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2006年4月

コミッショナーからのエアメール。

 東洋の国への旅から戻ったら、太平洋の向こう側から手紙が届いていた。
 差出人はAllan H. Selig、通称Bud。MLBコミッショナーである。おおよその意味は以下のようなものだ。

「4月12日付のお手紙、ありがとうございます。
 私はあなたが立派な野球ファンであり、ワールド・ベースボール・クラシックをご覧になったことを嬉しく思います。
 審判員の判定のいくつかについてはお詫びします。しかし、判定というものは130年間にわたって野球の一部でありました。あなたはとても建設的な助言をなさいました。それらはきっと、次回の2009年ワールドベースボールクラシックが計画される際に実行されることと確信しています。
 時間を費やして手紙を書いていただいたことに感謝します。ご意見が聞けて嬉しく思います。

                           バド・セリグ」


 「親愛なるバド・セリグ様へ。」と題したエントリのコメント欄を最後までご覧になった方はご存知のように、私がボブ・デビッドソン審判の判定に対する抗議文の素案をこのエントリに書いたところ、このブログによくいらっしゃる馬場伸一さんが、これをもとにして英文の抗議の手紙をコミッショナー宛てに郵送した。すると、ほぼ一か月後、馬場さんのもとにセリグから手紙が届いた、という出来事があった。

 私自身はエントリをアップした際にメールを送っただけで、手紙は郵送しそびれていたのだが(お恥ずかしい限りです)、馬場さんのご報告をきっかけに、遅まきながら大会終了後の感想として英文の手紙を書き、コミッショナー宛てに送ってみた。送った手紙の内容は、以下のようなものだ(と思う。私の拙い翻訳が大きく間違っていなければ)。

「私は日本の野球ファンです。
 今日、シアトルとクリーブランドの試合のテレビ中継を見ています。
 ボブ・デビッドソン審判が一塁塁審として出場しているのを見て、WBCでの出来事を思いだしました。
 彼がアメリカ-日本戦で、そしてアメリカ-メキシコ戦で犯したミスは、野球の審判員として、決してあってはならないことでした。主催者は、彼がミスを犯したことを最後まで認めませんでした。そのことは大会の権威を傷つけました。とても残念なことです。

 我々日本の野球ファンは、WBCの開催を楽しみに待っていました。WBCは素晴らしい大会になりました。日本の優勝という結果にも満足しています。
 しかし、日本を含めた世界の野球ファンは、WBCの運営には、決して満足していません。
 審判員は第三国から選出されるべきです。同一の対戦が3度も繰り返されることは避けるべきです。
 WBCには、数多くの改良の余地があります。

 あなたがたが、この素晴らしい大会を実現したことに、私は敬意と感謝の意を表します。と同時に、第2回大会が、もっと素晴らしくなるために、ぜひ、日本を含めた他国とよく話しあい、意見に耳を傾けてください。世界の野球の発展のために。」

 これに対する返信が冒頭の手紙だ。まずは型通りの文面といってよい。多くの抗議の投書に対して、似たような手紙を送っているのだろうと想像できる。とはいうものの、私の手紙に対する返事として過不足はない。馬場さん宛ての手紙とも、多少文面が違っている。
 つまり、MLBコミッショナー事務局では、海外から送られてきた抗議や意見の手紙に対して、それぞれの内容に応じた返事を誰かが考えてタイプし、セリグが直筆のサインを入れて発送している、ということになる。
 世界中から何通の手紙が届いたのか知らないが、これだけの労力を費やしてファンに対応していること自体には、素直に頭が下がる。WBCに限ったことではなく、これが彼らの普通の対応なのかも知れない。馬場さんの「テキのマーケティング力はすごい」という感想には、まったく同感する。

 さて、われらが日本のコミッショナー事務局は、ファンから寄せられた手紙に対して、どのような対応をしているのだろうか。コミッショナー宛てに手紙を書いたことのある方は、結果を教えていただけるとありがたい。

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地域リーグの生きる道。

 先週、四国に出張する機会があり、4/9に松山で四国アイランドリーグの試合を見てきた。愛媛-徳島、坊っちゃんスタジアムでのナイターだ。4月のナイトゲームは、四国といえども、やや肌寒い。

