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2005年4月

楽天に関根さんを。あるいは「1勝5敗の勝者論」。

 楽天のマーティ・キーナートGMが解任されたという。率直に言って、驚いた。

(前略)球団創設から携わるキーナート氏は、「球団の顔」として地元仙台にとどまらず幅広くPRに貢献してきた。しかし、GMの重要任務である編成部門では期待された外国人選手獲得ルートの乏しさもあり、十分機能しなかった。
 そこで、編成部門は広野功GM補佐が統括する形に変更。キーナート氏をGM職から、営業面やファンサービス拡大を補佐する「球団アドバイザー」に転じさせ、役割分担の明確化を図った。「アドバイザー」の肩書はあるが、外国人の不振などの責任を取った事実上の降格人事だった。(後略)(日刊スポーツ) - 4月29日9時57分更新

 この報道が事実なら、感心しない。

 私は彼が楽天のGMに就任した時に、スポーツライターとしての彼が書いた文章を徹底的に批判したことがある。ゼネラルマネジャーとしての手腕に対しても懐疑的だった。
 だが、実際に球団が動き出してみると、チームの戦力を整えるというGM本来の職務をしているのは広野編成部長で、キーナートGMは、実際には営業部門と外国人選手を担当しているようだった。安くて優秀な外国人選手を獲得する手腕が彼にあるとは思えなかったが、主に営業をやって、「ボールパーク構想」の実現を手がけるのであれば、それはそれでいいのではないかと思った。
 だから、上記の記事のようにキーナートと広野の持ち場を整理するというのは、適切な措置だと思う。

 私が「感心しない」と思ったのは、「解任」という言葉が一人歩きすることだ。球団はたぶん「解任ではない」「降格ではない」と言うだろうけれど、GMという肩書を彼から剥がすのなら、世間に「解任」「降格」と言っているのと同じことだ。
 それはつまり、せっかく、さまざまな地元メディアやイベントに顔を出し、親しまれ始めていた球団の広告塔としての彼の値打ちを、自ら暴落させることに等しい。「チーム不振の責任を取らされて降格された」人物を、誰がイベントに招きたがるだろうか。実利を求めるなら、GMという肩書は変えずに、役割分担だけを変えればよいではないか。チームの編成をしない人物にGMの肩書を与えるのはインチキだが、この非常事態に、そのくらいのインチキは仕方がない(というより、もともと彼がチーム全体を編成していたわけではないのだから、この肩書は最初からインチキなのだ)。
 この人事には懲罰の匂いがする。三木谷オーナー自身の突然の坊主頭もそうだが、巷間伝えられる楽天という企業グループの「体育会系体質」を思わせる出来事で、よい印象は受けない。

 私が東北楽天ゴールデンイーグルスという球団に期待していたのは、野球の試合で好成績を収めることではない。「成績は悪くても、そこそこ儲かる」というビジネスモデルを確立してくれることだった。そういう考えを抱くようになったのは、『エスキモーに氷を売る』という本を読んでからだ。

 プロスポーツ球団の経営において、「チームが強ければ人気が出て儲かる」という考え方には、二重の意味で無理がある。
 第1に、現実にはそんなことはない(笑)。70年代の阪急ブレーブス、80年代の西武ライオンズ、あるいは昨今の横浜マリノスなど、反証には事欠かない。
 第2に、仮にそれが事実だとしても、優勝するチームは年に1つしかない。1,2の強豪を除けば、他のチームは弱い。弱ければ儲からない、という経営をしていたのでは、儲からないチームの方が常に多数派になってしまう。これではリーグとして立ち行かなくなる。

 従って、プロスポーツクラブに必要なのは、「弱くてもそれなりに儲かって経営は回っていく。強い時には、もっと儲かる」という状態を作ることだ。実際にJリーグには、そういうクラブもいくつか実在している。
 三木谷オーナーには、そういう球団経営を目指し、これからの球団経営のモデルケースになってもらいたいと思っていた。

 実際のところ、今年の楽天ほど、負けることが社会的に許容されるチームは珍しい。
 戦力が足りないことは、誰もが知っている。まさに協力を惜しんだ球団たちが、楽天を叩きのめし続けている。地元の判官びいき感情を育てるには絶好の筋書きではないか。しかもJリーグと違って、パ・リーグに入れ替え戦はない。たとえ100敗したところで、来シーズンはやってくる。
 それならば、負けても、いや、負ければ負けるほど世間の関心や人気が高まり、観客が押し寄せる、そんなチームを狙うことさえ、今年の楽天ならば可能なのだ。そして、最低最悪の初年度からスタートすれば、来年以降は、ちょっと勝っただけで誰もが幸せになれる。「地元ファンとともに苦難を乗り越える成長物語」の条件を労せずして手に入れることができるのだ(浦和レッズの優勝があれほど盛り上がったのは、初期の「Jリーグのお荷物」状態からの歴史も一役買っているはずだ)。

 そんな球団を率いるのにもっともふさわしい人物が、日本にひとりだけいる。
 関根潤三である。

 ヤクルトの監督時代、彼はチームが勝とうが負けようがおっとりと構えて、池山や広沢がどれほど三振しまくろうとフルスイングすることを許し、とうとう日本を代表する打者に育て上げた。関根さんが育てた人材を引き継いで、野村克也が「勝つ監督」として黄金時代を築いたのが90年代のヤクルトである。『一勝二敗の勝者論』などという無茶なタイトルの本を書けるのは関根さんのほかにはいない。
(当blogは原則として敬称略だが、彼だけは「関根さん」と呼ぶことをお許しいただきたい)。
 80歳に近い関根さんに監督をやらせろとは言わない。だが、一昨年までニューヨーク・ヤンキースのベンチにいたドン・ジマーのような役割を、彼なら果たせるのではないか。関根さんが田尾の相談役としてベンチに座っていたら、それだけでチーム内外のギスギスした雰囲気は、だいぶ緩和されるのではないだろうか。現在のコーチ陣とは世代的に一回り違うので軋轢も生まれようがないだろう。田尾とは「プロ野球ニュース」仲間だし。

 というわけで、三木谷オーナーには、どうしてもコーチ人事をいじりたいのなら、関根さんに相談してみることをお勧めする。引き受けてもらえなかったとしても、関根さんと話せば、連敗なんて大した問題じゃないような気分には、なれると思う。

 それより何より、関根さんには似合うと思うんだよな、あの臙脂のユニホーム。

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坊っちゃんというよりは、うらなりっぽい古田だが。

 古田敦也が2000本安打を打ったのは、愛媛県松山市の坊っちゃんスタジアムだった。もし記録達成地を予想するトトカルチョがあったとしたら、この結果は、ずいぶんと高倍率になったに違いない。

 実はこの春、このスタジアムを訪れたことがある。仕事のついでにちょっと立ち寄っただけで、つぶさに見たわけではない。グラウンドでは、地元の高校が試合をしていた。
 松山市街から少し離れた、川のほとりの大きな公園の中に、さまざまなスポーツ施設が設置されている。坊っちゃんスタジアムの隣には野球専用のサブグラウンドがある。土産物の菓子だろうが路面電車だろうが「坊っちゃん」と名付けずにいられない松山市民は、当然のようにサブグラウンドをマドンナスタジアムと呼称しているが、だからといって他の施設が「山嵐武道館」だったり「赤シャツ競輪場」だったりするわけではないのでご安心を。
 財政的には、競輪場の収益で他の施設を維持しているのだそうで、それはそれで結構な話ではないかと思う。勘違いした市民団体が「子供が訪れる公園にギャンブル施設はふさわしくない」などと言い出さなければよいのだが。

