キング・カズが横浜に降臨した夜に。
三ツ沢公園球技場に着いたのは、試合開始の1時間以上前だったが、すでにスタンドは五割方埋まっているように見えた。「限定発売」と銘打ったTシャツ売り場はなかなか好調のようで、背番号11や9や30を印した水色のTシャツを、そのまま着込んでスタンドに陣取る観客も少なくなかった。カズがこのチームに加入して約1か月。ホームゲームに出場するのは2度目だ。そろそろ初ゴールが生まれてもいいはずだ、という人々の期待が膨らんでいた。
8月27日、土曜日。もう1時間もすれば、横浜FCとヴァンフォーレ甲府の試合が始まる。夏の終わりの曇り空の下で、湿気を含んだなまぬるい風が吹いていた。
私が座ったのはメインスタンドのアウェー側、ベンチから数列目の席だった。サッカー専用競技場の三ツ沢では、このくらい前の席だと、試合中に選手が叫ぶ声までよく聞こえる。
甲府のユニホームを着た観客は意外に多く、数百人はいるように見えた。が、ゴール裏に集結していたのはごく一部で、大半はメインスタンドとバックスタンドに分散して穏やかに観戦していた。夏休み最後の土曜日とあってか、家族連れの姿も目立つ。私の前方、最前列に座った親子は、試合が始まる直前まで、新種のすごろくだか人生ゲームだかに興じていた。2年前、彼らのホームグラウンドである小瀬陸上競技場を訪れた時に、運動会の客席のような雰囲気だな、と感じたのを思い出した。それはそれで悪くない。
物売りの女の子が近くにやってきたのでビールかと思ったら、箱に「三ツ沢名物カイピリーニャ」と書いてある。ブラジルのカクテルだ。横浜FCのホームゲーム限定だという。物珍しさから1杯頼むと、女の子はその場に座り込み、おもむろにカクテルを作り始めた。
かき氷を入れるような小さなスチロールのカップに角氷を入れ、スピリッツをどぼどぼと注ぎ、スプーン一杯のザラメを落とし、6等分くらいに切ったライムを放り込んで、マドラーで2,3度かき混ぜる。あまり手際が良いとは言えない。スタンドの売り子としては、ちょっと考えられないほどの手間をかけることができるのは、あまり動員力のないイベントだからなのかも知れない。
手渡されたカップと引き替えに400円を渡した。口にしてみると、私が知っているカイピリーニャとはだいぶ違う。ザラメが溶けず、ライムも絞らずに放り込んだだけなので、単なるスピリッツのロックと変わらない。自分でかき混ぜているうちに、だんだんとカイピリーニャらしくなってきて、夏の終わりのなまぬるい風によく似合う。
18時15分ごろ。ピッチの中にスタンドマイクが立てられた。前節から加入した2人の選手の挨拶が行われる。そのうちのひとりは、アルビレックス新潟から期限付き移籍したMF山口素弘だった。フリューゲルス消滅とともに横浜を去ったキャプテンが、再びこのスタジアムに戻ってきた。
懐かしい素弘コールを叫ぶゴール裏に小さく手を振ってから、山口はマイクに向き直った。
「いろんなことを喋りたいんですが…皆さん、この三ツ沢、ただいま。」
挨拶はそれだけだった。それで充分だった。スタンド中から大きな拍手が鳴り響いた。
試合前の練習中にも、ゴール裏からは山口へのコールが何度も何度も繰り返された。山口はピッチの中に立ち尽くし、彼らに手を振った。その背中は、感極まって動けなくなってしまったように見えた。
だが、試合が始まってまもなく、前半5分に甲府のセンターバック池端陽介がコーナーキックからヘディングを決めて先制すると、感傷的な空気は吹き飛んだ。
優位に試合に入ったのは甲府だった。そのへんの高校生よりも華奢に見える倉貫一毅と、ガクランが似合いそうな不良学生風の藤田健、2人の小柄なMFを中心に甲府は短いパス交換をしながらボールをキープし、ゆっくりと押し上げていく。しかし、最前線に構える屈強なFWバレーには、なかなかボールが届かない。2年前に見た甲府は、両サイドからの果敢な攻め上がりが印象的なチームだったが、しばらく見ないうちにスタイルが変わったのだろうか。
横浜FCは左サイドMF小野智吉を起点に、カズと城の2トップにパスを供給しようと試みる。カズはボールをまたぐフェイントを見せてスタンドを沸かせる。30分ごろには、試合の主導権は横浜FCに移りつつあったが、甲府の守備陣は懸命に元代表2トップに食い下がって得点を許さない。自分のミスを大仰なゼスチャーで嘆く城の姿は代表の頃と変わらない。
