平林岳『パ・リーグ審判、メジャーに挑戦す』光文社新書
27日の朝、パイレーツの桑田真澄が三塁への悪送球に備えてファウルグラウンドに出ていったところで、突進してきた巨漢の主審と激突して跳ね飛ばされ、右足を捻挫する場面が、ニュース番組の中で紹介された。
審判がこの位置を走ってきたのはこの試合が審判2人制か3人制で行われていたためで、日本のプロ野球ではまず起こり得ない動きなので、桑田にとって、そこに主審が走ってくるというのは、たぶん想像もしなかった事態なのだろう。不運としか言いようがないし、早期の回復を祈っている。
短い映像を見ただけで審判の人数(実際には3人制だったらしい)に考えが至ったのは、数日前に本書を読んだばかりだったからだ。
著者は元パシフィック・リーグ審判員。学生時代からプロ野球審判を志したが採用試験が不定期のためタイミングが合わず、アメリカのジム・エバンス審判学校を卒業してマイナーリーグの審判員になった。日本人では初めてだったという。その後、パの関係者に誘われて帰国、93年にパの審判員になった。99年に松坂大輔が初登板した時の主審が彼だったという。2002年まで勤めた後、再び渡米して2005年からマイナーリーグの審判員としてメジャー昇格を目指している。40歳を前に(今はもう四十路だ)薄給で過酷なマイナーからチャレンジする姿勢には頭が下がるし、世代の近い者として勇気づけられる。
本書は、そんな著者が経験した日米両国のプロ野球審判員の違いや、審判から見たプロ野球の違いについて記されている。
ルーキーリーグまで含めれば実質7軍まであるアメリカ野球の最下層からスタートし、ひとつひとつ階段を上っていく。ルーキーリーグと1Aでは審判2人制(1Aの中でさらに3つの階層がある)、2Aと3Aでは3人制で、4人制でやるのはメジャーだけだ。著者は昨年まで1Aの審判だったので、本書の中では2人制の体験談が書かれている。
(著者のblog オールド・ルーキー チャレンジ日記 によれば、現在は昇格したらしく、初の3人制に取り組んでいるようだ)
アメリカ野球の審判について書かれた本で日本に紹介されたものといえば、1950年代に審判を目指した青年を描いた、爽やかでほろ苦い青春小説『コンダクト・オブ・ザ・ゲーム 大リーグ審判を夢見て』(ジョン・ハフ・ジュニア著/集英社)や、MLBの名物審判だったロン・ルチアーノが書いた『アンパイアの逆襲』*1(文春文庫)などがあったが、日本人の手で書かれたものはたぶん初めてだし、実体験としても、マイナーリーグの実態を記したものとしても、貴重な資料といえる(注)。また、著者以外にもアメリカでメジャー審判員を目指す日本の若者が大勢いるということも本書で初めて知った。さほど遠くない将来に、MLB中継で日本人の主審を見られる日が来る可能性は結構高そうだ。
第一章では「審判から見たベースボールと野球」と題して、さまざまな局面でのルール解釈やセオリーの相違を紹介しつつ、その背景にある野球の捉え方の違いを分析する。同点で無死一、三塁の場面でゴロを捕球した三塁手がとるべき行動についての相違など、なるほどと思わせる。日米のストライクゾーンの解釈が異なることは知られていても、それが具体的にどう違うのか、そして、なぜそうなのかについても、たいへん明快に考えを記していて興味深い。本塁打を打ってもガッツポーズをしてはいけない等のUnwritten rule(不文律)についても詳しく書かれている。
著者は<どちらが正しいということではない>と繰り返し書いているけれど、アメリカではこうだ、という強い調子の説明が続くせいか、読んでいるうちに「アメリカがそんなに偉いのかね」と、ちょっとした反感を覚えてしまった。
著者はアメリカだけを一方的に礼賛しているわけではないし、観客優先の立場からアメリカではこうだ、という記述も多いのに観客である私が反感を覚えるというのは辻褄が合わない。私の了見が狭いのか、著者の文章に何かそう思わせる要因があるのか。
