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戦争を知らない世代が語る戦争のリアリティ。

 知人に紹介されて、こうの史代『夕凪の街 桜の国』(双葉社)という漫画を読んだ。
 広島に落とされた原爆をテーマにした漫画だが、このテーマで誰もが頭に浮かべるであろう中沢啓治『はだしのゲン』とは、ずいぶんと肌合いが違う。

 100ページあまりの薄い単行本は、3つの短編で構成されている。
 「夕凪の街」は、昭和30年の広島が舞台だ。主人公のOL皆実は、原爆で父と姉と妹を失い、家も失って、老いた母と2人、「原爆スラム」と呼ばれるバラック街で暮らしている。一家には幼い弟もいるが、水戸の伯父夫婦に預けられて暮らすうちに、本人と伯父夫婦の希望により養子になった。
 皆実は、靴をすり減らさないために会社の行き帰りを途中まで裸足で歩くほどの貧乏ではあるが、それなりに穏やかな日常を過ごしている。しかし、それは表面上のことに過ぎない。ささやかな幸福に恵まれそうになると、心の奥にしまい込んでいた感情が噴き出してくる。大勢の人を見殺しにし、遺体をまたぎ、時には遺品を盗んで生き延びてきたという罪悪感。みんな死んでしまったのに自分だけが生き残ったという不条理。

 “しあわせだと思うたび 美しいと思うたび
  愛しかった都市のすべてを 人のすべてを思いだし
  すべて失った日に引きずり戻される
  おまえの住む世界はここではないと 誰かの声がする”

 そんなトラウマを乗り越え、ようやく幸福をつかもうとした皆実を、しかし、“誰か”は見逃してはくれなかった…。

 「桜の国」(一)(二)は、そこから数十年を経た次の世代、皆実の弟の子供たちの物語だ。(一)は1987年、(二)は2004年という「現代」に生きる子供や若者たちの何気ない日常の奥底に、今も原爆という古傷は刻みつけられたままであり、ちょっとしたきっかけで鮮血を滲ませるのだ、ということを思い知らされる。60年の時を経ても、原爆はいまだに一家につきまとうことをやめてはくれない。

 作品の中には、静かな時間が流れている。登場人物たちは、声高に叫んだり、訴えたりはしない。それぞれが、背負わされてしまった過酷な運命にかろうじて折り合いをつけながら生き続けている。彼らは誰も責めはしないけれども、そのやりきれない哀しみは、どんな大きな叫びよりも、読む者の心に沁み通ってくる。

 こうの史代は1968年生まれ。広島市出身ではあるが、肉親に被爆者がいるわけではない。あとがきには、「原爆はわたしにとって、遠い過去の悲劇で、同時に『よその家の事情』でもありました」とある。それでも、広島で生まれ育った以上、さまざまな形で原爆について知らされながら育ってきたにも違いない。

 腰巻きに記された、みなもと太郎の推薦文に、こんな一節がある。
「これまで読んだ多くの戦争体験(マンガに限らず)で、どうしても掴めず悩んでいたものが、ようやく解きほぐせてきた思いです。」
 それがこうのの力量によることはもちろんだが、同時に、1968年生まれの漫画家が21世紀に描いた、という時代背景に与るところも大きいのではないかと思う。


 今年に入ってから、若い世代の手による戦争ルポをいくつか目にした。
 西牟田靖『僕の見た「大日本帝国」』(情報センター出版局)は、70年生まれの著者が、サハリン、台湾、韓国、北朝鮮、旧満州、ミクロネシアなど、かつて日本の統治下にあった土地に残る「大日本帝国」の痕跡である建造物を訪ね歩くノンフィクション。
 下道基行『戦争のかたち』(リトルモア)は、78年生まれの著者が、トーチカ、掩体壕、砲台など日本国内に作られた軍事施設の跡を訪ねて撮影した写真集だ。
 それぞれに新鮮な印象を受けた。それはおそらく、著者たちがこの戦争についてあまり多くを知らず、自分の目に映ったもの、自分が人々から聞いたことだけを積み上げて作品を構成したことから来ている。

 「夕凪の街」では、ある登場人物が原爆の放射能によって被爆の10年後に命を失う。脚注のような「解説」で、こうのはそのことについて「原爆症は、被爆後数年経って発症する事が珍しくありません。(中略)説明不足でしたので補足させて頂きます」と書いている。
 単行本にこのような解説が載るということは、雑誌掲載後に、死因は何だったのか、という問い合わせでもあったのだろう。1964年生まれの私は、この作品を読んでそれが理解できない読者がいる、ということに驚きを覚える。私の年代では、それは常識のうちだったが(こうのにとってもたぶんそうだ)、今はそうではない世代がいるということだ。

 西牟田や下道も、ひょっとするとそれに近いレベルで、第二次大戦についての知識を欠いているのかも知れない。だが、その知識の欠落は、彼らの作品にとって決してマイナスになってはいない。むしろ、それが新しい価値を生み出しているように私には思える。

 実際に第二次大戦を経験した人々による手記や経験談、経験をもとにした議論は、すでに大量に存在する。私がこれまで接し、この戦争に関する知識や意見を形成するもとになったのは、そういう文献や資料、創作物(映画やテレビ番組、漫画を含む)だ。
 それらのほとんどすべては、強く強く何事かを「訴える」ものだった。この戦争を肯定する立場であれ、否定する立場であれ、書き手の情念やイデオロギーを「訴える」という面においては共通していた。極端に言えば、はじめに「訴え」があり、それを裏付ける形で事実がついてくる。そんな印象さえ受けることが多かった。とりわけ学校教育の場で戦争について教えられる場合には、あらかじめ定められた感想(「戦争はいけないことだとおもいます」「いのちは大切にしなければいけません」)に向かって誘導されることが常だった。

 それ自体が誤ったことだとは言わない。ただ、「訴える」ことを最優先にしていた人々にとって、共通経験であり自明の理であり説明するまでもなかった諸々の体験を、ある時期以降の日本人は共有していない。私の親は子供時代に起こった戦争を記憶しているけれど、西牟田や下道の両親は戦後に生まれたか、戦争をほとんど記憶していない可能性が高い。60年経てば、ほぼ2世代が入れ替わる。自分が戦争を体験していないだけでなく、「身近に戦争体験者がいたことがない」という世代が、すでに社会の一定部分を占め始めている(下のエントリーで書いた「『戦争を知らない子供たち』の子供たち」だ)。

 そういう人間に何かを伝えようとする時に、いきなり「訴える」ことは、必ずしも有効ではない。大切なのは、まず知らせることだ。知識の欠落は埋めることができる。むしろ、知らないがゆえに、彼らは戦後60年の間に支配的だったさまざまなイデオロギーの洗礼をも受けておらず、彼ら自身が調べた事実にニュートラルに向きあうことができたのではないだろうか(知識の欠落が、イデオロギーの洗礼に対して抵抗力を持たないという弱点になる可能性もあるかも知れないが、彼らにおいてはそうなってはいない)。
 読む人によっては、彼らの作品は問題意識を欠き、物足りないように見えるかも知れない。だが、西牟田や下道の作品には、「問題意識」が横溢した既存の文献にはない、2005年なりのリアリティがある。それは、同じように知識を持たない若い世代や未来の日本人たち、そして日本人以外の人たちに対しても力を持ちうる種類のリアリティであるように感じられる(みなもと太郎の推薦文も、そういうことを言っているのではないだろうか)。

 戦後60年という年月を経て、この国では、ようやくさまざまな呪縛を離れて、戦争について考え、語ることができる土壌が生まれてきたのかも知れない。
 30年というサイクルを2度も経験している小野田寛郎元少尉(敗戦後も29年間にわたって戦い続け、帰国後にブラジルに移住してから30年が経った)を取り上げたテレビ番組が相次いで制作されたのも、そのことと無縁ではないように思う。

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コメント

はじめてblogというものにコメントします。
コメントするのを渋っていましたが、この鉄さんの求心力のある文章には、降参しました。
運転技術の巧みなドライバーの車に同乗したような、不思議な気分になりました。これは最初読んだときに味わえる質のもので、再読すると、かなり薄れます。それは自分の肉体にとりこんでしまったからではないかと想像します。

当然の帰結として『夕凪の街 桜の国』を読みたくなり、注文しました。
20代のころ、わたしは1度だけ原爆資料館に行ったことがあります。得体のしれない気もちの悪さと頭痛に襲われながら、資料館から脱出しました。

以前に観たTV番組で、大江健三郎が原爆資料館の展示品をみるのを拒絶する光さんに対し、「みるんだ!」と自分より大きな肉体をもつ光さんに迫る場面がありました(大江氏のことですから、もちろんNHK教育TVですよ)。

わたしはその映像をみながら、なぜか大江健三郎の新潮文庫版『ピンチランナー調書』の表紙の抽象画(相似形にみえる大小のふたり組)が脳裡に浮かび、現実世界で父と子の立場が逆転したような錯覚をおぼえました。
つまり光さんのほうが正常で、じつは大江氏を補完する存在なのではあるまいかと。

《西牟田や下道の作品には、「問題意識」が横溢した既存の文献にはない、2005年なりのリアリティがある。それは、同じように知識を持たない若い世代や未来の日本人たち、そして日本人以外の人たちに対しても力を持ちうる種類のリアリティであるように感じられる》

