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2006年5月

ナイジェリアに見た黄金世代の夢、ポルトガルに見た現実。

 一夜明けて(いや、もう二夜ですが(笑))、改めてワールドカップ・ドイツ大会に臨む日本代表23人の顔触れを眺めると、端的に言えばこれは「ほぼシドニー五輪代表」である。世代的に言えば23人中17人、シドニー五輪の予選・本大会に出場した選手は(オーバーエイジの楢崎を含めて)たぶん12人。さらにいえば、このメンバーのうち、小野、小笠原、稲本、中田浩二、遠藤、加地、高原はナイジェリアで開かれたワールドユース99のファイナリストでもあった。

 98年フランス大会以後に日本代表が参加した世界大会で、私がもっとも熱中したのは、このワールドユース・ナイジェリア大会だったような気がする。
 当時も今も、世界大会で日本代表の現実的な目標と考えられているのは「グループリーグ突破」である。過去のワールドカップでも、年代別大会でも、突破できたにせよ、できなかったにせよ、興奮のピークはいつもグループリーグ最終戦にあった。
 唯一そうでなかったのがこのワールドユースだ。初戦でカメルーンに敗れたからグループリーグ突破が楽だったわけではないが、しかしトーナメント進出以後は、ひとつ勝つたびに新しい局面が開けていった。次はどこだ?ポルトガルか、次はメキシコか、と、見ているだけでむくむくと闘争心が沸き上がる。大会が進むごとに興奮がどんどん高まっていく、ノックダウン方式の醍醐味ともいうべき愉しみは、サッカーを見ていてほかに経験したことがない(アジアカップも同じ大会方式ではあるが、やはり準決勝くらいまでは行って当然、という感覚で見ているのだろう)。

 出場した選手たちにも魅力があった。中盤の王様として国際大会で初めて力を発揮した小野。小野をサポートして中盤を走り回り、タフでシャープな技術を見せた小笠原。ここぞという局面で点を取ってくれた高原。体調不良で出場時間の少なかった稲本に代わって中盤の底を支えた遠藤。中盤から3バックの左にコンバートされてもソツのないプレーを見せた中田浩二。また、23人のリストには残れなかったが、左サイドからのドリブルがキレまくってナイジェリアの観客に熱狂的に支持されていた本山は、この大会の最大のスターだった。手島も急増フラット3を中央でよくコントロールしていた(加地も3試合に交代出場したが残念ながらあまり印象に残っていない)。

この若者たちが成長した時、日本代表が世界と対等に渡り合う日が来る。夜毎にナイジェリアからの中継を見ながら、私はそう思っていた。勝ち進む目の前の大会だけに興奮していたのではない。その先の未来を彼らのプレーの中に見ていたのだろう。
 その時の想像が、今、現実となっている。あの時の若者たちの多くが、今、日本代表としてドイツに渡る。2002年にはまだ初々しかった彼らも、海外に出たり戻ったり、深刻な故障や病気に苦しんで克服したり、移籍によって飛躍したり、さまざまな経験を積んで、少年から男の風貌に変わった。

 90年代に入ってから彼らが出現するまで、日本では「若い世代ほどサッカーが巧く、国際大会に強い」という右肩上がりの時代が続いていた。
 そして、彼ら以後の選手たちは「谷間の世代」などと呼ばれ、実際に各年代での世界大会で彼らに匹敵する成績を残せずにいる。
 つまり、彼らの世代は90年代以降の日本サッカーのピークなのであり、その彼らがサッカー選手の最盛期といわれる20代後半になった2006年は、日本サッカーのひとつの当たり年といってよい。
 川口や中田英、中沢、中村らも含めて、現在キャリアの頂点にあるはずの選手たちが、ドイツでどのように戦うのか。黄金世代と呼ばれるに相応しい闘いぶりを見せてくれるだろうか。ドイツ大会における日本代表についての私の関心は、主にそういうことになりそうな気がする。

 そんな気がしてはいるのだが、正直なところ、7年前ほどに今の私がワクワクしているわけではない。大会が始まって日本代表が勝ち進めば興奮するのだろうとは思うが、現時点でさほど盛り上がっていないのは、もっと成長しているはずだったのに、という思いが拭えないからかも知れないし、現代表監督就任以来の4年間のあまりの変わらなさ加減に、いささか倦怠を感じているのかも知れない。選手たち自身は、どうなのだろう。長い間、同じ顔触れで同じことをやり続けて、飽きるということはないのだろうか。

