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2005年2月

奥田英朗『泳いで帰れ』光文社

 東京オリンピックのころの新聞や雑誌を紐解いてみると、当時の名のある小説家たちが、競ってオリンピックの観戦記を書いていたことがわかる。
 その38年後に開かれたサッカーのワールドカップは、東京オリンピック以来の、国民の多くが熱狂する大規模な国内スポーツイベントとなったが、では人気作家が大量に観戦に駆りだされたかといえば、あまり印象に残っていない。誰か書いてましたか。私が覚えているのは三谷幸喜(「劇」のつく作家ですが)が朝日新聞の連載エッセイに書いていたくらいだ。活字媒体を賑わしていたのは、スポーツライターか、もともとサッカーやスポーツについて書いていた小説家がほとんどだった。
 これは文化現象一般における小説家の地位低下を示すものなのかも知れないが、昭和39年当時にはスポーツライターという職業は日本に存在しなかったから、コラムを頼む相手として小説家以外の選択肢はなかったというだけのことなのかも知れない。

 最近のオリンピックでも、小説家の観戦記を目にすることは多くない。シドニー五輪では、村上春樹が本を出した程度だったと記憶している。
 昨夏のアテネ五輪では、小説家による観戦記は、私が知る限り、この一冊だけだ。直木賞作家・奥田英朗が書いた『泳いで帰れ』。奥田はその夏に直木賞を受賞したばかり、旬の作家といってよい(実は奥田は、アテネ旅行の日程と重なったという理由で授賞式を欠席している(笑))。

 奥田は、スポーツ全般に対して深い知見を持っているというわけではない。むしろ、野球以外はほとんど初心者に近い。本書を書くことになった経緯も、酒の席で「アテネで長嶋ジャパンを見たい」と話したら、編集者が本当に段取りをつけてしまったという、しごく衝動的なものだ。もちろん取材パスもない。宿や交通や試合チケットの手配は編集者がしてくれるという特典はあるけれど、一行(といっても2名)全体は、単なる旅行客に過ぎない。
 もとより「長嶋ジャパンを見る」以外には大それたテーマなどないのだから気楽なものだ。はじめて見る競技やギリシャの風物、世界中から集まってくる人々について、奥田は独特の韜晦を交えながらも、興味津々に記述していく。「酔っ払いのオヤジ」としてアテネをうろつく軽妙な描写は、奥田の得意とするところだろう。

 唯一、彼が本気になるのは野球を見る時だ。地中海独特の強い日差しと暑さに辟易しながら、奥田は日本代表の戦いぶりに一喜一憂し、そして、怒る。とりわけ、予選リーグ終盤から日本代表が多用しはじめたバントに怒る。
 であるから、準決勝では烈火の如く怒りまくる。1点を追う九回裏、先頭の城島がセーフティーバントを試み、失敗。
「わたしは唖然とした。なんだって?バントだって?同時に猛然と怒りがこみ上げてきた。この初球セーフティーバントは、自分が何とかしようとする者の行為ではない。あとは頼むという、責任回避の行為だ。四番がこれか」
 三位決定戦でも、日本代表は同じようにコツコツとバントを重ね、リードを広げる。場内の日本人観客は喜ぶが、奥田はひとり不機嫌だ。
 『泳いで帰れ』という書名は、この時の奥田の心の叫びを意味している。

 奥田は選手をなじる。居丈高な口調である。だが不思議なことに私は、たとえば村上龍や馳星周が居丈高に日本のサッカーをなじる時の不快感を覚えることがなかった。
 奥田は居丈高ではあっても、無謬性の高みに自分を置いているわけではない。そこが村上や馳との違いなのだと思う。もっともらしい世界基準に照らして日本野球を批判しているのではない。奥田自身が考える野球選手のあるべき姿を満たしていないから怒っている。
 それは、はるばるアテネまでやってきてスタンドで応援するファンの権利でもある。厳密に言えば奥田の自費ではないけれど、アテネまで持参してスタンドで着ていたという中日・福留のユニホームに免じて、そこは問わないことにする。

 40代半ばの男性が幼少時から中日ドラゴンズの熱狂的ファンであったということは、彼が「優勝を争いながらも結局は勝てなかったペナントレース」を誰よりも多く経験してきたことを意味する。報われるのは10年に一度。だが喜びも束の間、日本シリーズではことごとく敗退し、そのまま屈辱の冬を過ごす。選手は入れ替わるが、ファンは何度でも同じ目に遭う。
 中日ファンであるというのは、そういうことだ。勝利を熱望しつつ、しかも勝ち負けだけでない美意識や哲学を持たなければ、ファンである自分を支え続けることはできない。単なる「金メダル大好き」の五輪客とはメンタリティが異なるのだ。
(と想像するのですが、いかがでしょうか、中日ファンの皆さん)

 他の競技で誰がどんな負け方をしようと、奥田は怒ったりしない。楽しみにしていた井上康生が敗退しても、驚き悲しむだけだ。野球場でのみ、態度が違う。奥田は「年季の入った中日ファン」の矜持をもって、長嶋ジャパンを罵倒する。それはどこかから借りてきた理屈ではなく、奥田の45年の人生の中から滲み出てくる必然性を伴った態度なのである。

 もうひとつ、印象に残っていることがある。
 開催期間中、あれほどテレビや新聞や雑誌でアテネの情報にさらされ続けていたにもかかわらず、奥田がだらだらと記すアテネでの日常は新鮮に映る。奥田が経験した会場の暑さやギリシャ料理の味など、出来事のひとつひとつは、たぶんどこかで私の目にも触れているはずなのに。
 たぶん、マスメディアが細切れの時間や面積の中で伝えてくる断片情報をいくら集めたところで、決して全体像となることはないのだ。ひとりの人間を現地に放り込み、すべての体験性情報を、彼のフィルターを通過させることによって、はじめて全体性を伝えることが可能になる。そこにおいて、奥田という小説家の観察眼や筆力が生きてくる。
 今では東京オリンピックの頃にはなかったスポーツ総合誌がいくつも生まれているが、そのほとんどで、同じような顔触れのスポーツ専業ライターが、同じような文体で、同じように選手の内面に寄り添おうとする。一般の新聞記事ですら、似たようなことになっている中で、本書は「作家の観戦記」というものの価値を再認識させてくれる一冊だ。

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上原君、頼むからカート・フラッドの名前くらい覚えてくれ。

 上原浩治がジャイアンツとの契約書にサインしたと聞き、とりあえずは安心した。どれだけ粘ったところで、球団が今春のうちにポスティングに合意するとは到底考えられなかったからだ。

 上原についてもジャイアンツについても、私はさほど心配してはいなかった。特に感情的対立になっているふうでもなかったし、自費参加とはいえキャンプでの練習は例年並みに進んでいるのだから、今季を棒に振るとか選手生命にかかわることになる心配はまずない。今季、若手投手が急成長すれば、次のオフに球団の考えが変わる可能性もあるだろう。上原がどうしてもアメリカに行きたいのなら、また次のオフに仕切り直して、合意点を見いだしていけばいい。

 …という、わりあいニュートラルな見方をしていたのだが、上原が公式ホームページに書いている「選手の立場」という文章を読んだら、がっくりきてしまった。失望の一語に尽きる。彼は、こんなに幼い人だったのか? 

