五輪競技落選による、MLB一極集中体制の完成。
2012年のロンドン五輪で、野球とソフトボールが除外されることがIOCで正式決定した。ここ数日の新聞報道では、わりと楽観的な見通しが多かったのだが…。
結局は、アテネ五輪の予選にMLBが参加しなかったこと(その結果、USAが予選落ちしたこと)が、IOC委員たちの心証を悪くしたのだろう。それは、野球の宗主国であるUSAが五輪に対して意欲を持っていないと公言したのも同然だった。ただでさえ種目が多すぎて困っているのに、やる気のない競技をわざわざ入れてやる必要などない、とIOC委員たちが考えたとしても無理はない。ロンドンに野球場はないだろうから会場を作らなければならないし、そのうえ観客動員もあまり期待できない。もちろん大会後にも活用のしようはない。悪条件は揃いすぎるほど揃っている(クリケット用のスタジアムで野球をすることはできたかも知れないが)。
近年のIOCにとって最大の課題であるドーピング問題に対して、MLBの対応が鈍かったことも、マイナス要因のひとつだったろう。
もっとも、英国そのものは野球と縁がないわけではない。佐山和夫の著書群によれば、野球のルーツは英国にあり、原型となったゲームは今でも実際に愛好者がいるという。そういう面を強くアピールして「野球が母国に還ることに意義がある」とか何とかロビー活動で訴えれば結果は違ったかもしれない。
だが、落選の報に接した日本代表編成委員会の長船騏郎委員長の「全くの予想外で困惑している」というコメントは、いかに当事者たちが事態を楽観視していたかを物語っている。
もともと、野球が五輪競技に加わったのは、当時ロサンゼルス・ドジャースのオーナーだったピーター・オマリーを中心とした人々の活動によるものだったと聞く(この時は日本野球連盟も一緒に貢献したはずだ)。野球が公開競技になったのは84年のロサンゼルス五輪。つまり、自球団の地元で開かれる五輪に野球を加えたいというオマリーの熱意が原動力だったのかもしれない。以後の五輪は88年・ソウル、92年・バルセロナ、96年・アトランタ、00年・シドニーと続く(正式競技になったのはバルセロナから)。最初の5回のうち4回が野球の盛んな土地で行われたという幸運にも後押しされていたわけだ。
新聞報道は「日本球界にとって痛手」「メダルを狙える競技が消えたJOCにとって痛手」という論調で足並みが揃っている。JOCにとってはその通りだろうが、日本の野球界にとっての意味は、それほど単純なものではない。
日本球界にとって、五輪とは一体何だったのだろうか。結局のところ、それを明確に説明できる人はいないのではないだろうか。その曖昧さは、アテネ五輪でオーストラリアに足元をすくわれ、今また五輪競技の座を失うという事態を招いた原因と同根なのだと私は考える。誰にも説明できないということは、つまりは、この件に対して誰も責任を持たないということなのだから。
従来は五輪を最大の目標としていたアマ球界は、アテネに選手を送り込むことができなくなった。ではプロ球界にとって、アテネが総力を結集して金メダルを獲りに行く大会であったかといえば、決してそうではない。それは、五輪の間も公式戦を休むことがなく、選手の選抜に「1球団2名」という制限が設けられたことからも明白だ。
といって、アテネ五輪が「日本野球界の総力を結集し、すべてを犠牲にしても勝利を目指すべき大会」であったとは、私には思えない。MLBが選手を出さないと決定した時点で、アテネ五輪は世界最強を決める大会ではなくなったのだから。優勝しても「どうせMLBが出てないのだから」という不全感が残り、かといって優勝できなければ批判を受ける。どっちに転んでもいいことはない。
そういう宿命を背負った大会であったにもかかわらず、関係者たちは、これが何を目指す大会であるのかを明快に説明することがないまま、目標設定を長嶋監督とスタッフや選手たちに委ねた。逆に言えば、すべての矛盾を「長嶋茂雄」という大看板が覆い隠してしまったのである(もちろん、アマチュア球界の幹部たちは、それを計算して長嶋を担ぎ出したに違いない)。
そんな矛盾に満ちた大会なのだから、五輪競技から落選することが致命的な打撃につながる、とは必ずしも言えないはずだ。野球界の最高峰を争うワールドカップを単独で開催すれば、その方がいい。
ところが、その野球界のワールドカップについて、MLBと何年も話しあってきたにも関わらず、日本は主導権を失いつつある。MLBは今春、MLB機構とMLB選手会の共催による「ワールド・ベールボール・クラシック(以下WBCと記す)」の開催を一方的に発表した。日本も招待を受けてはいるが、彼らのスタンスでは、日本はお客さんに過ぎない。元締めは俺たちだ、という姿勢を露骨に打ち出している。ここでも日本は実質的に締め出されようとしており、大会への参加に関する条件闘争は今も続いている。
この交渉を視野に入れると、野球が五輪競技から消えることは、別の意味を持ってくる。つまり、日本はMLBとの交渉において、手持ちのカードを失ったということだ。WBCのレギュレーションが気に入らないからといって、「こんな大会に参加するくらいなら五輪の方がましだ」と尻をまくることは、もはやできない。その意味では、五輪からの落選は大きな打撃だ。
