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2005年7月

「完全ドラフト制度」だと勘違いしてたりして。

 ドラフト制度改革というものに、もともとあまり関心が持てずにいたので、NPBの改革案が発表されても、まあそんなものかな、という程度の感想しか湧かなかった。
 だから、ここ一週間ほど、このニュースを伝える新聞各紙(読売を除く)が、えらく居丈高に改革案を批判しているのには面食らっている。

 いろいろとご高説に目を通してみると、どうも完全ウェーバー方式が導入されなかったことについて不満を持っている論者が多いようだ。
 代表的なのは「これで改革とは笑えるね」と題した毎日新聞7月21日付の社説。
完全ウェーバー方式は不正が介在する余地がなく、しかも12球団の戦力均衡というドラフト制度創設以来の目標も達成できる。ウェーバー方式の採用を求めた球団もあったようだが、特定球団から横やりが入るとあっさり妥協に走ってしまうあたりが、現在の球界の情けない部分だ。
 同日の東京新聞の社説も似たようなことを書いている。
ドラフト改革では、戦力均衡の観点を踏まえて、下位球団から指名していく完全ウェーバー方式を導入するかどうかが焦点だった。しかし、これに対しては自由競争を主張する意見や、関連するフリーエージェント年数の短縮に不安を抱く声も強く、結局はそれぞれの中をとる妥協しかできなかったというわけだ。」

 完全ウェーバー方式というのは、そんなにあらゆる問題を解決できる理想的な制度なのだろうか。
 逆指名制度や自由獲得枠がなかった完全くじびき方式の時代にも、裏で動いた金はあったと聞く。「○○球団以外に指名されたら大学(または社会人)に行く」と宣言することで選手が実質的な逆指名をするケースはしばしばあった。それが実際の指名状況を左右していた以上、球団が選手に裏金を払って逆指名させる余地がなかったとは言えまい。この逆指名が後に制度化され、さらに現在の自由獲得枠に変わったわけで、要するに逆指名においては、実態が制度に先行していた。まして現在の一流選手たちには、「○○球団以外に指名されたらMLBに行く」という選択肢も加わっている。毎日新聞の社説が断言するほど、不正が介在する余地がないとは、私は思わない。

 では戦力均衡には効果があるのだろうか。完全ウェーバー方式を実施しているはずのMLBは、今の日本球界よりも戦力均衡にほど遠い(日本では、自由獲得枠とFAに大金を投じながら弱体化している某球団が戦力均衡に大いに貢献している)。
 また、選手会では以前から「完全ウェーバー方式」と「FA取得年数の短縮」をセットで導入することを強く主張している。この両者が不可分だとしたら、新制度のもとでは資金力のある球団が若くてイキのいいFA選手を獲得することが可能になる。これでは、むしろ戦力の不均衡をもたらす可能性さえある。

 そんなこんなを考えてみると、完全ウェーバー方式は、これを導入しないからダメだ、と新聞の社説が声をそろえるほどの理想的な制度なのかどうか、大いに疑問がある。ジャイアンツの「完全ウェーバー方式を導入したら選手のアメリカ流出を招く」という主張に対して反論もしないままに、「特定球団から横やりが入る」と揶揄するだけでは、論理的な議論とは言えない。これで社説とは笑えるね。

 ではお前は完全ウェーバー方式に反対なのか、何か別のいい考えがあるとでもいうのか、という質問が聞こえてきそうだ。私は(彼らが主張するほど理想的な制度とは思わないけれども)完全ウェーバー方式の導入そのものには反対ではないし、別のいい考えを持ち合わせてもいない。完全ウェーバー方式にしたい球団が多いのなら、してみればいいと思う。今よりよくなる面もあるだろうし、代わりに表面化してくる別の問題もあるだろう。どんな方式にも一長一短はある。私は、ドラフト制度の手直しがプロ野球界の改革に決定的な効果を持ちうるとは思っていないだけだ。

