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本宮ひろ志というマンネリズム。

 ヤングジャンプを手に取る習慣を失って久しいので(「ヤング」という年齢でなくなってからも久しい)、同誌で本宮ひろ志が『サラリーマン金太郎』を再開していたことは、単行本の刊行を知らせる中吊り広告を見るまで知らなかった。また金太郎かい、と呆れると同時に、そう言われることを百も承知で、この手あかにまみれたキャラクターを引っ張り出してきた本宮のふてぶてしい笑顔が想像できるような気がした。

 『サラリーマン金太郎』は同誌に1994年から断続的に連載された漫画で、単行本にして全30巻、テレビドラマや映画にもなった。主人公の矢島金太郎は元暴走族の総長で漁師をしていたが、海で助けた建設会社の会長に気に入られたことから、彼が経営するゼネコンに入社し、型破りなサラリーマンとして活躍していく。
 本宮の漫画はどれもそうだが、こうやってプロットを要約すると実に陳腐に見える。
 そもそも、本宮ひろ志が好きだ、と公言すること自体、いい歳をした大人にとっては恥ずかしいことなのかも知れない。田中圭一がよく描写を真似して笑いものにしているが、本宮の登場人物たちは、何をするにつけても大口を開いて「しゃあーーっ!!」などとわめかずにはいられない。矢島金太郎も、最新刊では外資系投資銀行のファンドマネジャーという、すかしたスーツ姿で「GQ」あたりに登場しそうな職種についていながら、ディーリングルームのなかで「どうだあっーー!!」とか「よっしゃーーーっ!!!」とか叫んでいる。電車の中でこんな漫画を広げていたら、頭悪そうに見えたとしても仕方ない。

 漫画批評は昨今やや隆盛になってきたようだが、本宮の漫画は批評家たちにはほぼ完全に無視されている。たとえば『テヅカ・イズ・デッド』というような歴史観の中に、たぶん本宮の居場所はない。大手版元の青少年向け漫画週刊誌という業界の一線に30年以上踏みとどまっているけれども、それとこれとは別らしい。
 それでも、本宮が新しい連載を始めると聞くと、私はとりあえず目を通さずにはいられない。その多くはストーリーを破綻させて収拾がつかなくなり短期間で終わっていくのだが、『サラリーマン金太郎』については、少し違う、という印象を早い段階から受けていた(後に本宮自身が明かしたところでは、これは意図して当てにいった作品なのだという)。
 金太郎の言動は、サラリーマンや会社社会の常識を踏み越えているけれども、暴力に走ることはないし、法を犯すこともない。あくまでサラリーマンという枠の中で戦おうとする。そんな姿を見ているうちに、これは『男一匹ガキ大将』のリターンマッチなのだな、という気がしてきた。

 小説の世界では「処女作の中に作家のすべてがある」と言われるが、この言葉は本宮についても、よくあてはまる。『男一匹ガキ大将』は週刊少年ジャンプに昭和43年から5年間にわたって連載された。本宮の連載デビュー作であり、出世作でもある。そして、少年週刊漫画誌としては後発だったジャンプを業界トップクラスに押し上げる原動力にもなった。
 関西の漁村に生まれた不良少年・戸川万吉は、絡んでくる近隣の不良たちを殴り倒しては子分にし、やがて全国の不良を統一する。こう書くと、やはりつまらなそうに見えるけれど、この単純なプロットを、本宮はキャラクターや台詞まわしの魅力、絵の勢いで押し切ってしまう。

