« 2006年1月 | トップページ | 2006年3月 »

2006年2月

梅田香子・今川知子『フィギュアスケートの魔力』文春新書

 つい2日前までフィギュアファンの良心の防空壕のようだったFalse Startでさえ既にWBC話に移っているというのに、なぜ半可通の私がいまだにフィギュアスケートにかかずりあっているのかという気もするが(笑)、これは半可通なるがゆえの落とし前とお考えいただきたい。

 本書の刊行は一昨年の晩秋。シカゴ在住のスポーツライター梅田香子は野球とNBAの人だと思っていたので、彼女がフィギュアの本を書いたと知っても、さほど食指が動かなかった。
 ところが、わりと最近、彼女の日記「梅田香子ジャーナル」で知ったのだが、梅田の娘がフィギュアスケートを習っていて、コーチは元五輪メダリストだったりする(別にわざわざそういう人のスクールを選んだわけではなくて、公営の安いスクールに通ってみたら、そのレベルのコーチがごろごろいたのだという)。おまけに、彼の指導を受けにシカゴを訪れた村主章枝をホームステイさせていたこともあるのだという。
 つまり彼女は期せずしてフィギュア界の人になってしまったわけで、そういうことなら話は別だ。本書の存在を思い出し、さっそく入手して読んでみたのが今日のこと。感想? トリノ五輪の前に読んでおけばよかった(笑)。

 共著者の今川知子は、95年の全日本選手権で4位になった元選手。このシーズン限りでプロに転向してアイスショーに出演、2002年に引退してコーチとライターをしている。
 つまり、2人の著者の1人はアメリカの選手育成システムを当事者として体験している最中で、もう1人は日本の育成システムの中で育った元選手(野辺山合宿はもっと後のことだけれど)。
 だから本書は、日米両国のフィギュアスケート界が置かれている環境については、かなり詳しい。日本のリンクが相次いで閉鎖し、五輪代表クラスでも一般のスケーターに混ざって練習しなければならないような現状についても、すでに書かれている。

 主な内容は、フィギュアの歴史、日本の主な女子選手の紹介、今川自身の個人史による選手の日常とアイスショーの実際、過去20年ほどの主な女子選手の紹介など。これ1冊を読めばフィギュアに関して一通りのことはわかるようになっている。巻末には用語集もついており、ジャンプの種類も分解写真つきで説明されている。
 日本選手についての記述は、04-05シーズン序盤に書かれたものだから、古いといえば古いのだが、今川の選手・コーチとしての目を通しているだけに、選手の技術的な特性についての記述には説得力があり、それぞれの育成環境についても丁寧に記されている。
 今だからこそ興味深い部分もあって、例えば荒川静香が今シーズン途中から指導を仰いだモロゾフは、世界選手権を勝ち取った時期にも振付けを依頼していたので、本書では結構詳しく紹介されている。普通の振付師は曲に合わせて技の構成を決めるが、モロゾフは先に演技を組み立てて、それに合わせて曲をカットするのだという。だから選手は曲に合わせて動きやすい。
 「トゥーランドット」に乗せたトリノでの荒川の演技の背後にも、そんな振付けの妙があったのだろう。

 わずか260ページの薄い本だが、これ以外にも、なるほどと思うちょっとした知識がちりばめられている。
・アメリカでは有名大学に入るには成績がよいだけではダメで他に突出したものが必要なため、フィギュアスケートを含むスポーツ教育に力を入れる親が多いということ(入学後に奨学金を得る上でも有利らしい)。
・2001年のミッシェル・クワンの年収が5億円を超えるらしいこと。
・伊藤みどりは今もアメリカのスケート界で非常に尊敬されていること。
・トリプルアクセルのような困難な技は負担が大きく、練習では故障の危険性をはらみ、プログラム全体のバランスを崩すおそれもあるので、安定して好成績を出せる選手の場合、コーチが挑戦を避ける傾向があること(当然ながら4回転についても同じことが言えるのだろう)。  …etc.

 というわけで、本書を読めば、女子フィギュアスケート界についての視界が一気に開けてくる。今だからこそ腑に落ちることも多いはず。私と同程度の半可通の方には、ご一読をお勧めする。
(新しい採点基準についての記述がないのが残念だが、そちらについては八木沼純子が最近書いた本に載っているらしい)

| | コメント (4) | トラックバック (0)

クール・ビューティーの威厳。

 荒川静香の演技が終わった時、テレビ中継の場内音は波打っていた。総立ちの観客の声の大きさが、音声スタッフが想定したレベルを超えていたのかも知れない。

 フィギュアスケート女子シングル、フリー。ひとつ前のグループで、上位をねらう位置につけていた安藤美姫、エミリー・ヒューズらが転倒し、地元のカロリーナ・コストナーも失敗。最終グループでも先頭のエレーネ・ゲデワニシビリが大きなミスを犯す。さらには、2日前のショートプログラムであれほど完璧だったサーシャ・コーエンまでが転倒した。
 首位に立っていたコーエンの脱落で、続く選手たちのチャンスがにわかに膨らむ。こういう時はかえって他の選手も動揺する。ミスの連鎖が起こることも珍しくない。

 しかし荒川は、滑り始めてまもなく、自らのやわらかな演技で、場内のどよめきを鎮めていった。音楽を味わいながら、ひとつひとつの動きを丁寧に、スケーティングそれ自体を慈しむようにして、4分間のプログラムを仕上げていった。昨シーズンまでの荒川のスケートにはあまり感じたことのない何かが、そこに降臨していたように見えた。それは私の勝手な思い込みかも知れないが、スタンディングオベーションをした観衆も、たぶん同じ「何か」を感じていたはずだ。

 深刻な表情で氷の上に立った最終滑走のイリーナ・スルツカヤが、めったに見せない転倒をした時、金メダルの行方は決した(解説の佐藤有香は、その前から、コンビネーションジャンプを2回飛ばしたと伝えていた)。
 表彰式後のインタビューで、荒川は「いまだに信じられません。メダルが取れるとは思ってなくて、自分の演技ができればいいと思っていたので」と話した。インタビュアーには「コーエンが転倒した時どう思いましたか」と質問してもらいたかったのだが、訊いたとしてもたぶん荒川は、何とも思わなかったと答えたのではないかと思う。だからこそ、コーエンとスルツカヤに取り憑いた魔物が、荒川だけは避けて通った。

 ショートプログラムの日、民放での中継だかワイドショーだかで、客席から娘の演技を見守る荒川の両親の姿を見た。父親はスーツにネクタイ、グレーのダスターコート姿。会社帰りに駆けつけたとでもいうような服装だ(まさか本当にトリノに出張でもあったのだろうか)。演技を見る姿やテレビカメラへのコメントも、ごくあっさりと控え目で、淡々としている。テレビごときにうろたえたり舞い上がったりしてはいない。
 なるほど、この両親から、あの、いつも他人事のように淡々と語る娘が生まれたのだな、と妙に納得できるものがあった。荒川のそういう雰囲気が私は好きだった。と同時に、そういう人がオリンピックで一度だけ感情を露わにする姿も、見てみたい気がしていた。