 ユース世代で大きな成功をおさめた黄金世代のその後、ということで思い出すのはポルトガルだ。フィーゴ、ルイ・コスタ、フェルナンド・コウトらを擁して89年、91年にワールドユースで連続優勝したポルトガルは、しかし94年、98年と連続してワールドカップ出場を逃した。彼らが主力となって臨む最初で最後のワールドカップであり、集大成となるはずだった2002年には、韓国に惨敗してグループリーグ敗退。まったく期待に応えることができなかった。
 その2年後に自国開催された欧州選手権では、ブラジル人監督フェリペが改革を断行し、クリスチャーノ・ロナウドやブラジルから帰化したデコらの若手が台頭。黄金世代の選手たちは1人また1人とベンチに、あるいは代表メンバーの外においやられていく。大会が始まってからも世代間闘争は続き、開幕戦での敗北を受けたフェリペの選手入替えが功を奏して、ポルトガル代表は決勝まで勝ち進む。
 若者たちの野心とベテランの意地や怒りがぶつかり合ったこのチームは、とても魅力的だった。ある意味ではフェリペが演出したとも思えるようなルイ・コスタとデコ、フィーゴとロナウドのポジション争いは、チーム内にダイナミズムを作り出し、それまでのポルトガルには見られなかった爆発力を生みだす原動力となったように見えた。
 フィーゴたちがワールドユースに優勝してから、12年後のことだった。

 日本がワールドユースの決勝に進んでから、今年は7年目にあたる。フィーゴやルイ・コスタにとっては、出場できなかったフランス大会の頃だ。
 その間のポルトガル代表の事情に精通しているわけではないが、10代の頃から同じような顔触れで各年代の大会を戦い、そのまま揃って代表入りして、下の世代からポジションを脅かされることもないまま、馴染みの顔触れで試合をし続けている、という状況だったとしたら、それは今の日本代表と似ているのかも知れない。そして、華麗なテクニックを持ち、中盤でよくボールを回すけれどもゴールにたどりつけずに敗れる、という当時のポルトガルの試合ぶりと今の日本も、また似ている。同世代の同質な顔触れで長い間プレーし続けることには、もちろんメリットもあるけれど、同時にある種の脆弱さにつながるのではないかという懸念は拭えない。
 そもそも日本が初めてワールドカップ予選を突破した97年秋の闘いにおいても、日本代表内部での世代間闘争が、チームに激しいダイナミズムを与えていたのではなかったか。

 そう考えると、「ほぼシドニー五輪代表」ともいうべき今回の代表チームが、あまりにも限られた世代に偏りすぎていることには、一抹の不安を覚える。予選突破の上で大きな力となった藤田や三浦、欧州リーグで数少ない成功を収めている松井や平山が加わることでチーム内に生じたであろうダイナミズムを、ジーコは必要と考えていないようだ。もちろん、今のチームは世代間というより世代内で激烈な競争があるから、ひとりひとりは決して安泰ではないけれど。
 ポルトガルの例にこだわるようだが、その意味では、私は実は2010年の南アフリカ大会を楽しみにしている。
 「黄金世代」は30代に入り、すでに峠を越えつつある。故障、不振、体力的な衰え、さまざまな理由で、ひとり、またひとりと代表から遠ざかっていく。かつて彼らをもてはやしたメディアや国民は、掌を返したように彼らを批判し、「エリート養成システムの弊害」などと叩いたりする。そんな紆余曲折を経た末に2010年を迎えた「黄金世代」の残党が、仲間を蹴落として代表に加わってきた若手選手たちと、時に対立や葛藤を起こしながらも、今度こそ本当に最後のワールドカップに臨む……。そんな状況になったとしたら、日本代表にはこれまでになかったような性質の強さを見せてくれるのではないだろうか。
 豊かな才能でひた走ってきたエリートたちに、この種の陰影が加わった時、チームは味わい深いものになる。そんなチームの戦いぶりも見てみたいし、その時こそ、このチームに私は心底、共感できるかもしれない。

 …なにもドイツ大会が始まろうという時に次の大会への期待を語らなくても良さそうなものだが、文章というのは、しばしば書いているうちに筆者自身の思いもよらない方へと進んでしまう。
 このシナリオが実現するためには、彼らは2006年大会を失意のうちに終えることが前提となる。一見物人の屈折した妄想を満たすために、目の前の大会を棒に振る必要などないことは言うまでもない。というより、私だって今大会を勝ち進む日本代表は見たい。
 4年後のことは4年後に考えればよい。ドイツ大会代表の選手たちには、1か月後に私が「馬鹿なことを書いたものだ」と恥ずかしくなるような闘いぶりを見せてくれることを、これはこれで本心から願っている。

