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2005年8月

キング・カズが横浜に降臨した夜に。

 三ツ沢公園球技場に着いたのは、試合開始の1時間以上前だったが、すでにスタンドは五割方埋まっているように見えた。「限定発売」と銘打ったTシャツ売り場はなかなか好調のようで、背番号11や9や30を印した水色のTシャツを、そのまま着込んでスタンドに陣取る観客も少なくなかった。カズがこのチームに加入して約1か月。ホームゲームに出場するのは2度目だ。そろそろ初ゴールが生まれてもいいはずだ、という人々の期待が膨らんでいた。
 8月27日、土曜日。もう1時間もすれば、横浜FCとヴァンフォーレ甲府の試合が始まる。夏の終わりの曇り空の下で、湿気を含んだなまぬるい風が吹いていた。


 私が座ったのはメインスタンドのアウェー側、ベンチから数列目の席だった。サッカー専用競技場の三ツ沢では、このくらい前の席だと、試合中に選手が叫ぶ声までよく聞こえる。
 甲府のユニホームを着た観客は意外に多く、数百人はいるように見えた。が、ゴール裏に集結していたのはごく一部で、大半はメインスタンドとバックスタンドに分散して穏やかに観戦していた。夏休み最後の土曜日とあってか、家族連れの姿も目立つ。私の前方、最前列に座った親子は、試合が始まる直前まで、新種のすごろくだか人生ゲームだかに興じていた。2年前、彼らのホームグラウンドである小瀬陸上競技場を訪れた時に、運動会の客席のような雰囲気だな、と感じたのを思い出した。それはそれで悪くない。


 物売りの女の子が近くにやってきたのでビールかと思ったら、箱に「三ツ沢名物カイピリーニャ」と書いてある。ブラジルのカクテルだ。横浜FCのホームゲーム限定だという。物珍しさから1杯頼むと、女の子はその場に座り込み、おもむろにカクテルを作り始めた。
 かき氷を入れるような小さなスチロールのカップに角氷を入れ、スピリッツをどぼどぼと注ぎ、スプーン一杯のザラメを落とし、6等分くらいに切ったライムを放り込んで、マドラーで2,3度かき混ぜる。あまり手際が良いとは言えない。スタンドの売り子としては、ちょっと考えられないほどの手間をかけることができるのは、あまり動員力のないイベントだからなのかも知れない。
 手渡されたカップと引き替えに400円を渡した。口にしてみると、私が知っているカイピリーニャとはだいぶ違う。ザラメが溶けず、ライムも絞らずに放り込んだだけなので、単なるスピリッツのロックと変わらない。自分でかき混ぜているうちに、だんだんとカイピリーニャらしくなってきて、夏の終わりのなまぬるい風によく似合う。


 18時15分ごろ。ピッチの中にスタンドマイクが立てられた。前節から加入した2人の選手の挨拶が行われる。そのうちのひとりは、アルビレックス新潟から期限付き移籍したMF山口素弘だった。フリューゲルス消滅とともに横浜を去ったキャプテンが、再びこのスタジアムに戻ってきた。
 懐かしい素弘コールを叫ぶゴール裏に小さく手を振ってから、山口はマイクに向き直った。
 「いろんなことを喋りたいんですが…皆さん、この三ツ沢、ただいま。」
 挨拶はそれだけだった。それで充分だった。スタンド中から大きな拍手が鳴り響いた。
 試合前の練習中にも、ゴール裏からは山口へのコールが何度も何度も繰り返された。山口はピッチの中に立ち尽くし、彼らに手を振った。その背中は、感極まって動けなくなってしまったように見えた。

 だが、試合が始まってまもなく、前半5分に甲府のセンターバック池端陽介がコーナーキックからヘディングを決めて先制すると、感傷的な空気は吹き飛んだ。
 優位に試合に入ったのは甲府だった。そのへんの高校生よりも華奢に見える倉貫一毅と、ガクランが似合いそうな不良学生風の藤田健、2人の小柄なMFを中心に甲府は短いパス交換をしながらボールをキープし、ゆっくりと押し上げていく。しかし、最前線に構える屈強なFWバレーには、なかなかボールが届かない。2年前に見た甲府は、両サイドからの果敢な攻め上がりが印象的なチームだったが、しばらく見ないうちにスタイルが変わったのだろうか。