この鉄さんの視点が新鮮でした。
同じように戦争を体験していない世代の新たな視点で、梯(かけはし)久美子が『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社)を書いているようです。
あの丸山健二が「四十年待った甲斐があった」と激賞していますから、梯氏はただものではないですね。

上記2冊を読了後、また感想など書かせていただきます。

(蛇足ながら、はじめたばかりのblogのアドレスを変えました)

投稿: 影絵 | 2005/08/18 20:10

>影絵さん

ご来訪ありがとうございます。

例えば「新しい歴史教科書を作る会」の中心になっている人々や、自衛隊を海外に送ることに熱心な政治家たちの大半は、戦争は経験したが戦場には出ていないか、戦争の記憶自体を持たない年代であろうと思います。彼らにおいては、戦場の実態を知らない分、問題意識だけが純粋培養されているような印象を受けます(戦場に出た経験を持つ人に話を聞いたことが何度かありますが、彼らはもう少し醒めた何かを心の裡に抱えている気がします)。
そう考えると、ニュートラルなところに立つには自分自身が「戦争を知らない」だけではダメで、たぶん世代が二回りする時間が必要なのでしょう。

>20代のころ、わたしは1度だけ原爆資料館に行ったことがあります。得体のしれない気もちの悪さと頭痛に襲われながら、資料館から脱出しました。

こうの史代にも同様の経験があると、あとがきに書いてありました。そういう感覚の人が原爆を描くとこうなる、という作品です。

『散るぞ悲しき』は読んでみたいと思います。ただ、「波」所収の丸山健二の書評にみる文学者の階級意識には、いささか鼻白みますが(笑)。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/08/19 09:01

念仏の鉄さま

>ただ、「波」所収の丸山健二の書評にみる文学者の階級意識には、いささか鼻白みますが(笑)。

じつは丸山健二の書評については、絶賛しているわりには感動しませんでした(笑)。わたしが読みたいと思ったのは、2005/8/17付朝日新聞で由里幸子編集委員(彼女の文芸面の署名記事は、感心する場合が多い)が『散るぞ悲しき……』について、著者の梯氏に取材した記事を読んだからです。最初はこれについて書いていたのですが、コメントが長くなりすぎるので、削除したのです。ほんとですよ!
[「美学」と現実 言葉に酔った時代 抗した司令官に光]という見出しが光っています。
(瑣末なことですが、朝日新聞では本書のタイトルの一部が「総司令官」となっていますが、正しくは「総指揮官」です)

余談ですが、広島の想い出は、原爆資料館と地酒「酔心」です。「酔心」という名の店があり、流川支店がとてもいい感じで(本店はよくなかった)、そこで酢ガキを食したとき、カキというものに対する概念が根底から崩れました。数年まえ、広島から送られてきたカキは、それに比したら死んでいました。

投稿: 影絵 | 2005/08/19 14:09

>影絵さん

>わたしが読みたいと思ったのは、2005/8/17付朝日新聞で由里幸子編集委員(彼女の文芸面の署名記事は、感心する場合が多い)が『散るぞ悲しき……』について、著者の梯氏に取材した記事を読んだからです。

それも後で探してみます。朝日新聞、最近読んでないなあ(笑)。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/08/20 10:15

 ごぶさたしてます。

 内容と直接関係なくてすいません。

 世の中(少なくともメディアは)、小泉総理が衆院を解散したり、地震が相次いだりで、戦後60年の節目を静かに考えるような雰囲気は、消し飛んでしまいましたね。。。

 それでも私の住む街では、米軍内の検討段階で、原爆の投下候補地に選ばれたこともあった、と戦後にわかって以来、割と原爆への関心は高い土地柄のようです。

 そのせいか、今年を節目に、自治体として非核平和都市宣言、を改めてやろう、という機運がもりあがっています。

 議論を聞いていると、「もはや戦後60年ではない、戦前だ」とか、「悲惨さだけ強調しても、いまの若い人には伝わらない。戦争もやむなし、と考えているる若者が増えている。ここらで本記で平和教育に取り組まないと、本当に歴史は繰り返すことになる」などなど、危機感だけは高まっています。

 実際に、個別の市民団体レベルでは、地道に、ロシアの子どもたちと一週間合宿する、とかの取り組みはあるようです。

 そうしたイベントのひとつで、私も、被爆者の生の話を聞きました。リアルな語りに、思わず引き込まれました。こういう語り部は必然的に減るのだから、日本人の原爆への考え方が変質せざるを得ないのでしょうね。

 ただ、中国では若者ほど、日本の「侵略」に対して先鋭的です。あれは明らかに教育(洗脳)の成果。そう考えると、原爆の悲惨さ、苦しみを語り伝えていくことは、ある程度可能だという気もしてきます。
 とにかく、8月6日が何の日かわからない、という若者がかなり増えているそうですね。
 私は(も)68年生まれですが、私ら、「体験を中継する世代」も、責任重大なんだろうと思います。

 しかし、実際、どうすれば次の世代に語り継げるかなんて、、、。
 普段の生活のなかでそういう機会がないわけですから、困ってしまいますね。まずは家庭で話し合う、とかでしょうかね。

 何とも月並みなアイデアしか浮かびません。
 職場で話し合う?
 ふつう、それはあり得ないでしょう。
 日本経団連か連合を通して、各社の幹部に指導してもらうしかないですかね?
 なんとも、そのへんの「チカラ」が、うすっぺらな、日本の社会なのでした。


 話はかわって、今回の小泉解散。
 この熱狂ぶりと議会機能の低下は、ローマ時代に似ている気がします。

 ローマ元老院が、次第に腐敗で機能しなくなって、執政官や独裁官に、期限限定で権限をゆだねた結果、次第に帝政に移行していった歴史を思い出します。

 戦後の日本は、議院内閣制なので、政府の権力は弱くて国会の力が強い、というイメージをみんな何となくもっていたと思います。

 それが、小泉総理のやり方をみていると、統治システムのなかで、行政の長、総理って、意外に強権だったんですよね。参院での一法案の否決を根拠に衆院を解散することができちゃうなんて。

 それに気づいて、いまみんなあわてふためいている。

 逆に言えば、自民党という長期政権のなかに、派閥があったからこそ、派閥間の調整の上に送り出されていた首相は、下手に勝手なことができなかった。派閥の抑制が効いていた。
 
 自分党をぶっ壊す、派閥をなくすってことは、こういうことだったんですね。一見、執行部一元化ですっきりして見えるが、独走も生みやすいという。
 
 このままブレーキが効かなければ、何をやらかすかわからない。微調整が効きにくいシステムがあらわになった。だから不安が高まって、いろんな反動的な動き(新党とか)が出ているわけですね。

 個人的には、刺客といわれる人たちは、いわゆる小泉改革による、「勝ち組」の人たち。IT社長、証券会社エコノミスト、カリスマ主婦、財務官僚、、、。
 こんな人たちで、果たして、地方の弱者の声も聞くような、かつての古き良き自民党の代弁者になれるんだろうか。

 戦後60年の夏に突如起きた、今回の小泉解散。
 偶然のようで、どこかでつながっている問題、のような気がしませんか?


 あと、蛇足ながら。
 小泉首相の解散は、7条解散といって天皇の国事行為として行われましたよね?

 その解散権行使に無理があっても、「天皇の」というベールをまとって、あっとう間(午後の数時間で)強行突破してしまった観がある。

 首相の解散権は「伝家の宝刀」とか言って、おかすべからざる権利のようにイメージしていますが、これは、本来の三権分立の考えから言って、おかしなことではないでしょうか?

 本来ならば、首相が衆院を解散すると宣言したら、それは、司法(最高裁)のチェックを受けるべきではないでしょうか。
 いまの日本の統治システムのなかには、首相の解散が違憲かどうか、判断する手続きが欠けていると思います。
 三権が相互に監視・チェックし合ってこそ、権力の暴走を止められるのでは?
 
 だれか、今回の解散は違憲だとして、解散差し止め訴訟を起こしてくれませんかねえ?