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誰かジーコを知らないか。

 5月15日の夕方、エル・ゴラッソ5/15-16日号を買ったら、後藤健生によるキリンカップの総評コラムが2面に掲載されていた。FW陣の働きぶりを、ワールドカップ代表争いと絡めて、後藤はこんなふうに書いている。
「この数カ月を振り返れば、久保が6月に本来のコンディションを取り戻せる可能性は低い」
「巻や佐藤も決定的な仕事はできなかった。巻の前線での守備は、劣勢に立たされるであろうW杯での試合では有効だろうが(その点では、久保より巻だ)」
 なるほど。ジーコがこの日の午後に読み上げたリストの23番目の名前が、久保でなく巻であった理由は、これで説明がつく。
 だが、後藤の文章は次のように続く。
「そして、柳沢は故障中。『故障者の回復待ち』というのは大きなギャンブルである」
 久保はまがりなりにも試合に出ている。コンディションを問題にするのなら、柳沢の現状は久保以下だ。それでもジーコは久保でなく柳沢を選ぶ。

 私は、例えば4年前にトルシエが中村俊輔を選ばなかった理由を自分なりに説明することができる(以前、『シュンスケ・コールが響く前に。』に書いたことがある)。それが正しいか間違っているかは別として、それまでのトルシエの言動は、部外者にも推定可能なだけの材料を与えてくれていた。
 8年前、フランス入りを前に岡田武史が三浦知良を外した理由も、理解できなくはない。カズも北沢もあのチームに必要な人材だったと私は思っているが、それは多分に結果論でもある。少なくとも、岡田がグループリーグ3試合で起こりうるあらゆる局面をシミュレーションした末に、他の選手に比べて2人の必要性が低いという結論に達したのだろうということは、疑っていない。
 だが、私はジーコが久保でなく柳沢を選ぶ理由、アレックスを選び続ける理由、闘莉王や松田に目もくれない理由を説明することができない。
 それは、単に私のジーコに対する理解が足りないからかも知れない。では、誰か上記の理由を合理的に説明できるだろうか。明日の新聞、あるいはこれから代表メンバーを報じるサッカー雑誌の中に、これらを明快に説明してくれる言説を見出すことができるだろうか。

 日本代表監督就任から4年近くを経て思うのは、とうとう日本には「ジーコの代弁者」が現れなかったな、ということだ。
 岡田武史は、自分自身で明晰に説明することができた。トルシエには田村修一という代弁者がいた。あるいは後藤健生のようにトルシエに「食い込む」ことをしなくても、観察によって彼の指導理論を分析する人物がいた。
 では今、ジーコについて、その監督術、指導理論を明晰に説明し、分析できる人物が日本にいるだろうか。私はある時期からジーコに関する言説や記事に関心を失ってしまい、ほとんど目を通していないので、見落としているのかも知れない。心当たりのある方は教えていただけるとありがたい。
 私が読んだ中でほとんど唯一、腑に落ちるところのあったジーコ論は、北京で開かれたアジアカップをルポした西部謙司の『ゲーム・オブ・ピープル』(双葉社)だ。
 西部は、サッカー人としての偉大さと、指導者としての凡庸さのアンバランスが監督ジーコの特徴であると規定し、双方をじっくりと是々非々に描きながら、アジアカップにおける日本代表のメンタリティの勝利が、この奇妙な監督のまさに奇妙な特性によって成し遂げられたものであることを示していく。大変面白い読み物なのだが、西部自身も、アジアカップにおいてジーコのどのような力が、いかにしてチームに勝利をもたらしたのか、論理的に説明できているわけではない。
 いや、西部の炯眼があってこそ、言葉ではうまく説明のつかないような「サッカー人としての偉大さ」に着目できたのであって、ジーコの能力を言葉や論理で説明することは難しい。なにしろジーコ自身が自らの発言を次から次へと行動で裏切っていくのだ。事は容易ではない。非論理的な指導者の代名詞のように言われている野球における長嶋茂雄でさえ、もう少しましな説明はつけられる(実は彼には結構論理的な部分もある)。

 そして、発表されている書籍や記事や番組を見る限り、監督ジーコの方法論の代弁者が現れないだけでなく、人間ジーコに「食い込んだ」ジャーナリストさえ、日本にはいないように思える。ヴェンゲルやトルシエにおける田村修一、ストイコビッチやオシムにおける木村元彦のような書き手が、ジーコに対しては存在していない。住友金属時代から数えれば、すでに日本で15年以上過ごしているというのに、ジーコのことなら彼に訊け、と言われるようなライターが1人もいないというのは、考えてみれば驚くべきことではないだろうか。
 ジーコの存在があまりに偉大すぎて、誰もそんな恐れ多い取材方法を試してみようとは思わなかったのかも知れない。だが、あくまで想像だけれど、むしろジーコ自身がそのような形で取材者を近づけることを好まない人物なのではないかと私は思っている。一通りの対応はするけれど、それ以上の胸の内、肚の底を見せることはない。人間としても監督としても、ジーコはそのような態度を貫いている。

