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「非当事者」であるということ。

 ひとつ下のエントリーに対して、stoneさんから「記者の末席に身を置く者として、『非当事者であることの自覚』という一文が心に鋭く突き刺さりました。」というコメントをいただいた。私も紙媒体に属する身だが、メディアというのは本質的に「人の褌で相撲を取る商売」だということを忘れてはいけないと思っている。記者会見でJR西日本の幹部を罵倒したという記者氏(私自身はその会見の映像を見ていないので、どれほど醜悪だったかを直接は知らないのだが)は違う考えを持っていたようだが。

 stoneさんへのコメントとして、私はこんなことも書いた(繰り返しになるがご容赦を)。
「と同時に、読者・視聴者の『非当事者』としての節度についても、以前から気になっています。私は、大きな事件事故の現場に花や菓子類が山のように(時にゴミとみまがうばかりに)供えられているのを見るたびに違和感を覚えます。身内の方や近所の方が花を供えるのは理解できるのですが、何の関係もない人がこういう形で事件に『参加』することを無条件に肯定してよいのかどうか。何かが違うと思うのですが、どう違うのか、うまく説明ができずにいます。」

 この手の現象は、常に「いい話」として報道されるし、たぶん世間の大多数の人も「いい話」と受け止めるのだろう。


 一方で、誰もが眉をひそめるような「イヤな話」がある。

JR西に暴言や暴行が相次ぐ

 尼崎JR脱線事故のあった4月25日から5月7日までの間に、JR西日本の駅や電車内で「JRは人殺しだ」などの暴言が160件、駅員や乗務員に対する暴行も6件あったことが10日、西日本旅客鉄道労働組合(JR西労組)などのまとめで分かった。 (中略)
 まとめによると、脱線事故以降、乱暴な言葉を投げ掛ける嫌がらせや、殴ったりする暴力行為が多発しているほか、置き石や自転車の放置などの妨害行為が18件あったという。 (後略) 〔共同〕 (2005/5/10 21:28)


 かつて、「隣人訴訟」と呼ばれる民事訴訟があった。20年くらい前のことだったと思う。
 ある母親が外出する際、自分の幼い子供が隣の家で遊んでいたので、そのままにして出かけていった。ところが隣人が目を離した隙に子供たちは家から外に出ていき、外出した家の子供が溜め池に落ちて溺死した。無念の両親は、「保護義務を果たさなかった」として隣人を訴え、いくばくかの損害賠償金を勝ち取る判決を得た。
 この判決が報道されると、訴えを起こした両親の家に、罵倒や非難の電話と手紙が殺到した。あまりの凄さに、両親は訴訟を取り下げようとした。ところが被告(隣人)が取り下げに同意しない。訴えられたことで傷つき、感情を害していたのだろう。
 そのことが報道されると、今度は罵倒や非難の矛先は隣人に向かう。こちらも耐えきれずに取り下げに同意し、結局、訴訟はなかったことになった。
 おおむね、そんな経緯だったと記憶している。

 今、JRに嫌がらせをする人たちと、うんざりするほど似ていると思いませんか。

 そして、たとえば殺人現場に過剰な供物の山を作ってしまう人々の心性も、「非当事者である出来事に対して見境を失っている」という点において、これらの「イヤな話」と表裏一体なのではないか、という気がして仕方がない。
(念のため言っておくが、ここではあくまで、無関係な通りすがりの他人による「過剰な」供物について書いている。たとえば故人をよく知る隣人が命日ごとに花を供える行為をどうこう言うつもりはない。だが、そうやって置かれた花に便乗して、赤の他人が食べかけの菓子や飲みかけの缶ジュースにしか見えないようなものを野ざらしに置いていくような行為が慰霊や鎮魂になるとは、私には思えない)

 メディアが人々を扇動しているとかミスリードしているということだけではないと思う。そういう面があることは否めないが、たとえそうでない報道が実現したとしても、たぶん嫌がらせはなくならない。人々に、遠くの無関係な出来事を「ご近所に起こった悲劇」や「我がムラの恥さらし」のように感じさせてしまう機能が、たぶんメディアにはあるのだろう。
 ニュースを報じる側も、ニュースに接する側も、メディアが持つそういう危うさを、たぶん気にかけてはいない。だから、同じような事象が何度でも繰り返される。


