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森達也を読みながら。

 このところ、森達也の著書を立て続けに読んでいた。
 洋泉社新書の新刊『こころをさなき世界のために』を手に取ったのがきっかけで、近くの書店に置いてあった森の著書全部(といっても4冊だが)を買い求めた。オウム真理教を内部から撮影したドキュメンタリー映画『A』もDVDで見た。我ながら重苦しい連休を過ごしたものだが、まあ、本というのはそういうもので、読むべき時に読むべき本に出くわすと、関連のある本を次から次へと読みふける羽目になる。

 角川文庫版『A』の中に、こんな文章がある。ちょっと長くなるが引用する。
「メディアは決して軽薄でも不真面目でもない。たまたま志の低い人種がメディアに集まったわけでもない。メディアは僕たち社会の剥き出しの欲望や衝動に、余計なことはあまり考えずに忠実に従属しているだけだ。自らの空白に、『グル』ではなく『組織』への大いなる意思を充填させて、自分の言葉で思考することを放棄して、他者への情感と営為への想像力をとりあえず停止させただけなのだ。地下鉄の車両でビニール袋に傘の先を突き立てる行為も、被害者である河野義行さんを何のウラも取らず犯人と断定する行為も、エイズ感染の危険性を熟知しながら血友病治療の非加熱血液製剤の輸入を黙認していた行為も、不当逮捕の瞬間を撮影されていることを知りながら逮捕した信者を釈放しようとしない行為も、すべては同じ位相なのだ。」

 この結語、「すべては同じ位相なのだ。」の前には、「わずかな遅延を取り戻すために大勢の乗客を乗せた列車を高速でカーブに突入させる行為も」「大事故を起こした列車に乗りあわせていた運転士が、上司に指図されるままに、被害者の救出を放棄して現場を離れ通常勤務に向かう行為も」「同じ社内とはいえ事故現場から遠く離れ、仕事上の接点もない人々のささやかな送別会までをあげつらって非難し謝罪を強要する行為も」などの文言を挿入することもできる。
 ひとつ前のエントリーのコメント欄で、ペンギン君友人さんから「JR脱線事故報道について何か書くように」とのリクエストをいただいたのだが(そういう意味ですよね(笑))、私に何か書くことがあるとすれば、この一文にほとんど言い尽くされてしまう。

 で、この「同じ位相」について考え始めると、どんどん気が重くなる。
 『A』を見たり読んだりしていると、オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした1995年に感じた、何ともいえないイヤな感じを思い出す。
 あの年には、ありえないことが次から次へと起こった。
 阪神大震災に始まって、起こるはずのないことが起こり、越えてはいけないはずの一線が踏みにじられていった。都市部での無差別大量殺人、警察トップの狙撃、彼らを取り締まるために警察が行った無茶な捜査の数々。ひとたび踏み越えてしまえば、こんなにあっけないものなのか、と思った。なし崩しのように、何でもありの世界が目の前に広がっていく。
 意識するまでもない絶対的な前提として社会を支えていたはずの何かが液状化し、足元が崩れていくような、そんな不安感を覚えた。

 それから10年経って、「イヤな感じ」は、ますます高まっている。
 森は『下山事件 シモヤマ・ケース』で、日本の共産化を阻止するためなら、どんな手でも使った昭和24年の政府や警察の姿を描く。彼らはその時、確かにその一線を踏み越えていた。
 私はこれまで、それらの事件は敗戦直後の混乱という特異な状況下だから起こり得たことだと認識していた。ずっと後になって生まれた自分にとっては他人事のように思っていたが、どうやらそんな甘いことではない。
 今回の事故の背景とされているJR西日本の労務管理にしても、それが成立した歴史を遡っていけば、きっと下山事件までつながっているに違いない。ここで詳述はしないが、昭和24年に政府が一線を踏み越えてまで共産化を阻止したことが、今の日本につながっている、と森は書く。

 以前、小泉純一郎首相の言葉の使い方について書いたことがある。彼が総理大臣になってから率先して暴言ばかり吐いているので、失言で辞任する政治家がいなくなった、という話だ。あの「イヤな感じ」は、たぶん、ここにつながっているのだと思う。小泉もまた、なし崩しに一線を越えた人なのだ。