 念のために書いておくが、私はジーコが非常に高い志を抱いて日本代表監督という仕事に臨んでいることは疑っていない。その高い志をいかにして実現しようとしているのか、という方法論の部分が、ついに理解できなかっただけだ。

 今日の記者会見に同席した川淵三郎JFA会長は「ジーコ監督と2人で記者会見をするのは4年前の調印式以来」と個人的感慨を口にして、満足げな表情を浮かべていた。彼にはジーコが理解できているのだろうか。「人間ジーコ」「サッカー人ジーコ」に絶対的な信頼を置けるから全面的に任せる、というスタンスなのだろうか。ともかく、川淵会長が独断的に選んだと言われる代表監督は、任期途中で失脚することなく、当初からの目標であったワールドカップに臨む。

 この時点で確実に言えることは、ジーコはこの4年弱の間に、指導理論や指導技術など、目に見えるものはほとんど何も残してはいない。彼がよい指導者だったのか、凡庸な指導者だったのか、指導方法から判断することは困難だ。「結果はともかく、よい監督だった」「日本に大きな財産を残した」ということは、ジーコに限ってはどうやらなさそうだ。
 ワールドカップで勝つこと。ジーコという監督にとっては、それがすべてである。
 勝利か、さもなくば無か。


追記
ジーコは記者会見で、久保を外し柳沢を入れた理由を、次のように話している。
「久保はすばらしい選手で、彼のプレーは個人的にも大好きだった。しかし、いまはコンディションが悪く、能力を発揮できていなかった。最後まで考え抜いた結果、こうなった。それでは(骨折でリハビリ中の)柳沢はなぜ選んだかということになるが、周りの選手や自分の経験からもわかるが、骨折はしっかりとしたリハビリをすれば、復帰後すぐにいい動きができる。リハビリを見る限り動きがよく、本大会でも期待できると判断した。逆に中途半端なコンディションで臨むと、チームの足を引っ張るおそれがある。とくにフィジカル面はだましきれない。自分も選手時代に苦い経験をしたので、このチームでは起こってほしくないと思った。」(毎日新聞 )
 本大会での柳沢の動きが回答、ということになる。

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全治3か月。

 後藤健生は、最初の著書『サッカーの世紀』を、1994年のワールドカップ・アメリカ大会におけるフランコ・バレージの戦いぶりから書き起こしている。
 緒戦のアイルランド戦を落として迎えたノルウェーとの第2戦。イタリア代表主将にして守備の要であったバレージは、試合中に膝を傷めて途中欠場を余儀なくされる。以後の大会出場はほぼ絶望的となるほどの重傷だったが、バレージは帰国することなくアメリカで内視鏡手術を受け、以後もリハビリテーションに励み、ケガから24日後に行われた決勝戦に先発出場。ブラジルが誇る2トップ、ロマーリオ(この大会の得点王)とベベットに食らいつき、延長を含めた120分間を無失点に抑えきった。驚くべき回復である。
 延長に入る前の短い休憩の間には、足が攣ったのだろうか、マッサージを受けながら痛みに絶叫していた。PK戦では第一キッカーとして枠を外し、敗退後、スタッフに支えられて泣き崩れる姿がテレビ画面に映し出された。常に落ち着き払ったバレージが、あんなにも顏を歪める姿を、私はこの前にも後にも見たことがない。それほどまでに執念を燃やし尽くした試合だったのだろう。
 後藤は書く。
「バレージは、チーム状態が最悪であるあの時点で、決勝進出の可能性を−−それが、いかに小さな可能性であったとしても−−信じて、それに合わせて治療と調整を続けたのである。なんという執念だろう!」

 芝生すれすれでボールをつかんだ直後に、松井秀喜が左手にはめたグラブが不自然に後方に折れ曲がるのを、私はたまたまテレビで見ていた。見ているだけで痛かった。かなりの重傷であることは明らかだった。
 彼が、すべての試合に出場することにどれほどの誇りを抱いていたかは、一見物人である私にもわかる。プロ入り以来、いや、もしかすると野球を始めて以来、試合に出られないほどの故障に見舞われたことのない彼にとって、この自体がどれほどのショックをもたらすものか、想像がつかない。しかも巨額の契約を結んだ1年目、尊敬する王貞治に招かれたWBC日本代表を辞退してまで、強い気持ちでワールドシリーズ優勝に賭けたシーズンである。考えただけでも気が重くなる。

 ヤンキースは松井の負傷は全治3か月と発表した。3か月後は8月中旬だ。レギュラーシーズンが終了するまで、まだ1か月半残っている。その時点でチームがどのような順位にいたとしても、挽回するには十分な期間だ。そしてその後には、彼が得意とするポストシーズンが待っている。
 12年前のバレージに比べれば、復帰した松井がポストシーズンに出場するというシナリオは、はるかに実現可能性が高いように見える。気持ちを切り替えて、晩夏から秋へと照準を合わせて欲しい。もちろん、そう簡単に切り替えられるものではないだろうけれど、幸か不幸か、切り替えるための時間も、さほど短くはないはずだ。
 故障を飛躍の糧にした選手は少なくない。松井もその仲間入りを果たせることを祈っている。

