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2006年10月

田口壮『何苦楚日記』主婦と生活社<旧刊再訪>

 田口壮がMLBのワールドシリーズでチャンピオンになった。
 試合に出たり出なかったりする立場だけれども、単なる控え選手ではない。外野守備において、走塁において、そして打撃でも、こと走者を進めるという分野においては、監督から盤石の信頼を受けていることが使われ方を見ていればわかる。セントルイス・カージナルスに入団して5年。いわば「10番目のレギュラー」*1としての地位を田口は確立している。

 本書は、その田口が渡米から最初の2シーズン、2002年と2003年に公式サイトに書き続けた日記をまとめたものだ。
 この2年間、田口はシーズンの大半をマイナーリーガーとして過ごした。
 それぞれの年の章扉には、彼が住んだ土地の変遷が書かれている。

2002年
フロリダ→メンフィス→セントルイス→メンフィス→ニューヘブン→セントルイス→アリゾナ

フロリダ→セントルイス→メンフィス→セントルイス→メンフィス→セントルイス

 フロリダは春のキャンプ地。セントルイスはメジャーの本拠地。メンフィスは3Aレッドバーズの本拠地。ニューヘブンは2Aレーベンスの本拠地。アリゾナはフォールリーグ*2の開催地。

 本書には、「田口壮 アメリカ大陸移動履歴」と題して、それぞれの年に彼が住んだり、試合のために訪れた都市と経路を示した地図も掲載されている。
 これを参照しながら日記を読むと、あまりの移動の激しさに気が遠くなる。2002年の5月に3Aの試合で訪れたカナダのカルガリーでは降雪のため試合が中止になる。カナダのエドモントンを朝5時に出発して本拠地メンフィスの球場に午後4時半に着き、6時にはもう試合を始めている。サクラメントでナイトゲームの後に飛行機に乗り、翌朝11時にニューオリンズに着いて試合。ニューオリンズからメンフィスへの帰路は、夜9時半出発のバスで、朝4時着。野球以前に体がガタガタになりそうだ。

 土地柄も一筋縄ではいかなかったようだ。セントルイスとメンフィスはともにアメリカ中部の都市で、日本人にはあまり縁がない。土地の人々も日本人をあまり見たことがないらしい。ドジャース時代の木田優夫から「俺はいっつも昼飯にラーメンを食ってから球場に行く」、夜は居酒屋に焼肉だと聞いた田口は「それ、日本やないですか?」と口走る。ニューヨークやロサンゼルスやシアトルとはまったく違う環境に田口はいた。

 3Aでは親しく世話をやいてくれたり家族ぐるみでつきあっていた同僚が次々と解雇されて去っていく。1年目のシーズン後半には、優勝争いの助っ人という理由はあるにせよ、3Aから2Aにまで送り込まれる。期せずして本書はマイナーリーグの実情に関するまたとない記録ともなっている。3Aはメジャーのバックアップだから、むしろ2Aの方が伸び盛りの活きのいい選手が集まって活気がある、などという話も興味深い。
 イチローや松井が知らないMLBの最深部で、めまぐるしく翻弄されながらも、田口は明るさを失わない。内心、こんな扱いが応えていないはずはないけれども、起こることのすべてをありのままに受け入れようと明るく笑いのめしていく。
 ときおり「ここで笑いを取れなければ関西人の魂が泣きます」などという記述が出てくる通り、真面目な優等生のように見えても、田口もまた、話にはオチをつけなければ終われない関西人だ。一日の日記の短い文章でも、笑いをとらなければ気が済まない。マイナー生活の中で日々起こるさまざまな出来事を、田口はユーモラスに記す。たとえばこんなふうに。

「そんな中、心温まる出来事がありました。チームメイトの彼女が、フライトアテンダント(スチュワーデス)をしているのですが、先日仕事で成田に行って帰ってきたとのこと。そこで僕のことを思い出してくれたようで、『きっと壮は日本の字が恋しいに違いないわ!』と、雑誌を買ってきてくれたのです。『野球の雑誌がいいだろうと思って、一生懸命選んだからね!』と彼女。
 渡された袋の中には『月刊ジャイアンツ』が入っていました。」
(2002.9.5 コネチカット州ニューヘブンにて)


 白状するが、私はこの時期、田口にはあまり興味がなかった。入ってくる情報が限られていたこともあるのだろうが、なかなかメジャーに定着できない様子に、やはり力不足なのだろうか、と思っていたのだから不明を恥じるばかり。当時、彼の公式サイトでこの日記を読んでいたら、たぶん熱烈に応援していたのではないかと思う(だから、当時からの彼のファンは、きっとそんなふうに日記をむさぼり読んでは田口にメールを送っていたのだろう)。

