スポーツアナウンサーも戦っている。〜ほぼ日・刈屋富士雄インタビュー〜
「ほぼ日刊イトイ新聞」に、NHK刈屋富士雄アナウンサーのロングインタビュー「オリンピックの女神はなぜ荒川静香に『キス』をしたのか?」が掲載されている。全20回に分けて、毎日1話づつ公開するという連載形式で、6/14現在で第8回まで来ている。
話題はアテネ五輪の男子体操団体にはじまり、今はトリノの女子フィギュア。目次によると、今後はトリノの女子カーリングから井上怜奈に行く予定だ。
毎日読んでいて思うのは、スポーツアナウンサーという仕事の立ち位置についてだ。スポーツジャーナリズムの中にあって、アナウンサーという立場は、他の取材者とはいささか異なっている。それが、刈屋アナの話の中に色濃く現れている。
永田という聞き手の関心は、主として「あの名台詞はどうやって生まれたのか」にあるようで、過去の中継で刈屋アナが用いた具体的な言葉について質問していく。必然的に、刈屋アナの言葉は、「その時、何を考えながら、その言葉を選んで口にしていったのか」という説明が中心になる。その、彼が考えていたことの厚みに、改めて感銘を受ける。
アナウンサーの仕事には、例えば選手や指導者へのインタビューも含まれるだろうし、テレビでは放映されない予備取材もあるだろう。
だが、彼らの主戦場は、やはり実況中継である。
アナウンサーは放送ブースの中から競技を中継する。試合会場で行われていることはすべて見える位置にいるが、現場からは距離があり、選手や指導者と話すことは、まず不可能だ。そして、彼らの仕事は競技と同時に進行する。
つまり、アナウンサーが実況中継をする際、その試合に関する最大の情報源は、目の前で見ているプレーそのものということになる。
もちろん、優れたスポーツアナウンサーは、綿密な事前取材によって多くの情報を得ているだろう。野球中継なら豊富なデータ集、フィギュアスケートであれば予定される演技プログラムなど、主催者から提供される資料もある。
だが、選手がその時のプレーの中で何をしたのか、その陰にはどういう判断(あるいは判断ミス)があったのか、ということは、目に見える範囲の情報から推測するほかはない。
文章で試合を伝える仕事であれば、媒体が新聞であれ雑誌であれネットであれ、試合が終わってから記事を発表するまでの間に、大なり小なりタイムラグがある。試合を見ていて気になったポイントを、試合後に当事者に質問して確認したうえで記事を書くことができる。「試合の流れ」は、完結した後から逆算して描き出すことができる。
だが、実況中継中のアナウンサーには、それができない。今、目の前で起こっている「流れ」が何であるのかを、プレーの現場から数十メートル離れた放送席の中から伝えなければならない。
そう考えると、その瞬間の彼らの立場は、実は、限りなく見物人に近い。それでいて、テレビの前の人々に対しては、事情に通じた人間として目の前のプレーを伝えなければならない。そんな宿命を、実況アナウンサーは背負っている。
やり直しの効かない一回性の仕事という点では、スポーツ選手そのものに近いところがある。
例えば、第2回「絶叫したのは、一度だけ」の中に、こんな談話が出てくる。
「栄光への架け橋だ」と言って
着地する4つくらい前の技に、
「コールマン」というのがあるんです。
あそこで冨田選手が鉄棒をつかむ直前に
「これさえ取れば!」と言ってるんですが、
あそこは絶叫しているんです。
あれは「これさえ取れば金だ!」
というつもりで叫んでいるんです。
これはアテネ五輪の男子体操団体で最後に演技した冨田の鉄棒についての話だ。以前にも書いたが、この時、刈屋アナは冨田が着地した時点で、採点の発表を待たずに「ニッポン、勝ちました」と言い切っている。
このインタビューを読むと、彼がその確信を持ったのは、着地するより前、コールマンという鉄棒から手を離す技を成功させた時点だったことがわかる。冨田が演技をする時点での得点差、鉄棒の採点方法等から、そこで勝負がついたということを読み切っている。だからこそ、最後に「栄光への架け橋」という言葉を用いたのだ、と。
さらに続く第3回では、ひとつの演技の中だけでなく、団体決勝全体を通して、彼が日本の勝機をどう考え、それがどう変わっていったのかを語っている。
こういう状況になれば日本はメダルに手が届く、だからこの場面ではこういう言葉を使う……競技が進み、ひとつひとつの結果が明らかになるにつれて、その先に起こりうる展開も刻一刻と変わる。その中で、今、どういう表現がふさわしいのかを、刈屋アナは常に考えている。
文筆業者であれば、結末から逆算して描き出すことができる「試合の流れ」を、彼は試合の渦中にありながら描こうとする。その時点で考えられる結末を推測して、そこから現時点の位置づけを逆算しつつ、目の前のプレーを語っていく。
もちろん、理想的な結末だけが待っているとは限らない。勝手に金メダルと決め込んで現実離れした期待を語るのではなく、その時点での可能性に見合った言葉を、刈屋アナは慎重に選んでいく。その抑制ぶりもまた見事だ。
まさしく、彼はその瞬間、その試合を戦っているのだ。
そして、彼の「喋る力」を支えているのは、「見る力」であり、「読む力」なのである。
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