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スポーツをテレビで観るということ。

 スカパーがワールドカップ開幕1か月前を期して、5月9日に専門チャンネルを開局した。
 開局記念の3時間特番の中で、2002年大会時の人気番組だった「ワールドカップジャーナル」を1日限りで復活させというという企画があり、MCえのきどいちろう、データマンだった金子尚文、常連ゲストだった原博実が顏を揃えていた(アシスタントの間宮可愛は放送の仕事をやめて結婚間近とのことで顏を見せなかった)。あれから4年も経ったのだなと、とても不思議な気がした。

 「ワールドカップジャーナル」は、スカパーの2002年大会を代表する番組だった。というよりも、私にとっての2002年大会は、この番組とともにあったといってもよい。
 この1時間のトーク番組は、2001年春に週1回のレギュラー番組として始まり、同年12月からは毎日17時から(再放送は同日24時から)の生放送になった。土日も休まない掛け値なしの毎日である。

 「トーク番組」と書いたが、民放地上波で数多く放映されている「トーク番組」に比べると、「ワールドカップジャーナル」は全く異質の番組だった。
 レギュラー出演者はえのきどと間宮可愛という女性アシスタント、データマンの金子尚文という青年。そこに、原や後藤健生、風間八宏、水沼貴志、加藤久、伊東武彦、西部謙司といったサッカー関係者が、原則として毎回1人だけ出演する。
 間宮と金子は番組の進行にはろくに寄与していなかったので、実質的には、えのきどとゲストが1時間語り合うだけの番組だった。字幕も映像も音楽もクイズも有名タレントも色気担当の女性タレントも豪華プレゼントもなく、大会前まではサッカーの映像すら挿入されることもなく、えのきどとゲストは、ただひたすらサッカーについて喋り続けていた。それだけの何の愛想もない番組が、この上なく面白かった。

 後藤は毎週出演して、過去のワールドカップ各大会取材の思い出を話した(それは大会を重ねるごとに、サッカーファンから取材者へと立場を変えていく後藤自身の自分史でもあった)。加藤久や風間八宏は、よそでは見たこともないような笑顔を浮かべて軽口を叩いていた。水沼は民放でタレントを相手にしている時よりずっと厳しい口調でサッカー談義に熱中していた。原は途中でFC東京の監督に就任して番組から遠ざかったが、ワールドカップ開催中は解説の仕事に復帰し、例の独特のリズムで番組を和ませた。

 大会が始まると、「ワールドカップジャーナル」の放映時間は夜中に変わった。その日の試合および試合中継が終了し、普通のまとめ番組が終わった後の深夜、開始時刻も終了時刻も定まらないような状況で、各地の試合を解説したり観戦したゲストたちが駆けつけて、その日の試合について、えのきどと語り合った。とにかく自分が話したいことをえのきどにぶつけて一日が終わる。出演者たちはそんなふうだったし、視聴者もまた、そんな気分を共有していたのだと思う。私はそうだった。

 本業はコラムニストだがラジオでのキャスター経験が長く、インタビューの仕事も多いえのきどの、聞き手としての卓抜した力量がゲストの魅力を引きだしたのだろうと思う。
 そして、それを勘案してもなお、出演者の誰もが、サッカーを語るのが楽しくてたまらないという様子が伝わってきた。と同時に、これほどしょっちゅうテレビに出演している彼らでさえ、話し足りないことがたくさんあるのだな、とも感じた。
 語るべき内容を持っている出演者がいて、思う存分話せる場があればいい。そして、気分よく話させてくれる聞き手がいれば、それだけでいい。「トーク番組」とは、本来そういうものであるはずだ。
 だが、語り手と聞き手、そして彼らの中にあるコンテンツの力を信じきれないディレクターやプロデューサーたちが、せっかくの素材に余計な装飾物をどんどん付け加えて、結局は「トーク」そのものを殺してしまう。民放地上波の多くの「トーク番組」は、そんなふうに私には見える。
 制作者がメーンコンテンツを信頼しきれない、という現象は、「トーク番組」に限らず、おそらくは昨今のスポーツ中継一般がどうしようもなく見苦しいものに堕している大きな原因なのだろうと思う。


 馬場伸一さんが、西日本新聞に掲載された野球中継の視聴率に関する記事について教えてくださった。ネットで探してみると、東奥日報にも同じ記事が出ていたので、たぶん共同通信発なのだろう。
 記事は、ジャイアンツが首位を快走しているにもかかわらず四月の視聴率が12.6%と低迷する一方で、地方局における地元球団の試合中継は好調……という内容。昨年から話題に上っていた傾向だが、今年もさらに強まっているようだ。