 軽妙に書かれてはいるものの、エレベーターのようにメジャーとマイナーを上下する生活が、平気だったはずはない。ユーモアに満ちた日記の中にも、ときおり内面の苦しみがのぞく。監督やチームへの不信が心の中に芽生えた時期もある。だが、田口は自分自身を変革することで、そんな動揺を乗り越え、ある境地に達していく。
 今の田口の仕事ぶりは、本書で到達した境地からまっすぐにつながっているように見える。アマゾンのマーケットプレイスで本書を取り寄せ、読んでいたのが、ちょうどこの10月、田口がポストシーズンで活躍し、カージナルスが勝ち進んでいた時期だった。出遅れた田口ファンだったばかりに、5年分の彼の歩みを同時にまとめて目撃するという得難い楽しみを味わうことになった。

 あとがきに記された、田口に本書の出版を口説き落とした編集者の言葉は、本書の性格を見事に表現している。
「30過ぎの家庭持ちの男が、ある意味安定した状況を投げ打って、リスクの高い人生を選んだ勇気と、その後のドタバタに、感じるところがあったんです」
「野球選手だから特別、というのではなく、転職やリストラのサラリーマンや、不況の中で揺れ動く人、突然海外に駐在させられた人、その家族、そして日常生活に縛られて動けなくなっているさまざまな日本人が、田口さんの夢への挑戦と泣き笑いの2年間に共感できると思うんです」

 このあとがきの中で田口は、2003年に妻の胎内に宿った長男の出生地を日米のどちらにするか、周囲で論争になったというエピソードを書いている。
「『絶対にアメリカで出産すべきだ』という意見が大多数。理由はやはり『もれなくアメリカ市民権がついてくるから』でした」
 そんな周囲の声にもかかわらず、田口は自分の故郷である西宮での出産を選ぶ。
 その理由を目にした時、ぶわっと涙が溢れてきた。
 田口が自身の2年間をどう捉えているかがよくわかる理由だった。この後、メジャーリーグに定着するとか、ワールドチャンピオンリングを手にするとかいう3年後の未来を待つまでもなく、この時点で田口はすでに勝利者だったのだな、と改めて感じる。

 寛(かん)君と名付けられたらしいその長男は3年後の秋、セントルイスのグラウンドの上で、父のユニホームと赤いニットの帽子に包まれ、満面の笑みをうかべた父の腕に抱かれて、夜空に打ち上げられる花火とスタンドを埋め尽くして狂喜する大観衆を、何のことやらわからずにぽかんと見上げていた。
 
 
 


*1 セントルイスはDH制のないナショナル・リーグのチームだから「9番目の野手」でもよいのだが、やっぱり野球は9人でやるものだし…難しいものです。

*2 シーズン終了後に各球団から若手有望選手を集めて数チームを結成して試合をする、練習のためのリーグ。今季から復活したハワイのウインターリーグと似たようなものらしい。

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激しい気迫に満ちた送りバント。

 川相昌弘が引退を決めたという。またひとり、同年齢のスポーツ選手が現役を去る。いや、42歳という年齢まで踏みとどまっている選手がいることに感謝すべきなのだろう。

 川相のプレーで印象に残るのは、彼のファウルだ。
 ひとつの打席でえんえんとファウルを打ち続けることが、彼にはしばしばあった。相手はたいてい一流の投手。ファウルを打った後、打席で構え直す姿がテレビ画面にアップで映し出されると、川相の視線は怖いほどに鋭く、激しかった。
 そういう場面を見るたびに、狙ってファウルを打っているんだろうな、と私は感じていた。
 どうしても塁に出なければならない場面だけれども、この投手は容易には打てない。打ち損じる可能性も高い。そう判断した時に、川相は、この打席は何としても四球を取ると決めてファウルを打ち続けていたのではないかと思う。

 もちろん、これは私の勝手な想像だ。彼自身は単にヒットを打とうと投手に立ち向かっていただけかも知れない。ただ、そんなことまで見物人に想像させてしまうだけの凄みが、彼のプレーにはあった。そこで何かを達成しなければ帰れないのだ、という不退転の決意が見る者にまで伝わってくる、数少ない選手だった。

