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2005年12月

小野田少尉の戦後31年。

 彼が29年間の潜伏生活を終えてフィリピンのルバング島から帰国した昭和49年(1974)を別にすれば、小野田寛郎の姿がこれほど繰り返しテレビに登場した年は記憶にない。
 NHKは戸井十月を聞き手に長時間のインタビュー番組『ハイビジョン特集ー生き抜く 小野田寛郎』を作り、戸井によって本(『小野田寛郎の終わらない戦い』新潮社)にもなった。フジテレビはルバング島での戦いを中村獅童を主演に『実録・小野田少尉 遅すぎた帰還』でドラマ化した。
 そして戦後60周年も押し詰まった12月末、『おじいちゃん、本当のことを聞かせて』がTBSで放映された(製作は毎日放送)。19歳の女優・石原さとみが小野田の過ごした地をともに歩きながら戦争の話を聞くという趣旨の番組だ。

 「小野田さんに会って戦争の話を聞く」という企画をもちかけられ、当時の記者会見の映像を見た石原は、「知らなかった…」と絶句する。彼女は小野田の名前も経歴も何ひとつ知らなかったという。これを読む人の中にも知らない方が多いかも知れないので、彼の一通りの経歴を記しておく。ご存知の方は飛ばしてください。

 小野田は大正11年(1922)、和歌山に生まれ、昭和14年(1939)に旧制中学を卒業して貿易商社に就職、中国に渡る。なかなか裕福な暮らしで、派手に遊んでいたらしい。昭和19年(1944年)1月に入隊、同年9月から陸軍中野学校二俣分校でスパイ教育を受け、12月にフィリピン戦線に送り込まれた。すでに日本軍は敗色濃厚という状況で、小野田はルバング島での残置諜者の命を受ける。その土地が敵軍の手に渡った後も山中に潜伏して敵軍を撹乱し、日本軍の反攻を助ける役割だ。
 1945年8月に日本が降伏を表明し、9月に米国を中心とする連合国軍に占領された後も、小野田は2人の部下とともにルバングの山中にとどまり、米軍基地を攻撃しながら潜伏する。家族の呼びかけや敗戦を伝えるビラ等、小野田たちを帰還させようという働きかけは何度も行われたが、小野田は敵の策略として信じなかった(ビラに記された家族の名が間違っていた等、不幸なミスが重なったのも一因だった)。潜伏生活の中で2人の部下は命を落とし、ひとりきりになっても小野田は戦い続けた。昭和49年、鈴木紀夫という若者が彼を探しに山中に入り、小野田と遭遇した後、小野田に命を下した元上官を同行して命令を解除したことで、ようやく小野田は山を降りる。
 帰国から約1年後、小野田はブラジルに渡って牧場を開拓、昭和59年(1984)からは日本に「小野田自然塾」を設立して子供たちの教育にも取り組んでいる。

 この仕事を受けることにした石原は、スタッフとともに電車に乗り、静岡県浜松市に向かう。
 天竜浜名湖鉄道・二俣本町駅。ひなびた駅のホームに降り立った石原は、無人の改札の向こう側に立つ人影を見て、階段を駆け降りる(いい娘だ)。小野田が迎えに来ていたのだった。

 83歳になる小野田の立ち姿の美しさに、まず感嘆する。あのように、すっと真っすぐに立つことのできる日本人は、めっきり少なくなった(私自身、あのような立ち方はなかなかできずにいる)。前述のNHKの番組で帰国当時の小野田が皇居を訪れる映像を見て、歩き方やお辞儀の美しさに感銘を受けたが、それから30年以上経った今も、小野田の立ち姿は変わらない。背筋を伸ばし、石原の先に立って、すっ、すっと歩き、河原の砂利道では水たまりをひょいと飛び越える(この場面、ここだけ撮影アングルが変わっているので、スタッフがわざわざ頼んで歩き直してもらったのかも知れない。もちろん、そうだとしても小野田の身軽さに嘘はない)。

 二俣は小野田が陸軍中野学校でスパイ(小野田の言葉では「秘密戦」)の教育を受けた地だった。二俣分校の跡地には記念碑が建っている。天竜川の河原を訪れて、小野田はダイナマイトで橋梁を爆破する訓練を受けたことなどを語る。

「今テロがほとんど爆薬でしょ。一番効果があるんだよね。今テロやってるあの連中がやってるようなことを教えたわけ。タチが悪いんですよね。秘密戦てのは本当にタチが悪い。だけど、負けられないからそういうことが始まるわけやね。勝ってたらやらないんですけどね。どこの国も苦しくなってくると使うんですよね。で、向こうも使うからこっちも使うようになっていくわけ。」

 二人は沖縄を訪れる。ルバングに赴任する前、小野田は3日間だけ沖縄で過ごした。すでに空襲に遭って、一面の焼け野原だったという。沖縄戦や、この地で米軍の占領地に特攻を敢行して命を落とした同期生のことを聞き、さらに無人島に渡って、ルバング島の生活について話す。乾いた竹とナイフだけを用いて火を熾す小野田。動作は敏捷そのものだ。

「ルバングに行って、はじめて人を殺さなきゃいけなくなった時、どうだったんですか」という石原の問いに、小野田は答える。
「だって自分が殺されるんだかから、人を殺すのがどうのこうのとは考えないよね」
「でも、胸の痛みとかって」
「必要のないところではそういう考え方もあるけど、ほんとうに向こうが銃を構えて入ってきたら、そんなこと考えてる間がないよね。早く向こうを殺さないと自分が殺されるから。簡単に言うようだけど、戦争になってしまったら仕様がない。外交で話し合いがつかないから戦争になってしまったんだから。もう戦争になってしまったら規則なんてないよね。そんなこと考えてると自分も殺されるもの。みんな自分が殺されるのが嫌だから、先に相手をやろうとかかるわけね。」

 番組を通して、石原は話が重くなるたびに、「そうか…」「はあーっ…」「そうなんだ…」と相槌を打つばかりで、小野田が微笑みをたたえて淡々と語る言葉のすさまじさに圧倒されていた。妙に判ったような感想を口にするのでもなく、反論するのでもなく、曖昧な笑みを浮かべたり受け流したりするのでもなく、石原は小野田を見つめて、ただただ圧倒され続けていた。
 人の話を聴く姿勢として、それは美しいものに感じられた。言葉の意味が判らない時には、ただ懸命に受け止め、心に刻んでおくしかない。そうすれば、いつか理解できる日が来るかも知れない。


 小野田が帰国した昭和49年、私は10歳の小学生だった。もちろん、小野田がなぜルバング島で生き続けたのか、本当の意味など判ってはいない。
 小野田寛郎という人物について目を啓かれたのは、数年前、彼自身の手による自伝『たった一人の30年戦争』(東京新聞出版局)を読んだ時だ。
 この本の冒頭に、帰国直後の彼が広島を訪れた場面が紹介されている。
 慰霊碑に刻まれた「あやまちはくりかえしません」という文言を見た小野田は、この文面を訝しく思う。
 「裏の意味があるのか?」
 二度と負けるような戦争はしないということなのか、という問いかけに、隣にいた戦友は、黙って首を振った。29年間戦い続けた小野田ひとりが置き去りにされていたのだということが如実に伝わってくるエピソードだ。

 東京オリンピック、大阪万博、高度成長。敗戦の焼け跡から復興し、人々が自信を持ち始めていた時期だった。戦争に敗れたことなど記憶から消してしまいたい、と無意識に感じていたのかも知れない。自衛隊の海外派遣など、首相が構想として口にした瞬間に政治生命を失う、そんな時期でもあったと思う。
 そこに小野田が戻ってきた。みんなが、死んだ人々のことも、殺した人々のことも、その原因を作った人々のことも忘れようとしていた時に、ひとり戦い続けてきた小野田が現れた。小野田が非難にさらされたのは、その後ろめたさを指摘されたような気分が引き起こす反射的な反応だったのかも知れない。

 帰国して強制的に入院させられ検査攻めにあっていた小野田は、田中角栄首相から贈られた見舞金100万円の使い道を問われて「靖国神社に奉納します」と答えたことで、激しい非難にさらされたという。戸井の本から引用する。