 この記事の中に、匿名の“球界幹部”のこういうコメントが紹介されている。
「巨人の視聴率は巨人人気であって、野球人気に直結させるのはどうか。ローカルエリアの放送やCS放送などの数字を確認しないと何ともいえない」
 一体なぜ匿名にしなければならないのか疑問に思うほど、しごくまっとうな意見である。
 野球人気が落ちたの、ドラマの視聴率が落ちたのと、近年、新聞紙上でテレビ視聴率に言及した記事を目にするたびに、私は同じ感想を抱いている。
 地上波の占有率そのものが落ちているのではないのか、と。

 今年、CS局のJSPORTSでは日本プロ野球の公式戦全試合を中継するのだという。確かにシーズンが始まってからは連日、同社の4つのチャンネルを駆使して野球中継が放映されている。
 試合開始から終了後のヒーローインタビューまで、次の番組に切り変えられたり、CMが次のイニングの頭に食い込むこともなく、試合はほぼ完全に放映される。さして野球に愛着があるとも思えないタレントが同局の新番組ドラマに主演しているというだけの理由で中継に割り込んでくることもない(愛着だけあって場違いなタレントも、やはり視聴者にとっては迷惑だが)。
 野球をテレビで見ることに金を払ってもいい、と思うほど熱心な人々が、有料放送に乗り換えていくのは自然な流れだ。サッカーでも同様だ(テレビドラマにしても、一昔前の面白かったドラマを見る方がいい、とCS局を選ぶ人もいるだろう)。
 現時点で、その人数は視聴率の上ではわずかな割合かも知れない。だが、わずかではあっても、それは、それぞれの分野におけるもっとも熱心な視聴者だ。熱心な視聴者ほど地上波を離れていき、さして関心のない浮動層が数字として残る。制作者たちは、その「さして関心のない浮動層」を惹き付けようとしてスポーツそのものと無関係な装飾物を増やし、それはますます熱心なファンの嫌悪感と地上波離れを促進する。そんな流れが存在しているように思う。

 地上波テレビ局の人々がこれからスポーツ番組をどうしていきたいのかは、一視聴者としての私には、どうせ見ないのだからあまり関係ないとも言える。が、スポーツの側から見れば、収入源としてのテレビ放映権料は大事だ。CSでの放映権だけではまだまだとてもやっていけない(スポーツビジネスを勉強しているアルヴァロ君@アトレチコ東京によれば、CS局における海外サッカー中継は、人気はあるけれどやればやるほど赤字になる困ったコンテンツらしい)。地上波中継がもっと隆盛になってもらった方がスポーツ界全体は潤うに違いない。

 では地上波テレビ局はどうすればいいか、などという妙案を私が持っているわけではない。ただ、ひとつだけ思うのは、現在の地上波番組は、「そのスポーツに詳しくない人にとってわかりづらい」ということを極度に怖れているように見えるのだが、それは、本当に何が何でも避けなければならない禁じ手なのだろうか。
 『ワールドカップジャーナル』では、多くの出演者たちが、とにかくそれを語るのが楽しくて仕方がない、という表情で話に熱中していた。
 浮動層でも風間八宏や加藤久の顏くらいは見たことがあるだろう。そんな人たちがここまで熱中しているのなら、何だかよくわからないけど楽しそうだから聞いてみよう、見てみよう、という反応を起こすのが浮動層の浮動層たる所以ではないのかな。甘いでしょうか。


追記
 『プロ野球ニュース』についても書くつもりが、触れそこねた。
 CSフジテレビ739で月曜を除く毎晩午後11時から1時間にわたって放映しているこの番組は、『すぽると』以前の、もっといえば中井美穂が出演する以前の往年の『プロ野球ニュース』のフォーマットを継承した由緒正しい番組である。
 その夜に行われたすべての試合について、野球解説者とアナウンサーがセットになってダイジェストを見せ、ポイントについて解説者たちが語り合う。MCは日替わりで大矢明彦や高木豊らの解説者が務め、週末には佐々木信也翁も元気な姿を見せてくれる。「今日のホームラン」のBGMも、往年の例の曲のままだ(「ヴァイブレーション」というタイトルらしい)。
 スポンサーの制約が少ないせいか、局の幹部が誰も見ていないせいか、誤審や暴力事件などからも目をそらさず、解説者たちが辛口な議論を繰り広げて、ツボを外すことがない。今年の序盤、ジャイアンツのイ・スンヨプが隠し球に引っ掛かって一塁でアウトになった時には、映像を流しながら、一塁ベースコーチの責任について延々と議論していた(笑)。並み居る解説者たちがみな卓見の持ち主というわけではないが、常に大勢が出演しているので全体としてはバランスがとれる。
 最近は、野球に関しては夜のスポーツニュースはこれだけ見れば十分だと思っている。選手の生出演がないことだけは残念だが(きっと予算がないのだろう)。