 客席は内野一階席のみ解放。入場者数は602人と発表された。
 観客の大半は愛媛マンダリンパイレーツのチームカラー、オレンジ色の帽子やシャツ、法被を身に付けている。三塁側のベンチ裏が応援の中心地帯。法被の背中には「愛勇会」と書いてある。古式豊かな野球の応援団、という感じ。
 本来なら両ベンチ裏のスタンドに双方の応援団が陣取る、という高校野球風の風景が期待されるところだが、徳島側の応援は、ぱらぱらと10人くらい。女の子2,3人が淡々と選手の名をコールしている。もう少しサポーターが遠征にもついてくると盛り上がるところだ。
 スタンドには子供が目立つ。それも、小学校低学年や幼稚園くらいに見える小さい子供たちが、自分の頭より大きそうなグローブを持ってファウルボールを追いかける姿は微笑ましい(とはいうものの硬球だ、取りそこねて誰かケガでもするのではないかと冷や冷やもするが…)。
 グラウンドは、やや薄暗い。照明灯を見ると、一部のライトを落としている。これも経費節減のためだろうか。

 試合開始には間に合わなかったので、試合前にどんなアトラクションがあったかは判らない。
 5回終了後のグラウンド整備、スタンドのグッズ売り場、いずれも試合に出ていない選手が交代でやっている感じ。グラウンド整備の時間には、両軍の新入団選手がバックネットに向かって並び、マイクで一言づつご挨拶。ディレイを起こして、何言ってるのか全然わからなかったが(笑)。

 試合は投手戦。といえば聞こえはよいが、どちらかといえば打撃が奮わないように見えた。なかなか外野にも打球が飛ばない。
 打撃低調なのは昨年からの傾向らしく、公式プログラムに記載された昨年の成績を見ると、本塁打王が6本、チーム本塁打数も最多で20本だ。90試合やっているのだから、タイトルホルダーは20本近くは打って欲しいところだ。
 選手はNPBに比べると概して小柄。率直に言って、上手くはない。
 例えば打席でのボールの見送り方、内野ゴロに向かって走り寄る姿、マウンド上でのたたずまいなど、ちょっとした動作・所作が、どうにもしっくりせずに、ぎくしゃくして、あるいはガサツに見える選手が多い。上手な選手の多くは自分の間合いを持っており、一連の動作が予定調和のように滑らかに完了するものだが、そういうものを感じさせる選手が、なかなか見当たらない。
 開幕直後だし、客席にいると冬支度でちょうどいいくらいの気温だし、そもそも1試合だけで判断されては迷惑だろうから、割り引いて聞いていただいてよいのだが、四国アイランドリーグが経済的に成り立っていくためには、やはり野球そのもののレベルをもう少し上げなければ厳しいのではないかという印象を受ける。

 選手たちは無名ではあるが、昨日今日野球を始めた、というわけではない。それなりに強い高校や大学を出て、甲子園出場経験も結構いる。ということは、彼らの多くは、一度はNPBのスカウトの目に触れて、「不要」という判断を下されたことになる。いわば白紙ではなくマイナスからのスタートなわけで、そういう選手が再びスカウトの目を惹くには、学生時代よりもよほど飛躍的に成長する必要があるだろう。
 高校や大学を卒業した時点で優秀な選手は、直接NPBに行く。ここに集まってくるのは、NPBに採用されるには何かが足りなかった選手だ。その「何か」を補うことは、ただ「懸命に練習する」だけでは難しいのだろうと思う(学生時代にだって、それぞれ自分なりに懸命に練習してきたのだろうから)。
 つまり、四国アイランドリーグが切実に必要としているのは、彼らにブレイクスルーをもたらす力を持った指導者ということになる。

 そういう目で各チームのメンバー表を見ると、残念ながら、監督やコーチの多くも、選手と同様に若くて無名だ。大半がNPBの選手経験者だが、はなばなしく活躍した経歴を持つ人はいないし、NPBのコーチ経験がある指導者も少ない。彼らが選手にどれだけの付加価値をつけられるのは、失礼ながら、はなはだ心許ない。
 となると、まずコーチたちを指導する人材が必要だ。中西太、上田利治ら地元出身者がそれぞれのチームアドバイザーとなっており、NPBの監督・コーチ経験者が巡回コーチをする制度も設けているそうだが、どのくらい機能しているのだろう。こういう面でこそ、NPBが支援に乗り出せばよいと思うのだが。
(以前「プロ野球に二軍は必要か。」というエントリでも書いたように、私は、NPB各球団が選手を大量に自前で抱えるよりも、社会人野球や独立リーグのような下部構造を支援して育成システムを整備する方が、NPBと野球界全体の利益につながるのではないかと考えている。「育成ドラフト」などという妙な制度を作るよりも、四国アイランドリーグにコーチを派遣した方がよいのではないか)