 よく知られているように、川相は誰よりも多くの送りバントを成功させてきた。
 ある打席で送りバントをするということは、その打席における他の可能性を断念することでもある。川相のバントの大半は、あわよくば自分も生きよう、などという下心を感じさせず、100%、走者を次の塁に送ることに徹しきっている。
 何かを断念することで、活路は開ける。

 川相がバントの職人として注目されるようになって以後、メディアでは「サラリーマンの鑑」「自己犠牲精神の象徴」というような形容が目立ったが、そういう表現には違和感がある。
 ある局面で自分を犠牲にすることはその気さえあれば誰にでもできるが、絶対的な確率で送りバントを成功させられる選手はめったにいない。
 この世界で生きていくための誰にもできない武器として、彼はバントを選んだのだ。
 あの、ファウルを打ち続ける打席で見せたような激しい気迫と集中力をもってバントに臨んだからこそ、彼はあれだけの回数の成功を収めることができたのだと思う。川相のバントは、彼にとっては強烈な自己主張だった。

 日本シリーズは、どちらも投手力と守備に特長をもつチームどうしの対戦となった。1点のリードがいつになく重い試合が続く可能性が高い。とすれば、バントが試合の趨勢を左右する局面も出てくることだろう。川相が必要とされる場面は、もう少し先まで続くことになる。

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初めて勝利したゼネラルマネジャー制度。

 ヒルマン監督、小笠原とSHINJO、セギノールという打線の看板こそ同じだが、2年前にプレーオフに出場した時と比べると、日本ハムの主力の顔触れはずいぶんと入れ替わった。
 野手では森本、田中賢介、鶴岡ら鎌ケ谷育ちがスタメンに定着した。投手陣では、ダルビッシュ、八木、マイケル中村、武田勝など、「北海道日本ハム」生え抜きの若手が活躍した。五番を固めた稲葉、開幕直前にジャイアンツから来て中継ぎで活躍した岡島らの移籍組もいる。

 とすれば、これはヒルマン監督の勝利であると同時に、チーム編成の勝利でもある。
 ダルビッシュを1位指名した2004年オフから、このチームの編成を仕切っているのは高田繁ゼネラルマネジャーだ(日本ハムの監督経験者でもある)。上述の若手投手陣や稲葉・岡島の獲得はもちろん、彼らの成長を支えたであろう佐藤義則投手コーチも高田GMが引っ張ったらしい。

 プロ野球選手出身者がGMという肩書きをつけて球団の編成を担当したのは、高田のほかに千葉ロッテ・広岡達朗(1994オフから2年間)、オリックス・中村勝広(2003オフから2年間)、福岡ソフトバンク・王貞治(2004年オフから・監督と兼任)がいる(事実上の編成責任者ということなら、西武・ダイエーを仕切った根本陸夫などもいるけれど)。
 広岡はボビー・バレンタインを招いて95年に2位に躍進したまではよかったが、そのバレンタインを解雇して江尻を監督に据えた翌年は低迷。エース伊良部とも対立して、シーズン途中に辞任した。在任中は職分を逸脱して現場に介入し、守備練習を仕切ったりしはじめて、「GMって何なの?」と見慣れない肩書きに戸惑った世間の人々をさらに混乱させた。
 中村は就任1年目に近鉄との合併という大事件が起こったため、チーム編成の中で彼が果たした部分というのはよくわからない。ただ、2005年限りで勇退した仰木彬監督の後任に自分自身を選び、その結果が勝率4割にも届かない5位という低迷ぶりなのだから、少なくとも「監督を選ぶ能力」において、中村GMはまったく評価できない(もし彼自身の判断でなくオーナー等からの指名によって監督になったのだとしたら、彼は任期の最後にGMとしての責務を放棄したことになる)。
 王監督がGMとしてどの程度の役割を果たしているのかも、よくわからないけれど、シーズン中は監督業が最優先で、チームを離れてドラフト候補や他球団の選手を視察することはまず無理だろう。05年オフはWBCの準備で大忙しだったはずだし、ここまでのところ、力量を云々するほど機能してはいないのではないかと思う。

 そして、彼らがGMを務めていた間にリーグ優勝を果たしたチームはない。
 つまり、今年の北海道日本ハムのリーグ優勝は、「プロ野球選手出身GM」が初めてもたらした優勝である。GM制度における画期的な成功といってよく、これを機に追随する球団が現れるかも知れない。

