小野田少尉の戦後31年。
彼が29年間の潜伏生活を終えてフィリピンのルバング島から帰国した昭和49年(1974)を別にすれば、小野田寛郎の姿がこれほど繰り返しテレビに登場した年は記憶にない。
NHKは戸井十月を聞き手に長時間のインタビュー番組『ハイビジョン特集ー生き抜く 小野田寛郎』を作り、戸井によって本(『小野田寛郎の終わらない戦い』新潮社)にもなった。フジテレビはルバング島での戦いを中村獅童を主演に『実録・小野田少尉 遅すぎた帰還』でドラマ化した。
そして戦後60周年も押し詰まった12月末、『おじいちゃん、本当のことを聞かせて』がTBSで放映された(製作は毎日放送)。19歳の女優・石原さとみが小野田の過ごした地をともに歩きながら戦争の話を聞くという趣旨の番組だ。
「小野田さんに会って戦争の話を聞く」という企画をもちかけられ、当時の記者会見の映像を見た石原は、「知らなかった…」と絶句する。彼女は小野田の名前も経歴も何ひとつ知らなかったという。これを読む人の中にも知らない方が多いかも知れないので、彼の一通りの経歴を記しておく。ご存知の方は飛ばしてください。
小野田は大正11年(1922)、和歌山に生まれ、昭和14年(1939)に旧制中学を卒業して貿易商社に就職、中国に渡る。なかなか裕福な暮らしで、派手に遊んでいたらしい。昭和19年(1944年)1月に入隊、同年9月から陸軍中野学校二俣分校でスパイ教育を受け、12月にフィリピン戦線に送り込まれた。すでに日本軍は敗色濃厚という状況で、小野田はルバング島での残置諜者の命を受ける。その土地が敵軍の手に渡った後も山中に潜伏して敵軍を撹乱し、日本軍の反攻を助ける役割だ。
1945年8月に日本が降伏を表明し、9月に米国を中心とする連合国軍に占領された後も、小野田は2人の部下とともにルバングの山中にとどまり、米軍基地を攻撃しながら潜伏する。家族の呼びかけや敗戦を伝えるビラ等、小野田たちを帰還させようという働きかけは何度も行われたが、小野田は敵の策略として信じなかった(ビラに記された家族の名が間違っていた等、不幸なミスが重なったのも一因だった)。潜伏生活の中で2人の部下は命を落とし、ひとりきりになっても小野田は戦い続けた。昭和49年、鈴木紀夫という若者が彼を探しに山中に入り、小野田と遭遇した後、小野田に命を下した元上官を同行して命令を解除したことで、ようやく小野田は山を降りる。
帰国から約1年後、小野田はブラジルに渡って牧場を開拓、昭和59年(1984)からは日本に「小野田自然塾」を設立して子供たちの教育にも取り組んでいる。
この仕事を受けることにした石原は、スタッフとともに電車に乗り、静岡県浜松市に向かう。
天竜浜名湖鉄道・二俣本町駅。ひなびた駅のホームに降り立った石原は、無人の改札の向こう側に立つ人影を見て、階段を駆け降りる(いい娘だ)。小野田が迎えに来ていたのだった。
83歳になる小野田の立ち姿の美しさに、まず感嘆する。あのように、すっと真っすぐに立つことのできる日本人は、めっきり少なくなった(私自身、あのような立ち方はなかなかできずにいる)。前述のNHKの番組で帰国当時の小野田が皇居を訪れる映像を見て、歩き方やお辞儀の美しさに感銘を受けたが、それから30年以上経った今も、小野田の立ち姿は変わらない。背筋を伸ばし、石原の先に立って、すっ、すっと歩き、河原の砂利道では水たまりをひょいと飛び越える(この場面、ここだけ撮影アングルが変わっているので、スタッフがわざわざ頼んで歩き直してもらったのかも知れない。もちろん、そうだとしても小野田の身軽さに嘘はない)。
二俣は小野田が陸軍中野学校でスパイ(小野田の言葉では「秘密戦」)の教育を受けた地だった。二俣分校の跡地には記念碑が建っている。天竜川の河原を訪れて、小野田はダイナマイトで橋梁を爆破する訓練を受けたことなどを語る。
