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2007年6月

加藤仁『宿澤広朗 運を支配した男』講談社

 サラリーマンの退職後の人生を延々と書き続けている加藤仁がなぜ宿澤を?というのが疑問だった。読み終わっても、加藤が宿澤の人生を書くに至った動機や経緯は、よくわからない。月刊現代に掲載された短期連載がもとになっているというから、現代編集部からの依頼だったのかも知れない。
 だからといって本書がつまらないということはない。ラグビーにも銀行にも門外漢の私にも興味深く読めたし、加藤だからこそ書けた、と感じる部分もある。

 スポーツブログ的観点では、宿澤といえば早稲田ラグビー部の名スクラムハーフであり、日本代表監督としては今のところ唯一のワールドカップの勝利、今のところ唯一のスコットランドからの勝利を日本にもたらした名将でもある。ラグビー協会の強化委員長を務めた時期もあった。
 と同時に住友銀行(現在は三井住友銀行)でもスピード出世を続けて、急逝した昨年6月の時点で専務取締役執行役員。将来の頭取候補と目されるところに位置していた。
 加藤の関心はラグビー以上に銀行にあったようで、銀行員としての仕事ぶりがそれぞれの段階において、当時の上司や同僚、部下の豊富な証言によって詳しく記されている。そこに描き出される宿澤は、ラガーとしての生き方と銀行員としての生き方に齟齬がない。堂々と王道を歩んでいた人だったのだということが伝わってくる。

 私はラグビーには詳しくないし、あまり興味もない。唯一強い関心を惹かれた人物が宿澤だった。ワールドカップで勝利を挙げた後で書いた「TEST MATCH」という本には強く感銘を受けた。その後、世界的なプロ化の波に洗われて日本のラグビー界が揺れ動き、成績も低迷、組織も混迷していても、いつかは宿澤が乗り出して見事に建て直すのだろうと漠然と思っていた。Jリーグ発足前後のサッカー界における川淵三郎のような役割を果たす人物がいるとしたら、宿澤を措いてほかにないのだろうと。

 だから、宿澤の訃報に接した時には本当に驚いたし残念だった。ところが本書には、それ以前に彼はラグビー協会を離れていたと書いてある。強化委員長を務めた後に追われるように理事を降り、協会を去った。しかも事務局から電話で解任の通告を受けたのだと加藤は書いている。これには衝撃を受けた(加藤の取材に対し、ラグビー協会の幹部たちははっきりそうと認めてはいない)。大友信彦がラグビーマガジンの宿沢追悼特集に寄せた文章によれば(孫引きになるが)、宿澤が強化委員長を退いた後、宿澤が委員会に集めたスタッフたちも任を解かれ、<能力本位で機能していた強化委員会は、特定の人脈が重用される御都合集団に変貌していった>という。ともあれ、ラグビー日本代表の監督人事がこの後、混迷をきわめていったことは、門外漢の私の目にも明らかだった。

 そのせいもあってか、加藤はラグビー界における宿澤の、ありえたはずの将来、果たすはずだった役割については多くを語らない。むしろ、宿澤がなるはずだったバンカー像を語ることに、より熱心であるように見える。
 確かに、本書に描き出された銀行家・宿澤の仕事ぶりは、今、私が日本の銀行に抱いているイメージ(それはたぶん多くの日本人が持つそれと共通していると思う)を大きく変えるような堂々たるものだ。ラグビーどころか日本の銀行界を変える人物になるはずだったのかも知れない、とさえ思わされる。

ただし一方で、本書の中で加藤は、磯田一郎や西川善文といった元頭取たちを宿澤の庇護者として好意的に描き、その後、彼らが世間からどのように見られるようになったかについては敢えて触れようとしない。
 それを考えると、宿澤は果たして銀行の中で、最後まで王道を歩む紳士でいつづけることができたのかどうか。いつかは悲劇的な齟齬をきたすことになったのではないだろうか、という苦い想像も、打ち消すことができずにいる。

