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1998年6月20日、日本-クロアチア。

 早朝にパリのホテルを出た。モンマルトル駅から列車に乗り、ナント駅に着いた。列車に乗る前から青いユニホームを着た日本人ばかりが目に入った。

 ぎらぎらと陽光が照りつける暑い日だった。試合が始まる14時30分までにはかなりの時間があったが、駅の周りには店も何もない(あるいは、あっても混んでいて入れなかったのかも知れない)。10分ほど歩いたところにあるスタジアム近くのホテルの庭で軽食を売っていたので、ホットドッグを食べ、コーラを飲んだ。知り合いのライターに声をかけられ、座って少し話をした。ビーチによくあるようなスチールの丸いテーブルと椅子。パラソルが差してあったかどうかは、よく覚えていない。

 隣の席に、3,4人の西洋人が座っていた。上機嫌で缶ビールを次から次へと空けていた。ハイネケンの緑の空き缶がテーブルの上にぎっしりと並び、縁からこぼれ落ちそうだったが、彼らは、缶がすっぽり収まって隠れてしまうような巨大な掌で、ほんの数口でビールを空にすると、また次の缶に手を伸ばす。紅白の格子のユニホームを着たクロアチア人だった。

 クロアチア代表がワールドカップに出場したのは、この98年フランス大会が初めてだった。ユーゴスラビアの分裂後、旧ユーゴから独立した国がワールドカップに出場するのも初めてだった。経済的にもまだ荒廃から立ち直っていない祖国からやってきた数少ないサポーターを、クロアチアの代表選手たちは何かと気遣いサポートしていた、という話は帰国後に知った。

 スタジアムの中は、たぶん7割くらいは日本のサポーターだったと思う。観戦ツアーの大半がチケットを入手できないという詐欺まがいの実態が発覚した直後のアルゼンチン戦でさえ、客席の半数近くは日本のユニホームが占めていた。そこから約一週間、後から渡仏した人々も含めて、さまざまな手を尽くしてチケットを入手したのだろう。当時はまだ紙媒体だった「サポティスタ」が、ダフ屋との交渉の仕方や各地での実勢価格を詳しく記したビラを駅前で配っていた。

 数の上ではスタジアムの2割か3割程度に過ぎなかった紅白の格子の男たちは、バックスタンドの一角に固まっていた。そして、試合の間じゅう、野太い声をあげていた。鋼のような塊となって発せられる声は、初々しい日本人たちの応援を圧倒していた。どうしてあれっぽちの人数からあんなにでかい声が出るのか、不思議だった。

 試合の内容そのものは、実はあまりよく覚えていない。縦に抜け出した中山がシュートをGKに当ててしまった場面、ピッチの外で準備していた呂比須が日本のシュートが外れるたびに転げ回って悔しがっていた姿、終盤に投入された岡野が懸命に走る背中などが、断片的に浮かんでくる。シューケルに奪われた決勝点は、とっさに何が起こったのかよくわからなかった。気がついたら相手の前にボールが転がり、ゴールネットが揺れている。アルゼンチン戦での失点もそうだった。拮抗した試合の中でそういう出来事を引き寄せられるのが強いチームなのだ、と思った。
 何よりも鮮明に残っているのは、その日の暑さとクロアチア人たちが飲み干したビールの缶の量、彼らの声のでかさ。そして、冷房の効いた帰りの列車の中で、脱水症状になったようにへたりこんでいた体の重さ。それが、私にとっての日本-クロアチア戦だった。

 あれから8年。日本代表は再びグループリーグの第2戦で彼らと当たる。1敗という日本の成績は同じ。あの時はジャマイカに勝った後で、多少の余裕をもって日本をいなしていたクロアチアは、今度はブラジルに屈し、勝たなければならない立場で向かってくる。試合は15時キックオフ。今度もまた、暑い日になるのだろうか。

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