ただ、日本のプロ野球における審判員の地位や処遇について著者が憤りを抱いていることは明らかで、それが強い調子の文章の遠因になっているのかも知れない。また、常に自己を主張し続けなければ居場所が作れないらしいアメリカ社会では、このくらいの押しの強さがなければ生きていけないのかも知れない(あるいは、そういう社会で生きているからこういう文章になるのか)。そんなことも考えた。
2人でペアを組んで各地を転戦する1A審判員の生活について書かれた章は楽しく読める。2人でペアを組んだら、そのシーズンはずっとそのままなので、相方との相性も大事だ。移動は常に自動車だというが、著者は国際免許を持っていないそうなので、ずっと運転し続けた相方は、さぞ大変だったに違いない(笑)。相方の家族や他の審判たちとの交流の様子も記され、体力的にきついながらも楽しい日々を過ごしている雰囲気が伝わってくる。
というわけで、資料的な価値もあるし、読み物としても面白く、アメリカ野球を観る上でも参考になる、といいことづくめの本なのだが、ひとつ釈然としないのは末尾近くに書かれたボブ・デービッドソン審判についての記述。WBCの日本ーUSA戦で、西岡のタッチアップ(英語ではタッグアップ)を「捕球より離塁が早いのでアウト」と判定した例の主審だ。
著者はデービッドソンと親交があるそうで、彼がMLB審判をやめてマイナーリーグからやり直すに至った経緯を詳しく説明している。99年、ある審判への処遇に抗議してMLB審判員全員が辞表を出すという事件があり、その後、リーグによる切り崩しが進んで辞表を撤回する審判が増える中、最後まで突っ張ってそのまま職を去った22人のうちの1人がデービッドソンだったのだという。その後、彼は再びマイナーリーグからすべての階段を新人同様に上り、現在のバケーション・アンパイア(マイナー所属だが、MLB審判の休暇等で穴が空いた時にはMLBの試合の審判も務める)まで辿り着いた。彼がマイナー所属でありながらメジャーの試合で審判を務めていたのが不思議だったのだが、ようやく事情が理解できた。
で、著者はデービッドソンが尊敬すべき先輩であり、<絵に描いたようなやさしいお父さん>、若い審判にとっては<すごく気をつかってくれるいい人>だと力説する。日本でデービッドソン審判への人格攻撃めいた報道も見られたことへの反論の意味もあるようだ。そこまではいい。
釈然としないのは、WBCでの判定について言及した部分だ。
著者は、「離塁が本当に早かったのかどうか」については<その場にいなかったので、わかりません>という。「テレビ中継のリプレー映像」については、左翼手ウィンの捕球シーンと西岡の離塁シーンが別々のカメラで撮影されており<二つの映像の同期のとり方でどうにでもなってしまいます>とし、従って<あのVTRでは離塁が早かったのかどうかを判断することはできません>という。
また「近くにいた塁審の判定を、なぜ遠くにいた球審が訂正するのか」については<あれはそもそも球審がすべき判定で、責任の所在は球審にある>としている。<最初の判定は本来下されるべきものではありませんでした。二度目のものが、本来判定すべき人が下した判定なので、それで決まりなのです>と書く。
ここに書いてあること自体は、審判として正しい見解なのだろう*2。ただし、著者が本書で触れなかったことで、ぜひ意見を聞いてみたい点はいくつかある。
1)<あれはそもそも球審がすべき判定>とする根拠は、公認野球規則のどの条文に当たるのだろうか。
9.04(球審及び塁審の任務)を素直に読むと、b-1「特に球審が行なう場合を除く塁におけるすべての裁定を下す。」によって、三塁からの離塁の判定は塁審の任務であるように思えるし、「一つのプレイに対して、二人以上の審判員が裁定を下し、しかもその裁定が食い違っていた場合には、球審は審判員を集めて協議し(監督、プレーヤーをまじえず、審判員だけで)、その結果、通常球審(または、このような場合には球審に代わって解決にあたるようにリーグ会長から選任された審判員)が、最適の位置から見たのはどの審判員であったか、またどの審判員の裁定が正しかったかなどを参酌して、どの裁定をとるかを決定する。」とあるが、デービッドソン球審は全審判員を集めて協議することはしなかった。