 四国アイランドリーグを名乗る独立リーグが四国を舞台に選んだことからもうかがえるように、もともと愛媛県は野球に熱心な土地だった。松山商は高校野球の古豪だ。野球王国と言われた歴史を反映して、坊っちゃんスタジアムの正面入口の両脇には、小さな野球歴史資料館がある。

 今、書店に並んでいる「米国野球小僧」(白夜書房)に東京中日スポーツの大ベテラン松原明記者が書いている「全米[ベースボール博物館]巡礼の旅」という記事によると、MLBの野球場の多くに、その土地やチームの過去の歴史を記念した展示コーナーやモニュメントが設置されているという。ヤンキースタジアムの外野フェンスの向こう側に、ベーブ・ルースら過去の大選手のプレートが飾られているのをテレビで見た人は多いはずだ(ブルペンに近いので、ヤンキース時代のクレメンスが、よく登板前のおまじない代わりにルースの像を触っていた)。
 日本の野球場では、東京ドームの野球体育博物館を別格とすれば、あまりその種のものは見られない。あったとしても、その球場が出来てからの歴史に限定されていたりする。本当はそんなケチくさいことでなく、その土地の野球の歴史をそっくり引き受けてもらいたいと思う。

 その点では、坊っちゃんスタジアムの展示は、プロの常打ち球場と比べても、類を見ない充実ぶりといってよい。
 向かって右側は、愛媛県のアマチュア野球の歴史が展示されている。入口を入ると、いきなり正岡子規の等身大の人形がある。子規は松山の出身で、学生時代に野球に熱中した。野球をテーマに詠んだ歌もあり、私は「今やかの三つのベースに人満ちて そゞろに胸のうちさわぐかな」という一首がとても気に入っている。
 そして、県内の高校の甲子園での戦績が大きな年表になり、それぞれの時代に沿った写真や盾、用具などの記念品類が多数展示されている。猛牛こと千葉茂も松山商の出身で、2002年にプロ野球のオールスターゲームを招致した際には、ずいぶんと尽力したと聞く。

 左側は、この球場で開催された試合や、県出身のプロ野球選手に関係する展示。西本聖らが提供したグラブやサインボール、そして、オールスターゲーム関係の展示があるが、率直に言って、反対側のアマ野球の展示に比べると、かなり見劣りがする。四国アイランドリーグや愛媛マンダリンパイレーツの展示がどちら側になるのかわからないが、このままではせっかくの貴重なスペースも宝の持ち腐れ、というのが、プロ側展示コーナーの率直な感想だった。

 だから、古田が2000本安打を松山で達成したと聞いて私が思ったのは、「あの博物館に展示物が増えるな」ということだった。
 もちろん、ヤクルトファンにとっては、できれば神宮で達成してほしかっただろうと思う。古田自身もそうかもしれない。だが、かの地には、そんな素敵なスペースがあるのだ。たぶん、サインボールか何か、記念の品物を古田は置いていったに違いない。
 坊っちゃんスタジアムがある限り未来永劫、古田の2000本安打の記念品が展示されているのだと思えば、それはそれで嬉しいことではないだろうか。
 古田がライトスタンドに投げ込んだ2000本目のボールをキャッチしたのは地元の人だそうだから、いつかその資料館に、記念のボールを(委託でいいから)展示してくれるといいなと思っている。
 スタジアムの良し悪しは、建てられた時のスペックだけで決まるわけではない。そこで試合が行われ、思い出が積み重ねられることで、単なる建築物から夢の砦へと育っていくのだ。


追記(2005.12.20)
坊っちゃんスタジアムの正面入口前には、11/13に古田の2000本安打を記念する石碑が建ったそうだ(詳細はこちら)。やっぱり松山で打って良かったでしょ、古田さん。

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5月になれば彼は。

 ときどきアクセス解析で検索語ランキングを眺めると、依然としてジョン・オルルッドの消息を求めて当blogへやってくる方が多いようだ(それとも同じ人が何度も来てるのだろうか?)。
 以前、コメント欄で問い合わせをいただいたかずひささんが、過去のエントリーのコメント欄に貴重な情報を寄せてくださった。ボストン・レッドソックスが彼に関心を示しているらしい。情報源であるESPNの記事を見ると、足の故障が長引いているが、5月1日にはプレー再開の準備をはじめるらしい、とも書かれている。
 ボストンの一塁手は、ケビン・ミラー、控えのデビッド・マッカーティともに右打者だし、K・ミラーは守備が下手なので、左打者で守備のいいオルルッドなら出場機会はありそうだ。
 同好の皆さん、期待して待ちましょう。

 …ってことは、同じ左の一塁手ロベルト・ペタジーニにはチャンスなし、ということか(彼も3月に膝を故障して手術したらしい)。


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ジーターを見ていればわかること。

 私がニューヨーク・ヤンキースに肩入れするようになったのは、2003年に松井秀喜が加入してからだ。はっきりいえば「松井がいるチーム」だからという理由に過ぎない。初年度の松井がマイナー落ちしていたら、私はコロンバス・ヤンキースに肩入れしたはずだ。
 それまでは、私にとってヤンキースは、いけすかない敵役だった。カート・シリングとランディ・ジョンソンの剛腕がヤンキースを下した2001年のワールドシリーズでは、ダイヤモンドバックスの勝利に快哉を叫んだものだ。

 そのころ、ヤンキースについて不審に思っていたことが、ひとつある。デレク・ジーターはどうしてあれほど高く評価され、人気があるのだろうか、ということだ。
 当時、アメリカン・リーグは空前の遊撃手豊作時代だった。2年連続首位打者のノマー・ガルシアパーラ(レッドソックス-現カブス)、50本塁打を楽々打つアレックス・ロドリゲス(マリナーズ-レンジャーズ)。ミゲル・テハーダ(現オリオールズ)もアスレチックスで売り出したころだ。3割15本くらいのジーターは、好打者とはいえ、ガルシアパーラやA-RODの打棒に比べると影が薄い。オールスター出場もゴールデングラブ賞も、この2人が分け合うことが多かったと記憶している。

 それでもジーターは彼らと並び称されていた。人気の上では上回っていたかも知れない。ジーターは「ニューヨークでもっとも女性にもてる独身男性」と呼ばれる当代のスーパースターで、それがなぜなのか、私にはよくわからなかった。日本でも似たような現象が起こるように、ニューヨークの人気チームにいることで得をしているのだろうかと思っていた。

 2003年、松井がヤンキースに加わったことで、NHK-BSでヤンキースの試合を見る機会は格段に増えた。そして、毎日彼のプレーを見ているうちに、私は、なぜジーターがそれほどまでに評価されるのか、だんだんとわかるような気がしてきた。

 まず目に付くのは、守備の巧さだ。
 守備範囲が広く、捕球が巧みなだけでなく、ジーターはどんな体勢からでも正確に送球することができる。バックステップしていようが、飛び上がっていようが、逆足だろうが関係なく、ジーターの送球はまっすぐに一塁手に向かっていく(あの下手なジアンビが一塁手として務まってきたのは、ジーターの送球の正確さに負うところが大きいと思う)。よほど腕が強く、強靱な方向感覚を備えているのだろう。

