中田英寿がプロサッカー選手からの引退を発表した、とテレビニュースが報じるのを聞いた時に感じたのは、江川卓と似ているな、ということだった。
誰もそんなことを想像しない時期に唐突に本人が引退を表明した、という共通点もさることながら、余力を残しつつ自分の流儀に殉じたこと、「自分は野球(サッカー)だけの人間ではない」と周囲にアピールすることに飽くなき熱意を抱いていたこと、偉大と言われる領域に第一歩を踏み出したと周囲が思った瞬間が結果的には短い全盛期になってしまったことなどにおいて、この2人はよく似ている。結果的に最後となった試合の後で、彼らのキャラクターからは考えにくいような涙を見せていたことも。
その次に考えたのは、小野伸二のことだった。
ジーコと川淵三郎が演出した無残な4年間について考えるのを終え、オシムが率いる日本代表について考え始めるのはまだ控えていたこの数日間、私は小野伸二のことを考えていた。果たして日本代表に小野の時代は来るのだろうか、ということを。
小野伸二はワールドカップの後も、日本に戻ってこなかった。
所属する浦和レッズがドイツで合宿をするから、そのままそちらに移動しただけで、深い意味はないのかも知れない。
だが、ドイツ大会を終えた時、小野が深い失意の中にあったであろうことは想像に難くない。懸命に走り回った中田英寿も、体調不良で思うようなプレーができなかった中村俊輔も、そりゃあ失望してはいるだろうが、彼らはまがりなりにもピッチで何事かを表現するための時間だけはたっぷりと与えられた。
小野に与えられたのは最初のオーストラリア戦の、最後の十数分間だけだった。彼を投入するのに適切であるとは思えない、そして彼が何事かをなすにはあまりにも困難な場面で投入され、結果として日本代表の過去4年間でもっとも悲惨な時間帯にピッチの上に居合わせることになった。
ファミリーだの貢献度だのといいながらも選手を斬り捨てる時には仮借のないジーコ監督は、小野に二度と出場のチャンスを与えなかった。残りの2試合、足をケガした上に熱まで出した中村俊輔がピッチの中で苦しんでいるのを、小野はただ外側から見ていることしかできなかった。
公平を期して書いておくならば、テレビで見た限りでは、オーストラリア戦での小野のプレーが、その時の状況に適切であったと思えないことは確かだ。録画を見直す気になれないので朧げな記憶に頼って記述することをお許しいただきたいのだが、守備においてはタックルは浅く、攻撃では相手陣内でワンタッチでさばこうとして、あっさりとボールを相手に渡してしまったケースが何度かあった。何ともプレーが軽く、中途半端な出来だ、という印象を受けたのを覚えている。
だから、続く2試合に小野の出番がなかったのが不当であったとは言わない。ただただ残念なだけだ。
今回もまた、小野のためのワールドカップではなかった。
私は小野伸二が好きだった。
ボールと軽やかに戯れるようなプレーそのものもさることながら、彼の人柄が好きだった。
個人的に何を知っているわけでもない。ただ、彼がいる練習風景や試合を見ていると、小野がいるところに自然と人が集まってきて、みな幸せそうな表情になる。そういう様子を見ているのが好きだった。
彼が浦和レッズに入団した年、べギリスタインやペトロビッチという歴戦の外国人選手も含めて、年上のベテランの中で司令塔の役割を任されながら、それがごく自然なことであるように、気負いも衒いもなく、試合中に周囲の選手に声をかけていた姿が忘れられない。天性のリーダーシップとは、こういうものを言うのだと思った。
99年のワールドユース・ナイジェリア大会に出場したU-20日本代表は、小野のチームだった。選手たちは、小野と一緒にプレーすることが楽しくてたまらないように見えた。中盤の司令塔とか王様とかいうよりも、太陽になぞらえるのがふさわしかった。サッカーの神に愛された少年のように見えた。
人の集まる場所に顏を出せば、そこが上座になる。盛田昭夫とか、長嶋茂雄とか、そう言われるような人物が世の中には時々現れる。小野伸二もまた、そういう資質の人物なのだろうと私は思っている。
小野にとっての不運は(相次ぐ故障を別にすれば)、ほんの少し上の年代に、卓抜した中盤の選手がひしめいていたことだ。中田英寿と中村俊輔が、小野の前に立ち塞がっていた。
同時に試合に出られる状況になった時、他の2人を立てる立場に回るのは小野だった。監督に与えられた役割というよりも、彼自身のバランス感覚が、自然とそういう振る舞いをさせていたのかも知れない。誰かがそれをするのなら、あえて自分が出しゃばるまでもない。そんな鷹揚さを小野に感じていた。ひょっとすると、小野をチームの中心に置き、中田がパスの受け手や汗かき役に回った方が、チームの生態系が安定するのではないかと夢想することもあったが、代表監督にも中田にも、そういう考えはなさそうだった(中村と中田の間には、それに近い状況が実現したこともあったけれど)。