 横浜FCは左サイドMF小野智吉を起点に、カズと城の2トップにパスを供給しようと試みる。カズはボールをまたぐフェイントを見せてスタンドを沸かせる。30分ごろには、試合の主導権は横浜FCに移りつつあったが、甲府の守備陣は懸命に元代表2トップに食い下がって得点を許さない。自分のミスを大仰なゼスチャーで嘆く城の姿は代表の頃と変わらない。
 左サイドから持ち込んだカズのシュートがクロスバーにはじかれて、誰もが溜め息をついた直後。甲府は久しぶりのチャンスからCKを得ると、守備的MF奈須伸也がヘディングを決める。42分。原博実ならずとも「いい時間帯に入りました」と言いたくなるようなファインゴールだった。
 ロスタイムに横浜FCが得たFKを、甲府のGK阿部謙作が横っ飛びに弾き出したところで前半が終わった。2-0で甲府リード。

 ハーフタイムにはベンチの選手が足慣らしのためピッチに出てくる。甲府サイドでは、このところ出番の少ない小倉隆史が、左足から次々と美しいシュートをゴールネットに突き刺していた。


 後半開始から猛攻をかけたのは、2点をリードしている甲府の方だった。前半のフラストレーションを晴らすかのように、バレーが2分にこぼれ球を押し込み、さらに5分にはCKからヘディングシュートを決める。4-0。横浜FCの選手たちは、もはや戦意を喪失したかのようにも見えた。山口が顏を歪めて何事かを叫ぶ。
 だが、これほど一方的であっても、試合の流れというものは、おそろしいほどあっさりと変わってしまう。きっかけは、後半11分に交代で登場した横浜FCのMFシルビオだった。ドレッドヘアのトリニダード・トバゴ代表は、中盤で一度ボールに触れると、そのままぐんぐんと駆け上がって、右からのパスを受けると甲府ゴールに流し込んだ。セカンドタッチでの得点。あれよあれよという間の出来事だった。
 数字の上では焼け石に水のような1点だったが、まもなく試合の流れを決定的に変える出来事が起こる。20分、城がファウルを受けて得たFKを、カズが右足で決める。移籍後初ゴールは、J2史上最年長ゴールでもあった。前半にはクロスバーにはじかれたシュートが、今度はクロスバーを経由してゴールマウスの中に跳ねる。それも試合の流れを象徴しているように見えた。

 ホームの声援を受けて横浜FCの動きはますます激しくなる。ほとんど諦めかけていた試合が、カズのゴールによって「負けられない試合」へと変わっていた。両チームの気迫はヒートアップし、それぞれの選手がしばしばピッチに倒れ込んだ。前半は目立たなかった山口は、気がつくと横浜の中盤を仕切っていた。
 筋肉がぶつかりあう音がスタンドまで聞こえてきそうな迫力でバレーと何度も激突していた横浜FCの巨漢DFトゥイードが、39分、低いコーナーキックに身をかがめてヘディングシュートを決める。4-3、遂に1点差。さらに厳しい攻防が続くが、4分間の長いロスタイムの末、甲府が逃げ切った。試合終了を待っていたかのように、屋根のないスタンドに、ぱらぱらと雨が落ちてきた。