 そして、走塁には、単に巧みだとか速いとかいう以上の凄みがある。
 2003年7月のインディアンス戦だった。速球投手サバーシアに手こずっていたヤンキース打線は、5回裏にやっとチャンスを作る。3-4と追い上げて二死満塁、打者ジアンビ。カウントは3-2。一塁走者のジーターは、投手が足を上げた途端に全力疾走する。ジオンビーは2球続けて三塁側にファウルを打ち、そのたびに二塁ベースを駆け抜けたジーターは、ゆっくりと一塁に戻る。「シングルヒットでも帰って来るのでは」とアナウンサーが揶揄する。
 次の球をジアンビがセンター前にはじき返すと、ジーターは本当にホームに帰ってきた。クロスプレーではない、楽々の生還だ。「走者一掃のセンター前ヒット」など、そうしょっちゅう見られるものではない。
 フルカウントからの投球にスタートを切るのは当然にしても、ジーターは3度とも、本塁まで走り抜くつもりでスタートを切っていたとしか思えなかった。
 サッカーで湯浅健二が言う「クリエイティブな無駄走り」に該当するプレーが野球にあるとしたら、それがこれだ。そして、ジーターはそんなプレーを忠実に、手を抜かず、機会がある限り何度でも、全力でやり通す。

 ほんの4年前の出来事なのに、すでに伝説と化したプレーがある。
 舞台は2001年のディビジョンシリーズ第3戦。ヤンキースはアスレチックスに2連敗を喫していた。1-0でリードした七回。守っていたヤンキースは、二死一塁からライト前にヒットを打たれる。右翼手スペンサーからの本塁送球が、一塁ファウルグラウンドに大きくそれた。誰もが同点を覚悟した時、ジーターがこの送球を拾って本塁にトスし、走者を仕留めた。ヤンキースはこの試合を逃げ切り、3連勝で逆転でALCSに駒を進めた。
 これは、ありえないプレーだ。一塁側ファウルグラウンドは、遊撃手が足を踏み入れるエリアではない。いるはずのない場所に、しかしジーターは走り込んでいた。彼が常に集中力を絶やさず、次に起こることに備える姿勢を持った選手だからこそ、外野手の暴投に瞬時に反応することができた。

 ここに、ジーターの真骨頂があり、卓越したリーダーシップの源泉がある。
 ジーターは優勝する人気チームにいるからもてるのではない。チームを優勝させる選手だから、もてるのだ。私はそう思うようになった。
 MLBにもそういうタイプの選手がいるのだということ、そして、その選手を高く評価し、揺るぎない信頼を寄せる監督がいるのだということは、私にとって大きな発見だった。
 ご存知の通り、松井もまた、ジーターに似た価値観で動いている選手である。
 2002年秋の松井に幸運があったとしたら、それはヤンキースに入団できたことではない。入団したヤンキースに、松井の価値を理解し評価することのできるジョー・トーリ監督とデレク・ジーター主将がいたことだ。
 2003年夏の終わりごろ、いささか打棒に疲れの見えた松井について報道陣から聞かれたトーリは、「毎日見ていれば、彼の良さがわかる」と答えた。その言葉は、そのままジーターにもあてはまる。

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「投げる文化遺産」の彼我。

 シーズン前にどの選手名鑑を買うかというのは、野球好き、サッカー好きにとっては、一考を要する課題ではないだろうか。
 私は日本のプロ野球については、何も考えずに週刊ベースボールが2月中旬に出す「名鑑号」を購入する。個々の選手についての記述はさほど多くはないが、必要にして十分。もう四半世紀くらい使い続けているので、すっかりこの書式に馴らされてしまった。なにしろ、25年以上もの間、名鑑の書式をほとんど変えていないのだ。

 サッカーでは、それほどの決定版がない。マガジン、ダイジェストの週刊2誌が、どちらも毎年のように微妙に書式を変えるので、なかなか落ち着かない。顔写真を妙に大きく使うのも好みではない。Jリーグ初期には小学館からA4変形判のオフィシャルガイドが出ていたが、途中から判型が変わったりして、何となく買わなくなってしまった。

 MLBの選手名鑑は、ここ数年、月刊スラッガーの名鑑号が一歩リード、という感じだったが、昨年、なかなか面白い名鑑が出た。広済堂出版の『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2004』というペーパーバックサイズの本。監修にマッシー村上雅則の名をもってきているが、実質的には編著者の友成那智という人が執筆している。
 どこが面白いかといえば、各球団十数人づつの主力選手を紹介した文章が、細かいエピソードや大胆な推測も交えた一編のコラム並みに書き込まれている。主観的な記述も多いので異論も出てきそうだが、成績データはきちんと併記されているので、文章は少々バランスを欠いても、選手の特徴をはっきり示してくれた方がいい。
(ちなみにソフトバンク入りしたバティスタについては、「見ていて楽しい選手だ。まず構えが最高だ」とある一方で、「こんな、オール・オア・ナッシングのバッティングをしていたら打率が上がるわけがない」とも記されている)
 今年も同じスタイルで2005年版が出たので、さっそく購入した。すでに増刷しているようで、喜ばしいことだ。できたら今後も毎年出して欲しい。

 さて、この友成が入れ込んでいることを隠そうともしないのが、レッドソックスのティム・ウェイクフィールドだ。2004年版の前書きには、「ナックルボーラーには『投げる文化遺産の継承者』として最大限の敬意を払っております」とある。今年のウェイクフィールドの項目を見ると、どうやら現在のMLBでナックルボーラーは彼ひとりになってしまったらしい。

 私がMLBを見始めた頃は、というのはフジテレビが大リーグ中継をやっていた70年代後半だが、ナックルボーラーが何人か元気に投げていた。
 代表格は、主にブレーブスで活躍した300勝投手フィル・ニークロで、実に48歳まで現役で投げ続けていた。1979年に両リーグのオールスターチーム(実に贅沢な企画だった!)の一員として来日した時に、後楽園球場でピッチングを見たが、外野席から見ても、ふわっと投げたボールが奇怪な曲がり方をしながら急激に落ちるのがわかった。
 同時代には、彼の弟のジョー・ニークロや、ドジャースなどで活躍したチャーリー・ハフなどもナックルボーラーとして名を馳せていた。今から思えば、当時がナックルボーラーの全盛期だったのかも知れない。

 ナックルボーラーとは、「ナックルボールを投げる投手」のことではない。「ナックルボールばかりを投げる投手」のことだ。
 ウェイクフィールドを見ればわかる通り、彼らが試合で投げる球は、9割方ナックルボールだ。投げる球、投げる球、すべてがへろへろっと曲がって落ちる。こういう投手に対しては、スピードガンなど何の意味も持たない。
 ナックルボーラーが好調で、球が激しく変化したあげくにきちんとストライクゾーンに決まるようなら、まともに打てる打者などいない。ナックルボーラーが不調で、変化のキレが悪ければ単なる棒球となってメッタ打ちにあうし、そうでなければストライクが入らない。どっちに転んでも試合は彼らの独り相撲なのだ。打者が少々努力したところで、試合の行方に大した違いは起こらない。

 つまり、ナックルボーラーは、野球というゲームのあり方を根底からひっくり返してしまう。たとえばカート・シリングが力投している試合に比べると、ウェイクフィールドが投げている試合は、悪い冗談としか思えない。ナックルボーラー専用の捕手というのもいて(レッドソックスにもミラベリという捕手がいる)、まるでファーストミットのような馬鹿でかいミットで、わけのわからない変化をする球を懸命に捕る。昨年のヤンキースとのリーグチャンピオンシップでは、延長でウェイクフィールドが登板したら、ナックルに慣れていない正捕手のバリテックは1イニングで3つもパスボールを犯した。プレーオフの延長イニングという緊迫の極みにある試合を、スラップスティック・コメディにしてしまうのがナックルボーラーという存在なのだ。