 だが、スルツカヤの得点が表示されて金メダルに決まった時、興奮していたのはむしろ周囲の人々で、荒川自身は涼しげな笑顔で結果と祝福を受け止めていた。表彰台の中央では、穏やかに君が代を口ずさんでいた。
 俗人の下世話な期待などあっさり裏切って、王女(@False Start)は最後の最後まで威厳を崩さなかった。もちろん、そんな態度こそ、彼女にふさわしい。

 これで彼女は以前から志望していたというプロに転向するのだろうか。ショーで滑る荒川を一度だけ会場で見たことがある。巧いとは思ったが、これといって胸に迫るものはなかった。きっと、次に見る時には違うのではないかと思う。

追記)(2006.2.25、随時加筆)
 TBSのフリー中継に映った父親は、今日もスーツにネクタイ。この大会と娘への敬意の表現なのかも知れない。滑り終えた時、父親は目を赤くしながら手を叩き、母親は両手で顏を覆っていた。やはり、静かな祝福だった。ある新聞で母親が父親について「ホテルに帰ったら泣くと思います」と話した、と書いていた。古くて正しい日本人男性の姿だ。
 競技終了後、TBSのスタジオに現れた荒川は、SP3位という結果に何を思ったかと問われて、こう答えた。
「もしかしてメダルに手が届くのかなとちょっと思い始めたんですけど、やっぱり、そう思ってしまうと力んでしまうので、思い直して、もう今回は思い通りに滑ることとベストを尽くすことだけを考えなきゃいけないというふうに切り替えて、メダルのことはあまり考えずにフリーに臨めたのが良かったかな、と思います」
 そう考えたからといって、実行するのは容易ではない。
 夜のニュースで見たのだが、荒川は自分の出番が来るまで、大きなヘッドホンで音楽を聴くことで場内の歓声をシャットアウトしていた。他の選手の演技も見ていなかったという。コーエンの転倒については、感想どころか、自分の演技を終えるまで知らなかったのかも知れない。
 「勝利の秘密は」と問われて「無欲」と答えた荒川。ノーマークの若手が無欲ゆえに思わぬ好成績を挙げて勝利する、ということはある。だが、客観的にも頂点を狙えるだけの実力者が、あえて欲を捨て、自分の演技に集中したことに、荒川の「無欲」の重みがある。

| | コメント (14) | トラックバック (0)

普通の人の、普通の人による、普通の人のための競技。

 カーリングは、一度だけ講習会に参加したことがある。経験というほどのものではない。ちょっと触ってみました、というところだ。
 ストーンを投げられるようになるまでに、何度も転んだ。つい手の力でストーンを投げようとしてしまうのだが、投げる瞬間に力を入れると、石は重くて急には動かず、こちらの足元は不安定なので、すぐにバランスを崩す。作用-反作用の法則とはこのことか、と数十年ぶりに納得した。
 スターティングブロック(正式名称は忘れたが)を蹴って身体ごと前進し、あるタイミングでストーンを摘んでいた手を離すと、すーっと身体から離れていく。と同時に、ゆるやかな回転をかけながら、30メートルくらい先の数センチを狙う。この繊細で精密な競技を、粗雑で集中力のない私が2時間以上も戦い続けることは、到底無理だろうと痛感した。

 トリノ五輪でのカーリングは、日本にとっては救いだったと思う。リーグ戦を9試合も戦うので、最終的な順位はともかく、何試合かは勝つ。勝った日はとりあえず喜べる。なにしろここまで他の競技では喜べる局面がひとつもなかったのだから。

 競技終了後、例によって今朝のテレビ番組に選手たちが揃って出演した。
 日本のスタジオにずらりと並べられた、一面に自分たちの写真が載った新聞を見せられて、スキップ小野寺歩が、ぽかんとしていた表情が印象的だった。
 さらに印象的だったのは、ソルトレーク五輪のスキップだった女性からのメッセージを伝えられ、感想を求められた林弓枝の発言の中に、「私たちも後戻りできないし」という言葉があったことだ。口調は穏やかだったが、お疲れさまモードのスタジオの空気にそぐわないほどの、強い言葉だった。

 映画にもなった常呂町のチーム「シムソンズ」で出場した2002年ソルトレーク五輪の後、小野寺と林は青森に移り、シムソンズは解散している。現在27歳の2人は青森市文化スポーツ振興公社の職員だ。
 詳しい事情は知らないが、おそらく2003年に地元開催した冬季アジア大会を睨んで青森市がカーリングに力を入れ始め、2人をスカウトしたということなのだろう。
 チームを離れ、他県に移るには葛藤もあったことだろう。年齢的には20年先でも現役でいられる競技だけれど、別のテレビ局で「バンクーバーは」と聞かれて、2人からはとっさに言葉が出てこなかった。もしかすると、今後について本人たちの意思では決まらない面も大きいのかも知れない。(注1)
 林の「後戻りできない」という言葉の中には、いろんなものを断ち切り、この大会だけに賭けてきた思いが込められているような気がした。
 そんな不安定な競技環境の中で、どう見ても50歳前後の大ベテランがスキップを務める強豪国に立ち向かったのだ。よく頑張ったと思う。

 カーリングの専用リンクは、北海道のほかは青森と長野くらいにしかない。東京のカーリング愛好者たちは、公共スケート場が一般公開される前の早朝の時間帯を借り切って練習をしている。もちろん専用リンクではないから、釘をつかったコンパスで氷の上にがりがりとハウスの四重丸を描いてプレーする。そんな環境でも、全国大会でいい線まで行くこともある。
 だとすれば、例えばフジテレビあたりがお台場に自前の専用リンクを作り、社技として社員たちが練習に励めば、いつか「チームCX」を五輪に送り込むことも、それほど難しくないのかも知れない(出来合いのメダリストを囲い込んだあげくに酒場で暴れさせたりするようなやり方よりは、ずっと世の中のためになるだろう)。

 そう思う反面、常呂町のような小さな町が、一説には議会で灰皿が飛んだというほど紛糾しながら分不相応ともいえる専用リンクを作って町おこしに賭け、地場産業のように五輪代表を生み出してきた経緯を考えると、資本の力でそれを踏みつぶすような状況は見たくない、とも思う(いや、完全に取り越し苦労だと思いますが(笑))。
 この冬、国内での出張で飛行機に乗り、機内誌を開いたら、「ホタテの旅」みたいなグルメ紀行の記事に、常呂町漁協から紹介された案内役として敦賀信人君が出てきて驚いた、というくだりがあった。長野五輪でスキップを務めた青年は、卒業後は家業の漁師を継ぎ、競技も続けているという(今回の五輪ではテレビ解説をしていたそうな。私は見逃したが)。こういう競技が、ひとつくらいあってもいい。いや、あってほしい。

 多くの競技で商業化・見世物化が急速に進んでいく冬季五輪の中にあって、カーリングはおそらく、国際的にも商業ベースに乗るとは思えない。
 普通の人が普通に頑張る姿を見せてくれるという意味でも、カーリングは日本にとってだけでなく、この五輪そのものにとっての救いであったように感じている。