 ここには、一連の交渉の間に彼が考えたことが述べられている。
一番感じたんは、選手の立場ってとても弱いってこと」という総括はいいとしても、球団の選手保留権についての記述は、まったく感心しない。

「メジャーと日本では、今の保留制度ができるまでの過程に違いがある。メジャーでは裁判だか何かの手続きで一旦は保留制度は無効だということになったらしい。」
「要はメジャーでは最初に人権が尊重されていて、保留権がゼロの状態から選手会と経営者側が話し合って決まったこと。でも、日本は最初に無期限の保留権があって、それからFA制度ができた。」

 上原は言う。「保留権ってどうやって決まったか、勉強したんよ。勉強したっていっても、人から聞いただけやけどね。」 
 だとしたら一体誰がこんなふうに上原に教えたのだろうか。彼の事務所のスタッフか、代理人か。もう少し正確に教えてやってほしい。

 MLBにも最初は無期限の保留権があった。1922年には最高裁が「MLBは独占禁止法の適応を受けない」という判断を示して、これを支持した(これが以後数十年間にわたり保留条項の撤廃を妨げることになる)。
 保留条項に初めて挑戦したメジャーリーガーは、セントルイス・カージナルスの黒人外野手カート・フラッドだった。1969年のオフ、フィラデルフィア・フィリーズへのトレードを通告されたフラッドは、これを拒否し、MLB機構を独占禁止法違反で訴えた。
 ジャッキー・ロビンソンの9年後にデビューし、まだ人種差別が残る野球界を生き抜いてきたフラッドの、誇りを賭けた戦いだった。訴訟は最高裁まで争われ、結局はフラッドの敗訴に終わる。
 フラッドは、70年シーズンは裁判に専念してプレーせず、71年、ワシントン・セネタースに移籍したが、15試合に出ただけで、シーズン途中で引退した。最高裁判決が下されたのは72年。69年シーズンには33歳で.285を打ったフラッドは、結果的に自ら起こした訴訟によって選手生命を絶たれた。

 このフラッド訴訟をきっかけに、野球界には「10年間野球界に所属し、5年間同一チームに在籍した選手はトレードを拒否できる」という「10 and 5ルール」が作られ、同時に年俸調停制度が始まった。そして75年、オークランド・アスレチックスのエース、キャットフィッシュ・ハンター投手が、オーナーの契約不履行による年俸調停で、フリーエージェントの権利を認められる。同じころ、契約書にサインしないままプレーを続ける選手が現れはじめ、ドジャースのエース、アンディ・メッサースミスが起こした調停で、ついに球団の保留権を否定しフリーエージェントを認める裁定が下った。
 翌76年、数百人に登る選手が契約更改せずにシーズン入りし、これを背景に選手会はMLB機構と新たな労使協定を結ぶために交渉を重ねた末、保留権については6年という期間で合意が成立した。それがFA制度のはじまりとなった。

 かなり駆け足で経緯を説明しようとしても、このくらいの長さにはなる。2リーグ制によるMLBが始まってから、FA制度の確立まで75年かかっているのだ。それを「裁判だか何かの手続き」の一言で片づけるのは、フラッドやメッサースミスに失礼ではないか? 
 上原が希望するポスティングが実現しなかったとしても、彼は故障がなければ4年後にはフリーエージェントの権利を得る。それは紛れもなく、選手フラッドの屍の上に築かれたものだ。「メジャーでは最初に人権が尊重されていて」という言い方は、あまりに粗雑だ。フラッドやその他の人々が、体を張って自らの人権を尊重させたのだ。

 いきなりフラッドの名を出しても、上原は面食らうだけかも知れない。では、野茂や伊良部ならどうだろう。
 彼らが非難の嵐の中でアメリカに渡ってから、まだ10年かそこらしか経っていない。日本でもアメリカでもプレーするチームを失うかも知れないというギリギリの状況で、彼らは敢然と海を渡り、そこから少しづつ、日本人選手がMLBに移る道が整備されてきた。ポスティングもまた、そんな流れと試行錯誤の中から生まれてきた制度だ。苦し紛れの妥協策だから、球団も選手も満足してはいない。だが、ないよりはましだ。そういう過渡的なものでもある。
「ポスティング制度だって、最初からなければ俺も頼まへんし、こんなことにならなかった」
 それなら、時計の針を10年分巻き戻して、野茂と同じ場所からやり直したいとでも言うのだろうか。

 ジャイアンツに対する述懐にも、同じような印象を受ける。
「逆指名って制度があって「入団してください」って言ってくれた球団の中からジャイアンツを選んだだけ。日本のプロ野球で野球をするなら、一番、注目されて設備や環境の整ったジャイアンツがいいと思って選んだんだよ。乱暴な言い方になるけど「入れてください」ってお願いして入団したのなら「メジャーに行かせてください」って簡単には言えないけど、必ずしもそうじゃない。」
 それは「乱暴な言い方」ではない。「子供じみた言い分」という。
 上原がジャイアンツの主力投手であることのメリットを存分に享受していることに、疑う余地はない。成績そのものは彼の努力の成果であるにせよ、他球団で同じ成績を残したとしても、彼が手にしている高額の報酬や、テレビやラジオへの出演機会や、絶大な人気を得ることはできない。それは上原自身にもわかっているはずだ。1年目のシーズンが終わった時、彼は「野球をやるなら、やっぱり巨人ですよ。松坂君がいくら甲子園のヒーローでも、ひとりで西武球場を満員にはできないでしょ」と話していた。それは、上原自身にもあてはまる。

 「入れてくださいとお願いしたわけじゃない」という上原の論理に従うなら、くじ引きドラフトによって自分の意志と無関係にジャイアンツ入りした松井秀喜が、MLB行きの決断を発表する際に「裏切り者と呼ばれるかも知れませんが」と苦渋の表情を浮かべていたのはなぜだろう。
 松井が気兼ねしていた相手は、おそらくはオーナーや球団代表ではない。それは東京ドームを訪れる観客に対する気持ちであり、同時に、原監督(当時)や長嶋前監督や、その他の数多くの先人たちに対する気持ちだったのだろうと私は思っている。
 ジャイアンツといえども、最初から「一番、注目されて設備や環境の整った」球団だったわけではない。川上哲治が入団した昭和12年には、プロ野球自体が正業とはみなされていなかった。「昭和9年に発足して、23年間も赤字を続けたんですよ」と渡辺恒雄前オーナーは語っている(小林至「合併、売却、新規参入。たかが…されどプロ野球!」より)。川上や長嶋茂雄や王貞治ら、折々の選手たちが懸命にプレーすることによって、プロ野球は社会に認められ、ジャイアンツのユニホームは尊敬と羨望のまなざしを受けるようになった。
 上原が満喫しているジャイアンツの社会的ステイタスは、そうやって先人が築いてきたものなのだ。それをわかっていたからこそ、松井はあれほど苦悩したのではなかったか。
 さんざんいい思いをしたあげくに、出ていきたいとなったら「入れてくださいとお願いしたわけじゃない」などと、いい大人が口にするものではない。
 上原は、長嶋や松井の前でも、同じ言葉を口にできるのだろうか。


 「選手の立場ってとても弱い」と上原は言うけれど、今の彼が選手生命を賭けて戦わなければMLBに行けないほどには弱くはない。
 彼がポスティングを要求できるのも、普通に投げていればFA権が手に入るのも、MLBへの移籍を計画できるのも、並外れた大金と名声を得てこられたのも、すべて彼の先輩たちが築き上げ、勝ち取った遺産のおかげだ。彼自身の力で得たものは、その一部に過ぎない。
 上原が先日サインした契約書に記された今季1年の報酬額が、現在の彼の監督が、203勝を挙げた18年間の現役生活で得た報酬額の合計を上回っていると知ったら、私がここで書いていることも、少しは理解してもらえるだろうか(海老沢泰久「ただ栄光のために」によれば、堀内恒夫の年俸がもっとも高かった年が1800万円。これを18倍しても3億6000万円には及ばない)。

 カート・フラッドは裁判を始める前、「それをやりだしたら、もう野球界では食っていけなくなるぞ」と同僚に言われて、「そんなことはわかってる」と答えた。選手会の会合の場では、こう話したという。
「いま自分がやろうとしていることは、すべての野球選手のためになることだ、保留条項を抹消すべきときがきているのだ」
 そんな先人に対して、この「選手の立場」という文章は、あまりにも敬意を欠いている。それが哀しい。
 保留制度について人前で語ろうとするのであれば、他人から聞かされた粗雑な要約を受け売りするのではなく、せめてフラッドとメッサースミスのことくらい自分自身で勉強してきてほしい。調整法にせよ何にせよ、他人任せにせず自分で納得してからはじめるのが、彼のスタイルではなかったのか。