 彼らは野球に異化作用をもたらす。まだルールが固まらず、さまざまな可能性を秘めていた百数十年前を思い起こさせる。こういうものをジャンルとして残しているMLBの懐の深さにも感心する(フィル・ニークロと同時代には、スピット・ボールの名手として有名なゲイロード・ペリーという投手もいた。違反投球に「名手」もないものだが、彼はそういうキャラクターを確立していた)。

 日本にはナックルボーラーはいない。ナックルボール「も」投げる前田のような投手はいても、ナックルボールばかり投げる投手がいたという話は聞いたことがない。日本のくそまじめな野球風土の中では、あんなふざけた投球は許されないだろうし、そもそも試してみようという投手もいないだろう。投手は誰しも、速い球を投げたい生き物らしいから。

 ただし、「投げる文化遺産」には心当たりがある。
 千葉ロッテの渡辺俊介だ。あれほど見事なアンダースロー投手は、今の球界には他にいない。というよりも、あれほど低い位置から投げる投手は、プロ野球史上でも稀だと思う。

 アンダースローもまた、70年代後半には珍しくない存在だった。
 阪急ブレーブス3連覇の大エース山田久志をはじめ、同じ阪急の足立光宏、南海の金城基泰、ロッテの仁科時成、西武の松沼博久など、かなりの人数が下から投げていた。当時、小〜中学生だった私や友人たちは、草野球をするたびに山田の美しいフォームを真似たものだった(忘れてはいけない、明訓高校の里中智も、当時もっとも人気のあるアンダースロー投手のひとりだった)。

 アンダースロー投手が自然発生するとは思えない。野球の技術のうち、ボールを投げる・打つという基本動作は、自然にできるものではなく、学習しない限り、まずうまくいかない(野球が普及していない国の国民がボールを投げたり打ったりする動作は、ほぼ例外なくぎこちない)。逆にいえば、よい手本があれば、そのフォームは普及する。
 そう考えると、50年代末から60年代初頭に南海の杉浦忠、大洋の秋山登らが大活躍したことも、70年代の日本にアンダースロー投手が増えた一因だったのかも知れない。

 1976年生まれの渡辺は、たぶん山田の現役時代を見たこともないだろう。投球フォームをアンダースローに変えたのは中学生の時で、高校で野球部のコーチをしていた父親の勧めだったという。父親が76年に子供を作るような年齢であったのなら、おそらく山田や足立をよく見ていた世代の人だろう。
 プロでは珍しくなったアンダースローだが、渡辺によれば、「アマチュアにはたくさんいるんですよ。でも、高卒ピッチャーで150kmと130kmのアンダースローじゃ、ドラフトにかかるのは150kmでしょ。」ということらしい。
 だが、渡辺の安定した活躍を見れば、考えを変える球団も出てくるかも知れない。
 そう考えると、ナックルボーラーやアンダースローのような特殊技能の選手が、ある時代に固まって出現することには、相応の必然性があるのだろう。類は友を呼び、才能は才能を開花させる。15年後の日本プロ野球に「渡辺2世」が現れてくれれば楽しい。

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見物人の節度。

 昨日の朝、ボストンで行われたレッドソックス-ヤンキース戦の中継を見ていたら、ヤンキースの右翼手ゲーリー・シェフィールドが、いきなりスタンドの観客に殴りかかったので驚いた(しかもボールを送球する前に)。フェンス際に転がる打球を処理していたシェフィールドに、観客が手を出して邪魔したということらしい。

 さすがに暴力沙汰に至るケースは珍しいけれど、フェンス際の打球と観客をめぐるトラブルは、MLBではしばしば起こる。つい数日前にも、フェンスから客席に手を伸ばしてファウルボールを捕ろうとしたイチローが、先にボールを捕ってしまった観客を、一瞬、睨みつけていた。
 MLB中継を見ていると、一塁線や三塁線を抜いてファウルグラウンドを転がる打球に対し、グラウンドに身を乗り出してつかもうとする観客の群れを、よく目にする。私は、こいつらが不愉快で仕方がない。インプレー中のボールに手を出すことの意味をまったくわかっていない(わかっていてやっているのなら、さらに不愉快だ)。MLBの観客のマナーを褒め称える人は世の中に多いけれど、彼らの目には、こういう妨害者たちは見えていないのだろうか。

 観客の捕球が、試合の行方を左右するケースもある。
 一昨年のプレーオフだったと思うが、シカゴのリグレーフィールドで、カブスの左翼手アルーが捕球しようとしたフェンス際のファウルボールを、地元の観客が手を伸ばしてつかんでしまった。アウトを取り損ねた投手は、そこから連打を食って大量失点。シカゴは逆転負けを喫し、結局、そのシリーズを失った(この観客はネットで実名や住所をさらされて大変な目にあったらしい。応援しているはずの地元チームの邪魔をするのだから世話はない)。

 この種の事件を防ぐのは簡単で、日本の球場のように客席とグラウンドを隔てる防護ネットを張ればよい。だが、実際には、それぞれの事件は一時的には話題になるものの、「ではフェンス際にネットを張って再発を防止しよう」という話には一向にならず、いつまでたっても客席からグラウンドに手を伸ばす観客はいなくならない。

 ネットがなければ、観客自身にも危険がある。一、三塁ベースの斜め後方あたりの客席には、痛烈なライナーのファウルボールが飛び込む。それもジアンビーやプホルスの打球である。並みの速さではない。ボールに当たってケガをする人がいないはずはないと思うが、それが大問題になったという記憶もない。「熱いコーヒーをこぼして火傷したのは店の責任」などという理不尽な訴訟がまかり通る国なのに、野球場でのケガに関する訴訟が大きな話題になったという記憶もない。

 たぶん、アメリカ人にとっては、「野球というのは、そういうもの」なのだろう。理屈ではなく、昔からそういうものだと決まっているのだ。時にはプレーの邪魔をする不届き者がいたり、打球に当たってケガをする不運な人がいたりもするけれど、だからといって野球を「そういうもの」でなくしてしまうことはできない。それが関係者にとっての、あるいは国民にとっての合意なのだろう。

 日本でも今シーズンから、ネットのない観客席を設ける球場が増えてきた。
 従来のスタンドの内側に、防護ネットのない内野席エキサイトシートを設けた東京ドーム。内野席のネットをなくした横浜スタジアム。フルキャスト宮城でも、外野のファウルグラウンドを極端に狭くし、フェンスを低くしている。
 メディアはこれらの試みを「グラウンドと観客を一体化する」と好意的に伝えている。私もいずれ座ってみたいものだと思っている。
 だが、これらの席には、いつか必ず痛烈なライナーが飛び込む。一定の確率でケガ人が出ることは避けられない。清原やローズがフルスイングした打球を、誰がよけられようか。また、選手が捕るべきボールを先につかんでしまう不心得者も、いずれ現れることだろう。

 そんな事件が発生した時が正念場だ。球団や球場は、自分たちの決断を疑わずにいられるだろうか。メディアは、掌を返して「主催者の管理責任」を追及するいつもの習慣を、我慢できるだろうか。
 それはつまり、我々は「野球というのは、そういうものだ」という合意を形成できるだろうか、ということでもある。