「今テロがほとんど爆薬でしょ。一番効果があるんだよね。今テロやってるあの連中がやってるようなことを教えたわけ。タチが悪いんですよね。秘密戦てのは本当にタチが悪い。だけど、負けられないからそういうことが始まるわけやね。勝ってたらやらないんですけどね。どこの国も苦しくなってくると使うんですよね。で、向こうも使うからこっちも使うようになっていくわけ。」
二人は沖縄を訪れる。ルバングに赴任する前、小野田は3日間だけ沖縄で過ごした。すでに空襲に遭って、一面の焼け野原だったという。沖縄戦や、この地で米軍の占領地に特攻を敢行して命を落とした同期生のことを聞き、さらに無人島に渡って、ルバング島の生活について話す。乾いた竹とナイフだけを用いて火を熾す小野田。動作は敏捷そのものだ。
「ルバングに行って、はじめて人を殺さなきゃいけなくなった時、どうだったんですか」という石原の問いに、小野田は答える。
「だって自分が殺されるんだかから、人を殺すのがどうのこうのとは考えないよね」
「でも、胸の痛みとかって」
「必要のないところではそういう考え方もあるけど、ほんとうに向こうが銃を構えて入ってきたら、そんなこと考えてる間がないよね。早く向こうを殺さないと自分が殺されるから。簡単に言うようだけど、戦争になってしまったら仕様がない。外交で話し合いがつかないから戦争になってしまったんだから。もう戦争になってしまったら規則なんてないよね。そんなこと考えてると自分も殺されるもの。みんな自分が殺されるのが嫌だから、先に相手をやろうとかかるわけね。」
番組を通して、石原は話が重くなるたびに、「そうか…」「はあーっ…」「そうなんだ…」と相槌を打つばかりで、小野田が微笑みをたたえて淡々と語る言葉のすさまじさに圧倒されていた。妙に判ったような感想を口にするのでもなく、反論するのでもなく、曖昧な笑みを浮かべたり受け流したりするのでもなく、石原は小野田を見つめて、ただただ圧倒され続けていた。
人の話を聴く姿勢として、それは美しいものに感じられた。言葉の意味が判らない時には、ただ懸命に受け止め、心に刻んでおくしかない。そうすれば、いつか理解できる日が来るかも知れない。
小野田が帰国した昭和49年、私は10歳の小学生だった。もちろん、小野田がなぜルバング島で生き続けたのか、本当の意味など判ってはいない。
小野田寛郎という人物について目を啓かれたのは、数年前、彼自身の手による自伝『たった一人の30年戦争』(東京新聞出版局)を読んだ時だ。
この本の冒頭に、帰国直後の彼が広島を訪れた場面が紹介されている。
慰霊碑に刻まれた「あやまちはくりかえしません」という文言を見た小野田は、この文面を訝しく思う。
「裏の意味があるのか?」
二度と負けるような戦争はしないということなのか、という問いかけに、隣にいた戦友は、黙って首を振った。29年間戦い続けた小野田ひとりが置き去りにされていたのだということが如実に伝わってくるエピソードだ。
東京オリンピック、大阪万博、高度成長。敗戦の焼け跡から復興し、人々が自信を持ち始めていた時期だった。戦争に敗れたことなど記憶から消してしまいたい、と無意識に感じていたのかも知れない。自衛隊の海外派遣など、首相が構想として口にした瞬間に政治生命を失う、そんな時期でもあったと思う。
そこに小野田が戻ってきた。みんなが、死んだ人々のことも、殺した人々のことも、その原因を作った人々のことも忘れようとしていた時に、ひとり戦い続けてきた小野田が現れた。小野田が非難にさらされたのは、その後ろめたさを指摘されたような気分が引き起こす反射的な反応だったのかも知れない。
帰国して強制的に入院させられ検査攻めにあっていた小野田は、田中角栄首相から贈られた見舞金100万円の使い道を問われて「靖国神社に奉納します」と答えたことで、激しい非難にさらされたという。戸井の本から引用する。
「軍国主義に与する行為だ」という非難の手紙が山ほど送られ、政府から多額の補償金を内密に受け取っているから、そんな風に気前よく寄付できるのだなどという噂まで囁かれた。しかし実際は、政治家や善意の人々からの僅かな見舞金以外、小野田が手にした金などない。小野田は、日一日と日本が嫌いになってゆく。
ーー靖国神社の一件はショックでした?