 ファンサービスも地域密着も大事だが、やはり試合そのもののレベルをもう少し上げないと、見世物としては厳しいのではないか。坊っちゃんスタジアムではNPBの公式戦も行われる。同じグラウンドで見ると、力量の差がよくわかってしまう。

 愛媛県でいえば、サッカーの愛媛FCが今年からJ2に昇格した。開幕戦はホームに横浜FCを迎えた。「キング・カズ来る!」という試合に勝って、大いに盛り上がったらしい。天皇杯に出場すればJ1のクラブと戦う機会もあるし、理論的には優勝の可能性もある。
 同じ地域のクラブだけに、両者が置かれた立場の違いは、普通の市民の目にもよくわかってしまうはずだ。サッカーでは、地方の小クラブがトップレベルに進む道が開けている。しかし、四国アイランドリーグは、ただ四国4県の中で戦うだけの閉ざされた構造にある。どんなに頑張っても、清原や松坂と試合ができるわけではない。だからこそ、石毛代表は「選手がNPBに進む」という形で開いていこうと腐心しているのだろう。
 とはいうものの、率直に言えば、その可能性のある選手は、ほんの一握りではないかと思う。NPB入りの夢だけでリーグ全体を支えていくのは難しいだろう。それだけではない、独自の魅力が必要だ。

 現在の運営や宣伝を見ていると、主として地元に目が向いているようだ。それはもちろん正しいと思うのだが、一方でアイランドリーグは四国の観光資源という面も持っている。野球だけを見に行く人は多くはないだろうが、四国は観光地でもあるのだから、他の何かと組み合わせれば十分に観光コンテンツたりうるのではないかと思う。
 その意味では、県や市の観光振興にもっと組み込まれてよいと思うし、試合のある日には駅や空港に表示されているとよい。そもそも四国アイランドリーグの公式サイトには、試合日程はあっても、スタジアムへのアクセス方法が記載されていない。他地域からの観客にも、もう少し目を向けた方がよいのではないだろうか(自分がそういう立場だけに、そう思うわけだが)。

 また、ひとつの可能性として考えられるのは、他の地域リーグとの交流だ。例えば中国地方に独立リーグが生まれ、両者のチャンピオンが「瀬戸内シリーズ」として戦うというのは、なかなか魅力がありそうな気がする。
 実際、ほかの地域にも、地域リーグ構想を唱えるグループがいくつか見られる。萌芽はあるのだ。続こうという地域がやる気を失わないためにも、四国アイランドリーグには歯を食いしばって存続してもらいたい。

 とりあえず一観客として、微力ながらも少しは金を置いてこようと帽子やTシャツを買い込んだ。派手なオレンジ色の野球帽をかぶる機会がそうそうあるとは思えないけれど、次に草野球をする時には、かぶってみようかと思う。

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今後、4月下旬には海外出張などがありまして、更新およびコメントが滞る見込みです。
その後も5月下旬までは更新頻度が下がることになりそうです。訪ねてくださった方には恐縮ですが、ご了承ください。(2006.4.20)

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佐藤信夫・佐藤久美子『君なら翔べる!』双葉社

 刊行は2005年12月。サブタイトルは「世界を魅了するトップスケーターたちの素顔」とある。いかにも五輪前のお手軽な便乗本という風情の造本に、手に取ることもなく敬遠していたが、梅田香子がblogで褒めていたので読んでみた。なるほど褒められるだけのことはある。

