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美を採点するという困難。

 ちょっと前の話だが、False Startで、マイク松さんがフジテレビのフィギュアスケート世界選手権に対して激昂していた(いや、たぶん今もしてると思うが)。

 私はこのところ出張続きで、フィギュア選手権そのものも出張先のホテルで仕事しながら見ていたので、幸いにもアナウンサーの妄言にまで気が回らなかったのだが、試合前の夕方に、安藤美姫ひとりに密着した前触れ番組を延々とやっていたのには驚いた。一瞬、この大会に日本人は安藤しか出ていないのかと誤解しそうになった。
 自局のCMに安藤を引っ張り出して「きっかけは云々」と連呼させているのも感心しない。まして大会前のアマチュアの10代の選手に、あそこまでカメラがくっついていることは、決して本番でのパフォーマンスに益するものではないだろう(と結果が出てから言うのもナンだが、たとえ安藤が優勝したところで、この考えは変わらない。彼女はプロではないのだ。報道の範囲を超えてまで取材に協力するのは、彼女の仕事ではない)。
 株を買収されそうになるとトップが慌てて「報道の使命が云々」と口走るテレビ局が、人気競技の世界選手権中継をここまで台なしにしているようでは、お里が知れる。ライブドアの堀江社長がフジテレビを支配したとしても、あれ以上にちゃらちゃらした大会中継をするのは難しいに違いない。
 というわけで、松さんの怒りには同意する。

 ただ、正直なところを言うと、私は「芸術点」やそれに類する採点基準を備えた競技について、狭義のスポーツとはいささか異質なものではないのか、という考えを拭いきれずにいる。

 フィギュアスケートは、つぶさに論評できるほど詳しいわけではないが、カタリナ・ヴィットやビールマンに魅了され、スコット・ハミルトンやキャンディロロやヤグディンを楽しんだ、と何人かの有名選手の名を挙げられる程度には見てきた。
 いちばん好きなのは競技の後に行われるエキシビションだ。そこでは、戦いから解放された選手たちが滑る喜びを体いっぱいに表現し、のびのびと持てる技量を披露する。観客とも一体感があり、とてもいい雰囲気だ。
 一方、競技そのものでは、配点を計算したプログラムを順次消化しなければならないという制約があるし、何よりも勝負の重圧が動きを硬くする。緊張から、あるいは難しい技を試みてミスを犯す選手も多く、その意味を選手も観客も知っているだけに、雰囲気は重苦しくなっていく。競技を見る際の気分は、パフォーマンスを楽しむというよりも、ともすれば勝者と敗者が決する瞬間に向けた残酷な興奮に傾いていく。

 たとえばサッカー選手にも、大きな大会の決勝戦では互いの良さを封じ合って退屈なプレーに終始し、エキシビションマッチではそれぞれの技量を存分に発揮する、という現象が起こりうる。似ているといえば似ているけれど、サッカーの勝敗を分けるのは得点であって、身体表現ではない。
 フィギュアスケートは身体表現そのものを競う競技なのだ。チャンピオンシップという形式をとることが身体表現の魅力を減じるのだとしたら、それは本末転倒ではないか。本大会よりも余興の方が魅力があるというのは健全なことではない(余興の方がいいと思うのが私だけなら仕方ないけれど)。もちろん、そんな厳しい状況を乗り越えて持てる力を発揮する瞬間の美しさを、否定するものではないけれども。

 同じような印象は、新体操やシンクロナイズド・スイミングにも抱いている。
 シンクロナイズド・スイミングを見るたびに思うのは、あれほどの努力と鍛錬を重ねた成果が、あんなに滑稽なパフォーマンスでいいのだろうか、ということだ。この競技のルーツは映画『水着の女王』などに見る水中バレエと同根と聞く。映画の方は、さほど超絶的な技巧ではないけれど、素人目にも美しい。それが競技化されて高度な技を競ううちに珍妙な表現に向かっているのだとしたら、このスポーツは、全体としてどこかで道を誤ってはいないだろうか。

 フィギュアスケートや新体操は、幸いにも、そこまで行ってはいない。五輪や世界選手権での優勝争いは、普通の観客の目から見ても美しいと思える表現に留まっている。
 だが、ひところの新体操には、身体能力の高い少女の曲芸ばかりが上位を独占し、美しく豊かな演技力をもったベテラン選手は決してトップに立てない、という状況があったように思う。たぶん、採点基準が技術面に傾きすぎて、美しさが軽視された時期だったのだろう。
 新体操もフィギュアスケートも、採点基準は「技」と「美」との間を揺れ動いているように見える。「技」の配点を減らして「美」の配分を大きくすれば、採点者の恣意性に左右されかねない。恣意性を減らそうとすれば、採点項目の細分化が進み、選手をがんじがらめに縛り付けて、試合でのパフォーマンスは「美」から遠ざかっていく。