 念のため繰り返しておくが、私は上原がMLBに行きたがっていることや、ポスティングを要求していることを批判するつもりはない。ただ、この「選手の立場」という文章の論理の未熟さに呆れているのだ。私がここに書いたことは、彼自身が属する業界の歴史なのだ。この程度のことを踏まえずに物を言うのは恥ずべきことだ。これが30歳になろうとしている大人の、しかも球界を代表する投手の言うことかと思うと、ただただ情けない。
 私は、プロフェッショナルの職業人としての出処進退のあり方を、幾多のスポーツ選手たちから学んできた。20歳に満たない少年少女に畏敬の念を抱くこともある。だが、今の上原は手本にしたくはない。

「球界再編の年っていうなら、もっとそういう論議をして早く新しい制度を決めてほしいね。」
 ここには彼自身が論議に貢献しようという意志は感じられない。まるで他人事のような彼の言葉を、彼の後輩たちはどう思うだろうか。
 「選手の立場」だけではなく、「上原浩治の立場」も少しは考えてもらいたい。いつまでも雑草ではないのだ。今の君は、日本代表のエースなのだから。


※カート・フラッドおよびMLBのFA制度の成立過程についての記述は、主に以下の資料を参考にしています。
マービン・ミラー『FAへの死闘』ベースボール・マガジン社
デイビッド・ハルバースタム『さらばヤンキース』新潮文庫
ウィリアム・B・グールド(スタンフォード大学法学部教授)による講演 http://www.jil.go.jp/kouen/no_23.html

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「中の人」の値打ち。

元トラッキー 今年は楽天“変身”
 横浜の人気マスコットが楽天に“強奪”された—。元阪神マスコット「トラッキー」を演じ、横浜では派手なパフォーマンスで03年夏に登場以来人気を集めた『ブラックホッシー』。その着ぐるみの中に入っていた男性(30)が楽天に引き抜かれたことが19日、分かった。大魔神・佐々木と並ぶ横浜の“看板スター”を失い、球団関係者も困惑の色を隠せない。(デイリースポーツ)

 いやあ、意表を突かれました。楽天はいいところに目をつけた。やり方が少々強引だから、単純に「いい話」とは言い切れない面もある。けれども、「中の人」の代替不能な固有の価値が認められたという点で、これは快挙だ。

 一昨年の開幕まもないころ、阪神のトラッキーの中の人が球団に解雇されたことは、阪神ファンの間で話題になっていた。プロレス風のパフォーマンスを派手にやりすぎたことが球団幹部の不興を買ったらしい。ネット上で復活への署名活動が行われていたのも記憶している。
 私は迂闊にも知らなかったのだが、「中の人」はその年のうちに、横浜ベイスターズに加入していたようだ。もともと、横浜スタジアムで佐伯と格闘する姿が話題になっていたくらいだから、自然な流れではある。横浜は彼のために新しいキャラクターを作ったが、登場は週末に限定されていた。ま、もともとの着ぐるみスタッフもいるし、予算も限られていたのだろう。

 チアリーダーを公募して話題をつくった楽天イーグルスのことだから、マスコットに対してもかなりの検討をしたのだろう。そして、この世界の“第一人者”を調べ、彼を獲得できる可能性があると見て、彼の琴線に触れそうな好条件(金額だけではなく、新球団の新マスコット運用を彼に任せ、主催ゲームのすべてに登場することになるらしい)を用意したのは、見事な手腕というほかはない(以上はスポーツ各紙の報道による。まだ、楽天が彼の獲得を発表したわけではない)。
 私は楽天が「人気者」を獲得したことを褒めているのではない。冒頭にも書いたように、「中の人」という、おそらくこれまでの野球界では、いくらでも替わりがいる道具だと思われていた職種において、優れた技能を持つ人物を厚遇する姿勢を示したことを評価したい。

 プロ野球球団という事業体には、さまざまな職種がある。そして、外から見ている限り、監督と選手以外のスタッフの多くは、不当にないがしろにされているとしか思えない。
 毎年のオフの人事を見ていれば、どの球団でも、コーチやスカウト、編成部門の人々がコロコロと動かされていることは、よくわかる。名人と呼ばれるスカウトでも、ひとつの球団でスカウト生活をまっとうすることは少ない。
 ビジネス書ふうに言えば「コア・コンピータンス」であるはずの、チームの戦力づくりそのものに関わる職種ですらそうなのだから、さらに周辺的な職種の人々は言うまでもない。何日か前、どこかの新聞の夕刊で、MLBマリナーズのトレーナーを務める男性が、「日本の野球界はスタッフの技術や知識を尊重しない」という意味のことを書いていた(もっとも彼の経験はオリックス・ブルーウェーブに限られるようだから、単にオリックスがダメな組織だっただけなのかも知れないが(笑))。

 「それでも好きな野球に関われれば満足」という意識が、きっと人々のモチベーションを支えているのだろう。そんな彼らの野球に対する忠誠心に付け込むような形で、多くの球団は運営されてきたのではないかと、私は疑っている。
 もちろん例外はあるだろう。だが、それは本社から金庫番として送り込まれた人物が、たまたまスポーツ・マネジメントの手腕を持っていたという幸運に恵まれただけで、そのナレッジ・マネジメントが球団に定着し受け継がれていくわけではないので、後任が来れば、また元通りということになりかねない。少なくとも、本腰を入れて「球団経営のプロ」を育てようとしている球団は少なく、必然的に「球団運営のプロ」が育つ余地も減っていく。
(このへんは全部、外から見た憶測です。内情をご存知の方の反証を歓迎します)

 だからこそ、楽天イーグルスの「中の人」に対する姿勢は歓迎できる。
マスコットの「中の人」だけでなく、ユニホームを着ていないベンチの「中の人」や球団事務所の「中の人」に対しても同じような姿勢をとっていくのであれば、この球団は面白くなるだろう。

(しかし、昨夜のNHKスペシャル『球団創設』では、ネット裏の座席幅を広げたいという社員の提案を、三木谷オーナーは「高い席が売れなければ儲からないんだから、席数を減らすのはダメ」と思い切り却下していた。正論ではあるが、「そりゃ、貴賓室から見てるオーナーには関係ないだろうけどさ」と皮肉のひとつも言いたくなる光景ではあった)

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『星屑たち』と、もうひとりの「アトランタ組」。

 『星屑たち』(川端康生/双葉社)という本を読んだ。サブタイトルが、「それからのアトランタ組物語」という。
 タイトルから容易に想像がつくように、アトランタ五輪で脚光を浴びながら、その後、陽の当たる舞台から姿を消してしまったサッカー選手たちについてのノンフィクションだ。いわば、金子達仁の出世作『28年目のハーフタイム』『決戦前夜』の後日談にあたる。金子が積み残した宿題を肩代わりしているようなものだ、とも言える。

 著者は前園真聖、城彰二、広長優志らの選手たち、西野朗、田中孝司、加藤久ら当時の協会スタッフたちを訪ね歩く。彼らは口を揃えて、(選手たちは)人気に躍らされて自分を見失った、と言う。それは誰もが思っている通りの図式なのだが、本書はそこに留まり、特に新しい何かを付け加えてはくれない。誰よりも著者自身が感傷に浸りっぱなしなので、最初から最後まで、ただただ慨嘆しているだけ、という印象が拭えない。

 たぶん、当事者たちの談話に終始していることが、本書が平板になってしまった理由なのだろう。選手たちはまだ30歳を少し超えたばかりで、脚光の当たらない場所ではあっても、多くはサッカー選手を続けている。ひとりひとりの経験に大きな違いがないのだから、どうしたって同じような話になる。
 前園を描くのであれば、彼が所属していた事務所(後に中田英寿をプロモーションによって大いに成功したこの事務所の女性社長は、失敗例である前園のケースについて、現在どのように考えているのだろうか)やCMに起用したプロデューサー、アトランタ以後の前園が所属したチームの指導者たち(とりわけ当時の代表監督であった加茂周)の証言も読みたかった。

