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2006年7月

声なき声も聴いてくれ。

 20日にプロ野球の12球団監督会議が開かれた。
 各紙の報道では、審判に対する厳しい発言がクローズアップされ、その陰であまり目立たなくなってしまったが、こんな話題もあった。

「試合時間短縮の要望については、野村監督が「時間短縮は評論家などマスコミから出た意見で、ファンは1分でも長く選手とふれあいたいはず。野球は時間制限のスポーツではなく間のスポーツ」と反対意見を出し、ロッテ・バレンタイン監督も「ファンは時計を見に球場にくるわけではない」と賛同。」(21日付サンケイスポーツ)

 ファンから時間短縮という意見が出ていない、と野村監督はお考えのようだが、それならば試しにナイターの試合中に、何度かベンチから出て内野席を見上げてご覧になるとよいと思う。
 18時のプレイボール時に客席がどれくらい空いているのか。それが5回ごろにはどれくらい増えているのか。そして、例えば1点を争う緊迫した展開で8回裏が終わった時に、席を立って帰り始める観客がどれほどいるものか。ベンチからいつも見える外野席と、それ以外のスタンドでは、観客の行動習慣はかなり異なる。

 ファンは声高に時間短縮を求めはしないかも知れないが、3時間14分(今季のパ・リーグ平均)の試合の最初から最後まで付き合っていられるような観客は決して多くはない。
 野村監督お得意の洞察力を相手チームだけでなくスタンドに対しても働かせて、決して安くはない入場料を払いながら、仕事の都合で序盤に間に合わず、あるいは帰宅時刻の都合で決着を見届けられない観客の、声なき無念の声にも、ぜひ耳を傾けていただきたい。

 闇雲にすべてのプレーを急げと言っているわけではない。イニング間の攻守交代やウォーミングアップなど、縮められるところを縮めていくことで、ここぞという場面での「間」を味わってもらうことができるようになる。今こそ終盤の見せ場だ、と監督や選手が思った時には多くの観客が帰ってしまった後、というのでは意味がないじゃないですか。
(私はこのblogでしばしば試合途中で席を立つ観客に批判がましいことを書いてきたが、それはサッカーや野球における日本代表の国際タイトルマッチという特殊な状況の場合だ。年に百何十試合もある公式戦では、主催者が観客の都合に歩みよることを考えた方がいい)

 私個人の好みでいえば、野球観戦中、いちばん退屈な時間は投手交代時だ。
 新しく出てきた投手が10球くらいかけて準備した上で、プレイボールがかかった途端に2球目あたりを打たれたり、ストレートの四球を出したりすると、また別の投手が出てきてウォーミングアップを始める。
 そりゃ勝負の世界だから念入りに準備したいだろうけど、投球数より肩慣らしの方が長いという状態が何人も繰り返されるのは、見世物としてはいかがなものか。今や中継ぎも抑えも専業化が進んでいるのだし、ブルペンできっちり準備した上で出てくるのだから、マウンド上では5球くらいで仕上げてもらいたいと思うのだが。

 だいたい、交代出場してきた選手が練習するために、わざわざ試合を止めて他の選手と観客を待たせる、などという慣習が、ほかの団体スポーツにあるだろうか。スポーツ以外でもいい。オーケストラが交響曲を上演中、第三楽章だけに登場するバイオリンのソリストが、指揮者やオケのメンバーや聴衆を待たせて舞台上で延々と練習している、などということがありうるだろうか。世間一般の常識に照らして言えば、これは相当に変な慣習だと思う。

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「オレの魔球」を、もう一球。

 高校野球の応援というものに、私は行ったことがない。
 出身地は首都圏のベッドタウンであまり地元意識のない土地柄だったし、在籍した高校の野球部は一回戦で負けるのが当たり前だった。在校生が野球の応援に行くという習慣もなかったし、行こうとも思わなかった。
 運動部員であれば、誰だって汗と泥にまみれ、時には血を流し、涙も流す。別に硬式野球部だけが特別なわけじゃない。なんだってわざわざ強いわけでもない他部の応援に行かなきゃならんのだ(これは当然ながらマイナースポーツ部員としてのひがみでもある)。

