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2006年8月

甲子園大会の精神主義ができるまで。<旧刊再訪>

清水諭『甲子園野球のアルケオロジー』新評論 1998
坂上康博『にっぽん野球の系譜学』青弓社 2001

 「早実の斎藤はなぜ4連投しなければならないのか。」「続・早実の斎藤はなぜ4連投しなければならなかったのか。」(並べてみると、統一性を欠く見出しですが)というエントリにいただいたコメントの中には、「甲子園ってのは悲壮感と自己犠牲がいいんだから、ほっとけ」というような意味の意見がいくつかあった。

 母校の名誉のために己の体を投げ打って勝利のために全力を尽くせ、疲れたから休みたいなどという弛んだ精神ではダメだ、死に物狂いで戦え…
 確かに、甲子園にはそういう心性が充満している。現代のスポーツに関する考え方とはいささか異なるこのような心性はどこから来たのか、という観点で日本野球の歴史を紐解いてみると、答えはわりとあっさりと出る。

 どうやら、その歴史のかなり早い段階から、日本野球はそういうものだった。

 2つ前のエントリで途中まで紹介した『甲子園野球のアルケオロジー』の後半は、そのような時代の野球の精神性について論じている。その象徴的存在が、一高だ。

 1873年=明治6年(その前年という説もある)に、開成校のお雇い外国人教師ウィルソンが学生にベースボールを教えたのが、日本における野球の始まりとされている(「開成校」は現在の開成高校ではなく、旧制一高・現在の東大の前身にあたる)。
 その後、新橋アスレチックスのようなクラブチームが作られるようになり、当初はいわゆるハイカラな人々のお洒落な娯楽という雰囲気だったらしい。
 しかし、チーム同士で試合を重ねるうちに対抗意識が強まり、とりわけ学校を主体にしたチームが増えると、勝敗に母校の名誉をかけて懸命に戦い、選手だけでなく周囲の人々が激しい応援をする、という気風が支配的になっていく。
 そのひとつの頂点ともいえるのが、明治後期に黄金時代を築いた一高野球だった。

 一高野球部は1890年、都内の主要クラブを次々と破り、日本の野球界に「一高時代」を築く。とはいえ試合そのものは年にほんの数試合しか行われなかったのだが、その少ない試合のために毎日厳しい練習を重ね、練習そのものを応援する人々も大勢グラウンドに詰めかけていたという。
 大和球士『野球百年』には、左腕エース守山恒太郎が夜毎ひとりで倉庫の壁を相手にピッチング練習を重ねる様子が描かれている。煉瓦の壁には大きな穴が空き、投げすぎて左腕がまっすぐ伸びなくなると、校庭の木の枝にぶら下がって腕の伸ばして、また投げ続ける、という壮絶な練習だ。
 また、手許にないのでうろ覚えの記述になるが、この時代の一高野球部関係者が書いた本(確か中馬庚の『野球』)では、グローブを使うと気持ちが軟弱になるので、素手で痛みに耐えながら守備をしなければならない、という意味のことが堂々と論じられていたりもする。

 このような一高野球の特徴を、清水は次のようにまとめている。

1)寄宿舎や校友会を基盤として、「全校の団結と文武に渡る諸武芸を錬磨」する身体文化の一つとして、野球を全校挙げて応援し、熱狂すること。
2)試合は「鬱勃たる胸中一片の気を、球に託して外に表示するの具となれり」といわれたように元気の精神たる校風発揚の場であり、母校の名誉を賭けて必ずや勝利すべきものであること。
3)試合をすることよりも、「一高式練習」といわれる日々の猛烈なる練習による精神修養と鍛練主義が重視されること。
4)野球には、「武士道の精神」と当時の野球部員と関係者が表現する質素倹約、剛健勇武、直往邁進の特質があり、これを実践するにも礼の精神、体を張ること、恥を知る精神を重視すること。

 ご覧の通り、我々がよく知っている「甲子園の精神」に、よく似ている。
「この一高時代の精神は、早稲田大学や慶応大学に覇権が移ったのちも地方の中等学校野球部に伝播し、全国中等学校優勝野球大会の『物語』を形成することに多大な影響を及ぼしていく」と清水は書く。

 この勢いで書いていると長くなってしょうがないのでかいつまんで紹介するが、一高、あるいは早慶の野球部員やOBが郷里の後輩を指導する形で、野球は全国の中学に伝えられていく。初期の早慶戦は、試合のたびに新聞で詳しく報道され、多大な人気を誇る競技だったから、影響力も大きかったことだろう。
 早慶戦は、その応援のあまりの過熱ぶりを学校当局が懸念して、1906年=明治39年を最後に対抗戦を禁じられてしまった。学生が野球に熱中しすぎて学業を疎かにすることへの批判などから、1911年=明治44年、東京朝日新聞は「野球と其害毒」と題したキャンペーン記事を掲載する。、第1回では一高校長だった新渡戸稲造が「野球は賎技なり豪勇の気無し」「巾着切りの遊戯」「野球選手の不作法」などと手厳しい談話を寄せている。

 ところが、そのわずか4年後の1915年=大正4年に、大阪朝日新聞社によって「全国中等学校優勝野球大会」が開催される。
 あれほど批判していた学生野球の大会を自ら主催することについて、朝日新聞社は「本社はこの大会によって全国的に統一ある野球技の発達普及を計ると共に、技よりも寧ろ精神を主として進むべき学生野球の真価を発揮せしめんと企てたのである」(朝日新聞社『五十年の回顧』1929=『甲子園野球の…』からの孫引き)という理屈を立てて説明している。
(ちなみに、清水によれば、「野球害毒論キャンペーンによって朝日新聞の購読数が急減したこと」も、大会発足の要因のひとつだったという)

 かくして「甲子園野球の精神」とでも呼ぶべきものが作り上げられ、90年以上を経た現在も、それは色濃く高校生たちの野球を覆っている。

 『甲子園野球のアルケオロジー』には、これらの事情が詳述されているほか、「フェアプレー」や「スポーツマンシップ」といったキリスト教思想を背景とした倫理観が早慶時代に形成されていったことなども論じられている。
 「甲子園野球の精神」に関心を持つ方は、ぜひお読みになるとよいと思う。


 その3年後に刊行された『にっぽん野球の系譜学』も、ほぼ同じ時代を扱っており、共通の資料や似た記述も多く見られるのだが、こちらはいわば応用編。少し違った観点から日本野球の精神を追っている。

 坂上の関心は、「日本野球は江戸時代からの武士道精神と結びついて独特の精神主義を形成した」と論ずる説は多いがそれは正しいのか、という点にある。特に海外の研究者やジャーナリストがそのように主張することが多く、日本人もさほど疑うことなく、それを受け入れている。
 だが、前後関係を調べていくと、必ずしもそうではない、というのが坂上の考えだ。
 上述の「野球と其害毒」キャンペーンに見るように、野球が広く全国の学校に普及した後、部員が野球に熱中しすぎて学業がおろそかになるとか、応援が過熱しすぎて危険であるとか、野球部員の素行が粗暴であるとか、さまざまな批判が加えられ、野球部の活動を禁止する動きも起こった。
 坂上は、これらの迫害に対抗するために野球人たちが打ちだした理論武装が、武士道を中心とする精神修養と野球を結びつけることだった、と説く。
 武士道は、野球界が世間の批判から自らを守るために利用した盾だった、ということになる。
 年度ごとに一高野球部員の族籍(「士族」か「平民」か。士族は武家の出身、ということ)を分析し、「『武士道的野球』論は、野球部選手に占める士族の比重が低下し、また、武術各部との関係をもつ者が激減したあとにはじめて登場したのであり、その逆ではない」とするくだりも興味深い。

 そもそも「武士道」というもの自体が「B.H.チェンバレンが『新たな宗教の発明』と指摘した現象」であり、帝大の教師だったチェンバレンは、日本を去った後の1912年に「武士道は、『ごく最近のもの』で1900年以前のどんな辞書にも出ておらず、制度や法典として存在したことなどなかった」と書いている、と坂上はいう。

 伝統と呼ばれるものの中には、ある時代の人々が自分たちの都合に合わせて作り上げたものも少なくない(例えば、相撲が「国技」を自称するようになったのは、明治42年=1909年に史上最初の専用競技場を建設し、その建物を「国技館」と名付けたことに始まる)。
 本書はその種の発見に満ちている。
 戦後の野球事情についても、終戦後しばらくはアメリカン・デモクラシー的な自由な気風に満ちた野球を楽しむ人が多かったけれど、数年のうちに学校野球部は戦前の精神主義に回帰してしまったこと、「スポ根」という場合の「根性」という言葉は戦後、おそらくは東京五輪あたりを契機に広まった新語であること(それ以前は「島国根性」というような、ある性格を現す用法に限られていた)など、へぇ、と思うようなエピソードが随所に見られ、興味深い。
 もちろん、武士道野球といわれるものの実体や各地での迫害の内容など、豊富な資料に基づき具体的に詳述されていて、これらのエピソードも面白い。