 今回のNPBの改革案を「妥協の産物だ」と批判する声もあるが、もともとドラフト制度というものは妥協の産物なのではなかったか。
 球団はいい選手を取りたい。でも、できるだけ金は払いたくない。選手は好きな球団に入りたいし、できるだけ高い金が欲しい。球団の間には資金力の差があり、金持ち球団に張り合っていたら貧乏球団はつぶれてしまう。アマチュア球界にもそれぞれの思惑と建前がある。それぞれが思う通りにしていては業界が成り立たないので、球団も選手も我慢して、有望選手をそこそこの金額で各球団が分け合う仕組みを作ろう、というのがドラフト制度だ。誰もが満足はしていないけれど、ないよりはましだから続けている。もともとその程度のものなのだから、不都合が出てくれば手直しすればよい。12球団がエゴを主張しあう中で妥協点に落とし込むというのは、ドラフト改革のやり方としては全くの正攻法で、批判されるような筋合はない。これはあくまで業界の内輪の制度なのだから、いくつかの新聞社が主張するように、これを変えることでファンに改革をアピールするべきだという考え方は、いささか筋違いではないかと思う。そういうことは、他に相応しい場があるはずだ。

 今回のドラフト改革が達成すべき目的として、新聞記事は「戦力均衡」「裏金防止」「契約金の抑制」などを挙げている。それらはドラフト制度と関係はあるけれど、ドラフト制度をいじるだけで解決できるわけではない。
 戦力均衡のためにはFA制度や外国人選手の受け入れ制度や支配下選手の人数制限やトレード制度の手直しを包括的に行う必要があるだろう。裏金防止のためには監視機関の設置、その前に選手会やアマチュア球界と協力した実態調査が必要だ(前にも書いたが、私は、選手会は裏金問題について球団サイドを非難する前に、まず選手会の構成メンバーおよびOBたちが受け取った裏金について明らかにすべきだし、それをしない限り、この件に関する選手会の発言は一切聞く価値がないと考えている)。アマチュア球界と協力して、栄養費の制度化をはかるのも合理性のある措置だろう。
 契約金の抑制というのは、経営健全化の動きの一環として行われるべきものだ。Jリーグの経営委員会にあたる調査・諮問機関を設置して各球団の経営改善を図り、現役選手の報酬の適正額を見いだしていく中で新人獲得の契約金抑制(と裏金抑制)を行っていくぐらいの位置づけがちょうどいいので、契約金だけを取り出して云々しても仕方がない。

 このような個別具体的動きが見えてこないことに対しては、私は大いに不満を抱いている。
 もっといえば、日本のプロ野球が改革すべきことは何なのか、目指すところは何なのか、というコンセプトの全体像が見えないままにドラフト制度の改変だけをどうこう言っても仕方ない。それが、私がドラフト改革というものに興味が持てない理由なのだろうと思う。

 ただし、制度が改革のすべてではない、ということも言っておかなければならない。
 さっき逆指名制度のところで書いた「実態が制度に先行する」という事態は、好ましい変化においても起こりうる。
 たとえば現在の千葉ロッテは、球団フロントにさまざまな世界から人材を集め、観客を喜ばせる試みを熱心に行い、日本球界でトップクラスの熱心な顧客層を抱え、しかも試合内容がよく、成績も優れている。この状態が何年も続き、収支が改善していくようであれば、そういう球団の存在それ自体がプロ野球改革である。そんな球団がいくつも出現すれば、諸般の制度もおのずから変化していくだろう。

 プロ野球の運営にとって大事なことは、「観客が楽しめる球場と試合」と「持続可能な経営」である。この2点がすべてだと私は思っている。それ以外のことは手段でしかない。「戦力均衡」も「不正防止」も、ましてや「完全ウェーバー方式」も、それ自体は目的ではない。

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三角ベースの復権。

 最近、40代後半の知人と話していて、やはりそうなのか、と、やや暗い気分になったことがある。
 彼は、ちょっと時間が空くと、都内の河川敷を自転車で走る、という習慣を持っている。彼はその川の近くで生まれ育ち、幼少の頃からよく遊んでいた。昭和30年代から40年代にかけて、小学生の男の子というのは、原っぱや空き地があれば草野球をするという習性をもつ生き物だった。もちろん、彼も同じだ。人数は適当、服装はバラバラ、グラブが人数分そろわなくても、とにかく野球をやった。見物していたおじさんが「俺にも打たせろよ」などと飛び入りしてくることもあった。