 暴論でしょうか。 

投稿: penguin | 2005/08/21 18:17

念仏の鉄さま

恥じつつ訂正します。
18日のコメントで「原爆資料館」と書きましたが、正しくは「広島平和記念資料館」でした。長崎のほうは「長崎原爆資料館」です。
TBSテレビの特番「ヒロシマ」を録画したのを昨夜観ていて、そうと気づきました。

以前になにかで読んだのですが、被爆者のなかには、年に1度メディアが騒がしくなるこの時期、病状が悪化するひとがいるらしい。
自分にとって盲点だったので、原爆に限らず、そういう視点を忘れないようにしたいと思っています。

わたしの友人が朴壽南氏と親交があり、彼女にすすめられて、青山の富士フィルム試写室で、朴氏が関係している(監督?)朝鮮人被爆者の映画を観たことがあります。
受付のところに立っていた朴氏にその旨伝えると抱きつかれたのですが(日本人にはない文化です)、朴氏と友人の顔が似ているのにわたしは驚きました。
彼女もわたしも日本人なのですが、ただただ気が重いです。
さきほど検索しましたら、

NPO法人 長崎平和記念資料館
http://www.d3.dion.ne.jp/~okakinen/index.htm

というサイトがあり、朝鮮人被爆者に光を当てています。

※朴壽南氏と小松川事件の李珍宇(獄中)の往復書簡や、事件についての詳細は『李珍宇全書簡集』(新人物往来社・昭和54年)に収められています。

気が重いつながりとして、もうひとつ。
同上の友人が南京大虐殺とかかわっていた時期、家族全員が日本兵に殺され、自分だけ瀕死の重傷を負いながらも一命をとりとめた、中国人女性の証言のテープ起こしを依頼されたことがあります。
通訳が入っているのですが、わたしが身の毛もよだつ想いをしたのは、「日本兵が死体を強姦していた」という証言。
虐殺の人数に中国側と日本側に差はあっても、あったという事実を否定することはできません。
戦場で、ひとは狂気を帯びますね。
しかし兵隊よりもひどい狂気は、為政者のほうにあります。

わたしは政治に疎いほうですので、えらそうなことはいえませんが、小泉劇場にホリエモンが登場し、そちらにひとびとの視線が集中している隙に、この国はとんでもない方向に動いていることだけはたしかです。
最近妙に頬のこけてきた小泉サンの顔が「死に神」(首相着任当時は「ねずみ男」だった!)にみえてきてなりません。(笑えないけど、笑)

長いコメントにさらに追記することになり、たいへん失礼しますが、以前に乗ったタクシーの運転手が広島での被爆者でした。なぜか彼は見ず知らずのわたしにそのことを告白し、運転しながら備えつけのボックスから被爆者手帳をとりだし、後部座席のわたしに手渡しました。
そのときの被爆者手帳の重さは、歳月を経ても記憶として残っています。
しかもわたしがしたり顔に、
「原爆の場合は、何年もたってから症状がでてくるのが怖いですね」
といったのに対し、彼は拍子ぬけするほど明るい声でいいました。
「そうなんです、ぼくもときどきノドの調子がおかしくなるんです」

わたしは基本的にはタクシーの運転手には声をかけないのですが、声をかけられたら、素直に応じます。密室なうえにいのちを預けていますので、気まずくなりたくないという防衛本能が働くみたいです。無意識下においてね。


投稿: 影絵 | 2005/08/21 18:21

またもやケアレスミスを。
NPO法人のほうは、「長崎平和資料館」でした。

投稿: 影絵 | 2005/08/21 18:41

>penguinさん

しばらくでした。お忙しい夏になっているのでしょうね。

>ただ、中国では若者ほど、日本の「侵略」に対して先鋭的です。あれは明らかに教育(洗脳)の成果。そう考えると、原爆の悲惨さ、苦しみを語り伝えていくことは、ある程度可能だという気もしてきます。

中国や韓国の反日運動を見ていると、体験していないが故に先鋭化する、という場合もあるのだろうと思います。「恨み」や「訴え」と結びついた方が、歴史はより強い訴求力を持ちうるけれど、そうではない形で伝えていくことが難しい。

> 話はかわって、今回の小泉解散。
> この熱狂ぶりと議会機能の低下は、ローマ時代に似ている気がします。
> ローマ元老院が、次第に腐敗で機能しなくなって、執政官や独裁官に、期限限定で権限をゆだねた結果、次第に帝政に移行していった歴史を思い出します。

イヤな空気ですよね。
小泉純一郎は、とにかく世間の潮を見て勝機をつかむ能力においては天才だと思います。

>個人的には、刺客といわれる人たちは、いわゆる小泉改革による、「勝ち組」の人たち。IT社長、証券会社エコノミスト、カリスマ主婦、財務官僚、、、。
>こんな人たちで、果たして、地方の弱者の声も聞くような、かつての古き良き自民党の代弁者になれるんだろうか。

同感です。こういう人たちが勝って小泉政権が続くとしたら、弱肉強食政策に拍車がかかることでしょう。
ただ、かつてはともかく、今の自民党が声を聞いているのは「地方の強者」だけなのでは?

>本来ならば、首相が衆院を解散すると宣言したら、それは、司法(最高裁)のチェックを受けるべきではないでしょうか。

うーん、これはどうでしょう。司法がチェックするためには法的根拠が必要ですが、それに該当しそうな法は何もないですよね。
郵政民営化は、是非は別として小泉政権の旗印だったわけですから、それが否決されたことで解散総選挙に訴えることが不当とまでは言い切れないのでは。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/08/22 09:14

>影絵さん

>以前になにかで読んだのですが、被爆者のなかには、年に1度メディアが騒がしくなるこの時期、病状が悪化するひとがいるらしい。

記念日報道というのは戦争に限らず、メディアの常套的な手法ですね。この夏は日航機墜落20周年でもありました。大切なことについて忘れずに考えるためには「記念日」という手段はそれなりに有効だとは思うし、難しいところです。

>NPO法人 長崎平和記念資料館
http://www.d3.dion.ne.jp/~okakinen/index.htm
>というサイトがあり、朝鮮人被爆者に光を当てています。

ここのblogに日韓中共同編集の歴史教科書というものが紹介されていますね。入手してみようかと思います。

>彼は拍子ぬけするほど明るい声でいいました。
>「そうなんです、ぼくもときどきノドの調子がおかしくなるんです」

このへんの重みの加減(変な表現ですが)が、非当事者には決してわからないところであり、それゆえに謙虚でなければならないところだと思います。もちろん当事者でも個々の人によって受け止め方や対処の仕方は異なるのでしょうし。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/08/22 09:41

 感想です。
 南京で日本兵が死者をレイプしていた、、、。本当だとしたらすごい話ですね。
 「メディアに出せない、出ないホントの話」ということなら、私が最近聞いて衝撃を受けた、シベリア抑留者の体験談を思い出しました。

 ソ連では当時男女平等が浸透して、ラーゲリの看守には女性が多かったそうです。

 夜な夜な、「衛生上の理由」ということで、個別に呼び出され、頭からわきのした、すね毛から陰毛まで、ぜんぶ女性看守がそり上げられてしまうそうです。

 それだけですでにかなりの人権侵害ですが、それにかこつけて、「夜のお相手」を強制された、そうです。
 若い日本兵ばかり、いつも指名されたとか。
昼間は肉体労働でへとへと。そのうえで、です。そして、ロシア女性といってもシャラポワみたいな若い人ではありません。まるまる太った丸太のような、です。これもレイプでしょう。
 日本兵も虐待したかもしれませんが、ソ連兵もそれも性差を超えて、虐待した。

 この話が本当だとしたら。
 人間て、権力を握ると何をしでかすかわからない、ということでしょうか

投稿: penguin | 2005/08/23 01:56

『夕凪の街 桜の国』を拝読しました。
読みながら、同時に鉄さんの文章がナレーションのように聴こえてくるという奇妙な体験をしました(笑)。
読んでみて感じたのは、こうの史代はシャーマンのような感覚でこの作品を描いたのではないかということ。
創られた映像作品と現実世界の映像を比較できる場合に感じる、現実世界のそっけないくらいのさりげなさが、本作品には感じられました。

本エントリーのなかで最もインパクトがあったのは、

《そんなトラウマを乗り越え、ようやく幸福をつかもうとした皆実を、しかし、“誰か”は見逃してはくれなかった…》

というフレーズでした。
われわれが共有できるとしたら、この“誰か”の領域なのではないのか?

本の帯に「朝日新聞紙上で絶賛」とあるので、ネットで読んでみましたし、幾つかのブログの書評も読みました。が、鉄さんのは秀逸です。
ほかの書評だと、わたしが本書を手にするには至らなかったと思います。マンガに疎い人間ですから。
鉄さんのこの書評は、朝日新聞(日曜版)の書評欄に掲載されても遜色ないと、わたしは思います。(鉄さんは歓迎されないかもしれませんが)

(なんか褒めてばかりで嫌味かしら? 先日、ざっとですが、未読だったエントリーに眼を通しました。本エントリーが、わたしは最も気に入りました。斬れ味のよい、好きな文章です。
鉄さんの文章は、どこかで読んだような安定感をともないながら、その実、鉄さん特有の視点と語感があります)

>日韓中共同編集の歴史教科書

版元の高文研は、教育面に力を入れていますね。水谷修という類い稀な人物の本を出版し、また彼のサイトを管理している出版社として知っていました。

さきのコメントで追記した被爆者の彼については、さしだされた被爆者手帳を受けとるのを、一瞬、躊躇しました。通りすがりのわたしが、そのようなものに触れてよいものかと。しかし受けとらないと失礼だという感じが、彼の背中から有無をいわせぬ力で伝わってきたのです。
10分足らずの乗車だったのですが、彼は学徒動員で広島に行き、被爆したといいました。その発言のとき、彼のからだから諦念があふれたのを記憶しています。

※知人が自衛隊違憲訴訟を起こしました。政府を相手に(被告にして)本人訴訟。たいへんな労力を要するみたいです。

   *

penguin さま

はじめまして。

>南京で日本兵が死者をレイプしていた、、、。本当だとしたらすごい話ですね。

コメントにも書きましたが、中国人(青年)の通訳が入っていますので、証言者の発言につづいて通訳される日本語をわたしは起こしたわけです。
この証言がウソだとしたら、彼女の証言自体の信憑性を疑わざるをえません。人間の記憶は意外と頼りないものですが、この証言をわたしは疑うことができませんでした。