 ただし、上述のように、通説の歴史観への反論、という形で書かれているので、予備知識抜きでいきなり読むと、やや判りづらいかも知れない。この2冊を読むなら、先に『甲子園野球のアルケオロジー』から手をつけることをお勧めする。

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 このところしばらく甲子園について書いたり考えたりしてきましたが、エントリとしては、これをもって一段落とするつもりです。
 過去の関連エントリは以下の通りです。

甲子園大会という投手破壊システム。
甲子園大会はWBCを見習え。
早実の斎藤はなぜ4連投しなければならないのか。
続・早実の斎藤はなぜ4連投しなければならなかったのか。
清水諭『甲子園野球のアルケオロジー』新評論<旧刊再訪>


 なお当blogは8/27をもって開設2周年を迎えました。来訪者の皆様に感謝します。ここ10日ほどで思いも寄らない状態になって戸惑っておりますが(笑)。

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“福岡五輪”は東京都知事のかませ犬だったのか。

 『甲子園野球のアルケオロジー』の続きを書かなければいけないのだが、その前に一言。

 3つ下のエントリをはじめ、コメント欄などでも何度か触れてきたが、私は2016年の五輪誘致について、基本的には「やめた方がいい」と思っている。

 理由はふたつある。
 第一に、どちらも7月下旬から8月上旬を会期にしている*1が、この時期の日本は(北海道など一部地域を除いて)温度・湿度とも不快であり、世界中のスポーツ選手たちが頂点を争う場にはまったく適していない。
 五輪は選手にとって4年に1度しかない希少な機会であり、その間に培った能力のすべてを発揮する場である。このような悪条件下で、彼ら彼女らは己のベストを尽くすことができるだろうか。この時期に五輪を開催するのは、世界中のスポーツ選手に対して失礼な計画だと私は思う。
 竹田恒和JOC会長は2016年大会への立候補を表明した時に「五輪を開催することが最大の五輪運動推進になる」と語ったそうだが、8月に開催するのならそれはむしろ五輪運動への妨げになると私は思う。竹田さんも、ご自分で8月のお台場で馬に乗ってみて、自分と馬がベストを尽くせる条件かどうか、試してみたらいい。
 第二の理由は、後で触れる。

 ともあれ、JOCの呼び掛けに応じて東京都と福岡市が立候補し、計画書の提出や競技団体の視察を経て、30日にJOCによって国内候補地が選定されることになっている。そして、現在の情勢は東京有利と伝えられる。

 この間の流れについて、読売新聞は「対決の底流」という短期連載で紹介している(読売の五輪招致特集ページ内)。
 ネットにはまだアップされていないが(明日あたりにはアップされるだろう)、26日付朝刊に掲載された「下 JOC歓迎『本気の東京』」を読むと、どうもいらやしい匂いがぷんぷんと漂っている。

 記事によれば、立候補都市が具体化する前には、2012年五輪招致の経過(ロンドン、パリ、ニューヨーク、モスクワ、マドリッドなど大都市ばかりが争い、北京が勝った)の影響で、JOC内部では「日本が招致に出るなら、東京しかない」という見方が強かったという。
 しかし、福岡が立候補し、計画が明らかになると、IOCの選考傾向をよく研究し、競技団体とも良好な関係を保って競技サイドの意向を計画に反映させたことが評価されるようになった。実際、競技団体の評価は14対12で福岡を上にした団体が多かった。
 だが、石原慎太郎東京都知事は、形勢不利と見るや、自らトップセールスに乗り出し、競技団体から指摘された計画の不備については「巨大な財源をバックに都幹部が『いかようにでも』変更できることを示唆。計画の弱点を、実質上覆い隠してしまった」(記事から)という。

 「いやらしい匂いが漂う」と感じたのは、次のくだりを読んだ時だ。

「実は、2008年五輪招致で北京に敗れた大阪招致の体験などから、JOCが最も懸念しているのは、国内選考で選ばれた1都市が、IOCが重視する傾向や、国際招致に必要な戦略を十分研究しないまま、独善で招致を進めていくことだ。
 現在の東京都の計画は、『一からやり直さなければいけない』と評するJOC理事もいるほどで、修正は必須。だからこそ、東京がここに来て示唆し始めた柔軟性と協調性は、待望のサインだった」

 つまり、国際競争力を考えれば東京にせざるを得ないことはわかっているが、東京の計画をJOCや競技団体が思う方向に誘導するには有力な競争相手が必要だった、と読める。ユニバーシアードや世界水泳などの経験から国際スポーツ大会の運営経験を持ち、現場レベルで実現性の高い計画を立てることのできる福岡市は、JOCにとって理想的な「東京都の競争相手」といえる。

 26日付の読売はこの連載と同時に、JOCが作成した評価報告書が東京に優位なものになったと伝えている。林務評価委員長は、福岡の用地取得に対しては「深刻(な評価)と受け止めてもらって結構」と語り、一方で東京の計画書に対して競技団体が指摘した欠点については「東京都が改善することを確認しているので記載しなかった」と話しているという。

 私は、候補都市の選定は、主として計画書の優劣で争うのだと思っていた。もちろん虚偽の記載があっては話にならない。福岡の用地取得は、林委員長が言うように深刻な状況なのかも知れない。
 が、計画書に不備があっても「これだけ金を用意してるから、いかようにも修正しますよ」と言えば通ってしまうのなら、計画書は何のためにあるのか。

 結局のところ、JOCが福岡市を必要としたのは、東京を本気にさせるためという一点だけのことだったのではないか。東京都から「いかようにも」という言質をとった今となっては、すでに用済みというわけか。

 福岡は石原慎太郎都知事を焚き付けるための“かませ犬”としてJOCに利用された。私にはそのようにしか見えない。

 このまま国内候補地が東京都に決定するのであれば、もう五輪招致に手を挙げる都市など、当分は現れないだろう。

 東京が国際競争を勝ち抜いて2016年大会を開催すれば、当分現れなくても構わないのだろうが、果たして東京はこの競争に勝てるのだろうか?
 私はかなり悲観的だ。それが、冒頭で触れた第2の理由だ。

 2016年大会を東京に招致するのが困難と考える根拠は、きわめて単純だ。2008年の夏季五輪は北京(中国)で開催される。2012年がロンドン(イギリス)。その次にまた北京と同じ東アジアが選ばれるなどということがありうるだろうか?

 アジアで開催された夏季五輪は過去2回ある。1964年の東京(日本)、1988年のソウル(韓国)、そして2008年の北京(中国)が3回目。戦争のため開催を返上して幻となったが、1940年にも東京で開催されることが決まっていた。それぞれの間は20年から24年、ほぼ等間隔だ。それぞれの間に、ヨーロッパ、北米がそれぞれ1〜3回、その他の地域が1回程度。それがIOCのバランス感覚なのだろう。

 2016年大会の開催地を決めるIOC総会が開かれるのは2009年秋だ。投票権を持つ114人のIOC委員たちの心には、2008年の北京大会の記憶が鮮明に残っていることだろう。そして、夏の北京の猛暑も体が覚えているに違いない。
 アジアから距離の離れた地域では国民の大半が日本を中国の一部だと思っているような国も多いことだろうが、そういう国から選出されたIOC委員たちは、北京大会の次の次に、また中国の近所で五輪を開催することを望むだろうか。石原都知事がいくら「東京は国際的な大都市だ」「競争力がある」と誇ったところで、それが投票者たちの心を動かすほど魅力的な要因であるとは私には思えない。

 だから率直なところ、竹田JOC会長が、なぜ素人目にも勝ち目の薄いレースに積極的に乗り出したのか、私にはよくわからない。
 仮に「今回は勝てなくともその次のための布石になる」と考えているのだとしても、上記の間隔からすれば、まだ少し早いのではないか。
 そして、仮に2020年を本命だとJOCが考えているのだとしても、この次にも彼らの思うように動いてくれる自治体があるのだろうか。
 本命たる東京都は、都知事が変わっている可能性がある。新任のトップは往々にして前任者が手を付けた事業を否定するものだ(前任者がなしえなかった事業を自分ならやってみせる、と思う人もいるかも知れないが)。
 そして、東京が引き続き立候補してくれたとしても、その対抗馬が果たして現れるだろうか。
 福岡市の誘致活動の一部始終を目撃した全国の自治体の長は、かませ犬として使い捨てられるのはごめんだ、と考えるのではないだろうか。
 あえていえば、JOCは一度しか使えない禁じ手を無駄に使ってしまった。そんなふうに私には見える。
 もちろん、そう判断するのはまだ早い。結論は30日、そして最終的には2009年を待つことになる。


 ところで、石原都知事が約束した五輪のための積立金、そして、今後費やされるであろう招致活動のための経費には、いずれも私が東京都に納めた税金が含まれることになる。私は自分の税金がそんなふうに使われることに同意した覚えはない。次の選挙では、石原氏(あるいは彼が望む後継候補者)には投票しないことになるだろう。

追記(2006.8.27)
 コメント欄でKuiKugaさんという方が、次のように指摘している。

>今までの夏の五輪は、多くが酷暑の下で行われていますよね?LA、バルセロナもそうでしたし。アテネも、8月の日中の気温は東京より高いんだそうです(夜は涼しいそうですが)。次の北京も、8月の平均気温は東京より高いんですよ?

