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歌っていた女王。

 エキシビションのアンコール曲として絢香が『三日月』という曲を歌い始めると、安藤美姫は氷上でフェンスに近づいていき、四方のスタンドにそれぞれ挨拶を送った。テレビ中継によれば、この日の朝に安藤が絢香に頼んで歌ってもらうことになった曲だそうだから、振り付けはさほど細かく決められていたわけではなさそうだ。ゆったりと滑り出した安藤は、スパイラルで風を切りながら、絢香の歌を一緒に口ずさんでいた。安藤は誰よりも幸せそうで、そして、そんな彼女を見ているだけで、満員の観衆も、テレビの前の観衆も、幸せになれたに違いない。

 数えきれないほどの観衆が自分だけを注視している舞台に、脚本もなしに出ていって、何の衒いもなく素直な気持ちを表現し、そのことが観客を満足させる。そんなことのできる才能の持ち主は、たぶん世の中にそう多くはない。自分の考えでこういう振舞いができるというのは凄いな、と、ただただ感心しながらテレビに魅入られていた。
 世界選手権2007東京大会の女王、安藤美姫が凱旋している。


 安藤のスケートを、一度だけ会場で見たことがある。2005年の正月、スターズ・オン・アイスというプロのスケートショーにゲスト出演した時だった。ヤグディン、サラ・ヒューズら並み居る五輪メダリストたちと比べても、滑ることで観衆と喜びを共有する度合の深さにおいては、安藤はまったく引けをとらなかった。天性のエンターテイナーだな、と感じた。
 エンターテイナーといっても、村主章枝のように技術と演出によって自分の世界を作り上げ、観客の前に差し出して見せる、という才能とはまた異なる。安藤のスケートには、観客に対して何かを見せるというよりも、観客の気持ちとひとつになってしまうような空気があった。

 だが、それからの歳月は、彼女にとっては厳しいものだった。ジュニア選手として4回転を飛び、全日本選手権を2年続けて制した時の勢いから、何かの壁に当たっていたことは明らかだった。それが体の成長によるものなのか、技術的な壁なのか、精神的なものなのか、メディアに振り回された悪影響なのか、私には判らない。それぞれが、あるいはそれ以外の何かが、彼女の演技を曇らせていった。それでもトリノ五輪代表に選ばれはしたものの、初めての大舞台での演技は、満足のいくものではなかった。その頃のテレビに映る安藤は、いつも脅えたような硬い表情をしていた。

 それから1年。私は今シーズンの安藤の演技を断片的にしか見て来なかったけれども、演技中の、あるいはその前後の競技場での、そしてテレビの取材に応える表情が、ほんの少し前とは別人のように成熟していたことに驚いていた。ついこの前までテレビカメラの前でも「ミキ」を一人称として使っていた少女が、思慮深く落ち着いた大人に、己を見つめながら戦うアスリートになっていた。
 彼女が持つ能力や過去のパフォーマンスからすれば、もっと早く世界選手権のような舞台で金メダルを手にしていたとしても、おかしくはなかったかも知れない。だが、いろんな意味で準備が整った今こそ、彼女にこのメダルは相応しいように思う。

 いろんな回り道をした末に、安藤はまた「観客の気持ちとひとつになってしまうような」天真爛漫なスケートを見せてくれた。でも、それは前と同じ場所に戻ったということではない。その回り道はきっと螺旋階段のように、彼女をひとつ高いステージに連れていってくれたに違いない。

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コメント

フィギュアスケート世界選手権女子フリーの視聴率が、関東地区で平均38.1%だったそうですね。瞬間最高は安藤美姫選手の金メダルが決まった直後で50.8%。スポーツ・コンテンツとして、ものすごい商品価値を持つようになりました。

ちなみに、安藤選手や浅田真央選手の地元である名古屋地区の平均視聴率は43.0%、瞬間最高は56.6%。これもすごい。福岡でホークスがお化け視聴率を取るように、「スポーツ視聴の地域化」という最近の傾向がはっきり出ています。

女子フィギュアというジャンルが「稼げるコンテンツ」としての地位を確立したようなのは結構なのですが、選手たちはまだ「アマチュア」という位置づけのまま。うっかりすると妙な問題が出てきかねないので、日本スケート連盟の「経営能力」が問われるのですが、鉄さんのレポートに見られるように「観客サービス(大会運営能力)」もまだまだのようです。連盟の元会長が背任で逮捕されたのはついこのあいだだし、「氷上の妖精」たちにのびのびと演技してもらえるためにも、スケート連盟にはがんばってもらわないといけないんですけどねぇ。

投稿: 馬場 | 2007/03/26 15:02

>馬場さん
フィギュアスケートでは、アマチュアの選手もプロのアイスショーにゲスト出演するし、浅田姉や澤山璃奈のように競技生活とモデル活動を並行している選手もいますし、「アマチュア」といっても「プロ」との距離は限りなく近い。日本のスポーツの中ではちょっと特異な環境にありますが、世界的にもたぶん同じような(あるいはより激しい)傾向でしょうから、良くも悪くも自己管理が大事、ということになるのでしょうね。

投稿: 念仏の鉄 | 2007/03/26 21:40

こんばんは。たびたびお邪魔します。TB送らせていただきました。
荒川静香が「You raise me up」をやっぱり歌いながら滑っていたのを思い出しました。
(トリノのエキシで、ではなかったようですが)
表彰台の一番上で金メダルをかけてもらう瞬間より、
エキシのラストに登場してアンコールを受けて滑っているときが
優勝して一番嬉しい瞬間なんだろうな、と思った安藤のエキシでした。

投稿: 若葉 | 2007/03/27 01:42

>若葉さん
TBありがとう。歌のある曲で滑れるのもエキシビションの良さですね。平井堅には驚きましたが。トリノでは、プルシェンコの本番フリーでの絶対安全運転ぶりと、生バイオリン付きエキシビションでの表現力との落差が印象的でした。

投稿: 念仏の鉄 | 2007/03/27 10:52

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趙宏博は、この世界フィギュア東京大会のフリー演技の直後にリンクの上で申雪にプロポーズしたのだそうです。なんというロマンチスト。アキレス腱断裂を一緒に乗り越えて、技術と表現を磨いてきたふたりの、現役最後の演技でした。素敵だったなぁ。 念仏の鉄さんが、安藤美姫のエキシを見ての感想をブログに書いていらっしゃって、それを読んでからビデオを見ました。絢香の「I believe」と「三日月」にのって、ほんとに気持ちよさそうに滑っていて、見ていて自然に笑顔になってしまいました。優勝を決めたその時より、エキシ... [続きを読む]

受信: 2007/03/27 01:20

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