 当時も今も、娯楽として高校野球を見ることはある。だが、主としてプロ野球予備軍の青田買いという感覚で見ているので、汗と涙と友情を強調してやまない報道は煩わしいし、とりたてて感動させてほしいとも思わない(もちろん試合内容によっては心を揺さぶられることはある)。
 だから、そういう部分を強調してばかりいる新聞の高校野球記事には目を通す気にもならなかったのだが、友人に「これは笑えます」と勧められたので、朝日新聞神奈川県版に連載されていたという「オレの魔球」全5回をネットで読んでみた。確かに面白い。出色の記事ではないだろうか。

 夏の予選を前に注目選手をピックアップする、という風情の連載なのだが、ピックアップの仕方が凝っている。強い弱いに関係なく、独特の変化球を持つ投手を県内から選び、その球種を身に付けるに至った経緯を描いている。
 監督から「ライアーボール」と名付けられた魔球を教えられた投手。その実体は、「どりゃー!」と絶叫しながら投げるチェンジアップだ(「ライアー」は「嘘つき」の意味だとか)。
 このほか、「ジャガイモ」「投げ釣り投法」など、本当かよと思うような名前の変化球の持ち主が紹介される。全投球の半分以上がナックルという本格的ナックルボーラーがいることにも驚く。
 「ジャガイモ」の回には本当にジャガイモを投げさせて写真を撮るという人を食った紙面づくりもさることながら、記事の内容が、いわゆる「人間ドラマ」に堕していないことを好ましく感じる。

 「スポーツには人間ドラマがある」と口にする人は多い。新聞社やテレビ局や出版社にも多い。
 確かに、短時間のうちに勝者と敗者がくっきりと分かれるスポーツの世界では、人間の喜怒哀楽が一般社会よりも強烈で鮮やかに現れることが多い。だが、私は「人間ドラマ」に焦点を絞ったスポーツライティングやスポーツ番組が、あまり好きではない。

 だって、「人間ドラマ」ならスポーツじゃなくてもいいじゃないですか。

 スポーツを描くからスポーツライティングやスポーツドキュメンタリーなのであって、「たまたまスポーツをやっている人間のドラマ」なら、他によいものがいくらでもあるだろう。勝ち負けや努力や汗や涙や友情ではなく、プレーそのものがキャラクターでありドラマである、というような表現ができてこそスポーツライティングではないか、と思うのだ(もちろん「人間ドラマ」にも面白い作品はたくさんあるけれど)。

 この「オレの魔球」では、まさに「魔球」が投手のキャラクターを象徴している。決め球がどのような変化球で、彼がいかにしてその球を身に付けるに至ったかを追っていくうちに、投手自身の経歴や性格が浮き彫りにされていく。釣りが好きで漁師になりたくて水産高校に入った投手の「投げ釣り投法」なんて、まるで水島新司の漫画のように出来過ぎでもあるが。
 連載第1回の記事の惹句にはこうある。
「才能が大きく左右する速球と違い、変化球は努力と工夫次第でいろんな選手が身につけられる。身の丈に合わせて夏に挑む、そんな投手たちを追う。」
 そう、身の丈に合った球だからこそ、「魔球」は彼らのキャラクターを象徴することができる。

 記事を読み進めるうちに、故・山際淳司の『スローカーブを、もう一球』を思い出した。山際の第一短編集のタイトルにもなった、もう四半世紀以上も前の作品だ。本が手許にないのでうろ覚えで書くが、主人公は高校野球の投手だった。体格も体力もスピードもコントロールもすべて凡庸な、丸顔で小太りの無名校の投手が、大きく曲がるスローカーブを武器に県大会を勝ち進んでしまう。強豪校の強打者をスローカーブで幻惑しながら、俺たち、こんなとこまで来ていいのかよ、などと戸惑っている。そんな話だった。
 淡々として、それでいて瑞々しい。汗と泥と涙と友情といったお決まりの構図とは懸け離れたやり方で高校野球を描けるということが新鮮だった。この短編集には、山際を世に出した『江夏の21球』も収録されているが、私はこの表題作の方が好きだった。

 山際はこの短編集をきっかけに人気スポーツライターとなった。テレビのスポーツニュースのキャスターも務めた。スポーツライティングの仕事もずっと続けていたけれど、だんだんと「人間ドラマ」寄りの作品が増えていったように思う。たとえば衣笠祥雄を書いた『バットマンに栄冠を』では、不良だった衣笠が周囲の人々の気持ちに支えられていかに立派な野球選手になったか、という「人間ドラマ」が巧みに描かれているが、衣笠のあの弾むようなグラウンド上での動き、何もそこまで振らなくてもと思うような豪快なオーバースイングぶりを思い出させてはくれなかった。
 それはそれで面白かったけれど、『スローカーブを、もう一球』のような作品が見られなくなっていったことは、私には残念だった。