 実際に高田GMがどのような仕事をしてきたかについては、13日付のスポニチが特集記事を掲載していた(残念ながらネット上には見当たらない)。マイケル中村をリリーフ要員として獲得したこと、04年オフにMLB入りを目指してなかなか所属球団が決まらなかった稲葉を獲得したことなどは高田GMの判断だったらしい。新人の八木、武田勝らは実際に自分の目で視察している。また、佐藤義則のほか、淡口憲治打撃コーチ、平野謙外野守備コーチらを招いたのも高田GMの仕事とされている。
 つまり高田はユニホーム組の人事全般を球団から任され、GMの肩書に相応しい仕事をして、見事に結果を出したことになる。それもまた、これまでになかったことだ。

 ネット上で読める記事では、ゲンダイネットに「高田繁「日ハム1位の真相」」と題した手記のようなものがあるが、選手の紹介が中心で、ビジネス・ストーリーとしては物足りない。
 実際のところ、GMという日本ではまだ目新しい役職が機能するためには、本人の能力もさることながら、球団がどのような意図をもって役職を設け、どのような権限を与えたかにも、相当に左右されるはずだ。
 だから、高田GMについても、日本ハム球団がどういう意図をもって高田をGMに起用したのか、高田自身はどのようなビジョンとポリシーをもって編成にあたったのか、首脳陣と高田の間ではどのような役割分担や意志疎通・意思決定が行われたのか、高田とヒルマン監督の連携はどのようなものだったのか…等々、興味深い点は多い。そのあたりにまで目配せの効いた記事が、このオフに週べか「スポルティーバ」あたりで読めると嬉しいし、それはたぶん球団マネジメントに関する貴重な資料にもなることだろう。
(もっとも、日本ハムがあまり高田GMの有能さとアピールしすぎると、明らかにこの役職に人を得ていない彼の古巣が、復帰を求めたりしかねないという気もするが(笑))

 日本ハムの初代オーナー・故大社義規は、とにかく野球の好きな人だったらしい。キャンプや球場に足を運び、選手に声をかける姿が、しょっちゅう新聞やテレビに報じられていた。25年前の優勝時には背番号100のユニホームを着込んで、はしゃいでいた。現在のオーナー大社啓二は義規の息子で、やはり球団経営に熱心な人物だ。GMを設けたことについても、高田の就任と同時にデトロイト・タイガース、阪神タイガースのフロントで仕事をしていた吉村浩という人物をGM補佐に起用しているあたりに、単なる思いつきではない本気度がうかがえる。
 北海道移転という大勝負も含めて、球団経営をビジネスとして真剣に考えているチームが昨年に続いて優勝という結果を出したことは、プロ野球が21世紀を生き延びていくためにプラスになる出来事だと思う。

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25年ぶりにして初。

 25年前というと1981年。史上初めて全試合が同一の球場で行われた日本シリーズの第1戦を、今は亡き後楽園球場に見に行った。
ジャイアンツの先発・江川はずるずると失点を重ねたものの、打線は日本ハムの絶対的リリーフエースだった江夏を打ち込んで追いつき、再び勝ち越された後も代打・松原の本塁打で追いついた。最後は代打・井上のサヨナラ安打で敗れたが、すでに伝説の人だった江夏を打ったことで「これなら日本一になれるんじゃないか」と思いながら帰路についたのを覚えている。
 結果的にはジャイアンツが4勝2敗でシリーズを制することになる第6戦のチケットも持っていたのだが、雨で延びた日程が、事もあろうにその間に亡くなった母方の祖母の葬儀とぶつかってしまった。泣く泣く友人にチケットを譲り、火葬場の待ち時間に表をぶらぶらしていたら、止まっていたトラックの運転席のラジオが、江川が最後の打者を打ち取ってピッチャーフライをつかみ、試合が終わったことを興奮気味に伝えていた。

 ま、江川や葬式の話はどうでもいいのだが、当時の高校生が40過ぎの中年男になるのが25年という歳月だ。
 日本ハムファイターズのリーグ優勝は、その時以来ということになる。しかし、テレビ中継でアナウンサーが「25年ぶり!」と繰り返しても、私にはピンと来ない。「日本ハムファイターズ25年ぶりの優勝」であるのは確かだが、同時にこれは「北海道日本ハムファイターズ3年目の初優勝」である。どちらが重いかといえば、なかなか難しそうだ。