 前例があるから酷暑の下で開催しても構わない、とは私は思わない。むしろ、そんなに何度も酷暑の下で開催していること自体がおかしいと思う。夏の東京よりも暑い土地で五輪を開催するなんて、IOCはどうかしているとしか思えない。

 一度ちゃんと調べてみようと思っていたのだが、よい機会なので、過去の夏季五輪の開催時期を確認してみた(日本オリンピック委員会公式サイト:「オリンピックの歴史」ページによる)。

2004.8.11-29 アテネ(ギリシャ)
2000.9.14-10.1 シドニー(オーストラリア)
1996.7.19-8.4 アトランタ(USA)
1992.7.25-8.9 バルセロナ(スペイン)
1988.9.17-10.2 ソウル(韓国)
1984.7.28-8.12 ロサンゼルス(USA)
1980.7.19-8.3 モスクワ(ソ連)
1976.7.17-8.1 モントリオール(カナダ)
1972.8.26-9.11 ミュンヘン(西ドイツ)
1968.10.12-27 メキシコシティ(メキシコ)
1964.10.10-24 東京(日本)
1960.8.25-9.11 ローマ(イタリア)
1956.11.22-12.8 メルボルン(オーストラリア)
1952.7.19-8.3 ヘルシンキ(フィンランド)
1948.7.29-8.14 ロンドン(イギリス)
1936.8.1-16 ベルリン(ドイツ)
1932.7.30-8.14 ロサンゼルス(USA)
(これ以前の大会は何か月もかけて延々とやっていたので割愛する)。

 北半球の多くの地域で、暑さがピークになるのは7月から8月上旬。この期間に開催された夏季五輪が結構多いのは確かだ。
 ただし、注意深く見ていくと、1952年のヘルシンキを最後に、この時期を外して開催されることが多くなっているのがわかる。また、「暑さのピーク」とはいえ、もともと寒冷地の場合は、むしろピークの時期ぐらいでちょうどいいとも考えられる。ヘルシンキ、モントリオール、モスクワがこれに該当する。「トラベルコちゃん」という海外旅行情報サイトに主要都市の毎月の平均最高気温が記載されているが、ここで各都市の7月の平均最高気温を調べると、ヘルシンキ22度、モントリオール26度、モスクワは24度。まずは快適といってよさそうだ(36年大会のベルリンは24度、48年大会のロンドンは19度)。
 とすれば、問題はモスクワの次の84年ロサンゼルス大会以降ということになる。KuiKugaさんが指摘している大会も、すべて84年以降に行われている。
 では、なぜロサンゼルス大会から、五輪は酷暑の下で行われることが増えたのだろうか。

 JOC公式サイト「オリンピックの歴史」のロサンゼルス大会の項には、こんな記述がある。
「 聖火ランナーからも参加費を集めるなど、増大する運営経費と商業主義が話題になる。」
 ロス五輪は、後にMLBコミッショナーになったピーター・ユベロスが組織委員長を務めて空前の黒字を計上し、五輪が商業主義に傾倒していくきっかけとなった大会と言われている。
 そのことと開催時期に関係があるのだろうか。

 福岡の招致関係者周辺の知人から聞いた話によれば、開催計画が真夏に設定されているのは、USAのテレビ局の意向なのだという。
 6月まではNBAファイナルがあり、秋にはNFLとNHLが始まる。MLBもプレーオフやワールドシリーズが開催される。それらと重ならないスポーツ中継の空白地帯である7-8月がUSAのテレビ局にとっては最適なのだ、と。
 現在、五輪の運営費のおよそ半分程度は、USAのテレビ局の放映権料で賄われていると言われる。それだけに、スケジュール等に関しても強い発言権を持っている。つい最近も、アメリカのテレビ局が北京大会の水泳の決勝を午前中に行うように要求して選手たちの反発を買った、という報道があったばかりだ。
 私は知人の話を裏付ける決定的な根拠を持っているわけではないが、このような状況から考えると、いかにもありそうな話だとは思う。
(このあたりの記述は「利権構造が台なしにした、もうひとつのワールドカップ。」というエントリと重複しています)

 端的に言えば、夏季五輪が酷暑の下で行われるのはUSAのテレビ局の都合によるところが大きいと考えられる。
 もし2016年大会が日本で開催されることになったら、北京大会でそうであるように、陸上や水泳など主要種目の決勝は午前中に実施するように、USAのテレビ局は要求してくることだろう。組織委員会は要求を呑むのか、それとも日本のテレビ局がジャパンマネーをもって対抗するのか。そんな争いも、たぶん繰り広げられることになる。


*1(2006.8.28)
計画書を確認したら、東京は8/12から8/28、福岡は7/27から8/7をそれぞれ会期に予定しているので、この部分は正確ではない。とはいえ8/12から28の東京も十分に暑すぎると思う。

追記2(2006.8.30)
8/30、JOCは国内立候補都市選定委員会を開き、立候補都市を東京都に選定した。投票したのはJOC理事25名、加盟競技団体代表29名、日本障害者スポーツ協会代表1名の計55名で、結果は東京都33票、福岡市22票。
http://www.joc.or.jp/news/newsmain.asp?ID=0000001050
石原都知事は三選に出馬してIOCによる開催地決定まで誘致活動を指揮する意向を示した。

追記3(2009.10.3)
2016年五輪の最終候補地はリオデジャネイロ、マドリード、シカゴ、東京の4都市に絞られた。2009年10月2日にコペンハーゲンで開かれたIOC総会で最終選考が実施され、日本は2回目の投票で除外された(1回目はシカゴ)。開催地に選ばれたのはリオデジャネイロ。南米で初めての五輪となる。

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清水諭『甲子園野球のアルケオロジー』新評論<旧刊再訪>

 下の2つのエントリは、甲子園大会をあくまでスポーツの大会と見做して論じている。高校野球は、大学や社会人を経て、あるいは直接、プロ野球へと進んでいく選手の育成段階のひとつと捉えている。
 ただし、そんなものは関係なくて、高校野球、とりわけ甲子園大会はそれ自体が自己完結した独自の価値を持つ催しなのだ、という考え方もあるのだろう(というより、意識しているかどうかは別として、そういう考え方が支配的だからこそ、大会日程が選手生命にリスクをおわせていることに対して多くの人が鈍感なのだろう)。

 では、どうして甲子園大会はそのような独自の存在になっているのだろうか。
 それを考えようとする時に、本書はさまざまな面で参考になる。

 刊行されたのは1998年6月で、著者は身体文化論、スポーツ社会学を専門とする研究者だ(筑波大で教えているらしい)。
 著者がそれまでに発表した論文や文章をまとめたもののようで、さまざまな観点から甲子園大会を論じている。
(ちなみに「アルケオロジー」はフランス語で考古学のことだそうです)

 第一章「テレビの中の甲子園野球」では、1986年の準決勝(松山商業-浦和学院)、決勝(松山商業-天理)のNHKのテレビ中継を分析している。たとえば応援する人々の映像が全体の6.4%(準決勝)、5.9%(決勝)を占めており、これらが「甲子園野球を『物語』として成り立たせる非常に大きな要素」だと著者は書く。
 また、著者はこの2試合のアナウンサーと解説者の談話を引きながら、そこで強調される物語の内容を示していくのだが、恐るべきことに、決勝戦では、天理・本橋、松山商業・藤岡の両エースがともに肘の痛みを訴えていた。それに対するアナと解説者の談話は、次のようなものだ。