 「軍国主義に与する行為だ」という非難の手紙が山ほど送られ、政府から多額の補償金を内密に受け取っているから、そんな風に気前よく寄付できるのだなどという噂まで囁かれた。しかし実際は、政治家や善意の人々からの僅かな見舞金以外、小野田が手にした金などない。小野田は、日一日と日本が嫌いになってゆく。
ーー靖国神社の一件はショックでした?
「あれで、すっかり嫌になりました。僕は生きて帰ってきたんだから、これから働けばいいわけでしょ。でも、一緒に闘って死んだ人間が沢山いるんですよね。そういう人たちは誰も報われていない。お見舞金は、僕が働いて得たんじゃなくて同情で頂いたお金。だから、死んでも報われていない人たちの所へ持ってゆくのが一番いいと、単純にそう思ったんです。それを、軍国主義復活への荷担だのなんだのと言われたら、やっぱり、そんな人間たちと一緒にはいられない」

 今なら、小野田をもてはやし、担ぎ出そうとする人々も、批判者と同じくらいいるかも知れない。日本が小野田を置き去りに戦争を終えてからの30年、小野田が帰還してからの30年。それぞれの歳月は世の中を大きく変える。
『遅すぎた帰還』で鈴木紀夫を演じた堺雅人が、フジテレビの公式サイトで面白いことを言っている。
「“生乾きの歴史”をやっている難しさがあると思います。あまり配慮しながら作るとおもしろくなくなるから、そういうところからは自由でいたいのですが、戦後60年で、小野田さんが見つかってから30年というのは、まだ“生乾き”なんだなと思います。今の政治に簡単に利用されてしまいがちな話題でもあるので、作り手としては、すごく神経を使ってやるべきことなのかなと思います」http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2005/05-209.html

 生乾きではあるが、一応は乾いている。戦後40年でも50年でもなく、60年目の年に小野田がクローズアップされたのは、まさにこの乾き具合によるものだろうと思う。10年、20年前に、小野田をドラマ化してゴールデンタイムに放映することが可能だったかどうか。

 小野田は今も政治的発言を避けている。首相が靖国神社に参拝を続けていること、A級戦犯が彼の戦友たちと同じ場所に合祀されていることについて、彼が何かコメントしたという記憶はない。誰も問いはしないし、問われても答えないだろう。(注)
 戸井の本の中に、帰国直後の小野田の手記を代筆した人物が記した小野田の述懐(津田信『幻想の英雄ーー小野田少尉との三ヶ月』図書出版社)が引用されているので孫引きする。

「自分が手記の中で天皇に触れなかったのは、いまの自分が、自分の考えをしゃべったら、あちこちで問題になると思ったからです。(中略)だれかに禁じられていたためじゃない。一億のなかで、たった一人約束を守った自分が、命令を出した者の責任を追及したらどうなるか。」

 小野田は、そんな騒動にかかわりあうことが嫌になったのだと思う。今でも嫌だろう。そして我々もまた、そこまで小野田に甘えるべきではない。
 だから、小野田が現在の日本の政情をどう捉えているか、はっきりとはわからない。ただ、このような番組の企画に協力し、自分が体験したことを積極的に語り続けるという行為の中に、彼の考えが反映されているのだと思う。

 60年前の戦場を体験した人々は、次々に世を去っている。テレビや新聞や雑誌が「戦後70年特集」を組む時には、もはや実戦経験者の肉声を聞くことはほとんどないだろう。
 小野田たちの声に耳を傾けるには、今が最後のチャンスである。

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 2005年の更新はこれで最後にします。当blogを訪れてくださった大勢の方々に感謝します。来年が皆様にとってよい年でありますように。


(注)
週刊新潮2005/6/16号で、首相の靖国参拝について小野田さんがコメントしていると、しいたけさんからご指摘がありました。詳しくはコメント欄をご参照ください。(2006.1.4)

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嘘だと言ってよ、ヒデキ。

 1920年、「ブラックソックス事件」と呼ばれたMLBの八百長事件で、シカゴ・ホワイトソックスのスーパースター、“シューレス”ジョー・ジャクソンは、大陪審で八百長に加担したことを告白した後、建物の外にいた少年ファンに「Say it ain't so, Joe(嘘だと言ってよ、ジョー)」と言われたという伝説がある。

 事の重大さには、ずいぶんと差があるかも知れない(シューレス・ジョーはこの事件で永久追放になった。21世紀でこれになぞらえるならドーピング事件が相応しい)。このところの悲観的な報道から、覚悟もしていた。だいたい、私はもはや少年ではない。
 それでもやはり、今はこう言いたい気分だ。
 Say it ain't so, Hideki.
 残念だ。

 松井秀喜が第1回WBCへの出場を辞退したという。報道は、ニューヨーク・ヤンキースが選手のWBC出場を望んでいないこと、松井自身がWBCの正当性(真剣勝負の度合)を疑問視していること、3月に試合をすることに対し調整上の不安を抱えていること、などを理由に挙げている。
 二番目の理由については、以前さんざん議論したように、いびつで不完全な大会であっても(いや、そうであるからこそ)日本は出場して力を見せつける必要がある、と私は考えている。それが結局は、「真剣勝負」を実現するための道であろう、と。
 三番目の理由については、膝の古傷の具合など、松井本人にしかわからないこともあるだろう。あれほど長い間、すべての公式戦に出場し続けている選手が「出られない」というのなら、相応の重みをもって受け止めなければならないとは思う。

 最初の理由について、選手たちが球団からどのようなプレッシャーを受けているのかを具体的に知ることは難しい。ただ、WBC参加に合意したと発表されたリストにパナマのマリアノ・リベラの名はなく、リストに載っていたプエルトリコのホーヘイ・ポサダ、ドミニカ系米国人のアレックス・ロドリゲスはその後出場を辞退した(ポサダは球団の要請によることを明らかにしており、A-RODは「2つの祖国の一方を選ぶことはできない」という理由を挙げている)。
 ヤンキースはそもそもWBCの開催にも唯一の反対票を投じていたから、一貫しているといえばいえる。1億ドルを超える巨額のラグジュアリー・タックスを払っても戦力強化に突き進むスタインブレナーの執念には、畏敬の念さえ覚える。
 しかし、私はもはやこのチームを応援する気にはなれない。来年このチームが優勝したとしても、それは単なるMLBチャンピオンであって、もはやワールドチャンピオンと呼ぶことはできない。松井がそれをどれほど喜んだとしても、私が心から祝福できるかどうかはわからない。

 NPBは事態を調査し、MLBおよびヤンキースに抗議をすることを検討してもらいたい。プエルトリコやパナマなど、ヤンキースに代表候補選手が所属する諸国と協力し、連名で抗議するのが望ましい。どうせ「選手の意思に任せている」という公式答弁が返ってくるだけかも知れないが、たとえ結果を変えることはできなくとも、大会に非協力的だと見做されることが不利益を生む可能性があるのだと、スタインブレナーや他のオーナーたちに理解させる必要がある(彼らが我々を「市場」と見做している以上、意思を表明することにも多少の意義はあるはずだ)。
 あるいは、こういう言い方もできる。七十数年前、あなた方がベーブ・ルースを日本に派遣したことが、NPBが生まれるきっかけとなった。そんなヤンキースの善き伝統の産物を、あなたは今、踏みにじるのか、と。

 いずれにしても、この第1回大会で日本代表チームにできることはひとつしかない。ひたすら勝ち続け、スタインブレナーにも無視できないような力を全米の視聴者に見せつけること。それが、戦いの場に彼らを引っ張り出し、大会を「真の世界一決定戦」にするための、現時点では唯一の方法だろう。
 ヤンキースがワールドチャンピオンを名乗るのを恥ずかしく思うような戦いを期待する(もちろんヤンキースが優勝する保証はない。選手を提供するMLBの他チームも、こんなチームには負けたくないに違いない)。

 そして松井には、何らかの形で、自らの言葉で決断を語ってくれることを望んでいる。

追記1
 松井選手は、球団広報を通じて「ヤンキースの一員としての仕事と日本代表としての仕事を両立するのがベストなのは分かっている。しかし、二つの目標を追うことで、ヤンキースでワールドチャンピオンになるんだという大きな夢がおろそかになることが怖かった。私なりに迷い、悩み、その結果、ご返事が遅れてしまい、チームを編成される王貞治監督(ソフトバンク)ならびにファンの皆様に大変なご迷惑をお掛けしてしまったことを心より反省しております」とのコメントを発表した。
2005年12月27日13時57分 読売新聞から)