 また、せっかくサッカーを専門とするライターが書いているのだから、アトランタの前後で彼らのプレーにどのような変化があったのか、代表に踏みとどまった中田英、川口、松田、田中誠らと消えてしまった選手たちを隔てるものは何だったのか、というような点についても、はっきりと打ち出してもらいたかった。
 もっとも、あとがきによれば、著者がやりたかったことは「単にサッカー選手として彼らが輝き、そして光を失っていく道程をレポートすることではない。彼らを通してあの時代を再現したかった」というから、私がここで書いていることの多くは、ないものねだりなのかも知れない。

 だとしても、本書には巨大な欠落がある。
 川端康生は、なぜ小倉に会わなかったのだろう。「アトランタ組」で最大のスターになるはずだった小倉隆史に。


 小倉はこのチームのキャプテンだった。実績もリーダーシップも群を抜いていた。高校選手権で優勝し、名古屋グランパス入りした途端に92年のナビスコカップで活躍。Jリーグ開幕時にはオランダに留学し、帰国して日本代表に選ばれ、フランス代表から初得点を挙げた。「レフティモンスター」と呼ばれたこのFWは、しかし、アトランタ五輪予選を前にした合宿で大ケガを負い、このチームから姿を消す。
 それからの小倉は、ケガと手術を繰り返し、輝いた時期はあっても長くは続かなかった。名古屋を離れてからは市原、東京V、札幌、甲府と渡り歩いている。チームを転々とせざるを得なかった事情は、私にはわからない。

 甲府に加わってからの小倉を、スタンド観戦したことが2度ある。
 最初は2003年、シーズン途中に加入して間もない6月末に、甲府の小瀬スタジアムで行われた横浜FCとの試合だった。その日、小倉と城彰二が対戦すると気づいて、中央線を西に向かった。
 当時、甲府は倒産寸前の土俵際から経営を建て直しつつあった。甲府駅前に地元クラブの試合開催を思わせる飾り付けは見当たらず、市を挙げて盛り上がっているとは到底言えなかったが、それでもスタジアムには6500人の観客が訪れていた。

 キックオフ前のピッチで親しげに会話を交わしていた2人は、ともにFWとして先発した。小倉は当初、周囲とうまく噛み合わなかったが、試合が進むにつれて藤田や倉貫というテクニックのある選手と絡んでチャンスを作り、自ら同点ゴールも決めた。城はゴールだけを狙い続けたが、実らなかった。
 城はハーフタイムの後、円陣を組む仲間たちに一人だけ遅れて現れた。シュートを外しては大袈裟に悔しがり、相手DFにタックルされるといちいち文句をつける。「俺はお前らとは格が違うんだ」と言わんばかりの態度だった。
 小倉はハーフタイムの後、先頭に立ってグラウンドに戻ってきた。周囲の選手に指示を出し、ミスをした選手にも手を挙げてフォローを忘れない。若く、未熟で、もしかするとあまり伸びしろもないかも知れない選手たちに辛抱強く付き合って、どうにかしてこのチームを前に進めていこうという気持ちが感じられるようなプレーぶりだった。何よりも、あの底抜けに明るい笑顔は、今も曇ってはいなかった。

 同じ年の12月、天皇杯で東京Vと対戦した時には、試合内容も進歩していた。甲府は前線から激しくプレッシャーをかけ、終了寸前に勝ち越し点を挙げられて力尽きるまで、東京Vを苦しめ、西が丘を大いに沸かせた。
 この年の暮れ、地元紙に掲載された記事には、「甲府には『場所と責任』を与えてもらった」という小倉の談話が紹介された。

 小倉が加わってから、甲府は着実に成長している。昨年は、最終的には7位に終わったものの、一時はJ1昇格も狙える位置につけていた。
 小倉は、このクラブが得た初めての一流のプロだ。ひどい故障から立ち直った不屈の男でもある。彼が身をもって示すプロのあり方は、クラブに受け継がれていくべき財産になるはずだ。
 不運な故障で「アトランタ組」から脱落した男は、苦難と流浪の旅の果てに、山あいの町で自分の居場所を見つけ、3年目のシーズンを迎えようとしている。「アトランタ組」とは対照的な足取りといってよい。

 アメリカの宇宙開発の黎明期を描いたトム・ウルフのノンフィクション『ザ・ライトスタッフ』を読んだ方なら、時代の寵児として脚光を浴びる宇宙飛行士の座には目もくれず、テストパイロットとして地上最速に挑み続ける孤高の男チャック・イェーガーが強く印象に残っているに違いない(映画化作品でも、サム・シェパードが見事に演じていた)。
 この『星屑たち』という作品にとって、小倉はイェーガーのような存在になり得たはずなのに一切触れないとは、なんとも惜しいことだ。

 小倉がアトランタ五輪を見たかどうかは知らない。ただ、アトランタで脚光を浴びた選手たちをテレビの前で見つめていたはずの同世代は、ほかにもたくさんいる。後に代表のユニホームに袖を通したり、フランスや日本でのワールドカップに出場した中西、平野、森岡、土肥らがおり、そうならなかった同世代のプロ選手も、プロ入りしなかった元サッカー部員も大勢いる。そんな人々にとっての「あの時代」は、本書に描かれたのとは、また違ったものであるはずだ。

 代表選手をモデルに世代を論じることは、書き手にとっては書きやすく、読んでもそれなりに面白く、俗耳にも入りやすい。だが、モデル以外への目配りが不十分な場合、それは議論としては脆弱なものになりかねない。
 金子達仁は『決戦前夜』において、ワールドカップ・フランス大会最終予選で「ドーハ組」から「アトランタ組」への世代交代が行われたと主張し、その過程を過剰なまでにドラマチックに描いている。だが、実際にフランス大会のレギュラーに最大多数を占めた世代が、両者の間の「バルセロナ(五輪に出られなかった)組」だったと知れば、あの本に対する感想も、いささか違うものになるだろう。


追記(2005.3.2):
 さらにもうひとりのアトランタ組の物語『U-31』、完結してたとは知らなかったが、今なら全2巻、書店で入手可能。併読すると、『星屑たち』の物足りなさを、いい具合に補完できるはず(笑)。

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ロバート・B・パーカー『ダブルプレー』早川書房

 ジャッキー・ロビンソンの写真を初めて見たのは、もう20年以上前になる。ベースボールマガジン社から刊行された、大リーグ史上の名選手を紹介したムックに載っていた。強い意志が目の形をしてそこにある、そんな感じだった。それからずいぶん年月が経ったが、私は今も、あんな目をした人を他に見たことがない。もうひとり、ページをめくる手を止めた顔がロベルト・クレメンテだった。ロビンソンの目は力強く、クレメンテの目は透き通っていた。
 その時の私が、彼らの名前や経歴を、よく知っていたわけではない。ただ、彼らの顔に惹き付けられて立ち止まり、それから、その男が何者であるかを知った。「男の顔は履歴書」とは、よく言ったものだ。

 そんなわけで、書店で平積みになった本書の帯に「ジャッキー・ロビンソン」の名を見つけたら、素通りできなくなってしまった。ロバート・B・パーカーの小説は、ボストンの探偵スペンサーを主人公にしたものを2、3読んだことがある。パーカーがロビンソンを書いたということ自体に、ひとつのイベントじみた楽しみを感じた。浦沢直樹が「鉄腕アトム」を描く、というような。

 厳密に言えば、この小説の主人公はジャッキー・ロビンソンではなく、架空のボディガードだ。
 時代はもちろん1947年。第二次大戦下、ガダルカナル島で日本軍に撃たれて重傷を負った主人公バークは、帰国したものの妻に逃げられ、ケガから回復した後も心を閉ざしたまま生きていた。成り行きのままにボクサーになり、ニューヨークの富豪の娘のボディガードになり、そしてGMブランチ・リッキーの依頼を受けて、ブルックリン・ドジャースがニグロリーグから引き抜いた初めての黒人メジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンのボディガードを引き受けることになる。
 当時、伝統あるメジャーリーグに黒人選手が入ってくることを快く思わない者は、他球団にも、スタンドにも、そしてチームの内側にも少なくなかった。グラウンドの外でジャッキーを襲うトラブルから彼を守ることが、バークの役目だった。
 ジャッキーと行動をともにするようになったバークは、地元ニューヨークや、遠征に訪れる先々の街で黒人差別の実態に直面する(しかも、ジャッキーとともに黒人街に足を踏み入れると、今度は彼自身が白人であるという理由で差別を受ける)。そしてジャッキーに、そしてバーク自身に次々とふりかかる災厄と対決することになる。

