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ジョン・ル・カレ『ナイロビの蜂』(上・下)集英社文庫

 アカデミー賞の行方を予想する新聞記事を読んでいたら、レイチェル・ワイズが『ナイロビの蜂』という作品で助演女優賞にノミネートされていた。
 原作小説は2年ほど前に読んだが、映画化されていたとは知らなかった。地味な作品で、スパイ小説の巨匠ル・カレの新作のわりに、さして評判にもならなかったという印象があるのだが、私は好きだった。

 小説はケニアの首都ナイロビにある英国高等弁務官事務所で、所長が部下である初老の外交官の妻の死を知らされるところから始まる。
 殺されたのは、地味で温厚で育ちのよい外交官ジャスティンの、娘のように若い妻テッサ。弁護士だったテッサは、ケニアに住むようになってから人権運動に熱中していた。ベルギー国籍の黒人医師アーノルドと常に行動をともにしていたため、ジャスティンはナイロビの白人社会で“妻を寝取られた男”と陰口を叩かれていた。そして、そのアーノルドと一緒に、ある集会に出席するために旅行していた先で、テッサは全裸で喉を掻き切られた遺体となって発見された。アーノルドは行方不明。
 庭の手入れだけが楽しみだったジャスティンは、妻の死をきっかけに、彼女のこれまでの行動を調べようとする。彼女の活動に関わる資料を、外務省や警察の圧力にもかかわらず、彼らの目を盗んでロンドンに持ち帰り、そのまま姿をくらます。そして、最愛の妻の足跡をたどる、長い長い旅に出る…。

 ジャスティンの静謐な哀しみが、全編を覆う。妻を愛するがゆえに、尊重するがゆえに、そしてもしかすると自信のなさゆえに、自らの職務と対抗しかねない妻の活動から目を背け、知ろうとせずに過ごしてきた。そんなジャスティンが、失ってみて初めて、テッサのすべてを追いかけ、理解し、遺志を継ぎ、ひとつになろうとする。
 イタリア、ドイツ、カナダ、ケニア、さらにスーダンへと続く長い旅を通じて、ジャスティンはテッサとともにあり、一歩一歩テッサに近づいていく。途中、脅迫や暴力にも晒されるが、そんな目に遭うこと自体も、ジャスティンにとっては歓びのようでもある。テッサと経験を共有し、彼らの仲間に入る資格を得たように、ジャスティンは感じる。

 これは、関係を断ち切られたところから始まる恋愛小説なのだと思う。調査を進めるうちに、ジャスティンは多国籍製薬企業の悪業の核心に迫っていくことになるのだが、おそらくジャスティン自身にとっては、そんなことはどうでもいいのだ。彼にとっては、ただ、テッサの足跡を辿ることだけが大事だった。そんな気がする。
 南北問題や多国籍企業の振る舞いに関する問題提起をはらんでもいるけれど、それ以上に本書は、かけがえのないものを失った男についての物語である。

 当時、出張先の関西の書店で購入し、帰りの新幹線から読みはじめて、上下2冊を4日間で読了したが、本当はもっとじっくり時間をかけて読めばよかったと思う。
 昨今のエンタテインメント小説には、しばしば「ページターナー」、ページをめくる手を止めさせない、という褒め言葉が与えられるが、そんな形容はル・カレの小説には似合わない。ゆっくりと描写を噛みしめ、味わいながら読むのが相応しいのだろう。

 映画はレイフ・ファインズとレイチェル・ワイズの出演で、日本では5月ごろ公開されるそうだ。見るかどうかは、まだ決めていない。

追記(2006.3.6)
レイチェル・ワイズは本作品でアカデミー賞助演女優賞を受賞。スピーチでは「命をかけて正義のために戦った人々を讚えた」とル・カレに感謝の言葉を述べていた。

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コメント

ジョン・ル・カレの名前は『寒い国から帰ってきたスパイ』などの作者として知ってはいたものの、お恥ずかしい話、初めて読んだのが、この『ナイロビの蜂』でした。
作中人物のキャラクターの設定が実に細かい。当然、話の骨組みは、最初に立ててはいるのでしょうが、しっかりと設定された個性的なキャラクターを持つ人物が、登場し絡み合うだけで、あたかも自立的にストーリーが展開していくような感じすら受けました。