 これを読んでしまうと、私が書いたヤンキース批判やNPBへの要望はいささかピント外れに思えてくるが、あえてそのまま残しておく。いずれにしてもスタインブレナーがWBCに非協力的であることに変わりはないし、松井は認めないだろうが、彼の決断にそれがまったく影響していないとは考えにくい。

追記2
 WBC公式サイトの日本語ページに、こんな記述がある(12/9付の記事)。
「WBCでは1月17日までに60人の参加者一覧を提出しなければならない。参加者名が提出された時点で、全選手はオリンピックの基準でもあるドラッグテストを受けることになっている。万一このテストで陽性反応が出た場合、その選手は向こう2年間追放され、国際競技に参加することができなくなる。ドラッグテストはMLBと選手会の間で合意された新しいテスト方式を使うとオルザ常務理事は発表している。今回のドラッグテストで陽性反応が出た選手はMLBから来シーズン罰則を受けることになる。」
 陽性が出たら2年間の出場停止という措置は、現行のMLBの規定よりもはるかに厳しい。エントリの冒頭に、はからずも「なぞらえるならドーピング事件が相応しい」と書いたが、この規定が存在するがためにWBC出場を回避する選手も、MLBにはいるかも知れない。
(念のため書いておくが、私は松井その人に関しては薬物使用の可能性があるとは思わない。ユニホーム姿でも私服でも日本時代と体格に変化はなく、ホームラン数は減っている。疑う理由はない)

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高木徹『戦争広告代理店』講談社<旧刊再訪>

 『オシムの言葉』を紹介したエントリにいただいたコメントの中で、ひげいとうさんが本書について言及していた。2年前に読んだ時に書き留めておいた感想があったのを思い出したので、ご紹介かたがたアップしておく。正式なタイトルは『ドキュメント 戦争広告代理店 〜情報操作とボスニア紛争〜』(刊行は2002年6月)。
        *********************
 90年代のバルカン半島での民族紛争において、西側世界が、セルビアを悪役、ボスニア・ヘルツェゴビナ(のムスリム)を被害者と認定し、セルビアへの制裁に傾いていった背景には、ボスニア・ヘルツェゴビナに雇われたアメリカのPR会社の周到かつ緻密な戦略があったのだという。本書は、このルーダー・フィン社の幹部ジム・ハーフを主人公に、関係当事者たちへの徹底したインタビューによって、当時のルーダー・フィン社の活動内容を明らかにしていく。驚愕の書、と言ってよい。
 アメリカの大統領府、議会、メディアの三者に対し、豊富な人脈と緻密な戦略・戦術によって「民族浄化ethnic cleansing」「強制収容所concentration camp」というキーワードを浸透させ、意思決定者たちの考えと世論を誘導していくハーフの手腕は見事というほかはない。「PR会社とは何か」と問われたら、この本は絶好のテキストとなるだろう。

 昔から戦争というものは情報戦を含むものであったし、現代の国際紛争が国際世論(とりわけアメリカの世論)を味方につけた者が優位に立つということも、多くの例が示している。デービッド・ハルバースタムの『静かなる戦争』も、バルカン半島での紛争についての国際世論の流れを丹念に追い、国際社会が紛争に介入する上で、世論が決定的な要因であることを浮き彫りにしている。その意味では、現代の戦争にPR会社が介入するのは必然的な流れなのかも知れない。
 本書によれば、欧米社会において「民族浄化ethnic cleansing」という言葉はナチスドイツのユダヤ人迫害を、「強制収容所concentration camp」という言葉は同じくナチスドイツのガス室を、それぞれ強く連想させる力があるという。このレッテルを貼られてしまったら、誰も擁護することができない。そういう性質の言葉だ。

 セルビアを擁護しようとは思わない。さまざまな「人道に対する罪」を犯してきたことは間違いないのだろうと思う。だが、ハーフが「民族浄化」と名付けた行為はセルビアだけでなく、クロアチアやボスニアのムスリムも(セルビア人に対して)行なっていたし、捕虜収容施設はあったが、虐殺を目的とした施設の存在は確認されていない、と著者は書く。にもかかわらず、ハーフがセルビアに貼り付けたレッテルは、すさまじい威力を発揮して国際世論の動向を決定づけた。

 本書で最も恐るべき記述は「邪魔者の除去」と題した第12章かも知れない。ハーフたちが「強制収容所」というキーワードを見いだして、ボスニアに西側世界のメディアの注目を集め始めた時期に、国連軍司令官から帰国したカナダの将軍が「強制収容所があったかどうかは知らない」と発言した。これを知ったハーフは、この将軍の存在を自らのミッションに対する障害と考え、カナダ政府や各国メディアに働きかけて将軍批判の世論を作りだして、退役に追い込んでしまうのである。
 事実の追及よりも勝利が優先されるという点でも、彼らがやっていたことは戦争そのものだ。もっとも、PR会社の仕事とは、常にそういうものなのかも知れないが。

 内容そのものは別として、本書は「ノンフィクション」という書籍のジャンルにおける、大いなる問題提起にもなっている。著者の高木徹はNHKのディレクター。本書は2000年10月に放映されたNHKスペシャル『民族浄化』のために行なった取材に基づく、いわばテレビ番組の副産物だ。
 本書は「第1回新潮ドキュメント賞」「第24回講談社ノンフィクション賞」を受賞している。大宅壮一賞でも最終選考まで残った。文藝春秋誌上で大宅賞の選評を読んだ記憶があるが、選考委員のうちの何人かが、予算も人員もケタ違いに大きいテレビ番組の取材によって作られた本を1人のルポライターが取材して書いた本と同じ土俵で審査するのではルポライターにとってあまりに分が悪い、と指摘していた。まして、この場合は「みなさまのNHK」が、税金のようにして集めた受信料によって作った番組なのである。その取材によって得た情報をもとに書いた本を、NHKとは何の資本関係もない講談社から刊行するというのは、道義的にもいかがなものか。活字業界の一員である私は、こういう排除的な論理に、感情としては同調する面もある。

 しかし一方で、私はその番組を見ておらず、本書によって初めて番組の存在を知った。本書が書かれなければ、ここに書かれた事柄を知ることはなかっただろう。実際のところ、本書を手に取って読む以前から、書評その他によって、おおまかな内容は知っていた。テレビ番組の視聴者の数は書籍よりも圧倒的に多いが、波及効果という点では、書籍の力は決して小さくはない。
 テレビ番組は、放映時にそれを見なかった人間に対して影響力をほとんど持たないし、時間が経てば影響力は急速に減じる。書籍の影響力は持続的であり、その本自体が残るだけでなく、他者による引用や言及や批評を通じても伝わっていく。
 従って、本書が書かれたことは、私にとっても世の中にとっても意義がある。しかし同時に、このような生まれ方をした本は、ノンフィクションを生業とするライターの生活を確実に圧迫する。ジレンマは深い。同種のジレンマは、今後ますます深くなるはずだ。

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氷上に咲く「時分の花」。

 女子フィギュアスケートの浅田真央がグランプリファイナルで優勝した途端に、「真央ちゃんをトリノに出させろ」という声が強まっているようだ。今朝、出張先のホテルで見たワイドショーのひとつでも、司会の小倉某はもとより、居並ぶコメント芸人たちも軒並み「年齢制限なんておかしい」という考えのようだった。ネット界でも、テクノラティでちょっと検索をかけると、小倉某らと同じ意見がぞろぞろと出てくる。

 グランプリファイナルで優勝したということは現時点で世界一の力があるわけだから、2か月後のオリンピックでも金メダルを争う力はあると考えられる。その選手が出場できないのは残念だと私も思う。上記「とくダネ」でも、浅田のコーチである山田女史が「ルールはルール。でも、今の状態を4年後まで維持するのは難しい。体重も増えて体も丸くなるし」という話をしていた。最高の状態にある時に最高の舞台に送り出したい、というのも人情ではある。

 一方で浅田の、あの、まるで体重がないかのように軽やかなジャンプや柔軟な回転は、成長過程にある少女の身体に特有の能力である可能性が強い(山田コーチの上記のコメントは、はからずもその可能性を強く示唆している)。成長期を過ぎて大人の体になってしまったら、ああいう跳び方は難しくなる。
 つまり、グランプリファイナルは「子供の体」の浅田と、「大人の体」のほかの選手たちが、同じ採点基準で戦っていた、ということになる。そして、「子供の体」が勝利した。