 『オレの魔球』は、久しぶりにそんな山際の作品群のことを思い出させてくれた。
 記事で紹介された投手たちは、すでに始まった県予選に出場し、実際に試合で「魔球」を武器に戦っているはずだ。もう姿を消してしまった高校もあることだろうが、特に結果を知りたいとは思わない。
 スポーツの試合である以上、最終的には勝ち負けという結果に収斂される運命は避けられないけれど、「オレの魔球」は、その結果が出る少し前の彼らの瑞々しい姿を、そのままにとどめている。結果が出れば終わってしまう、ほんのささやかな何かを、記事は保存している。勝つことや負けることによって引き起こされる単純な情緒的動揺ではなく、もっと微妙な何かを。そこにもたぶん、スポーツをすることの楽しみがあり、スポーツを見ることの喜びがある。

 そういえば確か『スローカーブを、もう一球』も、試合が終わる直前で文章が終わっていたのではなかったか。山際がそこで物語を止めたことの意味は、たぶん、そういうことだったのだろうな、と25年経って気がついた。ちょっと鈍すぎたか。
(って、本当にそこで止まってたかどうか自信はないのですが)

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最後の「不条理」。

 ワールドカップでプレーするジダンを私が初めて見たのは、98年フランス大会の2試合目、サウジアラビア戦だった。パリにいながらチケットを入手しそこね、パブリックビューイングで見たのだが、ゴールラッシュで盛り上がるフランス人たちが見守る前で、ジダンは転倒したサウジアラビア選手の背中を踏んづけて退場になった。おかげで決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦にフランスは大苦戦する羽目になったのだった。

 フランスくんだりまで行っておきながら生ジダンを見逃した悔いが残っていたので、次の2002年大会にはジダン見たさに韓国まで行った。だが、私がチケットを入手したウルグアイ戦に、大会直前にケガをしたジダンは姿を見せなかった。希代の司令塔のいない釜山のピッチの上では、アンリやプティやビエラが、途方に暮れたような表情でとりとめのないプレーを続けるばかりだった。どうも私にはジダン運がない。

 そして、今年。この大会を最後に現役引退すると表明し、前評判が悪くグループリーグでの戦いぶりも低調だったチームをほとんど独力で蘇生させて決勝まで導き、準々決勝や準決勝の勝利にあれほど素敵な笑顔を見せていた選手が、自らのキャリアの頂点となるべきワールドカップの決勝で、優勝の可能性も十分に残っている延長戦の最中に、相手に頭突きをかませて一発退場を食らったりするだろうか。延長の残り時間、そしてPK戦と、フランス代表の選手たちは、まるで親に見捨てられた子供のような表情のままだった。この顛末に、上に述べた2つの試合を思い出した。この一発退場も含めて、ドイツ大会は彼のサッカー人生の集大成のようなものになってしまった。

 西部謙司の著書『Eat foot おいしいサッカー生活』(双葉社)の中に「不条理のジダン」という文章がある。6ページほどの、さして長くない文章の中で、西部はジダンのいくつかのプレーを紹介しながら、このように書いている。
 「ジダンのシュートはもっと切迫した、異様な印象を残した。ぎくりとさせるような、歓声よりも沈黙を誘う、理解不能な、見てはいけないものを目にしたような、どこか危険で暴力的な匂いすらした
 ジダンの現役最後の振る舞いもまた、「ぎくりとさせるような、歓声よりも沈黙を誘う、理解不能な、見てはいけないものを目にしたような」という形容がふさわしい。不条理パワー炸裂の頭突き。彼らしい最期、と言えなくもない(西部の文章には「非常に寡黙でおとなしい性格にも関わらず、ピッチでは突然感情を爆発させて退場を食らう」とも書かれている)。この決勝戦を世界中で何億人が見ていたか知らないが、イタリア人以外は、この結末に鼻白んで茫然としたままテレビを消したのではないだろうか。