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他人に敬意を表することを知らない者が、他人から敬意を受けることはない。

J1 第16節 退場に伴う茂原 岳人選手(甲府)の出場停止処分について

<2007Jリーグディビジョン1 第16節の試合で、茂原 岳人選手(ヴァンフォーレ甲府)は、主審より退場を命じられました。また、退場を命じられた後にピッチ上で主審を侮辱し、さらにピッチからロッカールームに戻る際に運営備品を破損させた、との報告を受けたため、規律委員会で同選手への事情聴取を行い、(財)日本サッカー協会 競技および競技会における懲罰基準に照らして審議した結果、下記のとおり処分することを決定いたしました。

【処分内容】 合計7試合の出場停止 (以下略)>
(Jリーグ公式サイトから)

 この試合はスタンドで見ていた。私がいたのはバックスタンドで、茂原と家本主審が揉めていたのはメインスタンド側だったから、何が起こったのかはよくわからなかった。とはいえ、茂原が唾を吐いたり暴言を吐いたり備品を壊したことを疑うわけではない。

 判定そのものとは別に、試合中ずっと気になっていたのは、家本主審のゼスチャーだった。
 彼が何らかの(主にファウルの)判定を下し、選手が何か言いたげに近づこうとすると、家本主審はしばしば、左手で選手を制していた。正確に言えば、下に向けた手のひらを払うように振り上げる動作を繰り返した。

 これは通常「しっしっ、近寄るな、あっちに行け」という意味をもっている。犬猫相手ならいざ知らず(と書いたら犬好きや猫好きの人には叱られるかも知れないが)、人間同士の間で行われる場合には、かなり侮蔑的な表現となる。一人前の社会人であれば、公の場・仕事の場ですることは憚らなければならない、そういう動作だと私は思う。

 家本主審は選手に対して何度もそれを繰り返していた。スタンドから見る限り、ただ歩み寄って話しかけようとした選手に対しても、「お前の話など聞く値打ちはない、あっちに行け」という意味の動作を繰り返していた。数万人の人々が見ている前で、人間扱いされず、コミュニケーションを拒絶され、ただ追い払われる心境というものが私には想像できないが、あまり体験したいとも思わない。それは選手をいらだたせ、試合を荒れさせる種をまき続けているようにしか見えなかった。

 家本主審に限らず、Jリーグでは、ときどきこのような動作を目にすることがある。
 Jリーグや日本サッカー協会が、選手に対して「審判を侮辱すること」を固く戒め、「審判に対して敬意を払うこと」を要求するのであれば、審判にもまた「選手に対して敬意を払うこと」を要求し、徹底させるべきだと私は思う。それが、例えば7試合の出場停止処分を受ける茂原に対する、主催者としての責任ではないのか。

 ワールドカップや欧州選手権に選ばれる優秀な主審の多くは、選手とにこやかにコミュニケーションをとりながら円滑に試合を進めるタイプの主審の方がずっと多いという印象がある。JリーグやJFAはそのようなものを目指しているのではないのだろうか。今回の茂原への処分(と家本主審への不処分)は、そうではない、というメッセージを内外に発してしまいかねないものだと思う。

 追記(2007.7.6)
「審判にとって今や、ジャッジするのが楽ではないことは私も分かっている。だから、イングランドの審判を見ればわかる通り、彼らは選手たちと話し合っている。しかし、日本では審判に何も言うことができないのだ。」(P.154)
「もちろん日本人審判は長所も持っている。すべてを批判しているわけではない。しかし、選手とのコンタクトの仕方は、少し修正しなければならないと思う。つまり、コミュニケーションは頻繁に、そしてもっとオープンに行うべきなのだ。」(P.158)
イビチャ・オシム『日本人よ!』新潮社から