 トリノ五輪でいうと、キス・アンド・クライで村主章枝の隣に座っていたのが佐藤信夫、荒川静香といたのが佐藤久美子。佐藤夫妻は、それぞれが日本の主なフィギュアスケート選手の大半を手がけてきたベテランのコーチで、世界選手権チャンピオン佐藤有香の両親でもある。かつては日本を代表するスケーターだった。
 その2人が、聞き書きの形で、それぞれのスケート人生を交互に振り返り、最後に2人の対談で終わる、という構成。お手軽どころではない、堂々たる日本フィギュアスケート私史である。

 信夫がフィギュアスケートを初めて見たのが1952年、習い始めたのが1953年。戦争のため娯楽施設は閉鎖され、信夫のいた大阪でスケート場が再開したのが52年というから、この人は、戦後のフィギュアスケート史のすべてを経験してきたといってよい。映像もなければ情報もない、どんな技があるかも判らないという時代に、海外選手の来日など、わずかなチャンスに貪欲に吸収し、人から人へと技が伝えられていった様子が語られる。
(彼らの口に上る人名がきちんとフルネームで記され、巻末の注も充実しているので、フィギュアスケート史の資料としても価値のあるものになっている)
 引退して会社員になっていた信夫が、選手仲間だった大川久美子の父に乞われて久美子のコーチとなり、そこからコーチ人生が始まる。選手として日本選手権に初出場してから、引退後はコーチとして選手を送り出し、実に50年続けて日本選手権に「出場」しているというのだから凄い。
 指導者としても手探りのままスタートし、自らも成長してきた。そうやって、まさに日本のフィギュアスケートを背負ってきた夫婦だというのに、2人とも謙虚すぎるほど謙虚。

「久美子 (前略)私たちがオリンピックや世界選手権の檜舞台に出ていけるのも、選手がいてこそのことだから。私たちが選手を作ってきたわけでもなんでもない。たまたま出会いがあって、今教えてるだけだと思うんです。そこは勘違いしないでやってきたつもりではいます。全部が、自分たちが作り上げたことではないんだと。
信夫 そこを勘違いしていたら、きっとここまでは来られなかったでしょうね。
久美子 そう。やっぱり私たちも選手たちも、お互いが勉強しあってる。一緒に成長していってる。まあ私たちの方は、成長してるかどうかわからないけれども(笑)。」

 荒川静香がトリノで金メダルを取った時にも、久美子は「私は何もしていないのに…」というコメントを残していた。こういう人たちだから、選手も辛い練習についていけるのだろう(温厚そうな顔つきからは想像しにくいが、選手のちょっとした談話などを見ていると、少なくとも信夫コーチはかなり厳しい指導をするらしい)。
 とはいえ、単なる精神論が続くわけではなく、選手との接し方から、よい氷の作り方、エッジの研ぎ方など、ひとつひとつの工夫に関する話題が具体的で興味深く読める。

 読者が期待するのは、荒川、村主、安藤ら今のスター選手たちのエピソードだと思うが、その点も新聞やテレビ、雑誌で紹介されたような皮相的なものではなく、選手そのものの理解につながるような形で、きちんと押さえている。
 また、対談の中では、新採点システムに対する評価もかなり詳しく語られている。システムからこぼれ落ちてしまう大切なものを指摘しつつ、一定の評価も与えて、基本的には賛成だが「きっちりとしたジャッジと感動できるパフォーマンスとの間には、まだうまく歯車が合わない部分もある」と信夫は話している。誰が見てもよいと思うものに点数がつきにくいとしたら、やはりおかしい、と。
 どちらも、トリノ五輪を終えた今だからこそ、実感をもって理解できる。

 冒頭に「便乗本」という言葉をやや批判めいたトーンで使ったが、このような、クオリティは高いが地味な内容の本は、トリノ五輪前で女子フィギュアが異常に盛り上がっている、というタイミングでなければなかなか刊行できなかったに違いない。そんな本でも市場に出すことが可能になるという点では、便乗本おおいに結構、である(今年は「こんな時でなければ絶対刊行されない」ようなサッカー本も、いくつも現れることだろう)。