もっとも、MLBとIOCのパワーゲームをうまく利用して有利なポジションを占める、などという巧妙な外交手腕を日本人が持ち合わせていないことは、サッカーのワールドカップ誘致の顛末からも想像できる。まして、今の日本球界には交渉の主体となる組織すら存在していない。
そもそも、NPBがWBCをボイコットしたとしても、日本人メジャーリーガーだけで日本代表は組めるのだ(捕手がいない?来年の春なら城島がいるだろう)。
結局のところ、NPBはMLBの傘の下に入ることでしか生き延びられないのだろうか。どっと閉塞感が押し寄せてくる。
そして、ソフトボールにおいては、事態はさらに深刻だ。スケルトン競技の越和宏は、かつてボブスレーからスケルトンに転向した時、勤務先企業から「五輪競技だから支援していた。スケルトンなどという競技に金は出せない」と支援を打ち切られ、退職せざるを得なくなった。そこまでドラスティックなことはないかも知れないが、ほとんどのチームが企業に抱えられている以上、これに近い事態が起こることが予想される。
追記
その後の報道によれば、日本はそれなりに存続のためのロビー活動を行なったようだが、MLBや世界野球連盟は動きがなかった、ということらしい。ロゲIOC会長の意思が強く働いたという見方もある。
追記2(2005.7.17)
baseball windに、野球が五輪競技に採用されるに至った経緯と、除外されるに至った経緯が詳しくまとめられている。ご参考に。
http://www.geocities.jp/baseball_wind21/wind5.htm#489
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コメント
こんにちは。思いもよらない話でした。
>もっとも、MLBとIOCのパワーゲームをうまく利用して有利なポジションを占める、などという巧妙な外交手腕を日本人が持ち合わせていないことは、サッカーのワールドカップ誘致の顛末からも想像できる。
私が今回の落選の報を聞いてまず思ったのが、日本の外交戦術の相変わらずの温さでした。韓国はテコンドーを必死で守った。日本は守れるものと甘く見ていたらそうならなかった。どんな過程があったかはわかりませんが、これが結果です。
私にとっては日本スポーツを長期的に見たときに、野球がなくなる、ソフトがなくなることよりもそっちの方が重大問題だな、と感じました。五輪競技として復活する可能性はあっても、復活させる能力があるのか、甚だ疑問です。というわけで、久々にトラックバックさせていただきました(笑)
投稿: アルヴァロ | 2005/07/09 23:55
>アルヴァロさん
>韓国はテコンドーを必死で守った。日本は守れるものと甘く見ていたらそうならなかった。
空手を加えることができなかったことも含めれば「日本で盛んな3つの競技を失った」ということになりますね(実際に空手で日本がどのくらい強いのかは知りませんが)。
国際的な普及や知名度で空手がテコンドーに劣るとは考えにくいですから、これも組織力の差ということになるのでしょう。
投稿: 念仏の鉄 | 2005/07/10 19:53
欧州スポーツの衛星中継をか何かで見ていると、クリケットが熱狂的人気を得ていて、驚かされます。
インドとかケニア、オーストラリアなど、「イギリスの息のかかった地域」では特にそうですね。
僕(ら)がクリケットの良さもルールも分からないのと同じくらい、彼らにとっては野球を楽しむ人たちはエイリアンなんでしょうかね
結局、競技人口が何人以上いたら採用、とか、そういう客観基準がない。
投稿: penguin | 2005/07/13 20:12
>penguinさん
クリケットは一度シドニーで見たことがあります。1時間半くらい見ていたが、結局ルールがよくわからなかった(笑)。
だだっ広いグラウンドに選手が散らばっていても、常にプレーしているのはごく一部で、大多数の選手は暇そうにしていることと、観客が試合内容に関係なく、のべつまくなし通路を歩いていることは、野球によく似ていました。
今回のことについて、その後の報道も眺めつつ考えてみましたが、日本にアルヴァロさんが指摘する問題があることは確かだとしても、結局はMLBが動かない限り、結果は同じだったでしょう。投票前から世界野球連盟のノタリ会長(イタリア人)が「MLBが協力してくれない」と嘆き、結果が出た途端に複数のMLB関係者が「IOCは過ちを犯した」というコメントを出しているわけですから。
投稿: 念仏の鉄 | 2005/07/14 10:18
その競技でしか使えない競技場を新規でその競技が盛んでない国に作らなければならない野球は、半可なロビイングでは五輪競技として維持できなかったであろう。体育館でできるテコンドーと同次元で論じられないと思う。
サッカー場やクリケット場に臨時にダイヤモンド作ってでもやります、とは言ったのかな?