 私は特にファイターズファンというわけではないのだが、球場で試合を見た回数はもしかするとファイターズがもっとも多いかも知れない。理由は簡単で、いつでも入れたからだ。
 ダイエーにケビン・ミッチェルが入団したと聞いた時。今夜の試合で3安打すればイチローの打率が4割に乗るとスポーツ紙に書いてあった時。古くは木田勇が20勝に王手をかけた時。
 要するに、パ・リーグで何か見たいものがあれば、私はいつも東京ドームに足を運んだ(木田の時はまだ後楽園だったが)。『エスキモーに氷を売る』を地で行くような観客だったわけだ(結果から言うと、木田は負けたしイチローは4タコだった。ミッチェルは帰国する前に見ることができた)。

 とはいうものの、そうやって何度も見ていれば、それなりに情も移る。
 菅野、高代、古屋とずんぐりむっくりした選手ばかりの内野陣(外野には島田誠もいた)、石垣のようだったソレイタ、順番を間違っているようなのに何故かハマっていた広瀬-白井の一二番コンビ、ライト前に糸を引く打球とフォームが誰よりも美しかった片岡。遂に花開くことなく終わった中島輝士。大島康徳が2000本安打を打ったのも日本ハムでのことだった。

 しかし、何よりも「東京ドームのファイターズ戦」で印象深いのは、5回裏終了後のグラウンド整備の際に見られる『YMCA』だった。
 ヤンキースタジアムのパフォーマンスからアイデアを得て始められたそれは、しかし陽気なヤンキーたちの盛り上がりとはいささか異質で、音楽のサビの部分になると、トンボを逆さにもって動かしながら、おぼつかないサイドステップを踏むグラウンドキーパーたちのゆらゆらした姿が、何ともいえないのどかな空気をドームの中に醸し出していた。あの、まったりした空気の中で、のんびりと眺める野球が、私は好きだった(もちろん選手たちは真剣だったろうし、必死で応援するファンもいたのだが)。

 だから、ぎっしりと埋め尽くされ、声援で相手チームを圧倒する札幌ドームのスタンドをテレビ画面を通して見ると、このファイターズとあのファイターズが同一のものだと言われてもピンと来ない。どんなにファイターズが激しく優勝を争っていた時期でも、東京ドームはあんなふうになってはいなかった。だから、札幌市民とファイターズの相思相愛ぶりは、嬉しくもあるし、寂しくもある。東京時代に熱心なファンだった人なら、私なんぞよりもはるかに複雑な気持ちを持て余しているのだろうと思う。

 日本シリーズの相手は、奇しくも球団OBが率いるチームとなった。
 記録をめくると、97年、落合がジャイアンツから日本ハムに移籍したのと時を同じくして、小笠原が入団している。2年間、控え捕手兼代打として力を蓄えた小笠原は、落合が引退していなくなった3年目に一塁のレギュラーポジションを獲得し、一気に売り出した。かの大打者の背中を見ながら、学ぶところも多かったのではないかと思う。

 そんな因縁めいた話を別にすれば、とにかく外野守備のやたらにいいチームどうしの対決になった。福留、アレックス、英智vs森本、SHINJO、稲葉。どちらも広いドーム球場、特に札幌は天井も黒っぽいから高い飛球は映える。今回ばかりは、最高の席は外野スタンドかも知れない。
(札幌ドームのネット裏はホームベースからやたらに遠いので、あまり特等席という気がしないし)

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Jリーグにアジア選手がもっと増えたらいいのに。

 代表の試合の後にはとにかく問題点を指摘しなければ気が済まないらしいセルジオ越後は(ジーコの監督就任からしばらくは、あらゆる問題点に目をつぶってジーコを称賛していたという印象があるのだが)、最近では「Jリーグは日本人選手が保護されているからレベルが低い。外国人枠を撤廃して一流の外国人選手と競争させるべきだ」という主張をさまざまなメディアで展開している(たとえばこちら)。

 原則論としてはもっともだと思う。
 先週発売されたサッカーマガジン10/17号は[完全保存版]と銘打って「まるごとJリーグ」という特集を組み、93年以来のJリーグの歴史を徹底的に振り返っている。J各クラブの各年度の典型的なスターティングメンバーが紹介されており、昔は世界の一流選手が日本にいたのだな、としみじみと思う。
 開幕時にはジーコ、リネカー、ストイコビッチ、ラモン・ディアス。スキラッチ、ストイチコフらワールドカップの得点王。ストイコビッチ、ファネンブルク、ブッフバルト、ハシェックら欧州の一流選手。94年ワールドカップに優勝したブラジル代表からは、レオナルド、ジョルジーニョ、ジーニョ、ドゥンガ、ジウマール、後にはベベットまで来日した。カレッカもいた。韓国からもホン・ミョンボ、ファン・ソンホン、ユン・サンチョル、アン・ジョンファンら代表の主力選手がやってきた。
 こういう選手たちの技量やプロ意識が、同じチームの、あるいは対戦相手の日本人選手たちのレベルを引き上げることに寄与したのは間違いない。

