« 2005年5月 | トップページ | 2005年7月 »

2005年6月

日本サッカー「右肩上がりの時代」の掉尾に。

 大会そのものをろくに見てもいないで書くのもナンだが、今回のワールドユースの日本代表のベスト16という成績はともかく、本大会で1勝もできなかった(このチーム、アジア予選でもPK戦ばかりだった)という結果から思うのは、阿部や石川ら「谷間の世代」と言われた年代は、実は谷間でもなんでもなかったのだということだ。その前の小野や稲本の99年ワールドユース組、あるいはシドニー五輪世代が、あまりにも突出していたから谷間のように見えてしまったに過ぎないのだということが、だんだんとはっきりしてきたように思う。

 99年以後、3大会にわたってU-20が小野世代との落差を感じさせる実力に留まっているということは、すなわち、90年代初頭から連綿と続いた「若い選手ほどサッカーが上手い」という状況の終焉を意味している。
 現在の日本代表メンバーは、2002年ワールドカップに出場した顔触れから、あまり変化がない。その後加わった選手たちの多くも、中村、中澤、高原ら僅差で2002年の出場を逃した選手を含め、年齢的には2002年組と大差ない。それはジーコ代表監督が世代交代に消極的であることだけが理由ではないと思う。

 前にもどこかで書いた気がするが、「日本サッカーの右肩上がりの時代」はすでに終わって、我々は今、成長の階段の踊り場にいる。たぶん、これからは、いろんな大会で勝ったり負けたり、時には各年代の世界大会に出場しそこねたりしながら、たまたまいい選手が大挙して現れる時期にはワールドカップで上位進出を狙える、という歴史を積み重ねていくことになるのだろう。94年のブルガリアやルーマニア、98年のクロアチア、あるいは2002年のトルコや韓国のように。

 そんな状況で迎える2006年のワールドカップを、日本代表はどうやらジーコ監督の下で戦うことになる。

 ジーコ監督は、良くも悪くも「馬なり」の戦いを好む。彼のサッカーでは、選手個々の力量の総和が、結果にそのまま反映する。チームの力量には、「神通力」とでも言うべき強運やメンタリティによる上乗せはあっても、システム(ここでいう「システム」はサッカー用語としてではなく、「相互に作用する要素の複合体」という言葉本来の意味でご理解いただきたい)による上乗せはめったに見られない。
(私がこのblogの中で久保と中澤に固執してきたのは、「とりあえず1人で何とかする能力」において、日本では突出しているからだ。ジーコ監督のサッカーの中では、その種の能力は絶対的な重みを持ち、代替は利かない)
 階級差によって自動的に勝敗が決する軍人将棋のようなサッカーをしている限り、アジア予選は勝ち抜けても、ワールドカップ本大会でのグループリーグ勝ち抜きはかなり苦しいと私は思っている。中田英寿もそう思っているらしい。

 ジーコ代表監督の就任以来、3年近く仕事ぶりを眺めてきたが、ジーコという指導者が、どのような力量と、どのような価値を備えているのか、私にはいまだによくわからない。これは反語として言っているのではなく、本当にわからないのだ。西部謙司の『ゲーム・オブ・ピープル』を読んで、こういうことなのかな、と漠然としたイメージが湧いてはきたが、それが果たして「監督としての力量」「監督としての価値」と言えるのかどうかは、結局よくわからない。
 そういう、何らかの付加価値を備えているらしいのだが、それが何なのかは誰にもうまく説明できないような人物を代表監督に据えることが、日本代表にプラスになる場合も、たぶんあるのだろうとは思う。だが、それが今なのか、という点では、私はかなり懐疑的だ。

 理由はただひとつ。日本にとっては、まさに今こそが「たまたまいい選手が大挙して現れる時期」であるからだ。
 来年6月1日の年齢は、中田英寿29歳、中村俊輔27歳、小野伸二26歳。あるいは久保竜彦29歳、中澤佑二28歳。主力選手が軒並み、サッカー選手の最盛期と言われる20代後半にいる。これほど数多くの優れた才能をピッチに並べられる時期にワールドカップが開催されるという幸運が、そう何度も訪れるものなのだろうか。