 私が好きだったルーマニアの英雄ゲオルゲ・ハジは、ガラタサライの一員として出場したUEFAカップの決勝戦で、しょうもない転倒でシミュレーションの反則をとられ、その試合2枚目のイエローカードを突きつけられて、それが彼の現役最後の試合となった。ふてぶてしい表情でピッチを後に歩いていく姿は、いつも「不逞の輩」のようだったハジにふさわしい最後だったと思う。ジダンの場合は、そこまでは言いづらい。もっと割り切れない思いが残る。それも含めてのジズーだったのかも知れないが。


 それにしてもイタリア人、誰かトレゼゲを慰めにいく奴はいないのか(インザギが声をかけている姿がちらっと映ったようだったが)。

(2006.7.10 07:07アップ。同日15:00ごろタイトル変更と若干の加筆修正をしました)

追記:
その後、FIFAはこの頭突き事件の双方の当事者であるマテラッツィとジダンに事情聴取を行い、同年7月20日、ジダンに3試合の出場停止(だけど引退したので代わりに3日間の社会奉仕)と7500スイスフランの罰金、マテラッツィに2試合の出場停止と5000スイスフランの罰金を科した。マテラッツィがジダンに浴びせた言葉は明らかにしなかったが、「人種差別的な性格はない」としている。

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建前が本音を凌駕する時。

 私がワールドカップを見るようになったのは82年のスペイン大会からだ。そのころは、ワールドカップというのは、ふだんは見られない海外のスター選手たちが活躍する様子をテレビで見るものだと思っていた。

 98年に日本が初出場してからは(正確には、94年に日本がすんでのところで出場しそこなってからは)、ほかの国のスターたちの試合ももちろん興味深く見てはいたけれど、それまでのように入れ込んだり興奮したりはできなくなった。どんなにいい試合も、いい選手も、いいプレーも、所詮は他人事だ。自分たちの代表を見る時の感覚とは全然違う。そう感じた。

 2002年も、そんな感覚で見ていた。変わったのは、海外のスター選手たちがもはや珍しいものではなく、ふだんからお腹一杯になるほど見ていたことだ。ふだんとは違うユニホームを着て、ふだんとは違う組み合わせで戦っていたけれど、強豪と呼ばれる国の選手はおなじみの顔ぶればかりだった(そして、ふだんに比べると彼らの多くはいささか冴えなかった)。

 そして2006年。私にとっては、他国の代表チームだけでなく、今行われているワールドカップに出場していた「日本代表」というチームも、少し他人事めいて見えるようになってしまった。
 ジーコが監督を務めた4年のうちにチームへの興味がどんどん減退していったせいもあるだろうけれど、自分が贔屓にしているFC東京やヴァンフォーレ甲府の選手がほとんど参加していない、というのも大きな理由だったと思う。突然ハワイから呼び出された茂庭があれよあれよとピッチ上にまで呼び出されてしまった光景や、ハーフタイムに引き上げてくる川口の肩に手をかけて懸命に何事かを話しかける土肥の姿が、私にとっては今大会でもっとも大事な映像のひとつである(加地が残っていてくれれば、もう少し見え方も違ったかも知れないが)。

 日本がまだグループリーグを戦っていたころに、サポティスタにリンクされていた「中坊コラムの日記」というblogで、オーストラリア戦終了後に2ちゃんねるのJ各クラブ系スレッドがどう反応していたかが紹介されていた。どのスレッドにも、「○年前のウチを思い出す負け方だ」「こんな奴よりウチの○○を使え」「週末の○○戦の方が大事(J2の場合)」というようなコメントが数多く書かれていた。ワールドカップより俺らのクラブが大事、という人が日本にはこんなに大勢いるのだな、と改めて感じた。
 だいぶ後になって、次の代表監督の交渉にまつわる茶番劇を眺めているうちに、このblogに書かれた各クラブのサポーターの反応を思い出した。そして、もし川淵三郎JFA会長がこの一連のスレッドを読んでいたら、あんな無礼で無様な振る舞いはしなかっただろうか、と思った。

 川淵会長がジェフ千葉のオシム監督を日本代表監督に引き抜こうとしているやり口に、ジェフではクラブもサポーターも怒っている。当然だ。
 この引き抜きはジェフに対して無礼なだけではない。優勝を争うチームからシーズン中に監督を引き抜いてしまえば、当然、優勝の行方をも左右することになる。仮に今後ジェフが成績を落とし、他のチームが優勝したとしても、「ジェフからオシムがいなくなったから優勝できた」と言われかねない。今、オシムをジェフから引き抜くことは、いわばJリーグ全体の値打ちに傷をつける行為なのだ。
 そもそも93年にJリーグを作った立役者は川淵会長自身だったはずだ。クラブの地域密着が日本にサッカー文化、スポーツ文化を根付かせるだのと声を大にしてきた川淵会長が、今、そのクラブの自助努力の成果を踏みにじろうとしている。馬鹿げた話だ。