 プレー場面はほとんど描写されないが、野球場や選手たちの雰囲気は伝わってくる。1947年という時代の空気も。
(最近、『サウスポー・キラー』という野球ミステリーを読んだが、野球小説としてもミステリとしても中途半端なのが残念だった。主人公の投手が試合で投げる場面が何度も出てくる『サウスポー・キラー』よりも、ほとんどプレー場面を切り捨てている本書の方が、ずっと野球の匂いがするのだから不思議だ。実名の英雄のイメージを借用している有利さはあるにしても)

 ここに描かれているジャッキー・ロビンソンは、自伝その他で私が知っている彼の姿を裏切ることがない。そして、そんな類い稀な人物と出会い、通じ合うことによって、心を凍らせていたバークも変わっていく。
 小説のプロットや結末は、いささかあっさりしたものだ。もともとは短編小説だったものを膨らませて長編にしたそうだが、たぶん短編のままなら傑作なのだろうと思う(読んでもいないものを褒めるのも無茶な話だが)。本書はまずまずというところ。いい小説なのだが、やや冗長な感じがある。
 しばしば挟み込まれるパーカー自身の少年時代の思い出話は、私には余計なものに思えた。ただし、パーカーがどうしても自身とジャッキーを共演させたかったのなら仕方がない。
 それに、こういう形で刊行されなければ、そもそも私はこの物語と出会うことがなかったのだから、長編化されたことに文句を言う筋合ではない。

 菊池光の翻訳には、かなり問題がある。近年のディック・フランシスの作品についても感じていたことだが、日本語としてあまりにこなれていない。
 私の書く文体に影響を与えたものがあったとすれば、それはギャビン・ライアルやディック・フランシスの小説であり、つまりはそれらを翻訳した菊池光が書いた日本語である。師ともいうべき人物に対してこういうふうに書かなければならないのは残念だが、本書を別の翻訳で読んだら多少異なる感想を抱くかも知れない、という疑念を私は拭いきれずにいる。

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広告媒体としてのレフェリー。

 ラグビーの日本選手権で、朝日新聞が審判のジャージに広告を入れたことで、NHKが中継を中止するのしないのと揉めた件。
 メディア上では、もっぱらNHKと朝日新聞の対立の一環と捉えられているようだが(実際、どちらも大人げないことはなはだしい)、しかし問題の根幹は、日本ラグビーフットボール協会の仕切りの悪さにあると思っている。
 協会が、NHKとの協定と、朝日新聞との契約の間に矛盾があることに気づいて事前に調整を図ってさえいれば(というか、そもそもそんな矛盾する契約をしなければ)、当日になって中継するのしないのという騒ぎにはならなかっただろう。トラブルが起きてからの対処も、双方の顔色をうかがって右顧左眄、という印象を受ける。
 中継だの広告だのは副次的な問題であって、あくまで主役はラグビーの試合であるはずだ。協会には、もっと毅然としていてほしいのだが。

 そもそもラグビー協会が朝日新聞と交わしているスポンサー契約とは、どういう内容なのだろうかと、協会ホームページをのぞいてみて驚いた。何の言及も表示もない(ついでに言うと、今回の一連のトラブルについても報告されていない)。
 審判のジャージーに広告を入れるという特別な便宜を計っていながら、協会ホームページでは、そのスポンサーの存在を無視している。まるで辻褄が合っていない。
 ラグビー協会という組織は、つい最近までアマチュアリズムの牙城だった団体だけに、スポンサーというものの扱い方に慣れていないのかも知れない(しかし最近は広告会社がついていたはず。彼らは何をやっていたのやら)。
 近ごろはワールドカップの誘致に熱心に取り組んでいるようだが、このレベルの経営能力で世界規模の大会など開いてしまったら、収拾のつかないことになりそうな気がする。国際ラグビーボードにスポンサーがあるのかどうかは知らないが、日本でサッカーのワールドカップを開催した時には、スポンサー企業との兼ね合いでFIFAから「あれはダメ」「これもダメ」と無茶を言われ続け、JAWOCがずいぶんと苦労していたという記憶がある。

 実はこのニュースを聞いて気になったのは、NHKと朝日がどうしたという話よりも、「審判のジャージに広告を入れる」ということだった。朝日新聞が「公正中立」のイメージをアピールするために考えついたのかと思ったがそうではなく、ラグビー界では以前から行われていたという。知りませんでした。数年前にはオムロンのロゴが入っていたらしい。

 ラグビー界もプロ化が急速に進んだ。書店でラグビーマガジンをめくってみると、欧州や南半球のプロリーグでは、サッカーのようにユニホームに広告が入っている。日本でも一部のクラブチームはつけているようだ(実業団チームの胸にある企業ロゴも、外国人が見たらスポンサー広告と区別がつかないと思うが)。
 では各国リーグの審判はどうだろう、と思ったが、ラグビーマガジンには審判の写った写真が見当たらない。スカパーでスーパー12の試合でもやってたら見てみるが、ご存知の方がいたら教えてください。

 他のスポーツについても、ちょっと調べてみたが、よくわからない。私はあまり見た記憶がない(スペインリーグの試合では、審判団の両袖に何やらマークが入っているが、あれも広告なのだろうか)。
 サッカー界では、数年前にFIFAが「国内リーグに限って審判のユニホームに広告を入れてもよい」という通達を出している。収益は審判の育成等に使うべし、という条件付きだ。
 サッカー界で、審判のプロ化は世界共通の課題だが、財源不足という問題も共通している。おそらく広告の認可は、そのための苦肉の策なのだろう。ただし、実際に採用した国があるのかどうかは知らない。今後、海外のサッカーやラグビーを見る時には審判に注意してみたい。

 さまざまな事情があるのはわかるが、公正中立でなければならない審判が、特定企業との間に利害関係を持ち、それを公然と示すことに、私は違和感を覚える。
 報道によれば、朝日新聞はラグビー協会のスポンサーであって、(サッカー界で規定されているように)審判に対してスポンサードしているわけではなさそうだ。だとすれば広告を出す位置が審判のジャージである必然性は特にない。審判は、グラウンド上の立て看板との比較の上で、おそらくは「テレビによく映るから」という理由で選ばれた広告媒体に過ぎない。
 日本のラグビー界の人々は、それを納得しているのだろうか。
「スポーツで商売をするのは汚いこと」というスタンスで長いことやっていた人たちが突然商売しなければならない状況に立ち、どこで線を引くかという塩梅がわからないまま、極端に走ってしまっているのではないか。失礼ながら、そんな想像をしてしまう。


追記
2/16付の読売新聞が3面「スキャナー」欄でこの問題を扱っている。
「サッカー・イングランドのプレミアリーグでは、審判の着衣に広告が入っており、審判育成費に充てられている。ラグビーは、イングランドやフランス、ニュージーランドの国内リーグで審判が広告をつける」
現実は私の感情論などを尻目に、先に進んでしまっていたようだ。ただし、審判が広告をつけることが世界のラグビー界では定着しているのだとしても、日本ラグビー協会はリーグや大会運営などの枠組みはアマ時代のままで手をつけず、審判広告だけを唐突に導入したわけで、私がここに書いた協会に対する意見は、依然として有効だと思っている。
国内では、テニスに関して「主審以外は大会ごとのオフィシャルウエアを着るが、協賛社の名前が入ることも」だそうだ。

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『ボーン・スプレマシー』ポール・グリーングラス監督

 ロバート・ラドラムの『暗殺者』をマット・デイモン主演で映画化した『ボーン・アイデンティティ』は見逃してしまったのだが、SFXやワイヤーアクション流行りのご時世にあってリアルな生身の戦いを丹念に描いた映画、と高い評価を受けていたのは知っていた。この続編も前評判が高いので、ちょっと空いた時間に映画館に入ってみた。