 おそらく女子フィギュアスケートという競技においては、10代半ばの少女が、成長過程にある体の優位を最大限に生かして演技すれば、大人の選手たちは太刀打ちできない(少なくとも現在の採点基準においては)。それは、このところのオリンピックの結果を見ても明らかだ。
 96年のリレハンメルは16歳のオクサナ・バイウル。98年の長野は15歳のタラ・リピンスキー。2002年のソルトレークは16歳のサラ・ヒューズ。本命と目されていたお姉さんたちは、常に敗れ続けてきた。

 国際スケート連盟は、オリンピックに年齢制限を設ける理由を、医学的見地によるものとしている。「若い選手の心身を過度のプレッシャーから守るため」というわけだ。若く有望な選手が早々に金メダルを手にプロ転向してしまうのを阻止するという商業的な理由もあるのでは、という観測も聞こえてくる。
 私はスケート連盟の内情など何も知らないが、もし年齢制限のないまま低年齢化が進んでいけば、女子フィギュアスケートという競技は、いずれは体重の軽い少女が曲芸のようにジャンプと回転を競う、味も素っ気もない競技になってしまうのだろうな、と思う(浅田真央がそうだと言っているのではない。念のため)。

 浅田を特例として認めれば、今後グランプリファイナルを制した選手には、五輪への出場を認めないわけにはいかなくなる。年齢制限は事実上骨抜きにされる。
 女子フィギュアでも新体操でも過去に何度もあったように、ベテランの情感あふれる演技が若い身体能力の前に敗れるという傾向が、今後さらに加速されるだろう。そうなれば、日本でいえば村主章枝のような、しっとりとした表現力を特徴とするタイプの選手は、今後は絶滅に向かうことになる。9年前に年齢制限を設けた時にも、きっと大きな抵抗があっただろうと思う。そうやって作ったルールを骨抜きにしてしまえば、引き返すことはさらに難しくなる。

 そう考えると、浅田真央をトリノ五輪に送り込むという選択は、女子フィギュアスケートという競技の進む方向を左右しかねない問題をはらんでいる。

 世阿弥の『風姿花伝』に「時分の花」という言葉が出てくる。年代ごとの能の稽古指針について記した「年来稽古條々」の「十二、三より」という項で、この年代の少年は美しい声と姿をもつが、「さりながら、この花は、誠の花には非ず。ただ時分の花なり。」と世阿弥は説く。いずれ失われる「時分の花」でなく、「誠の花」を得るための修行が必要、ということになる。

 女子フィギュアスケートにおいて、成長過程の少女の演技が世阿弥の言うような「時分の花」なのであれば、それを「誠の花」に優るナンバーワンと認めてしまうことが、果たしてフィギュアスケートという競技の将来にとって、よいことなのかどうか。世阿弥の回答ははっきりしている。

 「だから真央ちゃん、4年後に『誠の花』を目指しなさい」、などと言えるほど、私はフィギュアスケートを知らない。だが、年齢制限が存在する理由のひとつには、そういう意図があるのではないかと想像している。少なくとも日本の女子フィギュア界という当事者の間では、ルールを守る、という公式見解は共有されている。
 その上でなお、部外者がメディア上で「真央ちゃんをトリノへ」と主張するのであれば、素人の私がここに記した程度のことを踏まえた上で発言してもらいたいと思っている。


追記(2005.12.20)
 上記の本文を書いてアップしたのが19(月)の夕方。今は20(火)の夜。出張から戻って新聞各紙に目を通して驚愕した。朝日新聞が社説で「浅田真央さん トリノで見たい 」と主張している。
 ISUの年齢制限については、「あまりに幼いころから激しい練習をさせる行き過ぎを抑えるためには、何らかの歯止めは必要だろう。」と一応の理解を示した上で、以下のように批判する。(社説へのリンクは一週間で切れるので、関係箇所を長めに引用しておく)

「真央さんの前に立ちふさがっているのは、国際スケート連盟が96年に決めた年齢制限の規定だ。五輪前年の7月1日の前日までに15歳になっていない選手は出場を禁じられた。9月生まれの真央さんは3カ月足りない。

 難しい技を幼いころから練習しつづけると、からだに無理がかかり、悪影響が出る。そうした医学的な見地から、年齢制限が導入された。

 同様の年齢制限は体操にもある。曲芸のような危険な技を追求する中で、トップの選手がどんどん若くなったからだ。

 フィギュアや体操では、成長しきっていない10代半ばの方がからだが柔らかく、大人よりも大技を習得しやすい、といわれる。あまりに幼いころから激しい練習をさせる行き過ぎを抑えるためには、何らかの歯止めは必要だろう。

 しかし、フィギュアの年齢制限はわかりにくい。15歳の制限を適用しているのは五輪と世界選手権だけだ。今回のグランプリのような国際大会は「五輪などに比べて重圧は小さい」として、15歳の制限を外している。

 これでは国際連盟がどこまで「医学的な見地」を重視しているのか疑わしい。

 年齢制限をつくった当初は、大きな大会でメダルを取った選手には、期限までに15歳に満たなくても例外として五輪や世界選手権への出場を認めていた。その特例をやめたのは、五輪などで優勝した10代半ばの選手がプロのアイスショーへ転向したからだ。

 フィギュアは欧米で巨額の興行となる冬の人気競技だ。若い有力な選手をできるだけ長く抱えたい。年齢制限には、そんな国際連盟の思惑と打算も見える。」

 で、結論は「しかし、真央さんを外した争いでは、トリノの優勝者は真の世界一とはいえなくなる。日本の連盟はすでに持つ3人の枠に加え、真央さんの出場を特例として認めるよう世界に働きかけたらどうか。 」「次回といわず、トリノで華麗な演技を見たい。そう思う人は多いはずだ。 」とくる。

 繰り返すが、朝日はISUの年齢制限を次のように批判する。

「フィギュアの年齢制限はわかりにくい。」
「国際連盟がどこまで「医学的な見地」を重視しているのか疑わしい。 」
「若い有力な選手をできるだけ長く抱えたい。年齢制限には、そんな国際連盟の思惑と打算も見える。」

 そうかもしれない。では、それが年齢制限を撤廃する理由になるのか? 私にはそうは思えない。
 15歳というラインが合理性を欠くのであれば、どこに分岐点を設ければよいのか? ここには示されていない。何らかの歯止めが必要、とこの社説にも書いてあるが、どういう歯止めなら合理的なのかに言及しようとはしない。
 浅田の特例を認めることが、年齢制限の骨抜きになりかねないことは、上に記した通りだ。代案を示すことなく浅田をトリノに出場させろと主張する朝日新聞の論説は、単に「ISUは年齢制限を撤廃しろ」と言っているに等しい。
 その主張に、何かフィギュアスケートに対する理念があるのだろうか。
 この社説からは、「トリノで華麗な演技を見たい」という単なる欲望以上のものは何ひとつ感じられない。この新聞は、このところ、未成熟な少女に対する過度の執着や欲望を警戒するような主張を続けてきたのではなかったか(ほかの新聞も同じだけれど)。

 朝日は同じ紙面の一面コラム「天声人語」でも、浅田をトリノに出せと言いたげな文章を掲載している(毎日新聞の一面コラム「余録」も、それに近い)。なぜそこまで浅田に固執するのか。中学校や高校の国語の先生は、今でも学生に「天声人語を読め」などと推奨しているのだろうか。もしそうなら、やめた方がいいと思う。

追記2(2005.12.20)
トラックバックをくださった「iFinder 雑読乱文」さんのエントリは、タイトル通り、問題をよく整理されていて参考になる。また、その中で紹介されている「稲見純也のスポーツコラム」内の「五輪のフィギュアスケートに年齢制限があるのは、ナンセンスである?」 も一読されたし。

追記3(2005.12.22)
2ちゃんねるのまとめサイトらしい「浅田真央は何故トリノ・オリンピックに出られないのか?」や「ニワカにもわかるフィギュア騒動@浅田選手の五輪出場反対派の言い分・作成中」(現在は「〜@浅田選手の五輪出場特例嘆願反対派の言い分・〜」に変更。そりゃそうですな)が、年齢制限の詳細やフィギュアスケート界の背景などを網羅して論じている。冷静かつ明快な文章で、日本スケート連盟が特例を申請した場合に生ずるであろうリスクについても詳しく論じられており、ほぼ議論が尽くされている感さえある(週刊文春が持ち出した「広告に出している選手を落とすわけにはいかない」というような生臭い推論は別だが)。
あと、『風姿花伝』の引用を原点で確認の上、修正。