 ワールドカップは4年に1度づつ同じ周期で巡ってくるが、迎える側の状況は一定ではない。だから大会の位置づけはその都度異なってよいはずだ。若い選手たちが経験値を獲得すべき大会もあるだろうし、結果よりも試合内容によって世界に存在感を示すことに意味がある時期もあるだろう。
 だが、とにかく何を措いても勝利を目指し、上位に食い込むことを狙うべき大会があるとしたら、それは2006年大会なのではないかと私は思う。
 代表選手の多くがワールドカップ経験者であり、ほとんど全員が何らかの世界大会でグループリーグを勝ち抜いたことがある。レギュラーの大半は代表キャップ数30を超えている。こんなチームが、結果以外に何を求めるというのだろう。だいたい、彼らが今さら経験を積んだところで、2010年にはほとんどが代表を退いているに違いない(そうでないとしたら、それはそれで危機的状況である)。逆に言えば、彼らの多くにとって、これは最後のワールドカップとなる可能性が高いのだ。誰にとっても、後先考えずにガツガツと勝利だけを目指すにふさわしい要因は揃っている。2006年は上位進出の空前のチャンスである。こんな機会は、そうそう何度も巡ってくるものではない。

 もし、そのように考えるのであれば、ジーコ監督は、おそらく日本代表にとってベストではない。
 現有戦力を活用して日本代表に勝利をもたらす技術において、ジーコよりも優れた指導者は、おそらく世界に大勢いるだろうと私は思っている(現実的に招聘可能な候補者を名指しするほどの知識は私にはない。実現可能性を棚上げすれば、例えばイビチャ・オシムやフース・ヒディンクの名を挙げることはできる)。
 にもかかわらず、JFAはそのような指導者に勝利を託す可能性を検討することなく、ジーコ監督のままで2006年のワールドカップに臨もうとしているように見える。
 JFAにとって、ドイツ大会は「後先考えずに勝利だけを目指すべき大会」という位置づけではなく、何か別の考えがあって、そのためにジーコが最善だと判断しているのだろうか。それならそれでよいのだけれど、その位置づけが何なのか、私には想像がつかない。

 日本経済の「右肩上がりの時代」の後には、大きな不景気が待っていた。90年代は今では「失われた10年」と呼ばれているそうだ。
 その90年代に「右肩上がりの時代」を経験した日本サッカーが、後世になって2002年夏からの4年間を「失われた4年」などと呼ばれるような羽目には、なってほしくない。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

勝利か、教育か。 〜『コーチ・カーター』の指導論〜

 皆さん、ご無沙汰いたしました。

 半月ぶりに日本に戻ってみると、野茂が日米合計200勝目を挙げ、野村が2000本安打を打ち、読売ジャイアンツは相変わらず低迷していた。あれほど好調だったイチローと、あれほど不調だった松井の打率がほとんど同じになっていた。ワールドユースはグループリーグを勝ち上がったと聞いて、なかなかやるなと思ったが、結局1勝もしていないというのでわけがわからなくなった。
 欧州にいたのでコンフェデ杯はテレビ中継されていたが、日本の試合は時間帯が早くて仕事とぶつかることが多く、実際に中継を見られたのはブラジル戦の前半だけだった。試合前には、アトランタ五輪の映像とともに、川口がインタビューされて英語で答えていた。

 というわけで残念ながら現地情報としてご報告できることはないのだが(笑)、帰りの機内で見た映画が、なかなか面白かった。『コーチ・カーター』というサミュエル・L・ジョンソン主演のバスケット映画で、日本では来月あたりに封切られるらしい。

 舞台はカリフォルニア州リッチモンド高校のバスケット部だ。学校のランクは10段階で1。チームの昨シーズンの成績は4勝22敗。最低の学校の最低のチームに、かつて同校バスケット部で史上最高の活躍をしたOBのカーターが、コーチとして招かれる。
 前任者から紹介されるなり、カーターは生徒たちの言葉遣いを正し、「コートの上では互いに尊敬を払う」と宣言し、「成績は平均2.3を取ること」「すべての授業に出席し、最前列に座ること」「試合ではネクタイと上着着用」などの条項が記された契約書にサインを求め、「私についてくれば、勝利の喜びを教えよう」と約束する。
 高圧的なやり方に反発して、いきなり体育館を出ていく主力選手もいたが、多くは半信半疑ながらもカーターに従う。厳しく鍛えられたチームは新しいシーズンの開幕とともに快進撃を続けるが、そのスタイルは学校や父兄からの批判を招き…。