アナ「エースの意地として、今日はどうしても投げると言っておりました本橋」
アナ「両投手とも肘の痛みと戦いながらのピッチングです。再三のピンチはありますが、両投手とも実によくこらえて投げてますね」
解「よく投げていますねー。ま、ピッチャーの場合、肘が痛いというのは本当につらいねすけれども、表情を見るかぎりではですね、そういうのは全然出さずにね、よく投げてますね」

 これらの談話を引きつつ、「実際、のちに大学入学後、投手として投げられなくなってしまった本橋選手の人生のほんの一瞬をこの『物語』で美化し、『神話』化してしまうのである」と著者は書いている。
 つい数日前のテレビ中継でのアナウンサーと解説者の会話は、ここに記された20年前の中継と、どれほどの違いがあっただろうか。斎藤も田中も、故障を明示するような仕草こそ見せはしなかったけれども。

 第二章「甲子園野球と池田町の人々」は、本書の白眉といってもいい。徳島県の池田高校が甲子園の上位の常連として活躍していた80年代に、地元池田町の人々がどのように池田高校と甲子園大会を捉えていたかをフィールドワークによって紹介している。調査が行われたのは池田高が甲子園に出場した88年夏だ。
 「こんな山の中の田舎やし、楽しみいうたら野球しかないけん」「一家で一万円くらい出しとるから、そりゃすごいで。でも、テレビでそれだけ楽しませてくれる」と学校に寄付金を差し出す人々。
 「大学に入って、自己紹介で徳島県立池田高校なんて言うだけですごいは、そりゃ。野球部のやつなんかでも、三年間練習終わったあと、窓締めの仕事し続けても、池田の野球部って言うだけでいいから絶対やめへんで」と話す池田高出身者。
 万歳三唱に送られて、駅から列車で甲子園に出発する選手たち。
 それらを紹介しながら、著者は書く。
「壮行会、パレード、祝賀会、甲子園詣で、さらに寄付金といった行為は、日本が抱えもってきた祭礼や運動会、そしてある意味で選挙などさまざまな伝統的『祝祭』の要素が甲子園野球というイベントを通じて表出したと言ってよい。そして、これにより池田町民は、自分と池田町との結びつき、自分とは何者かということを確認しているのである」
 お盆に帰省した地元で甲子園を見る、という時期的な要素も、そのような傾向に拍車をかける。
(本書では触れられていないが、開催期間中には8月15日の終戦記念日もある。お盆、祭り、終戦と慰霊、そして郷土代表。実にさまざまな民俗学的要素を、この大会は抱え込んでしまったものだと思う)
 この章が書かれた後、池田高校は92年を最後に甲子園から遠ざかり、現在では池田町そのものも町村合併で三好市となった。池田の人々の郷土愛やプライドの受け皿は、今はどうなっているのだろう。

 ここまではどちらかといえば社会学的考察だったが、第三章以降は本格的にアルケオロジー(考古学)になっていく。
 第三章「一高時代以前から一高時代の野球」
 第四章「青年らしさの『物語』の起源」
 第五章「全国中等学校優勝野球大会開催に向けての『物語』の形式とその後」


…と、この先が肝心なところなのだが、今夜は時間切れ。尻切れトンボですみません。出張で2,3日留守にしますので、続きは改めて。

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続・早実の斎藤はなぜ4連投しなければならなかったのか。

 前回のエントリ『早実の斎藤はなぜ4連投しなければならないのか。』は、はてなブックマークとライブドアニュースで目立つところに紹介されたせいで、21、22日と連続してアクセス数が10,000ヒットを越えた。従来の最高が1日あたり2000ちょっと(これは今年の6月23日だった)なので、文字通りケタ違いのアクセス数。それほどまでにこの決勝と再試合が注目を集めたということなのだろう。

 当blogにいただいたコメントの大半は私と同意見のようだが、はてなブックマークには異論めいたコメントもついていて、それぞれに興味深い。
 それらは、おおまかには次の3つの論点に分けられる。

1)休養日増設=会期延長は学校側の経済的負担を招く
2)他の投手に投げさせればよい
3)酷使も甲子園の魅力である

 それぞれについて、具体的なコメントを眺めながら感想を述べ、前回エントリの補足としたい。

1)休養日増設=会期延長は学校側の経済的負担を招く

jt_noSke氏「応援する高校側も金かかるからねぇ、甲子園出場が決まったら寄付のお願いがいろんなところを回るよ。雨天中止とかで翌日へ順延とかなったら応援団の宿泊などでウン十万が簡単に飛んでくし、その辺考えないと。」
I11氏「出場期間が延びると応援校は200-500万円(準決勝以上ならもっと)を捻出しなければならない。現状よりも多額の寄付を集めることが困難だという事情も日程延長を困難にしている。未成年者にナイターは無理。」

 なるほど。
 で、それは選手の健康と引き替えにするほど重要なことなのだろうか?

 私自身は、なぜ一運動部の大会に他の学生が夏休みにもかかわらず駆り出されて、くそ暑い甲子園くんだりまで応援に行かなければならないのか理解できないので、資金が続かないのなら帰ればいいじゃないですか、と思う。応援というのは、したい人が自費ですればよいのであって、学校なりOB会なりがわざわざ資金を用意して応援団を送り込むこと自体が不自然だ。

 それでは大会が盛り上がらない?
 ならば、盛り上がらないと困る人たちが、休養日を設けることで生ずる費用を負担すればいいのではないだろうか。
 私は今日まで知らなかったのだが、テレビ局はNHKも民放も高野連に放映権料を支払ってはいないのだそうだ(東京新聞8月22日付特報面による)。あれだけの人気番組を元手要らずで放映してボロ儲けしているのなら、そのくらい還元してもバチは当たるまい。高野連は嫌がるかも知れないが。
 はてブのコメントの中にも、同様の意見は見られる。

sqrt氏「現状って、PTAや地元企業から寄付金を集めてるのかな。金銭面でスケジュール調整が無理なら、上位チーム(大会期間が長い)に対しては大企業やプロ野球の中の人がスポンサーに、みたいな仕組みはできないんだろうか。」
hasenka氏「決勝戦まで行ったチームは経費還元とかしてあげればいいじゃないの。WCには分配金とかあったな。それで日程の余裕ができるなら。」

 「応援団の費用負担がかさむから過密日程も仕方ない」という議論は、これがスポーツの大会についての議論であれば、明らかに本末転倒だ。ただし、こと甲子園大会に関して言えば、本質的には学校が「本」で選手が「末」なのかも知れない、という懸念は残る。
(滞在を延ばすことも費用を捻出することも難しいのであれば、せめて投手に対する投球数制限を設けるべきだろう)

2)他の投手に投げさせればよい

tyamamoto氏「うーん。。。ちょっとこれは違うと思う。。。齊藤以外の投手を使えば良いだけの話では?野球は1人でやるスポーツではないし、ベンチには別の投手も居るし。」

 当blogのコメント欄でもBlack Sheepさんが同様のコメントを書かれている。
 このような考え方に対して、私は否定的でもあり、肯定的でもある。

 まず、否定的な考えから。
 こと投手に関して言えば、野球は1人でやるスポーツに近い。ベンチにいる別の投手では斎藤や田中の代わりにはならない。
 たぶん今でもそうだと思うが、日本の野球においては、子供たちはまず投手をやりたがり、もっとも運動能力に優れた子供がチームの中でエースの座を勝ち取る。中学、高校と進むたびに、そんな投手志望の子供たちが同じチームに集まり、その中でもっとも優れた少年がエースになる。高校野球の強豪校のエースというのは、そういう何段階もの競争を勝ち抜いた、飛び抜けて優れた才能の持ち主なのであって、それに匹敵する投手が同じチームにいるような僥倖はまずない(そもそも本人たちが同一校を避けるだろうし)。
 斎藤の(あるいは田中の)代わりがいないから連投はなくならないのだし、同時に、それほど貴重な才能だからこそ、危険にさらしてはいけないと思う。