 以前にも、似たようなことがあったなと感じて、数秒後に思い出したのはフリューゲルス消滅だった。あの時も川淵チェアマン(当時)の独断により、別のスポンサーを探して生き残る道を模索することのないままフリューゲルスの消滅が決まり、選手もサポーターも憤慨した。
 この2つの「事件」を私が「似たようなこと」と感じた理由は、川淵氏が育てたはずの理想を、川淵氏自身が踏みにじっているからだと思う。

 今にして思えば、Jリーグが発足した動機には、二面性があった。
 ひとつは「日本代表を強くするためにはプロリーグが必要」という動機。Jリーグ発足前後、川淵チェアマンはしきりに口にしていた。
 もうひとつが「地域密着」「スポーツ文化」といった概念。日本社会をよくするために、プロサッカーリーグはこんなに役に立ちます、世の中を変えます、ということも、川淵チェアマンはよく口にしていた。

 前者においてJリーグは「手段」であり、後者においてはむしろ「目的」に近い。当時は何の疑問もなく納得していたそれぞれの動機の間に、実は矛盾が生じることもあるのだと、私はここにきて思い知らされた。

 「地域密着」とか「スポーツ文化」とか、少し後から言い出した「百年構想」とかいうのは、言ってみれば当時はひとつのフィクションだったのだと思う。別に川淵氏が嘘をついていたわけではないだろうが、それらを「理想」(あるいは「建前」)として語りつつ、「現実」(あるいは「本音」)としてのワールドカップ予選(と同時に、90年代前半においてはワールドカップ誘致争い)を有利に導く、というのが川淵氏の、そして日本のサッカー界の戦略だったのだろう。

 その戦略は成功した。だが、ある意味では川淵氏たちの想像をこえて成功しすぎたのかも知れない。
 フリューゲルス消滅におけるサポーターの怒りは、川淵チェアマンが考えていた以上に、Jクラブが人々の中に根付き、強固な支持層を築き上げていたことを明らかにした。
 そして、現在のジェフ千葉とジェフサポーターの怒りは、すでに「クラブは代表のための手段ではない」と考える人々が大勢生まれていることを明らかにしている。中坊コラムの日記に見るように、「代表よりもクラブが大事」と考えている人も決して少なくないようだ。
 Jリーグはすでに「日本代表を強くするため」だけの存在ではない。「地域密着」や「スポーツ文化」という、かつての「建前」は、「日本代表」という「本音」に迫るほどに力を持ち始めている。

 川淵会長が自覚していたかどうかはわからないが、彼の一連の言動の背後には、「自分が作ったJリーグだから構わないだろう」「自分の出身母体である古河電工だから構わないだろう」という意識があったように見える。だが、すでにJリーグは彼のものではないし、ジェフは古河電工ではない。彼がまいた種、彼が育てた苗は、彼自身が思っていたよりも早く成長し、彼の手を離れて、自律的に動き出している。それは本来、彼にとって喜ぶべきことであったはずなのだが。

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そこにいるための資格。

 ワールドカップ中に新聞などで気になった記事がいくつかあったので紹介しておきたい。

「得点シーンを楽しみにしていたのに残念」と、兵庫県姫路市出身で英国に留学中の山崎智子さん(21)。
「クロアチアに勝つならブラジル戦も観戦しようと思ったけど、点が取れそうにないので、英国に戻って学業に励みます」。山崎さんにとって、初のW杯は終わった。(中略)
 ニュルンベルク中央駅で試合後、スーツケースを手にしていた兵庫県淡路市の主婦(63)。「勝てる試合だったのに、流れを引き寄せられずに終わってしまった。(次は)勝てそうにないので…」と肩を落とした。対ブラジル戦のチケットは他人に譲り、19日に帰国の途につく。

(読売新聞6/19付夕刊社会面から)
※前半の「山崎智子さん」が観戦していたのがスタジアムなのか市内のレストランなのか、彼女がブラジル戦のチケットを持っていたのかは、記事からは判然としない。