(注1)
試合後の記者会見や報道によると、小野寺と林はこの大会で「一区切り」と考えていたようだ。日本代表のミキ・コーチによれば「いちばんいい年齢は28歳から36歳ぐらい」とのこと。(2006.2.22)

(追記)
青森への移籍の事情は、たとえばゲンダイネット「女性アスリートの素顔と私生活/小野寺歩」に詳しい。要するに、常呂町では生活が成り立たなかったということのようだ。青森側も、わざわざスカウトしたのなら、せめて五輪くらいまできちんと面倒見ろよ、という気もするが。

(追記2)
目黒選手の父親が2年前に読売新聞北海道版に書いたらしい文章を見つけた。

「それにしても、常人においてオリンピックを目指すということは、異常なことである。ここまでくると、仕事かスポーツか、学生なら学業かとか、二者択一を迫られるようなところがある。特にわが国の場合は、それが強い。

 たとえ、オリンピックであっても、両立すべきなのが本来の社会の仕組み、人生の姿ではなかろうか。

 その点、カーリングはまだ救われているところがある。オリンピックや世界選手権に出場する外国チームの選手たちを見ると、会計士であるとか、女医あるいは学校の先生とか、職業と両立させている人は多い。もちろん、女子はママさん選手がほとんどだ。

 たとえオリンピックであっても職業と両立させることができるスポーツなのである。このことが、私がカーリングを好きな理由の一つでもある。」

 私がこのエントリで書こうとしたことは、たぶんこれに尽きる。
 ところで、これを読むと目黒選手のお父さんも本気でトリノを狙っていたようだ。うまくいけば父娘同時出場だったのか。(2006.2.22)

| | コメント (8) | トラックバック (0)

41歳の冬だから。

 スケルトンの越和宏に対しては思い入れがあった。同じ昭和39年に生まれた選手が、37歳にして初めてオリンピックに出場し、41歳の今、再びスタート地点に立つ。同年の私が己の身体の経年変化(こういう回りくどい表現をするのは「老化」という言葉を使いたくないからなのだが)を思い知らされてばかりいる年齢になって、なお力を伸ばしていくのだから、頭が下がるというほかはない。

 ソルトレークで8位、トリノで11位。成績が落ちた、と言えばそれまでだが、実際には五輪と五輪の間の4年の間に、どの競技でも全体の水準が上がり、かつて最先端だった技術はたちまち陳腐化していく。とりわけ、新しく五輪に採用された競技では、そういう傾向が強い(長野五輪のモーグルで盛んに行われたコサックという技は、今はほとんど見ることがない。みな、もっと高度な技を軽々とこなしている)。

 越もまた、そんな流れに翻弄された選手だ。

 日本では誰も本格的にやったことのなかったスケルトンという競技に取り組み、国際大会を転戦する中で、越は自分だけの技術を磨いてきた。力のロスが少ない精密なコース取りによって、身体能力に勝る西洋人たちに互して戦ってきた。越が滑るコースは「コシ・ライン」と呼ばれ、スケルトンの世界では名高かったという。

 だが、近年のスケルトンの世界では、そういう細かい技術よりも、パワーとスピードで押し切るタイプの選手が上位を占めるようになってきた。
 磨き上げた精妙な技術を無にしてしまうような大きな変化に、越はそれでも対応しようとした。苦手だったスタートダッシュを向上させるため、片手でソリを掴むスタートに取り組み、トレーニングコーチをつけてダッシュ力を鍛えた。実際に、4年前よりもスタートは向上している。
 1本目が終わった時には、まだ僅差で銅メダルのチャンスは残っていた。2本目のスタートタイムは1本目を上回る。しかし、滑走しはじめて早々のカーブで壁に接触してスピードを失い、チャンスは潰えた。越はこのミスで「すべてが終わった」と話している。だが、銀メダルを獲得したジェフ・ペインの2本目の滑りは、蛇行するわ壁にはぶつかるわ危うく転倒しそうになるわ、荒々しいことこの上ない。それでも越より1秒以上も速いのだから嫌になる。そんな大男たちに、彼は、たったひとつのミスさえ許されない精密なコントロールによって立ち向かってきたのだ。そして、及ばなかった。

 40歳を過ぎてなお、時代の流れと肉体の衰えに抗って、再び五輪の舞台にたどりつき、わずかなメダルへの可能性に賭けた結果の11位。それ自体がひとつの勲章だ。越自身は失望しているかも知れないけれど。

 ボブスレー選手としての自分に見切りをつけて、たったひとりでスケルトンに取り組み、勤務先から見捨てられ失業手当で食いつなぎながら、自力でスポンサーを募って、五輪への道を切り開いてきた越の歩みは、東京新聞記者の佐藤次郎が書いた『孤闘』(新潮社)に詳しい。迂闊に電車で読むと恥ずかしいことになるので要注意。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

ワタシをスキーに連れてってくれないのなら。

 冬季競技にはあまり詳しくないので、トリノ五輪の個別の結果についてどうこう言う気はない。ただ、全体的な状況としては、原田雅彦、清水宏保、岡崎朋美ら長野五輪の英雄たちを前面に出して戦わなければならないこと自体に、いかにも苦しげな印象を受ける。
 例えばサッカーの日本代表で、長野五輪と同じ1998年に行われたワールドカップ・フランス大会の先発メンバーのうち、今年のドイツ大会でも先発メンバーに残りそうなのは、当時のスタメンで最も若かった2人(川口能活と中田英寿)だけだ。冬季競技も選手寿命が伸びているとはいうものの、8年前の顏がそのまま通用する世界ではあるまい。
 だが、長野五輪で大成功したノルディックスキーのジャンプや複合、スピードスケートといった分野のうち、当時の選手に匹敵、あるいは凌ぎそうな若者は、スピードスケートの加藤くらいしか見当たらない。

 これはある意味では奇異なこととも言える。
 長野五輪では、日本人選手が掛け値なしに大活躍した。それほどの活躍を見せれば、その競技を目指す少年少女は増えるのが普通だ(女子フィギュアスケートでは、まだ五輪で活躍していないというのに、すでに全国のスクールに入会希望者が殺到していると報じられている)。まあ楽観的に考えるなら、“長野効果”が現れてくるには、もう4年くらいかかるのかも知れない。
 だが、一方で不安な材料もある。ウィンタースポーツそのものの地盤沈下だ。