 観戦記を書く習慣のないこのblogで、敢えて長々とひとつの試合について記してきたのには、ささやかな理由がある。
 この夜のTBS『スーパーサッカー』は、この試合について、カズのプレーとカズの得点とカズの談話だけを報じた(バレーの2ゴールの映像は流れたが、彼の名はアナウンスされなかった)。J2の試合結果は、それまでのトークで時間を使い過ぎたのか、ほんの一瞬しか表示されなかった。全部を読み取ることのできた視聴者は、ほとんどいなかっただろう。翌朝の新聞記事も同様だった。試合中、甲府のゴール脇には十数人のカメラマンが陣取り、横浜FC側には3人しか見当たらなかった。あらゆるメディアが「この試合にカズのゴールのほかに価値のあるものなど何もない」と言外に告げているようだった。
 それがいささか癪に障ったことが直接の動機ではある。

 だが、まあ、それはそれでいい。
 カズ以外の選手が決めた6つのゴールが、山口の挨拶が、バレーとトゥイードの激突やその他のプレーがどれほど味わいのあるものだったかは、その場に居合わせた8,629人の観客だけが知っている。だからこそ、人はスタジアムに足を運ぶのだから。

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 当blogは8月27日で開設1周年を迎えました。きまぐれで飽きっぽい筆者を支えてくださるご来訪の皆様に、お礼を申し上げます。

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ピーター・ジェニングスの死。

 2001年9月11日に、ニューヨークで世界貿易センタービルが破壊されたのは、ちょうど私の父親が1年半ほど続いた闘病生活を終えようとしていた頃だった。夜の病室で意識のない病人の傍らに座り、何をするでもなく眺めていたテレビ画面の中では、懸命の救出活動が続いていた。
 NHK-BSではアメリカのテレビ放送をそのまま流していた。スタジオに画面が切り替わると、いつもは隙なくスーツを着こなしたニュースキャスターが、珍しくワイシャツ姿でスタジオにいた。事件発生から出づっぱりだったのだろう。疲労の色は隠せなかったが、それでもキャスターの落ち着いた声には、人々の動揺を鎮め、勇気づけるエネルギーが感じられた。

 ウチもたいへんだが、あっちはもっとたいへんだな。
 私がそんなふうに考えたのは、たぶん、そのキャスターを何年もの間、毎日のように見てきて、信頼と親近感を抱いていたからだと思う。
 今でもそうだが、NHK-BS1では、毎朝、世界主要国のニュースを同時通訳付きで放映している。彼は、その中の番組のひとつ、abcワールド・ニュース・トゥナイトのアンカーを務めるピーター・ジェニングスだった。


 とはいえ私は漫然と番組を眺めていただけで、彼がどういうキャリアを持った人物であるのかは、つい最近まで知らなかった。ただ、ニュースを伝える姿を毎日見ているだけで、頼もしい人物だと思わせるだけの何かが、彼にはあった。

 9.11直後と並んで印象に残っている場面がある。
 米軍がイラクに侵攻する直前の2003年3月。ジェニングスは自らクウェート入りして、司令官インタビュー等の取材を行なった。
 迷彩服に身を包んだジェニングスから、どこか浮き立つような興奮が感じられたことは否めない。ベイルートで輝かしいキャリアの基礎を築いた彼にとって、中東の紛争はホームグラウンドのようなものだ。
 それでも、いや、だからこそジェニングスは、米軍との間に一線を引くことを、忘れてはいなかった。彼はレポートを、こんな言葉で締めくくる。
「ジャーナリスト数百人が米軍の部隊に同行し、生活をともにする。abcでは戦闘を生中継する見込みだ。これはかつてなかったことだ。abcでは放送する内容を事前にチェックするつもりだが、軍では、そのままの映像を伝えることを望んでいる」


 そのピーター・ジェニングスが亡くなった。8月7日。67歳だった。肺ガンのため今年4月に番組を降板してから4か月しか経っていない。

 彼の経歴を、cnn.co.jpの死亡記事から引用する。

<カナダ・トロント出身で03年に米国市民となったジェニングスさんは高校中退後、銀行の窓口係などを経てテレビ報道に進出。1961年のベルリンの壁構築などを現地取材した後、1964年にABCニュースに入社した。翌年には26歳で「ピーター・ジェニングスとニュース」の司会に抜擢されるが、取材経験を積みたいと本人が申し出て、68年に米国テレビ初のベイルート支局長となる。1972年のミュンヘン五輪とイスラエル選手団殺害事件などの現地報道をはじめ、ローマ、ロンドン支局を経て、1983年に「ワールドニュース・トゥナイト」のメーン司会に着任。以来、米国のニュースの顔として、多大な影響力を発揮した。>