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早熟の選手・遅咲きの指導者〜仰木彬氏を悼む。

 夜中に帰宅してテレビをつけたら、仰木彬氏が亡くなったという。ついこないだまで監督をしてたじゃないか。動揺しながら、これを書いている。
 現時点で死因は明らかにされていないが、もともと体調を崩して現場を退いていた人だ。2つの古巣の窮地を見かねて戻ってきたことが、結果的には寿命を縮めてしまったのかも知れない。それが本望であったのかどうかは、本人にしかわからないことだ。

 彼が指導者として脚光を浴びたのは、近鉄の監督に就任してすぐに西武と激しく優勝を争い、川崎球場でのロッテとのダブルヘッダー第2試合で時間切れ引き分けに終わったことで優勝を逃した88年からだと思う。彼が53歳の時だった。翌年には優勝を果たし、さらに95、96年とオリックスを連覇させ、日本一を掴んだことで、名声を不動のものとする。

 選手としては、東筑高校を卒業して西鉄ライオンズ入りした1954(昭和29)年、新人でいきなり101試合に出場、250打数で.216、5本塁打の成績を残している。翌30年にはレギュラーになっていたから、下積みというものがない。チームもルーキーイヤーに初優勝。昭和31年からは3年続けて日本シリーズでジャイアンツを破って日本一に輝く。史上最高を謡われたチームの主力選手のひとりだった。

 プロ入り10年目の昭和38年ごろから徐々に出場試合数が減り、41年から兼任コーチ、42年を最後に引退。翌43年には中西太プレーイングマネジャーのもとでコーチを勤めている。この時、弱冠33歳。
 そして、45年には近鉄のコーチに移る。西鉄入団時の恩師である三原脩監督に招かれたのだろう。
 35歳で近鉄入りしてから、実に18年もの間、仰木は近鉄のコーチを勤めていた。この間、監督は三原から岩本尭、西本幸雄、関口清治、岡本伊三美と移り変わり、仰木自身も二軍に回った時期もあるが、同じ球団の中でずっとコーチを務めてきた。
 指導者として、少なくとも普通の野球ファンから注目されるような存在ではなかった。栄光の西鉄黄金時代の一員として現役時代のエピソードが語られることはあっても、コーチとしての手腕が話題になることなど皆無だったといってよい。
 だから、監督になった途端にさまざまな奇策を繰り出し、選手の力を引き出して成績を向上させたことは、大いなるサプライズだった。仰木が名監督と呼ばれるようになった後、西本幸雄が仰木のことを問われて、びっくりした、自分の下でコーチをしていた時からは想像もつかない、という意味のコメントをしたのを読んだ記憶がある。

 35歳から53歳。普通の職業人にとっては働き盛り、結果を出すことにもっとも集中するような時期に、仰木は近鉄のコーチの座に“潜伏”し、脚光を浴びることはなかった。
 その間、仰木が何をしていたのかは、今となっては誰にもわからない。ただ、監督としての彼が見せた、類いまれな「人を見る能力」は、きっと数多くの選手や監督を観察し続けた18年間で、大きく成長したに違いない。将来の保証など何もなかったであろう状況下で、彼が指導者としての自分を鍛え上げた18年間を思うことは、凡庸な勤め人に過ぎない我が身にも、いくばくかの勇気を与えてくれる。

 監督としての仰木は、野茂とイチローという希有な才能を開花させ、吉井、長谷川、田口ら後にメジャーリーガーとなる選手たちを育て、数々の面白い試合を見せてくれた。フルスイングで打ちまくる「いてまえ打線」の近鉄と、日替わり打線で得点をもぎとり、小刻みな継投で逃げ切るオリックス、まったくタイプの異なるチームでそれぞれ優勝を勝ち取ったことも特筆に値する(自分の得意な型でしか勝負できない監督は少なくない)。
 1989年秋、西武ライオンズとのダブルヘッダーで、ブライアントが2試合にまたがる本塁打4連発で西武を粉砕し、優勝を確実なものとした試合は、私にとって、野球におけるもっともおそるべき試合の記憶として刻み込まれている。
 彼が見せてくれたもの、残してくれたもののすべてに感謝しつつ、合掌。ご冥福を祈ると同時に、藤村甲子園の愛唱歌を彼に捧げたい。

 俺が死んだら 三途の川でよ
 鬼を集めてよ 野球する ダンチョネ


※12/16 1:53amにアップ。翌朝、若干の加筆訂正をしました。

追記(2005.12.28)
週刊ベースボール1.9/16号「豊田泰光の『オレが許さん!』」に、仰木のコーチ時代について印象深いエピソードが紹介されているので、やや長くなるが引用する。
「オレは仰木がいよいよ表に出てきたな、と思ったのは、80年の広島-近鉄日本シリーズでした。第3戦(大阪)、例によってシリーズに弱い西本監督に疑問手が出た。近鉄の先発・村田辰美が5回まで2安打1失点の力投、2対1で近鉄がリード。ところが、5回裏、一死三塁のチャンスが来ると村田の打席で代打を送ろうとしたのです。(中略)オレは西本さんの焦りを感じた。
 その時ですよ。三塁コーチの仰木が脱兎のごとく駆け出して西本監督にところに行き『代えるんですか!点が入らんかったらどうするんですか!』とスタンドのオレにも聞こえるような声で詰め寄った。」
 結局この仰木の諌言は容れられず、代打の阿部は凡退して無得点。近鉄は逆転負けし、最終的にシリーズも落とした。豊田は「そろそろやれる時期かな。西本さんからバトンを渡されるのは仰木だろう」と思ったと書いているが、実際に仰木が近鉄の監督になったのは88年を待たねばならなかった。
 豊田はこのコラムの中で、オリックスが仰木をGMにしなかったのは大学を出ていないせいだ、野球界には学歴差別がまかりとおっている、と指摘している。「だれとは言わんけど大学出(あえて卒とは言いません)というだけで、何となく球界を泳ぎ回り、いつの間にか球団の中枢に住みつく、という人は結構います」とか。そういう目で考えたことはなかったので、そのうち調べてみようかと思う。

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甲州街道ダービーですか…。

 Jリーグ入れ替え戦は2試合とも出張と重なってしまったので、駆けつけるどころか、まだテレビ中継さえ見ていない。
 今日のアウェー戦が行われた時間帯には、新幹線に乗っていた。携帯で速報サイトを開くたびに、甲府の得点が等比級数的に増えていく。しかも得点者はバレー、バレー、バレー…。イエローカードも、何か間違ってるんじゃないかと思うくらい大勢の名前が書いてある。荒れた試合になっているようだ。増え続ける得点を見ながら、こりゃあホントに甲府がJ1に来るのか、と妙に動揺した。感慨深いというより、まるで実感が湧いてこない。
 小瀬スポーツ公園にサッカーを見に行ったことが、一度だけある。立て看板に記されたスポンサーの数がケタ違いに多くて、まるで地元の神社の祭りの境内に町内会で集めた寄付者の名前がずらりと並んでいるような光景だったのが印象に残っている。広く薄く支援を集めてどうにかやってきた、というわけだ。ほんの数年前には解散寸前だったクラブが、よくもまあ…。

 プロフィール欄にもちょっと書いたが、好きなクラブを聞かれれば「J1でFC東京、J2で甲府」と答えてきた。その両チームが来年は同じリーグで戦うことになる。青赤ダービー、いや甲州街道ダービーか。ううむ。

