吉井妙子『夢を見ない男 松坂大輔』新潮社
入手してからしばらくは職場の机の脇に積んであった。たまたま手に取ったら面白いので、そのまま一晩で全部読んでしまった。ちょうど、松坂が初めてMLB公式戦に先発する夜のことだった。今は自宅で地上波しか入らないので生中継は見られない。そのまま眠って一夜明けたら、松坂はあっさり10三振を奪って初勝利を挙げていた。絶好調というわけではなさそうだが、坦々と投げて、当たり前のように勝つ。まさに彼が言う通り、「夢」ではない現実がそこにあった。
タイトルの意味は、開巻まもなくレッドソックスの入団発表記者会見の様子を記した第一章で明かされる。<「大リーグ入りの夢が叶った今の気持ちを聞かせてください」>という米国人記者の質問への松坂の答えの中にある。
<「僕はもともと夢という言葉は好きではありません。見ることは出来ても叶わないのが夢。僕はずっとメジャーで投げることが出来ると信じ、それを目標としてやって来ました。信じてやってきたからこそ、今ここにいられるのだと思います」>
夢を見るのでなく、目標を掲げてそれを目指す。著者は松坂から口癖のようにそう聞かされてきたと書く。各界の成功者の口からしばしば出てくる成功の要諦に通じるものがある。
著者は朝日新聞出身のスポーツライター。中島悟や清水宏保についての著書がある。1人の選手を長期にわたって取材し続けることが多い。松坂に関しても週刊誌(確か文春)に聞き書きの連載を持っていた。
スポーツライティングの世界には、有名選手や監督に長期間密着してさまざまな媒体に書いていく“食い込み系”ともいうべきライターが少なくない。そういう人たちが書いたものには、被取材者との親しさをひけらかすかのようないやらしさを感じたり、被取材者の言い分を無批判に垂れ流す“お筆先”っぽさを感じたりすることがしばしばあるのだが、著者の書くものにそういう匂いを感じたことはない。取材対象への大いなる敬意は明らかであっても、相手と一定の距離感を持ち、書き手の中で消化した上で読者の前に出してくる。そういう節度を感じる。誰を持ち上げるでもなく誰を貶めるでもない筆致は、読んでいて心地よい。
プロ入り以降、私が松坂に抱いていた印象は、「有り余る素質を持ちながら、肝心なところで勝てない投手」だった。シドニー五輪予選と本大会、ジャイアンツとの日本シリーズ、近鉄との優勝争いの中で中村紀洋に食らった逆転ホームラン。桧舞台に立ち、自分の手で栄光を掴むチャンスを目の前にしながら、ことごとく敗れていた。何か精神面で問題があるのではないかと感じていた。
だから、著者が本書で松坂のプロとしての意識の高さ、プライベートな場での周囲への気配りを称賛し続けることには、疑ったわけではないけれど、読んでいて若干の違和感を感じていた。
だが、読み進むについれて違和感は氷解した。松坂といえども最初からそうだったわけではない。プロ入り後しばらくは、試合後にクールダウンもせず、高校時代の友人に誘われるとそのまま遊びに行って朝まで帰らない(酒は飲まないそうだが)こともしばしば、という若者だったという。それでもあれだけ勝っていたのだから呆れるが(笑)。
そんな松坂を変えたのは2002年の右ヒジ痛による長期戦線離脱、そして、年上の恋人の粘り強く厳しい叱責だったという。つまり、今の彼の妻だ。著者は松坂のプロ入り1年目のオフに彼と知り合い、友人として付き合ってきたが、スポーツアナウンサーだった妻とも2002年のソルトレーク五輪で知り合い、その真摯な仕事ぶりに感銘を受けた(もちろん松坂の交際相手だということはその前から知っていたわけだが)。以後、それぞれから相談を受けたりしていたようで、2人の交際についても1章を費やして詳しく記している。
どちらかというと妻寄りの目線で書かれているが、著者がそうなるのも無理はない。別に女同士だからというわけではない。妻にとって松坂との恋愛は二重の戦いだった。世間の厳しく嫌らしい目との、そして、自らの素質を大事にしない松坂大輔のメンタリティとの。何度も破局の淵に立ちながら、2人は危機を乗り越える。初の日本一、アテネ五輪でのキューバへの勝利、そしてWBCでの世界一という近年の松坂の栄光は、妻なくしては得られなかったに違いない、と本書を読んだ人なら誰もが感じるだろう。レッドソックスとの交渉の中で、ことあるごとに家族のことを口にしていたのも納得できる。
順序が逆になったが、本書は、昨秋のポスティングからレッドソックスとの契約成立に至る経緯から始まる。かなり詳細に書かれていて、MLBのスカウティングや契約交渉についての、よいケーススタディの材料になりそうだ。松坂がなぜスコット・ボラスと代理人契約を結んだのか不思議だったのだが、それも納得できる。
いろんな意味でバランスがよい本。この春は何冊もの松坂本が出版され、書店のスポーツ棚に並んでいるが、まずは選んで間違いのない1冊だ。
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コメント
松坂投手の話ではないんですが、バド・セリグMLBコミッショナーの昨年の報酬が、1450万ドル(約17億円)と知って驚きました。我が根来コミッショナー代行(いつから「代行」?)がいくらもらっているかは存じませんが(公表もされてないでしょうが)たぶん、バド・セリグの100分の1くらいでしょう。このような日米コミッショナーの報酬の格差は、もちろん責任と権限の格差に由来しているのでしょうが(笑)。ボブ・デュピュイCOO(最高執行責任者)の報酬は 487.5万ドル(約5億7千万円)、「経営者の給料」をもらっておられますね。職員231人の給与総額は7730万ドル(約90億円)で、平均4千万円近い高給取り集団です。
道理で、抗議レターにた対して素晴らしく練られた返事が来るわけです。
MLB機構は、非常に優秀なスタッフを多数抱えているビッグ・ビジネスなんですねぇ。
投稿: 馬場 | 2007/04/08 19:34