 NHK-BS1では昨夜(8/22)、abcワールド・ニュース・トゥナイトの追悼番組に続けて、ジェニングスへのインタビューを含む『イラク戦争とメディア』を再放送した。今年3月20日に放映された番組で、イラク戦争をアメリカのテレビ・新聞がどう伝えたかを検証する特集だ。今になって見れば、彼が肺ガンで番組を降りる直前である。登場するジェニングスの声は、心なしかいつもより、か細く感じられる。

 米軍がバグダッドに侵攻し、フセイン像が倒され、周囲でイラク人たちが気勢をあげる。このよく知られた映像に、ジェニングスは当時、ニュースの中でこんなコメントをかぶせている。
「街は混乱しています。解放を喜ぶ人もいますが、アメリカ軍がとどまることを恐れているイラク市民もいます。この日を待ち望んでいた人も、混乱や復讐を恐れる人もいます」
 9.11以来、大政翼賛化が進んでいたアメリカのネットワークの中では希有な発言といってよい。中東取材の長いキャリアを持ち、歴代の大統領からも一目置かれるほどの大物キャスターだからこそ言える言葉かも知れない。

 abcのイラク戦争報道に対して、視聴者からは「愛国的ではない」「忠誠心が足りない」と批判の声も届いた、と番組は伝えている。ジェニングスは語る。
「(愛国的報道姿勢が目立った)Foxのキャスターは、開戦当初から襟に星条旗のバッジをつけていました。しかし、我々が自分が何者かを示すために、星条旗は必要ない。我々の愛国心とは、質の高い、公平で誠実なジャーナリズムだと考えています」
「同時多発テロ事件の後、高まった愛国主義は、本当の愛国主義ではなく、ナショナリズムなのではないかと思います。政府や軍のすることは何であろうと支持する、そんな傾向が強いのです」
 だが、abcニュースは、この戦争を通じて視聴者の5.8%を失ったという。


 90年代のアメリカの軍事行動を克明に描いた『静かなる戦争』で、著者のデービッド・ハルバースタムは、「変貌するマスコミ」という章を設けて、80年代から90年代にかけて、アメリカのテレビ・ネットワークが海外のニュースに関心を失い、内向き・愛国的に変化していく様子を描いている。

「八〇年代には、テレビ局の記者も大きく変わる。かつては、第一線の特派員が困難極まる取材を敢行し、まず重要な海外ニュースを伝えることで名声を築いたものだった。ところが新世代の記者は、男女を問わず、なによりもテレビ映りがよい。また『マガジン』と呼ばれる総合ニュース番組のために働き、三面記事的な軽いニュースを扱う。アメリカが『内向き』になった証拠である。記者という職業が大きく変貌したのだ」
「海外特派員のテレビ出演がしだいに難しくなり始めた。その結果、かつては花形だった海外派遣の希望者は激減する。もはや優秀な若者は、興味をそそっても、危険な場所には行きたがらなくなってしまった」

 この本が出版されたのは2001年。9.11の数か月前だ。その後、アフガニスタンやイラクへの攻撃に関する報道は大量に行われたが、視聴者に支持されたのは、米軍の軍用車に乗り込み、米軍を「われわれ」、イラク軍を「敵」と呼ぶ、あくまで「内向き」な姿勢を貫いたFoxニュースだった。

 そんな流れの中で、「三大ネットワークの中でただ一人、海外特派員として名を馳せ、今でも海外ニュースに情熱を持っていた」(『静かなる戦争』)とハルバースタムが形容したジェニングスが退場することは、ひとつの時代の終焉を、強く感じさせる。
 abcの追悼番組の中で、同僚たちが語るジェニングスは、厳しく、しかし優しく、いつも周囲を見守り、温かく励ます、そんな人物だったようだ。「メディアの使命は市民に代わって政府を監視することだ」という発言が似付かわしい、良き時代のジャーナリストだった。
 アメリカ国民はおそらく、彼の死を、まるで父親を喪ったように感じているのではないだろうか。