 とりあえず、もうパブリックビューイングや応援イベントの取材はお腹いっぱいです。だって、勝っても負けてもどんな試合内容でもさして重要ではなく、ただ青いシャツを着て集まって歌ったり踊ったりしたいだけの人が多すぎる。これも4年前は面白い社会現象だと思いましたが、正直言って食傷気味です
(東京MXテレビ 三田涼子アナの日記 6/29から)


 ドイツではファンのことでも悩まされた。今回は取材者ではなくひとりのファンとして日本戦三試合をバックスタンドで観戦し、周囲の日本人ファンを巻き込もうと努力したが、正直それは難しかった。
 対戦国のファンは、ゴール裏だけでなくスタジアムのあちこちで、全力でサポートする。でも日本のファンには、ずいぶんと温度の低い人たちが多かった。カメラを回す以外は無言で席に座り、前方の立ち上がった日本人ファンに「見えないので座ってください」と言うだけの観光客を、どうすれば熱くさせられるのか?協会も監督も選手もメディアも未熟で稚拙だったかもしれない。でも、それはファンにしても同じことだ。

(後藤勝「東京書簡」第27回 エル・ゴラッソ6/30付)


 ここに描写されたような人たちは、たぶん自分が非難めいた視線にさらされる理由が理解できず、「何が悪いんだ」と思うことだろう*1。市販されているチケットを買って見に来ただけじゃないか。それ以上に何か資格がいるとでもいうのか、と。

 たぶん、「資格」はいる。たとえばJリーグのゴール裏にいるためには、チケット代を払うこととは別の「資格」が必要だ。それは、その場に行ってみれば、たぶんすぐにわかることだ。そして、ワールドカップ本大会のスタンドというのは、すべてがゴール裏のようなものなのだと思う。
 そのような明文化されない「資格」に関する合意が形成され、共有され、尊重される状態が実現することを、もしかすると「文化」というのかも知れない。
 日本のサッカーがそこまで辿り着くには、まだ長い時間がかかるのだろう。

 日本代表の試合のスタンドがヌルくなっているのではないかという件については、以前、どこかのエントリでアルヴァロさんと話題にしたことがあった。
 私自身が目撃した範囲でいえば、2年前、久保がロスタイムに決勝点を挙げたワールドカップ一次予選のオマーン戦で、そのゴールの前に(つまり0-0の終盤に)席を立って帰る観客が少なからずいたことに衝撃を受けた。そりゃ、さいたまスタジアムは遠いし浦和美園駅の混雑は不快だが、しかし、だからといってそのタイミングで試合を見るのをやめるだろうか。この人たちは一体何をしに来たのだろう、と不思議だった。
 Jリーグのスタンドをよく訪れる人にとっての常識が、代表戦のスタンドにいる人々には通用しない。どうやらそういうことらしい。

 サッカーでも野球でもラグビーでも芝居でもロックコンサートでもクラシックの音楽会でも落語でも大道芸でも、それぞれの分野に即した見物人のマナーというものがある。それは、何度か現場に通ってみれば、誰に教わるまでもなく気づくことだ。
 テレビは、その種のマナーを伝える機能を持たない。テレビは観客を育てない。そんなことも、この現象には影響しているのかも知れない。


*1
読売の記事そのものには非難めいたニュアンスはない。単に現地での現象として「『勝てそうにない』と早々に帰国を決めたグループも出始め」と淡々と記している。社会面の記事なので、サッカーについて知識も関心も見識もない記者が書いている可能性はある。

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で、小野伸二の時代は来るのだろうか。

 中田英寿がプロサッカー選手からの引退を発表した、とテレビニュースが報じるのを聞いた時に感じたのは、江川卓と似ているな、ということだった。
 誰もそんなことを想像しない時期に唐突に本人が引退を表明した、という共通点もさることながら、余力を残しつつ自分の流儀に殉じたこと、「自分は野球(サッカー)だけの人間ではない」と周囲にアピールすることに飽くなき熱意を抱いていたこと、偉大と言われる領域に第一歩を踏み出したと周囲が思った瞬間が結果的には短い全盛期になってしまったことなどにおいて、この2人はよく似ている。結果的に最後となった試合の後で、彼らのキャラクターからは考えにくいような涙を見せていたことも。

 その次に考えたのは、小野伸二のことだった。
 ジーコと川淵三郎が演出した無残な4年間について考えるのを終え、オシムが率いる日本代表について考え始めるのはまだ控えていたこの数日間、私は小野伸二のことを考えていた。果たして日本代表に小野の時代は来るのだろうか、ということを。