 競技を支える環境には、若年層を含めた娯楽としての競技人口と、トップレベルの競技チームを支える経済的基盤の2つがある。スキーもスケートも、前者はここ10年以上、縮小傾向にあるようだ。
 私自身はスキーもスケートもしたことがないのだが、小中学生時代の70年代には、スケート場は少年少女が普通に遊びに行く場所だった。大学生活を過ごした80年代は、冬にスキーに行かない大学生は極めて稀だった。
 だが、今の若者はそうではないらしい。全国でスケート場の閉鎖が伝えられる。本州の都市部どころか、北海道でさえ同じ傾向にあるという。地場産業のようにスケート選手を輩出してきた苫小牧ですら、だ。温暖化の影響か、野外リンクだった場所に氷が張らなくなってもいるという。
 一方のスキーは、もともと競技人口は多いのに競技水準が上がらないという不思議なスポーツだったが、バブル崩壊後はスキー人口そのものが減少傾向にあるという(まあ、アルペンはともかく、ノルディック競技の水準と苗場スキー場の客の数との間に相関関係があるとも思えないけれど)。

 そして、経済的基盤。スキーファンの女性が作った「ジャンプ用語辞典」の「実業団」(「さ行」)の項目を見ると、「○○(廃部)」の表記の何と多いことか。レギュレーションの不利な改訂よりも、北海道経済の冷え込みこそ、真のジャンプ衰退の理由ではないかと思えてくる。
 もともと冬季競技は、寒冷地に所在する限られた数の企業によって支えられてきた。地方の経済が冷え込めば、競技をサポートする力が衰えるのは必然だ。

 日本国民の多くがスキーやスケートを以前ほど好まなくなったのなら、それらの競技力が衰えていくのは仕方のないことだろう。それでも強くあってほしいのなら、相応のサポートは必要だ。国民やメディアが、そういう背景を無視して、4年に1度のメダルだけを求めるのであれば、いささか虫が良すぎる話だ。メダルの有無は残りの3年11か月の結果でしかないのだから。
 とはいえ、税金をつぎ込んで強化という時代でもないし、実業団が全面的に競技を支えることは、他の多くのスポーツと同様、もはや望めなくなりつつある。
 いわゆる実業団スポーツの枠組みに依存していない女子フィギュアスケートが、冬季競技で唯一といってよいほど若い有望選手を輩出しているのは、偶然ではないように思う。ほとんどの選手は学生のうちにトップレベルに成長してしまうし、卒業後も競技を続ける選手は、形式的には企業に属するが、強化は個人単位で行っている(たとえば村主章枝はエイベックス所属だが、エイベックスにコーチがいるわけではない)。これは、夏季五輪の個人競技の多くで見られるようになってきた枠組みと似ており、今後は冬季種目もこのような方向に構造を変えていかざるを得ないのだろうと思う。
 長野五輪の後、清水宏保は三協精機(現在の日本電産サンキョー)を退社し、スポンサー企業から支援を受けるプロ選手への転身を図った。当時は周囲を当惑させた彼の決断の意味は、8年後の今なら多くの人に理解されるだろう。

 ただ、「税金をつぎ込んで強化という時代でもない」とは書いたが、これはあくまで程度の問題。
 日本スケート連盟の鈴木恵一・スピードスケート強化部長は、「日本のスケート界が要望したいのは国立と名のつく競技施設(室内400Mリンク)だ」と月刊国立競技場に書いている。彼らが我々にどれほどの喜びを与え続けてくれたかを思えば、そのくらいの望みは叶えられてもよいのではないかと、個人的には思っている。競技の性格からいっても、トップレベルの選手が優先的に使える施設さえあれば、あとは個人単位で強化ができるのだから。


追記)
 2/23付読売新聞に掲載された、スピードスケート男子・牛山貴広選手についての記事が興味深い(ネットには転載されていない)。24歳で初めて五輪に出場した牛山は、すでに現役を退くことを決めているという。三木修司記者は、デビュー時の牛山の初々しさ、現在のキャプテンシーを、思い入れ深く描く。記事中から牛山の談話を引用する。

「五輪に出て自分が大きくなれたかというと、そういう実感はありません。この先、今までと同じように1人でやるとしても、4年間の練習には耐えられない……」
「環境が許してスケートを続けるとしてもコーチの道を選ぶ。でも、企業で指導者を抱えるチームはほとんどない」

 そして三木記者は記事を次のように締めくくる。

「ソルトレーク五輪代表の武田豊樹も『スケートだけじゃ食っていけない』と、大会後に競輪に転身していった。多くの若い選手が直面する現実が、牛山には悲しい。」
(2006.2.23)


追記2)
このエントリを書いた時点ではスケートリンクの閉鎖など全く話題になっていなかったのだが、荒川静香が金メダルを取った後、記者会見で口にした途端に、新聞が騒ぎ始めた(たとえばこちら)。金メダルのご利益というのは、こういうところにも現れる。競技団体にとっては「まずは無理をしてでも強化してメダルを取って、メダリストが窮状を世間に訴える」という方法もあるのかも知れない。まあ、荒川の訴えが実を結ぶかどうかは、まだわからないが。(2006.2.28)

| | コメント (10) | トラックバック (0)

敗者ばかりの日。

 こういうタイトルの競馬ミステリのアンソロジーがハヤカワ文庫から出ている(読んでないけど)。

 競馬と同様、スポーツのどの競技でも、ひとつの大会にひとつの種目で勝つのは1人だけ。他の選手はすべて敗者だから、オリンピックの開催期間は、毎日が「敗者ばかりの日」になる。

 田村改め谷亮子のように、何年間も勝ち続ける圧倒的な勝者もたまには出現するが、多くの選手は何度も負ける。負けることも競技の一部と言ってもいい。

 だからこそ、負け方は大事だ。スポーツ選手でなくてもそうだが、敗北を受け止める姿勢には、その人の品格が表れる。いや、何も感情を抑えて冷静にマイクに向かうことだけが品格なのではなくて、号泣するにせよ、茫然と言葉を失うにせよ、それぞれの振る舞いの中で、やはり品格は表れる。そうやって、十分に敗北を受け入れた者だけが、次に進むべき道を正しく見出すことができるのではないか。そんな気がする。

 トリノ五輪で日本人選手はなかなかメダルに手が届かない。ここまでは、スピードスケートの加藤条治を除けば、もともと届くかどうか微妙なレベルの種目ばかりだったから(この先も例外はフィギュア女子シングルくらいしか思いつかないが)、私は日本選手団が特に不振であるとも思わないが、それはそれとして、個々の選手にとってはやはり悔しいことだろう。

 朝のニュースショーやワイドショー番組を見ると、競技を終えたばかりの選手をトリノのスタジオに招いて話を聞く、という設定になっている。いくつか見ていると、無念の結果に終わった選手に向かって、「次のバンクーバーで頑張りましょう」と話すキャスター、あるいは、選手自身に「バンクーバーで頑張ります」と言わせようとするキャスターが多い。

 たとえば500メートルでメダルを逃した直後の岡崎朋美は「私は1000メートルもあるんですけど」と苦笑しながらも、「バンクーバー出ます」と笑顔で言い切っていた。抵抗するがの面倒くさくなったのかも知れない。隣にいた大菅小百合も、見るからに打ちのめされていた。明らかに敗北を消化しきれていない選手に4年後を語らせるのは、その場しのぎの虚ろな希望でしかない。