公認野球規則ではなく内規のような形で「球審がすべき判定」とされているのかも知れないが、そうであれば関係者以外には知る由もないことだ。
2)デービッドソン主審がアウトの判定を下した時、USAのバック・マルティネス監督はグラウンド上で派手なガッツポーズをした。この行為はMLBのUnwritten ruleに反しないのだろうか。
3)デービッドソン審判はUSAーメキシコ戦で一塁塁審を務めた際、メキシコの打者バレンズエラの、右翼ポールに当たった打球をエンタイトル二塁打と判定した。中継映像で見ると、打球はフェンスよりたっぷり2メートル程度は高い位置でポールに当たっているのだが、どのようにルールを解釈すれば、この打球をエンタイトル二塁打と判定できるのだろうか。
4)本書で詳しく説明されているように、日米間にはルール解釈にかなりの違いがある。他の国では、また別のルール解釈があることも考えられる。にもかかわらず、16か国が参加したWBCでは、MLBの判定基準がそのまま適応され、アメリカ野球の審判員だけが審判として参加した。このような運営はMLB所属選手の多い国に有利になり、国際大会として公正さを欠くのではないだろうか。
当時、日本の観客はこれらの要因に対して複合的に憤っていたのであり、デービッドソン審判の人格と日本-アメリカ戦の判定についてだけ擁護して他のことは素通りというのでは、読者としてはフラストレーションがたまるばかりだ。
平林氏のblogにトラックバックを送っておいたので、もしご意見をお聞きできたら嬉しい(シーズン前でお忙しいだろうから、レスポンスを貰えなくても仕方ないとは思うが)。
なお、これを書くためにWBCの一連のプレーを録画で見直してみたが、西岡がホームを踏んだ時、デービッドソン主審はセーフの動作をしていない。それが普通なのか、あるいはアピールがあればアウトになると意識してコールしなかったということなのだろうか。後者であれば、彼の判定自体は一貫していると言えそうだ。
*1 原題はThe Umpire Strikes Backで、『スターウォーズ帝国の逆襲』の原題The Empire Strikes Backの駄洒落だった。
*2 昨年4月にこのblogで報告した通り、私が書いたデービッドソン審判の判定についての意見を含む手紙への返信の中で、バド・セリグMLBコミッショナーは「I am sorry for some of the umpire calls」と明記している(具体的にどの判定についてかは記されていない)。もちろん、コミッショナーは審判ではないが。
注)
馬場さんのコメントで教えていただいたのだが、2003年に2A審判の内川仁氏が「大リーグ審判武者修行日記」という本を書いているので、本書が初めてというのは間違い。
追記)(2007.3.29)
桑田投手はこの「事故」について、毎日新聞の取材に答えて次のように語っている。
--三塁ベースの付近で球審と接触したことは想定外だったか。
(ベースの)カバーに行く時は、必ずボールを見ながら塁審がどこにいるかを視界の中に入れているが、まさか後ろから(球審が)来るとは思わなかった。(当日は審判3人制で、球審が三塁上の判定をしていたが)そこまで気づかなかった。注意力が足りなかった。
追記)(2007.10.27)
久しぶりに平林氏のblogを見に行ったら、ひと月半ほど前のエントリ<イチロー選手の審判との駆け引き>が少々物議を醸していたようだ。イチローが判定を不服として審判に批判的なコメントをしたことに対しての論評だが、平林氏に対して批判的なコメントがいくつも書き込まれた。それに対して平林氏は<審判としての立場>というエントリで補足をしている。