 もっとも、勢いで押し切れたのは、連載の半分くらいまでだった。
 後に本宮自身や編集者が語っているところでは、全国の不良を富士山の裾野に集めて一大決戦に臨む、というところで本宮は力尽き、万吉を死なせて「完」と書いた原稿を置いて家を逃げ出す。だが、編集者は連載を終わらせることを許さず、「完」の字を消して掲載し、本宮をつかまえて続きを描かせたのだという。
 確かに、そのあたりから作品は激しく迷走を始める。全国の不良少年の頂点に立った万吉は、その力を背景に「大人の社会」に挑もうとするが、空回りが続く。政治もビジネスも握り拳の喧嘩ではない。己のすべてを賭けて臨んだ勝負が、実は大人たちの思惑に乗せられた茶番劇だったと知った万吉は、子分たちを置いて、ひとり旅に出る。それは、まだ20代の若者だった本宮自身の限界でもあったに違いない。
 全国統一の後、物語の初期から万吉に付き従い、「一の子分」を自任していた片目の銀次が「親分は変わった」と寂しがり、組織からはぐれそうになるエピソードがある。結局、銀次は反省して万吉のもとへと戻るのだが、物語の末路を見ると、むしろ銀次の方が正しかったのかも知れない。

 興味深いのは、本宮が『男一匹…』の次にジャンプに連載した『大ぼら一代』という作品だ。主人公の丹波太郎字は田舎の不良少年で、母子家庭という点も『男一匹…』と同じ。
 そして、成長途上の主人公の前に、日本の将来を担うと期待される島村万次郎という男が現れる。この男が、経歴も風貌も、どう見ても「その後の戸川万吉」で、ご丁寧に片目の子分まで連れている。
 太郎字が憧れ、目標のようにしていた万次郎は、しかし物語の途中で立場を激変させ、日本を厳しい管理国家に仕立て上げる軍事独裁者へと変わっていく。そして太郎字とその仲間たちは、最後はこの独裁者に絶望的なゲリラ戦を挑んでいくのだ。プロットが迷走することの多い本宮作品の中でも、これはとりわけ強烈だ。
 精神分析めいた言い方をすれば、当時の本宮自身にとって、『男一匹…』というデビュー作は巨大な壁だったのだろう。『大ぼら一代』の前に宮本武蔵を主人公にした『武蔵』という作品を連載したが、あまり人気も出ないまま短期間で終わった。『大ぼら一代』の設定は編集部の意向かも知れないが、どう見ても『男一匹…』の二番煎じだ。そんなふうに始まったせいか、『大ぼら…』のトーンは最初から暗い。万吉を登場させて敵役に仕立てるというのは、何とかしてデビュー作を超えようという本宮の気持ちの現れであったような気がする。

 以後、本宮はジャンプを中心にさまざまな作品を発表していく。炭谷銀仁朗の名前のもとにもなったという『硬派銀次郎』や『俺の空』のように成功したもの(商業的にも、作品として破綻しなかったという点でも)もあれば、収拾がつかなくなって放りだした(あるいは不人気で打ち切られた)としか思えないものもある。『男樹』のように世代交代しながら延々と続いたものもある。いずれにしても、本宮の作品のほとんどすべては『男一匹…』の変奏曲であり、主人公はみな戸川万吉の分身といってよいほど万吉によく似ている。
 本宮は生涯ひとつのモチーフを描き続ける画家のように、ただひたすら一人の男だけを描いてきた。きっと、彼自身にもよく似た男なのだろう。

 『サラリーマン金太郎』は、前述の通り、本宮が意図してヒットを狙った作品だったという(離婚か何かでまとまった金が必要な時期だったとも話している)。コンセプトも、「会社を舞台に学園ドラマをやる」という単純なものだったそうだが、始めてみれば、企業社会は学園以上に複雑で、さまざまな素材が埋まっている。企業内の闘争もあれば、談合、官僚支配、総会屋、企業合併など、金太郎のような真っすぐな男が衝突せずにはいられないような装置に満ちている。しまいには総合商社に転職しながら、連載は単行本にして30巻まで続いた。
 そこに描かれた企業社会の像は、もちろん誇張もあれば事実誤認もあることだろう。低学歴で10代の頃から漫画家として生きてきた本宮に、たぶん学問や系統だった知識はない。だが、人気漫画家という立場によって各界のさまざまな人々に会って話した耳学問をベースに彼が認識した世界像が、そこには描かれている。その意味で、『サラリーマン金太郎』は、それ自体がひとつのメディアであるともいえる。
 金太郎は部下を増やしたり組織の長になろうとせず、「一生涯サラリーマンでやって行くつもりです」と言い切る。ボスになってしまえば、ボス同士の争いの物語はヤクザ漫画と同じだ。そうではなく、主人公が一サラリーマンに徹しているからこそ、この漫画では、彼が生きる世界そのものに焦点を当てることができる。それもまた、ひとつのキャラクターを描き続けることの効用だ。