 と思う一方で、まったく別の考え方も成り立つ。
 上述の流れから言うと、野球少年たちは、わりと早い段階で自分のポジションを選び(あるいはチーム事情によって選ばれ)、投手を目指すことを諦めることになる。早実なら早実の何十人かの野球部員のうち、かなりの割合の選手は、かつて投手を志しながら諦めて野手に専念することになった経歴を持っていると考えられる。
 だが、10歳や15歳の段階で、そんなにはっきりと選手の才能を見極めることができるのだろうか。成長の早い子もいれば遅い子もいる。以前はダメでも今は投手に適性が出てきた、という選手も埋もれているかも知れない。
 高校野球にWBCのような球数制限が設けられれば、あらゆるチームが「投手陣」を構成しなければならなくなる。レギュラー野手陣は基本的に身体能力が高いだろうから、みなピッチング練習をすることになるだろう。その中から投手としての才能を開花させる遅咲きのエースが生まれることもあるかも知れない。それは野球界にとっては結構なことで、積極的な意義を持ちうる。

 第一の考え方を重視すれば「エースに投げさせるために休養日を設けるべき」となるし、第二の考え方を重視すれば「1人あたりの投球数を制限して複数の投手を使うべき」となる。負担が1人の投手に集中することさえなくなれば、どちらでもいいと思う。合意が得やすい方にすればよい。
 前者を採れば試合そのものの技術レベルは上がる。後者を採れば、より多くの投手にチャンスが与えられる。後者の方が夢があるようにも思えるが、実際には見るに耐えない試合もありそうな気がする。

 ただし、私は学生野球の現場を知らないので、どちらの議論も推測に過ぎない。実情を踏まえたご意見をお持ちの方がおられたら、ぜひお聞かせ願いたい。


3)酷使も甲子園の魅力である

citron_908氏 「こんなことやってちゃイカンのは分かってるけど、僕を含めて観衆がそれを求め続ける限りはどうしようも無いんだろうなぁ。なぜ「ダンス甲子園」や「俳句甲子園」が「甲子園」なのか、考えてみたら分かるはず。」
crea555氏「だから面白いんじゃないか(鬼)。悲劇性を失った甲子園はただの未熟な野球大会だ。栄光無き大会を管理体制の下に勝ち進み、敗れ、何が残る? 野球技術が将来まで価値を持つ人間なんてそうはいないのに。」
adoratio氏 「改善されないのは、過酷さや凄惨さ自体が同情や感動を産んで多くの視聴者を惹きつけちゃうことを知ってるからだと思うね/その過酷さの原因にまで思考の枝を伸ばす人間は存外に少ない」

 身も蓋もない見解だが、実際そういう面は強いのだろう。だからこそ、新聞もテレビも「炎天下の4連投」を賛美してやまないのだし、多くの人はそれに感動して、特に疑問も抱く様子がない。

 確かに、後先考えず目の前の勝利のために全力を注ぐ姿は、見る者の心を震わせる。
 プロ野球の世界では、最近は連投も酷使もめったに見られなくなったが、例えば2001年のMLBワールドシリーズで強豪ニューヨーク・ヤンキースと対戦したアリゾナ・ダイヤモンドバックスは、2枚看板の1人カート・シリングが1、4、7戦に先発して力投し、ランディ・ジョンソンは2、6戦に先発して勝った。最終戦の終盤には、前日に試合の大半を投げたジョンソンがリリーフとして登場した。当時すでに30代半ばだった2人の暴挙ともいえる投球には驚いたし、強い感銘を受けた。そうまでしてもヤンキースに勝ってチャンピオンになりたいのだという心情が、太平洋を越えたテレビ桟敷にも、ひしひしと伝わってきた。

 だが、それはあくまでプロ野球での話だ。プロスポーツ選手として、そこで投げることのリスクもリターンも、自分の身体の状態も、すべて知り尽くしたベテラン投手が自分で判断し、自分の責任で投げるのだから、周囲がどうこう言う必要もない。
 学生野球となれば話は別だ。プロスポーツは観客に見せるために存在する。アマチュアスポーツは、原理的には選手が自分たちのためにやっているのであって、観客はその余禄に預かっているに過ぎない。観客の喜びのために何かを要求するのは筋違いだ。

 奇麗事と言われるかも知れないが、私は見物人の欲望を無制限に肯定しようとは思わない。どこかで一線を引かなければ、見物人は際限なく厚かましく意地汚い存在に堕してしまう。
 高校野球は「未熟な野球大会」でいい。それ以上でも、それ以下でもない。

(なお、「野球技術が将来まで価値を持つ人間なんてそうはいないのに。」というコメントは、この場合は意味を持たない。甲子園の準々決勝以降には、その「そうはいない」「野球技術が将来まで価値を持つ人間」が集まっているのであり、だからこそ彼らの才能が潰されることが深刻な問題になる)

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早実の斎藤はなぜ4連投しなければならないのか。

 日曜日は体調を崩して家にいたので、久しぶりにじっくりと夏の甲子園大会の決勝戦を見た。
 駒台苫小牧の田中将大、早稲田実業の斎藤佑樹。大会屈指の好投手がそれぞれ決勝まで勝ち上がり、決勝でも評判に違わぬ力投を見せた。負けん気の強そうな顔で感情を剥き出しにしながら剛球を投げ込む田中。ほとんど表情を変えず、精密なコントロールで打者を打ち取っていく斎藤。延長に入ってからピンチをことごとく切り抜けていく2人の投球は見事だった。
 とりわけ、延長15回表、二死無走者で迎えた四番打者の本間(大会規定で延長は15回までなので、討ち取ればこれが最後の打者になる)に対し、それまでの慎重さをかなぐりすてて抑制していた闘争心をむき出しにするかのように、147キロの快速球を投げ込んだ斎藤の姿には、深い感銘を受けた。

 延長15回を終えて1-1。大会規定により、決勝戦は明日午後1時から再試合となる。早稲田実業はここまでほぼ斎藤1人で投手陣を賄ってきた。試合後のインタビューで監督は口ごもっていたが、結局は斎藤を投げさせるしかないだろう。
 準々決勝から3日続けて先発完投し、投球数は3試合で400球を超えている。再試合に投げれば4日連投、その前の試合から数えれば6日で5試合だ。決勝と再試合はいずれも午後1時プレイボール。8月中旬、大阪が年間を通じて最も暑い時期の、最も暑い時間帯である。

 斎藤は、なぜそんな過酷な条件に耐えなければならないのか。

 そして、なぜ高野連は、斎藤や田中のような優秀な投手の肉体を破壊しかねない過酷な日程を改めようとしないのか。

 このblogに長くお付き合いいただいている方は、「また始まったか」とお思いだろうけれど、この件については大会規定が改善されるまで書き続けると決めている。
 高校サッカー選手権では同一チームが2日続けて試合をすることのない日程が実現している。サッカーでできることが、なぜ野球でできないのか、私には理解できない(この件に関しては、以前『甲子園大会という投手破壊システム。』というエントリで詳しく論じたので興味のある方はご参照いただきたい)。

 明日行われる再試合という制度も、私にはよく理解できない。1日に行う試合の長さを制限すること自体には賛成する。だが、延長15回まで進んだ試合を、なぜ振りだしに戻して9イニングもやり直さなければならないのだろうか。別の日に延長16回から続ければよいではないか。

 この意見、唐突に聞こえるだろうか。だが、これは公認野球規則に定められたサスペンデッド・ゲームという正式な試合方式のひとつである(公認野球規則4.12を参照されたし)。
 一方の再試合という方式は、公認野球規則の中には見当たらない。日本高等学校野球連盟では、高校野球特別規則の中で、わざわざ「サスペンデッドゲームは、高校野球では適用しない」と規定し、独自に再試合という方式を作っている。どちらが選手の健康に対して負担が大きいか、考えるまでもないだろう。
(Wikipediaの「サスペンデッド・ゲーム」の項目によれば、軟式野球の高校選手権大会では、決勝戦以外では、私が主張しているのと同様に、延長戦は15回で打ち切り、翌日16回から試合を続行する制度になっているという。主催団体は甲子園と同じ高野連である。硬式野球と軟式野球では選手の健康に対する負担が異なるとでもいうのだろうか。素人目には硬式の方が負担が大きそうな気がするが)

 百歩譲って、私の預かり知らない事情で連戦や再試合を避けることが不可能なのだとしても、試合開始時刻が午後1時であることだけは承服しがたい。
 なぜ彼らは1日の中で最も暑い時間帯に試合をしなければならないのだろう。そこに至るまでに選手たちは疲れきっている。極端に言えば、決勝くらいは暑い日中を避け、涼しいナイターにしてもよいではないか。ナイターにすると照明代など費用がかさむ、という反論が聞こえてきそうだが、それならせめて午後3時くらいから始めればよい。