追記(2005.5.13)
件の罵倒記者氏は、ネット上で実名を晒され、罵倒の嵐を浴びているようだ(松岡美樹さんの「すちゃらかな日常」に詳しい)。批判する人とされる人がループ化していく現象が、ここにも見られる。「なんか後味悪いよなあ。」という松岡さんの言葉に同感。

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コメント

「事実は小説より奇なり」

こういう言葉が昔からあるので、最近特におかしなことが急に増えたわけではないのでしょうが、本当に小説家が商売しにくい状況ですよねぇ。

昔(といっても私の知っている昔なのでたかだか20年程度)と今の違いは、小説、映画、演劇等の仮想現実は傍観するしかなかったのが昔とすれば、今は(電子)ゲーム、インターネット等の道具、手段を用いて自らが参加できるようになったことでしょうか?

後天的にこれらの電子機器を手にした我々旧世代に比べると、仮想現実と現実のボーダーが若い世代にははっきりと認識できなくなっているのかも知れません。

中国の半日デモにしても、昔なら街頭でトラメガ片手に演説し、地道に宣伝ビラを配りながらの方法しかない時代には考えられない速さで、ネットを使って拡大していきました。
いわばネットを通じて仮想天安門広場を作っているわけですよね。

どの国でもそうですが、政治の中枢にいる人たちは旧世代(しかも私たちより上の)ですから、新しいものの影響力を正確に認識している人はほとんどいません。対応が後手後手に回るのは世の常なんでしょうけどね(苦笑)

ともかく、もう少し何をするにももう少し落ち着いてやることがカギになりそうですね。リアクションも反射的にでなく、ゆっくりと何度も推敲を重ねて不要な誤解を招かぬよう(もちろん自戒も込めて)

投稿: エムナカ | 2005/05/13 23:03

>エムナカさん
こんばんは。
ご指摘の通り、インターネットの速さと広さによって、さまざまな動きが加速され巨大化する傾向にあります。
ただ、ご紹介した「隣人訴訟」を見ると、あたかもインターネットが世の中に生みだしたかのように言われている現象が、実は手紙や電話の時代から存在していたことがわかります。
これらの現象は、阿部勤也が「世間」と呼んでいるものがメディアの力で増幅されている、ということではないでしょうか。
つまり、純然たる「新しい現象」というよりは、「古い現象」の一部がグロテスクに巨大化した姿なのではないかと。

エムナカさんが「旧世代」だったら私なんか人類以前ですが(笑)、とはいうものの確かに、「物心ついた時点でどのメディアが存在していたか」によって、今の日本人はかなり細かく世代分けできるのかも知れませんね。ざっと考えても「ラジオ」「テレビ」「ビデオ」「ウォークマン」「CD」「ゲーム」「パソコン」「ケータイ」「写メール」、それぞれ人格形成に影響しそうだな。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/05/14 00:56

>ゆっくりと何度も推敲を重ねて

こんなことを書いておきながら

>中国の半日デモにしても

という恥ずかしいミスをしていましたエムナカです(自爆)。もちろん「半日」ではなく「反日」です。

世代を分ける指標としては、他にも「自分が聴いていたオールナイトニッポンのパーソナリティ」って言うのもアリですか(苦笑)
万年青年の方は今でも聞いているから当てにならんかも知れないけど、私は中島みゆきとビートたけしでした。ニッポン放送の社長が元局アナでオールナイトのパーソナリティをやっていたのはホリエモン騒動のおかげで初めて知りました。

先に鉄さんが挙げたメディアとしてはウォークマン世代に当たる頃でしょう。そういえば映画版セカチュウの中でウォークマン2が深夜放送の投稿ノベルティだったという設定がありました。映画の中での深夜放送パーソナリティは渡辺美里がやっていたと思います。ただ、ウォークマン2が高校の頃に登場していたなら、映画の中での「今」の設定がかなり矛盾するんですが、それはアンタッチャブルなんでしょう(爆)

