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今の小倉隆史が好きだった。

 小倉隆史がとうとう引退を決めた。甲府で戦力外通告を受けた後、FC岐阜に入るとの報道もあったが、その後もトライアウトに参加していた。結局、Jリーグのクラブからは誘いがなかったという。
 発売中のサッカーダイジェスト2/28号に、小倉のインタビューが掲載されている。

 ずしりと響いたのは、次の言葉だ。
「よく、神様が与えた試練なんて言い方をされましたが、与えられた本人としては、どうするも何も、常に正面から向かっていって、目の前の壁を乗り越えて行くしかなかった。そのなかで、できあがったのが今の僕なんです。僕はサッカー選手としてずっと一流になりたかったし、人間的にも大きくなりたいとずっと思っていて……」
「ケガをしたのも、本当にいい経験をさせてもらったと思っているし、今の自分も僕は嫌いじゃないです」

 かつて、彼と似た経歴をたどったプロ野球選手がいた。読売ジャイアンツの吉村禎章だ。外野手としてキャリアの頂点に駆け上がろうとした矢先に、外野飛球を追って別の選手と激突、アキレス腱を断裂した。移植手術と厳しいリハビリを経てグラウンドに戻ってきた吉村は、以前の打棒を取り戻すことはできなかった。
 人々は、故障が彼から奪った可能性を惜しみ続けた。引退後の今も、そう思っている人が多いのかも知れない。
 だが、彼は絶望的な故障を克服して、再びグラウンドに戻り、動かない足首をひきずって打ち続けた。「ケガがなければ打てたかもしれないヒットの数」を悔やむよりも、故障後の彼が実際に打った、血のにじむようなヒットの1本1本を凝視することが、観客が吉村に対して示しうる最大の誠意なのではないか。当時、そんなふうに思ったことを覚えている。

 だから、私は小倉のケガを悔やむようなことを書くのはやめようと思う。
 出場できなかったアトランタ五輪やワールドカップの舞台で彼がしたかも知れない活躍を想像するのではなく、度重なる故障にもかかわらず何度となくピッチに戻り、いくつものクラブを転々としながら、それぞれの場所で存在感を発揮してきた現実の小倉に敬意を示し、感謝したいと思う。

 私は彼の熱心なファンだったわけではないし、名古屋時代の活躍をつぶさに見ていたわけではない。名古屋を去った後のキャリアについても、一応はそれぞれのクラブでプレーする姿を見た記憶があるという程度にすぎない。
 ただ、かつて住んだことのある甲府という土地に生まれたクラブがずっと気になっていたから、そこに彼がやってきてくれたことは、いかなる経緯によるものであれ、嬉しかった。
 以前も書いたことがあるが、甲府に加わった小倉は、若く未熟な選手たちの中に降りていって、このチームの成長に心を砕いているように見えた。彼のようなキャリアを持つ選手が、そのようにふるまっていることが、私には嬉しかった。
 昨年、出場した試合は少ないけれども、彼が在籍した最後の年に、このクラブが初めてJ1への昇格を遂げたことは、偶然ではないだろうと私は思っている。

 私が最後に小倉の姿を見たのは、昨年8月に三ツ沢で行われた横浜FCとの試合だった。といっても、彼は試合には出場していない。控え選手としてベンチに座っていた小倉は、ハーフタイムに足馴らしのためにピッチに現れ、左足から強烈なシュートを次々とゴールに突き刺した。
 すでに出場機会を失い、チームを去ることを予感していたはずなのに、小倉は笑顔を絶やさず、この試合に出場した誰よりもボールを蹴ることを楽しんでいるように見えた。
 国際舞台で活躍したかもしれない想像上の小倉ではなく、その時、私の目の前にいて、甲府のユニホームを着てボールを蹴っていた小倉が、私は好きだった。彼は、代表のスターになったかも知れない素材だから値打ちがあったのではない。そこで実際にやっていたことに値打ちがあったのだ。

 吉村禎章は今シーズンからジャイアンツの二軍監督に就任した。現役時代、凄まじいリハビリを身近に見ていた同僚たちから、彼は大変な尊敬を受けていたという。そのことは、指導者としての彼のキャリアに何かをもたらしているのだろうと思う。
 小倉も指導者の道を歩むという。いい指導者になれることを心から祈っている。

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コメント

 私は残念ながら「甲府の小倉」のプレーを見ることは出来ませんでした。印象に残るのは長いリハビリ後の名古屋での復帰戦で得点を上げたことです。何かの星を背負ってる人だな、と思ったことを覚えています。
 吉村ですが、誰が巨人の監督になって欲しいかと問われた大久保が「吉村」と答えていました。10年くらい前の話です。「かつてのスターで苦労もしている。打てないやつの気持ちもわかる」と言っていたように思います。

投稿: 水谷秋夫 | 2006/02/14 22:15

>水谷秋夫さん
水谷さんが甲府に行かれた頃には、もう小倉の出番はかなり少なくなっていたようです。今年は林健太郎が加入しましたが、チームに何をもたらすことができるのか。楽しみなような不安なような気分です。
吉村については、「打てない奴の気持ち」どころか、走ることさえできなかったわけですからね。厳しい指導者になるのではないかと思います。

