日本サッカー「右肩上がりの時代」の掉尾に。
大会そのものをろくに見てもいないで書くのもナンだが、今回のワールドユースの日本代表のベスト16という成績はともかく、本大会で1勝もできなかった(このチーム、アジア予選でもPK戦ばかりだった)という結果から思うのは、阿部や石川ら「谷間の世代」と言われた年代は、実は谷間でもなんでもなかったのだということだ。その前の小野や稲本の99年ワールドユース組、あるいはシドニー五輪世代が、あまりにも突出していたから谷間のように見えてしまったに過ぎないのだということが、だんだんとはっきりしてきたように思う。
99年以後、3大会にわたってU-20が小野世代との落差を感じさせる実力に留まっているということは、すなわち、90年代初頭から連綿と続いた「若い選手ほどサッカーが上手い」という状況の終焉を意味している。
現在の日本代表メンバーは、2002年ワールドカップに出場した顔触れから、あまり変化がない。その後加わった選手たちの多くも、中村、中澤、高原ら僅差で2002年の出場を逃した選手を含め、年齢的には2002年組と大差ない。それはジーコ代表監督が世代交代に消極的であることだけが理由ではないと思う。
前にもどこかで書いた気がするが、「日本サッカーの右肩上がりの時代」はすでに終わって、我々は今、成長の階段の踊り場にいる。たぶん、これからは、いろんな大会で勝ったり負けたり、時には各年代の世界大会に出場しそこねたりしながら、たまたまいい選手が大挙して現れる時期にはワールドカップで上位進出を狙える、という歴史を積み重ねていくことになるのだろう。94年のブルガリアやルーマニア、98年のクロアチア、あるいは2002年のトルコや韓国のように。
そんな状況で迎える2006年のワールドカップを、日本代表はどうやらジーコ監督の下で戦うことになる。
ジーコ監督は、良くも悪くも「馬なり」の戦いを好む。彼のサッカーでは、選手個々の力量の総和が、結果にそのまま反映する。チームの力量には、「神通力」とでも言うべき強運やメンタリティによる上乗せはあっても、システム(ここでいう「システム」はサッカー用語としてではなく、「相互に作用する要素の複合体」という言葉本来の意味でご理解いただきたい)による上乗せはめったに見られない。
(私がこのblogの中で久保と中澤に固執してきたのは、「とりあえず1人で何とかする能力」において、日本では突出しているからだ。ジーコ監督のサッカーの中では、その種の能力は絶対的な重みを持ち、代替は利かない)
階級差によって自動的に勝敗が決する軍人将棋のようなサッカーをしている限り、アジア予選は勝ち抜けても、ワールドカップ本大会でのグループリーグ勝ち抜きはかなり苦しいと私は思っている。中田英寿もそう思っているらしい。
ジーコ代表監督の就任以来、3年近く仕事ぶりを眺めてきたが、ジーコという指導者が、どのような力量と、どのような価値を備えているのか、私にはいまだによくわからない。これは反語として言っているのではなく、本当にわからないのだ。西部謙司の『ゲーム・オブ・ピープル』を読んで、こういうことなのかな、と漠然としたイメージが湧いてはきたが、それが果たして「監督としての力量」「監督としての価値」と言えるのかどうかは、結局よくわからない。
そういう、何らかの付加価値を備えているらしいのだが、それが何なのかは誰にもうまく説明できないような人物を代表監督に据えることが、日本代表にプラスになる場合も、たぶんあるのだろうとは思う。だが、それが今なのか、という点では、私はかなり懐疑的だ。
理由はただひとつ。日本にとっては、まさに今こそが「たまたまいい選手が大挙して現れる時期」であるからだ。
来年6月1日の年齢は、中田英寿29歳、中村俊輔27歳、小野伸二26歳。あるいは久保竜彦29歳、中澤佑二28歳。主力選手が軒並み、サッカー選手の最盛期と言われる20代後半にいる。これほど数多くの優れた才能をピッチに並べられる時期にワールドカップが開催されるという幸運が、そう何度も訪れるものなのだろうか。
ワールドカップは4年に1度づつ同じ周期で巡ってくるが、迎える側の状況は一定ではない。だから大会の位置づけはその都度異なってよいはずだ。若い選手たちが経験値を獲得すべき大会もあるだろうし、結果よりも試合内容によって世界に存在感を示すことに意味がある時期もあるだろう。
だが、とにかく何を措いても勝利を目指し、上位に食い込むことを狙うべき大会があるとしたら、それは2006年大会なのではないかと私は思う。
代表選手の多くがワールドカップ経験者であり、ほとんど全員が何らかの世界大会でグループリーグを勝ち抜いたことがある。レギュラーの大半は代表キャップ数30を超えている。こんなチームが、結果以外に何を求めるというのだろう。だいたい、彼らが今さら経験を積んだところで、2010年にはほとんどが代表を退いているに違いない(そうでないとしたら、それはそれで危機的状況である)。逆に言えば、彼らの多くにとって、これは最後のワールドカップとなる可能性が高いのだ。誰にとっても、後先考えずにガツガツと勝利だけを目指すにふさわしい要因は揃っている。2006年は上位進出の空前のチャンスである。こんな機会は、そうそう何度も巡ってくるものではない。
もし、そのように考えるのであれば、ジーコ監督は、おそらく日本代表にとってベストではない。
現有戦力を活用して日本代表に勝利をもたらす技術において、ジーコよりも優れた指導者は、おそらく世界に大勢いるだろうと私は思っている(現実的に招聘可能な候補者を名指しするほどの知識は私にはない。実現可能性を棚上げすれば、例えばイビチャ・オシムやフース・ヒディンクの名を挙げることはできる)。
にもかかわらず、JFAはそのような指導者に勝利を託す可能性を検討することなく、ジーコ監督のままで2006年のワールドカップに臨もうとしているように見える。
JFAにとって、ドイツ大会は「後先考えずに勝利だけを目指すべき大会」という位置づけではなく、何か別の考えがあって、そのためにジーコが最善だと判断しているのだろうか。それならそれでよいのだけれど、その位置づけが何なのか、私には想像がつかない。
日本経済の「右肩上がりの時代」の後には、大きな不景気が待っていた。90年代は今では「失われた10年」と呼ばれているそうだ。
その90年代に「右肩上がりの時代」を経験した日本サッカーが、後世になって2002年夏からの4年間を「失われた4年」などと呼ばれるような羽目には、なってほしくない。
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