 私は、彼ら自身が語る姿や声を見たことも聞いたこともないが、本書の文章には、たぶんこの人たちはこんなふうにしゃべるのだろうな、と思わせる穏やかさがある。聞き書きの本で、これほど自然な語り口を全編貫くのは、それほど簡単なことではない(著名な女性スポーツライターで、選手の談話部分の文章がものすごく不自然で読むのが辛い書き手が2人ほどいる)。
 金銭面や選手のマネジメント、選手の親との葛藤など、微妙な話題にもきちんと触れていながら、この穏やかで柔らかなトーンを崩していないのは見事なものだ。著者として表に名前が出てはいないが、巻末の丁寧な注も含めて、構成者(青嶋ひろの・白石和巳)はよい仕事をしている。


 それにしても、本書を読んで驚いたのだが、大学を出た佐藤信夫を自分の経営する企業に就職させ、社会人として競技を続けさせたのも、引退後にコーチの道を開いたのも、引退後の久美子にコーチをするよう誘ったのも、2人が指導する場となるスケート場を作ったのも、2人に結婚を勧めたのも、すべて堤義明だ。今も荒川静香はプリンスホテル所属だし、佐藤夫妻が指導し荒川、村主、安藤のトリノ五輪代表3人が練習していたのは新横浜のリンク。
 アイスホッケーやスキーだけでなく、フィギュアスケートもまた、堤義明の庇護の下でここまで来たのだと改めて痛感する。逆に言えば、これほど巨大なパトロンだった堤が経営の一線を退いた今、フィギュアスケートの競技環境は岐路に立たされている、ということでもある。

 以下は本書と直接関係のない余談。
 トリノ五輪の後、フィギュアスケート連盟の財務における問題が取り沙汰されている。報じられているような特定幹部への過剰な利益供与が実在するのであれば、連盟は自ら事実を明らかにし、襟を正すべきであることは言うまでもない。
 黎明期に一部の人々の損得抜きの愛情によって成り立ってきた競技が、社会的に認知され、人気を集めて、利益が生ずるようになると、しばしばこういう事件が起こる。サッカー界でも、Jリーグの初期にいくつかの事件があった。

 フィギュアで問題になっている幹部がどうであったかは知らないが、多くの競技団体で、初期の幹部たちは、競技のために私財を投げ打つという形での「公私混同」をし続けてきたはずだ。自分の財布と競技団体の財布を区別しない形でやってきて、ようやく「公」の方が利益を生むようになったのだから、少しくらい返してもらってもいいだろう。そんな感覚があるのではないかと思う。
 気分としては同情できる面がなくもないが、やはり、それは許されないことなのだ。競技が、彼ら仲間内のものから社会全体のもの、国民のものに生まれ変わる段階で、そのような内輪意識にケリをつけておかなければ、結局は後々まで禍根を遺し、彼らが愛してやまなかったはずの競技そのものに大きな迷惑をかけることになる。競技が普及する、メジャーになるというのは、そういうことなのだと思う。

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名捕手は、いきなり現れる。

 城島健司(03)、古田敦也(93,97)、山倉和博(87)、中尾孝義(82)。過去30年間にシーズンMVPを獲得した名捕手たちには、プロ入り3年目までにレギュラーを獲得したという共通点がある。
 だが、彼らといえども最初から名捕手だったわけではない。正捕手を任された時点では、周囲には「まだ早い」と言われ、批判を受けることも多かった。
 城島がレギュラーになったのは高卒3年目で、過去2年間の出場はそれぞれ20試合以下に留まっているからギャンブルに近い抜擢だった。山倉は新人の年からレギュラーとして使われたものの「打率が身長より低い」と揶揄された。中尾は、それまで強打の捕手として打線の中軸に君臨していたベテラン木俣達彦を外野に追いやる形で起用された。入団と同時に野村克也監督が就任し、数名のレギュラー候補を横一線に並べたテストの末に選ばれた古田にしても、それまで試合に出ていた秦らを押しのけての抜擢であることに変わりはない。
 それでも当時の監督がレギュラーとして使い続けているうちに、彼らの才能は開花した。「競争を勝ち抜いた」というよりも、「地位が人を作った」という印象を受ける。

 苦労を重ねてからレギュラーになった好捕手も、もちろんいる(私の大好きな村田真一もそうだ)。だが、超一流の捕手というものは、若くして抜擢され、英才教育を受けることによって完成するようだ。「捕手は経験が必要なポジション」とはよく言われることだが、逆に言えば、然るべき才能を備えてさえいれば、意図的に経験を積ませることによって促成栽培が可能だということを、歴史は示している。