 「でも、草野球というのは滅びてしまったようですよ。少なくとも、この河川敷では」と彼は言う。
 現在、河川敷で彼が目にする少年たちの「野球」は、それとは似て非なるものだ。原っぱや空き地ではなく、整備された野球専用グラウンドで、子供たちは揃いのユニホームに身を包み、コーチの号令のもと、綺麗なダウンスイングで「野球」をプレーする。今や河川敷には、そういう「野球」しか存在していない、と彼は言う。

 この話は、20代前半の知人(って、「アトレチコ東京」のアルヴァロさんのことだが)から聞いた話とも符合する。
 「僕らより下の世代は、男でも野球やったことない奴がすごく多いんです」とアルヴァロさんは言う。
 私は身近に子供がいないので確信を持って語れるだけの実感はないけれど、路地裏や公園で野球やそれに類する遊びに興じている子供を見る機会は、めっきり少なくなったように思う。多くの公園で野球やキャッチボールを禁じていることの影響も大きいのだろうし、昭和40年代までは首都圏や近郊に存在した「空き地」が消滅してしまったことも痛手なのだろう。
 路地裏で遊ぶなら、少ない人数、小さなスペース、ひとつのボールでできるバスケットやサッカーの方が向いている、専用球場とさまざまな道具と9人×2チームを必要とする野球は不便だ、という説明に、納得する人は多いのではないかと思う。

 だが、昭和40年代に小学生だった私にとって、野球というのは、そんな堅苦しいものではなかった。
 その日その時にたまたま集まった仲間たちが、利用可能な空き地を探し、その日の顔触れを割り振って、戦力が均衡しそうな2チームを作り、持ち寄ったグラブやボールやバットを使い回し、その日の条件に則したグラウンドルールを決めて、その時に実現可能なゲームをする。それが私たちにとっての「野球」だった。
 設定されたダイヤモンドの中に木が生えていれば、「当たればアウト」(あるいは「当たればヒット」)という形でゲームの中に織り込む。年齢の離れた幼児や女の子が参加する場合は、優遇措置をとる。攻撃側チームの人数が足りなくなれば「透明ランナー」(今ふうに言えば「ヴァーチャルランナー」だ)を起用し、次打者の結果に応じて進塁させる。極端に言えば、私たちは3人いれば「野球」ができた。草野球とは、そんな融通無碍なものだった。
 今の子供たちは、そんなふうにして遊んではいないのだろうか。

 実は、さきほど記した「専用球場とさまざまな道具と9人×2チームを必要とする野球は不便だ」という説明は、野球が国際的に普及しない理由として語られる常套句だ。私自身も、そういう考え方を受け入れていた。
 ところが、「それなら、まず草野球を普及させればいい」と考え、実行に移している人々がいる。
 「三角ベース普及プロジェクト」がそれだ。

 解説が必要なのかどうかわからないが一応書いておくと、「三角ベース」というのは、守備側の人数を省略するために、二塁をなくし、一塁と三塁だけでダイヤモンド(すでにダイヤモンド型ではないのだが(笑))を構成する草野球の一形態だ。こうすれば、投手、一塁手、内野手、外野手の4人もいればチームが作れる(捕手は攻撃側の選手が代用する)。10人前後が2チームに分かれて野球をするには手ごろな形式だった。

 海外で野球の施設や道具や人数を揃えるのが難しいのなら、まず三角ベースを普及させて、野球の楽しさを知ってもらえばよい、というのが「三角ベース普及プロジェクト」の考え方だ。卓見である。金のかからない実用的な普及方法であると同時に、三角ベース出身の私たちは、その効果を身をもって知っている。
 推進しているのは、「アフリカ野球友の会」。主宰者の友成晋也はかつてJICA職員として駐在していたガーナで、野球ナショナルチームの初代監督を務めた人物だ。私とほぼ同世代だから、彼もまた三角ベースから始めた1人なのだろう。帰国後にこの会を設立して、アフリカへの野球の支援と普及活動を始めた。その経緯は友成自身の著書『アフリカと白球』(文芸社)に詳しい。
 日本にいるアフリカからの留学生に野球を教えて交流を深めるとともに、帰国後に彼らが野球の伝道師になってもらうことを期待する。気の長い話といえばそれまでだが、スポーツの普及というのは、もともとそのようにして始まったものではなかったか。
 NPBや日本アマチュア野球連盟とはほとんど関係のないところで、こうやって壮大な事業に着手している人々がいるということに、日本野球の底力を感じる。