 とにかく、今日の決勝戦を見ている間も、私は試合の行方とは別に、田中と斎藤が肩や肘やその他の部位に変調をきたしてはいないかと心配でならなかった。大会屈指の逸材などと言われた投手が、試合を追うごとに目に見えてフォームや制球を崩していった例も過去にはある。私がはっきり記憶しているのは97年に準優勝した平安高校の川口という左腕投手で、右打者の膝元への速球が武器だったのに、決勝ではまったくそこにボールが行かなくなっていた。彼は後にオリックスに入団したけれど、まったく精彩なく終わった。彼がどうだったか詳しくは知らないが、深刻な故障を抱えていながら決勝戦のマウンドに登る羽目になった投手も少なからずいるはずだ(例えば91年の沖縄水産の大野倫)。
 幸い、田中と斎藤は2人とも素人目にわかるような乱れ方をしてはいなかったけれど、明日はどうなるかわからない。将来、両投手が選手生活の中で深刻な故障を抱えるようなことになったとしたら、その責任のかなりの部分は、このような過酷きわまりない日程を彼らに強いている日本高校野球連盟と朝日新聞社にある、と私は考える。

 いまいましいのは、素人目にもこれほどはっきりと異常な大会が毎年繰り返されているにも関わらず、それを指摘する声はほとんど上がらないことだ。
 先のサッカーのワールドカップの際に、日本が2試合続けて日中に試合を行ったことに対して、「テレビ局や電通の都合で選手にとって過酷な条件下で試合をやらせた」とネット上でもその他の場でも非難が浴びせられた。確か沢木耕太郎のような高名なライターも新聞紙上で非難に荷担していたと記憶している。
 「過酷だ」と言われたワールドカップで、日本代表の初戦と第二戦の間には5日も間隔があった。斎藤投手はすでに3連投、おそらくは4日続けて投げることになる。
 沢木のようなワールドカップの試合時刻を批判した人々は、毎年繰り返されている甲子園での過酷な仕打ちに対しては、どう考えているのだろうか。

 また、2016年の五輪における国内候補地選定に関するニュースもこのところよく目にするようになってきたが、東京も福岡も開催時期は8月上旬が中心になっている*1。私は、計画そのものは福岡の方に魅力を感じるし、この間の石原都知事の場外乱闘ぶりには嫌悪感を禁じえないけれども、8月上旬という開催時期が動かせないのであれば、どちらにも反対せざるを得ない。
 この時期の日本の暑さと湿気はスポーツの大会にはまったく適していない。単独競技の大会ならまだ対処のしようもあるだろうけれど、短期間にたくさんの競技を行うオリンピックでは、多くの種目で炎天下の日中に競技をすることが避けられないだろう(札幌でやるというなら賛成してもいいが、札幌市長はまったくやる気がないらしい)。
 沢木のようなワールドカップの試合時刻を批判した人々は、オリンピックをこの酷暑の下で開催しようという恐るべき計画に対しては、どう考えているのだろうか。


追記:
迂闊にも本文を書いている間は忘れていたが、早実は今年の春の選抜で3月29日に関西(岡山)と延長15回を戦って7-7で引き分け、翌30日の再試合を4-3で勝つと、さらに翌日の31日にも横浜(神奈川)と試合をさせられて3-13と大敗。関西との2試合で334球を投げた斎藤は、3日目には力尽きた。そんな苦い経験を糧に、より逞しくなって甲子園に戻ってきた斎藤と早実の選手には感銘を受けるけれど、同じ投手を2度もこんな目に遭わせる高野連には怒りを覚える。
参考エントリ『甲子園大会はWBCを見習え。』

追記2(2006.8.21)
「アルプススタンドの(引用者注:斎藤投手の)母しづ子さん(46)は、試合終了の瞬間『よくやってくれましたが、「明日も頑張って」なんて、親の立場からはとても言えない。今はただ、体を休めてほしい』と、目に涙をためながら話した」
 東京新聞8/21付朝刊社会面より。本エントリのコメント欄「ある母」さんのコメントもご参照いただきたい。

追記3(2006.8.21)
昨日、このエントリをアップした後で、asahi.comのどこかにトラックバックでも送れる場所はないかと探してみたところ、高校野球ページの「甲子園だより」というコラムが「ご意見・ご感想」を募集していたので、エントリの趣旨をダイジェストして送ってみたら、8/21付の「読者の声」として採用されていた。編集サイドで検討した上で採用する投稿を決める方式なので、朝日の中にも問題意識を持った人がいないわけではないようだ。もっとも、ライター神田憲行氏によるコラムの内容は盛り上げ一方で、投手たちの過労をあまり気にしてはいないようだが。

追記4(2006.8.21)
再試合は早実・斎藤は先発、駒苫・田中も一回途中から登板した。試合は早実が初回から小刻みに得点し終始リードを保った。終盤の駒大苫小牧の追い上げをかわして4-3で辛くも逃げ切り、初優勝。斎藤は118球を投げて完投勝利、大会トータルでの投球数は7試合で948球に上った。幸い、両投手とも目立った変調は見られなかった。だが、さすがの斎藤も最後の方では、投げ終わった反動で一塁方向に踏み出す動きが、しばしば以前より大きくなっていた(が、あくまで印象なのであまり自信はない。大会初期からビデオを撮っている方は見比べてご覧になるとよいと思う)。

*1(2006.8.27)
念のため計画を確認してみたら、福岡は7/27-8/7だが、東京は8/12-28だったので、この部分は正確ではない。とはいえ東京が予定している開催期間も相当暑すぎると思うので、論旨を変えるつもりはない。今日くらいの暑さなら、まだ耐えられますが。


その後の関連エントリ
続・早実の斎藤はなぜ4連投しなければならなかったのか。

清水諭『甲子園野球のアルケオロジー』新評論<旧刊再訪>

甲子園大会の精神主義ができるまで。<旧刊再訪>

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地下鉄に閉じこめられるの記。

 都内某区の家を出たのが午前7時40分ごろだった。最寄り駅から地下鉄に乗ったのが7時50分ごろ。3つ目の駅に着く頃に、「銀座線と南北線が運行を停止しています」と車内放送が流れた。どうしたんだろう、と思っていると、まもなく列車がゆっくりと停止した。
「信号機が消えているため、停車しました。原因を調べておりますので、しばらくお待ちください」
 午前8時ちょうどだった。

 頻繁に流れる車内放送は、謝罪の言葉を機械的に繰り返すばかりだったが、やがて断片的に新しい情報が加わってきた。都内広域で停電が発生し、その影響で信号機が消えたということらしい。列車そのものの電源は別系統なのだろう、幸い車内の明かりも冷房も止まることはなかった。
 乗客たちは平静だった。お盆の最中だけに、ふだんの同じ時間帯よりはすいていたが、それでも座席は一杯で、立っている乗客も結構いた。停車して最初の放送が流れると、時計に目をやって、そのままじっとしている人が大半。動揺の色を見せた人は、私の視界の中にはいなかった。

 私自身はいささか困っていた。平常の出勤途上なら、1時間やそこら遅れても特にどうということはないのだが、この日は羽田空港から飛行機に乗って出張しなければならない。航空会社のダイヤを確認したが、予定の便に乗り損ねると、もう出張先の約束の時刻に間に合わなくなる。1か月近くかけて準備してきた仕事が吹き飛びかねない。
 そういえば家から駅に向かう途中の交差点で信号が消えていた。他の路線が止まっている、と車内放送が流れた時にも降りるチャンスはあったはずだ。何の危機意識も抱かないまま、漫然と立ち往生してしまったことを後悔した。
 広域の停電が原因なら、JRなど他の路線に乗り換えてもダイヤは乱れているに違いないし、また止まってしまうかも知れない。直近の駅までたどり着き、地上に出てタクシーで空港に向かうしかない。幸い、お盆で道路はすいているはずだから、9時までに地上に出れば間に合うはずだ。
 そこまでの目算を立てて、時計をみながら事態の推移を待つことにした。

 車内放送では、停電があったという説明だけで、その原因までは知らされない。電力会社の不具合なのか、送電線がらみの事故なのか。折しも、総理大臣の靖国神社参拝をめぐって国内は騒然とし、近隣諸国からは反発を買おうとしている、その前日である。テロなんてことはないだろうな、という考えも頭をよぎる。
 その勢いで、学生時代に読んだ山田正紀の小説を思い出した。『虚栄の都市』(後に文庫版で『三匹の「馬」』と改題)というタイトルで、正体不明の3人のテロリストが東京に潜入し、下水道などを縦横に動き回ってライフラインをズタズタに分断、都市機能は麻痺するが治安当局は手も足も出ない…という暗澹たる話。確か70年代後半に発表された作品だが、その後の情報通信網の発達と、それに対する社会の依存度の大きさは、当時とは比較にならない。受けるダメージもまた比較にならないだろうな、…などと止まった地下鉄の中で考えるのは精神衛生によろしくない。それ以上考えるのはやめにした。

