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敗者ばかりの日。

 こういうタイトルの競馬ミステリのアンソロジーがハヤカワ文庫から出ている(読んでないけど)。

 競馬と同様、スポーツのどの競技でも、ひとつの大会にひとつの種目で勝つのは1人だけ。他の選手はすべて敗者だから、オリンピックの開催期間は、毎日が「敗者ばかりの日」になる。

 田村改め谷亮子のように、何年間も勝ち続ける圧倒的な勝者もたまには出現するが、多くの選手は何度も負ける。負けることも競技の一部と言ってもいい。

 だからこそ、負け方は大事だ。スポーツ選手でなくてもそうだが、敗北を受け止める姿勢には、その人の品格が表れる。いや、何も感情を抑えて冷静にマイクに向かうことだけが品格なのではなくて、号泣するにせよ、茫然と言葉を失うにせよ、それぞれの振る舞いの中で、やはり品格は表れる。そうやって、十分に敗北を受け入れた者だけが、次に進むべき道を正しく見出すことができるのではないか。そんな気がする。

 トリノ五輪で日本人選手はなかなかメダルに手が届かない。ここまでは、スピードスケートの加藤条治を除けば、もともと届くかどうか微妙なレベルの種目ばかりだったから(この先も例外はフィギュア女子シングルくらいしか思いつかないが)、私は日本選手団が特に不振であるとも思わないが、それはそれとして、個々の選手にとってはやはり悔しいことだろう。

 朝のニュースショーやワイドショー番組を見ると、競技を終えたばかりの選手をトリノのスタジオに招いて話を聞く、という設定になっている。いくつか見ていると、無念の結果に終わった選手に向かって、「次のバンクーバーで頑張りましょう」と話すキャスター、あるいは、選手自身に「バンクーバーで頑張ります」と言わせようとするキャスターが多い。

 たとえば500メートルでメダルを逃した直後の岡崎朋美は「私は1000メートルもあるんですけど」と苦笑しながらも、「バンクーバー出ます」と笑顔で言い切っていた。抵抗するがの面倒くさくなったのかも知れない。隣にいた大菅小百合も、見るからに打ちのめされていた。明らかに敗北を消化しきれていない選手に4年後を語らせるのは、その場しのぎの虚ろな希望でしかない。

 五輪レベルの競技者にとって、4年という時間がどれほど長いものであるのか、私には想像がつかない。ここまでの4年間だって彼ら彼女らには十二分に厳しかったはずだ。これまでの努力では足りないと言われたも同然の選手たちが、さらに厳しい4年間に向けて、そう簡単に切り替えられるものだろうか。敗北を総括する時間も与えられないうちに、次のことを考えろというのは酷な話だ。

 テレビの中の人々が「バンクーバー」を口にするのは、単に、その場の重苦しい空気から自分たちが逃れたいがための方便にしか見えない。そういう作業に選手を巻き込むのは、やめてほしいと思う。
 「負けることも競技の一部」であるのは、観客にとっても同じこと。敗北を糊塗するのでなく、重苦しいままに受け止めればいい。それがオリンピックなのだから。

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コメント

鉄さん、おはようございます。ごぶさたしております。

ボクも、この期間、何とはなしに、朝までテレビをつけてしまっているクチです。

確かに日本選手たち、結果が出せていませんよね。もう、陳腐化しているはずの「五輪は参加することに意義がある」というテーゼまで、後退するしかないですよね、、、、。
それにしても、明らかに、テレビ・新聞・雑誌などスポーツメディア自身が、日本の不振に、戸惑っている風ですよね。

スタジオで、試合後の感想を語らせる手法、、、酷ですよね。
まるで、火事現場で自宅が燃えてしまった人に対してマイクをつきつけ、「どんなふうに脱出したんですか」と聞くのにも共通した、しかしマスコミは、あらゆる現場で、みんなやる手法ですよね。

他国のスポーツジャーナリズムを知らないので、これがいいことなのかどうなのか、にわかに判断できませんが、、、。(そういえば、甲子園の試合の直後も、相撲の大一番の後も、泣きじゃくる球児たちや力士に、記者は群がってコメントをとってますよね。)まあ、視聴率をキープするには手っ取り早い手法なのでしょうね、、、。