追記(2006.9.14)
スティーブン・スピルバーグ監督の映画『ミュンヘン』の中で、ミュンヘン五輪選手村のイスラエル選手虐殺事件を伝えるテレビニュースが映る場面があるが、どうやら当時の本物の映像を使っているようで、若き日のピーター・ジェニングスの声も聴くことができる。

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戦争を知らない世代が語る戦争のリアリティ。

 知人に紹介されて、こうの史代『夕凪の街 桜の国』(双葉社)という漫画を読んだ。
 広島に落とされた原爆をテーマにした漫画だが、このテーマで誰もが頭に浮かべるであろう中沢啓治『はだしのゲン』とは、ずいぶんと肌合いが違う。

 100ページあまりの薄い単行本は、3つの短編で構成されている。
 「夕凪の街」は、昭和30年の広島が舞台だ。主人公のOL皆実は、原爆で父と姉と妹を失い、家も失って、老いた母と2人、「原爆スラム」と呼ばれるバラック街で暮らしている。一家には幼い弟もいるが、水戸の伯父夫婦に預けられて暮らすうちに、本人と伯父夫婦の希望により養子になった。
 皆実は、靴をすり減らさないために会社の行き帰りを途中まで裸足で歩くほどの貧乏ではあるが、それなりに穏やかな日常を過ごしている。しかし、それは表面上のことに過ぎない。ささやかな幸福に恵まれそうになると、心の奥にしまい込んでいた感情が噴き出してくる。大勢の人を見殺しにし、遺体をまたぎ、時には遺品を盗んで生き延びてきたという罪悪感。みんな死んでしまったのに自分だけが生き残ったという不条理。

 “しあわせだと思うたび 美しいと思うたび
  愛しかった都市のすべてを 人のすべてを思いだし
  すべて失った日に引きずり戻される
  おまえの住む世界はここではないと 誰かの声がする”

 そんなトラウマを乗り越え、ようやく幸福をつかもうとした皆実を、しかし、“誰か”は見逃してはくれなかった…。

 「桜の国」(一)(二)は、そこから数十年を経た次の世代、皆実の弟の子供たちの物語だ。(一)は1987年、(二)は2004年という「現代」に生きる子供や若者たちの何気ない日常の奥底に、今も原爆という古傷は刻みつけられたままであり、ちょっとしたきっかけで鮮血を滲ませるのだ、ということを思い知らされる。60年の時を経ても、原爆はいまだに一家につきまとうことをやめてはくれない。

 作品の中には、静かな時間が流れている。登場人物たちは、声高に叫んだり、訴えたりはしない。それぞれが、背負わされてしまった過酷な運命にかろうじて折り合いをつけながら生き続けている。彼らは誰も責めはしないけれども、そのやりきれない哀しみは、どんな大きな叫びよりも、読む者の心に沁み通ってくる。

 こうの史代は1968年生まれ。広島市出身ではあるが、肉親に被爆者がいるわけではない。あとがきには、「原爆はわたしにとって、遠い過去の悲劇で、同時に『よその家の事情』でもありました」とある。それでも、広島で生まれ育った以上、さまざまな形で原爆について知らされながら育ってきたにも違いない。

 腰巻きに記された、みなもと太郎の推薦文に、こんな一節がある。
「これまで読んだ多くの戦争体験(マンガに限らず)で、どうしても掴めず悩んでいたものが、ようやく解きほぐせてきた思いです。」
 それがこうのの力量によることはもちろんだが、同時に、1968年生まれの漫画家が21世紀に描いた、という時代背景に与るところも大きいのではないかと思う。