投稿: エムナカ | 2005/05/14 02:35

 鉄さんごぶさたしてます。

 JR西日本に関する今回の報道で、ずっと疑問に思っていることのひとつに「事故の背景には、せっかちな関西人、という問題があったのではないか?」ということがあります。

 私が住む、のんびりした北日本では想像もつかないような、関西人特有の、秒刻みのダイヤを守ることへのプレッシャーみたいなものが、事故の背景にあるのではないでしょうか。まあ東京もそれなりにせっかちですが、関西人はその比じゃないっていいますよね?どうなんでしょうか。
 今そういう視点から掘り下げた記事は見かけていないのですが、どんなもんなのでしょう。つまり、事故はJR西日本も悪いけど、そこまでこの会社を追い込んだ消費者に問題があるのではないか。
 
 それから、話はちょっと変わりますが、私は髭の記者さんを擁護しますね。
 過剰なぐらいヤクザちっくに追及しないと、奴らは懲りない、本当のことを言わない。当局というのはそういうものではないでしょうか?まさか彼は、テレビ中継されている、とは知らなかったかも。それを承知でやったのなら、それはそれでさらに偉い?
 真実を追究するあまり、なんて、彼の所属する社は謝ってしまいましたが、なんで彼を守らないのか。遺族の怒りを代弁してどこが悪いのか。ですます調で、行儀良く質問してたら、いくら時間があっても足りない。最初は彼だって丁寧だったのではないでしょうか。最初からヤクザ口調だったわけではないはず。
 バッシングするだけバッシングして、行き過ぎになるとヒラリと手のひらを返す。日本人は判官贔屓ですからね~。そのへんの綾を知っていないと、命取りになりますね。彼は、ずっとJR西日本の会見につきあい続けて、いい加減キレたんじゃないんですか?プロが感情ぶつけて甘い、といわれるかもしれませんが、新聞なんてしょせん感覚で作っています。だって読者は感覚で読みますから。論理で作ってたって、冷たい紙面とか言われて、相手にされなくなります。
 そういう、感情、喜怒哀楽を大事にする紙面づくりって、嫌いじゃないですけどね。少なくとも、編集の現場は冷静です。でも、取材の現場は、多少感情むき出しでいいと思いますよ。
編集の現場が「まあまあ」とブレーキをかけますから。そのために、取材と編集は分かれているんですからね。(そのぶん、ブログは感情を論理のフィルターなしに発信するのが特徴。いい点でもあり、欠点でもあり。)

 それに関西弁のせりふで追及すると、関西以外ではまじで厳しく聞こえるかもしれませんが、現地ではそれほどではないかもしれませんね。

 それから、事件の当事者以外の他者が哀悼の意を表することについて。私はダイアナ妃が事故死したときに、現場にいました。続々とパリ市民から花束が集まってきました。イギリス国民でもないのに、です。
 メディアに触発されて我がことのように感情移入してしまう現象は、何も我が国に限ったことではないのだなあ、とそのとき、部外者の私は感じていました。

 問題は、メディアリテラシーです。メディアの中身を相対化して冷静に受け止める、そういう訓練が、国によってできてないことが問題です。欧米でさえそうなのです。なので、この問題に発達段階があるとは思えませんが、中国や中東など、より発達途上の国ではメディアの言動が人々のメンタリティーに直接訴える傾向があるような印象がありますね。日本のメディアリテラシーが進んでいるとはとうてい思えませんが、まだまし、ではないでしょうか。
 
 それと、地域コミュニティを解体する方向で突き進んできたこの国の戦後が問題。
 地域コミュニティの規範・境界が消失し、個人や家族といった規範の次の段階は、マスメディア=全国一律のユニバーサルサービスの段階に一気に飛躍してしまう。
 (だから、だれでも、竹内結子の結婚をわがことのように一喜一憂するわけですよね?)
 地域コミュニティの再生がない以上、身近な事件で我がことのように一喜一憂するのはしょうがないことかもしれません。

 それが健全か?と言われれば、確かに、気持ち悪い。「おいおい、そんなに熱くなるなよ」と言いたくなる。しかし他者に共感する気持ちが、人々を救う場面もあります。中越地震がそうでした。「日本人の共感力」がフルに発揮されたわけです。
 鉄さんがおっしゃりたいのは、そういう『善の共感』ではなく、「悪意の共振」の問題点ですよね。チマチョゴリが切られたり、っていう。
 そこはむしろ、ブログの性善説に期待したいですね。ブログが成熟化すれば、新しい倫理を生み出すのではないでしょうか。甘いかな。