 そして、その「日本野球の底力」の源泉もまた、三角ベースの草野球にあるのではないかと私は思っている。
 日本の野球を支えているのは、各年代における大勢のプレーヤーとともに、かつて三角ベースのプレーヤーだった男性たち(いや、女性もいた)である。
 少年時代に草野球に興じた人々が、長じてグラウンドから離れた後も、視聴者として、観客として、野球を楽しみ、支え続けている。当時の肉体的記憶が、いくつになっても彼らの心を躍らせる。打つ快楽、ホームインの興奮、捕る楽しさを知っているから、彼らは野球を見ることを好む。
 現在の40代以上の日本人男性で、少年時代に草野球を経験していない人は、たぶん少数派だろうと思う。だが、10年経ち20年経ったころに同じことが言えるのかどうか、私には自信がない。

 Jリーグが始まって間もないころ、高校の野球部員の数が、サッカー部員やバスケット部員を下回ったと報じられたことがあった。その時には「野球離れ」が危機感をもって語られていたが、後に部員数1位に返り咲いたこともあり、現在の日本では「野球の普及」が切迫した課題であるとは、あまり考えられていないように感じる。
 もちろん、NPBが普及活動にそれなりに力を入れていることは否定しない。
 だが、テレビや新聞で報じられるプロ野球選手やOBたちの「少年野球教室」では、教えられる少年たちは常に揃いのユニホームに身を包んでいる。つまり、普及の対象者は、すでに少年野球チームに入って日常的に野球を教えられている子供たちに限定されていることになる。
 それでは野球人口は増えない。
 かつての私たちのような草野球少年は、選手登録もしなければユニホームを買うこともなく、せいぜいグラブやバットの売上げという形でしか数字にならないから、30年前と現在との違いを統計で示すことはできないかも知れない。だが、そういう草野球少年を含めた「野球人口」の圧倒的な多さこそが、日本の野球を現在の隆盛に導いたのではなかったか。その「見えない野球人口」が減っていくのだとしたら…。

 三角ベースを普及させなければならないのは、アフリカよりも、まず日本なのかも知れない。


追記
関連エントリ 「『三角ベース普及プロジェクト』からの呼びかけ。」があります。

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神話に著作権者はいない。 〜「バットマン」と「スターウォーズ」〜

 渡辺謙の出番が少ないことを除けば、『バットマン ビギンズ』は面白い映画だった。「恐怖心の克服」と「正義のありかた」という2つの軸を通したことで、長い物語にうまくまとまりをつけている。
 主役のクリスチャン・ベールは例によって表情の乏しい演技だが、執事アルフレッド(マイケル・ケイン)やウェイン社の応用科学部長フォックス(モーガン・フリーマン)など、味のありすぎるおっさんたちが周囲を固めたことで、ベールの無表情が若いブルースの生硬さを際立たせることになった。ほかにもリーアム・ニーソン、ルトガー・ハウアー、ゲイリー・オールドマンに渡辺謙と、よくまあこれだけ芸達者のおっさんを集めたものだ。

 暴漢に両親を殺されたブルース少年がバットマンになるまでを描くからには、映画の中で、おなじみの小道具や設定が成立する経緯を見せる必要があるが、活動の動機から、コウモリのコスチュームである理由、小道具の由来、バットモービルの原型、そしてあのサーチライトで雲にコウモリを映し出す連絡方法まで、「なるほど、そう来たか」と唸らされるような工夫が加えられている。
 「なるほど」と唸りながら、私は、もうひとつの「なるまで」映画のことを考えていた。
 『スターウォーズ エピソード3 シスの復讐』は、アナキン・スカイウォーカー少年がダース・ベイダーになるまでを描いた三部作の完結編で、いわば「ダース・ベイダー ビギンズ」である。と同時に、エピソード4-6という旧三部作に話をつなげる最後の鎖でもある。

 アナキンはフォースの暗黒面に落ちてダース・ベイダーとなる。パルパティーン議長がシスの暗黒卿となって共和国をのっとり帝国を作る。ジェダイ騎士団は滅ぼされ、ヨーダとオビ=ワン・ケノービは辺境に落ち延びる。パドメは男女の双子を生み、離ればなれに育てられる。
 この映画が、これらの出来事を収容しなければならないということを、製作サイドはもとより、観客のほとんど全員も、あらかじめ知っていた。