この補足が、悲しいほど噛み合っていない。
元のエントリに批判的な書き込みをした人たちの多くは、平林氏の文章のうち、<彼のコメントが、アメリカメディアに出たのかどうかはわかりませんが、審判サイドに伝わっていたとしたら、間違いなく報復されます。勿論、だれもわざとやったなんていいませんが、わからないように、いくらでも際どい判定を不利に判定することはできます。><僕は、本当のところはわかりませんが、その抗議態度が、その後の1塁での判定に繋がったのだと想像できます。>というあたりの箇所に反応している。
つまり、判定に抗議した選手に対して、別の判定によって報復するという行為が審判員によって日常的に行われているらしいこと、それについて平林氏が特に問題意識を抱いていないらしいことにショックを受け、反発している。
私自身がひっかかったのも、それらの箇所だ。たとえ事実がそうであり、選手を従わせるために他に効果的な方法がないのだとしても、それは警察の捜査における別件逮捕のようなものだろう。あくまで必要悪、ルールの中のグレイゾーンであり、当の審判員が公の場で公然と口にするようなことではない。平林氏を擁護するコメントに「上記の馬鹿ども、野球のルールブック読んでから出直して来い!」というのがあったが、ルールブックの中にこのような報復行為を認める条文があるのだろうか?
しかし、それらのコメントに対する回答として書かれたはずの<審判としての立場>というエントリでは、報復行為についてまったく言及されていない。ここに書かれたことに反対する人はまずいないだろう。「審判を攻撃するべきではない」ということはわかる。だが論点はそこにあるわけではない。
<そして、子供達が野球というスポーツをやる目的をもう一度考えて欲しいのです。野球をやることにより、人間として必要な大切なことが学ぶことが出来る、それがスポーツをやる目的なのです。審判の判定に不満だからといって、審判を攻撃するようなことが、正当化される見本になるような行為や言動は絶対にして欲しくありません。又、それをさせないために、審判には、権威や権力を持つことが許されているのです。
野球というスポーツをする以上、判定に対して不満であっても我慢するしかないのです。だから、審判もより正確な判定が下せるように、日々努力を重ねる必要があるのです。そのことは、我々審判はよく理解しています。>
この平林氏の美しい結語と、判定による報復が、どうしたら両立するのか、私には理解できない。平林氏は審判を目指す子供たちに、「審判に逆らう選手がいたら、どちらとも決めかねる微妙なプレーの判定に際しては、そいつに不利になる方を選ぶといいんだよ」と胸を張って教えるのだろうか? それが<人間として必要な大切なこと>なのだろうか?
平林氏はこのエントリを最後にblogを移転して、現在はこれらのエントリへのコメントやトラックバックを受け付けていない。一連の文章とやりとりへの違和感は、本文に記したデービッドソン審判についての記述への違和感に通じるものがあるので、ここに追記することにした。私は彼のチャレンジには敬意を抱いているし、審判に関する啓発・普及活動も貴重なものだと思っている。できれば応援したい人物なので、何度も批判するような真似は気が重いのだが、この文章と対応には納得しづらい。
最初のエントリを読んだ時、「警官に逆らったら、どんな理由をつけて逮捕されるかもわからないから、逆らわない方が身のためだよ」と当の警官に言われたような気分がした、といえば、平林氏にもご理解いただけるだろうか。こういう台詞は、第三者が言えば単なる論評だが、その権力を持つ本人が言えば限りなく恫喝に近づくものだ、ということも合わせてご理解いただけるといいと思う。
ま、ご本人がこのエントリを訪れることは、もうないと思うけれど。
| 固定リンク
| コメント (12)
| トラックバック (2)
最近のコメント