 観客はボールの行方から一瞬たりとも目を離さず集中すべきだ、選手と一緒に戦え、ビールなど飲んでいる場合ではない等々と主張する「ネット不要論者」も世の中にはいるようだが、すべての観客がそうあるべきだとは、私は思わない。野球はそもそも退屈な時間の多い見世物であって、ビール飲んで弁当食って友人たちとお喋りしながら見物するにも適している。そういう楽しみを否定してしまうのは惜しい。
 それに、実際にスタンドに座って見ていると、ファウルボールが近くに飛んできた時、アメリカの観客はほぼ例外なくボールをつかもうと争うけれど、日本の観客は必ずしも全員がそうではなく、ボールから逃れようとする人も結構いる。別に、どちらが正しいというわけでもない。ただ、そこで逃げてしまうような人が、うっかりネットに守られていない席に座ってしまうような宣伝や売り方は、しない方がいい。
(その意味で、エキサイトシートに萩本欽一という老人を座らせた日本テレビは、間違ったメッセージを視聴者に伝えており、感心できない)

 要は、それぞれが求める楽しみにふさわしい席を得られれば、それでいい。
 歌と鳴り物で応援したい人は外野席へ。弁当とビールと談笑を楽しみたい人はネット裏へ。一投一打に集中して観戦したい人だけが、ネットのない内野席へ。そんな社会的合意ができていれば、ネットのない席でファウルボールに当たってケガをする人が出たとしても、それが「防護ネット復活キャンペーン」につながる可能性は下がる。

 ネットを外すという試みは、責任回避を重視する日本の組織にとっては、簡単にできることではないと思う。フルキャスト宮城は県営球場、横浜スタジアムは第三セクター、どちらも自治体がかかわっているだけに、なおさらだ。
 おそらく打球の危険性については、それぞれの組織内部で相当厳しく指摘され、それでも実現するという決断を誰かが下しているに違いない。
 だとすれば、その勇気に敬意を表し、支持をする覚悟を、メディアも観客も持つべきだろう。我々は、MLB100年の伝統に匹敵する合意を、これから形成していこうという立場なのだから。

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それを言っちゃあおしめえよ、山本さん。

 遅ればせながら10日のFC東京-ジュビロ磐田戦を録画で見た(仕事があっても熱が出てても行けばよかったと後悔することしきり)。
 JSPORTSの録画中継では、試合後の両監督の記者会見も放映される。山本昌邦監督の会見を聞いていたら、こんなくだりが出てきた(会見内容はジュビロの公式サイトにもアップされている。以下はそこからの引用)。

「夏ぐらいまでは、チームとしては固まってこないなというふうに開幕前から言っていたことなんですけど、ようするに新しい選手がたくさん入った部分と、代表選手がほとんどキャンプもいませんでしたし、開幕の1週間前で、その後またいなくなって、最終ラインは日韓のワールドカップメンバーでほとんどいないので、ラインのコントロールのタイミングとか、その辺の積み上げをやっているところなので、(以下略)」

 やはり予想通り、新しい選手がたくさん入って困ってしまっているようだが(笑)、それはそれとして、ひっかかるのは「代表選手」云々のくだりだ。
 Jリーグの他のすべての監督が「シーズン前に代表選手がいなかったので」と言い訳や愚痴を言い出したとしても、彼だけはそれを言ってはいけない、と私は思う。

 去年までは、彼自身が代表選手を拘束する側にいた。とりわけ、五輪代表監督だった時期の山本が、今のジーコよりも贅沢に選手を集めては合宿を重ね、それでもアテネ五輪での敗退後に「準備が足りなかった」と言ってたことを覚えている人も多いだろう。というより、各クラブの関係者やサポーターは誰も忘れてはいないだろう。
 実際には、他のJクラブの監督たちは、よほどのことがなければ「代表のせいで」とは言わない。みな、代表の意義を理解して、できるだけ我慢しているのだろうと思う。
 そんな中で、山本が率先して口走ってしまうというのは、まったく感心しかねる。少なくとも、各クラブがA代表と五輪代表の双方に選手を出していた去年の春に比べれば、今、彼が経験している状況など、ずいぶん楽なはずではないか。

 この試合を伝える新聞記事には、「6月までには…」という山本のコメントを紹介していたものもあったが、6月には、再び代表選手がいなくなる。彼らが戻るのを待っていたら、確かに夏になる。その時点で、ジュビロが挽回可能な地点にいればよいけれど、そうでなければ、後半はまた「準備」にあてるのだろうか。

 いずれにしても、「好条件が揃わないから好結果が出せなくても仕方ない」というニュアンスの発言が、以前から彼には多すぎる。
 現実には、シーズン前に想定した主力選手の全員が故障なくシーズンをまっとうできることなど、サッカーの世界にはほとんどありはしないのだ。
 どういう悪条件に見舞われても、Show must go on、次の試合はやってくる。目先の試合で勝ち点をもぎとりながらチームを作っていく、それがリーグ戦を戦うプロの監督の仕事だろう。トップチームの指導者には、勝負と育成を分離することは許されないし、現実に(優勝の行方が決まったシーズン終盤を別にすれば)勝負を度外視して若手育成を図ったトップチームが成功した例を、サッカーであれ野球であれ、私は見たことがない。

 「リーグ戦を戦うプロ」と書いたが、一発勝負のトーナメントの世界に生きるアマチュア選手でも、頂点に立つ人の考え方に違いはない。
 柔道家の谷亮子は、どんなにひどい故障をしても、畳の上に立って組み手をとれる限り、大会を休もうとしない。「どんな状態でも、試合に出て勝つことが私の義務」と言い切り、「完璧な準備をして大会に臨めることなど、ほとんどない。それでも過去の実績が自分を支えてくれる」と話す。
 せっかく同じ五輪に出場したのだから、山本監督も、こういう考え方を学んでほしい。

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佐藤優『国家の罠』新潮社

 本書には「外務省のラスプーチンと呼ばれて」というサブタイトルがつけられている。その異名だけを記憶している方もいるかも知れない。

 著者は、かつて外務省のロシア分析の第一人者であるとともに、鈴木宗男・衆院議員の側近と呼ばれ、背任と偽計業務妨害という2つの罪に問われて逮捕された人物だ。今年2月17日に東京地裁で有罪判決を受けたが、佐藤は終始、罪状を否認し続けており、現在も係争は続いている。

 小泉政権の発足とともに、田中真紀子が外務大臣に就任したのが2001年4月。以来、田中と外務官僚、そしてロシア外交に深く関与していた衆院議員(当時)・鈴木宗男との三つ巴の暗闘が繰り広げられたことは記憶に新しい。
 それは、翌年1月に田中外相と野上事務次官が更迭され、鈴木宗男が衆院議運委員長を辞任するまで続いた。佐藤はこの年の5月に逮捕され、6月には収賄容疑で鈴木宗男も逮捕された(昨年11月に有罪判決を受けたが控訴中)。

 正直なところ、田中・鈴木の闘争がマスコミで面白可笑しく取り上げられていた当時は、あまり関心を持てずにいた。田中の言動のあまりの支離滅裂ぶり、テレビ映像で見る鈴木のアクの強さ。すっかり毒気にあてられ、かかわりあう気を失っていた(だから、佐藤や鈴木の容疑についても、本書を読むまでよく知らなかった)。

 ただ、佐藤優という人物についてだけは若干の関心を持っていた。確か産経新聞だったと思う。佐藤の情報収集・分析の辣腕ぶり、ロシア政界の要人たちへの尋常でない食い込み方を紹介しつつ、ノンキャリア(出身大学は同志社大)であるために省内では実力に比して冷遇されてきたこと、ロシア外交に意欲を持っていた鈴木が、その佐藤に目をつけて重用してきたことなどを、「有能なノンキャリア官僚の悲哀と陥穽」というトーンで描いた記事を読み、日本にもそんな有能な情報のプロがいたのか、という認識を新たにした記憶がある。