だから、中田英寿や中村が同じピッチの上にいる限り、小野自身の能力が存分に発揮されることはないのではないだろうか。私はそんな疑いを抱いていた。
だからといって中田や中村がいない時、小野が中盤に君臨したかといえば、そうでもない。今日こそは小野の日だ、と期待しても、チーム全体が劣勢のままだったりしたことが何度かあった。そこは小野の弱さであったと思う。中田と中村がいないということは「海外組」が全員不在ということだから、劣勢もやむなし、ではあったのだが。
いずれにせよ、小野伸二のワールドカップは、またも不本意のうちに終わった。フランス大会では控えに終始し、日韓大会では中村俊輔に競り勝って左サイドのレギュラーになったものの、大会直前に虫垂炎を患い、本領を発揮しきれないままに終わった。そして今回。3度もワールドカップに出場していながら、十分な体調と立場で臨めたことは一度もない。
日本がグループリーグの3試合を終えた後であちこちの媒体で報じられた、敗因を分析するさまざまな報道の中には、中田英寿の「このチームはフレンドリーすぎる」という発言が小野に対する批判だった、としているものがいくつかある。どの程度信頼できる話なのか私には判断できないが、2人のリーダーシップの違いをよく現したエピソードであるとは言えそうだ。
敗因報道の中では、「中田だけが闘っていた」「中田がリーダーシップを発揮したのに他の選手がついてこなかった」とする記事も目に付く。だが、中田の健闘ぶりを讚えるのはやぶさかではないが、「中田がリーダーシップを発揮したのに他の選手がついてこなかった」という見解には違和感を覚える。
ここ数年、試合後のインタビューや記者会見、テレビ出演、雑誌の記事、そして彼自身のホームページを通じて、中田は他の選手たちに対する批判的な意見を表明し続けてきた。
彼が他の選手たちと直接的にどのようなコミュニケーションをとってきたのかは知らないが、よほど深い信頼関係で結ばれていない限り、あのような形での批判は、人間関係に破壊的なダメージをもたらす。
中田はもしかすると、怒りという刺激によって他の選手たちを動かそうと思っていたのかも知れないが、だとしても望むような結果は得られなかった。
結局、中田の流儀によるリーダーシップは不発に終わったといってよい。
一方の小野の「フレンドリー」なリーダーシップは、その効果を問われる機会を得ることもなかった。
オシムが次の代表監督になるとすると、中田英寿は引き続き重用される可能性がある(走りながら考えるという点で彼は日本の最高水準にいる)。だとすると、3度目のワールドカップを控え選手として終えた後もなお、小野伸二は中田の影武者の座に甘んじることになるのだろうか……。
昨日まで考えていたのは、そんなことだった。
その中田が、自ら現役を退くという。中村俊輔はゲームのコンダクターではあってもチームリーダーというタイプではない。では日本代表のリーダーの座は労せずして小野に転がり込んでくるのかといえば、たぶんコトはそれほど簡単ではないと思う。今の小野のプレースタイルを、オシムは評価するだろうか。リーダーどころか代表から洩れる可能性もあるのではないか。
(ま、私のオシムに関する予測はことごとく外れているので、あまりアテにはならないが)
後藤健生はワールドカップ後の小野について、次のように書いている。
「考えてみれば、プレッシャーの激しいワールドカップのような短期集中大会は、小野の芸術的で楽しいプレーは似合わないのかもしれない。もちろん、4回目のワールドカップでの爆発も期待したいが、それよりも僕はリーグ戦での小野のスーパープレーや天真爛漫な笑顔を毎週見ていたいような気もする。」
(ストライカーDX特別編集 2006 world Cup 日本代表スペシャル)
それもひとつのあり方だとは思う。だが、小野はまだ26歳だ。国際舞台から姿を消すには早すぎる。オシムが代表監督に就き、中田英寿が引退するというこのタイミングは、小野にとっては大きな転機となりうる。これからの小野がどのようなスタイルを目指し、オシムはそれをどう評価するのか。しばらくは目が離せない。
もちろん私は、小野がピッチの太陽として君臨し、他の10人に輝きを与えるような姿を見せてくることを望んでいる。それが浦和レッズであれ、日本代表であれ、あるいは他のユニホームであれ。
そして、この大会前に日本の黄金世代をポルトガル代表になぞらえた通り、小野が次のワールドカップの舞台で己の価値を証明してくれることを夢見ている。タイプは違えども、今大会におけるフィーゴのように。
追記(2006.8.4)
8月4日、オシムが最初に発表した13人の代表選手のうち6人までが浦和レッズ所属だったが、小野伸二の名はなかった。
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