぞれにごもっともだと思います。
長井氏の記者会見に始まる一連のNHKの問題は、政治家の介入や朝日新聞の取材手法も含めてさまざまな方向に広がっていきました。当時の嵐のような報道に物足りなく感じたことを書いたのが、このエントリーであったとご理解ください。
私が書いたのは、組織の中で物を作る人間にとっての原則論です。原則論ですから、長井氏の個別具体的なケースに対して、本当にあてはまるかどうかはわかりません。ただ、『政治介入はけしからん』という空疎な建前論だけが進んでいく中で、誰も顧みようとはしていなかった作り手にとっての原則に立ち返ってみたかったのだと思います。」

読み返すと、「空疎な建前論」と言い切っていいのか、という反省はありますが、全体としては、今もこのようにお答えするほかはありません。


>長井氏の内部告発は、メディア全体の問題だと思います。

私もそう思います。そして、その問題に対処するために、現場の人間が採るべき方法についての意見を述べているつもりです。この欄の2つ上(January 26)に私が書いたコメントもご参照いただければ幸いです。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/10/21 11:53

鉄さま

ええ、さきのコメントを書きこむまえに、8/14付けでいただいた鉄さんの返信も、ご指摘の2つ上のコメントも、そして本エントリーと【失われた「失言」。】というエントリーの冒頭でNHKについて述べておられる箇所についても、読みかえしました。もちろんわたしの誤読があっては失礼だと思ったからです。

ご指摘のとおり、8月にメールしたときと、いまの考えかたに根本的な相違はありません。が、当時よりは多角的にみることができているように思います。あくまでも当時よりはね。

TBすることについては、もちろん迷いましたが、エントリーのなかで紹介した⑤の石田氏の「NHKニュースが死んだ日」を、とくにお読みいただきたかったのです。
NHKがあそこまでやったということは、問題になった番組とは比較にならない「政治介入」があったのではないかと想像するのです。

反論がないわけではありませんが、「どうぞお手柔らかに。」という牽制球をblogのトップに投げておられますしね。
ひとつだけいわせていただくと、長井氏の内部告発は、鉄さんのおっしゃる「組織の中で物を作る人間にとっての原則論」から発せられた、とわたしは認識しています。それがどうにも通用しなくなった、ということだと。だからこそ、NHK職員が内部告発した長井氏にどのような見解をもっているかが、気になっています。
長井氏を英雄扱いする必要はありませんが、組織から追いだされたり、冷遇されたのなら、NHKの再生は無理だと思います。
長井氏の行方について、紙媒体が追究してほしいですね。

公共放送であるNHKの番組に政治家が介入するのは大きな問題です。それがわかっているから、政治家が「NHK vs 朝日新聞」に移行させたのでしょう? とするなら、紙媒体がそれをどう報道したのか?

正直なところ、わたしはここで強い口調でコメントできるほど勉強していません。が、TV番組の制作現場について興味がありますので、近いうちに2つほどエントリーをアップするつもりです。
わたしは活字人間ですが、映像でしか表現できない世界に惹かれています。したがって、それを創りだす人間にも。

わたしが鉄さんの見解に抱いた違和感について詳述するのは、不毛だと思います。が、お伝えすることには意味があるのではないかと。
「過去の文章に対するコメントも歓迎」って、そういうことも含まれますよね?

投稿: 影絵 | 2005/10/23 14:36

>影絵さん

 私のコメントは影絵さんの感情を害してしまったようですね。その点は申しわけなく思います。

 この一連のやりとりは、要約すれば、影絵さんは私に「NHKの崩壊や政治介入や長井氏の行方は大切な問題なのだから、そのように認識すべきだ」と求めておられるけれども、私はそれらについてここで論じる気がない、ということなのだと思います。
 論じる気がない理由は、うまく説明できないものも含めていくつかありますが、たぶん今後も、影絵さんが考えておられるような枠組みの中で論じることはないと思います。そういう形での議論には、たとえば影絵さんがご紹介しておられる坂本衛氏の文章のように優れた論考がすでに多数存在しており、同じ筋道で私が付け加えられることは特にありません。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/10/25 08:53

鉄さま

>私のコメントは影絵さんの感情を害してしまったようですね。その点は申しわけなく思います。

いえ、まったく感情を害していませんので、気になさらないでください。

>影絵さんは私に「NHKの崩壊や政治介入や長井氏の行方は大切な問題なのだから、そのように認識すべきだ」と求めておられるけれども

これもちょっとちがいます。そこまで不躾ではありません。
じつは鉄さんのコメントに意外性はありませんでした。

ひとつのテーマで他者と論じる場合に大切なのは、たがいにうなずきあうことより、どれだけ考えを深めることができたか、だと考えています。メタモルフォーゼが稀に現出するときがあり、そのときにはほんとうに感動します。(いままで数えるほどですが、体験しています)
あるいは同意できないけれども、「なるほどそういう論理もある」と納得できるときは、うれしくなります。

そういう意味でいうと、ここにコメントしたことで、「見物人の論理」ってなんだろうと、自分なりに再考の必要を感じたことは、有益だったといえます。これは上記のふたつに該当しない、例外的ケースですが。

(正直なところ、例の一件による後遺症から完全に解放されていませんので、この空間にコメントするのは勇気を要するのです)

ネット上でのやりとりは現実世界と同じく、おたがいに気分を害することも生じます。けれども、大切にすべきことを優先させたいと思いますので、これからもよろしくお願いいたします。

*蛇足ながら、「すりきれたビデオテープ」へいただいた鉄さんのコメントは、小田氏と原田氏へのメールに貼付して、アピールさせていただきました。原田氏は筑摩書房時代から、読者(とくに雑誌)の反応を大切にされていましたのでね。
まったく無意識でしたが、わたしはあのエントリーを鉄さんにむけて書いていたということに、コメントをいただいた時点で気づきました。人間は、無意識の領域に鈍いですね。
(これを記すのは、コメント欄よりメールのほうがよかったのかもしれませんが)


投稿: 影絵 | 2005/10/25 12:23

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受信: 2005/10/21 08:38

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