>人間て、権力を握ると何をしでかすかわからない、ということでしょうか

戦場に限らずそうですね。
権力を握るまで、その人間の真実はわからないと思っています。
現実に変貌した人間をみたものですから、このテーマについてはかなり考察しました。

penguin さんのコメントは衝撃的ですね。性差を超えているというところが。

>ロシア女性といってもシャラポワみたいな若い人ではありません。まるまる太った丸太のような、です。これもレイプでしょう。

「シャラポワみたいな」若い女性だったら食指が動くので、レイプにはならないということですか? あえて書かせていただきます。

知人がある日、感慨深げにいいました。
「情報というのは、『情に報いる』と書くんですね」
ネットを検索して得られる「情報」は、上記の意味での「情報」とは異質ですから。
そう考えると、取材というのは生やさしいことではないですね。

投稿: 影絵 | 2005/08/23 07:14

>penguinさん

>日本兵も虐待したかもしれませんが、ソ連兵もそれも性差を超えて、虐待した。
> この話が本当だとしたら。
> 人間て、権力を握ると何をしでかすかわからない、ということでしょうか

イラク戦争の際、イラク軍の捕虜を裸にして性的虐待を行なったアメリカ軍兵士の中には女性も加わっていましたね。女性が男性をレイプするのも、ありうることだと思います。
私は幸か不幸か権力らしい権力を握ったことがありませんが、些細な権力を振り回す人、それを手に入れた途端に変貌する人は身近に見てきました。自分が例外であるかどうかは、なってみなければわかりません(もちろん、例外でありたいとは思いますが)。


>影絵さん

>『夕凪の街 桜の国』を拝読しました。
>読みながら、同時に鉄さんの文章がナレーションのように聴こえてくるという奇妙な体験をしました(笑)。

せっかくの作品を邪魔してしまったような気が(笑)。しかし、お気に召したようでよかったです。


>鉄さんの文章は、どこかで読んだような安定感をともないながら、その実、鉄さん特有の視点と語感があります)

ありがとうございます。「どこかで読んだような安定感」というのは嬉しい形容です。


>彼は学徒動員で広島に行き、被爆したといいました。その発言のとき、彼のからだから諦念があふれたのを記憶しています。

そういうケースもあるんですね。その後、広島を離れて暮らして来られたのであれば、おそらくは特別な孤独感の中を過ごして来られたのでしょうね。


>「シャラポワみたいな」若い女性だったら食指が動くので、レイプにはならないということですか? あえて書かせていただきます。


これを読んで思うところがあったので横レスを。
以前、酒の席で、年配の男性から、
「幼少時に年上の女性に強要されるようにして性交渉を繰り返した経験があり、
そのため大人になってからも長い間、女性に近づく気になれなかった」
という告白を聞いたことがありますが、
周囲の反応は「羨ましいですねえ」という程度のものでした。
(ご本人はその後、結婚もされており、とぼけた語り口の昔話として話されたわけですが)

penguin君が書いたような考え方は、おそらく男性一般にとって支配的なので、
(それは本心というよりも、ある種の文化的コードに近いものかも知れません)
「女性にレイプされた男性」は、レイプそのものに加えて、
周囲の無理解にも苦しむことになるのだろうと思います。


シベリアの話で思い出したので、追記しておきます。
このエントリーと、ひとつ前のアストロ球団の話で、私は「30年というサイクル」に妙にこだわっています。その理由のひとつは小野田さんであり、もうひとつは、シベリアに抑留された経験を持つ方2名に話を聞いた経験によります。2人とも、ある呪縛から解放されたのが、ちょうど30年後だった、という符合がありました。人が本当に何かから解放されるには、そのくらいの時間がかかるのかも知れません。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/08/23 11:32

影絵さま

「シャラポワ」、の一節、ご指摘の通りで反省してます。というか、自分でも、これは問題ある表現だなあ、と思いつつ、かといってほかの言いまわしが思い浮かばず、そのまま書きました。

 その元兵士との別のやりとりのなかで「そういえば衰弱して病院に入院した時にはシャラポワみたいな若くてきれいな看護婦もいた」との話を聞きました。
 その連想が残っていて、書き込んだまでです。
 その方が、こんな表現をしたわけではなく、あくまで私の比喩でした。

 不快な書き込みとなってしまい、どうも申し訳ありませんでした。
(鉄さんの「横レス」が、私の言いたかったことをほぼの言い当てて下さっていたので、あえて書き込む必要もないとも思ったのですが、だんまりを決め込むのもなんだかひきょうな気がして、一応書き込んだ次第です)


 イラク戦のアブグレイブ収容所の一件からの余談ですが、
 戦争と暴力、、、。戦争は外交の延長で、指揮命令系統に従った、武器使用は許される。しかし個人的な虐待は、戦争中といえども人道の罪の対象となる、ということでしょうか。

 しかし多くの場合、戦勝国の非道は、見逃がされてしまうってことでしょうね。イラクにおける米軍のケースは、そういう意味でも価値あるスクープなんでしょうね。

 話は昔に戻って、極東軍事裁判。ここでは、日本軍の極悪行為は裁かれた。でも、同じ戦争中に米軍が行った都市住民への無差別爆撃や原爆投下は、罪に問われませんでした。

 あれは納得できない裁判でした。が、戦争に勝った側が好き勝手やるのは太古の昔からずっと一緒。
 むしろ、近代になって戦争裁判という一応の理性装置が整ったおかげで、負けた国民が必要以上に搾取され続けるような事態は避けられることになった、とありがたがるべきか。

 ならば、やっぱ、あの戦争裁判の結果は、受け入れなくちゃならないのかな。

 裁判結果の受け入れをひきかえに講和条約が結ばれ、多額の賠償金の放棄も勝ち得て、戦後平和の基礎が築かれた。
 その意味ではA級戦犯も、等しく戦争の犠牲、戦後日本の礎、、、。小泉首相の靖国参拝は、一応、彼なりに、理にかなってるのかな。

 アジア外交上は、すごいマイナスなのはわかりきっているんですが。

 さらに別の視点からいえば、A級戦犯たちは、天皇の戦争責任を問わなかったことから、その責も、一身に背負った存在。
 中国から見ればそうも言えるのでしょうね。

投稿: penguin | 2005/08/24 05:31

penguin さま

>「シャラポワ」、の一節、ご指摘の通りで反省してます。というか、自分でも、これは問題ある表現だなあ、と思いつつ、かといってほかの言いまわしが思い浮かばず、そのまま書きました。

いえ、わたしはなにも指摘していませんよ。お訊ねしただけです。
あれを書きながら、penguin さんに誤解されるだろうなと思いました。じつはコワーイ顔でそう書いたのではなく、ほほえみながら書きました。なぜなら、わたしはpenguin さんの隠れファンだから。(あ、告白しちゃいました)
その根拠は、エントリー【「非当事者」であるということ。】のpenguin さんのつぎのコメント。

《あれ?しらふでもあんまり文章の質はかわりませんでした。恥ずかしい。
(今後も鉄さんの透徹された「通奏低音」を乱さない程度に、合いの手を入れさせていただきます)》

こういうコメントの書ける人間を、わたしは盲目的に(?)肯定してしまうのですね。
当blogにおけるコメントから浮上するpenguin 像から類推すると、いまモンダイになっている文章表現は「勇気」があるなあ、と思ったのです。誤解を招きますからね。
一方、わたしが考えたのは、たとえ相手が若くて魅力的な女性であり、男性のほうに合意があるケースにおいて、その女性が権力者(=生殺与奪の権をもつ存在)の場合は、「レイプ」の範疇に入らないのかということ。

ついでながら、例の中国人女性の証言からのイメージは、「レイプ」ではなく、「強姦」でした。民家に乱入し、猛り狂った日本兵が日本刀を振り回して、惨殺するさまを克明に証言したのですが、根底にあるのは日本人の中国人に対する蔑視ですね。
731部隊が主に中国人を生体実験に使ったのも、同じ発想では?
また関東軍731部隊の最終的な命令・決断は東京の参謀本部が行っていて、日本医学会のための人体実験場であったというのには、驚きます。
しかも731部隊の幹部・隊員はアメリカによって、731部隊の研究成果と引き換えに戦犯を免責されたのですから。
(自分のblogで731部隊について書くつもりでいるのですが、ここのところ当blogにかかわっているため、時間がとれません。コメントしている文章量はたいしたことないのですが、ついいろいろなことを考えてしまうものですから。といっても、わたしが731部隊について詳しいのではなく、ちょっとした体験です)

余談ですが、ミドリ十字の母胎は731部隊ですね。
土壌の腐ったところには、あだ花しか咲かないということでしょうか。
ミドリ十字の前身「株式会社日本ブラッドバンク」創立の中心である内藤良一(のちにミドリ十字会長)は、731部隊の中枢であった陸軍防疫研究所の実力者で、部隊長石井の右腕といわれた軍医。たまたま知人がミドリ十字で働いていて、その話によると、内藤の最期は淀川キリスト教病院(大阪)に入院し、薬・点滴を拒否しながら死んでいったという。薬の内実を熟知していたからでしょうかねぇ。

> その元兵士との別のやりとりのなかで「そういえば衰弱して病院に入院した時にはシャラポワみたいな若くてきれいな看護婦もいた」との話を聞きました。
 その連想が残っていて、書き込んだまでです。
 その方が、こんな表現をしたわけではなく、あくまで私の比喩でした。