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えのきどいちろう『サッカー茶柱観測所』駒草出版

 5月上旬だったと思うが、東京駅前のオアゾ丸の内の中にある丸善のスポーツ書籍売り場で平積みになった本書の上に、店員による手書きPOPが立ててあった。「奇蹟の書籍化!」はよいとして、締めの言葉は「文庫化や重版はないと思うのでお早めに」。褒めてるんだか舐めてるんだかよくわからない。

 週刊サッカーマガジンの読者はよくご存知の通り、本書はコラムニストえのきどいちろうが2002年ワールドカップの最中から2006年ワールドカップの少し後まで同誌に連載していたコラムをまとめたものだ。
 編集部の忘年会で隣り合わせた佐山一郎氏が口走った「サッカー界、握手多くない?」。「ならば」や「事実」というサッカー記事の常套句。「今日はワールド、やってるでしょう」と嬉しそうに話すおばあさん。OB系解説者が口にする「積極さ」と「有効的」の魅力。リモコンがいっぱいありすぎてテレビをBSに切り替えられない弱虫くんだらけのサッカーマガジン編集部。時代劇は「コタビ」ばかりだという南伸坊氏*。
 いや、これだけ抜き出しても暗号か呪文のようで、何の話かまるでわからないだろうけれど、著者は本職のサッカーライター並みに毎週毎週スタジアムでいろんな試合を観まくりながら、書いていることのかなりの割合がこんな感じだ。

 どうでもいいような小ネタを弄んでいるように見えるけれど、4年分の連載を通して読むと、さまざまなスタジアム、さまざまな階層のサッカーの試合に足を運び、尋常ではないほどサッカーにのめりこみつつ、常に自分とサッカーとの距離を測り続けている著者の姿が見えてくる。自分だけではなく、スタジアムの観客やサポーター、選手や指導者自身、テレビ視聴者、メディア人、通りすがりの普通の人まで含めて、さまざまな人や物事とサッカーとの微妙な間合いを計り、語ることが、この連載に流れる通奏低音だったような気がする。

 長年の熱心な日本ハムファイターズファンとして知られ、自分の持っているコラム枠やラジオ番組を勝手にファイターズ応援枠にねじ曲げたりして、誰よりも、と言いたくなるほどファイターズを愛していながら、著者の愛情は、例えば「ファイターズを悪く言う奴は俺が許さねえ」「来年は絶対優勝だ!」という方向には決して向かわない。贔屓チームの欠点も限界も誰よりも見えてしまっていながら、それも含めて丸ごとチームを愛し、そんなチームを、そして自分自身をも玩んでしまう、そんな距離感の絶妙さが、彼の書くものの最大の魅力だと私は思っている。
 対象に心底惚れ込むことと、対象と自身と世の中のそれぞれの間の距離に自覚的であることは、なかなか両立しづらい。そんな芸当をやってのけることを、観客席における成熟と呼んでもよいような気がする。

 本書のあとがきによれば、2002年大会の放映権を獲得したスカパーのスタッフが、このラジオ番組の愛聴者で「日本ハムを語るようにサッカーを語ってほしい」と口説いたことから「ワールドカップジャーナル」が誕生し、その番組のゲストにサッカーマガジンの当時の編集長を招いたことからこの連載が始まった。
 「それが今、サッカーに一番足りないものです」というスカパーの人の言葉が何を指しているのかは語られていないが、結果からいえば、日本のサッカーファンはいささか真面目にすぎるのではないか、という問題提起であったように思う(この発言があった2001年と今とは全く同じではないにせよ)。
 いや、真面目な人がいるのはもちろん結構なのだが、サッカー観戦者の全員が全員、「日本のサッカーのために俺には何ができるのか」なんて真剣に考えているというのもちょっと妙な気がする。腰の据わったサポーターと、代表戦のスタンドに大勢いるような浮動層、この両者の間にグラデーションを描いて、さまざまなスタンスの観客が生まれていくことが、サッカー愛好者の層の厚みであり、文化としての豊かさということになるのだと思う。そして、そういう面ではまだ日本野球にはサッカーよりも一日の長がある。
 そう考えると、この連載は「成熟した一野球愛好者のスタイルをサッカー界に移植する試み」であったのかも知れない**。それが成功したのかどうかはまだ何とも言えないが、本書が丸善のスポーツ棚担当者氏の予想を裏切って増刷されたり、魅力的な類書が登場するような日が来ればいいなと思っている。