 前作で、記憶喪失なれど凄腕の戦闘能力を持つ謎の男として登場し、CIAの暗殺者という自分の正体を知った主人公ジェイソン・ボーンが、その後CIAの目を逃れ、恋人と2人でインドに隠遁生活をしているところから本作は始まる。始まった途端に2人の平和な生活は破られ、殺し屋に襲われて恋人は殺される。
 同じころベルリンでは、裏切り者の名を記したファイルを買い取ろうとしていたCIAが、そのミッションの現場を襲われ、工作員を殺され、ファイルと金を横取りされた。事件現場に残された不発の爆弾からボーンの指紋が検出されたため、ミッションを指揮していた女工作員パメラ・ランディはボーンを追う。しかし、怒りに燃えるボーンは包囲網を逆にたどってパメラに接触し、両者を陥れた陰謀の正体が徐々に明らかになっていく…。

 恋人を失ったボーンを追って、ドキュメント・タッチの映像はテンポよく進む。暑いインドから始まり、ナポリ、ベルリン、モスクワと、物語の舞台は、あたかもボーンの心象風景をあらわしているかのように、どんどん寒い土地に移っていく。
 ボーンは口数が少ないが、彼の行動を追っていれば、おのずと彼の狙いがわかるように描かれる。当初、襲撃をCIAの仕業と考えていたボーンは、あえてCIAの捜査網に身をさらし、自らを捕らえようとする動きから次々と手がかりを引きだして、ベルリン入りしたパメラやCIA支局の所在を割り出していく。この過程で見せる手際と知恵の、鮮やかで小気味よいこと。元同僚と殺し合う場面も双方ひたすら実用的で、プロの格闘はこういうものかな、と思わせる。
 そういえばインドでの日常を描いた冒頭、ボーンが砂浜を走る場面があるが、足元の悪い砂浜を走りにくそうなごつい靴で走りながら、まったく頭を上下せず、かなりの速度でぐいぐいと突き進んでいく。見事なものだ。マット・デイモンは、この映画のために相当に体を鍛えたのだろう。

 ラドラムの原作は、第1作の『暗殺者』は読んだ。面白かったという印象は残っているが、20年以上も前のことで細部は忘れた。本作の原作である続編の『殺戮のオデッセイ』は、上下巻の分厚さに怖れをなして読まずじまいだった。
 今でこそエンタテインメント小説は分厚い上下巻が珍しくないが、長尺のボリュームと盛り沢山のプロットで押しまくるジェットコースター小説というスタイルが定着したのは、このラドラムあたりからだったような気がする。
 彼の作品は何冊か読んだが、どれもこれもページが進むにつれてみるみる陰謀が巨大化していく大風呂敷作家という印象がある。いささか大味で、何度も読み返して味わうような作風ではない。そんな原作を、こういう質実剛健で、こぢんまりとした映画に仕立てるというのは、なかなか意表を突いている。無闇な大作にせず、1時間48分という手ごろな尺に収めたのも好ましい。とはいうものの、次々と状況が変転するページターナーぶりは、しっかり映画にも受け継がれている。

 映像は手持ちカメラを多用してボーンの足取りを追い、格闘シーンやカーチェイスではブレまくるアップ画像を多用しつつも、状況は常に明確にされ、観客を混乱させることがない。監督はドキュメント映画界の雄だったそうだが、なるほどと思わせるものがある。
 脚本もきちんと練られている。複雑なプロットを巧みに整理し、真相の解明とボーンの「自分探し」(記憶の回復が充分ではない)がシンクロしながら進んでいく。
 恋人が殺された復讐心に身を焦がしつつ、元暗殺者である自らの手もまた血に汚れている。そんな矛盾から目をそらすことなく、ボーンは正面から受け止めながら旅を続ける。そして映画の終盤で、ボーンは暗殺者としての過去に、ひとつの決着をつける(ただし脚本は、想定される最大の難問に彼を直面させることなく、巧みに逃げを打っている)。
 いくつかの局面でCIA間抜け過ぎないか?と思うところもあるが、全体としては引き締まった佳作。この手のものが好きな人にはお勧めできる。

 前作も見たくなって、映画館からの帰りに近所のレンタルビデオ店に寄ってみたが、『ボーン・アイデンティティ』は全部貸し出し中だった。連休中だし、仕方ないか。

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シュンスケ・コールが響く前に。

 北朝鮮を埼玉スタジアムに迎える試合を前に、中村俊輔を先発で使わない、とジーコが言い出した時、3年前のある試合のことを思い出した。

 2002年4月。自国開催のワールドカップまで2か月を切っていた時期に、横浜国際競技場で行われたコスタリカとの親善試合だった。短いパスをテンポよくつないで組み立てるコスタリカに苦戦した日本は、後半25分、明神が右サイドから上げたクロスがそのままゴールに飛び込み、幸運な先制点を挙げる。
 経過はともあれ、1点リードして残り20分。試合巧者とはいえない日本にとって、僅差の厳しい終盤を逃げ切るための絶好のシミュレーションができる。そう思った矢先に、ピッチを取り囲むスタンドのすべてから大きなコールが沸き上がった。「シュンスケ!シュンスケ!」と呼ぶ声は、高く、柔らかいものだった。

 この時期、代表における中村の立場は不遇だった。
 2000年のシドニー五輪やアジアカップで力を発揮したにもかかわらず、トルシエ監督は中村をレギュラーに定着させようとはしなかった。中村は、若い女性と、スポーツメディアと、「個性至上主義」ともいうべき一部のサッカーライターたちから絶大な支持を受けていたので、トルシエはしばしば批判に晒された。
 その夜も、中村は試合開始からベンチにいた。試合を中継したテレビ局のアナウンサーは、行われている試合そっちのけで「中村シュンスケはいつ登場するのでしょうか」「中村シュンスケがアップをはじめました」と彼の様子を伝え続けたという(代表に中村姓はひとりしかいないのに、なぜアナウンサーたちは彼をフルネームで呼ぶのだろう)。

 トルシエが、この試合を勝ち切ることに重点を置くのなら、必要なのは別の選手だ。何年も代表でプレーしている中村を今さらテストする必要はない。
 それでも女性客たちは、シュンスケを出せ、と要求し続ける。もはやすべてをワールドカップ本番の準備にあてる時期だと私は思っていたが、彼女たちにとってはシュンスケを見ることの方が大事らしい。「本番でこれをやられたら、かなわんな」と思いながら聞いていた。
 スタンドからの音圧がピークに達した頃にコスタリカが同点ゴールを挙げたのは皮肉だった。その後、中村は後半37分に投入されたが、残り時間はあまりに短く、大量に選手が交替したため組織が落ち着く暇もない。見せ場を作ることもなく、そのまま試合は終わった。

 中村の攻撃的MFとしての能力は、中田英寿や小野伸二と甲乙はつけがたい。この2人のいずれかが故障欠場すれば、中村はワールドカップに先発出場したに違いない。
 だが、2人が健在ならチームに彼の居場所はないだろう、と私は思っていた。
 途中から投入するなら、中田や小野とは大きくタイプの異なる選手の方が有効だ。試合に出なくても、練習に参加しベンチに座っているだけでチームに前向きの影響を与えることができる選手もいるだろう。
 しかし、それまでの新聞や雑誌に見る中村の発言は、常に自分だけを向いていた。起用されないことへの愚痴、ポジションについての不満。活躍した時も、やはり自分のことだけを喋っているという印象を受けた。新聞の短いコメントだけなら歪曲されていた可能性もあるが、スポーツ雑誌にたびたび掲載された彼のロングインタビューも、やはり不満と愚痴で埋め尽くされていた。中田や小野が先発で使われなかったとしても、内心はどうあれ、記者に露骨に不平をこぼす姿は想像しにくい。
 ベンチに置けば本人が不満をあからさまにし、スタンドの観客たちは戦況そっちのけで「シュンスケを出せ」「シュンスケを見せろ」と要求する。監督にとっては扱いづらい選手だ。しかもトルシエは、自分の仕事に口出しされるのを極端に嫌がる人物ときている。
「彼はレギュラーになれない場合は、テレビでワールドカップを見ることになる」
 その年の春ごろにトルシエが口にしていた言葉を、私はそんなふうに理解していた。それが現実になった時には、「あのコールも逆効果だったんだろうな」と、ちらっと思った。