 だが、一部の例外を除けば、こういう世界的名声を博した超一流選手が日本に来たのは、90年代半ばすぎまでの数年間に過ぎない。
 流れが途切れた理由は、大きくふたつあると思う。

 ひとつは、日本経済とJリーグ、ふたつのバブルの崩壊。
 日本サッカー協会がプロリーグ構想をぶちあげ参加チームを募ったのは、日本経済が空前の好況を謳歌していた80年代後半だった。日本を代表する大企業が次々と名乗りを上げ、自社チームをプロ化していった。誕生するプロリーグ、プロチームの集客の目玉として、各チームは世界的スターを招聘した。
 開幕と同時にJリーグは爆発的な人気を博し、普通のリーグ戦でさえチケットの入手は困難だった(こんな話、10代の人には想像つかないかも知れないが)。
 しかし、その人気は数年のうちに急降下してしまう。初期のスタジアムを埋めていた、流行りモノの好きな若い男女たちは、何か別に興味の対象を見つけたのだろう。
 時を同じくして、Jリーグだけでなく、日本経済全体が傾きはじめ*、親会社が持ち出しでクラブ経営を支えるというわけにはいかなくなる。要するに、国際的スターに高額年俸を払うだけの財力を、各クラブは失っていった。

 もうひとつはサッカー選手の市場価格の国際的高騰だ。
 Jリーグが開幕したころには、世界的スターといえども、さほど高額の収入を得ていたわけではなかった。具体的な数字が手許にないのだが、Jリーグ草創期の選手たちの年俸も、せいぜい数億という単位だったと記憶している。そのくらいでも、彼らが欧州リーグで手にするよりも大きな金額だったから、彼らは日本に来たのだろう。
 だが、ボスマン判決とテレビマネーが状況を一変させた。選手自身が手にする年俸はそう無茶苦茶に増えたわけではないかも知れないが、移籍金は数十億という単位が珍しくなくなった。そうなると、もはや彼らは大金を稼ぐために日本くんだりまで来る必要もない。

 かくしてJリーグにやってくる外国人は、代表には縁の薄いブラジル人や、比較的年俸の安い東欧の選手、あるいは、まだ無名だが将来性のある若い南米や韓国の選手が多くなってきた。
 もちろん、そういう中にも優れた選手はいる。だが、何年もチームの顔として活躍し、チームのみならずリーグ全体のレベルを引き上げるような強烈な力を持った選手はなかなか現れないし、現れたとしても、すぐに欧州に連れていかれてしまうだろう(欧州ではなかったがカタールに連れていかれたエメルソンのように)。

 実際のところ、在籍する外国人選手が常に制限枠一杯に出場しているクラブが、どれだけあるだろうか。上述のサッカーマガジンには各クラブの今年の典型的スタメン図も記されているが、外国人が2人または1人というクラブも珍しくない。
 現有枠ですら使いきれていない現状では、枠を撤廃しても競争が激しくなるとは思えない。セルジオ越後の主張は絵に描いた餅に過ぎない。

 とはいうものの、セルジオの指摘は、それ自体は間違っていない。
 彼が主張する「外国人選手を増やして競争を激化させる」ために、ひとつ可能性があるとしたら、アジア地域の開拓ではないかと思う。韓国と北朝鮮の選手は今も何人か在籍しているが、それ以外にアジアの選手はJリーグにはいない(と思う。違ったらすみません)。
 だが、ワールドカップ等のアジア予選での試合を見ればわかるように、東アジアや東南アジアのレベルは、ここ10年くらいの間にずいぶん上がっている。国全体ではまだまだ日本とかなり差があるだろうけれど、各国のトップクラスの選手ならJリーグで通用するかも知れない。中国あたりには、粗削りだけれど素質の高い選手もいることだろう。そういう選手を発掘してみたら面白いのではないかと思う。物価水準を考えれば年俸も日本人並みでよいだろうし。

