『単騎、千里を走る』、無力な高倉健という試み。
気がついたら首都圏ではほとんど上映が終わっていて、あやうく見逃すところだった。高倉健の5年ぶりの新作で、中国を代表する名匠チャン・イーモウが、高倉健を招いて映画を撮るという長年の夢を実現させた作品は、日本での場面を除けば、高倉以外の出演者は全員素人という、意外なほどの小品となった。
高倉が演じる主人公の高田剛一は、東北の漁村に一人で暮らしている。折り合いが悪く没交渉だった息子・健一(中井貴一:声のみの出演)が病に倒れ、見舞いに駆けつけたが面会を拒否された後、息子の嫁(寺島しのぶ)から1本のビデオテープを渡される。民俗学者の息子が中国・雲南省の仮面劇を取材した映像を紹介したテレビ番組だった。映像の中で、息子は仮面劇の演者と、次は『単騎、千里を走る』という演目を撮影に来る、と約束していた。
高田は、息子に代わってこの仮面劇を撮影しようと思い立ち、中国に飛ぶ。旅行会社を通じて依頼していた通り、現地では仮面劇の準備が整い、あとは撮影するばかり…だったのだが、ビデオの中で息子と約束を交わしていた役者がいない。役者が傷害事件を起こして刑務所の中にいるとわかったところから、高田の旅は思いもよらなかった方向へと進んでいく。
高倉がこれ以前に出演した外国映画は『燃える戦場』『ザ・ヤクザ』『ブラック・レイン』『ミスター・ベースボール』の4本。『燃える戦場』は見ていないのでよく知らないのだが、『ザ・ヤクザ』以降の3本は、ヤクザ、警官、プロ野球監督と役柄は違えど、いずれもアメリカからやってきた異邦人を迎える立場だった。高倉は、アメリカ人の主人公には不可解な日本文化の象徴として現れるが、映画が進行するにつれて徐々に相互理解が深まり、最後には一緒に大きな仕事を成し遂げ、文化を超えた連帯が結ばれる、という構造は共通している。高倉は、愛想はないが強く、まっすぐで、信頼に足る人物として描かれる。
本作のアプローチは、それらとはかなり異なる。雲南省の町では、高田の力は何ひとつ通用しない。言葉は通じず、望みは叶えられず、頼るべき仲間もいない。もともと口数が少なく、感情を表現するのが苦手な高田は、困難に直面するたびに、言葉もなく立ちすくむしかない。その姿は、前作『ホタル』の終盤で、特攻隊員として死んだ韓国出身の上官の遺品を遺族に届けるため、韓国を訪れる場面を想起させる。
作品を通じて、高田は一貫して無力だ。息子から話すことを拒否されたまま10年以上が過ぎ、息子を蝕む病に立ち向かうこともできず、思い余って飛んだ中国でも、自力では何もできない。
だが、まさにそのその無力さが、高田の行く先々で出会った人たちを動かす。
立ちすくみ、しかしそれでも決して退こうとはしない高田を見るに見かねて、あるいはその不器用な説得に心を動かされて、人々はいつしか高田のために力を尽くすようになっていく。
旅が進むにつれ、折々にかかってくる嫁からの電話によって、高田と息子の関係において仮面劇を撮影することの意味はだんだんと薄れていく。しかし、並行して深まる現地の人々との関わりにおいては、その意味はどんどん大きくなっていくのだ。
常に孤高のヒーローであった高倉健を、これほどまでに無力な存在として、そして、これほどまでに人々とともに生きる存在として描いたところに、この映画の非凡さがある。しかもなお、映画は「高倉健」のイメージを損ねることなく、新たな魅力を描き出している。チャン・イーモウは、四半世紀も前に、初めて中国で封切られた外国映画『君よ憤怒の河を渉れ』を見て以来、ずっと高倉に憧れていたという。だからこそ、高倉をこんなふうに描けるのだろう。
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