>妻を愛するがゆえに、尊重するがゆえに、そしてもしかすると自信のなさゆえに、自らの職務と対抗しかねない妻の活動から目を背け、知ろうとせずに過ごしてきた。

先日、職場に置いてあった箴言を集めた本を何気なくめくっていると、「愛する - それはお互いがみつめあうものではなくて、同じ方向をみつめるものである」とかなんとかという(うろ覚えですみません(笑))、サン・テグジュペリの言葉が眼につきました。しかし、私は、夫婦というものは、やはり、お互いに正面からみつめあうものだと思っています。それも、恋人同士のようなロマンティックなみつめあい方などではなく、おまえと俺はここが違う、あそこも違う、ここは同じだというように、お互い向かい合って探っていって繋がりあるようなところがあるのではないかと思っているわけです。このお話の主人公であるテッサとジャスティンという夫婦ですが、テッサが生きている間は、このみつめあいかたが、ちーっと足りない。しかし、そういう生活への無念を乗り越え、テッサの足どりを辿り続けることのよって、まさに妻がみつめていたのと「同じ方向」を自身の命をかけてまでみつめようとする愛の形に心打たれました。しみじみとした、味わい深いラブストーリーだと思いました。
それと、「イギリス人も結構コーヒーを飲むんだなぁ」と妙なところに感心したりもして……。

投稿: 考える木 | 2006/08/18 19:05

>考える木さん
ル・カレを好きな人の間では、『ナイロビの蜂』は必ずしも評判がよくはないようですが、私は好きな作品のひとつです。読んだ当時は、取り返しのつかない地点からの旅、という苦い設定に共感してしまうような心境だったのでしょう、たぶん(笑)。

投稿: 念仏の鉄 | 2006/08/20 12:28

ル・カレの作品は、いつも難解で読破するのに艱難辛苦しますし、なかなか全体像を把握しにくいのですが、読み終えたあとにじわっと広がってくる信義とか矜持、或いは良心、きわめて私的な使命感など、深く感動させられます。この作品の映画化は、珍しく成功しており、大変感動的で、わかりにくい原作を見事に映像に置き換えています。なお、DVDはレンタルではなく、ル・カレ氏のインタビューが見られるSELL版をご覧になることをお勧めします。さすが作家です。見事にこの作品を(そして、ル・カレ一連の作品に通底するテーマを)たった一言で言いえています。

投稿: nasso | 2008/08/29 18:48

>nassoさん
>読み終えたあとにじわっと広がってくる信義とか矜持、或いは良心、きわめて私的な使命感など、深く感動させられます。

同感です。

>この作品の映画化は、珍しく成功しており、

あまり意識してませんでしたがル・カレ作品の映画化はこれが6本目。結構ありますね。私が見たのは『ナイロビの蜂』が初めてです。代表作のスマイリー三部作は映画になっていませんが、『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』と『スマイリーと仲間たち』はアレック・ギネス主演でBBCがドラマにしたそうで、一度見てみたいものです。

投稿: 念仏の鉄 | 2008/08/30 14:42

ル・カレのBBCドラマを検索していたら,ここにたどりつきました。
『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』と『スマイリーと仲間たち』はBBCドラマの中でも傑作と評価されています。私は昨年末に購入したばかりで,前者の2/3まで見たところですが,期待に違わぬ内容(とりわけアレック・ギネスのスマイリーは素晴らしい)で,全てのル・カレファンに見ていただきたいと思います。
英国Amazonから購入できます。最近は円高のおかげで安く,昨年11月半ば時点では,2作品,送料込みで約2800円でした。英語字幕しか出ないのが難点ですが,1回目は一時停止・辞書引きを繰り返しながら字幕を理解し,2回目に通しで見るようにしています。

投稿: ベルの不等式 | 2009/01/04 17:23

>ベルの不等式さん

そうですか、日本にいても買えるんですね。いいことを知りました、ありがとうございます。ぜひ入手してみようと思います。

投稿: 念仏の鉄 | 2009/01/05 23:21

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