 はっきりいって、よくある話である。アメリカ人は、よほどこういう話が好きなのだろう(私も好きだけど(笑))。何年か置きに繰り返し作られ、それぞれが相応によくできていて、「よくある話」などと言いながらも、見ていれば結局は引き込まれ、泣かされる。そんなタイプの映画だ。私がすぐに連想したのは『タイタンズを忘れない』というフットボール映画だったが、他にもいろいろ似たものはあるだろう。日本でいえば『スクール・ウォーズ』とか。

 で、そういう映画としての『コーチ・カーター』は、型通りにきっちり作られた佳作だ。この手のものが好きな人が見れば、まず裏切られることはないと思う。試合場面は実にリアルで、息をのまされる。MTVが製作に関わっているとあって、音楽もいい。全般的に人物描写があっさりしているが、上映時間はすでに2時間を超えているので、まあ妥当なところだろう。

********************

※以下はいささか作品内容に踏み込んでいる。映画に予備知識は無用という考えの方は飛ばしていただくのが無難。途中から悪口に転じたりはしないのでご心配なく。
 一応、鑑賞時に興を削がない範囲で書いているつもりだが、このごろ、ネタバレについてはいささか神経質になっているので。出張前に、楽しみにしていた『ミリオンダラー・ベイビー』について、あるサイトでストーリー上の決定的な秘密の暴露に遭遇してしまったショックが尾を引いているらしい。
 ちなみに、『ミリオンダラー・ベイビー』も今回の機内映画のメニューにあり、行きの機内で見た。たぶん、知らずに見た場合とはまったく見え方が違ってしまったのだが、それはそれで心に沁みる映画だった(笑)。
 さて、では『コーチ・カーター』の続きを。

********************

 カーターの指導の最大の特徴は、練習も厳しいが、それ以上に教育に厳しいことだ。勝利に酔った選手たちが学業をおろそかにしはじめた時、カーターは強硬な手段で彼らに契約の履行を迫り、そのことで周囲との軋轢は決定的なものになってしまう。
 学校や父兄はおろか、町中を敵に回してしまったカーターが、選手たちを前に話す言葉は、この映画の白眉と言えるものだ。
 カーターは言う。
 この学校では多くの生徒が中退し、大学へ進む者は数えるほどしかいない。この町のアフリカ系アメリカ人の3人に1人は逮捕される。私は君たちにそうなって欲しくはないのだ、だからこそ持てるすべての力を注いで君たちを大学に送りたいのだ、と。
 このくだりがあるからこそ、彼らの最後の台詞、

 「俺たちは?」「リッチモンド!」
 「生まれた町は?」「リッチモンド!」
 「母校は?」「リッチモンド!」

というカーターと選手たちのコール&レスポンスが胸を打つ。


 強い信念に裏打ちされて、カーターの指導にはブレがない。しかし、周囲の人々はブレまくる。とりわけ選手の父兄たちはカーターを面罵したり褒め称えたり、登場するたびに態度をコロコロと変え、しかも、そのことに何の葛藤も感じていないように見える。
 いくら何でも父兄たちが頭悪く描かれすぎだと思ったのだが、ニューヨークのハーレムに住む日本人女性アキツさんの『ハーレム通信』「Coach Carter(コーチ・カーター)とブラック・コミュニティー(1)」(このエントリーは(4)まである。ぜひ全部読んでほしい)によると、これが多くのアフリカ系アメリカ人たちの現実そのものらしい。親たちは子供の将来どころか、自分たちの生活も、あらかじめ諦めきって真剣に考えようとはしない。映画の中で、選手たちはガールフレンドを妊娠させたり、麻薬密売に手を染めたり、さまざまなトラブルを抱えているが、それもまた日常茶飯事のようだ。