日本のスポーツジャーナリズムが、アメリカの一国主義を批判したり、サッカーのような国際性を野球でも、と啓蒙するより、メジャーとの違いを大げさに取りあげ、メジャーは全部正しくて日本はすべて間違っているという啓蒙にばかり汲々としてきたたのも問題だったと思う。(そういう人は概して長嶋を賛美してきた人と被る)
そういうことを置き去りにして、サッカーも巻き込んで日本の外交能力の拙さを呪う。とても日本的な光景だとおもう。
アメリカはアメリカで虫のいいこと考えていたんじゃないか。
そーいや、欧州(英・蘭・伊)でメジャーリーグの公式戦やるって話はどうなったんだろう?
投稿: 莫迦乃花 | 2005/07/16 23:34
>莫迦乃花さん
>その競技でしか使えない競技場を新規でその競技が盛んでない国に作らなければならない野球は、半可なロビイングでは五輪競技として維持できなかったであろう。
そう考えると、むしろよく正式競技に押し込んだものだと、改めてピーター・オマリーに感心します(採用と除外の経緯について、baseball windに詳しくまとめられていたので、本文中にリンクを追加しておきます)。
>サッカー場やクリケット場に臨時にダイヤモンド作ってでもやります、とは言ったのかな?
サッカー場で野球をやるのはサイズからみて困難ですから、たぶん言わなかったでしょう。
クリケット場は大体160メートル×140メートルの楕円形なので転用可能ですから、言ってみれば面白かっただろうとは思います。
>日本のスポーツジャーナリズムが、アメリカの一国主義を批判したり、サッカーのような国際性を野球でも、と啓蒙するより、メジャーとの違いを大げさに取りあげ、メジャーは全部正しくて日本はすべて間違っているという啓蒙にばかり汲々としてきたたのも問題だったと思う。
私はむしろ、「サッカーのような国際性」を野球にあてはめようとした結果がMLB礼賛なのではないかという印象を持っています。
<「世界」に認められる「日本」>という理想像にすべてを集約させようとする点で、日本の野球ジャーナリズムとサッカージャーナリズムの「国際性」はよく似ています。ただ、「世界」の中身が「欧州の強豪国(またはクラブ)」であるか、「MLB」であるかという違いだけで。
たとえば、
>メジャーとの違いを大げさに取りあげ、メジャーは全部正しくて日本はすべて間違っているという啓蒙にばかり汲々として
この「メジャー」を「欧州トップモード」に置き換えれば、杉山茂樹の言説に、ほぼ当てはまります(笑)。
杉山茂樹つながりで言うと、
>とても日本的な光景だとおもう。
この形容も、杉山氏の文章によく出てきます。
「自国の名を冠した形容によって、論理的には何を言ってるのかよくわからないままに、何となく批判的な雰囲気を漂わせる」というこのようなレトリックは、果たして日本語以外の言語に存在するのでしょうか。
もしかすると、この表現そのものが「とても日本的」なのではないかと私は疑っています。
投稿: 念仏の鉄 | 2005/07/17 20:40
アメリカ独特の(多分他国は真似しない)変形球場については日本でも本が何冊か出ています。サッカー場…というのは昔のNYポログランドを連想したもので、発想自体が突飛だったとは思いませぬが、イギリスのサッカー場だとやっぱり狭いかもしれない。ならばドジャースがLAに移転した当初は、メモリアルコロシアムを使っていたはず。
専用競技場としてはそれ以外に使いようのない野球は、一方で他の競技場で融通無碍にできる。そのノウハウが一番ある国が五輪存続に消極的だったわけです…。
足元の批判と同じくらいの比重で、アメリカ野球の一国主義への批判や、米球界とどう対峙するかという議論を長年積み重ねていれば、日本球界の戦略や対処も変わったかもしれない。そうではなくて、評する側は日本球界の批判をするためにメジャーリーグを理想化しただけだった。
いざ五輪種目から外れると、自嘲的言辞で埋め尽くされた評価がやっぱり出てくる。このあたりは見慣れた光景です。