 それから約3年。
 トルシエは日本を去った。中村はイタリアのクラブに移り、ようやく安定した活躍を見せるようになった。舞台はワールドカップ最終予選の大事な初戦。
 その試合で、中村はベンチに座っている。ピッチには中田も小野もいないが、この試合のためにイタリアから戻ってきた中村はベンチにいる。
 だが、シュンスケと呼ぶ声は聞えなかった。彼の不満の声が報じられることもなかった。イタリアで「先発で使わない」と聞かされた彼が訝しがるコメントは伝えられたものの、帰国してジーコ監督と話し合った後は、今度は自分が出場選手を支える番だ、と明言した。

 試合は前半4分、中村を差し置いて先発出場した小笠原の鮮やかなフリーキックで先制したものの、その後、自陣に退いて守備を固める北朝鮮の前に、日本の攻撃は停滞する。膠着した流れを変えられないまま、後半に入って猛然と攻勢をかけた北朝鮮に手を焼き、ついに同点ゴールを許してしまう。

 シュンスケ・コールがスタジアムに響いたのは、そんな頃だった。焦れた観客が投入を要求したのではない。ピッチサイドに姿を現した中村に対する期待の声だった。
 同じ帰国組の高原と相次いで投入された中村は、試合の主導権を奪い返し、限られた時間の中で何度もチャンスを作った。見る者が思わず唸るようなボールさばきやパスは格の違いを感じさせるもので、それは北朝鮮の選手にとっても同じだったろう。ロスタイムに大黒が挙げた勝ち越しゴールを「奇蹟」とは呼べない。得点するのは時間の問題だった。そして、それはかろうじて試合が終わる前に間に合った。

 高原と中村の投入で、スタンドは燃え上がり、選手たちは活性を取り戻し、相手チームは自陣に引きこもった。今や、ピッチにいようとベンチにいようと、中村はこのチームにとって重要な人物だ。3年の歳月とイタリアでの経験によって、彼は代表の中で揺るぎない地位を築き上げた。彼自身も、それはわかっているはずだ。新聞に見る発言も、いつしか自分のことだけでなく、チーム状態を語るものが増えている。
 もうスタンドから中村を呼びだす必要はない。シュンスケ・コールは、彼を鼓舞し、讚えるために沸き上がればいい。
 選手も観客も、紆余曲折しながらも前に進んでいる。民放のアナウンサーが3年前と比べてどうだったかは、見ていないので知らない。

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マックイーンは何と答えたか。

 『荒野の七人』がリバイバルで映画館にかかっているというので見に行った。ご存知、黒澤明の『七人の侍』を西部劇に翻案した作品だ。

 この作品を映画館で見るのは2度目になる。小学生時代の終りごろ、父親に連れられて日比谷で見た。今回のプログラムによれば、前回のリバイバル上演があったのは75年4月。ちょうど30年前だ。
 さほど映画好きだったわけでもない父親だが、その頃だけは何度か映画館に連れていってくれた。記憶しているのは『シンドバッド七回目の航海』『007黄金銃を持つ男』『ドラゴン危機一発』といったところ。書き出してみて気づいたが、私は今でも当時と似たようなジャンルの映画ばかり見ている。「三つ子の魂百まで」というから、もし百歳まで生きたとしても、私はずっと“映画秘宝派”なのだろう。

 野盗に収穫を奪われ続けることに耐えかねた寒村の農民が、侍=ガンマンを雇って野盗と戦う、という基本的なプロットは原典にほぼ忠実だ。激しい銃撃戦が繰り広げられる痛快な活劇であり、メキシコを舞台とするためか終始ラテン系の陽気な音楽が流れているけれど、作品全体を覆う空気は、静かな哀しみに満ちている。
 映画の中で、ガンマンが腕ひとつで世の中を渡っていける時代は、終りに近づいている。農民あがりの若いチコ(ホルスト・ブッフホルツ)を別にすれば、他の6人のガンマンたちは、優れた腕を持ちながら食いつめている。ヴィン(スティーブ・マックイーン)はガンマン稼業から足を洗って雑貨屋で働こうとするが断られる。オライリー(チャールズ・ブロンソン)は薪割りで日銭を稼いで、どうにか食いつないでいる。リー(ロバート・ボーン)は決闘で倒した相手の仲間に追われる逃亡生活で、安宿の親父に足元を見られて法外な料金を吹っかけられている。
 誰もがみじめな暮らしをしながら、しかし他に生きる術を知らず、生き方を変えることもできずにいる。
 ヴィンは「人々から信頼されて暮らすのが夢だった」と呟く。オライリーは、父親を「いくじなし」となじる村の少年たちを、「本当の勇気とは家族を守るために毎日畑を耕すことだ。俺にはそんな勇気はない」と叱り飛ばす。リーは夜毎に銃撃戦の悪夢にうなされる。リーダー格のクリス(ユル・ブリンナー)も彼らに共感している気配がある。
 野盗から村を守るこの戦いは、そんな彼らにとって、ガンマンである自分の存在証明にも似た意味を持つものとして描かれる。

 印象に残っている台詞がある。
 一度は野盗を撃退したガンマンたちだったが、野盗と一部の村人の計略にひっかかり、おびき出された隙に村を制圧されてしまう(ちなみに、このくだりは『七人の侍』にはない展開だ)。
 村人を人質に取った野盗のボスの、「このまま出ていけば命は助けてやる」という言葉に、ガンマンたちは屈辱の中で武装解除に応じる。
 ひとりづつガンベルトを外す7人に、得意げな顔でボスは問いかける。
 「頭のいいおめえたちが、どうしてこんな割に合わないことをしたんだ?」
 確かに報酬は一人当たり20ドルに過ぎない。村人たちに大した報酬が払えるはずのないことを、ボスはよく知っている。
 答えたのはヴィンだった。彼は軽口を叩くのが好きな男だ。
 「昔、サボテンに裸で抱きついた男がいてな。何でそんなことをしたのか、聞いてみたんだ」
 「それで?」
 「その時はそうするのがいいと思ったんだ、とさ」
 そう言うと、ヴィンはクリスと視線を交わす。あんたに付き合ってここまで来て、こういうことになったが後悔はしていない。ヴィンは無言のうちに、そう伝えているのだと感じた。

 人間、生きていれば必ず間違いを犯す。判断を誤ったと後悔することも少なくない。あの時ああしておけばと、くよくよ考え続けることもある。
 そのたびに、私は胸の中で呟いてきた。
 
 <その時は、そうするのがいいと思ったんだ。>
 
 だからといって何かの言い訳になるはずもなく、事態が好転するわけでもない。ただ、自分にそう言い聞かせることで、後悔の堂々めぐりに区切りをつけ、前を向くことができるような気がしていた。
 この言葉は私にとって、大事な格言のようなものになっていた。

 ところが。
 映画館で見たその場面、字幕には「面白いと思ったそうだ」などと書いてある。台詞そのものは正確には聞き取れなかったが、good ideaがどうとか言っていたから、字幕は直訳に近いのだろう。
 となると一体、私の記憶はどこから来ているのだろう。前回リバイバルの字幕なのか、過去のテレビの吹替えなのか。それとも、時間が経つうちに、自分の頭の中で勝手に作り上げた台詞なのだろうか。
 いまいち釈然としないが、まるっきり間違っているわけでもなさそうだ。池谷裕二『発達しすぎた脳』によれば、あいまいに情報を蓄え、抽象的に有用化して保存するのは人間の脳の特徴だそうだから、このケースでも、そういう機能が働いたことにしておこう。
 というわけで、私の中では今でも、マックイーンは「その時は、そうするのがいいと思ったんだ」と答えたことになっている。