左サイドから持ち込んだカズのシュートがクロスバーにはじかれて、誰もが溜め息をついた直後。甲府は久しぶりのチャンスからCKを得ると、守備的MF奈須伸也がヘディングを決める。42分。原博実ならずとも「いい時間帯に入りました」と言いたくなるようなファインゴールだった。
ロスタイムに横浜FCが得たFKを、甲府のGK阿部謙作が横っ飛びに弾き出したところで前半が終わった。2-0で甲府リード。
ハーフタイムにはベンチの選手が足慣らしのためピッチに出てくる。甲府サイドでは、このところ出番の少ない小倉隆史が、左足から次々と美しいシュートをゴールネットに突き刺していた。
後半開始から猛攻をかけたのは、2点をリードしている甲府の方だった。前半のフラストレーションを晴らすかのように、バレーが2分にこぼれ球を押し込み、さらに5分にはCKからヘディングシュートを決める。4-0。横浜FCの選手たちは、もはや戦意を喪失したかのようにも見えた。山口が顏を歪めて何事かを叫ぶ。
だが、これほど一方的であっても、試合の流れというものは、おそろしいほどあっさりと変わってしまう。きっかけは、後半11分に交代で登場した横浜FCのMFシルビオだった。ドレッドヘアのトリニダード・トバゴ代表は、中盤で一度ボールに触れると、そのままぐんぐんと駆け上がって、右からのパスを受けると甲府ゴールに流し込んだ。セカンドタッチでの得点。あれよあれよという間の出来事だった。
数字の上では焼け石に水のような1点だったが、まもなく試合の流れを決定的に変える出来事が起こる。20分、城がファウルを受けて得たFKを、カズが右足で決める。移籍後初ゴールは、J2史上最年長ゴールでもあった。前半にはクロスバーにはじかれたシュートが、今度はクロスバーを経由してゴールマウスの中に跳ねる。それも試合の流れを象徴しているように見えた。
ホームの声援を受けて横浜FCの動きはますます激しくなる。ほとんど諦めかけていた試合が、カズのゴールによって「負けられない試合」へと変わっていた。両チームの気迫はヒートアップし、それぞれの選手がしばしばピッチに倒れ込んだ。前半は目立たなかった山口は、気がつくと横浜の中盤を仕切っていた。
筋肉がぶつかりあう音がスタンドまで聞こえてきそうな迫力でバレーと何度も激突していた横浜FCの巨漢DFトゥイードが、39分、低いコーナーキックに身をかがめてヘディングシュートを決める。4-3、遂に1点差。さらに厳しい攻防が続くが、4分間の長いロスタイムの末、甲府が逃げ切った。試合終了を待っていたかのように、屋根のないスタンドに、ぱらぱらと雨が落ちてきた。
観戦記を書く習慣のないこのblogで、敢えて長々とひとつの試合について記してきたのには、ささやかな理由がある。
この夜のTBS『スーパーサッカー』は、この試合について、カズのプレーとカズの得点とカズの談話だけを報じた(バレーの2ゴールの映像は流れたが、彼の名はアナウンスされなかった)。J2の試合結果は、それまでのトークで時間を使い過ぎたのか、ほんの一瞬しか表示されなかった。全部を読み取ることのできた視聴者は、ほとんどいなかっただろう。翌朝の新聞記事も同様だった。試合中、甲府のゴール脇には十数人のカメラマンが陣取り、横浜FC側には3人しか見当たらなかった。あらゆるメディアが「この試合にカズのゴールのほかに価値のあるものなど何もない」と言外に告げているようだった。
それがいささか癪に障ったことが直接の動機ではある。
だが、まあ、それはそれでいい。
カズ以外の選手が決めた6つのゴールが、山口の挨拶が、バレーとトゥイードの激突やその他のプレーがどれほど味わいのあるものだったかは、その場に居合わせた8,629人の観客だけが知っている。だからこそ、人はスタジアムに足を運ぶのだから。
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当blogは8月27日で開設1周年を迎えました。きまぐれで飽きっぽい筆者を支えてくださるご来訪の皆様に、お礼を申し上げます。
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