 五輪レベルの競技者にとって、4年という時間がどれほど長いものであるのか、私には想像がつかない。ここまでの4年間だって彼ら彼女らには十二分に厳しかったはずだ。これまでの努力では足りないと言われたも同然の選手たちが、さらに厳しい4年間に向けて、そう簡単に切り替えられるものだろうか。敗北を総括する時間も与えられないうちに、次のことを考えろというのは酷な話だ。

 テレビの中の人々が「バンクーバー」を口にするのは、単に、その場の重苦しい空気から自分たちが逃れたいがための方便にしか見えない。そういう作業に選手を巻き込むのは、やめてほしいと思う。
 「負けることも競技の一部」であるのは、観客にとっても同じこと。敗北を糊塗するのでなく、重苦しいままに受け止めればいい。それがオリンピックなのだから。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

どうにもならないゆえの美しさ。

 冬季五輪にはアクシデントが多い。フィギュアスケートやスノーボードHPのように選手が次々と転倒する姿を新体操や体操で見ることはまずないし、マラソンは悪天候で延期になったりはしない。風向きが大きな要因になるのも、ヨットくらいだろう。
 夏の五輪に比べると、冬季競技では、自分の力ではどうにもならないことが、あまりにも多い。
 そもそも人間の身体は、雪や氷の上で活動するようにできてはいない。どれほど発達した道具の支援を受けたとしても、制御できることは限られている。

 精緻に練り上げられたフィギュアスケートの美しい演技と、ぶざまな転倒との、驚くべき落差。
 滑走するスキーヤーが転倒して何十メートルもそのまま滑落していく衝撃。
 スタート直前に風向きが変わってしまったジャンパーの落胆。
 ひとたび制御を失えば、もはやあらゆる努力も能力も通用しない。ただ慣性の法則に身を任せて事態の収束を待つしかない。どの競技もそんな性質を含んでいる。

 スポーツとしてのスキーやスケートは、厳しい自然の中で生きる人々が、雪や氷と戯れるようにしてはじまったのかも知れない。だが、それが競技として洗練されていくうちに、選手たちは、戯れるのでなく、自然を制御し征服するという宿命を背負うようになった。
 もちろん、そんなことはできるはずがない。自然を征服しようとする選手たちは、あらかじめ挫折を約束されたドン・キホーテのような存在でしかない。雪や氷や風は、ことあるごとに彼らに自らの力を示し、自然の強大さを見せつけようとする。

 どうにもならない無力さを、これでもかこれでもかと思い知らされながら、それでも人の力でなしうる、ほんの少しの制御技術を磨き上げるために、選手たちはとてつもない努力を重ねているのだろうと思う。
 たとえば、あれほど不安定な氷の上で、あれほど安定して能力を発揮できるようになるまでに、岡崎朋美がどういう準備を重ねてきたのか、私には想像もつかない。彼ら彼女らは、できるはずのないことを、それでもできるのではないかという夢を、ほんの一瞬だけ垣間見せてくれる。

 冬季競技は、氷の彫刻のように儚くて脆く、だからこそ美しい。

| | コメント (10) | トラックバック (1)

今の小倉隆史が好きだった。

 小倉隆史がとうとう引退を決めた。甲府で戦力外通告を受けた後、FC岐阜に入るとの報道もあったが、その後もトライアウトに参加していた。結局、Jリーグのクラブからは誘いがなかったという。
 発売中のサッカーダイジェスト2/28号に、小倉のインタビューが掲載されている。

 ずしりと響いたのは、次の言葉だ。
「よく、神様が与えた試練なんて言い方をされましたが、与えられた本人としては、どうするも何も、常に正面から向かっていって、目の前の壁を乗り越えて行くしかなかった。そのなかで、できあがったのが今の僕なんです。僕はサッカー選手としてずっと一流になりたかったし、人間的にも大きくなりたいとずっと思っていて……」
「ケガをしたのも、本当にいい経験をさせてもらったと思っているし、今の自分も僕は嫌いじゃないです」

 かつて、彼と似た経歴をたどったプロ野球選手がいた。読売ジャイアンツの吉村禎章だ。外野手としてキャリアの頂点に駆け上がろうとした矢先に、外野飛球を追って別の選手と激突、アキレス腱を断裂した。移植手術と厳しいリハビリを経てグラウンドに戻ってきた吉村は、以前の打棒を取り戻すことはできなかった。
 人々は、故障が彼から奪った可能性を惜しみ続けた。引退後の今も、そう思っている人が多いのかも知れない。
 だが、彼は絶望的な故障を克服して、再びグラウンドに戻り、動かない足首をひきずって打ち続けた。「ケガがなければ打てたかもしれないヒットの数」を悔やむよりも、故障後の彼が実際に打った、血のにじむようなヒットの1本1本を凝視することが、観客が吉村に対して示しうる最大の誠意なのではないか。当時、そんなふうに思ったことを覚えている。

 だから、私は小倉のケガを悔やむようなことを書くのはやめようと思う。
 出場できなかったアトランタ五輪やワールドカップの舞台で彼がしたかも知れない活躍を想像するのではなく、度重なる故障にもかかわらず何度となくピッチに戻り、いくつものクラブを転々としながら、それぞれの場所で存在感を発揮してきた現実の小倉に敬意を示し、感謝したいと思う。

 私は彼の熱心なファンだったわけではないし、名古屋時代の活躍をつぶさに見ていたわけではない。名古屋を去った後のキャリアについても、一応はそれぞれのクラブでプレーする姿を見た記憶があるという程度にすぎない。
 ただ、かつて住んだことのある甲府という土地に生まれたクラブがずっと気になっていたから、そこに彼がやってきてくれたことは、いかなる経緯によるものであれ、嬉しかった。
 以前も書いたことがあるが、甲府に加わった小倉は、若く未熟な選手たちの中に降りていって、このチームの成長に心を砕いているように見えた。彼のようなキャリアを持つ選手が、そのようにふるまっていることが、私には嬉しかった。
 昨年、出場した試合は少ないけれども、彼が在籍した最後の年に、このクラブが初めてJ1への昇格を遂げたことは、偶然ではないだろうと私は思っている。

 私が最後に小倉の姿を見たのは、昨年8月に三ツ沢で行われた横浜FCとの試合だった。といっても、彼は試合には出場していない。控え選手としてベンチに座っていた小倉は、ハーフタイムに足馴らしのためにピッチに現れ、左足から強烈なシュートを次々とゴールに突き刺した。
 すでに出場機会を失い、チームを去ることを予感していたはずなのに、小倉は笑顔を絶やさず、この試合に出場した誰よりもボールを蹴ることを楽しんでいるように見えた。
 国際舞台で活躍したかもしれない想像上の小倉ではなく、その時、私の目の前にいて、甲府のユニホームを着てボールを蹴っていた小倉が、私は好きだった。彼は、代表のスターになったかも知れない素材だから値打ちがあったのではない。そこで実際にやっていたことに値打ちがあったのだ。