 バスケットだけに責任を負っているはずのカーターが、体を張って生徒たちを教育しようと試み、生徒の将来に責任を負っているはずの校長や父兄たちが、目先の勝利を欲してカーターを非難する。この倒錯にこそ、彼らが置かれた状況の困難さが現れている。バスケットが貧困のループから脱出する数少ない道であるが故に、バスケットで成功しそうな息子は、親にとって「金ヅル」にしか見えなくなってしまうのかも知れない。カーターの言葉など、彼らの耳には単なる奇麗事にしか聞こえないのだろう。
 厳密に言えば、カーターは教育を勝利に優先させたわけではない。彼の目標は、あくまで勝利だ。ただし、教育の伴わない勝利が若者たちにどれだけの害を与えるかを、彼は身をもって知っているのだ(そう書くと、私は我らが『星屑たち』を思い出さずにはいられない)。

 エンドロールの前に、選手ひとりひとりの進路が字幕で示される(これもまた、型通りだ(笑))。この映画は10年ほど前の実話をもとにしているそうだが、彼らは今も、「俺たちはリッチモンドだ!」と胸を張って言えるだろうか。そうであってほしい。


追記(2005.9.3)
「10年ほど前の実話」と書きましたが、実際には99年だそうです。みんな大学を出た頃だが、どうなっているのやら。

| | コメント (14) | トラックバック (9)

一番乗り。

Japan the first to qualify

ドイツ大会公式サイトより。今(6/8 23:20)は、このサイトのトップページにも載っている。
「最初」というのは注目が集まって、いいもんですな。
まだ残業中だが、柳沢と大黒の得点が入った時と試合終了時には、会社中の部屋で歓声が上がっていた(仕事しろよ(笑))。きっと日本中の多くのご家庭でも、同じだったのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

名球会に似合いそうな男。

 野茂が「日米通算200勝」に到達したらアップしようと思っていたが、なかなかしないので先に出してしまうことにする。しばらく留守にするので、待っていられなくなってしまった(笑)。

 野茂がMLBで次の1勝を挙げると、名球会入りの資格を得る。しかし、野茂がアメリカに渡った10年前には、そんなルールはなかった。
 プロ野球OBの親睦団体である「日本プロ野球名球会」は、従来は日本プロ野球での200勝もしくは2000本安打を入会資格としていた。今ではこれに「250セーブ」を加え、さらにいずれの数字も「日米通算」で可としている(それなら「100勝150セーブ」ではダメなのか?)。

 入会資格を変更したのは2003年オフのことだから、翌2004年にイチローの日米通算安打数が2000本を超えることを見越して手を打ったのだろう。これを機敏な反応と見るか、姑息なやり方と見るかは、見る側の好みによる。名球会の幹部が「イチローを入会させなければ会の値打ちが落ちる」と考えたのなら、その判断そのものは正しい。
 もちろん、入る入らないは最終的には本人の意思で決まる。有資格者の中では、榎本喜八、落合博満の2人が入会を拒んでいるという。また、江夏豊は昔は入会していたが、覚醒剤取締法違反の罪を犯すという不祥事によって会を退いたらしい。
 イチローは日米通算2000本安打を達成した時に、入会の意思を問われて殊勝なコメントをしていたが、野茂はどういう反応をするだろうか。

 ところで、私もWikipediaで名球会の項を開いてみるまで気づかなかったのだが、上記の資格変更によって、名球会はイチローや野茂の他にも大勢の入会資格者を生むことになった。「日米通算記録」でよいのなら、MLBで2000本打った後に日本でプレーした選手は、それだけで入会資格を得ることになるからだ。
 ウィキペディアに紹介されているMLB出身の有資格者は10人。いまだ現役のフリオ・フランコ(もはや「MLBのあぶさん」と呼びたい)も有資格者だし、かつて私がこよなく愛したロイ・ホワイト(今はヤンキースの一塁ベースコーチとして、出塁した松井と何事か話す姿がよくテレビに映っている)にも、ぜひ名球会入りしてONと旧交を温めて欲しいものだ(笑)。
 だが、たとえば日本で8セーブしか挙げていない(が日米通算では318セーブの)リッチ・ゴッセージが入会を希望したら、名球会は何と言って断るのだろう。制度というものは付け焼き刃で変更を行うと思わぬ副作用を招く、というよい例である。