 新刊「マネーウォーズ編」の1巻で、金太郎はテレビ局の買収に乗り出す。もちろん、昨今のライブドアや楽天による株式取得を反映したものだろう。今の本宮自身の関心がそこにあるのかも知れないし、編集サイドの要請もあるのかも知れない。金太郎が彼らの振る舞いをトレースすることで、本宮がマネーウォーズをどのように把握していくのか、というのが、この作品の本質なのだろうと思う。
 と同時に思いだすのは、戸川万吉が最初に挫折を経験したのが株取引だったことだ。これもまたリターンマッチなのかも知れない。
 こうなると、要するに、本宮自身がひとつの作品のようなものなのだ。長い長いひとつの大河漫画を30年以上かけて読んでいる。そんな漫画との付き合い方もあっていい。

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コメント

いやぁ本宮ひろ志ですか、恥ずかしながら「男一匹ガキ大将」の連載開始から読んでます(笑)。
彼の著書「天然まんが家」もすごい面白かったです。
「俺は絵が描けない!」と堂々と公言している「漫画家」というのは彼くらいでしょう。
夏目房之介さんのブログに、本宮ひろ志のラジオでの「放言」ぶりが紹介してありました。
キャラそのものが面白い人ですよね、確かに。
http://www.ringolab.com/note/natsume2/archives/003317.html

ただ、離婚というのはどうなんでしょう。
奥さんのもりたじゅんに可愛い女の子描かせてずいぶん儲けたはずなんですが(笑)。

投稿: 馬場 | 2006/05/09 18:00

>馬場さん
>恥ずかしながら「男一匹ガキ大将」の連載開始から読んでます(笑)。

それはそれは。年季が違いますね。私は連載では『大ぼら一代』あたりからなので、きいた風なことを書いていてお恥ずかしいです。

夏目さんはデビュー当時から読んでいたでしょうから、こうやって語るだけの愛着もあるのでしょうが、たぶん30歳以下の人たちから見れば、「前世紀の遺物」という感じで、語るに足らないのでしょうね。前世紀の漫画家は手塚治虫だけではないと思うのですが(笑)。もうひとり、水島新司も、やはり30年以上の間、週刊誌連載を持ち続けていながら、批評家たちには無視されている存在です。こちらも私は愛しているのですが(笑)。