 アジアのトップレベルの選手たちにとっても、いきなり欧州に行くのは難しくても、Jリーグで活躍すれば世界の代理人の目にとまる可能性は高くなる。食べ物や生活スタイル、気候も欧州に比べれば差が小さい。世界へのステップとしてJリーグはなかなか手頃なのではないかと思う。ちょうど南米やアフリカの選手がオランダリーグを足がかりに英西伊独のビッグクラブへ飛躍していくように。
 (個人能力としてはアラブ地域の選手の方がレベルが高いのだろうが、カルチャーギャップの大きさを考えると難しい面が強いように思う。イランのサッカー選手がどの程度イスラムの戒律を守っているのかはよく知らないが、遠征に行く先々でイスラム食を手配するのは容易ではなさそうだ)

 この案にどの程度の現実性があるのか、アジアにそれだけの力のある選手がいるのかどうかという肝心のところはよくわからないのだが、もし実現したら確実にプラスになるのは、アジア地域へのマーケティング展開だ。
 日本のサッカー選手が欧州のクラブに入った時、あるいは日本の野球選手がMLBに入った時、日本のバスケット選手がNBAに入った時の状況を考えてみればよい。その通りのことが、その選手の出身国で起こるのではないだろうか。例えばシンガポールのスター選手が浦和レッズに入ってレギュラーになったら、きっとシンガポールのテレビでは浦和のリーグ戦が生中継され、その選手の背番号が入った浦和のユニホームが飛ぶように売れるのではないだろうか。田中達也や小野伸二も人気が出るかも知れない。オフシーズンにシンガポールに遠征して、その選手の出身チームと試合をすれば、それもまた注目を集めることだろう。

 適当にシンガポールを例にしてみたが、タイでもマレーシアでも同じようなことになるのではないだろうか。日本代表はアラブより東側のアジア地域では結構人気があるらしい。ブータンの人に「小野伸二は人気がある」と聞いたことがあるし、遠征した時にも日本人選手がサインをねだられたり声援を受ける風景をテレビで目にすることがある。
 なにもアジアツアーをマンチェスターユナイテッドやレアルマドリードあたりに独占させておくことはないのだ。Jクラブにだって小規模ながら似たことはできるのではないだろうか。市場としては決して馬鹿にできない。国内でテレビ中継してくれないのなら、放映権を外国に売るくらいの発想があってもいいと思う。

 こんなふうに書くと結局金もうけの話かということになりそうだが、この思いつきには、それだけにとどまらない付加価値はある。それらの試みが、アジア諸国のレベルアップや結びつきの強化につながれば、JリーグやJFAにとってもよいことだろう。
 近年、日本のクラブはACLでなかなか勝てないが、それは、ふだんはアジアに見向きもせず、そういう時に突然試合に行くだけで、情報(体感情報も含む)が絶対的に不足していることも原因なのではないかと思う。アジア各国にどんなリーグがあり、どんな環境の中で、どんなサッカーをしているのかを平素から知っていれば、試合内容もいくらか違ってくるのではないだろうか。

 そして、そんな形で日本がアジアサッカーのハブのような存在になっていけたら、そのメリットはたぶんサッカー界にとどまらず、この国全体にとってもプラスに働くのではないかな、と、就任早々にアジア外交に関して突っ込まれまくっている安部晋三首相の国会答弁を眺めながら思ったりもする。
 たとえば90年代以降のサッカー日本代表が韓国代表と幾度となく好勝負を繰り広げ、韓国の一流選手たちがJリーグで活躍したことは、確実に日本人の韓国観に(そしておそらくは韓国人の日本観にも)よい影響をもたらしたに違いないのだから。


*1
厳密にいえばJリーグが開幕した93年の時点で、すでに日本経済のバブル崩壊ははじまっていた。川淵三郎チェアマン(当時)もどこかで語っていたが、プロリーグ立ち上げがもう数年遅かったら各クラブの親会社は軒並み手を引き、Jリーグは実現できなかったかも知れない。Jリーグの成功を見て後を追おうとした他の競技が苦労しているのも同じ理由が大きいと思う。

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丹波哲郎を偲んで『十三人の刺客』を見た。

 10日ほど日本を留守にして、戻ってきたら丹波哲郎が亡くなっていた(この10日間の最大のニュースがそれか、と言われそうだが)。

 すでに80歳を超える高齢で、近年は体調を崩して危険な時期もあったと聞いていたので驚きはしないけれど、残念には違いない。日本的な大物感を漂わせる名優は他に何人もいたが、丹波の持つスケール感は独特のもので他にあまり似た人がいない。『Gメン'75』の黒いソフト帽があれほど似合う日本人は、ほかに想像がつかない。
 そんなことを考えていたら無性に丹波の姿を見たくなって、『忘八武士道』を探して近所のレンタルビデオ屋を何軒か歩いたが見つからなかった。3日の夜にはNHK-BSで追悼番組として映画『三匹の侍』が放映されたが、代官の圧政に堪え兼ねて上訴しようとする農民に同情して荷担する正義感の強い浪人、という役回りは、あまり丹波には似合わない気がする(しかも、農民の身代わりになって百叩きの刑を受けたあげく、代官に騙されて水牢に放り込まれる純情ぶりだ。絶対似合わない(笑))。
 どうも物足りなくなって、以前録画してDVDに焼いておいた『十三人の刺客』を引っ張り出して見始めた。