 30分が過ぎたが、状況に変化は起こらない。車内放送は「復旧作業をしておりますが、運行再開の見通しは立っておりません」という文言のほかには話すことがなくなっていた。
 そろそろ潮時だな、と踏ん切りをつけて、私は目の前の壁にあった非常通話装置のスイッチを押した。
 窓は開かないし、自分の位置から見える範囲には非常用ドアコックも見当たらない。さしあたり私にできることといえば、この装置から車掌に話しかけることくらいしかなかった。
 プラスチックのカバーを押し割ってスイッチを押すと、けたたましくサイレンが鳴り、周囲の人々が驚いた表情でこちらを見る。肩身の狭い思いをしつつ、通話可能のランプが点灯するのを待った。

「どうしました?」

 車内放送と同じ声が、うわずった調子でスピーカーから流れてくる。

「いや、特にどうしたということではないんですが、見通しが立たないのなら、最寄り駅まで歩いていくから、降ろしてくれませんか」

「お、お待ちください」

 さらにうわずった調子で通話が切れた。

 まもなく、運転席のドアが開いて運転士が姿を現した(乗り継ぎの都合で、私は先頭車両の最前部に乗っていた)。

 「今の通報はどなたですか?」と問われて、「私です。次の駅まで歩くとか、列車をそこまでつけてもらうことはできないんですか」と話すと、「今、最寄り駅と連絡をとって、そういう手配をしていますので、しばらくお待ちください」と言われた。それなら結構。「わかりました」と答えて推移を待った。まもなく車内放送でも同じ内容が伝えられた。

 推定50歳前後、白髪交じりで丸顔の温厚そうな運転士は、うわずりっぱなしの若い(推定)車掌に比べると、さすがに落ち着いていた。開いたドアはそのままに、その場の乗客たちにもわかるような形で、最寄り駅や運行センターとの交信を続けた。
 最寄り駅から駅員が救援に来て乗客を駅まで誘導する、と話が決まったところで、運転士は運転席前部のドアを開いた。暗い線路の中に非常灯らしい明かりがぽつりと灯っている。私も含めた乗客たちは、カーブの向こうから駅員が姿を現すのを待った。

 駅員がなかなか着かないので、線路から目を離し、つり革に向かってぼさっとしていると、「信号が点いたんだけど、運行できますか」と運転士がどこかに相談する声が聞こえた。駅員が到着する前に、復旧の可能性が出てきたらしい。運行センターとの話し合いがしばらく続いた末、全線の運行が再開されると決まった。
 運転士は乗客にそう伝えると、「ご迷惑をおかけしました。もうしばらくお待ちください」と頭を下げて、運転席のドアを閉ざした。地下鉄の線路を歩くのは正直なところちょっと楽しみだったので、貴重な経験をしそこねて、いささか残念だった。「まもなく運転を再開します」という車内放送の車掌の声ははずんでいた。

 それから5分ほどで列車はゆっくりと動き出した。最寄り駅のホームに滑り込むと、周囲の乗客の多くが携帯電話を取り出し、「停電で地下鉄に閉じこめられちゃって、30分ほど遅れます」などと話し始めた。車内で自分と運転士以外の人の話し声を耳にしたのは、それが初めてだったような気がする。
 ホームに降り、改札で遅延証明書を受け取って、地上に出てタクシーを拾ったのが9時過ぎ。首都高は予想通りすいていて、予定の便には間に合った。

 後で、クレーン船が高圧線に触れたことが停電の原因と知った。建設会社の一社員がうっかりしただけで、これだけの被害が出る。悪意を持っていたらどうなることやら。

 以上が私が遭遇した事件(未満)の一部始終のご報告。最も印象に残ったのは、復旧を待っていた列車内の静けさだ。乗客の誰もがほとんど口を開くこともなく、動きが起こったのも、運転士がドアを開き、「駅員が誘導して最寄り駅までご案内します」と車内放送が流れた時に、若干の乗客が運転席近くに集まった程度。ほとんどの乗客は、終始何のアクションも起こさないままだった(もちろん、結果から言えば、アクションを起こす必要はなかった)。
 これを「パニックを起こさない冷静な国民性」と褒め称えるべきなのか、「座して死を待つ従順な羊の群れ」と憂うべきなのか。私には判断がつかない。どちらか一方に決めつけられるほど単純なことでもないとは思う。

 翌日、出張先から職場に戻り、仕事をした後、地下鉄で帰宅した。前日閉じこめられたのと同じ路線の列車に乗るという段になって、はじめて少しイヤな気分になった。恐怖心というのは、事態が終わった後からやってくるものらしい。それとも、単に私が鈍いだけなのか。

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処女作に作家のすべてがあるのなら。

 ジーコが代表監督になって最初の試合は、出張先のホテルで見ていた。同僚とそれぞれの部屋で見ていたのだが、終了後に落ち合って遅い夕食に出た時、同僚に向かって言った言葉を、私は今でも覚えている。
「いい選手を集めて並べりゃいいってもんじゃないよな」

 トルシエについては、フル代表の初戦よりも、シドニー五輪を目指すU-21代表の初戦、アルゼンチンU-21代表との試合が強烈に印象に残っている(試合が行われた日もこちらの方が早かったと記憶している)。日本のDFでフラットな3バックを組んで、しかも見たことがないほど最終ラインを押し上げ続けて、それでアルゼンチンに勝ってしまった。日本人にこんな芸当ができるのか、という感激に近い驚きを感じた。

 岡田武史の場合は、ワールドカップ最終予選のさなか、遠征先の連戦の途中でいきなり監督になったのだから、自分の色も何も、そこにいるメンバーでそれまでの延長上のサッカーをするしかない。それでも、ウズベキスタンとのアウェーゲーム、ここで負けたら息の根が止まるという状況で、中田英寿をベンチに置いて試合を始めた胆力には感心した。

 その岡田に後を託す羽目になった加茂周の初戦は、12月にアラブのどこかで行われた、今は亡きインターコンチネンタルカップだった。試合は大敗だったが、試合内容そのものよりも、前任者が若返りを図って外したベテラン選手たちを大勢呼び戻しておいて、敗戦という結果とともに徐々に彼らを外しながら世代交代を仕切り直すというやり方の政治性が印象に残っている。

 予想外の選手を何人も招集して周囲を戸惑わせたファルカンの最初のゲームは、見てはいたはずだが、あまり記憶にない。覚えているのは、ケガで代表を外れていた浅野が復帰して新チームの初ゴールを決め、「僕はオフト・ジャパンの初ゴールも決めているんです」とコメントしていたことくらいだ(後に「オフトの申し子」のように言われた森保一は、当初は浅野の控えだった)。

 オフトの監督デビュー戦はアルゼンチンとの試合だった。チケットを持っていながら急用が入って見に行けなかった悔しさばかりが思いだされる。後でビデオで見たけれど、試合内容はほとんど頭に入っていない。ただ、ほぼフルメンバーを揃えてきたアルゼンチンに0-1というのはなかなかの健闘だったはずだ。考えてみれば、その2年前にはリネカーのいたトットナムを破っている。欧州や南米の強豪国・強豪クラブでも、物見遊山気分の相手とホームで試合をするのであれば、そこそこいい試合ができるというレベルまで、日本は来ていた。


 以上、オフト以来の歴代サッカー日本代表監督の初戦を振り返ってみた(あえて記録を紐解くことをせず、記憶だけで書いているので、細部に間違いがあるかも知れない)。
 こうやって並べてみると、最初の試合といえども、それぞれの監督の特徴や手腕はすでに相応に現れているように思う。後から振り返った時に、その思いはより強くなる。

 初集合から4日目に行われたトリニダード・トバゴ戦が、過去の例と同様に、今後のオシム率いる日本代表の行く末を示しているのだとすれば、このチームの今後は大いに楽しみだ。2-0の勝利という結果よりも、前半に垣間見せてくれた“次から次へと選手が湧いてくる感じ”が、期待をもたせてくれる。

 オシムが試合前日の記者会見で口にしたように、勝利はときに問題点を覆い隠してしまうかも知れない。だが、それは同時に、新しいことをしようとしている監督に必要な時間を稼いでもくれる。今後、ジェフ勢、さらにいずれは海外勢を加えて段階的にチームを育てていかなければならない今の彼にとっては、後者の方がより重要であるように思える。