 今年に入ってから、若い世代の手による戦争ルポをいくつか目にした。
 西牟田靖『僕の見た「大日本帝国」』(情報センター出版局)は、70年生まれの著者が、サハリン、台湾、韓国、北朝鮮、旧満州、ミクロネシアなど、かつて日本の統治下にあった土地に残る「大日本帝国」の痕跡である建造物を訪ね歩くノンフィクション。
 下道基行『戦争のかたち』(リトルモア)は、78年生まれの著者が、トーチカ、掩体壕、砲台など日本国内に作られた軍事施設の跡を訪ねて撮影した写真集だ。
 それぞれに新鮮な印象を受けた。それはおそらく、著者たちがこの戦争についてあまり多くを知らず、自分の目に映ったもの、自分が人々から聞いたことだけを積み上げて作品を構成したことから来ている。

 「夕凪の街」では、ある登場人物が原爆の放射能によって被爆の10年後に命を失う。脚注のような「解説」で、こうのはそのことについて「原爆症は、被爆後数年経って発症する事が珍しくありません。(中略)説明不足でしたので補足させて頂きます」と書いている。
 単行本にこのような解説が載るということは、雑誌掲載後に、死因は何だったのか、という問い合わせでもあったのだろう。1964年生まれの私は、この作品を読んでそれが理解できない読者がいる、ということに驚きを覚える。私の年代では、それは常識のうちだったが(こうのにとってもたぶんそうだ)、今はそうではない世代がいるということだ。

 西牟田や下道も、ひょっとするとそれに近いレベルで、第二次大戦についての知識を欠いているのかも知れない。だが、その知識の欠落は、彼らの作品にとって決してマイナスになってはいない。むしろ、それが新しい価値を生み出しているように私には思える。

 実際に第二次大戦を経験した人々による手記や経験談、経験をもとにした議論は、すでに大量に存在する。私がこれまで接し、この戦争に関する知識や意見を形成するもとになったのは、そういう文献や資料、創作物(映画やテレビ番組、漫画を含む)だ。
 それらのほとんどすべては、強く強く何事かを「訴える」ものだった。この戦争を肯定する立場であれ、否定する立場であれ、書き手の情念やイデオロギーを「訴える」という面においては共通していた。極端に言えば、はじめに「訴え」があり、それを裏付ける形で事実がついてくる。そんな印象さえ受けることが多かった。とりわけ学校教育の場で戦争について教えられる場合には、あらかじめ定められた感想(「戦争はいけないことだとおもいます」「いのちは大切にしなければいけません」)に向かって誘導されることが常だった。

 それ自体が誤ったことだとは言わない。ただ、「訴える」ことを最優先にしていた人々にとって、共通経験であり自明の理であり説明するまでもなかった諸々の体験を、ある時期以降の日本人は共有していない。私の親は子供時代に起こった戦争を記憶しているけれど、西牟田や下道の両親は戦後に生まれたか、戦争をほとんど記憶していない可能性が高い。60年経てば、ほぼ2世代が入れ替わる。自分が戦争を体験していないだけでなく、「身近に戦争体験者がいたことがない」という世代が、すでに社会の一定部分を占め始めている(下のエントリーで書いた「『戦争を知らない子供たち』の子供たち」だ)。

 そういう人間に何かを伝えようとする時に、いきなり「訴える」ことは、必ずしも有効ではない。大切なのは、まず知らせることだ。知識の欠落は埋めることができる。むしろ、知らないがゆえに、彼らは戦後60年の間に支配的だったさまざまなイデオロギーの洗礼をも受けておらず、彼ら自身が調べた事実にニュートラルに向きあうことができたのではないだろうか(知識の欠落が、イデオロギーの洗礼に対して抵抗力を持たないという弱点になる可能性もあるかも知れないが、彼らにおいてはそうなってはいない)。
 読む人によっては、彼らの作品は問題意識を欠き、物足りないように見えるかも知れない。だが、西牟田や下道の作品には、「問題意識」が横溢した既存の文献にはない、2005年なりのリアリティがある。それは、同じように知識を持たない若い世代や未来の日本人たち、そして日本人以外の人たちに対しても力を持ちうる種類のリアリティであるように感じられる(みなもと太郎の推薦文も、そういうことを言っているのではないだろうか)。