 ともかくヴァンフォーレ甲府の皆さん、おめでとう。藤田や倉貫をJ1の舞台で見られるのは楽しみだ。バレーは来年もいてくれるんだろうな。


追記)(2005.12.11)
 入れ替え戦の2試合をJSportsの録画中継で見た。
 2試合を通じて、甲府の選手はコマネズミのようによく走り、セカンドボールを拾いまくる。柏の選手がキープしたボールが少しでも身体から離れると猛々しく食らいついて奪い取り、相手ゴールを目指す。
 選手の体格は甲府の方が明らかに小さい。第2戦に先発したフィールドプレーヤーのうち、ブラジル人の2人を除けば、180センチを超えているのは奈須ひとり。長谷川、藤田、杉山の3人が170を下回る。それでも一対一の局面で甲府は負けていない。獣のように素早く相手に寄せながら、チャンスと見るや3人4人と猛然とゴール前に駆け込んでいく。172センチ、61キロの倉貫の身体のどこにあれほどの体力が備わっているのだろう。6-1という大量得点はバレーの個人技に負う面もあるにせよ、チーム全体が誇るに足る試合をした。甲府というチームをまったく知らない人が見ても惹き付けられるだけの迫力が、この2試合にはあったと思う。
 一方の柏。私は近年、柏の試合をろくに見たことがないけれど、出場している日本人選手のほぼ全員に見覚えがある。生え抜きの南、永田、大野、平山、矢沢、矢野は、それぞれの年代の日本代表に選ばれ、多くはワールドユースに主力選手として出場し、フル代表に呼ばれた選手もいる(入れ替え戦に出場していない中沢もだ)。だが、明神と(故障欠場の)玉田を除けば、みな日の丸はその時限りで、以後は代表に縁がない。古くは酒井あたりもそうだった。まだ20代前半の選手にこういう言い方は酷かも知れないが、これほど誰も彼もが伸び悩んでいるのは異様な光景だ。東京ヴェルディもそうだが、選手個々の能力は高いはずのチームが、進むべき方角を見失って迷走していくのを見るのは切ない。

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WBC日本代表が抱える、いくつかの課題。

 WBC日本代表のメンバーが発表された。顔触れを眺めて、思ったことを2,3記しておく。

1)主将は誰になるのか
 アテネ五輪の予選と本大会で日本代表を率いたヤクルトの宮本が今回のメンバーには入っていない。宮本がもっとも頼りにしていたらしい高橋由伸もいない。
 準備期間の短い寄せ集め集団をチームとして機能させるためには、それなりの求心力が必要になるのではないかと思う。五輪予選で宮本がどんな役割を果たしたかについては、1年ほど前に「宮本慎也という至宝。」というエントリに記した。さて、その役割をこのチームでは誰が果たすことになるのだろう。
 アテネ五輪の時と異なるのは、MLBに在籍する選手が何名か入ってくることだ。メンバーの中でMLBでのキャリアがもっとも長いのはイチローで、すでに日本を離れて5年経つ。西岡、今江、青木といった選手たちがプロ入りした時には、すでに彼は海の向こうの人だった。このように互いに一面識もないであろう組み合わせがいくつか生ずるというのは、融和を困難にする可能性がある。シドニー五輪の男子サッカー代表で、23歳以下の選手たちに、セリエAで活躍する中田英寿が加わった時には、キャプテンの宮本が仲介役を務めていたと聞く。このチームでも誰かがそういう役割をする必要があるかも知れない。全体に若いチームで、イチローより年上の選手があまりいないのも気になる。
 ふさわしいのは和田一浩あたりだろうか。うまくやってくれることを期待している。

2)控えの専門家がいない
 投手陣は先発・中継ぎ・抑えと、左右のバランスも考慮して選ばれたように見える(球威が武器の投手が多いような印象はあるが)。だが、野手陣はどうだろう。タイプとしては長距離砲もいればスピードスターもいる。スタメン9人はバランスよく組めるだろう。
 気になるのはベンチだ。選ばれた選手はみなチームで主力ばかり。途中から試合に出て、状況に応じた働きをすることに慣れている選手が、あまりいない。日常的に複数の守備位置をこなしているのは、ベストナインとゴールデングラブを別のポジションで獲得した西岡くらいだろうか。
 複数の守備位置を無難にこなし、代打に出ればバントや右打ちもできるし、チャンスには勝負強く、走塁も巧み。引退したジャイアンツの元木のような「控えのプロフェッショナル」とでもいうべき選手が1人くらいベンチにいた方がよいのではないかという印象を受ける。なんとなく若手が控えになりそうな顔触れだが、その選手がいるだけでチーム全体が引き締まるようなベテランがベンチに座っていると、チームの生態系が安定するし、試合の形勢がよくない状況下でも、雰囲気を盛り上げることができるのではないかと思う。
 だが、この選考には、そういう観点はなさそうだ。
 フィリップ・トルシエの語法を借りれば、「試合を始める選手」は十二分にそろっているが、「試合を終える選手」については、よく見えてこない。

3)正捕手を誰にするのか
 城島という絶対的なスターが、MLBへの移籍と重なってしまったために選抜されなかった。里崎、谷繁、阿部という3人を、王監督はどう使うのだろう。誰かをレギュラーとして使うのか、投手との相性等から使い分けるのか。判断できるほどの材料を私は持たないが、一般論としてはレギュラーは固定した方がよいのではないかと思う。里崎は試合に出ないことに慣れているし、谷繁は五輪予選で城島のバックアップを献身的にこなした。どちらになっても大きな問題はないとは思うが、監督としてはもっとも難しい部分ではないだろうか。


 選手個々の力量では、世界レベルで一流の選手ばかりだと思う。問題は、その力量をきちんと発揮できるかどうか。課題として3点挙げたけれど、結局はどれも「この集団をいかにしてチームにするか」ということに尽きる。
 王監督とコーチ陣が、そういう面をうまくやってくれるよう祈っている。あと、松井秀喜がさっさと参加を決めることを。打力だけでなく、松井がいることでチームが落ち着いてくるような気がする。


*出張先のネットカフェでそそくさと書いているので、帰京後に修正する可能性があります。あしからず。

…と書いたので、せっかくだから追補しておく(笑)。
 2)のところで「複数の守備位置を無難にこなし、代打に出ればバントや右打ちもできるし、チャンスには勝負強く、走塁も巧み」と書いたものの、そんな重宝な選手が実際にいるものだろうか、と考えているうちに、外野については理想的な選手に思い当たった。田口壮だ。しかも彼は、おそらくは遠慮せずにイチローにモノが言えるであろう先輩格でもある(昔は試合前にレフトとライトの定位置でキャッチボールした仲だ)。こういう選手がベンチにいるチームは強い、はず。(2005.12.10)

で、内野は川相。このクラスになれば、歳も国際経験も問題ではない。(2005.12.14)

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木村元彦『オシムの言葉』(集英社インターナショナル)

 『オシムの言葉』を読み終えてから、改めて同じ著者の『悪者見参  ユーゴスラビアサッカー戦記』(集英社)を開いた。文庫版の巻末には「ユーゴスラビアとプーラヴィ(ユーゴ代表)をめぐる年表」がついている。
 イビツァ・オシム(本稿では、木村が『オシムの言葉』で用いた表記に準ずることにする)がユーゴスラビア代表監督を務めた86年から92年までの記述から、いくつかの項目を抜き出してみる。いささか長くなるが、ざっと眺めていただければよい(太字はサッカー関連事項)。


1984 欧州選手権出場、3連敗。ロサンゼルス五輪出場、銅メダル。
1987.10 ボバン、シューケル、ヤルニ、プロシネチキを擁するユーゴ代表がチリで行われたワールドユースで優勝
1988   ベオグラードでコソボのセルビア人の人権を主張する100万人デモ「コソボのセルビア人を守れ」が行われる。
1989  セルビア、共和国憲法を修正し、コソボ自治州の裁判権、警察権を奪う。これに対し、コソボのアルバニア人たちが抗議デモ。
1990.5.10 クロアチアで自由選挙。民族主義政党の「クロアチア民主同盟」が勝利。ツジマンが大統領に就任。
1990.5.13 クロアチアのマクシミル・スタジアムでセルビア人警官とディナモ・ザグレブのサポーターが衝突、暴動事件に。ボバンは警官に暴力を振るったかどでW杯出場禁止処分。
1990.6 ワールドカップ・イタリア大会、ユーゴ代表準々決勝でアルゼンチンにPK敗。
1990.10 クロアチア代表、初の国際試合。
1991.5.1 ボロボ・セロでクロアチア警官隊とセルビア人が衝突、ブコバル戦が開始される。
1991.6.25 スロベニア、クロアチア両共和国議会独立宣言採択。
1991.6-7 スロベニア、ユーゴ連邦軍紛争。同時に92年1月までクロアチア、ユーゴ連邦軍紛争。ボスニアでもクロアチア、セルビア、ムスリムによる抗争が拡大。
1991.9.18 マケドニア共和国議会、独立宣言採択。
1991.11 ユーゴ代表、欧州選手権を通算成績7勝1敗で予選突破、翌年開催の本大会出場を決める。
1991.12 EC(現EU)、マケドニアの独立承認。ドイツは単独でスロベニア、クロアチアの独立承認。
1992.1.15 EC、スロベニア、クロアチアの独立承認。
1992.3.3 ボスニア・ヘルツェゴビナ独立宣言。
1992.3.7 ボスニア内戦激化。
1992.4.27 (新)ユーゴスラビア連邦共和国(セルビア、モンテネグロ両共和国及び2自治州からなる)樹立。
1992.5 スロベニア、クロアチアが国連加盟。
1992.5.30 国連、新ユーゴスラビアに制裁措置を採択。
1992.5.31 UEFA、新ユーゴスラビアの欧州選手権の出場権剥奪。ストイコビッチ主将率いるユーゴ代表はストックホルムより強制帰国。以降国際試合への出場を禁止される。