 昭和38年(1963)東映、工藤栄一監督の手によるこの傑作で、丹波の出番は冒頭の導入部15分あまりに過ぎない。
 明石藩主の松平斉韶は、班の江戸家老が老中・土井大炊頭邸の門前で割腹してまでその隠居を上申するほどの暴君だが、将軍の腹違いの弟であるために誰にも手がつけられない。つけられないどころか、将軍は翌年春に斉韶を老中にすると言い出した。将軍には逆らえないが、斉韶が老中になったらご政道は乱れ国中がとんでもないことになる、と苦渋する老中・土井大炊頭が丹波の役どころで、苦渋の末に、腹心の旗本・島田新左衛門(片岡千恵蔵)を呼びつけて秘密裏に斉韶の暗殺を命じ、新左衛門は参勤交代で国元へ帰る斉韶一行を襲うべく、手勢を集めて策を練り始める。

 丹波は1922年生まれだから、この時46歳くらい。千恵蔵は1903年生まれで65歳。20歳近い年齢差のある日本映画のスーパースターに対峙して、成功しても名誉は望めず、実質的に成否を問わず待つのは死のみという任務を与える大層偉い役回りを、堂々と演じて緩みがない。見事な貫禄である。
 この先に起こることのすべてが土井の一存に始まっているわけで、それに見合う重みが丹波にはある(ちなみに『十三人の刺客』が1990年にフジテレビで単発ドラマ化された時にも、丹波は同じ役を演じている)。

 で、丹波の出番は早々に終わるのだが、時差ボケのせいもあってか一向に眠くならないし、映画は粛々と進んでいく。結局最後まで見てしまった。何度見ても面白い。
 『十三人の刺客』は、日本映画史の上では、時代劇全盛期の最後に咲いた徒花ともいうべき集団時代劇の傑作と位置づけられているらしい。島田新左衛門が集めた十三人の刺客が斉韶一行の五十数名を襲うクライマックス、壮絶な斬り合いを繰り広げる闘いのリアリズムが高く評価されている。

 それはその通りなのだが、久しぶりに見た今回は、丹波を中心に見ていたせいもあってか、クライマックスに至る以前、新左衛門=千恵蔵と斉韶の側近・鬼頭半兵衛(内田良平)がそれぞれに策略を巡らせ水面下での攻防を繰り広げながら抜き差しならない状況に突き進んでいく、静けさの中の凄まじい緊迫感が印象に残った。
 土井邸の門前を正面から映したシンメトリックなファーストシーン(よく見ると門の前で明石藩江戸家老が切腹して果てている)に始まり、日本家屋の内外を低い位置から映し出す構図、光と影を(とりわけ刀の光を)強調したモノクロ特有の映像美。BGMは極力抑制され、効果音もあまり使わない静寂が、緊迫感をいやが上にも高める。ジョン・ケージの「4分33秒」ではないが、「無音」もまた効果音のひとつなのだということを、工藤は把握しているかのようだ。

 そんな静けさの中で口跡の見事な名優たちが言葉を交わす前半は、あたかも舞台劇のようでさえあり、それだけに台詞の一言一言も重厚に響く。いつまでも記憶に残る言葉も少なくない。
 この脚本を書いた池上金男は後に池宮彰一郎というペンネームの小説家となり、忠臣蔵小説の新機軸『四十七人の刺客』という傑作をものにする。『四十七人の刺客』は、タイトル以外にもさまざまな面で『十三人の刺客』を下敷きにしていて、まったく同じ台詞もいくつか用いられている。
 にもかかわらず池上=池宮自身も脚本に加わった映画『四十七人の刺客』はまったく面白くなかったのだから、映画とは難しいものだ。

 映画とともに話が逸れた。丹波哲郎氏の冥福を祈る。彼の大霊界に「冥福」などという概念があるのかどうか私はよく知らないので、失礼があったら許して欲しいが。

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