 とはいうものの、この10人の中で、自分が有資格者だと知ったら本気で名球会入りを希望しそうなOBもいる。ウォーレン・クロマティだ。ジャイアンツ在籍時からハイテンションの明るさで人気のあった彼なら、ハワイあたりで会員たちがゴルフに興じるようなしょうもないテレビ番組(を今でもやっているのかどうかはよく知らないが)も大いに盛り上げてくれるに違いない。その点での貢献はまず期待できないイチローや野茂をはるかにしのぐ、貴重な新戦力だ。ぜひスカウトすべきではないか。

 ところで、この会の入会資格には「昭和生まれ」というのもある。確か昭和53年の結成当時は「昭和名球会」と名乗っていたはずだ。
 創設以来の会長である金田正一が、ジャイアンツでの後輩であった長嶋茂雄と王貞治を誘って作ったという経緯を思い出せば、生年に制限を設けている理由は想像がつく。たぶん金田は、2000本安打/200勝達成者である川上哲治、別所毅彦といった、うるさ型の年長者を排除して、自分がお山の大将でいたかったのだろう。
 そのくせ、佐々木やイチローや野茂を仲間に加えるためには、入会資格もどんどん変更する。まったくもって「政治的」である。アルヴァロさんのような若者が「脂っこい世界」と嫌悪感を示すのも当然だ。「青少年の健全な育成に貢献をしていきたい」という建前を述べる活動が、当の青少年からどう見えているか、そろそろ考え直してみた方がいい。若い世代の会員も増えてきたし、社会性にかけてはOBたちをはるかにしのぐ古田選手会長がせっかく入会してきたのだから、名球会の今後のあり方でも相談してみたらどうだろうか。

 「名球会はプロ野球で功なり名をとげた者の親ぼく団体にとどまらず、商品にシンボルマークをつけ販売するなど積極的な社会還元をめざしているのです。このような前向きの姿勢が、日本のプロ野球界をさらに大きく飛躍させる力となることでしょう。」(公式サイトの挨拶文から)

 いくらなんでも、ここまで能天気な感覚が通用する時代は、昭和の昔で終わっているのだから。


お知らせ:
冒頭にも書いたように、これから6月下旬まで海外出張に出ますので、しばらく更新はできません。皆様には7月初めごろに当blogを思い出していただければ幸いです。ちょうどワールドユースとコンフェデの期間に当たってしまいますが、行き先は一応ヨーロッパなので、コンフェデくらいはテレビ中継を見られるかも。

それはそれとして、戻ってくるまでに野茂が200勝していることを祈る。名球会入りなどはどうでもいいが、このまま6月も勝てなかったら、彼の現役生活そのものが危うくなってしまう。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

「わがロッテファンは世界一」

 幕張のライトスタンドの素晴らしさについては20世紀の昔から語られてきたし、私自身も何度か実地に見聞きしてきた。今さら言うようなことではないのかも知れない。
 それでも、先日、東京ドームで巨人-千葉ロッテを観戦した夜のことを思い出すと、浮かんでくるのは、レフトスタンドの黒い軍団の圧倒的な声ばかりだ。

 私は一階の一塁側内野席の後ろの方に座っていた。ちょうど投手をはさんでレフトスタンドと真正面に向かい合うような位置だった。そのせいもあってか、マリーンズ攻撃中の彼らの声は、のしかかるように響いてきた。
 人が大勢で声を出す場合、それがきちんと揃っているかどうかで、パワーは何倍も異なる。ジャイアンツの応援団の方が人数は多かったが、人々の配置も、声の出し方も、どことなく散漫で、輪郭がぼやけていた。

 一方の黒い軍団は、限られた範囲に密集して立ち、速いテンポのチャント(「応援歌」というよりは、サッカー界で使われるこの言葉の方が似合う)を次々と繰り出す。エッジの立った歌声は、それ自体が物理的な圧力としてジャイアンツの選手たちにのしかかっていたはずだ。
 歌だけではなく、彼らは戦況に応じてきめ細かく声を出していた。ジャイアンツの先発投手・工藤が一塁に牽制球を投じるたびに、激しいブーイングが浴びせられる。私の斜め後方に座っていたネクタイ姿の中年サラリーマンは、ブーイングのたびに「うるせぇ」と口にしたが、その声は弱々しく、初めて見る黒い塊に気圧されているのは明らかだった。彼や私よりもずっとレフトスタンドに近い工藤には、さらにうるさく感じられたことだろう。
 試合はマリーンズ打線がサポーターの声に後押しされるように連打でビッグイニングを重ねた。ジャイアンツは本塁打で反撃したが、及ばなかった。