投稿: penguin本人 | 2005/05/17 00:56

>penguinさん

しばらくです。また難題をいろいろと(笑)。

>事故はJR西日本も悪いけど、そこまでこの会社を追い込んだ消費者に問題があるのではないか。

私自身は、関西の消費者の厳しさというものを実態として知らないので判断がつきません。
しかし、もしそうであるのなら、私鉄を含めた関西の鉄道における事故発生率は他の地域より高いはずです。そういうデータが存在するのでなければ、「せっかちな関西人」を背景に持ちだすのは難しいのではないでしょうか。屁理屈を言えば、消費者からのプレッシャーを受ける側も関西人ですから耐性が強いはず、とも考えられますし。

>私は髭の記者さんを擁護しますね。

ここでpenguinさんが書いていること自体には結構うなづけるのですが、件の会見が実際にpenguinさんが仮定しているような状況であったかどうか。言い換えれば、彼が本当にpenguinさんに擁護されるに値する行動をとっていたのか。それはわからない、というより、あやしいのではという気がします。
記者が会見で遺族の代弁をするのがいい場合もあるし、悪い場合もあります。こういうことは、ある程度の確実な事実を踏まえて個別具体的に話さなければ意味がないので、私は彼の行動の是非についてあまり突っ込んだ議論をする気はありません。そこまでの興味もないですし。

ただ、私が目を通した記事等が正しいのであれば、彼の発言の多くは、質問の体をなしていない。相手の回答を期待しているとは思えない一連の「質問」を通じて、彼はどんな情報を引きだし、どんな記事を書くつもりだったのでしょうか。私には見当がつきません。その意味では、プロの振舞いとしては疑問ですね。
(トップを会見の場に引きずり出す上では、効果があったのかも知れませんが)


>取材の現場は、多少感情むき出しでいいと思いますよ。編集の現場が「まあまあ」とブレーキをかけますから。

そうなのであれば理想的ですが、私には正反対の経験があります。戦場から遠くにいる指揮官ほど好戦的になるというのは、多くの戦争で見られる風景ではないでしょうか。先のイラク攻撃におけるUSAもそうでした。
読者が「感情で読む」のは事実だとしても、作り手のそれと一致するとは限りません。読者の感情に自分たちが寄り添えているのか、という点では、今までの新聞・テレビはあまりに無防備な確信に満ちていると思います。


>私はダイアナ妃が事故死したときに、現場にいました。続々とパリ市民から花束が集まってきました。イギリス国民でもないのに、です。

ダイアナ妃はもともと世界的スターですから、生前の彼女を(メディアを通してであれ)知っている人が花束を贈るのは、小説家や芸能人の葬儀にファンが参列するようなもので、特に奇妙なことではないと思います。

>それと、地域コミュニティを解体する方向で突き進んできたこの国の戦後が問題。
>地域コミュニティの規範・境界が消失し、個人や家族といった規範の次の段階は、マスメディア=全国一律のユニバーサルサービスの段階に一気に飛躍してしまう。

今回は意見が食い違いまくってますが(笑)、この点については、まったく同意します。人間どうしの関係、とりわけ距離についての適正な感覚を、我々の社会は見失いつつあるのだと思います。従来備わっていた距離感では対処しきれないような変化が起こり続けているのでしょう(それは今も続いているわけですが)。

>鉄さんがおっしゃりたいのは、そういう『善の共感』ではなく、「悪意の共振」の問題点ですよね。チマチョゴリが切られたり、っていう。

いや、善と悪を別個に考えるのではなく、「表現される行動としては善だったり悪だったりして全然別の出来事のように見えるけれど、実は『距離感の混乱』という共通の原因に基づいているのではないか」というのが趣旨です。penguinさんの言葉を借りれば、「共振」という点では同じ、と。
確かにpenguinさんがおっしゃるように、災害時のボランティアが活発になったのも近年の傾向で、これは距離感の喪失が良い結果に結びついたものでしょう。ただ、そういう良い面だけを伸ばしてダークサイドは封じ込めようというのは、なかなか難しいのではないかと思うのです。
脱線事故の被害者が嫌がらせをされている、という報道もありました。これもまた、過去に何度となく繰り返されてきた出来事です。

それはそれとして、「共感力」というのは面白いキーワードですね。
上の話題についていえば、本来は主に地域の中で発揮されるようにできている「共感力」が、地域社会の喪失により行き場を失って、メディアで知った被害者や被災地へと向けられてしまう、というようにモデル化できるかも知れません。そして、共感できない相手に対しては攻撃の刃と化す。