 そこまで手の内を明かしておきながら、なおかつ観客を楽しませ、わかっていながらも「おおっ、そう来たか」と唸らせ、しかもきっちりと辻褄を合わせるという芸当をやってのける超絶技巧を持つ脚本家も、たぶん世の中には存在するだろう。
 だが、ジョージ・ルーカスには無理だった。ルーカスにできたのは、かろうじて辻褄を合わせることだけだ。この映画は、アナキンが暗黒面に落ちるに至る心の動きを描くことにかなりの時間を割いているが、にもかかわらず、その過程には蓋然性が感じられず、共感もできない。ジェダイ騎士団の間抜けさ加減にも失望する。
(細かい指摘はネタバレになるのでやめておく。書き連ねても楽しくはないし、それは読む方にとっても同じだろう)

 しかし、ことSWにおいては、脚本や演出のあら探しをするのは空しい。ルーカスの脚本や演出が下手なのは、第一作ですでにわかっていたことだ。彼がすべてを手がけたエピソード1と2の出来を見ていれば、『シスの復讐』も予想された範囲内のものでしかない。
 むしろ興味深いのは、SWがこれほどの超大作でありながら、これほど杜撰で欠陥だらけの脚本が通用してしまう点にある。
 ハリウッドの映画制作において、脚本はもっとも重要な部分のひとつだ。脚本を作る段階から大金と労力が費やされ、プロデューサーのOKが出るまで何度でも書き直させられる。脚本家じたいが交代することも珍しくない。そういう世界で、この『シスの復讐』の脚本が決定稿として通用するとは、まず考えられない。

 にもかかわらずSWでは通用してしまうのは、最終決定権がルーカス自身にあるからだ。20世紀フォックスのファンファーレで始まるけれども、この映画はハリウッドで作られているわけではない。映画作りはもとより、資金もマーチャンダイジングも、すべてはルーカスフィルムが自前で手がけている。一言で言えば、SWというシリーズは「史上最大の自主映画」なのである(第一作を除く)。フォックスはただ、できあがった映画を配給しているに過ぎない。
 この映画におけるルーカスの立場は、監督・脚本・製作総指揮である。プロデューサーを務めるのはリック・マッカラムという人物だが、彼は資金とスケジュールのマネジメントに徹して、映画の内容には口出しをしない立場だと聞く。内容についての一切の決定権は、ルーカスひとりが握っている。
 旧三部作のエピソード5、6は別の監督や脚本家を立てたけれど、新三部作では、ルーカスは自身で監督をすることにこだわった。ルーカスだけがSW銀河の唯一絶対の造物主というわけだ。
(このへんの仕組みについては、映画秘宝7月号に武田英明が書いた「エピソード1&2で振り返るSWプリクェルの謎」に詳しい)

 『バットマン ビギンズ』の物語や設定は、この映画のためのオリジナルで、監督クリストファー・ノーランとデイビッド・S・ゴイヤーの共同脚本によって作られたものだ(ゴイヤーは『ダークシティ』や『ブレイド』を手がけた、この手の作品にかけては手練れの脚本家だ)。
 バットマンはコミックのシリーズ作品であり、もともと複数の脚本家と画家が書き継いできた。テレビシリーズも、映画作品も、それぞれが別の映像作家によって作られ、それぞれ微妙に(あるいはかなり)異なる世界が展開している。そんなゆるやかな枠組みが存在するからこそ、新しい才能がバットマン世界に新しい価値を加えることが可能であり、今回の『バットマン ビギンズ』の成功がある。

 SWは違う。SWは一から十までジョージ・ルーカス個人のものであり、ルーカスが認めないエピソードは決して加わることはない。逆にルーカスが望むものであれば、どんなにつまらないキャラクターやエピソードも正規の物語となっていく。
 SWの世界は、出版社が権利を持つバットマンとは違い、ルーカス個人が作り上げたものなのだから、それは彼の正当な権利ではある。