 印象深いのは、タイムリーヒットを放って塁上に立つ選手たちの多くが、レフトスタンドに向かって手を振ったり、拳をかざしていたことだ。ジャイアンツファンで埋まった観客席の一角で、大海に浮かぶ小島のように、黒いユニホームの一団が声をはりあげている。選手たちの仕草は、「あそこに味方がいる」という喜びにあふれていた。黒い軍団は、間違いなく千葉ロッテの戦力だった。

 False Startのエントリー「千葉マリーンズの『シーズン名言迷言』5月号」には、里崎のこんな談話が紹介されている。

「レフトの阪神ファンもすばらしい。でもライトの、わがロッテファンは世界一すばらしい」

 大阪ではなく、福岡でも札幌でも仙台でもなく、千葉というさしたる特徴もない市の、幕張というふってわいたような人工都市にそんなファンが育ったことに、日本野球の底力を感じる。
 私はとりたててマリーンズのファンというわけではないが、仮に「売り上げの1%を球団運営費に充てます」などと銘打った製品を親会社が発売したら、甘いものが欲しい時には迷わずそれを買うに違いない。あのチームとスタンドを失わないためならば。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

斎藤雅樹について、もう少し。

 下のエントリーを書いていたら、斎藤雅樹の話を、もう少し続けたくなった。

 斎藤がエースにふさわしい働きをしたのは、実質的にはこの96年が最後だった。
 毎年のように2ケタの完投を記録していたタフな男にも、限界は訪れる。97年以後の斎藤は、度重なる故障に悩まされた。球威で勝負するタイプであったからこそ、体の衰えは致命的だったようだ。モデルチェンジもままならないままに、斎藤はいつしかブルペン要員へと立場を変えていく。

 2000年、ON対決と騒がれたダイエーとの日本シリーズで第4戦に先発し、7回2/3を1点に抑え、対戦成績を2勝2敗の五分に戻して逆転優勝に貢献したのが、最後の輝きだったかも知れない。翌2001年には故障で出遅れ、シーズンの大半を二軍で過ごした。一軍に呼ばれたのはペナントレース大詰めの9月。与えられた役割は、中継ぎだった。
 90年代を代表する大エース、誰よりも先発完投が似合う男が、来る日も来る日も誰かに踏み荒らされたマウンドに向かう。だが、その姿は一片の哀愁も感じさせず、むしろ斎藤の表情は嬉々として見えた。36歳にして初体験の5連投も黙々とこなす。これほど精神的にタフな人だったのかと改めて感銘を受けた。
 それでもこの年、ジャイアンツは優勝に届かなかった。投手・斎藤にとっても、長嶋監督にとっても、最後の年となった。

 終わってみれば、「安定」と「信頼」こそ、斎藤を形容するのにもっともふさわしい言葉のような気がする。
 投球だけでなく、情緒的にも、ずばぬけて安定していた。スキャンダルもなく、失言もなく、トラブルもない。不満を漏らすこともまずない。確か学生時代の同級生と結婚し、家庭も円満だったようだ。
 
 通算180勝96敗。防御率2.77は、この世代の投手としては驚異的というほかはない。最多勝を5度獲得した投手は、日本のプロ野球史上、斎藤ただひとり。金田にも稲尾にもできなかった偉業だ。
 そんな実績に見合うだけの待遇を、球団が彼に与えていたとは言いづらい。5度目の最多勝と3度目の最優秀防御率、3度目の沢村賞を獲得し、チームをリーグ優勝に導いた96年オフには、球界最高年俸になると噂されながら、結局はその冬にフリーエージェントで加入した清原の年俸を下回った(しかも清原は複数年契約だ)。