 いくつも出てくる地名が何が何やら、という方のために簡単に説明しておくと、ユーゴスラビアは第二次大戦後にバルカン半島に作られた連合国家で、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアの6共和国と、コソボ、ボイボディナの2自治州から成っていた。中心的な役割にあったセルビアに対して、80年代後半から各共和国が反発を強めて武力衝突に至り、モンテネグロを除く共和国がユーゴスラビアから離脱していった(2003年には国名をセルビア・モンテネグロに改称)。昨日まで仲良く暮らしていた隣人同士が、民族の違いというだけの理由で憎みあい、殺し合う惨劇が、各地で起こった。


 サッカーの観点から見ると、この年表からわかることが2つある。
 ひとつは、90年代はユーゴスラビア・サッカーにとって黄金時代になるはずだったということだ。
 ワールドカップ出場経験のないプロ選手の参加が認められた84年のロサンゼルス五輪で銅メダル、87年のワールドユースでU-20が優勝。60年代なかばのユーゴスラビアに生まれた世代には、後に欧州のビッグクラブで大活躍する偉大な才能がひしめいていた。彼らが育ち、20代半ばを迎えて、いよいよ最高の時代を築こうというまさにその時に、彼らの祖国は内部から崩壊していく。歴史の皮肉というには、あまりにも無残な現実である。
 ストイコビッチがスペイン相手に鮮やかな2ゴールを決め、アルゼンチン戦ではマラドーナと互角に渡り合った90年ワールドカップの直前には、スタジアムでの暴動でボバン(後にクロアチア代表主将)が出場停止になっている。彼らが世界の舞台に鮮やかに躍り出た時には、すでに崩壊の兆しが起こっていた。

 もうひとつは、国が崩壊していく渦中にあっても、代表チームは試合を続け、しかも勝っていたということだ。
 イタリア大会以後の2年間、武力衝突が相次ぎ、各共和国が連邦から次々と離脱していく状況の中で、ユーゴスラビア代表チームは欧州選手権の予選を勝ち進み、本大会に駒を進めている。
 これは驚くべきことだ。それぞれの民族や共和国から集まった選手たちの間には深い葛藤があったはずだ。もちろん、招集を拒否する選手も続出した。
 たとえば他国から武力攻撃を受けている国の代表チームなら、物理的環境は最低でも、チームの結束とモチベーションは高まるだろう。しかし、この時期のユーゴ代表は、最大の敵がチーム内にいた。さらに、それぞれの共和国からやってくる選手の背後にいるメディアが、「なぜ○○人を使わない!」と書き立て、民族主義を煽り立てる(オシムがメディアに語る言葉に気を遣うのは、この時期の経験によるものだと木村は考えている)。すべてはマイナス材料でしかない。
 試合をすることさえ容易でない状況の中で、チームをひとつに結束させ、勝利する。オシムがどうやってそんなことをやってのけたのか、想像もつかない。
 それはサッカーの指導力などという次元のことではなく、人間としてのあらゆる力に秀でた人物にしかなしえない仕事に違いない(ユーゴスラビアを憎んで離れた国のサッカー関係者からも、オシムだけは今も尊敬を受けている、と木村は本書に書いている)。

 欧州選手権への切符を手にしたオシムに、さらに過酷な試練が襲いかかる。92年4月、オシムの母国であるボスニアがセルビア人勢力に侵攻され、彼の自宅があるサラエボが包囲されてしまった。オシム自身は代表と兼任でパルチザン・ベオグラードの監督をしており、セルビアの首都ベオグラードに住んでいた。自宅には妻と娘がいたが、サラエボに入ることも出ることも許されない。電話局が破壊されてからは安否を確かめることもできなくなった(結局、オシムが妻子に再会できたのは2年半後だった)。
 彼が指揮していたパルチザン・ベオグラードは、まさにサラエボを包囲するセルビア軍のチームだ。並の人間なら発狂しそうな状況の下で、オシムは自らの仕事を全うする。5月21日、パルチザン・ベオグラードをユーゴカップ優勝に導いた直後に、パルチザンと代表の監督をともに辞任して、身を引き裂くような状況に終止符を打つ。
「辞任は、私がサラエボのためにできる唯一のこと」と彼は語った。
 木村は、取材に訪れたサラエボで、ある人物の口からこのオシムの言葉を聞く。銃口を向けられた街で孤立無援に暮らす人々に、彼の言葉がどう届いたか。我々はまさにボスニアの至宝を預かっているのだということを、改めて感じる場面である。


 本書はもちろんジェフにおけるオシムの仕事ぶりも丁寧に紹介しているし、彼の生い立ちから各国で指導した選手たちの声、ジェフの選手たちの内面や、日本で通訳を務める間瀬秀一のサイドストーリーを含めて、豊富な取材をバランスよく、読みやすく記している。これを読めば、改めてオシム語録の背後にある深みを感じ取ることができるはずだ。ユーゴスラビアの歴史に詳しくなくても、読む上では何の不都合もない。

 とはいうものの、やはりこれは、ストイコビッチを通してバルカン半島の現代史に深く分け入った木村元彦の手によって、はじめて書くことができた本だと思う。
 木村自身も書いているように、ユーゴスラビアサッカーの現代史をテーマにする以上、イビツァ・オシムはいずれ会ってじっくりと話を聞かなければならない人物だったはずだ。その本人が向こうから日本にやってきたのだから、書き手としてこれ以上の幸運はない。そして、ジェフのサッカーを味わい、今、本書を手にしている日本のサッカーファンにとっても。

 セルビア人のドラガン・ストイコビッチと、ボスニア人のイビツァ・オシム。バルカン半島が生んだ世界のフットボールの偉人たちが、母国の諍いに傷ついた後にこの国にやってきて、穏やかな時間を楽しみつつ、立派な仕事をしていってくれたことを、日本人として嬉しく思う。

 上述の『悪者見参』の年表には、96年のキリンカップにユーゴ代表が来日し、翌97年の同大会にはクロアチア代表が来日したと記されている。
 当時、紛争の元凶とレッテルを貼られたユーゴ(セルビア)は欧米諸国から忌み嫌われ、国際大会の出場停止処分が解けた後も、なかなか親善試合の相手をしてくれる国がいなかった。そんな時期にユーゴとクロアチアを相次いで招くような国は、日本くらいしかなかっただろうと思う。
 遠方ゆえの無知、外交音痴ゆえの中立と言われればそうかも知れない。だが、日本がそんな国だからこそ、ピクシーもオシムも、ひととき祖国の現実を忘れて穏やかに過ごすことができる。その貴重さ、ありがたみを、我々はもっと大切に思っていい。

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2005年12月3日午後に考えたあれこれ。

 私が見ていたのはNHK総合のセレッソ大阪-FC東京戦の中継。会社で仕事しながら、ちらちらと。

●セレッソ大阪2-2FC東京
 日本将棋連盟の会長である米長邦雄永世棋聖が、よく著書に書いている。
 勝負の世界に生きていると、「自分にとっては勝っても負けても大した違いはないが、相手にとっては命運を分ける一番」というものを経験することがある。この時、相手に同情心を起こして手心を加えるようなことを、決してしてはならない。そんなことをしたら勝利の女神から見放される。勝負師は、そういう一番にこそ、何が何でも勝たなければいけないのだ、と。
 我が東京に勝利の女神のご加護あらんことを。