 つまるところ、それらはバレエやダンスといった身体芸術の一分野であることがふさわしいにもかかわらず、スポーツの枠組みの中にいるばっかりに、本来の魅力から離れたところに向かっているのではないか。いっそバレエやダンスのコンクールのように、細部は省いて最終的な順位だけを審査すれば、このジレンマは解消するが、それをやったらたぶん、五輪競技にとどまることはできなくなる。


 今年の正月、代々木体育館に「スターズ・オン・アイス」というアイスショーを見に行った。生まれて初めて会場で見るフィギュアスケートだったが、それはそれは素晴らしいものだった。アレクセイ・ヤグディン、サラ・ヒューズらソルトレイク五輪のメダリストたちが、美しい照明に演出され、観客を楽しませながら高度な滑りを見せてくれた。2万円を超えるべらぼうな金額のチケットだったが、一生に一度フィギュアを見るなら今日だろう、と腹をくくった甲斐があったと心底思う。

 近年のフィギュアスケートでは、欧米の五輪メダリストたちの多くはプロになり、アマ時代よりもはるかに長い期間にわたって活躍しているようだ。今やフィギュア選手にとって、五輪のメダルはプロへのパスポートのような位置づけにあるのではないか。プロに転向していないクワンやスルツカヤも、しばしばアイスショーに出演し、おそらくはかなりの収入を得ている。
 アマの間は修業期間で、五輪は顔と名前を売る場であり、表現する喜び(と収入)はプロ入りしてから味わえばよい。そういうふうに選手たちが割り切ってしまえるのなら、私がここまで書いてきたジレンマは無視することができる。観客にとっても、普段はショーを楽しみながら、時々行われる真剣勝負に別な楽しみを見いだす、という棲み分けが可能になる。
 それに、ここまでは五輪競技であることのデメリットばかりを書いてきたが、逆に五輪競技にとどまってきたからこそ、フィギュアスケートの技術が絶えず向上してきた、というメリットもあるに違いない。

 しかし、だとしたら日本人選手にとってのフィギュアスケートとは何なのか、という問題が残る。佐藤有香のようにアメリカに住んでプロに進む道を選べる選手は、そう多くはないだろう。
 五輪や世界選手権やグランプリの同じ舞台で競っていても、日本人と欧米の選手は、拠って立つところが全く違うのかも知れない。
 「スターズ・オン・アイス」には荒川静香、本田、高橋ら4人の日本人選手がゲスト出演した。滑る喜びを観客とわかちあうという点で、安藤は群を抜いていた。プロとしては大事な美質だ。だが、それは現在の彼女の戦場においては、さほど大きなウエイトを占めてはいない。

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コメント

鉄さん、引用ありがとうございます。うれしいです。あのVTRはいつみても新鮮な気持ちでつっこめますので、つっこみの練習とかには最適です。

今回の記事はほんと、フィギュアスケートの本質を突くもので、感服しました。北米と比べて愛すショーの数は日本は非常に少なく、日本ではプロスケーターだけでは食べていくのは難しいのが現状だと思います。変わっていければいいと思うのですが。

採点システムについても、長野では美を追究したミッシェル・クワンを抜いて、高度なジャンプのみのちびっこが金メダルをとったりしてみんな苦々しい思いでしたが、ソルトレイクの不正採点問題で、今の新採点システムはある程度、芸術的な側面を拾えるようなものになっています。体操と同じようなシステムで気詰まりだという意見もあるのですが。

投稿: 富井と松 | 2005/03/30 14:40

>富井と松さん
コメントありがとうございます。TBさせていただこうと思ったんですが、なぜか管理画面でTB機能が見つからなくて…。回復したら、しておきます。

>日本ではプロスケーターだけでは食べていくのは難しいのが現状だと思います。変わっていければいいと思うのですが。

リンクサイドで見ると、あっという間に遠ざかって、また近づいてくるあのスピード感は、どんな舞踊にも真似のできないダイナミクスがありますね。エンタテインメントとしてはかなりのもので、需要はあると思うけれど、問題は施設不足でしょう。「スターズ・オン・アイス」は代々木体育館でしたが、公立の体育施設でやっている限り、客席で酒も飲めないし。

>今の新採点システムはある程度、芸術的な側面を拾えるようなものになっています。体操と同じようなシステムで気詰まりだという意見もあるのですが。

選手にとっては、リアルタイムで配点を計算し、演技内容を微調整しながら顔はニッコリ、という冷徹さが必要とされるのでしょうね。まさにアイス・ドール。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/03/30 18:41

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