 翌97年からしばらくの間、ジャイアンツが優勝から遠ざかった理由のひとつは、球団フロントが序列を誤ったことにもあるのではないかと私は想像している。
 89年以降のジャイアンツを支えたのは、間違いなく強力な投手陣だった。89、90、94、96年の4度の優勝を遂げた8年間に、ジャイアンツの野手陣が獲得した打撃タイトルはクロマティの首位打者(89年)だけだ(野手のタイトルとしては、ほかに緒方が盗塁王2度)。一方、投手陣のタイトルは斎藤ひとりで10個。斎藤が最多勝と最優秀防御率の二冠に輝いた年は3度あるが、すべてジャイアンツは優勝している。
 この8年間のジャイアンツは投手力のチームであり、突き詰めれば斎藤のチームであったと言っても過言ではない。
 その斎藤が、打撃タイトルを一度も取ったことがなく、直近2年間の平均打率が.251の清原よりも格下と査定されたことは、おそらく投手陣を大いに憤慨させ、チームのバランスを狂わせたのではないだろうか(少なくとも当時の私は大いに憤慨した)。翌年から斎藤は大きく成績を落とし、チーム防御率も3.47から3.69へと落ちた。

 それでも、斎藤本人が不満を漏らしたという報道を、私は見た記憶がない。そういう人だったのだとしか言いようがない。彼もまた、古き良き時代の野球選手だったのだ。あの村田真一とこの斎藤がバッテリーを組んでいたということ自体が、今となっては黄金の日々のように思える。

 野球というプロスポーツの最大の特性は、「毎日やっている」ことにある。
 半年間、ほぼ毎日試合が行われるリーグ戦という形式は、プロ野球を他競技ではありえないレベルにまで日常化させ、ファンの生活に溶け込んだものにしている。
 そういう環境の中で、斎藤はシーズンを通して休むことなく登板し、その多くに勝ち、そうでない場合も試合の終盤までマウンドに立っていた。大舞台にはさほど強くなかったかも知れないが、日常的な舞台には圧倒的に強かった。
 何か確かなものが、そこにある。そんな安心感を与えてくれる投手だった。

 そんな記憶が刻み込まれているせいだろうか。解説者となった今も、斎藤の大きな体と満面の笑顔をテレビ画面に見るたびに、なぜか私は心安らぐような気分になる。引退後の2年間、ジャイアンツで投手コーチを務めた彼が、再び現場に戻る日が来るのかどうかはわからないが、この「安心感を与える」力は、指導者として貴重な資質になるかも知れない。

| | コメント (6) | トラックバック (1)

斎藤雅樹が見せたエースの真価。

 5月28日の中日-ソフトバンク戦。中日の先発・山井は6回、ズレータに本塁打を許して5点目を奪われ、0-5とされた。落合監督はマウンドに足を運んだが、山井に続投を命じた。落合は、「ここからお前の真価が問われる」と話したという(29日付東京新聞から)。
 この記事を読んで、今から9年前に見た、ジャイアンツの斎藤雅樹のピッチングを思い出した。

 全盛期の斎藤は、観客にとって、そう面白い投手ではなかった。
 同じジャイアンツで同時期に活躍した槙原寛己のように、テレビで見ても驚くほど速い球で三振の山を築くわけではない。斎藤の球がスピードガン表示で150キロを超えることはめったになかったと思う。
 かといって桑田真澄のように、丹念に変化球をコーナーに散りばめて打者を追い込んでいくタイプでもない。まして、マウンドを離れた言動に特徴があるわけでもない。
 三本柱と呼ばれた他の2人と比べると、どこがいい投手なのか、説明しづらかった。サイドスローから投げ込まれる球そのものに威力があったのだろうが、それはテレビ画面からは伝わりづらい。
 ただ、ボールが手を離れた後に体が跳ね上がるように動く時の斎藤は調子が良かった。あの大きな体が躍動する姿は、とても力強く見えた。