(WBCに参加したとして、アメリカ的流儀に翻弄されて日本が力を発揮できなかったら、どこかからそういう声が聞こえてきそう。これまでを見ていると予想できてしまう)
表現がまずかったせいで、杉山茂樹氏の名前が出たのは意外でした。好きになれない人ですが、少なくとも「中田英寿もそう思っているらしい」という流れには与してこなかった。
一選手がなぜ「そう思っているらしい」なコメントができるのか不思議でならず、またなぜ挿入されるのかもよく分かりません。評価の難しい監督のもと、考えているのは中田英だけではないでしょうに。
が、考えているのは、考えられるのは中田英寿だけだ、という傾向がかなりの層であるらしく、それもまた「<「世界」に認められる「日本」>という理想像」の投影だったりするのですが、自覚できないか、認めたくない人が多いようです。
>「自国の名を冠した形容によって、論理的には何を言ってるのかよくわからないままに、何となく批判的な雰囲気を漂わせる」というこのようなレトリックは、果たして日本語以外の言語に存在するのでしょうか。
>もしかすると、この表現そのものが「とても日本的」なのではないかと私は疑っています。
「この国では」ってのもありましたね。政治力を持つ人の言質を取られない圧力の掛け方は、本当に「この国」だけなのでしょうか? 何かあるとすぐ「この国では」になりがちではありませんか。
投稿: 莫迦乃花 | 2005/09/12 00:31
>莫迦乃花さん
こんばんは。随分とお久しぶりですね。
2か月近くも経ってからレスをいただけるとは珍しいことです。
>(WBCに参加したとして、アメリカ的流儀に翻弄されて日本が力を発揮できなかったら、どこかからそういう声が聞こえてきそう。これまでを見ていると予想できてしまう)
そうでしょうね。力を発揮できなかったら批判が出てくるのは当然だと思います。
>一選手がなぜ「そう思っているらしい」なコメントができるのか不思議でならず、またなぜ挿入されるのかもよく分かりません。評価の難しい監督のもと、考えているのは中田英だけではないでしょうに。
日本がワールドカップ予選通過を決めた後の記者会見で、中田が「本大会で勝ち抜けるだけの力はまだないと思っている」と発言したことを受けたものです。私の素人考えを補強してもらうためには、チームの主力選手によるこの発言が、他の誰の考えよりもふさわしい材料だと思いました。こう口にした代表選手は中田英寿だけです。
ただし、中田はジーコ監督の力量だけを理由にしたわけではないので、もし拙文がそのように読めるなら、私の勇み足ということになります。
>「この国では」ってのもありましたね。政治力を持つ人の言質を取られない圧力の掛け方は、本当に「この国」だけなのでしょうか?
わかりません。他の国にもあるかも知れませんね。
ご指摘の拙文は、日本の政治家の言葉の使い方について小泉純一郎を中心に述べたもので、他国との比較は行なっていません。「この国」という言葉は、話題の対象を限定するために用いており、仮にご指摘のような現象が他の国でも盛んに見られるとしても、論旨に大きな影響はないものと考えています。
で、私が呈した疑問に対しては、ご回答はいただけないわけですね(笑)。質問に反問で応じるのは、質問に答えたくない人が使いがちなレトリックですが、ま、答えていただかなくて結構です。これ以上続けても不毛なやりとりになりそうですし(すでになってるような気もします)。
なお、他の方のために補足しておくと、莫迦乃花さんのコメントの中の、
「中田英寿もそう思っているらしい」は当blogのエントリ「日本サッカー『右肩上がりの時代』の掉尾に。」から、
「この国は」は「失われた『失言』。」から、それぞれ引用されているものと思われます(という前提でコメントしているのですが、もし違ったら間抜けですね)。
投稿: 念仏の鉄 | 2005/09/13 00:57