 だが、法律上の権利と別の次元で言えば、ルーカスはゼロからSW世界を作り上げたわけではない。彼は過去のさまざまな物語や映画から、さまざまな要素を引用してきた。もっとも有名な引用は、黒澤明『隠し砦の三悪人』の藤原釜足と千秋実を真似てR2-D2とC3POのコンビを作ったことだ。そんな細部だけでなく、物語の構造そのものも、過去に下敷きがある。
 「僕は、神話からこの物語のモチーフを得た。西洋だけでなく世界中のあらゆる神話に共通する要素を抜きだしている。神話学者ジョーゼフ・キャンベルの研究も参考にしている」とルーカス自身が話している。だからこそ、SWはこれほど多くの人々の心を惹き付けたのだ、と言うこともできるだろう。

 神話に著作権者はいない。神話は人から人へと語り継がれ、その過程でさまざまに変化し、長い年月をかけて、普遍的に人々の心に訴える物語として練り上げられてきた。
 「現代の神話を作りたい」という動機でSWを作り始めたジョージ・ルーカスは、当初は既存の神話の力を借りて物語を作り始めたが、年月を経るにつれて、SWという世界を自分の所有物として扱うようになっていった。
 だが、ルーカス個人は万能ではない。見たこともない映像やキャラクターを作り上げることにかけては今も天才的な力を持っているのかも知れないが、こと「語ること」においては凡人だ。SW物語がどんどんやせ細っていくのも無理はない。

 ルーカスが尊敬すると言われる黒澤明は、上述の『隠し砦の三悪人』の脚本を作る時、共同執筆者の菊島隆三、小国英雄、橋本忍と4人で旅館に泊まり込み、缶詰めになって論じ合った。そして、主人公たちが窮地をいかにして脱するかを考える際には、それぞれが考え抜いた原稿を持ち寄り、もっとも優れたアイデアを採用したという。
 ルーカスは、できあがった後の神話や映画から引用することには熱心だったけれど、それらが作られる過程を真似ることはしなかった。

 ルーカスに対して厳しい書き方をしてはいるが、彼を非難することが本稿の趣旨ではない。現代の資本主義の仕組みや著作権法の下では、彼のやり方は正しいというほかはない。それに、なんだかんだ言っても、我々がSWを楽しめるのはルーカスのおかげなのだ。
 ただ、『シスの復讐』、あるいはエピソード1-3すべてについていえることだが、ルーカスが自分の作ったSW世界を、別の優れた脚本家や演出家に預ける度量があれば、我々はたぶん現存するそれらよりもはるかに面白い映画を観ることができただろう。私はただ、それが残念なだけだ。


追記(2005.9.3)
「細かい指摘はネタバレになるのでやめておく」と書いたが、もう封切りから2か月たったし、構わないだろう。コメントをいただいたさわやか革命さんのblog「ひねくれ者と呼んでくれ」「私の愛した「スター・ウォーズ」−−はもう存在しない!」における指摘にほぼ同感なので、自分で書く代わりにご案内しておく。無精ですみませんが(笑)。

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五輪競技落選による、MLB一極集中体制の完成。

 2012年のロンドン五輪で、野球とソフトボールが除外されることがIOCで正式決定した。ここ数日の新聞報道では、わりと楽観的な見通しが多かったのだが…。

 結局は、アテネ五輪の予選にMLBが参加しなかったこと(その結果、USAが予選落ちしたこと)が、IOC委員たちの心証を悪くしたのだろう。それは、野球の宗主国であるUSAが五輪に対して意欲を持っていないと公言したのも同然だった。ただでさえ種目が多すぎて困っているのに、やる気のない競技をわざわざ入れてやる必要などない、とIOC委員たちが考えたとしても無理はない。ロンドンに野球場はないだろうから会場を作らなければならないし、そのうえ観客動員もあまり期待できない。もちろん大会後にも活用のしようはない。悪条件は揃いすぎるほど揃っている(クリケット用のスタジアムで野球をすることはできたかも知れないが)。
 近年のIOCにとって最大の課題であるドーピング問題に対して、MLBの対応が鈍かったことも、マイナス要因のひとつだったろう。

 もっとも、英国そのものは野球と縁がないわけではない。佐山和夫の著書群によれば、野球のルーツは英国にあり、原型となったゲームは今でも実際に愛好者がいるという。そういう面を強くアピールして「野球が母国に還ることに意義がある」とか何とかロビー活動で訴えれば結果は違ったかもしれない。
 だが、落選の報に接した日本代表編成委員会の長船騏郎委員長の「全くの予想外で困惑している」というコメントは、いかに当事者たちが事態を楽観視していたかを物語っている。