 吉村禎章は今シーズンからジャイアンツの二軍監督に就任した。現役時代、凄まじいリハビリを身近に見ていた同僚たちから、彼は大変な尊敬を受けていたという。そのことは、指導者としての彼のキャリアに何かをもたらしているのだろうと思う。
 小倉も指導者の道を歩むという。いい指導者になれることを心から祈っている。

| | コメント (9) | トラックバック (1)

ヴァランダー警部の憂鬱。

 ストックホルム警視庁のマルティン・ベック警視を主人公にした警察小説シリーズを愛読していた時期がある。中学から高校生の頃だったと思う。
 スウェーデン人のマイ・シューヴァルとペール・ヴァールー夫妻によって1966年から年1冊づつ、10年間にわたって書き続けられたシリーズは、ミステリーであると同時にスウェーデン現代史を活写した大河小説でもあった。
人々を押し潰す管理社会、都市開発によってもたらされる人心の荒廃、未来を模索し彷徨う若者たち。社会問題と密接にかかわる事件に次から次へと直面するベックとその仲間たちは、社会に満ちた矛盾と、秩序を維持する自らの仕事との相克に鬱々と悩みながらも、目の前の事件に立ち向かう。ただし、巻を追うごとに、ベックの心の中では「立ち向かう」よりも「鬱々」の比重が増大していった。

 現在、創元推理文庫から年1冊のペースで刊行されているスウェーデンの小説家ヘニング・マンケルの主人公ヴァランダー警部は、そんなベック警視を彷彿とさせる。
『殺人者の顔』『リガの犬たち』『白い雌ライオン』ときて、昨秋には第4作『笑う男』が刊行された。原著は91年から年1冊づつ書かれ、9作で中断している。そんな刊行形式からしてベックを踏襲しているし、問題意識のありようも似ている。オマージュと呼んでもいいかも知れない。

 ただし、主人公クルト・ヴァランダーが抱く屈折は、先輩のベックよりもさらに深いように感じられる。
 鬱々としてはいても、ベックは首都ストックホルムの警視庁のスター警官で、刑事部門のトップ近くにまで出世した大幹部だ。仕事に理解のない妻とは別れたが、旅行者が憧れる旧市街ガムラスタンのアパートに住み、若く美しい恋人と一緒に暮らしている。別の美女が自分から部屋を訪ねてきてベッドシーンを演じる巻もある。内面はともかく、仕事も私生活も、まずは充実しているといって差し支えない(こうやって紹介すると、まるで島耕作のようだ。風貌も似ていそうな気がする。ベックは女性を踏み台にのし上がったわけではないけれど)。

 一方のヴァランダーは、スウェーデン最南部の農業地帯、スコーネ地方にある港町イースタに住む、風采の上がらない警官に過ぎない。スコーネ地方で生まれ育ち、イースタを出ることもなく、たぶん今後も出世するとは思えない。大した事件も起こらないはずの田舎町の小さな警察署の、ぱっとしない中間管理職である。
妻には逃げられ、別宅で一人暮らししている実父とも、ストックホルムで暮らしている一人娘とも、それぞれ折り合いがよろしくない。ベックと違い、女性にももてない。別れた妻には未練たらたらだし、第1作『殺人者の顔』では新任の女検事(しかも人妻)にいきなり惚れて、いきなり口説こうとし、すぐに振られる。
 ベックには親友と言える同僚や、頼りになる仲間たちがいるが、ヴァランダーには今のところそれもいない(第1作で相談相手になってくれた鑑識官は、すぐに病気で亡くなってしまう。他の同僚たちや再会した旧友は、巻を追うごとに少しづつ存在感を増しているが、今のところベック一家の面々ほど魅力的だったり有能だったりするわけではない)。

 人も設備も金もない警察署の署員にとっては理不尽なまでに、孤独な中年男ヴァランダーは、次から次へと難事件に遭遇する。
スウェーデンは世界に冠たる福祉国家であり、移民にも寛大な国だ。その仕組みは、海外の犯罪者にとってはきわめて利用しやすい環境として描かれる。ましてヴァランダーがいるイースタはスカンジナビア半島の最南端、つまりヨーロッパに近い港町だ。人目につかない海岸線が延々と続く土地でもある。ドイツから、バルト三国から、アフリカから、ヴァランダーを悩ませる問題は、大抵は海外からやってくる。最新作『笑う男』で対峙する相手はスウェーデン人だけれども、逆に軽々と国境を越えて動き回り、なかなか尻尾をつかませてはくれない。

 そんな国際犯罪に立ち向かうには、田舎の一警官はいかにも無力だ。しかも私生活も安定していない。難事件の最中に父親が職場に電話をかけてきて「なぜ今朝は来なかったのだ」などと説教を始めたりする。
 そんなうんざりするような苦境の中で、自分は時代に取り残されているとか何とか頭の中では愚痴ばかり繰り返しながら、しかしヴァランダーは事件に立ち向かうことをやめようとはしない。やめようとしないどころか、しばしば警察官としての範を大きく越えて事件に関わってしまう。『リガの犬たち』ではリガからやってきた警官の変死をきっかけにラトビアの反政府組織に関わって密かに法を冒すことになり、『白い雌ライオン』では管内での殺人事件を捜査しているうちに、気がつくと南アフリカの殺し屋と奇妙な関わりを持つことになる。
 内なるルールに忠実であろうとすればするほど、現実の警察の職務や組織から逸脱してしまう。銃撃戦やカーチェイスが描かれることもあるが、ヴァランダーはそういうことに慣れていないし、上手くもない。時にはプロの殺人者である相手に追い回されながら、なりふり構わず懸命に知恵を絞って、必死の反撃を試みる。

 分厚いうえに地味な話ばかりのヴァランダーの物語に私が惹かれるのは、たぶん、彼のそんな倫理観なのだろう。決してタフガイではなく、職務を逸脱する決意を固めた端から後悔したり、びびったりしてばかりいるけれど、なぜそうするのか自分でもわからないままに、それでも、「やらなきゃいけないものは仕方ないじゃないか」という確信に背中を押されて、ヴァランダーは茨の道を進み続ける。あたかも現代スウェーデン社会の罪を1人で引き受ける殉教者ででもあるかのように。

 小説を読んでいるとまったくピンと来ないのだが、この作品の舞台となっている町イースタは、ちょっとした観光地でもある。夏のバカンスシーズンには海を越えてドイツやデンマークの人々がバカンスに訪れる。石畳の街並みや古い教会は、いかにも女性に好まれそうな風景だ。スコーネ地方自体も、広々とした丘陵に麦の穂がそよぐ見晴らしのよい土地で、春から夏のドライブには快適そのものといってよい(冬はとても寒いらしいが)。鬱々とした小説にはまるで似合わない風光明媚な土地だ。
だが、強い光は濃い影を作り出す。イースタの明るさは、ヴァランダーの孤独感をより一層強めることになっているのかも知れない。

 そういえばマルティン・ベックの地元ストックホルムも、およそ裏通りらしきものが見あたらない、清潔そのものの美しい都市だ。だが、目に見える場所から汚いものを排除しようとすれば、それは見えない場所に潜み、より手に負えなくなっていく。猥雑きわまりない東京で暮らす東洋人の目に、北欧の美しい計画都市は、そんなふうに映らなくもない。