 小野伸二はワールドカップの後も、日本に戻ってこなかった。
 所属する浦和レッズがドイツで合宿をするから、そのままそちらに移動しただけで、深い意味はないのかも知れない。
 だが、ドイツ大会を終えた時、小野が深い失意の中にあったであろうことは想像に難くない。懸命に走り回った中田英寿も、体調不良で思うようなプレーができなかった中村俊輔も、そりゃあ失望してはいるだろうが、彼らはまがりなりにもピッチで何事かを表現するための時間だけはたっぷりと与えられた。
 小野に与えられたのは最初のオーストラリア戦の、最後の十数分間だけだった。彼を投入するのに適切であるとは思えない、そして彼が何事かをなすにはあまりにも困難な場面で投入され、結果として日本代表の過去4年間でもっとも悲惨な時間帯にピッチの上に居合わせることになった。
 ファミリーだの貢献度だのといいながらも選手を斬り捨てる時には仮借のないジーコ監督は、小野に二度と出場のチャンスを与えなかった。残りの2試合、足をケガした上に熱まで出した中村俊輔がピッチの中で苦しんでいるのを、小野はただ外側から見ていることしかできなかった。

 公平を期して書いておくならば、テレビで見た限りでは、オーストラリア戦での小野のプレーが、その時の状況に適切であったと思えないことは確かだ。録画を見直す気になれないので朧げな記憶に頼って記述することをお許しいただきたいのだが、守備においてはタックルは浅く、攻撃では相手陣内でワンタッチでさばこうとして、あっさりとボールを相手に渡してしまったケースが何度かあった。何ともプレーが軽く、中途半端な出来だ、という印象を受けたのを覚えている。
 だから、続く2試合に小野の出番がなかったのが不当であったとは言わない。ただただ残念なだけだ。
 今回もまた、小野のためのワールドカップではなかった。

 私は小野伸二が好きだった。
 ボールと軽やかに戯れるようなプレーそのものもさることながら、彼の人柄が好きだった。
 個人的に何を知っているわけでもない。ただ、彼がいる練習風景や試合を見ていると、小野がいるところに自然と人が集まってきて、みな幸せそうな表情になる。そういう様子を見ているのが好きだった。
 彼が浦和レッズに入団した年、べギリスタインやペトロビッチという歴戦の外国人選手も含めて、年上のベテランの中で司令塔の役割を任されながら、それがごく自然なことであるように、気負いも衒いもなく、試合中に周囲の選手に声をかけていた姿が忘れられない。天性のリーダーシップとは、こういうものを言うのだと思った。
 99年のワールドユース・ナイジェリア大会に出場したU-20日本代表は、小野のチームだった。選手たちは、小野と一緒にプレーすることが楽しくてたまらないように見えた。中盤の司令塔とか王様とかいうよりも、太陽になぞらえるのがふさわしかった。サッカーの神に愛された少年のように見えた。
 人の集まる場所に顏を出せば、そこが上座になる。盛田昭夫とか、長嶋茂雄とか、そう言われるような人物が世の中には時々現れる。小野伸二もまた、そういう資質の人物なのだろうと私は思っている。

 小野にとっての不運は(相次ぐ故障を別にすれば)、ほんの少し上の年代に、卓抜した中盤の選手がひしめいていたことだ。中田英寿と中村俊輔が、小野の前に立ち塞がっていた。
 同時に試合に出られる状況になった時、他の2人を立てる立場に回るのは小野だった。監督に与えられた役割というよりも、彼自身のバランス感覚が、自然とそういう振る舞いをさせていたのかも知れない。誰かがそれをするのなら、あえて自分が出しゃばるまでもない。そんな鷹揚さを小野に感じていた。ひょっとすると、小野をチームの中心に置き、中田がパスの受け手や汗かき役に回った方が、チームの生態系が安定するのではないかと夢想することもあったが、代表監督にも中田にも、そういう考えはなさそうだった(中村と中田の間には、それに近い状況が実現したこともあったけれど)。
 だから、中田英寿や中村が同じピッチの上にいる限り、小野自身の能力が存分に発揮されることはないのではないだろうか。私はそんな疑いを抱いていた。