 もともと、野球が五輪競技に加わったのは、当時ロサンゼルス・ドジャースのオーナーだったピーター・オマリーを中心とした人々の活動によるものだったと聞く(この時は日本野球連盟も一緒に貢献したはずだ)。野球が公開競技になったのは84年のロサンゼルス五輪。つまり、自球団の地元で開かれる五輪に野球を加えたいというオマリーの熱意が原動力だったのかもしれない。以後の五輪は88年・ソウル、92年・バルセロナ、96年・アトランタ、00年・シドニーと続く(正式競技になったのはバルセロナから)。最初の5回のうち4回が野球の盛んな土地で行われたという幸運にも後押しされていたわけだ。

 新聞報道は「日本球界にとって痛手」「メダルを狙える競技が消えたJOCにとって痛手」という論調で足並みが揃っている。JOCにとってはその通りだろうが、日本の野球界にとっての意味は、それほど単純なものではない。

 日本球界にとって、五輪とは一体何だったのだろうか。結局のところ、それを明確に説明できる人はいないのではないだろうか。その曖昧さは、アテネ五輪でオーストラリアに足元をすくわれ、今また五輪競技の座を失うという事態を招いた原因と同根なのだと私は考える。誰にも説明できないということは、つまりは、この件に対して誰も責任を持たないということなのだから。

 従来は五輪を最大の目標としていたアマ球界は、アテネに選手を送り込むことができなくなった。ではプロ球界にとって、アテネが総力を結集して金メダルを獲りに行く大会であったかといえば、決してそうではない。それは、五輪の間も公式戦を休むことがなく、選手の選抜に「1球団2名」という制限が設けられたことからも明白だ。

 といって、アテネ五輪が「日本野球界の総力を結集し、すべてを犠牲にしても勝利を目指すべき大会」であったとは、私には思えない。MLBが選手を出さないと決定した時点で、アテネ五輪は世界最強を決める大会ではなくなったのだから。優勝しても「どうせMLBが出てないのだから」という不全感が残り、かといって優勝できなければ批判を受ける。どっちに転んでもいいことはない。
 そういう宿命を背負った大会であったにもかかわらず、関係者たちは、これが何を目指す大会であるのかを明快に説明することがないまま、目標設定を長嶋監督とスタッフや選手たちに委ねた。逆に言えば、すべての矛盾を「長嶋茂雄」という大看板が覆い隠してしまったのである(もちろん、アマチュア球界の幹部たちは、それを計算して長嶋を担ぎ出したに違いない)。

 そんな矛盾に満ちた大会なのだから、五輪競技から落選することが致命的な打撃につながる、とは必ずしも言えないはずだ。野球界の最高峰を争うワールドカップを単独で開催すれば、その方がいい。

 ところが、その野球界のワールドカップについて、MLBと何年も話しあってきたにも関わらず、日本は主導権を失いつつある。MLBは今春、MLB機構とMLB選手会の共催による「ワールド・ベールボール・クラシック(以下WBCと記す)」の開催を一方的に発表した。日本も招待を受けてはいるが、彼らのスタンスでは、日本はお客さんに過ぎない。元締めは俺たちだ、という姿勢を露骨に打ち出している。ここでも日本は実質的に締め出されようとしており、大会への参加に関する条件闘争は今も続いている。

 この交渉を視野に入れると、野球が五輪競技から消えることは、別の意味を持ってくる。つまり、日本はMLBとの交渉において、手持ちのカードを失ったということだ。WBCのレギュレーションが気に入らないからといって、「こんな大会に参加するくらいなら五輪の方がましだ」と尻をまくることは、もはやできない。その意味では、五輪からの落選は大きな打撃だ。

 もっとも、MLBとIOCのパワーゲームをうまく利用して有利なポジションを占める、などという巧妙な外交手腕を日本人が持ち合わせていないことは、サッカーのワールドカップ誘致の顛末からも想像できる。まして、今の日本球界には交渉の主体となる組織すら存在していない。
 そもそも、NPBがWBCをボイコットしたとしても、日本人メジャーリーガーだけで日本代表は組めるのだ(捕手がいない?来年の春なら城島がいるだろう)。