 シリーズの長編の未訳分は、まだ5冊残っている(短編やスピンオフ小説もあるらしい)。早く次が読みたいと思う反面、こういう作品は年に1冊くらいでちょうどいい、という気もする。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

名もない野球人へのまなざし<旧刊再訪>

後藤正治『スカウト』講談社 1998
後藤正治『牙 江夏豊とその時代』講談社 2002


 98年の秋に刊行された『スカウト』を手にしたのは、その秋、オリックスの三輪田スカウトが自殺した翌日だった。それがきっかけで読もうと思ったわけではない。書店に入るたびに探していたのに、なかなか店頭に見当たらなかったのだが、たまたまその日に見つけることができたのは偶然なのか、それとも事件をきっかけに平積みした書店があった、ということなのだろうか。

 本書の主役は、広島カープのスカウトとして長年活躍した木庭教だ。木庭に同行して地方の球場や学校を歩く著者の前に、三輪田は、木庭の同業者として登場してくる(もちろん彼が自ら命を絶ったのは本書の刊行後だから、本書ではそのことには触れていない)。
 当時のニュースや記事は、枕詞のように三輪田を「イチローを発掘した敏腕スカウト」と書いていたが、本書の中の三輪田は必ずしもそうは描かれていない。著者によれば、「スカウトにはその眼力にプラスして“選手運”がある。三輪田は後者に恵まれたスカウトではなかった」となる。
 イチローについて、見事、予想が的中したわけですね、と問う筆者に、「いや、外れたわけですよ」と三輪田は答える。
 「将来ひょっとしたら三割を打つような選手になってくれるかもという期待はあった。ただし、これほどの選手になってくれるなんて夢にも思っちゃいませんからね。だから、イチローの場合も予測は外れだったわけです
 2ページ半ほどの短い記述は、事件を報じたどの記事よりも、馬鹿がつくほど正直で誠実な三輪田の人柄を如実に伝えているように感じた。

 このようにして、筆者は木庭に同行し、各地の球場や学校を回ると同時に、木庭と縁のあったさまざまな人物を訪ねて歩く。他球団の名物スカウトのほとんどに加え、木庭がスカウトした有名選手、あるいは成功できなかった選手たちに会っては話を聞く。衣笠祥雄、金城基泰、正田耕三、長嶋清幸、ほんの1、2ページの中で語られる彼らの人生は、それぞれに鮮やかだ。著者が一人一人に誠意を持って接し、敬意をもって描いているのが感じられる。そしてもちろん、最大の誠意と敬意は、本書の主役である木庭教に向けられている。
 凛とした職業人に敬意をもって接する年下の作家の態度が好ましく、読むほどに心が穏やかになる。そして、このように静かに描写される木庭の人柄や人に接する作法こそが、木庭がスカウトとして偉大な実績を築いた要諦なのではないかと感じさせる。

 江夏豊という日本のプロ野球史上のスターの1人を描いた『牙』でも、著者のスタンスに変わりはない。
 著者が江夏について取材した大勢の人々、すなわち当時の指導者、同僚選手、ライバルチームの選手たち、新聞記者、カメラマンらは、江夏について語るためだけに本書に登場しているのではない。
 後藤は、敬意と愛着をもって、彼ら自身をもきちんと描写する。彼らひとりひとりのすべてが、「江夏豊とその時代」を構成してきた一部であるからだ。

 ただ、『スカウト』との違いがどこにあるかといえば、木庭に対しては取材者に徹していた後藤が、江夏に対しては同世代人としての共感をベースに記述していることだ。著者自身もまた、「江夏豊とその時代」を構成する一員なのである。

 ここでも登場するひとりひとりの姿が胸を打つが、もっとも私の胸に響いたのは、最後をしめくくる無名打者、林健造である。彼は、江夏が「もっとも投げづらかった打者」として名を挙げた大洋の二流選手だ。今はタクシーの運転手となっている林の述懐。
「あの時代、プロの最高のピッチャーから、俺みたいなへぼバッターが打ったことあるんだということね、嘘みたいに思えるんですよ。…ピカッと一瞬触れ合っただけだけど、それでもそれは箪笥の奥に大事にしまい込んである宝物のようなもんです。人にいったことはないですけどね…」
 人は、たったそれだけの思いに勇気づけられて、その後の長い人生を生きていくことができるのだ。

| | コメント (17) | トラックバック (0)

『野村ノート』を読む前に知っておきたい2,3の事柄。

 今週発売の週刊ベースボール2.13/20号の連載コラム「オレが許さん!」で豊田泰光が野村克也楽天監督を批判している。このところ、野村克也の言動に呆れる機会が何度かあったのだが、このblogで触れそびれていたのを思い出した。いい機会だから、まとめて書いておく。
 豊田が批判していたのは、この発言だ。

ノムさん 石井一に報復予告  「ぶつけてやるから打席に入ってこい」

 楽天・野村克也監督(70)が19日、ヤクルト復帰を決意した前メッツ・石井一久投手(32)へ報復予告した。楽天は同投手の獲得を目指して交渉してきたがこの日、野村監督のもとへ石井本人から断りの電話があったことを明かし、「年俸つり上げに利用しやがって」と大激怒。「交流戦ではぶつけてやる」と宣言した。(後略)(スポーツ報知 2006.1.20付)

 この記事に紹介された野村のコメントを抜き出してみる。
「(楽天は)無駄な努力をした。予想通りの展開やな。あいつらはホモみたいな関係だからな」
「(年俸提示が)一番低いのがヤクルトだった。年俸つり上げに(楽天を)利用しやがって」
「交流戦が楽しみ? ぶつけろーっ。当ててやるから打席に入って来い」

 他紙にもほぼ同様の記事が載っていたから、野村は記者会見でこの通りのことを話したのだろう。
 豊田は上記のコラムの中で「悪態の品のなさに寒気がしましたよ。どうして他人様に向かってこんなことが言えるの。」とたしなめている。同感だ。この暴言を相手にしなかった石井の方がよほど大人である(笑)。

 ネット上には掲載されていないが、この日の報知の紙面には、野村の過去の言動も紹介されていた。
 私がよく憶えているのは、ダイエーのサイン盗みが問題になっていた98年秋に、「ヤクルトからトレードで来た人が“やっている”って言っている」と話した佐々木主浩投手(当時横浜)を非難したことだ。当時の報知によれば、野村はこう話したことになっている。

「若い人があれだけチヤホヤされると調子に乗るんでしょうな。人の噂を信じてああいうことを言う。野球バカもいいところだ」
「軽率以前の問題。非常識極まります」
「ユニホームを脱いだら、ただの大男のバカだよ」

(スポーツ報知 1998.12.5付)

 こちらは記者相手ではなく、一般向けの講演会での談話を記録して記事にしたものらしい。クローズドではあるが、公の場には違いない。
 佐々木は発言後すぐに球団に叱られたらしく、すぐ撤回して謝罪を表明している。野村もそれを知っているはずだが、にもかかわらず徹底的に非難している(むしろ相手が白旗を掲げたから、余計に居丈高になっているという可能性もある)。