 戦後60年という年月を経て、この国では、ようやくさまざまな呪縛を離れて、戦争について考え、語ることができる土壌が生まれてきたのかも知れない。
 30年というサイクルを2度も経験している小野田寛郎元少尉(敗戦後も29年間にわたって戦い続け、帰国後にブラジルに移住してから30年が経った)を取り上げたテレビ番組が相次いで制作されたのも、そのことと無縁ではないように思う。

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戦争を知らないアストロ超人たち。

 第二次大戦で戦死したメジャーリーガーは、エルマー・ギデオンとハリー・オニールという二人の無名選手だけだ、とサイモン・クーパーが書いている。
「野球選手が払った犠牲は、他のアメリカ人に比べればちっぽけなものだった。ヨーロッパのフットボール選手も同じだった。有名スポーツ選手は安全な場所にいて、人気の低いスポーツの選手がより大きな犠牲を払っていた」
「野球選手が戦死せずにすんだのは、たいていの場合、安全な任務を与えられていたからだ。
 野球が好きな士官は、スター選手を自分の部隊に引っ張った。シカゴ近郊の海軍訓練センターはメジャーのスターを多く受け入れたので、一時は世界最強の野球チームがあった」
 (「フットボール・オンライン」Sportiva 2005年9月号)

 同じ時期の日本の野球選手は、同じような優遇を受けていたとは言い難い。たまたま野球好きの上官に恵まれた場合には、多少は似たようなこともあっただろう。だが、景浦将、吉原正喜、中河美芳、西村幸生といった数多くのプロ野球草創期の名選手たちが最前線に送られ、戦場に消えていった。
(東京ドームシティの一角には、戦死したプロ野球選手69人の名を刻んだ「鎮魂の碑」が建てられている)

 その中でもっとも知られた人物といえば、沢村栄治ということになるだろうか。1934年の日米野球で全日本のエースとしてベーブ・ルースと対戦し、その全日本を母体に生まれた巨人軍のエースとなった人物だ。テレビ朝日で実写ドラマとして放映が始まる漫画『アストロ球団』も、戦場に散った沢村の無念が、没後10年目に9人の超人を生んだという設定がなされている。そして、フィリピンの戦地で沢村から野球を教わったシュウロ少年が、長じて大富豪となり、沢村の遺志を継いで、超人を集結させアストロ球団を結成するために日本を訪れる。
 アストロ球団に敵対するビクトリー球団には、特攻隊の生き残りという触れ込みの氏家という投手も登場する。氏家は自分の位牌をハチマキの下に巻いてマウンドに立ち、渾身の一球を投げて絶命すると瞬時に白髪の老人と化すという化け物じみた怪人物だ。

 少年ジャンプに『アストロ球団』が連載されていたのは1972年から76年にかけての約4年間だった。作画の中島徳博は1950年生まれ。日本の敗戦から5年経っている。原作者の遠崎史朗の年齢はよくわからないが、中島よりはかなり年上らしい。
 後にジャンプ編集長になった西村繁男によれば、『アストロ球団』の初期設定は遠崎が作ったが、連載が進むに連れて物語は漫画家と編集者の主導で作り出されるようになり、「ビクトリー球団あたりは漫画家の中島さんのオリジナルなんです」(西村『まんが編集術』)という。
 とすれば、沢村のエピソードのリアリティと、氏家の荒唐無稽さの差は、遠崎と中島の年齢差から来ているのかも知れない。
 『戦争を知らない子供たち』というフォークソングが発売されたのが1971年。第二次大戦に日本が敗れてから、26年後のことだ。中島は、まさにこの『子供たち』世代にあたる。
 戦争を知る親と、知らない子供。そんな断層がくっきりと世の中に存在していた。その断層はたぶん、若者たちを学生運動に駆り立てる原動力のひとつでもあったはずだ。