コメントを読んだ時点で、あれが元兵士の発言ではなく、penguin さんの表現だということはわかりました。だからこそ、お訊ねしたのです。

> 不快な書き込みとなってしまい、どうも申し訳ありませんでした。
(鉄さんの「横レス」が、私の言いたかったことをほぼの言い当てて下さっていたので、あえて書き込む必要もないとも思ったのですが、だんまりを決め込むのもなんだかひきょうな気がして、一応書き込んだ次第です)

ぜんぜん不快な想いはありませんでした。鉄さんの横レスを読んだとき、絶妙な連携プレーを感じたのはたしかですが(笑)。

女性が権力をもったら男性と同じ行動様式をとるのではないかという考えは、以前からありました。同性として女性たちをみていて。
話が飛躍します。
ヨン様には魅力を感じないし、「冬ソナ」も退屈で観ていられないのですが、ヨン様症候群には興味があります。
わたしの周囲における現象として、おばさんの若い男性に対する熱い視線をみるにつけ(それも独身のほうがいいみたい)、自分もおばさんの一員でありながら、いつもひいてしまいます。が、いままで鑑賞される側だった女性が、男性を鑑賞するようになったこと自体は、いいことだととらえています。多くのひとが、基本的には若くてうつくしい人間を好むのです。それと人間性はべつですが。

鉄さんへのメールにしたいところを、かなり無理してコメント欄へ書きこんできたのですが、こうして予想外にpenguin さんとやりとりができたことを、うれしく思います。

   *
   
念仏の鉄さま

「おためごかし」をしない点だけを、ホリエモンについて評価してきたのですが、立候補した時点から「おためごかし」がはじまりましたね。いったんアタマを初期化してから、ホリエモンをみる必要があるのではないか。ドラえもんに登場してもおかしくない彼の風体をみていると、どういうわけか人相が悪いと思っていた亀井サンが、かわいらしくみえてきました。「帰ってまいりました」と涙ぐみながら地元の支援者に挨拶する姿を、TVで観てしまったからです。ものすごく古いですね。対極にホリエモンがいるからだけれど。
どちらが勝つかには、侮れない要素があると思います。

ワールドカップで闘う各国の代表たちをみていると、ああいうスリムで精悍な顔つきの政治家に登場してほしいと、スポーツに詳しくないわたしは思います。それからいうと、ホリエモンは×です。
しかしながら、小泉サンよりも本気で、彼は自民党(に代表される旧来の価値観)をぶっ壊そうとしているのか。軸足がどこにあるのかという点で、甚だしい不安があります。
政治に疎いので、とんでもない妄想です。一笑に付してください。

投稿: 影絵 | 2005/08/24 14:21

>penguinさん

>ならば、やっぱ、あの戦争裁判の結果は、受け入れなくちゃならないのかな。

サンフランシスコ講和条約には、極東国際軍事裁判所の判決を受け入れる、という意味の文言が明記されています。これは条約批准各国との約束ですから、もし判決を破棄するのなら、各国との間でそこからやり直さなければいけませんね。

しかし、「悪法も法なり」なのであって、判決を受け入れたからといって、判決文に記された考え方のすべてを日本の公式見解としなければならない、とは私は思いません。

ただ、あれが東京裁判が決めつけるような「侵略戦争」でないのだとしたら、日本は何を誤ったのでしょう。東京裁判が不当だからといって、自国他国を問わず、あれだけの人命を奪い、さまざまな禍根を残した戦争を正当化するわけにはいきません。「ここがダメだから戦争に負けた」という議論は目にしますが、なら勝てばよかったのか?そうではないでしょう。
あの戦争は何だったのか。60年経った今でも、きちんとした自前の総括はなかなか見当たりませんが、しかしそれは今も必要なのだと思います。

>その意味ではA級戦犯も、等しく戦争の犠牲、戦後日本の礎、、、。小泉首相の靖国参拝は、一応、彼なりに、理にかなってるのかな。

情にかなっているのかも知れませんが、理にかなってはいないと思います。
彼らは戦犯として処刑されることによって礎となったのですから、礎を崩してしまうと建物も揺らぐ。「理」とはそういうことなのでは。内心はどうあれ、A級戦犯の合祀以来、靖国参拝をしていない天皇の行動こそ、国際的に見れば理にかなっているのだと思います。

小泉参拝についていえば、内田樹センセイは、「小泉は中国の非難を逆手にとり、参拝というスイッチによって中国の反応をコントロールしている」という見解をblogに示しています。卓見だと思います。


>影絵さん

>鉄さんの横レスを読んだとき、絶妙な連携プレーを感じたのはたしかですが(笑)。

私も一応、「男性一般」に属する者ですので、こういう話はどことなく後ろめたさを感じてしまうのです。かばいあうつもりはないですが(笑)。

>一方、わたしが考えたのは、たとえ相手が若くて魅力的な女性であり、男性のほうに合意があるケースにおいて、その女性が権力者(=生殺与奪の権をもつ存在)の場合は、「レイプ」の範疇に入らないのかということ。

冷静に考えれば、シャラポワだとしても嫌なものは嫌、という場合があるはずです。誰にだろうと、強要されること自体が暴力ですね。それでもついpenguin君のように書いてしまうのが「文化的コード」のなせるわざなのではないかと。

ちなみに日本の刑法では、強姦罪とは「暴行又ハ脅迫ヲ以テ」「婦女ヲ姦淫シタル者」への罪であり、男性に対する強姦罪は規定されていませんので、法的には、影絵さんの疑問への回答は「入らない」ということになります。

>小泉サンよりも本気で、彼は自民党(に代表される旧来の価値観)をぶっ壊そうとしているのか。

上の方でpenguin君が書いてましたが、郵政民営化反対者への対立候補として自民党が用意したのは、いわゆる「勝ち組」ばかり。「小泉改革」は、堀江氏のようなタイプの起業家にとっては有利な面が多いので、整合性のある出馬だとは思います。
顔つきについては、話し方も含めれば、彼にはかなりの訴求力があると思いますよ。そういう意味では政治家の資質を備えているかもしれません。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/08/25 10:31

影絵さま

 鉄さんの文章のおかげで、ほめられちゃった。なんだかこそばゆいです。

 社会生物学者か誰が言ったか、忘れましたが、男は結局、女が生み出した奴隷、という見方があるそうですね。

 種の保存のために、「抗争」とか「戦争」とか「労働」を担当させるために生み出した、人類の亜種ではないかと。

 古代ギリシャ神話でしたか、アマゾネスの伝説もありますものね。経済的に自立したら、女性の振る舞いは、男性のそれとあまりかわらなくなっていくのでしょうね。
 (また問題発言しちゃったかな)

 731部隊について言えば、大戦末期に、東京にあった施設の一部が、いま私が住む街に疎開してきていたそうです。
 たいした研究はしてなかったようですが、進駐軍が来る前に、「研究成果」は海に投棄したそうです。

 地元の教員グループが調査発表したパンフレットを、先日県立図書館で見つけました。


 話は変わります。
 ゆうべ、深夜にNHKの再放送で、無差別爆撃に関する特番を見ました。
 珍しく政治介入の跡は見受けられず(笑)、見入ってしまいました。

 日本焦土作戦と称する無差別爆撃をめぐり、軍事目標だけを精密爆撃を主張する空軍の現場(良識派)と、日本人の士気をくじくためには一般市民への爆撃もやむなしとする現実派の間で、鋭い意見の対立があったことを知りました。

 そしていまも、苦しみと悲しみを引きずる、生存者たちの姿。
 日本だけでなく、ナチスの空爆を受けたイギリスでも、米英の空襲を受けたドイツ・ドレスデンでも、、。

 改めて、アメリカは、無差別爆撃受けたことがない国なんだよな、と思いました。
 だからですかね。
 アルカイダによる9・11航空機テロを受けた時のショックとあわてぶり、混乱、そして報復。かの国ではいま、建国以来初めて、無差別攻撃を受け市民が巻き添えになった時の悲しみを、味わっている、、、、。
 思慮深い国になるためには、ある程度の犠牲が必要なのでしょうかね。

 番組を通じて、やはり、「アメリカが行った戦争犯罪」を、日本人は、いま一度、問い直さないといけないのでは、と思いました。

 中国人が、日本軍の行った残虐行為を教育を通して、「あれほど」受け継いでいるのに比べ、なぜ日本人は、アメリカ軍が行った無差別爆撃、在米日本人の強制隔離、原爆投下などなどについて、アメリカに怒りを示さないのでしょうね。
 教育上でも、占領時代に、見事に、牙を抜かれたんですかね。
 
 いやいや、過激な反米教育をすべきかというと、それも違うか。それじゃ中国と一緒になってしまう。愛国主義の応酬に陥る。(つくる会の方向ってこれですよね)ならばもっと、「思慮深い平和教育」ってものを、リアルに行わないといけない、ってことなのか、、、。


 それにしてもアメリカは、「民主主義を定着させた善玉の国」「軍隊のない日本にかわりアジアの平和と安定を担う、強い正義のリーダー」としてのイメージのみを、よくもまあここまで、定着させることに成功しましたよね。
 それが、アメリカのすごさ、かな。
 これほど見事な植民地政策はないですよね。
 18世紀から19世紀にかけて、帝国主義政策をとった欧州列強が、なぜ結果的に民族主義に火をつけ、植民地政策に失敗したか、よーく研究したんでしょうかね。

 その点日本は、拙劣だったんでしょうね。占領と植民地は違うはず、、、、。
 ローマ帝国は、戦争で領土を拡張しましたが、領民には宗教の自由は与える一方、ローマ市民とほぼ同等の権利と義務を与えたそうです。

 日本は単に搾取し、主義を押しつけた。だから韓国、中国で遺恨を残したのでしょうか、、、、。

(それにしても三者鼎談の様相を呈してきましたこの項、レスが長くなりましたね。最長不倒では?)