投稿: 念仏の鉄 | 2006/02/15 10:26

小倉選手といえば、ファルカン監督が率いた頃の代表チームで「最終兵器」のごとく期待されていた記憶があります。

アトランタ五輪予選での怪我は、TVでも紹介されていました。ひざから先が「反対向きに曲がる」という、見るも無残な一幕でした。

怪我さえなければ、トリッキーなFWとして活躍していたかもしれませんね。確実に枠内にシュートできる選手が少ない中、あまりにも惜しい存在です。

投稿: はたやん | 2006/02/15 17:06

小倉選手、彼は確かに故障が無ければ・・・という前提で語られがちですが、やはり鉄さんが書いているように、故障からの復帰があったからこそ今の彼のキャリアがあるのだと思います。

世の中には故障しなくても将来を嘱望されながら埋もれていく選手が多いですからね。

それに故障からの復帰を経験している選手は、間違いなく指導者になってからその経験を活かす場面が訪れます。ボディコンタクトが避けられない競技をやっている以上、程度の差はあれ、大怪我をする可能性は誰にでもあります。

技術面より、心のマネジメントのできる指導者として活躍してくれることを期待したいと思います。

投稿: エムナカ | 2006/02/15 22:36

>はたやんさん
>小倉選手といえば、ファルカン監督が率いた頃の代表チームで「最終兵器」のごとく期待されていた記憶があります。

94年ごろには、カズや中山より下の世代に、いいFWがいませんでしたからね。フランス代表との試合で見せた反転からのゴールは見事でした。

>エムナカさん
彼はピッチの中にいるときから自然なリーダーシップを発揮していました。いい指導者の資質のひとつは、すでに備わっているという気がします。

投稿: 念仏の鉄 | 2006/02/16 09:33

>ファルカンジャパン
 当時「なかなか勝てない」ことを批判され続けた末に代表監督から外れましたが、「今勝つ」ことより、「次回ワールドカップで確実に強くなる」ことを想定した、きわめて地道な育成を考えたのであろうと、私は信じています。

 まあそれにしても当時のフランスは、選手生命の折り返しを過ぎてなお存在感のあったパパン、それ以上に存在感があり驚異的であったカントナなど、プラティニとジダンの間の「低迷の時代」にあって、重厚で眩しい選手たちが揃っていましたね。

 願わくば、ワールドカップでカントナを見たかったです。

投稿: はたやん | 2006/02/16 23:04

>はたやんさん

ファルカンは確かに若手の抜擢には熱心でしたが、そのわりにビジョンの見えない監督だったという印象があります。

投稿: 念仏の鉄 | 2006/02/17 10:08

こんばんは
古いエントリーにコメントする形になり恐縮です。
私は小倉と同い年で、なおかつ誕生日が一日違い(笑)なので、彼が高校生の頃から大ファンでした。
17年前の高校選手権で、のちにガンバで活躍する松波を擁する帝京との決勝戦(同点で両校優勝)は、今でも語り継がれる名勝負なので忘れられないです。
やはり小倉は巨人の吉村と同様に、才能豊かで業界の将来を背負って立つ存在だっただけに、どうしても「れば」や「たら」の言葉を使いたくなりますね。
間違いなくアトランタ五輪代表では小倉は「大将」の存在でしたし、彼の不在がなければ主将の前園への負担も軽減して五輪本番での内紛も防げた可能性もあったと思いました。
(あくまでも私の勝手な推測ですが・・・)
アトランタ五輪最終予選直前のマレーシア合宿での大怪我など、小倉には負傷に纏わる話は多く語られているので、ここでは省略いたしますが、もう一つ彼が不運だったのは誕生日です。
サッカーの年代別の公式国際大会は現在は1月1日で区切ってますが、まだ小倉が高校生の頃は8月1日で区切ってた時代でしたので、7月6日生まれの小倉は名古屋に在籍した1年目はU-19代表には選出する資格すらありませんでした。
1992年のアジアユース準決勝で日本は韓国に1-2で敗れてワールドユース出場を逃したときは、小倉の不在を痛恨に感じました。
また小倉が高校2年生のときは、さすがに2歳年上の選手との実力に差があって選出を見送られたので、高校時代の小倉は試合の相手にユース代表選手がいると必要以上に燃えてたみたいです。
小倉はスケートの真央ちゃんとは逆で、生まれるのがあとひと月遅ければ年代別の大会の日本代表に選ばれてただけに不遇でした。
それだけにアトランタ五輪から既定が現行の1月1日に変更になって出場資格を満たす幸運を得たので、あの大怪我は本人にとっては相当無念だったと思います。
しかも当時の小倉は名古屋から留学の形とはいえ、オランダ2部のエクセシオールで活躍して、チームの残留要請だけでなく1部のチームからもオファーがあったみたいでしたので、それを断念してまで五輪に賭けてたから、なおさらでしたね。
(名古屋からの帰国要請もありましたけど)
今のように海外移籍が盛んでない時代なのも不運だったと思います。

遅ればせながら、100万ヒットおめでとうございます。
私はサッカーも好きですので、これからもサッカーのエントリーも楽しみにお待ちしてます。

投稿: こたつミカン | 2009/04/09 00:16

>こたつミカンさん

エントリ本文には、たらればはやめよう、というようなことを書きましたが、しかしこたつミカンさんがお書きになっていることにはまったく同感です。

Jリーグも17年目を迎えて、ずいぶんたくさんの「…たら」や「…れば」が私の中にも溜まっています。

ドーハでラモスが不要なパスをしなかったら…
カズがイタリアでの初戦でケガをしなければ…
小野がフィリピン人に足を壊されなければ…
久保が2006年に健在だったら…

そんな果たされなかった夢の残骸も、歴史の一部なのでしょうね。

サッカーの話題にも、ぼちぼち触れていくつもりです。よろしくお願いします。

投稿: 念仏の鉄 | 2009/04/09 11:30

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