 アストロ超人たちは、1954年9月9日に生まれたと設定されている。なぜ沢村の死後すぐでなく10年の時を経ているのかといえば、単に連載開始時に10代の少年にしたかったという制作サイドの都合によるものだと思うが(笑)、結果として彼らは、本物の戦争だけでなく、『戦争を知らない子供たち』による学園紛争からも少し遅れて登場することになった。自身は戦争を知らないにもかかわらず、戦死者の呪縛に導かれ、それを運命として受け入れて野球に命を投げ出していく。その意味では、彼らは登場した瞬間から「時代遅れ」と呼ばれることを約束されていたキャラクターとも言える。

 当時、小学生として食い入るように毎週『アストロ球団』に読みふけっていた私は気づかなかったけれど、72年から76年という連載期間は、ちょうど高度成長の終焉と重なっている。オイルショックにより物価が高騰し、急速な工業化のツケとしての公害問題が表面化し、今太閤ともてはやされた田中角栄首相が犯罪者に成り下がり、学生運動もエネルギーを失った。
 日本の野球界の中でも、アストロ球団にとって打倒すべき目標であったはずのジャイアンツは、連覇に終止符を打ち、川上監督は退き、長嶋監督の下でこともあろうに最下位に転落してしまう。世界に革命を起こす、と華々しく登場したアストロ超人が、仲間の一人が率いるチームと血みどろの内ゲバを繰り広げているうちに、変えるべき世界の方がものすごいスピードで変わってしまい、彼らの振り上げた拳だけが取り残された。
 『アストロ球団』の熱血ぶりが、連載終了からまもなく嘲笑をもって語られるようになっていったのは、そんな時代の変化と無縁ではないだろう。20世紀の終り、アストロ超人は時代遅れのピエロでしかなかった。

 そんな彼らが、なぜ今になって復権してきたのか。
 アストロ超人を演じている若者たちは、世代としては「『戦争を知らない子供たち』の子供たち」だ。想定される視聴者も同じだろう。『アストロ球団』を「時代遅れ」と嘲笑した80年代そのものが、すでに遠い過去になっている。
 今の若者たちはたぶん、時代と切り離されたところで『アストロ球団』を純然たる作品として読み、作品に込められた凄まじい量の熱を素直に受け止めることができるのではないかと思う。30年の年月が、『アストロ球団』にしみついたさまざまな時代性を洗い流し、戦うことの魅力、物語ることの面白さ、作品の本質を浮き立たせた。
 戦争が終わってから『アストロ球団』が生まれるまでの年月と、ちょうど同じくらいの時間が経ってからテレビドラマ化が実現したのは、偶然ではない。世の中が物事を忘却するには、そのくらいの時間がかかる。

 スカパーでの『アストロ球団』第1回放映を見ても、昭和40年代後半という時代は、あまり意識され強調されているように見えない。製作サイドは、ただただ『アストロ球団』の作品世界を忠実に再現することに心を砕いているようだ(それが成功しているかどうかは、また別の話だが)。
 今のところ、超人役の若者たちはみな頼りない。現時点では、シュウロ役の千葉真一の圧倒的な存在感がドラマ全体を支え、牽引している。物語が進むにつれて若者たちが成長し、超人らしく見えるようになっていくのかどうかに、ドラマの成否がかかっている。
 特筆すべきは、挿入歌として流れる怒髪天の「アストロ球団応援歌」。もともと作品中に歌詞だけが記されていた歌だが、メロディも節回しも完璧に『アストロ球団』の世界を再現している。ぜひこの曲のイメージでドラマ全体も押していってほしい。


追記(2005.8.11)
竹熊健太郎氏の「たけくまメモ:【アストロ】これがジャコビニ流星打法だ!!!!」が第一回放送分の内容と雰囲気をよく伝えておられる。「これは誰がなんと言おうと千葉ちゃんのドラマなのです!」という見解にはまったく同感。

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