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本宮ひろ志というマンネリズム。

 ヤングジャンプを手に取る習慣を失って久しいので(「ヤング」という年齢でなくなってからも久しい)、同誌で本宮ひろ志が『サラリーマン金太郎』を再開していたことは、単行本の刊行を知らせる中吊り広告を見るまで知らなかった。また金太郎かい、と呆れると同時に、そう言われることを百も承知で、この手あかにまみれたキャラクターを引っ張り出してきた本宮のふてぶてしい笑顔が想像できるような気がした。

 『サラリーマン金太郎』は同誌に1994年から断続的に連載された漫画で、単行本にして全30巻、テレビドラマや映画にもなった。主人公の矢島金太郎は元暴走族の総長で漁師をしていたが、海で助けた建設会社の会長に気に入られたことから、彼が経営するゼネコンに入社し、型破りなサラリーマンとして活躍していく。
 本宮の漫画はどれもそうだが、こうやってプロットを要約すると実に陳腐に見える。
 そもそも、本宮ひろ志が好きだ、と公言すること自体、いい歳をした大人にとっては恥ずかしいことなのかも知れない。田中圭一がよく描写を真似して笑いものにしているが、本宮の登場人物たちは、何をするにつけても大口を開いて「しゃあーーっ!!」などとわめかずにはいられない。矢島金太郎も、最新刊では外資系投資銀行のファンドマネジャーという、すかしたスーツ姿で「GQ」あたりに登場しそうな職種についていながら、ディーリングルームのなかで「どうだあっーー!!」とか「よっしゃーーーっ!!!」とか叫んでいる。電車の中でこんな漫画を広げていたら、頭悪そうに見えたとしても仕方ない。

 漫画批評は昨今やや隆盛になってきたようだが、本宮の漫画は批評家たちにはほぼ完全に無視されている。たとえば『テヅカ・イズ・デッド』というような歴史観の中に、たぶん本宮の居場所はない。大手版元の青少年向け漫画週刊誌という業界の一線に30年以上踏みとどまっているけれども、それとこれとは別らしい。
 それでも、本宮が新しい連載を始めると聞くと、私はとりあえず目を通さずにはいられない。その多くはストーリーを破綻させて収拾がつかなくなり短期間で終わっていくのだが、『サラリーマン金太郎』については、少し違う、という印象を早い段階から受けていた(後に本宮自身が明かしたところでは、これは意図して当てにいった作品なのだという)。
 金太郎の言動は、サラリーマンや会社社会の常識を踏み越えているけれども、暴力に走ることはないし、法を犯すこともない。あくまでサラリーマンという枠の中で戦おうとする。そんな姿を見ているうちに、これは『男一匹ガキ大将』のリターンマッチなのだな、という気がしてきた。

 小説の世界では「処女作の中に作家のすべてがある」と言われるが、この言葉は本宮についても、よくあてはまる。『男一匹ガキ大将』は週刊少年ジャンプに昭和43年から5年間にわたって連載された。本宮の連載デビュー作であり、出世作でもある。そして、少年週刊漫画誌としては後発だったジャンプを業界トップクラスに押し上げる原動力にもなった。
 関西の漁村に生まれた不良少年・戸川万吉は、絡んでくる近隣の不良たちを殴り倒しては子分にし、やがて全国の不良を統一する。こう書くと、やはりつまらなそうに見えるけれど、この単純なプロットを、本宮はキャラクターや台詞まわしの魅力、絵の勢いで押し切ってしまう。

 もっとも、勢いで押し切れたのは、連載の半分くらいまでだった。
 後に本宮自身や編集者が語っているところでは、全国の不良を富士山の裾野に集めて一大決戦に臨む、というところで本宮は力尽き、万吉を死なせて「完」と書いた原稿を置いて家を逃げ出す。だが、編集者は連載を終わらせることを許さず、「完」の字を消して掲載し、本宮をつかまえて続きを描かせたのだという。
 確かに、そのあたりから作品は激しく迷走を始める。全国の不良少年の頂点に立った万吉は、その力を背景に「大人の社会」に挑もうとするが、空回りが続く。政治もビジネスも握り拳の喧嘩ではない。己のすべてを賭けて臨んだ勝負が、実は大人たちの思惑に乗せられた茶番劇だったと知った万吉は、子分たちを置いて、ひとり旅に出る。それは、まだ20代の若者だった本宮自身の限界でもあったに違いない。
 全国統一の後、物語の初期から万吉に付き従い、「一の子分」を自任していた片目の銀次が「親分は変わった」と寂しがり、組織からはぐれそうになるエピソードがある。結局、銀次は反省して万吉のもとへと戻るのだが、物語の末路を見ると、むしろ銀次の方が正しかったのかも知れない。