また、メディアが日本選手たちをどう扱うかにかかわらず、視聴者の視点はすでに、「日本勢がメダルを取れる取れないか」から、「新競技の面白さを発見する」に、移りつつあるように感じます。

ボク自身、ツールドフランスを彷彿とさせるパシュートとか、モトクロスバイクを連想させるスノーボードクロス、ビリヤードの駆け引きにも似たカーリングなんかに、「へー」っという新鮮なオドロキを感じながら、見入っています。
これまでのところ、今回の五輪を見ていて何か収穫があるとしたら、そういうところにしか、見出せないかな。

(同じように、テレビの前で新種目を見ている日本人のなかから、よし、オレもいっちょ挑戦してやろう!と目覚める若者がでてくるとしたら、それが一番の収穫なんでしょうね)

まあ、話は変わりますが、トリノが終わるころ、まるで何事もなかったかのように、世間の関心は、ワールドベースボールクラシック、そしてジーコジャパンの仕上がりへと、ごく自然にシフトしてゆくのでしょうね。

最後まで何と言うことはない書き込みで、失礼いたしました。

投稿: penguin | 2006/02/19 05:58

>penguinさん
しばらくです。お元気そうで何より。

>スタジオで、試合後の感想を語らせる手法、、、酷ですよね。

まあ、呼んで話を聞くのはいいと思うんですよ。ただ、日本の家族と中継をつなげたり、いかにも「メダル秘話」として作られたような完パケ映像を流したり、あらかじめ勝つことを前提とした設定を作りすぎるから、勝てない時にまごついてしまう。
余計な仕掛けをせずに、選手の話を聞くことに集中すればいいのにね。最近は、若くても自分の言葉でしっかり話せる選手が少なくないのに、それを引き出すことを疎かにしていると感じます。

>トリノが終わるころ、まるで何事もなかったかのように、世間の関心は、ワールドベースボールクラシック、そしてジーコジャパンの仕上がりへと、ごく自然にシフトしてゆくのでしょうね。

冬季五輪の開催年が夏季五輪の中間年に変わったのは、確か94年からだったと思います。理由はよく知らないのですが、お金の出所が同じだから時期を分散させて負担を減らそう、というようなことではないかと想像します。
その結果、冬季五輪は常にサッカーのW杯と同じ年に行われているわけで、アメリカのテレビ局はW杯に金を使わないだろうからいいんでしょうけど、日本のテレビ局は大変ですね(笑)。

投稿: 念仏の鉄 | 2006/02/19 09:40

 今のところ日本選手のメダル獲得がないことについて、日本が勝負弱くなっているかもしれませんが、それ以上に他国がトレーニング方法を工夫するなど「さらに上」を行く取り組みをした結果だと思うのです。

 今回の五輪の状況は、「長野で勝ったから次も勝てる」「長野で強さが証明された」という、過去の結果にとらわれていないだろうかと思います。

 日本の場合、新しい選手が台頭するまでのサイクルが長く、勝った選手の「長期君臨」が起きる傾向があると思います。「勝ち続ける」ことへの期待もあるけど、「世代交代」も見届けたいものです。
 長い歴史の中で積み上げられたものが必ずしも活かされておらず、最悪「次世代の台頭がない」という事態を招いているように思います。

投稿: はたやん | 2006/02/19 10:15

>はたやんさん
それぞれの冬季競技の強化について、私は詳細を知りませんので、詳しく論評するつもりはありません。ただ、マラソン選手が海外の大会に参加するのを嫌う日本陸連あたりとは異なり、冬季競技では国際試合を転戦するのがシーズン中の日常ですから、世界の競技水準とどのような差があるかは、競技関係者が誰よりもよく知っているはず。「長野で勝ったのだから次も勝てる」などというヌルい考えを抱いているとは、私には思えません。

世代交代が進まない理由については、次のエントリで私見を書きました。要するに「スケートもスキーも流行らなくなってるんだから仕方ないんじゃないの」ということで、競技関係者の努力だけでは限界があるのだろうと思います。

投稿: 念仏の鉄 | 2006/02/19 11:46

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