 捕手としては山倉あたりよりずっと高く評価されているであろう伊東勤も、同じように育てられた。定時制高校を経てプロ入りした伊東は、普通の高卒よりは1歳年上ではあったが、ルーキーイヤーの82年から33試合に出場。2年目は56試合ながらも、ジャイアンツと戦った日本シリーズでは軸として使われて日本一に貢献したと記憶している。そして、翌3年目の84年にはレギュラーになり、2003年に引退するまで、誰にもその座を明け渡すことはなかった。

 西武は和田一浩、引退した高木大成、今をときめくG.G.佐藤など「元捕手の主力選手」が妙に多いチームで、そのわりに肝心の捕手は育たなかった。伊東が偉大すぎて、和田や高木が割り込む余地がなかったということなのだろう。伊東が引退して即監督になってからは、「伊東捕手の後継者」が大きな課題だった。就任3年目にして、その課題は解決に向かっている。高卒ルーキーながら、開幕からレギュラーに抜擢されている炭谷銀仁朗だ。

 ここまで書いてきたように、炭谷が試合に出ていることの意味は明らかだ。自らもそうやって育てられた伊東監督だから、こういう大胆な起用ができる。
 私は西武の試合をつぶさに見ているわけでもないし、リードについてあれこれ言えるほどの見識もない。ただ、テレビ中継に見る炭谷の落ち着いたたたずまい、堂々たる振る舞いには、ある種の感銘を受ける。大成する選手はしばしば若いころからこういう雰囲気を備えている。
 伊東勤と西武ライオンズは、再び黄金時代を築く礎を手にしようとしているのかも知れない。


 炭谷と同じように、王貞治監督が手塩にかけて育て上げた城島健司は、マリナーズで開幕から活躍している。形式上はルーキーだとはいえ、すでに日本を代表する捕手であり、即戦力として加入したのだから、城島がいきなり使われることはサプライズではない。開幕から2試合連続ホームランというのも、日本シリーズにやたらに強かった彼なら、いかにもやりそうなことだ。
 むしろ気になっているのは、捕手としての城島がどのような評価を受けているのか、という点だ。

 キャンプ以来の報道を見ていると、城島の捕手としての振る舞いは、マリナーズの投手たちに新鮮に受け止められているようでもある。投球練習で一球ごとに投手に声をかけるスタイルをはじめて経験した投手は、「こんなにほめられたのは親父以来だ」などと戸惑いつつも好意的だったという。言葉の壁を指摘する声は強かったが、テレビ中継では、マウンドの投手に歩み寄って自分から話しかけたり、ベンチでも何やら投手と話していたりする。
 強い感銘を受けるのは、いずれの場合にも、明らかに城島が話し合いの主導権をとっている(あるいは、とろうとしている)ように見えることだ。もちろん英語を猛勉強してきた成果でもあるのだろうが、城島の堂々としたたたずまいからは、強いリーダーシップが感じられる。

 1975年に長嶋茂雄がジャイアンツの監督に就任した時に、MLBから捕手を獲得しようと動いたことがある。当時の日本を代表する捕手といえば、長嶋の同僚だった森昌彦であり、野村克也。重厚な頭脳労働者、というイメージが強い。メジャーの捕手のパワー、スピード、ダイナミズムといった面を日本野球に吹き込みたい、というのが長嶋の考えだったようだ。
 それは結局実現しなかった。以後30年以上を経ても、MLBから捕手を招くチームはない。プロ野球70年の歴史の中で、アメリカ人の正捕手は戦前のイーグルスのバッキー・ハリスだけだ。
 だが、その30年の間に、日本の捕手も大きく変わった。全盛期は短かったものの、中尾のスピードやダイナミズムは衝撃的だったし、古田も若いころは捕手にあるまじきアグレッシブな走塁を見せていた。彼らの陽性なキャラクターも魅力的だった。
 そんな変化の集大成とも言える城島が海を渡り、MLBで一定の地位を築きつつある。シアトルのチーム成績が向上すれば、城島が持ち込んだ日本流の捕手術も評価を受けることになるだろう。
 長嶋がMLBの捕手術に学ぼうとしてから三十年余、日本人がアメリカに捕手術を教える日が来ようとしているのかと思うと、これも感慨深い。

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