 結局のところ、NPBはMLBの傘の下に入ることでしか生き延びられないのだろうか。どっと閉塞感が押し寄せてくる。

 そして、ソフトボールにおいては、事態はさらに深刻だ。スケルトン競技の越和宏は、かつてボブスレーからスケルトンに転向した時、勤務先企業から「五輪競技だから支援していた。スケルトンなどという競技に金は出せない」と支援を打ち切られ、退職せざるを得なくなった。そこまでドラスティックなことはないかも知れないが、ほとんどのチームが企業に抱えられている以上、これに近い事態が起こることが予想される。


追記
その後の報道によれば、日本はそれなりに存続のためのロビー活動を行なったようだが、MLBや世界野球連盟は動きがなかった、ということらしい。ロゲIOC会長の意思が強く働いたという見方もある。

追記2(2005.7.17)
baseball windに、野球が五輪競技に採用されるに至った経緯と、除外されるに至った経緯が詳しくまとめられている。ご参考に。
http://www.geocities.jp/baseball_wind21/wind5.htm#489

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Welcome Home, Mr.Giants.

 病気から治った人が野球場に野球を見に行く程度のことを、普通は「復帰」とは言わない。まして、それを数日前から予告して注目を煽るというのは、テレビ視聴率を上げるために病人を晒し者にするような姑息な手法と思われても仕方ない。

 …というくらいに冷淡な考えしか抱いていなかったにもかかわらず、その日本テレビの野球中継の中で、満面の笑顔を浮かべた彼が、バルコニー席から観客に向かって左手をヘンな角度で振ったりしている姿を目にした途端に、私の頭の中は「よかった!」という感激で一杯になってしまった。長嶋茂雄というのは、ほんとうに何というか、たいへんな人である。

 ポケットに突っ込んだままの右手、つっかえるようなたどたどしい歩き方。おそらく身体の右半分は今も思うようには動かないのだろう。よく見れば顏の右側も生き生きと動いてはいない。それでも、全体としては、彼は長嶋茂雄そのものだった。あの笑顔は長嶋の笑顔だった。座った状態から客席を覗こうとするチョコチョコした動作は、まさに長嶋の身のこなしだった。

 いつ、どこで、どのようにして人々の前に姿を現すか。
 長嶋が病に倒れ、自らの病状の深刻さを認識してからは、それが彼にとっての大きなテーマであったのだろうと思う。人々が長嶋茂雄に対して抱くイメージを失望させることのない形で、どれほど劇的に姿を現すか。それが、彼の「闘病生活」だったのだろう。単に日常生活に戻るだけではなく、彼は「長嶋茂雄」に戻らなければならなかった。
 そして彼は今日、「視聴率のために晒し者にされる病人」どころか、スターとしてその場に現れ、その日の東京ドームの主役の座を勝ち取った(のだろうと思う。私はテレビで見ていただけだが)。

 今年の開幕直前に、私は彼がいかに日本プロ野球の歴史そのもののような存在であったかについて書いた。彼が現場を去ったことで「長嶋一極集中体制」が終わったのだ、とも。
 現在のプロ野球は、「ポスト長嶋時代」に向けて、おぼつかない足取りながらも、踏み出そうとしている。その意味では、長嶋茂雄という巨大な存在が再び戻ってきて、巷間伝えられるように北京五輪の代表監督になったりしてしまうようだと、歴史の流れがどこに向かっているのかわけがわからなくなってしまう。影響力が大きすぎるだけに、長嶋はもう現場に戻らない方がいい。そんなことも考えていた。
 だが、実際に現れた彼を見ると、そんなことはどうでもいいという気分になってしまう。少なくとも、今夜だけは。利用するのされるのなどという議論は空しい。誰よりも嬉しそうなのは、彼自身ではないか。

 チョウさんがホームに還ってきたのだ。今はただ、それを喜んでいればよい。かつて、選手時代の落合博満がこんなことを言っていた。長嶋が最初の監督生活を終えて2度目を始める前の時期、1980年代のことだ。当時は「そんなものかな」としか思わなかったが、今の私には落合の気持ちがよくわかる。

「もういちどユニホームを着て監督をするかもしれないけど、そのときだって、あのひとのやることをじっと見つめてりゃいいんです。
 そうすれば、誰もがしあわせになれるんだから」
                   (玉木正之編『定本・長嶋茂雄』から)

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