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失われた「失言」。

 NHKの番組改竄問題は、すっかりNHK(と、その背後にいる自民党)と朝日新聞の対立になってしまったようで、もう勝手にやってくれとしか言いようがないのだが、この件で気になっていたことが、もうひとつある。
 チーフプロデューサー氏の記者会見で、「圧力をかけた」と名指しされた自民党の安倍晋三は「私が申し上げたのは『公平公正にやってください』ということだけだ」と言い続けている。どうやら、それで自分が圧力をかけていないことを証明した気でいるらしい。

 何事も露骨さが好まれないこの国では、権力者が下位者を意のままに動かそうとする時にも、すべてを具体的に言葉に示して指図するなどという野暮な真似はしないものだ。じっと目を見つめて「わかってるだろうな」と一言いえば、後は相手が勝手に忖度して動いてくれる。そういう洗練された作法が確立している。
 こういうやりとりを得意とするのは、たぶん政治家であり(だから彼らは「秘書が勝手にやったことです」と言い続けられるのだ)、三代続いて政権の中枢近くにいる安倍が、「公平公正にやってください」という言葉でNHKをどう動かせるか知らないとは到底思えない。それでも彼は、「公平公正」の一言で反論を封じ込めてしまう。こういう人物を前にすると、議論というものは、いかにも無力だ。

 議会制民主主義とは、一言でいえば「大事なことは公の場で話しあって決めよう」という制度である。この制度のもとでは、政治家にとって最も重要な能力は、話し合って相手を説得する技量である。つまり、「議論」であり、「言葉」だ。
 ところが、この国では、呆れるほど政治家の言葉が軽いものになっている。

 政治家の「失言」というものが死語になってしまったのは、いつごろからだろうか。
 少し前までは、公の場でうかつなことを口走って辞職に追い込まれる大臣が数年にひとりくらいはいたものだが、最近では記憶にない。小泉政権下で、失言で職を失った大臣がいただろうか?(覚えてる人がいたら、ご指摘ください)
 そうなったのはおそらく、小泉純一郎首相その人が、盛大に失言をしまくっているからだろうと思う。公約の不履行を指摘された総理大臣が「そんなのは大した問題じゃない」と言い放つのが許されるのなら、「失言」などという概念は消滅する。

 野党やマスコミの追及が甘い、という批判はできる。しかし、小泉純一郎の「失言」は、いささか次元を超えている。27日に民主党の菅直人が、小泉の過去の「失言」を一覧表にして反省を迫ったが、答弁は、列記された過去の言葉に輪をかけて非論理的なものだった。http://www.dpj.or.jp/news/200501/20050127_02kan.html
 「自衛隊のいる地域が戦闘地域」という答弁を無責任だと批判されて、「これは一番分かりやすい答弁だ」と平然と答えるような人物と、一体何を議論すればよいのだろう。小泉と議論しようとした人々はみな、言葉の迷路をぐるぐると彷徨っているような気分に陥っていくに違いない。

 つまるところ、小泉は言葉の使い方に長けている。ただしそれは、我々が考える「言葉の使い方」の概念とは相反するもので、むしろ言葉の持つ意味や機能を限りなく無化していき、自身の言葉に一切責任を持たずに済むようにするという、きわめて特殊な能力である。
 彼がそういうやり方で権力を行使し続けることによって、言葉が持つ重みは、どんどん失われていく。政策の良し悪しとは別の次元で、小泉は言語に対するテロリストである。表面的な言葉として何を口にしようと、詰まるところ、彼が伝えようとしているメッセージはひとつしかないのだ。“俺のやることに口出しはさせないぞ”と。
 総理大臣がこれほどデタラメな答弁を繰り返し続けても、選挙をすれば自民党が勝つ。「ペンは剣より強し」というけれど、彼の非言語コミュニケーションは、ペンに対して圧倒的に優位に立っている。言論でどうにか対抗しようと思っているうちは、小泉の思う壺なのだろうか。

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