 若いころの斎藤は、精神的に弱いと言われていた。89年に監督に復帰した藤田元司が、ちょっと打たれるとベンチの顔色をうかがいはじめる斎藤を、あえて突き放すことで一本立ちさせたというエピソードは、よく知られている。この年、先発ローテーションに定着した斉藤は、初の20勝を挙げて主力投手の座を確立する。
 この年の夏。ナゴヤ球場での中日戦で、斎藤が力投し、8回を終わってノーヒットノーラン、という試合があった。ジャイアンツが3点リードした9回表、斎藤は代打・音に初ヒットを許し、四球の後、仁村のタイムリーで
 1点を失う。そして一死一、二塁から打席に立った落合に、何と逆転サヨナラ本塁打を食らう。水に落ちた犬を叩きのめす呵責のなさは、いかにも落合らしい。それまでの自信満々の表情に比べて、打たれはじめてから息の根を止められるまでの斎藤の表情は、明らかに浮き足立っていた。落合は、打席に入る前から勝利を確信していたに違いない。

 それでも、斎藤はこの年、翌年と2年続けて20勝を挙げる。いくつもの修羅場をくぐり抜けていくうちに、心身ともにタフなエースに成長していった。
 私がこの投手を尊敬するようになったのは、96年の夏の、ある試合を見てからだ。
 8月30日、ナゴヤ球場で行われた中日−巨人戦だった。首位に立つ広島と三つどもえの優勝争いを繰り広げるライバル同士の対戦だった。
 この日、斎藤は不調だった。夏の盛りだというのに、過去3度の登板では、いずれも130球以上を投げている。ミスター完投と呼ばれたタフな男にも、疲労は蓄積されていたのかも知れない。初回、二死からの3連打で先制され、2回にはコールズに満塁本塁打を喫して、たちまち0-5と大量リードを許してしまう。
 にもかかわらず、長嶋監督は斎藤をマウンドから降ろそうとしなかった。走者を出しながらも、斎藤は3回以降を無失点で切り抜けていく。ジャイアンツ打線は奮起して元木の3点本塁打などで追い上げ、5回には遂に同点に追いつく。5-5のまま試合は延長に入り、12回表にルーキー清水の三塁打などで3点を奪ったジャイアンツは、その裏の反撃を2点に抑えて逃げ切り、単独首位に立った。
 斎藤は8回まで投げて計12安打を浴びた末、9回表に代打を送られて役割を終えた。勝利も敗北もつかない151球。耐え抜いた、と形容するしかないような投球だった。しかし、遂に6点目を与えなかった斎藤の投球が、勝利の目を引き寄せたことに、疑う余地はなかった。

 どんな職業にあっても、失敗したとわかっているプロジェクトに従事しつづけるほど辛いことはない。このままどれほど頑張ったとしても報われる見込みはほとんどない、という状況に置かれてしまえば、誰しも「早くここから離れて次の仕事を始めたい」と考えるようになる。「立ち上がりに大量失点した先発投手」の心境も、似たようなものではないかと思う。
 だが、この試合の斎藤を見ていて、私は深く感じ入った。
 投手は降板することによってその試合から逃れることができるが、野手は最後まで試合を続けなければならない(もちろん打者個人の打撃成績のためでもあるけれど)。
 壊れかけた試合であっても、単なる尻拭いの場にさせまいと投手が踏みとどまればこそ、周囲の人々にも、もう一踏ん張りする力が湧いてくる。
 斎藤は無言のうちに、そういう心理の機微を体現していた。
 5点失っても6点目はやらない。6点目を失っても7点目はやらない。
 いついかなる状況にあっても、次の1点をやらないために全力を尽くす。
 それができる投手だけが、エースと呼ばれる価値を持つ。

 この試合で、落合は一塁手として斎藤のピッチングを見ていた。93年オフにフリーエージェントとなり、中日からジャイアンツに移籍して3年目だった。
 以前紹介した落合の『プロフェッショナル』という本には、中日時代は桑田がジャイアンツのエースだと思っていたが、中に入ってみたら斎藤こそエースだと気がついた、という意味のことが書いてある。
 山井に続投を告げた時、落合の頭の中に、斎藤のあの日のピッチングが浮かんでいたのかどうか。結果的に山井はさらに打たれ続け、7回を投げて8失点。本人もチームも、浮上のきっかけをつかむには至らなかった。

| | コメント (9) | トラックバック (0)

« 2005年5月 | トップページ | 2005年7月 »