>そこはむしろ、ブログの性善説に期待したいですね。ブログが成熟化すれば、新しい倫理を生み出すのではないでしょうか。甘いかな。

blog自体は性善でも性悪でもないと思いますよ。ただ、人間がもともと持っている性質のある部分を過剰に引きだしてしまう、という特性があるのだと思います。それがどの部分かは、まだはっきりとわかっていないわけですが。


いつもpenguinさんのコメントは、私の考えと微妙にズレていることが多いのですが(笑)、このズレがしばしば考えを深めたり、新しいエントリーを立てたり(笑)という契機を作ってくれるので、とてもありがたいです。
誰かと話していて一番面白いのは、意見や感覚がまったく一致する時ではなく(それなら話す必要がない(笑))、「ズレつつも共鳴している」と感じられる時ではないでしょうか。自分ひとりでは出せない音が出るようになるのがいいですね。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/05/17 09:40

>エムナカさん

ひとつ前にいただいたコメントの、

>ともかく、もう少し何をするにももう少し落ち着いてやることがカギになりそうですね。リアクションも反射的にでなく、ゆっくりと何度も推敲を重ねて不要な誤解を招かぬよう(もちろん自戒も込めて)

これは実は、私にとっては新鮮でした。私は文筆業界にいるせいか、メールだろうと掲示板やblogの書き込みだろうと、文章を書く時には推敲を重ねて、不必要な感情的表現を抑制するのが習慣になっているのですが、ネット上の大多数の人にとっては、そうでないのが普通なのだな、と改めて気がつきました。それがネットに合ったスピード感覚であり、私が落ちこぼれているのかも知れませんが(笑)。

ところで、文筆業界で自分自身や他人様の文章を日夜山ほど読んでいると、人は必ず一定の確率で誤字脱字をするものだということがわかってきます。ちょっとした変換ミスなど、あまり気にせずにいきましょう、お互いに(笑)。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/05/17 09:50

鉄さん
 酔った勢いに任せて(まさしく感情むき出し)でかきなぐったのが、昨夜の文章でした。
(読み返すと顔から火が出るくらい恥ずかしいですね。スキだらけ)

 そういえば「市民ケーン」によると、先のイラク戦争のみならず、古くは新聞王ハーストだって、スペインとの戦争を仕掛け、自分の紙面で戦争気分をあおりまくったのでしたっけ。編集側が冷静なうちはいいですが、編集局長自らが冷静さを欠いたり、恣意的に好戦的だったり、外部の圧力でどんどん好戦的になったり(戦前の日本ですね)しますから、編集と取材は両方冷静、あるいはどっちかが冷静っていうのが理想ですかね。
 両方カッカ来てると、方向を見誤る。

 話は変わりますが、あの会見の現場でカッカきてた記者の熱さは、確実に、紙面に影響を及ぼさずにはいなかったでしょう。
 影響を受けなかったとしたら、人間じゃない。いっそ編集マシーンに編集してもらったらいい。編集の人間は皆いらなくなる。
 だけど、人間が書いて人間が読むものだから、人間が介在し、情報を整え、意味づけして「ウチのスタンスはこうだ」ってやる意味があるんですものね。共感を得られなかったら、支持を失い、すたれていく。(ホントは宅配制度に守られていて、鉄さんおっしゃる通り、無防備な確信だけしかないんですけどね。それでも一応勝負して、うちはこうだ、意見が合わないならどうぞ来月から変えてね、とやっている、、、、はず。)
 
 それにしても、かくも共振しやすい国になってしまったわけですね。僕らの国民は。遠隔地で発信された情報でも、等身大の身近な情報ととらえてしまう。
 それって、いざというときに、中央集権国家にとっては非常にコントロールしやすい状況ですよね。一斉に動かせるってことは。
 自分の目で見たこと以外は疑うってこと、「また言ってらマスコミが」ぐらいに話半分に受け取るってことが必要ですよね。人気の真鍋かをり氏や古田氏のブログだって、本当に本人が書いているかどうか、だれも検証できてないんじゃないでしょうか。
 本当は、中学の社会の授業か家庭科の授業は、そういう「メディアを疑え」教育に、時間を割いたらいいのでは(もうやってたりして。そうすれば先生たちの権威が回復するかも、というおまけ付き)。