「あれで、すっかり嫌になりました。僕は生きて帰ってきたんだから、これから働けばいいわけでしょ。でも、一緒に闘って死んだ人間が沢山いるんですよね。そういう人たちは誰も報われていない。お見舞金は、僕が働いて得たんじゃなくて同情で頂いたお金。だから、死んでも報われていない人たちの所へ持ってゆくのが一番いいと、単純にそう思ったんです。それを、軍国主義復活への荷担だのなんだのと言われたら、やっぱり、そんな人間たちと一緒にはいられない」
今なら、小野田をもてはやし、担ぎ出そうとする人々も、批判者と同じくらいいるかも知れない。日本が小野田を置き去りに戦争を終えてからの30年、小野田が帰還してからの30年。それぞれの歳月は世の中を大きく変える。
『遅すぎた帰還』で鈴木紀夫を演じた堺雅人が、フジテレビの公式サイトで面白いことを言っている。
「“生乾きの歴史”をやっている難しさがあると思います。あまり配慮しながら作るとおもしろくなくなるから、そういうところからは自由でいたいのですが、戦後60年で、小野田さんが見つかってから30年というのは、まだ“生乾き”なんだなと思います。今の政治に簡単に利用されてしまいがちな話題でもあるので、作り手としては、すごく神経を使ってやるべきことなのかなと思います」http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2005/05-209.html
生乾きではあるが、一応は乾いている。戦後40年でも50年でもなく、60年目の年に小野田がクローズアップされたのは、まさにこの乾き具合によるものだろうと思う。10年、20年前に、小野田をドラマ化してゴールデンタイムに放映することが可能だったかどうか。
小野田は今も政治的発言を避けている。首相が靖国神社に参拝を続けていること、A級戦犯が彼の戦友たちと同じ場所に合祀されていることについて、彼が何かコメントしたという記憶はない。誰も問いはしないし、問われても答えないだろう。(注)
戸井の本の中に、帰国直後の小野田の手記を代筆した人物が記した小野田の述懐(津田信『幻想の英雄ーー小野田少尉との三ヶ月』図書出版社)が引用されているので孫引きする。
「自分が手記の中で天皇に触れなかったのは、いまの自分が、自分の考えをしゃべったら、あちこちで問題になると思ったからです。(中略)だれかに禁じられていたためじゃない。一億のなかで、たった一人約束を守った自分が、命令を出した者の責任を追及したらどうなるか。」
小野田は、そんな騒動にかかわりあうことが嫌になったのだと思う。今でも嫌だろう。そして我々もまた、そこまで小野田に甘えるべきではない。
だから、小野田が現在の日本の政情をどう捉えているか、はっきりとはわからない。ただ、このような番組の企画に協力し、自分が体験したことを積極的に語り続けるという行為の中に、彼の考えが反映されているのだと思う。
60年前の戦場を体験した人々は、次々に世を去っている。テレビや新聞や雑誌が「戦後70年特集」を組む時には、もはや実戦経験者の肉声を聞くことはほとんどないだろう。
小野田たちの声に耳を傾けるには、今が最後のチャンスである。
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2005年の更新はこれで最後にします。当blogを訪れてくださった大勢の方々に感謝します。来年が皆様にとってよい年でありますように。
(注)
週刊新潮2005/6/16号で、首相の靖国参拝について小野田さんがコメントしていると、しいたけさんからご指摘がありました。詳しくはコメント欄をご参照ください。(2006.1.4)
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