 興味深いのは、本宮が『男一匹…』の次にジャンプに連載した『大ぼら一代』という作品だ。主人公の丹波太郎字は田舎の不良少年で、母子家庭という点も『男一匹…』と同じ。
 そして、成長途上の主人公の前に、日本の将来を担うと期待される島村万次郎という男が現れる。この男が、経歴も風貌も、どう見ても「その後の戸川万吉」で、ご丁寧に片目の子分まで連れている。
 太郎字が憧れ、目標のようにしていた万次郎は、しかし物語の途中で立場を激変させ、日本を厳しい管理国家に仕立て上げる軍事独裁者へと変わっていく。そして太郎字とその仲間たちは、最後はこの独裁者に絶望的なゲリラ戦を挑んでいくのだ。プロットが迷走することの多い本宮作品の中でも、これはとりわけ強烈だ。
 精神分析めいた言い方をすれば、当時の本宮自身にとって、『男一匹…』というデビュー作は巨大な壁だったのだろう。『大ぼら一代』の前に宮本武蔵を主人公にした『武蔵』という作品を連載したが、あまり人気も出ないまま短期間で終わった。『大ぼら一代』の設定は編集部の意向かも知れないが、どう見ても『男一匹…』の二番煎じだ。そんなふうに始まったせいか、『大ぼら…』のトーンは最初から暗い。万吉を登場させて敵役に仕立てるというのは、何とかしてデビュー作を超えようという本宮の気持ちの現れであったような気がする。

 以後、本宮はジャンプを中心にさまざまな作品を発表していく。炭谷銀仁朗の名前のもとにもなったという『硬派銀次郎』や『俺の空』のように成功したもの(商業的にも、作品として破綻しなかったという点でも)もあれば、収拾がつかなくなって放りだした(あるいは不人気で打ち切られた)としか思えないものもある。『男樹』のように世代交代しながら延々と続いたものもある。いずれにしても、本宮の作品のほとんどすべては『男一匹…』の変奏曲であり、主人公はみな戸川万吉の分身といってよいほど万吉によく似ている。
 本宮は生涯ひとつのモチーフを描き続ける画家のように、ただひたすら一人の男だけを描いてきた。きっと、彼自身にもよく似た男なのだろう。

 『サラリーマン金太郎』は、前述の通り、本宮が意図してヒットを狙った作品だったという(離婚か何かでまとまった金が必要な時期だったとも話している)。コンセプトも、「会社を舞台に学園ドラマをやる」という単純なものだったそうだが、始めてみれば、企業社会は学園以上に複雑で、さまざまな素材が埋まっている。企業内の闘争もあれば、談合、官僚支配、総会屋、企業合併など、金太郎のような真っすぐな男が衝突せずにはいられないような装置に満ちている。しまいには総合商社に転職しながら、連載は単行本にして30巻まで続いた。
 そこに描かれた企業社会の像は、もちろん誇張もあれば事実誤認もあることだろう。低学歴で10代の頃から漫画家として生きてきた本宮に、たぶん学問や系統だった知識はない。だが、人気漫画家という立場によって各界のさまざまな人々に会って話した耳学問をベースに彼が認識した世界像が、そこには描かれている。その意味で、『サラリーマン金太郎』は、それ自体がひとつのメディアであるともいえる。
 金太郎は部下を増やしたり組織の長になろうとせず、「一生涯サラリーマンでやって行くつもりです」と言い切る。ボスになってしまえば、ボス同士の争いの物語はヤクザ漫画と同じだ。そうではなく、主人公が一サラリーマンに徹しているからこそ、この漫画では、彼が生きる世界そのものに焦点を当てることができる。それもまた、ひとつのキャラクターを描き続けることの効用だ。

 新刊「マネーウォーズ編」の1巻で、金太郎はテレビ局の買収に乗り出す。もちろん、昨今のライブドアや楽天による株式取得を反映したものだろう。今の本宮自身の関心がそこにあるのかも知れないし、編集サイドの要請もあるのかも知れない。金太郎が彼らの振る舞いをトレースすることで、本宮がマネーウォーズをどのように把握していくのか、というのが、この作品の本質なのだろうと思う。
 と同時に思いだすのは、戸川万吉が最初に挫折を経験したのが株取引だったことだ。これもまたリターンマッチなのかも知れない。
 こうなると、要するに、本宮自身がひとつの作品のようなものなのだ。長い長いひとつの大河漫画を30年以上かけて読んでいる。そんな漫画との付き合い方もあっていい。

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