 この映画を久しぶりに見た今回、強い印象を受けたのはジェームズ・コバーン扮するブリットだった。
 ナイフ投げの達人ブリットは寡黙だ。ガンマン稼業への倦怠を口にすることもない。他のガンマンたちのように“村を守る”ことに意義を見いだしてやってきたというよりも、ブリットは、ただ戦いを求めて参加したように見える。
 野盗に武装解除されて村を追われ、山中で銃を地面に放りだされて釈放された時、真っ先に「誰も止めるな。俺は行く」と報復を宣言したのも彼だった。
 ブリットの人生にはブレがない。たとえ将来に何の見通しもなかったとしても、自暴自棄になる気配は微塵もない。

 若い頃の私は、ほろ苦い台詞を口走るヴィンやオライリーが好きだった。人生の哀歓を感じさせてくれた彼らと比べると、ブリットはあまりに単純なキャラクターに見えた。
 だが、不惑の年齢を迎えても迷いっぱなしの人生を送っている今となっては、むしろブリットの迷いのなさが好ましく映る。たとえリアリティには乏しくとも、自分には手の届かないシンプルで強靱な心性に、憧れを抱く。

 「子供に夢を与えよう」と人は言う。大臣も、経営者も、市民運動家も、プロ野球入りが決まったばかりの高校生も、誰もが言う。
 だが、子供は放っておいても夢を見る。
 映画や小説やスポーツから夢を与えられることを本当に必要としているのは、自力で夢を見ることなど忘れてしまった大人の方なのかも知れない。

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ドーハの「悲劇」が残したもの。

 最近、と言っても、すでに1、2年前のことになるが、CS局フジテレビ739が「日本サッカー黄金伝説」と題して、93年に行われたワールドカップ・アメリカ大会最終予選を連続放映したことがあった。

 この再放送で、日本-韓国戦を見ていて驚いたことがある。
 ご承知の通り、この日韓戦はカズのゴールで1-0で勝ち、最後のイラク戦にアメリカ行きの希望をつなげた試合だった。
 場面は1点をリードした終盤。何が何でも逃げ切りたい状況の中で、カズ(もしかしてラモスだったかも)がサイドからゴール前に放り込んだ。受ける者はいない。ボールは韓国側に渡った。
 このクロスが蹴られた直後、オフト監督が血相を変えて立ち上がり、何やら叫ぶ姿が画面に映し出された。しかしアナも解説者も、このプレーやオフトの反応について、何も言及しない。何事もなかったかのようにゲームは進行し、試合終了とともに、中継は日本の勝利を祝った。

 覚えている方も多いと思うが、この次に行われた日本-イラク戦でも、同じようなプレーが繰り返されている。
 1点リードして、このまま逃げ切ればワールドカップ出場が決まるという終盤に、武田が右サイドから蹴ったクロスが、そのまま相手に渡り(正確にいえば一度取り返した後、ラモスの縦パスがDFに阻まれて)、逆サイドから反撃を受け、シュートをGK松永が辛くもはじいてコーナーキック。そして同点劇へと試合は進んでいった。
 当時、右サイド深くでフリーになりながら相手DFにパスを出してしまった武田は、ずいぶんと批判を受けた。「じっくりボールをキープして時間を稼がなければならない状況で、相手にボールを渡すとは何事か」と声高に非難する人は多かったし、私も同じような不満を抱いた記憶がある。

 だが。同じくらい食い入るように集中して見ていたはずの韓国戦で同じプレーがあったことについて、私は全く覚えていなかった。
 私だけが間抜けだったのならいい。だが前述の通り、アナウンサーも解説者も、そのプレーを危険だと認識してはいなかった。
 だとすれば、これは武田ひとりのミスではない。同じようなプレーはおそらくは他の試合でも繰り返され、見過ごされてきたのだろう。気づいた人もいたかも知れないが、修正されることはなかった(監督のオフト自身、気づいてはいても次の試合で防ぐことができなかった)。
 メディアもファンも含めた日本サッカーの水準が、当時はその程度だったのだと考えざるを得ない。それが、「悲劇」と呼ばれたものの正体だった。

 今では、U-20の大会や高校サッカーでも、リードした側の選手が試合終盤、相手コーナー付近でいやらしくボールをキープして時間を稼ぐというプレーが、当たり前のようにされている。たぶん、彼らは11年前に、テレビの前であのプレーを見たはずだ。あるいは、あのプレーを見た指導者に、リードした終盤の逃げ切り方について厳しく叩き込まれているはずだ。
 あの時、ドーハのピッチに立っていた日本人は11人に過ぎない。だが、数えきれないくらいの日本人が己の痛みとして体験したあの瞬間は、日本サッカーそのものの記憶として刻み込まれている。ヴェルディの森本のように、当時小学校にさえ上がっていなかった年代の選手たちにも、それは何らかの形で共有されているのだろうと思う。


 29日に行われたカザフスタン戦の結果に対して、「勝って浮かれ過ぎているだけでは、本番に突入した時に、痛い目に遭うことを忘れないでもらいたい」と声高に書き立てた辛口評論家がいた。これを読んで、金子達仁の「喜びすぎたチームは次に負ける理論」を思い出した。
 この「理論」は金子の一種の持ち芸で、彼はワールドカップ・フランス大会のころから、何かといえば持ちだし続けてきた。日韓大会で日本がロシアに勝った翌日の新聞にも、金子は「喜ぶな」と書いた。
 彼がこの「理論」の根拠として挙げるのは、たとえばドーハの「悲劇」であり、あるいはマイアミの奇跡的勝利の後の敗戦である。

 そのドーハやマイアミの後、各年代の日本代表は何を経験してきたか。
 99年4月、ワールドユース。グループリーグの初戦で敗れたが、続く2試合を連勝し、トーナメントを勝ち上がって決勝に進んだ。
 99年7月、コパアメリカ。2敗1分、グループリーグ敗退。
 2000年9月、シドニー五輪。グループリーグに2連勝しながら勝ち抜きが決まらない。3試合目のブラジルに負けたものの、得失点差で辛くも決勝トーナメントに進出。1回戦で延長の末PK負け。
 2000年10月、アジアカップ。ほぼすべての試合に圧勝して、ぶっちぎりで優勝。
 2001年6月。コンフェデレーションズカップ。グループリーグに2勝1分けで勝ち抜き、決勝進出。

 トルシエが各年代の代表を率いた4年間だけをとってみても、日本代表は、およそグループリーグに起こりうる大抵のことを経験している。グループリーグにおけるヌカ喜びというものについても、彼らは実体験として、あるいは同時代的な記憶として、知り抜いている。もはや、同じ轍を踏もうとしても、油断することの方が難しいのではないか。
 2002年大会でロシアに勝った日本代表に、泣いている選手は(テレビで見る限り)いなかったし、試合後のインタビューでは「もう少し笑えよ」と思うくらいに誰も彼もが淡々としていた。
 次のチュニジア戦の結果については説明するまでもない。選手たちの経験は、4年前と同じ芸で原稿料を稼ごうとした無精なライターの想像を超えて、彼らを成長させていた。

 現在の日本代表の主な顔触れも、当時とさほど変わらない。
 ジーコが監督に就任してからの2年半は、決して順調に来たわけではない。格下の相手に苦しみ抜いた試合がいくつもあった。期待された結果を残せなかった大会もあった。それでも彼らは、2年間の歩みをアジアカップ優勝という成果に結びつけた。
 もちろん、カザフスタン戦の内容は完璧とはいえない。修正しなければならない点は、いくつもあると思う。
 だからといって、選手たちが勝利に浮かれているとも思えない。彼らは必要な準備を粛々と行なっているはずだ。

 最終予選を楽観するつもりはない。だが、過度に悲観する必要もない。
 私は彼らの力量を信頼している。
 そして、日本サッカーのこの12年の経験もまた、恃むに足るものだと思っている。
 少なくとも、最終予選に勝ち残ることを信じられる程度には。

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