 …というようなことを書いているうちに、「権力を監視せよ!」みたいな文脈に近づいていきそうな気がするが、そこに回収されてしまうと、逆に大事なものがこぼれ落ちる。根幹はあくまで森が言う「同じ位相」にある。森が『こころをさなき…』で書いているこんな文章に、私は深く共感する。

「重要なことは、当事者への想像力と同時に、非当事者であることの自覚です。ところがいまの日本社会は、誰もが被害者の痛苦を表層的に共有したような錯覚に陥って、『許せない』とばかりに、加害者を憎悪します。要するに、被害者への過剰な感情移入が、いつのまにか主語を社会や国家に委ねていることに気づかない。(中略)その憎悪を、非当事者が引き受けてはならない。」
「個々が強い主体性を持った明るく健全な社会を作りましょうなんて主張するつもりは、僕には全然ない。そんな社会は不気味です。ためらいや葛藤でいいんです」
「白か黒かを自分で判別できないのなら、当たり前だけど判断は保留します。基本的に多数派は信用しません。世の中って六対四くらいが自然なはずなんです。」

 すぐに結論の出ないことは、宿題にしておくしかない。宿題ばかりが増えていくけれど、それが我々の暮らしている世界なのだから仕方がない。追いつきそうになくても、考え続けていくしかない。

 こんな歯切れの悪い話なんですが、いいでしょうか、ペンギン君友人さん(笑)。

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コメント

感激しました。
歯切れが悪いなんて、とんでもないです。
こういう感覚を持った人がきちんと存在するんだと思ったらホッとしました。

ところで元外務省ノンキャリでロシアスペシャリストの本ですが、近くの本屋に注文したら売り切れで重刷しているそうです。なかなか手元に届きませんが楽しみにしています。そのうち、森達也も読んでみます。

投稿: ペンギン友人 | 2005/05/10 22:08

>ペンギン友人さん

実はこのエントリー、連休中に書きかけて、まとまりがつかなくなってそのままにしてあったのですが、尻を叩いていただいたおかげでアップする踏ん切りがつきました。ありがとうございます。考える過程も含めて公開していくのがblogというものなのでしょうね。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/05/10 23:50

はじめまして。森達也氏の著書は読んだことがありませんでしたが、読んでみたくなりました。記者の末席に身を置く者として、「非当事者であることの自覚」という一文が心に鋭く突き刺さりました。
ここ10年程でしょうか、新聞はテレビやインターネットといった速報性に優れたメディアに追われるように、報じる内容を変質させてきたと思っています。つまり、速報では勝てないために、事件事故の当事者の心のうちに入っていき、より情緒的な原稿を求められてきたように思います。実際にはそんな短期間で当事者の心の中を理解することはできないのに、理解した気になって、もっともらしく原稿にする。そのために結果として受け手から見た時に表層的で思考が停止したような原稿が増えているのかもしれません。
非当事者である。そんな当然のことを改めて自戒する。そのことを反すうしながらきょうも取材現場に向かおうと思います。

投稿: stone | 2005/05/12 06:36

>stoneさん
コメントありがとうございます。
新聞を取り巻く環境が大きく変わっているのに、紙面作成の構造自体(例えば「政治面」「社会面」という縦割り構造)は昔とまったく変わらず、その落差を小手先の改変だけで埋めようとすることの矛盾を、結局は現場が引き受けざるを得ないのでしょうね。ご健闘を祈ります。
今回の脱線事故にしても、いつものように数週間経ったら過去のことと忘れてしまうのでなく、何年もかけて被害者に寄り添っていく、という報道があってよいと思います。

と同時に、読者・視聴者の「非当事者」としての節度についても、以前から気になっています。私は、大きな事件事故の現場に花や菓子類が山のように(時にゴミとみまがうばかりに)供えられているのを見るたびに違和感を覚えます。身内の方や近所の方が花を供えるのは理解できるのですが、何の関係もない人がこういう形で事件に「参加」することを無条件に肯定してよいのかどうか。何かが違うと思うのですが、どう違うのか、うまく説明ができずにいます。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/05/12 09:46

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