 佐藤を直接知る人物による記述もネット上に見ることができる。橋本内閣で総理大臣秘書官だった江田憲司衆院議員は「本当の意味での「諜報部員」としての佐藤氏の「生きたロシア情報」には、余人に代え難いものがあった」と書き、北海道新聞の高田昌幸記者は、「その深い洞察力にはいつも驚かされた記憶があります」と評価している。ロシア専門家としての能力の高さについては、疑う余地がないようだ。

 その佐藤優が、ロシアにおける仕事ぶりや、鈴木宗男との関係、そして512日間に及んだ勾留と、検察官との取り調べのやりとりを詳細に記したのが本書だ。

 一読して感じるのは、徹底した冷静さである。冷徹、といってもよい。
 文章はあくまで明晰であり、ほぼ一切の情緒を交えず、淡々と事象とそれに関する分析を積み上げていく。事実と推測(あるいは願望)を混同する類いの愚を犯さない。『国家の罠』というタイトル、「これは国策捜査だ」という帯の惹句から想像されるような扇情的な記述は一切見当たらない。
 上述のように、佐藤はノンキャリア官僚であり、しかもこの事件では外務省にあからさまに切り捨てられた。
(容疑の詳細は省略するが、背任罪とされる行為では、佐藤が省内で然るべき手続きを取り、上司の決裁を受けていることを裁判所も認めている。それが犯罪になるというのは、つまり外務省が組織防衛のために佐藤の首を差し出したということだ)
 にもかかわらず、本書には外務省や上司に対する恨みつらみやどろどろした情念は、ほとんど感じられない。佐藤の冷たい怒りは、あくまで彼の言動や事実関係として記述されるにとどまる。このような状況に置かれた人物としては、驚くべきことだ。

 この冷徹さは、おそらくは佐藤が「情報屋」としてのキャリアを積み重ねるうちに身に付けるに至った職業的特質なのだろう。
(「情報屋」という言葉は、一般には「情報の売人」という意味で用いられることが多いが、佐藤は本書で、おそらくは「情報の専門家」という意味で、こう自称している)
 本書で佐藤は、ほとんどすべての登場人物の初出時に、彼自身の評価や分析を交えた外観や特徴を簡潔に記している。この人物紹介の手際の良さ、人物観察の鋭さには舌をまく。これほど手際よく人物を登場させることができる小説家が、どれだけいるだろう。人を観察することが、彼が長年携わってきた仕事の基礎だったのだということが、よくわかる。
 このように本書にちりばめられた何気ない記述は、佐藤の「情報屋」としての実力を伺わせる。

 冷静なだけでなく、佐藤は強靱な精神力の持ち主でもある。
 エリートと呼ばれる人々ほど、犯罪被疑者として逮捕されること、取調室で警察官や検事に罵声を浴びることに対して耐性がなく、いったん「落ち」た後は、検察側の筋書き通りに何でも喋るようになる。そういう意味のことが、検事や弁護士の談話として、本書の中に何度か出てくる。
 佐藤にしても、大学院で神学を勉強し、外務省に進んでからは官僚として暮らしてきた。犯罪とは無縁の世界で暮らしてきたはずだが、しかし、逮捕から一貫して犯罪を否認し、鈴木の逮捕にあたっては拘置所内で48時間のハンガーストライキを完徹し、法廷では堂々たる「国策捜査論」を展開し、有罪判決から間を置かずに本書を刊行するという、驚くべき耐性を示している。

 これほどの強靱さの理由として考えられることのひとつは、彼がロシアの専門家だったことだ。彼の人脈の中には、かつて政治犯として逮捕された経験のある学者や、失脚と復権を繰り返した政治家が、いくらでもいるはずだ。開巻早々にも、「モスクワで親しくしていたソ連時代の政治犯」の次の言葉が引用されている。
「強い者の方から与えられる恩恵を受けることは構わない。しかし、自分より強い者に対してお願いをしてはダメだ。そんなことをすると内側から自分が崩れる。矯正収容所生活は結局のところ自分との闘いなんだよ」
 彼がもっとも大事と考えている人脈が、こういう人々によって形成されているなら、彼らは佐藤が逮捕されたことよりも、その後の身の処し方の方を重視するに違いない。
「私の乾いた情報屋としての冷徹な計算も働いた。自分の盟友を『犯罪者だ』となじり、自己の無罪主張をするようになれば、私と親しくする人々は私についてどう考えるだろうか」「ソ連崩壊後前後の種々な政治事件の目撃者となった経験から私は、盟友であった者を陥れようとする輩から、人心は離れていくという経験則を身につけていた」
 本書前半のロシアでの活動を記した部分の中には、失脚後の高官との交流ぶりも、さりげなく記されている。そんな人物だから、犯罪者にされたら人生は終り、と短絡することもないのだろう。

 もうひとつの理由は、あまり明確には書かれてはいないが、佐藤が諜報活動に携わっていたと思われる点にある。
 本書では、あくまで政治家や要人と信頼関係を深め情報を得るという、外交官としてのノーマルな活動しか記していないが、一か所だけ、検事とのやりとりに、こんなくだりがある。
「僕はあちこちでエージェント(協力者)を運営していたが、エージェントというのは結局惨めな存在だ。エージェントにはなりたくないんだ」
 協力者、という訳語をつけてはいるが、ここでいう「エージェント」がスパイを意味することは明らかだ。利害が対立する陣営や組織に属する人物を協力者に仕立て、機密情報を入手する。そんな活動に佐藤が従事していたことを、この言葉は伺わせる。とすれば、非合法ぎりぎり、あるいは非合法なところまで踏み込むことも時にはあったのではないだろうか。佐藤が本書で頻繁に用いる「ゲームのルール」という言葉からも、そんなことを想像させられる。

 おそらく、本書に記されているような外交の機微は、佐藤が犯罪に問われることがなければ、このような形で表に出ることはなかっただろう。
 本書は主として「国策捜査」に対する告発、歪められた裁判への反論として受け止められているようだが(実際そのようなものに違いないが)、私はむしろ、外交の現場で、もっとも生々しくシビアな交渉を闘ってきた人物の回想録として読んだ。
 スパイ小説の金字塔のひとつ、ジョン・ル・カレの『スマイリーと仲間たち』には、かつて英国情報部のために身を粉にして働き、専門家として比類なき能力を備えていながら、幹部たちの暗闘に巻き込まれ、組織に切り捨てられ、それでも愛国心を捨てることのない下級職員たちが登場する。佐藤にも同じ匂いを感じると言ったら失礼だろうか。ル・カレが創造した人々とは異なり、佐藤は実在の人物なのだから。

 もちろん、佐藤がそれだけの能力を備えた人物である以上、本書はすみずみまで佐藤の意思を反映したものであるに違いない。彼には彼の目的があり、すべての文章がそのための意味を持っている。一行たりとも無駄にするような人物ではないだろう。
 この文章を書くにあたって、ネット上に記された本書の感想のいくつかに目を通したが、それらのほとんどすべてが、佐藤が記した内容を、何ら疑うことなく、事態の真相であると受け止めているらしいことが気になった。
 私は判決内容の是非を云々できるだけの材料も見識も持ち合わせてはいないが、確かに本書の記述は論理的な整合性も高く、強い説得力がある。かなりの度合で信頼できるように思える。
 しかし、この本は、国際的な情報戦を戦ってきた人物が、最後に仕掛けた情報戦なのだ。自分なりに調査・分析をすることもせずに、無批判に彼の記述を信用してしまうようでは、せっかくの佐藤の教えから何も学んでいないに等しいと思うが、いかがだろうか。