 西澤は、この大一番でよく2得点したと思う。ただし、1点目も2点目も、西澤とセレッソ選手たちの手放しの喜びっぷりを見るたびに、「おい、まだ試合は終わってないだろ」という危うさを感じたのも確かだ(今これを書くのは、結果論ではあるけれど)。
 ベンチで試合終了を迎えた森島の無表情に、バイエルン・ミュンヘンが似た惨劇に遭った時のマテウスの姿が重なる。

●川崎2-4ガンバ大阪
 しかし、2000年ファーストステージ最終戦でセレッソを失意のどん底に突き落とした川崎Fは、その後、自身もJ2に降格して苦労する羽目になった。米さんも案外アテにならないのか。だからといってこの日の川崎が、ガンバに対して手を抜いたとは思わないけれど。
 NHKの中継で試合後のインタビューを見た。宮本の泣き顔が、個人的には今日のハイライト。監督より選手のインタビューの方がずっと含蓄があるというのはいかがなものかとも思うが(笑)。
 今年のMVPは誰になるのか。得点王アラウージョが大本命だろうけれど、こういう年には宮本が選ばれてもいいんじゃないだろうか。数字だけを追うのならディフェンダーは永遠にノーチャンスだし、そもそも選考委員なんか必要ない。

●鹿島4-0柏 ●新潟0-4浦和 ●千葉2-1名古屋
 他球場の経過が表示されるたびに、鹿島と浦和の得点が増えていく。得失点差で首位セレッソに優る両チームは、セレッソと勝ち点で並びさえすれば上に立てる。得点を重ねることだけが希望をつなぐ。そんな心情が、変化する数字から感じられる。鹿島の4点目は本田。浦和の4点目は山田。両ベテランの思い。

●京都1-2甲府 ●福岡1-1仙台
 こちらはネット速報が頼り。なんとまあ甲府が入れ替え戦出場だ。果たして俺は駆けつけることができるのだろうかと自分のスケジュールとチケット発売日を慌てて確かめる。


 J1が久しぶりに採用した1シーズン制には、壮絶なクライマックスが待っていた。リーグ戦後半を快調に飛ばしてきたガンバの失速とセレッソの浮上は、長期シーズンの醍醐味だったと思う(混戦そのものは去年までも何度かあったけれど)。チャンピオンシップはなくなったけれど、終盤の緊張した試合の連続は、それを補って余りある(テレビ中継が少ないのが難点だが)。もはや歴史が後戻りすることはなさそうだ。

 個人的には、来年の今頃は、贔屓チームが優勝を争うスタンドにいたいものだが。

 最後に、もうひとつ。
●磐田1-0神戸
 磐田・山本監督のシーズン総括
「年間を通しては、改革の道半ばだが、いろいろな新しい選手に来てもらって、今までの固まったジュビロのスタイルというのを一度壊して、新しいものを、世界で戦えるような基礎作りを考えていた。その部分に関しては、新しい芽も出てきて、壊して均した中からまた新しいものが見えつつあるので、そのへんをさらに来年伸ばしていきたいと思っている。今シーズンの反省は、データ的にもいろいろ出てきているので、これからじっくりと健闘して、来期につなげていくことになる。」
 この時期まで来れば、こう言うしかないのだろうし、前向きで結構だとも言えるけれど、あれだけの大型補強をしておいて、こういう総括でいいんだろうかなあ。シーズン前の予想に限りなく近いような気が。まあ、今年は3年計画の初年度だそうだから、それでいいのかも知れませんが。
(なぜ私はいつもこんなに山本監督に冷淡なのだろう。我ながら不思議なのだが、彼の発言には、いつもどことなく引っかかる何ががある)

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松本ヘッドコーチの謎。

 楽天イーグルスの野村克也監督就任とともに、新しいコーチ陣も発表された。
 この中で奇異に感じられるのは、ヘッドコーチ松本匡史の名だ。

 松本は80年代に活躍したジャイアンツの俊足外野手だった。77年に早大から入団、当初は右打ちの二塁手だったが、後にスイッチヒッターに転向、主としてセンターを守り、82年、83年には連続盗塁王。青い手袋を愛用していたことから、メディアには「青い稲妻」と形容されていた(今の若い人はSMAPの歌のタイトルとしか思わないかも知れないが)。83年の76盗塁はいまだにセのシーズン最多記録として残っている。

 87年限りで現役を引退してからの経歴も、ずっとジャイアンツ一筋だった。現役時代の彼を一番センターに抜擢した藤田元司監督が復帰した89年に一軍守備走塁コーチに就任。91年には一〜三軍巡回コーチ、92年からは二軍の守備走塁コーチとなり、95年から97年にかけては二軍監督も務めている。98年にスカウト転出、2001年に二軍守備走塁コーチに復帰したが、翌年から再びスカウト。

 この間、ジャイアンツで緒方耕一が90年と93年に盗塁王になったのは、走塁コーチとしての実績と呼べるのかも知れない。ただし、緒方以外に90年代のジャイアンツの二軍がスピードスターを輩出したとは言い難い(ただし、その時期のジャイアンツがチーム方針として走塁を重視していたとは思えないので、それが担当コーチの手腕を反映しているかどうかは簡単には言えないが)。
 数か月前の「野球小僧」に各球団のスカウトのインタビューを載せた号があり、ジャイアンツからは松本が登場していたが、これといって感心した記述はない。獲得した選手として紹介されていたのは佐藤宏だったか、ともかく成功したとは言えない選手だった。

 要するに、指導者としてもスカウトとしても目立った実績はなく、これといった評判も聞こえず、野村自身との接点も見当たらない松本に、どうして楽天から、しかもヘッドコーチという要職で声がかかったのか。私には想像がつかない(これが守備走塁コーチくらいなら、まだわかるのだが)。松本自身の入団会見における一問一答が楽天公式サイトにアップされているが、ここでも当たり障りのない談話に終始している。

 夕刊フジは「米田球団代表と楠城編成部長が松本スカウトと同じ早大出身で、学閥人事だとみられている」とあっさり片づけているが、契約前にあれほど細々と人事に注文をつけていた野村が、そんな情実人事を認めるだろうか。にわかに信じがたい。
 もしこれが本当だとしたら、穏やかでおとなしそうな松本が、ベンチの中で野村にいびられまくったあげくに、低迷の責任をとって(野村の身代わりに)シーズン途中に二軍に回される、というような悲惨な運命が待っているのではないか。いささか心配だ。
 ま、松本自身が私なんぞの知見を越えた指導能力を発揮して、失礼な心配を杞憂にしてくれれば、それでいいのだが。

 選手としての松本の印象を付け加えておくと、私はルーキーイヤーの彼が好きだった。
 序盤の阪神戦だったか、1点ビハインドの二死一塁から代走に起用され、二盗に成功。代打・山本功児のタイムリーで生還するという鮮やかな場面が印象に残っている。その他にも、代走で起用されたら、その後で打線が爆発、打者一巡して回ってきた打席で満塁本塁打を打ったこともあったし、9回に勝ち越しホームランを打った試合もあった。負けている場面で代走で盗塁を試みたことは他にもあって、失敗して二死無走者になってから四球をはさんで高田が逆転サヨナラ本塁打を打ったこともあった。
 とにかく、出場試合はそう多くないのに、やたらに劇的な場面に顔を出していた(長嶋監督がそういう場面に松本を好んで使ったせいでもあるのだが)。
 スイッチヒッターに転向してからは、バットを短く持ってゴロを打つバッティングに終始する、スケールの小さい選手に変わった。レギュラーをとって活躍はしたものの、初期の彼の、何をしでかすかわからない面白さは、すっかり失われてしまったのが残念だった。

 ところで、この夕刊フジの記事を見て改めて気づいたのだが、楽天のGM代行だった広野功の名が出てこない。調べてみたら、シーズン終了後に辞任していた。選手がひとりもいない、文字通りのゼロから選手を集め、まがりなりにも1シーズンの公式戦をこなせるだけのチームを作り上げた実質的な責任者だったのが広野だ。その人物がわずか1年でチームを去っていく。改めて楽天イーグルスの組織としての脆弱さを感じる(もしかすると、楽天そのものよりも、野村監督と一緒にやりたくない個人的理由でもあるのかも知れないが)。


追記(2006.1.26)
スカウト時代の松本のインタビューが掲載されていたのは「野球小僧」ではなく、別冊宝島1231『プロ野球選手のドラフト伝説』だった。感想は上述の通り。獲得した選手は、正しくは「佐藤宏志」。

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