投稿: penguin | 2005/08/25 22:16

penguin さま

いいかげんに閉じないといけませんが、ひとことだけ。
      
>社会生物学者か誰が言ったか、忘れましたが、男は結局、女が生み出した奴隷、という見方があるそうですね。

「生物的に女のほうが男より優性なので、それに気づいている男が女の進出を妨げる社会機構をつくった」という説を、かなりわたしは信じています。また女は単独で生きていけるが、男はそのように生きていけない。
個の意識が確立していて、わたしからみて尊敬に値する男性に、真顔で「ぼくは女房がいないと破綻します!」といわれ、絶句したことがあります。が、この逆は聞いたことがありません(笑)。(名将といわれた栗林忠道も、じつはそういう面があったのではないかと思います)
また性別にかかわらず人間は本来、労働を好まないようにできているらしい。蜂の世界において、よく働く蜂と働かない蜂がいて、働かない蜂ばかりを集めると、そのなかから働く蜂と働かない蜂がでてくる、という話が好きです。
そうするとニートばかりを集めたら、働きだす人間がでてくるのかしら?

> 中国人が、日本軍の行った残虐行為を教育を通して、「あれほど」受け継いでいるのに比べ、なぜ日本人は、アメリカ軍が行った無差別爆撃、在米日本人の強制隔離、原爆投下などなどについて、アメリカに怒りを示さないのでしょうね。
 教育上でも、占領時代に、見事に、牙を抜かれたんですかね。
 
以前に観たNHKのTV番組では、9.11で息子を失ったアメリカ人の母親が、原爆を落とされてもアメリカを憎悪しない日本人に疑問をもち、ヒロシマを訪ねる行為のなかでみずからが癒される、という角度で映していたと記憶しています。
彼女は少数派だと思いますが、たとえひとりであっても、そのようなアメリカ人がいたとしたら、大きな意味があると思います。
報復は無限地獄ですから。
ほんとにわたしは政治面に疎いのですが、イラクに自衛隊を派遣したことによって、それまでに日本人が築いてきた大切なものが壊れましたね。
こんなことをわたしが書かなくても、penguin さんは自問自答するフリをして、そのあとに答えを用意しておられますね。

《ならばもっと、「思慮深い平和教育」ってものを、リアルに行わないといけない、ってことなのか、、、》

昨春、遅ればせながらネットで読んだ「知識人とマスメディアに疑いの目を」(ノーム・チョムスキー×辺見庸、月刊「PLAY BOY」2002年6月号)は、衝撃的な内容で、いろいろ考えさせられました。
  
>(それにしても三者鼎談の様相を呈してきましたこの項、レスが長くなりましたね。最長不倒では?)

コメントの読み書きをするのに、洞窟の奥深くまで入らないといけませんね。利便性のあるはずのblogに逆行しているところが、わたしはちょっと気に入ってます。この地点までやってくるのは、鉄さんとpenguin さんの隠れファンだけだと思います。(わたしは元隠れファンですから、そういえます)。常連さんは逃げだしますよ(笑)。

   *
   
念仏の鉄さま

梯久美子『散るぞ悲しき』を昨夜、読了。
こなれた惹きつける文章なので、一気に読めそうなのに、数ページずつしか進みませんでした。内容が重く、密度が濃いためです。
梯氏と文体はちがいますが、過去に上野英信を読んだときも、そんな読み方でした。
本を閉じ、表紙のセピア色の栗林の穏やかな顔写真を眺めつつ、こころのなかで話しかけるという作業を、幾度かくり返しました。
本書を読むまで、栗林忠道や硫黄島についてなんにも知らなかったのに、さまざまな感想が去来します。
それらを近いうちにまとめあげて、「影絵」のほうにアップしたいと考えています。

投稿: 影絵 | 2005/08/26 23:34

>penguinさん

>中国人が、日本軍の行った残虐行為を教育を通して、「あれほど」受け継いでいるのに比べ、
>なぜ日本人は、アメリカ軍が行った無差別爆撃、在米日本人の強制隔離、原爆投下などなどについて、
>アメリカに怒りを示さないのでしょうね。
>教育上でも、占領時代に、見事に、牙を抜かれたんですかね。

司馬遼太郎が、戦争末期には日本軍が日本を占領している感じだったので、自分たちは米軍に解放されたような気分だった、という意味のことをどこかに書いていました。そういう面もあるのだろうけれど、それにしても異常な従順さですよね。
アメリカはイラク統治に関して「日本方式」を参考にやるという話もあったけれど、結局は泥沼化しつつある。あれで順調にいった日本の方が特異なのだろうと思います。

>これほど見事な植民地政策はないですよね。
>18世紀から19世紀にかけて、帝国主義政策をとった欧州列強が、
>なぜ結果的に民族主義に火をつけ、植民地政策に失敗したか、よーく研究したんでしょうかね。

ま、研究はしたんでしょうけど、その後アメリカが他国に内政干渉したケースでは、たいていトラブってますよね。自分のやってることを相対化できないアメリカ人には、むしろ不得手なのではという気がします。
植民地経営にかけては、いまだに旧植民地を集めてクリケットの国際大会なんかをやっている大英帝国の手際にかなう国はないのでは。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/08/26 23:41

>影絵さん

>梯久美子『散るぞ悲しき』を昨夜、読了。

私も入手しましたが、今はあまり落ち着いて本を読める状況にないので、腰を据えて読めるタイミングが来るまではお預けです。序章を眺めただけで、うかつに手をつけられない、という印象があります。


>常連さんは逃げだしますよ(笑)。

コメントをくださる方、そうでない方、スタンスはそれぞれ異なると思いますが、この場末のblogにいらっしゃる方は私にとって等しく大切なお客様です。影絵さんに他意のないことは承知していますが、それでもやはり、このような表現はご遠慮くださるようお願いします。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/08/27 00:01

念仏の鉄さま

>コメントをくださる方、そうでない方、スタンスはそれぞれ異なると思いますが、この場末のblogにいらっしゃる方は私にとって等しく大切なお客様です。影絵さんに他意のないことは承知していますが、それでもやはり、このような表現はご遠慮くださるようお願いします。

たいへん失礼いたしました。蒼ざめながら書きこんでおります。お詫びのしようもありません。
コメントをするのに消極的なわたしがここまで書きこんできたのは、いうまでもなく鉄さんやpenguin さんのレスポンスに喚起される要素があるからです。しかしここまでの長さになることに対し、客観的にみた場合、内心のジレンマもありました(この鼎談はわたしにとって愉しいし、とても有意義でした)。
わたしが言及したのは、当エントリーのこのコメント欄に限局したものであったとしても、それとは無関係にお門ちがいだったと、いま、(素直に)思います。

鉄さんおよび「等しく大切なお客様」に、たいへん不愉快な想いをさせてしまったこと、どうぞご容赦ください。衷心からお詫びいたします。

(『散るぞ悲しき』については、当コメント欄に「感想を書きます」と以前に書きこんだので、昨夜、追記しました。【戦争を知らない世代が語る戦争のリアリティ。】を読んだことが、迅速に本書を入手した動機でしたから。
しかしながら感想を書くのに、悪戦苦闘しています。その行為のなかでなにかが発見できるような気もしています。
さすがに『夕凪の街 桜の国』のときのように鉄さんを意識しながら読むことはなかったのですが、読了後の余韻に浸っているとき、ふと鉄さんならどのようなアプローチをされるだろうか……と思いました)


投稿: 影絵 | 2005/08/27 12:31

>影絵さん

ご理解いただきありがとうございます。
コメント欄がエントリから脱線することや長くなることについては、私はまったく気にしていません(そんなことを気にし始めたら、何度penguin君に苦言を呈さなければならなくなることか(笑))。影絵さんにも貴重な話題を数多く書き込んでいただいていることに感謝しています。
他の方がついてこられないであろうという意味のご指摘は、たぶん当たっていると思いますが、それもそれで構わないと思っています(そもそも、これだけエントリ間に脈絡のないblogですから、すべてに目を通す方は多数派ではないかも知れません)。
あくまで「表現にお気をつけください」というお願いでしたので、どうか過度にお気になさりませんように。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/08/27 13:04


ご無沙汰してます。
この夏はブログも停滞気味ですが、実は特に忙しいわけでもありません。ただ本や漫画を読んだり、映画やドラマを見たり、ぶらりと散歩してみたり、少しネットから離れた生活を送っています。

このエントリーは長いコメントだったのでなかなか読めなかったのですが(笑)、何か言いたいな、とは思っていました。というのも自分はおそらくこのblogの参加者の中ではかなり若い年代の人間でしょうし。

さて、皆様人生の先輩方の話を読んでいて改めて思ったのは、「学校というのは本当に何も教えてくれないところなんだな」ということでした。
日本の歴史の中で、学んだ後も密接に関係してくるのは間違いなく近現代史なのですが、多分今の私たちの世代でそれを学校で学んだ人はほとんどいないと思います。最近町村外相はどこかで、「非常に(解釈が?)難しい問題が多いので、実際には時間がないことを理由に教育から逃げているのが近現代史に対する現場の状況だ」とそのことを認めていました。

