ロバート・B・パーカー『ダブルプレー』早川書房
ジャッキー・ロビンソンの写真を初めて見たのは、もう20年以上前になる。ベースボールマガジン社から刊行された、大リーグ史上の名選手を紹介したムックに載っていた。強い意志が目の形をしてそこにある、そんな感じだった。それからずいぶん年月が経ったが、私は今も、あんな目をした人を他に見たことがない。もうひとり、ページをめくる手を止めた顔がロベルト・クレメンテだった。ロビンソンの目は力強く、クレメンテの目は透き通っていた。
その時の私が、彼らの名前や経歴を、よく知っていたわけではない。ただ、彼らの顔に惹き付けられて立ち止まり、それから、その男が何者であるかを知った。「男の顔は履歴書」とは、よく言ったものだ。
そんなわけで、書店で平積みになった本書の帯に「ジャッキー・ロビンソン」の名を見つけたら、素通りできなくなってしまった。ロバート・B・パーカーの小説は、ボストンの探偵スペンサーを主人公にしたものを2、3読んだことがある。パーカーがロビンソンを書いたということ自体に、ひとつのイベントじみた楽しみを感じた。浦沢直樹が「鉄腕アトム」を描く、というような。
厳密に言えば、この小説の主人公はジャッキー・ロビンソンではなく、架空のボディガードだ。
時代はもちろん1947年。第二次大戦下、ガダルカナル島で日本軍に撃たれて重傷を負った主人公バークは、帰国したものの妻に逃げられ、ケガから回復した後も心を閉ざしたまま生きていた。成り行きのままにボクサーになり、ニューヨークの富豪の娘のボディガードになり、そしてGMブランチ・リッキーの依頼を受けて、ブルックリン・ドジャースがニグロリーグから引き抜いた初めての黒人メジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンのボディガードを引き受けることになる。
当時、伝統あるメジャーリーグに黒人選手が入ってくることを快く思わない者は、他球団にも、スタンドにも、そしてチームの内側にも少なくなかった。グラウンドの外でジャッキーを襲うトラブルから彼を守ることが、バークの役目だった。
ジャッキーと行動をともにするようになったバークは、地元ニューヨークや、遠征に訪れる先々の街で黒人差別の実態に直面する(しかも、ジャッキーとともに黒人街に足を踏み入れると、今度は彼自身が白人であるという理由で差別を受ける)。そしてジャッキーに、そしてバーク自身に次々とふりかかる災厄と対決することになる。
プレー場面はほとんど描写されないが、野球場や選手たちの雰囲気は伝わってくる。1947年という時代の空気も。
(最近、『サウスポー・キラー』という野球ミステリーを読んだが、野球小説としてもミステリとしても中途半端なのが残念だった。主人公の投手が試合で投げる場面が何度も出てくる『サウスポー・キラー』よりも、ほとんどプレー場面を切り捨てている本書の方が、ずっと野球の匂いがするのだから不思議だ。実名の英雄のイメージを借用している有利さはあるにしても)
ここに描かれているジャッキー・ロビンソンは、自伝その他で私が知っている彼の姿を裏切ることがない。そして、そんな類い稀な人物と出会い、通じ合うことによって、心を凍らせていたバークも変わっていく。
小説のプロットや結末は、いささかあっさりしたものだ。もともとは短編小説だったものを膨らませて長編にしたそうだが、たぶん短編のままなら傑作なのだろうと思う(読んでもいないものを褒めるのも無茶な話だが)。本書はまずまずというところ。いい小説なのだが、やや冗長な感じがある。
しばしば挟み込まれるパーカー自身の少年時代の思い出話は、私には余計なものに思えた。ただし、パーカーがどうしても自身とジャッキーを共演させたかったのなら仕方がない。
それに、こういう形で刊行されなければ、そもそも私はこの物語と出会うことがなかったのだから、長編化されたことに文句を言う筋合ではない。
菊池光の翻訳には、かなり問題がある。近年のディック・フランシスの作品についても感じていたことだが、日本語としてあまりにこなれていない。
私の書く文体に影響を与えたものがあったとすれば、それはギャビン・ライアルやディック・フランシスの小説であり、つまりはそれらを翻訳した菊池光が書いた日本語である。師ともいうべき人物に対してこういうふうに書かなければならないのは残念だが、本書を別の翻訳で読んだら多少異なる感想を抱くかも知れない、という疑念を私は拭いきれずにいる。
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