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13人のJリーガー。

 サッカー日本代表監督に就任したイビチャ・オシムが、初戦となる8月9日のトリニダード・トバゴ戦に向けた代表選手を発表した。わずか13人、という数もさることながら、顔触れも過去8年間からほぼ一新されたといってよい。新しいことはしないんじゃなかったのか、やっぱり「古い井戸」に水は残っていなかったのか、と皮肉のひとつも言いたくなるけれど、一方で、これはたいへんオーソドックスな人選でもあると思う。

 6月下旬、「3試合目に望むこと。」と題したエントリのコメント欄で、私は次のように書いた(書いたのはワールドカップでのブラジル戦の直前)。

 仮に「点を取る」ことがサッカーの他の技能から独立した能力だとすると、それを備えた選手を発掘する最良の方法は、実際に点を取っている選手を起用することです。
 顧みて今季のJリーグの得点ランクを上から眺めると、日本人1位は我那覇、2位・佐藤寿人、3位が小林大悟と巻。昨年のランクでは1位・佐藤寿人、2位・大黒、3位・カレン、4位・阿部勇樹、巻、前田遼一。このうちドイツにいるのは大黒と巻だけで、出場したのは大黒が2試合で10分かそこらです。
つまり、ジーコはJリーグで「点を取る」能力を示した選手を使わずに、ここ数年ドイツやイタリアで「点が取れない」ことを示し、代表でもさしたる活躍をしていないFWを重用しておきながら、よい結果が出ないと「日本人は決定力がない」と言い出すわけで、それを額面通りに受け取ってよいのかどうか。

 今季の得点ランキングの順位は多少入れ替わったものの、日本人上位陣の顔触れは当時と同じだ。そして、A3に出場中で選べなかった巻を除く3人が、そっくり今回の代表に選出されている(巻もアジアカップ予選には加わってくるだろう)。

 つまり、オシムはJリーグで「点を取る」能力を示した選手を集めた。成績だけでなく、過去3シーズン半にわたって対戦相手としてつぶさに観察してきた選手たちでもある。得点ランキング上位にいない今野や田中隼磨らも、近年のJリーグで力を発揮してきた選手たちだ。いずれは海外クラブに所属する選手も加わることになるのだろうけれど、地理的条件の悪さを考えれば、まず国内リーグの選手たちによって代表チームの礎を築くというやり方には合理性がある(欧州の主要クラブのレギュラーとして活躍する選手が20人くらいいるようになれば別だが)。

 就任以来の精力的な試合視察ぶり、各クラブへの態度と合わせて考えると、オシムは、まずJリーグの力を反映したチームを作ろうとしているのだろうと思う。そして、選手の選択や代表での指導、そして各クラブとの連携を通じて、リーグ全体に対して、ある方向性や指針を与えようとしているようにも感じられる。いずれにしても、自分が3年半にわたって戦い、観察してきたこのリーグに、オシムは一定の信頼を置いているように見える。

 ジーコは「日本人には力がある」と言い続け、日本人選手への信頼を示し続けた(そして、最後の最後にそれを翻した)が、Jリーグには重きを置かなかった。視察は一部の地域やクラブの試合に限られ、リーグ戦で好成績を残したチームや選手が代表に多く選ばれることもなかった。
 オシムはまずJリーグを重視したチームから始めようとしている。それは、ファンの人気もメディアの取材も企業の商業的関心も、あまりにも代表チームに集中しすぎている日本のサッカー界の状況において、好ましいやり方であるように思う。


追記(2006.8.6)
この文章、後で読んだらわけがわからなくなりそうなので、発表された代表選手を記しておく。
●8/4発表分
GK:川口能活、山岸範宏
DF:三都主アレサンドロ、坪井慶介、田中マルクス闘莉王、駒野友一
MF:田中隼磨、今野泰幸、小林大悟、長谷部誠
FW:我那覇和樹、佐藤寿人、田中達也

●8/5夜発表分
DF:栗原勇蔵
MF:中村直志、鈴木啓太、山瀬功治
FW:坂田大輔

8/8まで試合が行われるA3に出場しているガンバ大阪、ジェフ千葉からの招集は見送られた。追加招集が発表されたのはA3第2節の2試合が終わった後。阿部や巻が第3節に出場停止にでもなれば、という可能性に期待して、ここまで引っ張ったということだろうか。オシムのチームが全貌を現すのは16日のイエメン戦から、ということになりそうだ。

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『モハメド・アリ かけがえのない日々』レオン・ギャスト監督<旧作再訪>

 97年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞受賞作品。私が見たのは翌98年の初めだった。モハメド・アリが当時の世界ヘビー級王者ジョージ・フォアマンとザイールの首都キンシャサで戦った1974年の試合、“キンシャサの奇蹟”と呼ばれるそれを記録した作品だというだけの予備知識しかなかった。さほどボクシングに興味のない私がなぜこの映画を見ようと思ったかといえば、単に「WHEN WE WERE KINGS」という原題に参ってしまったからだったと思う。それは、その2か月ほど前にジョホールバルでNHKの山本浩アナウンサーの口から出た「この日本代表は『彼ら』ではありません。私たちそのものです」という言葉に、よく似ていた。

 この映画は当初、音楽映画になるはずだったという。キンシャサでは試合に合わせてジェームズ・ブラウンやB.B.キングらアメリカとアフリカの黒人音楽家を大集結させ、“黒いウッドストック”と呼ばれた3日間のフェスティバルが開かれた。その記録映画になるはずだったが、フォアマンの怪我で試合が6週間延期されたのがきっかけで、監督たちはアリとフォアマンを撮影することができるようになった。そして実に編集に20年の歳月をかけて、ようやく映画が完成したのだという。それだけに、映画はリングの中のことだけでなく、当時のアメリカ黒人の状況や空気を音楽とともに再現している。それがまた、アリという素材にはよく似合う。

 この作品にはナレーションがない。厳密にいうと皆無ではない。作家ノーマン・メイラー、ジョージ・プリンプトン、映画監督スパイク・リーら数人のインタビューが挿入され、その一部が時折ナレーション代わりに用いられる。それがまた味わい深い。
 こういうのを見ていると、アメリカ人というのは、語ることにおいては世界一巧みな人々だと思う。喋ることを特に職業としていない人物でさえ、映像の中で喋る時には実に饒舌だ。

 だが、誰よりも饒舌なのはアリその人だ。
 私はアリの全盛期のボクシングや喋りを直接見たことがなかったので、この映画の中のアリには度肝を抜かれた。
 これまで、さまざまな創作物の中で「自信家」「ほら吹き」「吠える王者」を見てきたが、どれひとつをとっても実在のアリに及ばない。漫画の中のチャンピオンよりも目の前で喚き散らすアリの方が遥かにテンションが高い。これ以上の振る舞いを小説や映画や漫画に描いても、滑稽にしか映らないことだろう(アリの振舞いだって滑稽なのだ。だが、彼の圧倒的な実力と実績が、そう思う気持ちをねじ伏せている)。
 徴兵拒否によってタイトルを剥奪され、3年5か月の間リングから遠ざかっていたアリ。その間にチャンピオンベルトを手にしたフォアマン。32歳の老いたアリが、25歳の若いチャンピオンに挑む。下馬評は圧倒的にフォアマン優位。そんな状況の中でも、アリは圧倒的な自信を誇示し続ける。自分自身を鼓舞するためなのか、それ以上の何かが彼のエネルギーになっているのか。
 フォアマンはボクシングのチャンピオンだが、アリはそれ以上の何者かなのである。そのことを存分に思い知らされる。

 映画の最後で、ジョージ・プリンプトンが、アリがハーバードの卒業式のスピーチの中で、求められて即興で作った「世界一短い詩」を紹介している。

 「Me,We(俺は、俺たちだ)」

この詩が、つまりは「WHEN WE WERE KINGS」というタイトルにつながっているのだろう。映画の中の圧巻は、キンシャサの大観衆が口々に叫ぶ「アリ、ボマイエ(アリ、ぶっ殺せ)」という大合唱。
 あの時、俺達はアリだった。そういうことだ。

 “キンシャサの奇蹟”から32年後、極東の島国に「大言壮語する傲岸なチャンピオン」が生まれた。
 彼はアリのように圧倒的な強さを秘めているのだろうか。アリのように「我々」になることができるのだろうか。「興毅は俺だ」と熱い思いをたぎらせている人々が、この国のどこかにいるのだろうか。
 そうでないのなら、彼の振る舞いは馬鹿馬鹿しいパロディに過ぎない。すべては彼自身の拳によって決まることだ。

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