戦争というものに対して、学校は何も触れないわけではありません。ただ、教科書を見ればわかりますが、そんな程度では語りきれないような現実を薄っぺらに学ぶのが歴史教育と呼べるのでしょうか。あまりにリアリティのない戦争論。それを並べられても「戦争はいけない」なんて私は軽々しくて言えませんでした。

>そういう人間に何かを伝えようとする時に、いきなり「訴える」ことは、必ずしも有効ではない。大切なのは、まず知らせることだ。

そういうことなはずです。戦争がいけないのはわかるが、どうして戦争がいけないのか、子供のころ2、3人の大人にたずねましたがみんな明白な答えを持っていませんでした。
私はその後、そのような戦争の実態に興味があったので、自分で本や漫画を読んだり映画を見たりしました。高校のころ、先生に731部隊のビデオを見せられたりもしました。でも、それがあって少しでも戦争や人を殺すことに対する言葉にできない思いを知ることができたと思います。口で軽々しく言えるようなものではないんだ、戦争は…とようやく思えました。とはいえ、沖縄には2度ほど行きましたが、広島に行ったことはないのですが…

「戦争を肯定する若者が増えている」と話に上がりますが、その若者である私たちから見れば、戦争がいいと思っている人間はほとんどいないです。ただ、戦争に対するリアリティがどんどんなくなってきたのは確かだと思います(後ろに書く出来事で変わった気はしますが…)というか、多くの若者が一番肝心なところから戦争のリアリティを知らされていないことが上のように大人に思わせる原因にも感じます。こんなに戦争の痛みを知っている国なのにです。


あの9.11の当時、私は某学習塾で講師をしていました。
その翌日に授業があったのですが、塾に来た子供達(といっても私と10も離れていませんが)は皆おかしな様子でした。現実を前に何をどうしたらいいか、全くわからなかったようです(私のところへ来て、「先生、私たちも死んじゃうの?」と泣きそうになって聞いてきた子もいました)。授業前に、私と同年代の講師数人は話し合って、みんなそれぞれの授業の始めに、それぞれが戦争に対する想いを話そうということになりました。
私は考えた挙句、こう言いました。「残念ながら彼らはそれぞれがそれぞれにとっての正義を掲げている。戦争が正しいか正しくないか、戦争とは無縁の国に生まれ育った僕に説得力があることは言えないかもしれない。でも、身近に人が死ぬことは誰でも体験することだ。人が死ぬことの意味を考えて、一人ひとりがそのことへの答えを出して欲しい。」

大人たちにとっては意外かもしれませんが、生まれてからいくつも戦争は世界で起きているにもかかわらず、私も含めてこれまで最も戦争や命について考えさせられたのは9.11です。彼らもはっきりとそう言いました。初めて自分の命にかかる出来事だったからかもしれません。でも、それほどではないにしろ、日本にいて戦争を伝えられる余地はまだまだあるはずです。まずはゆとり教育とか言っている暇があるのなら、子供達に「戦争というリアル」をもっと見つめさせて、もっと考える機会と時間を与えることが重要なのではないでしょうか(無論、こういうことになると話題によっては必ず歴史認識で外から反発するところがあるのですが…)。

投稿: アルヴァロ | 2005/08/30 16:17

長文になって申し訳ありません。


ただ、とりあえずこういう話を年上の方々から聞けるのは滅多にないことですし、そういうことでこちらの戦争に対する想いを書いてみました。私の両親は政治や社会の話はしますが、どちらかというとこういう話はちょっと避けるタイプなので、皆様の考えは非常に興味深かったです。書籍も時間を取って読んでみたいと思います。
というか、まずは同年代の仲間とそういう話をもっと突っ込んでしてみたいと思います。

投稿: アルヴァロ | 2005/08/30 16:31

>アルヴァロさん

しばらくでした。果敢な(笑)書き込み、ありがとうございます。

>さて、皆様人生の先輩方の話を読んでいて改めて思ったのは、「学校というのは本当に何も教えてくれないところなんだな」ということでした。

私が学生だった頃、日本史の授業というのは中学でも高校でも、だいたい明治維新あたりで時間切れになりました(大学入試でもその後の時代からはまず出ないし)。今でもそうなのでしょうか。

ただ、中国や韓国の人がテレビやネットで歴史について論争する時、ほとんどの人が「歴史はひとつ、真実はひとつしかない」と言いますよね。その「ひとつ」の歴史の真実だけを認定して異論を許さない政府と、日本のようにうやむやにしているのと、どちらがいいのか、となるとなかなか難しい(どちらもベストであるとは思えないので二者択一する必要もないのですが)。

>「戦争を肯定する若者が増えている」と話に上がりますが、その若者である私たちから見れば、戦争がいいと思っている人間はほとんどいないです。

若い人に限らず、「戦争は必要悪。場合によっては仕方ない」みたいなことを言われるとなかなか反論しにくくなってきた、という気はします。ただ、ではその「必要悪」によって現実に何が起こるかについて、言ってる方もリアルに認識しているわけではない、ということではないかと。


>私も含めてこれまで最も戦争や命について考えさせられたのは9.11です。彼らもはっきりとそう言いました。初めて自分の命にかかる出来事だったからかもしれません。

このくだりに、実はかなり意表を突かれました。ニューヨークでのテロを「自分の命にかかわる」ほど身近に感じてしまうとは驚きです。
この話だと、たぶん子供たちの動揺は、「日本にも来る可能性がある」という論理的な推論でによるのではなく、かなり感覚的なものですよね。若い人たちの感覚では、日本はそこまでアメリカと一体視されているということなのだろうか。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/08/30 19:11

>この話だと、たぶん子供たちの動揺は、「日本にも来る可能性がある」という論理的な推論でによるのではなく、かなり感覚的なものですよね。若い人たちの感覚では、日本はそこまでアメリカと一体視されているということなのだろうか。


うーむ、これについては解釈が自分でも難しいのですが、例えばどこかで起きている戦争で日本がどうなるとかは、現実にはない話なのでその事実を知るだけでは比較的実感が沸きにくい。それがテロというカタチで米国で起きたのだから日本というか世界どこでも起きてもおかしくない、という感覚がみんなにあったのだと思います。私の場合、米国を一体視しているという意識は普段全くないのですが、潜在的にはそれはあるのかもしれません…。
いろんな意見はあるにせよ、私達は戦争を知らないだけでなく、米国と一体になっている時代しか知らない(なおかつ物心ついたときは冷戦すら終わっていて大きな対立すらなかった)のは確かですから…

とりあえず、当時の私の知る子供達の様子は自分を拡大したように見えましたが(子供は何にでも敏感に反応しますし)、それは今でもはっきり覚えています。あまりに大きな犠牲でしたが、失礼を承知で書くと、あれは様々なところで命というものを考えさせられたと思います。これについてはいずれ自分のところにも書こうかと…


>「必要悪」によって現実に何が起こるかについて、言ってる方もリアルに認識しているわけではない、ということではないかと。

これはその通りだと思います。大きなものを考えすぎると、よくそういうことに陥りやすい(私自身それを否定できません)。自分の場合ですが、戦争を考えるときはできるだけ命をセットにして、リアルを少しでも考えられるようにしています。


さて、歴史の授業は私の知る限り、多くのところが今もその通りです。大戦について多くは触れないのは入試も同じなので、それに必要ないからやらない、という無難な発想なのでしょう。

ただ、
>「ひとつ」の歴史の真実だけを認定して異論を許さない政府と、日本のようにうやむやにしているのと、どちらがいいのか、となるとなかなか難しい

これらはどちらも良くない選択です。しかし後者にしていることは日本にとって何にもならないんだな、と最近思うようになりました。噂には聞いていましたが、マスコミには上がってこないベストセラー「マンガ嫌韓流」は衝撃でした(一応言っておくと、このマンガは別に偏った思想を書いているとかではありません。全てが正しいとすぐに言えるわけではないですが、根拠を出しながら一つ一つ議論形式で建設的に書いています)。

投稿: アルヴァロ | 2005/08/31 01:52

(切れてしまいましたが)、無知であることで意味のない損を被ることもある。それを知らされた気がしました。


正直、ここに長文を書いて少しずつ自分のところでも書こうという気になりはじめている自分がいます(笑)

投稿: アルヴァロ | 2005/08/31 01:55

>アルヴァロさん

>あまりに大きな犠牲でしたが、失礼を承知で書くと、あれは様々なところで命というものを考えさせられたと思います。

それはそれでよいのだと思います。考える契機にすること自体は、亡くなった人たちに失礼ということはないですよ。

ただ、あまり考えずに行動に移すことが失礼に見える場合はあるかもしれません。
ちょっと思い出したことがあるので、書いておきます。

テロから2年後、世界貿易センタービルの跡地に行ったことがあります。ちょうど9月11日に立ち寄ったので(セレモニーは終わった後でしたが)、遺族らしい人たちが犠牲者を偲んで花を供えたりしていました。
敷地に面した脇道に、犠牲者全員の名前を書いた長大な横断幕が張ってあり、その大きさがそのまま被害の大きさを感じさせて圧倒されました。近づくと、ひとりひとりの名前の周囲に、I miss youなどと遺族や友人らしい人たちの書き込みがあります。1人の死が大勢の人々の打撃を与えること、それが何千倍というスケールで起こったことも、実感しました。
よく見ると日本語の書き込みも時々あり、犠牲者の縁者というケースもあるのですが、「世界に平和を」などと、個々の故人とは無関係な文言もいくつかあり、そのあまりに場違いな軽さには、いささか気が重くなりました。気持ちは純粋かも知れないけれど、行動は適切とは言いがたい。
これは以前、「「非当事者」であるということ。」というエントリに書いたのと同じ心性の結果であるように思います。こういう形で「参加」することで何かをしたような気になる、という心性については、我々は大いに自戒すべきだと私は思っています。