追記(2005.5.5)
 コメント欄でkokさんがご紹介くださった月刊現代6月号の対談「佐藤優×福田和也 瀬戸際の日本外交」を読んでみた。中国の反日運動をどう見るかが話題の中心になっている。佐藤はロシア専門家で中国そのものに精通しているわけではないのだが、ロシアから見た中国、つまり西側のインドやキルギス(およびそれらに隣接するチベット自治区や新疆ウイグル自治区)との関係から、中国の事情を解き明かし、日本がとるべき外交策を語る。
 『国家の罠』について、梶ピエール氏が次のように書いている。
「極端なことを言えば、佐藤氏が個々の人物や事実関係について書いていることに真っ赤な嘘が多数混じっていても、この本が持っている真の価値にはいささかも影響しない、とさえ僕は思う。この本の真の価値は、秘密情報の威力も限界も知り尽くした著者が、外交という分野で行われていることを論理的に理解するためのモデル、という「市民にとっての教養」を提供してくれるところにある、と考えるからだ。」
 これとまったく同じ理由で、この対談は傾聴に値する。中国における反日運動を、日本と中国の二国間関係だけでいくら議論しても、解決の糸口をつかむことはできないことが、よくわかる。

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日本人がMLBの監督になる日。

 ニューヨーク・ヤンキースのベンチコーチから、同じ街のメッツの監督になったウィリー・ランドルフは、一見して分かる通りの黒人だ。ある時期までは、黒人監督が誕生するたびに「史上○人目」という惹句とともに紹介されたものだが、ランドルフが何人目にあたるのかは、よくわからない(ネット上で「MLB 黒人監督 ランドルフ」というキーワードで検索をかけると、「史上4人目」と書かれた共同通信のニュースが大量にヒットするが、MLBには今年だけで7人の黒人監督がいて、新任はランドルフだけだ。共同の記者はいったい何を数えたのだろう)。

 もはや、いちいち気にする人もいないほど、有色人種が監督を務めることは当たり前になったのだろう。今年の7人の中には、フェリペ・アルー(ジャイアンツ/ドミニカ)、トニー・ペーニャ(ロイヤルズ/ドミニカ)、オジー・ギーエン(ホワイトソックス/ベネズエラ)という3人のヒスパニックかつ非米国人も含まれている。MLB監督の座においては、もはや肌の壁も、国籍の壁も、存在していないと考えてよさそうだ。

 とはいうものの、将来もう一度だけ、MLBの新監督の肌の色や国籍が話題に上る機会が生まれるのではないかと思う。アジア出身者が監督になる時だ。
 これほどの人数が常にMLBでプレーしている以上、いずれ、日本人監督が生まれる日もやってくるはずだ。

 最初の黒人メジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンがドジャースでデビューしたのが1949年。フランク・ロビンソンがインディアンスで最初のMLB監督に就任したのは1975年。この間のタイムラグは26年間だ。ほぼ四半世紀。
 前史ともいうべきマッシー村上を別にすれば、日本人メジャーリーガーのはじまりは1995年の野茂英雄だ。ここから四半世紀を数えれば、今から15年後の2020年前後ということになる。

 MLBでは、監督は必ずしも名選手ではなく、専門職としてマイナーから叩き上げる職種だと言われる。実際、そのような監督も多いけれど、こと有色人種・非米国人の監督においては、そうとも言えない。上記の3人はいずれもオールスタークラスの選手だったし、フランク・ロビンソン(ナショナルズ)、ダスティ・ベイカー(カブス)、そしてランドルフも同様だ。私が現役時代に名前を聞いたことがないのは、ロイド・マクレンドン(パイレーツ)だけ。もしかすると、有色人種・非米国人の指導者が監督に選ばれるためには、指導者としての能力に加えて、現役時代の名声の後押しも必要なのかも知れない。

 だとすると、最初の日本人監督の候補者は、現在MLBでプレーしている選手たちの中から生まれる可能性が高い。彼らが今後、引退して指導者の道を歩み始めるとしたら、頂点であるメジャー監督までは、早くても10年前後はかかるだろう。上記の2020年という見込みとも、ほぼ一致する。
 まだ誰も引退して指導者になってさえいない現状で、誰が最初の監督になるのかを予想するのは、お遊びでしかない。ただ、プレースタイルやアメリカでの姿勢などを比較すると、あえて現在の選手の中から予想するならSo Taguchiを本命に推す。過去20年間のMLBで五指に入る名将トニー・ラルーサの下で学び、しかも高い評価を受けている。現役時代の名声は、ちょっと足りないかも知れないが。
 選手たちが活躍することだけでなく、監督やGMが誕生して、はじめて日本人がMLBに確固たる地位を築いたと言える。田口本人にその気があるかどうかは知らないが、私は勝手に期待している。

 松井秀喜? 確かに彼も名将に絶賛されている。難しい選手が大勢いるチームの中で人望も高い。ただ、彼はたぶん、引退後にはTOKYO GIANTSから監督を依頼されることになるだろう。老境の終身名誉監督から懇願されたら、今度は断れないのではないかな。

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ティノ・マルティネスの開幕戦。

 今日はヤンキースの開幕戦。松井がバックスクリーン横にぶちこむ強烈な本塁打を含む3安打。ランディ・ジョンソンが好投し、ジーターやA-RODなど主立った顔触れにも初安打が出て、まずは順調に滑り出した。

 ただし、私にとってのハイライトは7回表の守備だった。ジアンビに代わって、ティノ・マルティネスが一塁の守備位置に着いたのだ(ティノが何者かについては、こちらの長ったらしい文章を参照されたし)。場内からは歓迎の声が上がり、フェンスには「Welcome home TINO #24」の横断幕も。
 以前、ティノが着けていた背番号24は、昨年までルーベン・シエラのものだったが、NHKのアナによれば、ティノの復帰を知ったシエラが快く譲ったという。シエラは、ジョー・トーリ監督が自著『覇者の条件』の中で唯一、自分のことしか考えていないと批判した選手で、一度はチームを去ったのだが、2003年に復帰してからは、すっかりチーム・プレイヤーに生まれ変わったようだ。
 守備位置について、心なしか上気した表情で、しきりにミットの紐を締めていたティノは、さっそくこの回、一塁線を破ろうかという打球をダイビング・キャッチ。場内の喝采を受けていた。

 そして、松井がチームの初本塁打を放った8回。続くポサダが見逃しの三振に終わると、観客は次々と立ち上がり、大きな拍手を送りはじめた。ティノに打順が回ってきたのだ。
 住み慣れた左打席に立ったティノに、「Let's go Tino, Tino !」とコールが湧く。フルカウントから四球を選んだ時の歓声の大きさは、松井の本塁打へのそれにも劣らないほどだった。
 スタンディング・オベーションに見守られて、ティノは復帰第一戦を静かに終えた。1試合、1打席、打数なし、1得点、1四球。たったそれだけの記録の中に、こんなにもたくさんの拍手が詰まっている。

 それにしても、限りなくクロに近い薬物疑惑で、オフには放出間違いなしと見られていたジアンビーが、開幕戦から先発出場してヒットも打っている。もともと人格者として知られる選手だし、キャンプから厳しいトレーニングに励んでいたというから周囲も認めたのだろうけれど、やはりこの起用の根底には、徹底的に選手の側に立ち、選手を守るトーリの流儀を感じる。
 そして、そのジアンビーに追いだされるようにヤンキースを去ったティノが、戻ってきてジアンビーをバックアップしている。それもまた、トーリのチームにふさわしい光景だ。