 だからといって中田や中村がいない時、小野が中盤に君臨したかといえば、そうでもない。今日こそは小野の日だ、と期待しても、チーム全体が劣勢のままだったりしたことが何度かあった。そこは小野の弱さであったと思う。中田と中村がいないということは「海外組」が全員不在ということだから、劣勢もやむなし、ではあったのだが。

 いずれにせよ、小野伸二のワールドカップは、またも不本意のうちに終わった。フランス大会では控えに終始し、日韓大会では中村俊輔に競り勝って左サイドのレギュラーになったものの、大会直前に虫垂炎を患い、本領を発揮しきれないままに終わった。そして今回。3度もワールドカップに出場していながら、十分な体調と立場で臨めたことは一度もない。

 日本がグループリーグの3試合を終えた後であちこちの媒体で報じられた、敗因を分析するさまざまな報道の中には、中田英寿の「このチームはフレンドリーすぎる」という発言が小野に対する批判だった、としているものがいくつかある。どの程度信頼できる話なのか私には判断できないが、2人のリーダーシップの違いをよく現したエピソードであるとは言えそうだ。

 敗因報道の中では、「中田だけが闘っていた」「中田がリーダーシップを発揮したのに他の選手がついてこなかった」とする記事も目に付く。だが、中田の健闘ぶりを讚えるのはやぶさかではないが、「中田がリーダーシップを発揮したのに他の選手がついてこなかった」という見解には違和感を覚える。
 ここ数年、試合後のインタビューや記者会見、テレビ出演、雑誌の記事、そして彼自身のホームページを通じて、中田は他の選手たちに対する批判的な意見を表明し続けてきた。
 彼が他の選手たちと直接的にどのようなコミュニケーションをとってきたのかは知らないが、よほど深い信頼関係で結ばれていない限り、あのような形での批判は、人間関係に破壊的なダメージをもたらす。
 中田はもしかすると、怒りという刺激によって他の選手たちを動かそうと思っていたのかも知れないが、だとしても望むような結果は得られなかった。
 結局、中田の流儀によるリーダーシップは不発に終わったといってよい。
 一方の小野の「フレンドリー」なリーダーシップは、その効果を問われる機会を得ることもなかった。

 オシムが次の代表監督になるとすると、中田英寿は引き続き重用される可能性がある(走りながら考えるという点で彼は日本の最高水準にいる)。だとすると、3度目のワールドカップを控え選手として終えた後もなお、小野伸二は中田の影武者の座に甘んじることになるのだろうか……。

 昨日まで考えていたのは、そんなことだった。

 その中田が、自ら現役を退くという。中村俊輔はゲームのコンダクターではあってもチームリーダーというタイプではない。では日本代表のリーダーの座は労せずして小野に転がり込んでくるのかといえば、たぶんコトはそれほど簡単ではないと思う。今の小野のプレースタイルを、オシムは評価するだろうか。リーダーどころか代表から洩れる可能性もあるのではないか。
(ま、私のオシムに関する予測はことごとく外れているので、あまりアテにはならないが)

 後藤健生はワールドカップ後の小野について、次のように書いている。
「考えてみれば、プレッシャーの激しいワールドカップのような短期集中大会は、小野の芸術的で楽しいプレーは似合わないのかもしれない。もちろん、4回目のワールドカップでの爆発も期待したいが、それよりも僕はリーグ戦での小野のスーパープレーや天真爛漫な笑顔を毎週見ていたいような気もする。」
(ストライカーDX特別編集 2006 world Cup 日本代表スペシャル)

 それもひとつのあり方だとは思う。だが、小野はまだ26歳だ。国際舞台から姿を消すには早すぎる。オシムが代表監督に就き、中田英寿が引退するというこのタイミングは、小野にとっては大きな転機となりうる。これからの小野がどのようなスタイルを目指し、オシムはそれをどう評価するのか。しばらくは目が離せない。
 もちろん私は、小野がピッチの太陽として君臨し、他の10人に輝きを与えるような姿を見せてくることを望んでいる。それが浦和レッズであれ、日本代表であれ、あるいは他のユニホームであれ。
 そして、この大会前に日本の黄金世代をポルトガル代表になぞらえた通り、小野が次のワールドカップの舞台で己の価値を証明してくれることを夢見ている。タイプは違えども、今大会におけるフィーゴのように。


追記(2006.8.4)
8月4日、オシムが最初に発表した13人の代表選手のうち6人までが浦和レッズ所属だったが、小野伸二の名はなかった。

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