>奥さんのもりたじゅんに可愛い女の子描かせてずいぶん儲けたはずなんですが(笑)。

なので、「別れた後も頭下げて絵は描いてもらってた」という話をどこかで読んだ記憶があるんですが、『天然まんが家』には、はっきりそう書いてはいなかったんですよね。

投稿: 念仏の鉄 | 2006/05/09 23:04

ご無沙汰しております。
本宮ひろしが『男一匹ガキ大将』を書いていた頃、私は小学1年生の頃から愛読していた少年サンデーで『モーレツア太郎』なんぞを読んでいました。当時のサンデーのモラルの高さ(笑)に物足りなさを感じていた私は、『男一匹ガキ大将』や『ハレンチ学園』の載ったジャンプの不良っぽさに心惹かれ、よく友達に借りて読んでいたことを思い出します。
本宮ひろしの漫画には、男が潜在的に憧れている「男の強さ」、それも肉体的なマッチョな強さがストレートに画かれていて、そこに惹かれるのだけれども、大人の男としては素直に好きだとは口に出しにくいといったところがありますね。それと、彼の画くダイナミックな構図はとても好きです。『姿三四郎』なんかは、地味だけれどとてもよかった。
『男一匹ガキ大将』では、次郎長一家を連想させる万吉一家の個性的な面々が好きでした。あれだけの個性的な不良を束ねる器量を持った男として、戸川万吉を画ききれなかったところが、作品としての弱さでしょうか。菊村のほうが、どう見ても器がでかい(笑)。
丹波太郎字という人物では、その点、器量の大きさがもっと周到に意識されていたように思われましたが、結局、万吉と同じように組織に敗れ去ってしまう。強烈な個性を持つ個が最後には組織に敗れてしまうという図式は、本宮にとっても不本意で不愉快な結末だったように思えます。
そういった点では、限られた世界のなかではありますが、一人で生きていく個の強さが画かれた『硬派 山崎銀次郎』の世界が、私は一番好きです。

投稿: 考える木 | 2006/05/13 01:14

>考える木さん
馬場さんもですが、こういう話題になると世代がわかりますね(笑)。

>本宮ひろしの漫画には、男が潜在的に憧れている「男の強さ」、それも肉体的なマッチョな強さがストレートに画かれていて、そこに惹かれるのだけれども、大人の男としては素直に好きだとは口に出しにくいといったところがありますね。それと、彼の画くダイナミックな構図はとても好きです。

そうですね。あと、本文では書きそびれましたが、演出も上手いと思いますよ。
『俺の空・刑事編』の終盤、大物政治家の犯罪を暴こうとした主人公と同僚たちが、上層部に手を回され散り散りに異動させられそうになった時に、本庁の人事担当者が「関係書類を自宅の暖炉に放り込んじまってね」と上司に言い放ち、辞表を叩きつける場面があります。ほんの数コマだけの登場人物ですが、思い出すだけで涙腺に来る(笑)。ちょっとした男の意地みたいなものを描かせると天才的に上手い。
以前、『アルマゲドン』というハリウッド映画を観ながら、「台詞を全部本宮ひろ志に描き直させたら百倍くらい面白くなったのに」と思いました(笑)。

>一人で生きていく個の強さが画かれた『硬派 山崎銀次郎』の世界が、私は一番好きです。

本宮のほとんどの主人公は、上昇か拡大か成長を求めるあまりに苦悩したり破滅したりするのですが、銀次郎は最初から完成されたキャラクターで、何も求めないので安心して読めますね。

投稿: 念仏の鉄 | 2006/05/13 17:47

俺は中学生の頃に『硬派 銀次郎』というバクタンを落とされた。銀次郎の言葉に、頭の後ろが熱くなるような衝撃は、本宮マンガでしか味わった事がない。影響を一番受けやすいこの時期に本宮ロマンに傾倒した事が、今の自分のベースになっていると思う。教育や洗脳でテロリストを生み出すのが可能なように、「男はこう生きろ!」と心のどこかで銀次郎に言われている感覚は、いくつになっても消えないものだ。

投稿: ほねのブルック | 2008/05/23 10:24

>ほねのブルックさん

こんにちは。
破天荒な人物が多い本宮漫画の主人公の中で、銀次郎は珍しく、普通人が生き方のモデルにできるようなキャラクターでしたね。

投稿: 念仏の鉄 | 2008/05/26 10:42

あんな漫画書いてる理由なんて、本宮ひろ志さんと仲良ければ聞けると思いますよ?

単純に、売れるんですよ。
買い手のツボ狙ってます。売れっ子なんかそんなもんで、元アシスタントだった江川達也さんだって本宮ひろ志さんから「エロと博打と任侠は絶対買い手がいるので金が欲しけりゃ描く」と聞いてるわけです。

本宮ひろ志の本に、内容なんか無い。
サラリーマン金太郎が思いの外売れたので、どこが一番「売れる層」なのか知ったでしょう。けど、基本は本人が外しにくい所に狙いを定めてるんですよ。

投稿: | 2020/07/04 15:55

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