 ここまで言うからには、野村自身はさぞ品行方正で何らやましいところがないのだろう、と思うのが人情だろう。そう信じてしまった人には、ぜひ読んでいただきたい本がある。
 朝日文庫から刊行されている『野球はアタマでやるもんだ』は初版1985年。1980年に現役を引退した野村が、評論家として週刊朝日に連載したコラムをまとめた本から、さらに抜粋して再構成されたものだ。

 この中に、サイン盗みに関する記述がある。
「スパイ作戦で名を馳せたのは阪急である。」
と、西本監督時代の阪急ブレーブスが外野スタンドから捕手のサインを解読して打者に伝えた手法を説明した後で、こう書いている。
「何を隠そう、私自身もスパイ作戦の陣頭指揮をとったことがある。」

 考え抜いた配球が盗まれていたのが悔しくて、目には目を、と思ったのだそうだ。打者のユニホームの内側に受信装置をつけて盗んだサインを知らせる機器まで開発したが結局は失敗に終わった、と笑い話のように記した後で、こうも書いている。
「私はスパイ作戦にはしてやられる場合のほうが多かったわけだが、ルールに反することではないし、スパイを責めようとは思わない」

 本書の刊行から13年の間に、ずいぶんと考えが変わったらしい。

 本書の中には、阪急の盗塁王・福本豊の足にてこずったエピソードも書かれている。何をやっても封じることができない野村捕手兼監督は、最後にこんなことを思いついたという。
「あの足を封じるのは、福本を休ませるしかない。それにはぶつけるしか手がなかろうというので、実際にやってみた。といっても、打席に立っているときにわざとボールをぶつけるのは穏やかではない。こちらのバッターが仕返しをされる恐れもあるというので、ランナーに出た福本にボールをぶつけることにした」

 で、福本が二塁走者の時に実際にやってみたが、身を躱されただけだったという。
 これも笑い話のように書いているが、「福本を休ませる」というのは、ケガをさせるということだ。同じ野球人を、実力では押さえられないというだけの理由で傷つけようとしたことを、笑い話や自慢話のように本に書くという神経が私には理解できない。
 こうなると、冒頭の記事にある「当ててやるから打席に入ってこい」という言葉も、冗談や誇張ではなく本気である可能性がある。自分のものにならないなら壊してしまえ、と生身の投手に対して、この人は本気で思っているらしい。

 25日には監督会議に出席して、ここでも奇妙な演説をぶっている。

楽天野村監督、熱弁20分通じず

 ノムさん独演会も結果は…。12球団監督会議および実行委員会が25日、都内ホテルで行われ、5年ぶりにプロ野球に復帰した楽天野村克也監督(70)が11監督を前に「ノムラの考え」を披露した。予告先発などパ・リーグ独自のルール改正を求めて約20分間、持論を展開。パ5球団は受け入れなかった。(後略)(日刊スポーツ 2003.1.16付)

 彼はこんな話をしたそうだ。
「予告先発は監督が楽なだけ。野球は知識、情報を駆使した9割が読み。しかも8割が投手。そういう能力がなくなるから、人材も育たない。野球の本質を見失わないでほしいと、切に願います」

 他球団の監督からは質問も意見も出なかったそうだが、そりゃそうだろう。相手の先発投手を予測することが野球の本質だと言われても、答えようがないに違いない。
 まあ、ここまでなら滑稽な独り相撲とか勇み足とかで済むのだが、会議の後の囲み取材で口走ったという次の発言はいただけない。

「予告先発で客が入ると言うが、(西武の)松坂がきょう投げるか、あす投げるか分からないから、2日とも球場に行こうになるかもしれないじゃないか」
(週刊ベースボール同号から)

 「2日引っ張れる」という表現を使っていたスポーツ紙もあった。客として言っておくが、今どきの客はそんな小細工で引っ張られたりはしない。「2日とも」どころか、客を騙すような見世物に金を払うのはやめてしまうのが多数派、という可能性も大いにある。そういえば数週前の「オレが許さん!」で、豊田は野村のことを「試合時間を長くした張本人」と書いていた。この監督は、観客の都合など一切考える気はないらしい。

 私は野球の本質が何であるかは知らないが、プロ野球の本質なら知っている。見世物だ。プロである以上、観客を喜ばせることが彼らの最大のミッションだ。
 喜ばせる方法については、それぞれの考えがあるだろう。何も全員がボビー・バレンタインのようなショーマンシップを備える必要はない。だが、客を騙せば儲かると言わんばかりの舐めた口を聞くような監督は願い下げだ。

 彼が昨秋刊行した『野村ノート』(小学館)は、よく売れているらしい。開いてみると、とにかく説教臭いことに閉口する。今の選手には感謝の心が足りないだの、教育こそ監督の使命だの、指揮官の仕事は人づくりだのと延々と並べ立てたあげくに、最終章の見出しは「人間学のない者に指導者の資格なし」とくる。
 で、具体的な内容といえば、古田はあんなに教えてやったのに年賀状のひとつも寄越さない、とかいう話だったりするのだからみみっちい。
 このエントリの冒頭から、太字で記された彼の発言を読み返していただけば、この人物が「人間学」だの「教育」だのを云々することが、いかに滑稽なことだかお判りいただけるだろう。

 にもかかわらず、この『野村ノート』は非常に面白い。珍妙な説教や講話めいた記述は我慢するか読み飛ばすかして、技術論だけを読んでいれば、感銘を受ける部分はたくさんある。
 野村は本書の中でしばしば箇条書きを用いる。打者に共通のテーマ、打者のタイプ、多くの打者に共通する苦手ゾーン、etc.…。それらは必ずしも系統だってはおらず、分類としてはプロポーションが悪く感じられるものもある。
 にもかかわらず、それらの分類は強い説得力を感じさせる。捕手として、監督として、数えきれないほど多くの打者と対戦してきた経験から割り出された法則だから、実際の現場でも役に立つのだろう。彼の下で投げていた投手が各球団で投手コーチを務めている、と本書の中でも自慢しているが、おそらくその通りに、彼らがコーチ業をする上で、野村に教わったことは役立っているのだろうと思う。

 要するに、人格はともかく、リードや作戦における技術者としての野村が超一級品であることは疑うべくもない。技術者に徹した方が、よほど周囲から尊敬を受けることができるのではないかと思うし、選手たちもついてくるのではないか。人間学だの感謝の心だのと似合わない講釈を垂れるのはやめた方がいい。ヒールに徹してくれれば、パ・リーグは確実に盛り上がる(スポーツ紙は明らかにそれを狙っているのだろう。本人が狙っているのかどうかは、よくわからない)。
 だいたい、今年、主に対戦する5人の監督のうち、2人はアメリカ人だ。いくら説教めいた嫌味を言ったところで、どうせ通じないのだから。

| | コメント (15) | トラックバック (8)

« 2006年1月 | トップページ | 2006年3月 »