 それと、知り合いの脱サラした人の例ですが、少しテレビや新聞や雑誌やネットから、離れてみると、いかにそれらの情報がムダか、よくわかります。一カ月も新聞読まなくたってテレビ見なく立って、不便は何も感じません。すぐ慣れます。それでも人づてに大ニュースは入ってきます。「イラクでまた日本人襲撃されたらしいよ」ぐらいは。かえって、世の中のからくりがすっきり見えてきたりします。

 あれ?しらふでもあんまり文章の質はかわりませんでした。恥ずかしい。
(今後も鉄さんの透徹された「通奏低音」を乱さない程度に、合いの手を入れさせていただきます)

 あ。最近、村上龍の「半島を出よ」を読了。読みました?

投稿: penguin本人 | 2005/05/18 02:07

>自分の目で見たこと以外は疑うってこと、「また言ってらマスコミが」ぐらいに話半分に受け取るってことが必要ですよね。

後半には同感ですが、自分の目を含めた、自分の情報源を信頼しすぎるのも、おかしなことになるんですよね。「知り合いに聞いたインサイダー情報」に重きを置きすぎて判断を誤る人は、報道関係者を含めて(笑)いくらでもいます。
さまざまな情報を付き合わせて総合的に検討する能力を養うことは、どんな職業でも、いや、単に生きていく上でも重要ですね。

>最近、村上龍の「半島を出よ」を読了。読みました?

まだです。「まだ」と答えるということは、読む気はあるのかな?>俺(笑)

投稿: 念仏の鉄 | 2005/05/23 10:15

 竹村氏は悪くない!!!
 それと嫌がらせを受けた会社には、残酷な言い方になりますが、乗務出来なくなった運転士のことや線路に落ちそうになった運転士のことも含め、全部JR西日本が本当に悪いのです!!!
 今回のことで、JR西日本に関しては一切の同情はしない。
 川崎市で起きた万引き逃走死亡事故の被告となった万引きした少年とJR西日本は全く同じなのです。 冗談ぬきで!!!!

投稿: 電 功 | 2005/09/25 18:23

>電 功さん

はじめまして。
昨日行われた合同慰霊祭についても、ずいぶんとJR西日本を批判する報道が出ていますね。補償交渉の進展のなさを見る限り、この会社の体質が劇的に改善されたとは考えにくいようです。しかし、新聞によっては、ずいぶんとあっさりした小さな扱いのところもあります。事故直後から「信楽鉄道の教訓が生かされていない」と厳しく糾弾していたわけですから、きちんと事後の動きを追い続けるメディアがあってほしいと思います。

> それと嫌がらせを受けた会社には、残酷な言い方になりますが、乗務出来なくなった運転士のことや線路に落ちそうになった運転士のことも含め、全部JR西日本が本当に悪いのです!!!

このエントリは事故そのものについてでなく、嫌がらせの方がテーマなので、その線に沿ってコメントさせていただきます。
この文章を見ると、悪いのはJR西日本という会社で、「乗務出来なくなった運転士」や「線路に落ちそうになった運転士」は被害者だとお考えのようですね。嫌がらせ電話で罵倒されたり駅で殴られたりしているのはそれらの運転士と同じ社員であり、嫌がらせ行為は、会社そのもの(あるいは経営者)にはほとんどダメージを与えていません。まったく合理性を欠いているにもかかわらず嫌がらせをしてしまう人々が、私には気になっています。


>川崎市で起きた万引き逃走死亡事故の被告となった万引きした少年とJR西日本は全く同じなのです。

古書店で万引きを通報され、警官に連行される途中で逃げ出して、電車にはねられて死んだ少年のことですね。
この事件でも、古書店の店主に嫌がらせが殺到し、店を閉めてしまうという後日談があります。これは「警官から逃走した少年が交通事故で死んだ」のであり、古書店主の通報と少年の死との間にはほとんど関係はないと私は思います。古書店主にとって、少年の死という結果が予測不能であったことは言うまでもありません。
ただ、「万引き」および「警官から逃走」という罪に対して、死という結果は重すぎますから、その点では気の毒ですし、当然の結末だとは思えません。死亡事故にせよ、万引きにせよ、犯した罪と与えられる罰との間には、相応のバランスが必要です。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/09/26 08:50

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