追記
 昨日あたりからなぜかジョン・オルルッドを検索して当blogにやってくる方が多い。昨年後半にヤンキースの一塁を守っていたオルルッドの姿がないので探しているのだろう。私はオルルッドのファンでもあるので、同好の士のために書いておくと、彼は4/5現在、フリーエージェントのままで所属球団は決まっていない。病気の子供がいて、家族から離れて暮らしたくないという家庭の事情もあるようなので、残念だが、このまま引退してしまうこともあるのかも知れない。

4/21、依然として状況は変わらず。引退を表明すれば、MLB公式サイトあたりでニュースになりそうなものだが。もしマイナーや独立リーグでプレーしていたら、彼にとっては生涯で初めてのマイナー経験ということになる。

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甲子園大会という投手破壊システム。

 3つ下のエントリーのコメント欄で、penguin本人さんから「高校野球のワールドカップ化」というアイデアが出されていた。
 プロの世界大会が掛け声ばかりでなかなか実現に向かわない現状では、呼び水的に世界大会の実績を作るという点ではいいかも知れないが、日本の高校野球そのものにとっては、私はこれ以上の大型化は必要なく、むしろマイナスではないかという印象を持っている。

 甲子園では、今も春の選抜大会が行われている。
 1、2日に準々決勝が行われ、今日3日が準決勝、明日4日が決勝戦。2日の準々決勝で勝った羽黒や神村学園が決勝に進出すれば3連戦となる。それぞれのチーム構成の詳細は知らないが、先発投手が1人しかいないとしたら3連投を強いられる日程だ。
 甲子園大会では、春も夏も常にこういう日程が組まれている。夏の大会では、準々決勝の4試合を1日で行なうため、2003年に優勝した常総学院は3回戦から実に4日連続で試合をしている。そうでなくても夏の場合、7月に各県で同じ日程の予選が行われる。甲子園に出てきた時点で、すでに各校のエースは疲弊しきっているのだ(ひとりでチームを引っ張ってきたエースが予選の連投でパンクし、県大会で優勝はしたものの、甲子園に出てきたのはエース不在の抜け殻のようなチームだった、というケースも数年前に見た記憶がある)。

 全国からもっともいい投手を集めて、1年のもっとも暑い時期の、もっとも暑い時間帯に過酷な連投を強いるという大会日程は、実に効率のよい「好投手破壊システム」である。しかも、本人たちが自発的に故障を隠して無理を重ねてくれるのだ。「無理をしてはいけませんよ」と、もっともらしい建前を言ってさえおけば大人は責任を逃れられる、という構造は実にいやらしい。
 現実に、ここ20年くらいの甲子園の優勝投手で、プロで大成したといえる投手が、桑田と松坂の他に何人いるだろう。期待されてプロ入りしながら故障で消えた選手は数えきれない。そこそこ活躍した投手も、プロ生活の途中で大きな故障をして長期欠場している(桑田も松坂も例外ではない)。
 逆に、西口、豊田、斉藤和巳、清水直、小林雅、岩隈、山本昌、五十嵐、上原、井川、黒田、佐々岡、三浦といったプロ野球を代表する投手たちは、甲子園に出場すらしていない。甲子園には出なくていいし、出てもいいけど早めに負けてほしいというのが、プロのスカウトたちの好素材に対する本音だと聞く。

 もっとも簡単な対策は、準々決勝、準決勝、決勝の間に、それぞれ1日以上の休養日を設けることだ。大会序盤にはそれなりの試合間隔がある。問題は最後の3試合だけといってよい。
 この手の話になると、すぐに経費の問題を持ちだす人もいるが、この場合、対象となるのは4チーム×1泊と2チーム×1泊であり、大会全体ののべ宿泊数の、たぶん1割にも満たないだろう(そもそも参加チームの経費を主催者が丸抱えしてしまうというのも、アマチュアの大会としては奇妙な話だ)。
 現実に高校サッカーでは大会終盤になると頻繁に休養日が設けられる。なぜ高校野球ではそれができないのだろう。
 さらに言えば、宿泊費の問題など生じないはずの県予選でも、なぜか日程は同じように過密である(と思う。調べたわけではないが、15年くらい前にはそうだった)。経費以外の理由があるとしか考えられない。

 一方、甲子園で優勝を争うようなエリート以外の選手たちにとっては、まったく逆の問題があるように思う。
 つまり、試合をする機会が少なすぎるのではないか。

 すべての高校が参加する県レベルの大会は、夏の予選と秋の県大会(事実上、春の選抜の予選を兼ねる)など、ほんの数回しかない。常に一回戦負けする弱小校では、3年間レギュラーを通した選手でも、公式戦には10試合も出られないことになる。

 そんな彼らよりもずっと野球が巧いにもかかわらず、さらに出場機会のない選手もいる。強豪校の控え選手たちだ。「3年間試合には出られなかったけれど、レギュラーを支えた控え選手」という存在は、新聞記事やテレビ番組にとっては読者や視聴者を泣かせる恰好の素材かも知れないが、野球界にとっては、新たな才能の芽を埋もれたままで終わらせてしまう痛恨事でしかない。その選手にとって人生修養にはなったかも知れないが、人生修養が目的なら他にも手段はいくらでもあるだろう。彼は野球をしたかったから野球部に入ったのではなかったか。
 野球をしたい若者に野球をさせない仕組みを、美談にすり替えてはいけない。

 これは要するに、高校野球における公式戦が、「負けたら終り」のノックダウン方式しかないことに起因している。
 例えば、弱小校でも複数の試合機会が与えられ、強豪校からは何チームでも出場できるような地域のリーグ戦を設ければ、これらの問題はかなり解消されるのではないだろうか。
(このへんの議論は、サッカー界での取り組みを援用している。知ってる人が読めばバレバレだと思いますが(笑))。

 実のところ、私は近年は甲子園大会にあまり興味が持てず、試合もろくに見てはいないし、まして高校野球の底辺の現実を直接見聞きしているわけでもないので、事実誤認等があればぜひご指摘いただきたいのだが、基本的な考え方としては、そう外れてはいないと思う。

 冒頭に記した高校ワールドカップ(あるいはU-19ワールドカップ)が、これらの問題に直接関係あるわけではない。うまくやれば両立は可能かも知れない。
 だが、正直いって、今の高校野球界を動かしている人たちが、うまくやれるとは思わない。
 世界大会が設けられれば、日本代表選手は、甲子園大会の出場者から選ばれるだろう。すでに充分に酷使された投手たちが、日の丸の重圧を背負って、また投げることになる。
 また、世界大会の日程は、高校野球にとって何よりも優先されることになるだろう。そのシワ寄せは、日常の部活動に影響する。ただでさえ日程に余裕が必要な地域リーグの実現など、望むべくもない。
 今や大会の実現に必要不可欠なスポンサーも、観客もテレビ中継も期待できないような地域リーグよりも、世界大会に金を出したがるに違いない。

 野球の競技人口を増やすには、魅力あるプロリーグと、若年層指導の充実を図ることが優先だろう(少年野球の指導者の質の問題を指摘する人も多いが、私自身は経験もなく、実際に粗暴な振舞いを見たこともないので、ここでは触れない)。
 高校レベルの世界大会は、サッカーにおけるFIFAのような統一組織を持たず、統一的なビジョンの中にそれを位置づけることのできない野球界にとっては、両刃の剣になりかねないと思う。


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