>「マンガ嫌韓流」は衝撃でした

想定問答集として参考にするくらいがいいと思います。回答については自分なりに検証するくらいのつもりで。私は立ち読みしただけですが、この本のワールドカップの審判問題についての記述はいささか公平を欠くものでした。他の部分についても全面的に信頼を置けるかといえば留保せざるを得ません。

>無知であることで意味のない損を被ることもある。

これは間違いなくその通りです。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/08/31 11:01

トラックバックさせていただきました。
9.11を契機として、誰かが行動したわけでなく、単にコンサートでそこに集まった人たちが想いを共有したという経験を書きました。


「非当事者である」ことが自覚できていない例はいろいろなところに転がっていますよね。私も気になることは確かにありますね。昔からおばさんがマスコミに電話するのはそうでしょうし、最近人気の「ホワイトバンド(現代版赤い羽根というか…)」もただのファッションにしてしまう方とそうでない方に分かれているようです。

投稿: アルヴァロ | 2005/08/31 19:12

>アルヴァロさん

こちらからもTBしておきました。

ホワイトバンド、確かに目的が漠然としすぎていて、わかりにくい運動ですね。何かの雑誌で解説記事を読みましたが、結局何がしたいのかわからなかった(笑)。

投稿: 念仏の鉄 | 2005/08/31 19:30

突然失礼いたします。
『僕の見た「大日本帝国」』の著者、西牟田靖と申します。
誠に遅ればせながら、ご紹介賜りありがとうございました。おかげさまで、このたび姉妹篇『写真で読む 僕の見た「大日本帝国」』を刊行のはこびとなりました。前作をお読みいただいた読者のみなさまから寄せられた「もっと写真が見たい」との声に応えるべく、未公開の写真約400点(うちほぼ半数はカラー写真)を掲載し、新たなエピソードを全編書き下ろしたノンフィクション作品です。不躾とは思いましたが、ぜひご高覧いただきたくご案内申し上げました。
なお、全国発売の開始は2月23日ですが、都内では、紀伊国屋書店新宿本店、ブックファースト渋谷、八重洲ブックセンター、リブロ池袋の各店舗にて、2月11日頃より先行販売を実施いたします。もし機会がございましたならば、書店店頭にてお手にとっていただければ幸いに存じます。何卒よろしくお願い申し上げます。
末文ながら、ますますのご健勝ご活躍を祈念しております。

投稿: 西牟田靖 | 2006/02/09 04:06

鉄さんへ。「日韓中共同編集の歴史教科書」については日本語版と韓国語版で記述内容が異なるという指摘があっています。
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/column/seoul/archive/news/2005/20050726org00m030037000c.html
こういう努力を否定するのではなく、こういうプロジェクトに集った人たちですら「歴史認識」を擦り合わせることが大変困難である、ということの事実を重く受け止めたいです…sjgh

投稿: 馬場伸一 | 2006/02/09 12:40

>西牟田靖さん
ご本人からのコメントとは光栄です。よいお仕事を拝見させてもらいました。ありがとうございます。
確かに「カラー写真でもっと見たい」という気分は残りますね。書店に並んだら、ぜひ拝見します。

>馬場信一さん
>「日韓中共同編集の歴史教科書」については日本語版と韓国語版で記述内容が異なるという指摘があっています。

その話は知りませんでした。この教科書自体は、このエントリを書いた後で入手して目を通しましたが、私にとってはいささか納得しづらい内容でした。

投稿: 念仏の鉄 | 2006/02/09 15:02

最近のコメント欄から、このエントリーに初めて寄らせていただきました。
12月の『小野田少尉の戦後30年』にも通じる内容で、ちょうど、私も戦争や歴史認識について、自分のブログで近いうちに書きたいなと考えておりましたので、コメント欄も含め、興味深く拝読いたしました。
Penguinさんも言及されておられましたが、日本人が戦後、アメリカへの恨みの感情を引き継がずにきたことは不思議に思います。それが、アメリカの洗脳によるものかどうかは分かりませんが、歴史事実にまつわる情念を引き継いでいないということが、かえって国際的な新しい関係を構築するためにプラスになっているのみならず、戦争体験のない取材者による、バイアスのかかっていない目を通しての、戦争体験や事実の拾い集めを可能にしているのではないでしょうか。日本の歴史教育が史実をどのくらい正確に伝えているかという議論は別として、この史実にまつわる情念を語り継がないという歴史教育は評価してもいいのではないかと思います。授業時間の不足のため、現代史に情念の盛り込みようが無かったという面も確かにありますが……(苦笑)。いずれにしても、鉄さんがご紹介されたような戦争取材が、今の中国や韓国のジャーナリストに可能かと考えると疑問を抱かざるを得ません(あくまでも一般論ですが。)
国防の問題や国際貢献の問題から戦争を考えると、power politicsの論理に引きずられがちになりますが、殺されるもの、殺すものがいて、人の命が奪われていくというリアリティーを持った戦争の事実を知るということがまず、何よりも大切だと感じています。ピンポイント爆撃の報道などは、リアリティーをなくさせようとするものでしたが、9.11に始まるテロは直接人命を標的とすると言う意味では衝撃でした。

投稿: 考える木 | 2006/02/12 23:09

>馬場伸一さん
先のコメントをした時にはリンク先の記事が読めなかったのですが、改めてこの下川正晴氏の一連のコラムを読むと、なるほどと思います。「日中韓副教材への疑問(その3)」にある「さらに同副教材には、チベット問題、天安門事件、中越戦争、文化大革命、大躍進政策に関しても記述がない。これでは『東アジア近現代史と呼べるのか?』という疑問の声が、購読者の中から起きるのは当然だ。」という文章にはまったく同感です。
一方で「(その4)」に紹介されたような、この教科書とは別の、きちんとした共同歴史研究の取り組みが進んでいることは嬉しく思います。

>考える木さん
>この史実にまつわる情念を語り継がないという歴史教育は評価してもいいのではないかと思います。

教育の結果というよりも、むしろ日本人のメンタリティに負うところが大きいのかも知れない、と私は思っています。悪く言えば、忘れっぽくて変わり身が早い。良く言えば、切り替えが早く、状況への順応性が高い。
GHQの占領時代、日本国民からマッカーサー元帥あてに、ものすごく大量の手紙が送られていますが、「私の地元の警官(日本人)は不正行為で私腹を肥やしているから罰してください」というようなものがかなり含まれているようです。これはこれで、ある種の凄みさえ感じます。

投稿: 念仏の鉄 | 2006/02/13 00:18

鉄さま

ごぶさたしております。
(penguinさん、お元気ですか?)

梯久美子著『散るぞ悲しき』については、ず~っと引きずってまいりました。酷暑のなかでの読了から1年近くが打ちすぎましたが、わたしのアタマのなかはまったく進展がみられず、無理矢理という感じで感想のようなものをアップしました。内容の重さに圧殺される想いが、いまもつづいています。
そんなわけで、TBさせていただきました。
わたしにとっては、この長いコメント欄での"あとしまつ"を意味します。

新井直之氏の定義では、ジャーナリズムとは「いま伝えなければならないことを、いま伝え、いま言わなければならないことを、いま言うこと」。職業的ジャーナリストとジャーナリストを区別しています。
そういう意味では、軍人・栗林忠道は、ジャーナリストだったと思います。

繰りかえしになりますが、鉄さんの本エントリーは秀逸です。

投稿: 影絵 | 2006/05/10 13:27

>影絵さん
しばらくでした。
昨日は久しぶりに風邪で熱を出して寝込んでおり、昨年の暮れに録画したきりだったNHK-BS1放映のドキュメンタリーのうち、第二次大戦を扱った『マッカーサーが見た日本の降伏』や『カウラ大脱走』を見ていました。そういう時に、こういうコメントをいただくのも、一種のシンクロニシティなのかな、という気がします。

私は依然、『散るぞ悲しき』を未読のままですが、たぶん、イーストウッドの映画を見るまでには、読むことになると思います。抽象的な言い方をすれば、大事な本ほど、然るべき時期になれば本の方から「読め」と呼びかけてくるものだと私は思っています。

あと、penguin君は元気そうですのでご安心を(笑)。

投稿: 念仏の鉄 | 2006/05/11 10:31

2010年7月に『僕の見た「大日本帝国」』が文庫化されました。
http://www.amazon.co.jp/dp/404409425X
簡単な追跡取材結果を含めた「文庫版あとがき」、松原隆一郎氏による「解説」を新たに加えました。よろしくお願いします。

投稿: 西牟田靖 | 2010/07/27 15:42

>西牟田靖様

5年後の文庫化ですか。それだけの価値のある著作だと思います。

投稿: 念仏の鉄 | 2010/07/29 02:04

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