 というところで綺麗に終わってもよいのだが、著者はこの春、サポートしていたアイスホッケークラブ、日光アイスバックスの役員になるという、まるで沢木耕太郎のような急展開を見せている。
 間合いの達人が、事もあろうにクラブの当事者、距離感ゼロのど真ん中に入ってしまったらどうなるのか。いずれはロジャー・カーンの『ひと夏の冒険』のようにこの体験を書いてくれたらいいなと思いつつ、当面は次のシーズンのアイスバックスを見に行こうと思う。寒いのはあまり得意ではないが、まあ何とかなるだろう。


*
これを読んでから『風林火山』を見るたびに笑いそうになる。確かに毎週1回や2回は誰かが難しい顔をして「コタビのイクサは」などと口走るのだ。

**
とはいうものの、あとがきによれば本書は著者の初めての「スポーツコラム集」らしい。えのきどの野球本がまだ世の中に存在していないというのは、日本野球、どうかと思う。自分で言っといてナンだが、この「一日の長」、かなり怪しくなってきた。

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小野寺歩『カーリング魂。』小学館

 発行は今年の3月末。トリノ五輪から1年1か月が過ぎ、新生チーム青森が国内外の大会に出場した06-07シーズンも終わろうという時期は、“トリノ本”を刊行するタイミングとしては決して早いものではないが、彼女の中で、この間のさまざまな出来事に整理をつけるには、そのくらいの時間が必要だったのかも知れない。
 トリノ五輪の女子カーリング日本代表チームのスキップが、自身のカーリング人生を振り返って記した本。トリノ五輪での戦いについても丁寧に記されており、大会中のどん底から押し返していく様子、精神面でのコンディショニングのあり方なども面白いし、カーリングという競技自体についての解説も懇切丁寧でわかりやすい。

 私がもっとも興味深く感じたのは、彼女の出身地である常呂町のカーリング環境や、青森に渡ってからの苦闘を描いた部分。
 「チーム青森」の母体であるべき青森市の存在感の希薄さは、トリノ五輪当時から気になっていた。わざわざ競技場を作り、五輪選手を招いたわりには、彼女たちの扱われ方がぞんざいなのだ。
 本書の中でも、優勝すればトリノ五輪代表に決まる2005年2月の日本選手権で準優勝に終わり、落胆して青森に帰ったら、駅には誰一人迎えに来ていなかった、というくだりが印象的だ(その2週間前、前哨戦の軽井沢国際大会で優勝した時には駅で花束が贈呈されたというのに…)。
 時系列でいうと、小野寺と林が青森市文化スポーツ振興公社の臨時職員に就職した時点では、青森にはまだカーリングホールも存在していない(青森市スポーツ会館がオープンしたのは2002年の暮れ)。2003年に冬季アジア大会が開催されているから、おそらくは大会のために作られた施設なのだろうし、その先の見通しなどろくに考えられてはいなかったのではないか。カーリングホールを作ってはみたものの、ホール自体も小野寺たちもどう扱ってよいのかわからずに持て余していたとでもいうような、「国体型ハコモノ行政」の典型的な歪みを感じる。

 そんな中で、少ないページ数ながらも小野寺が愛着たっぷりに記しているのが、青森での初年度のチームのことだ。
 目黒、寺田が北海道から青森の大学に進んで一緒にチームを結成したのは2003年の春から。02-03シーズンには間に合わないが、すでにカーリングホールはオープンしている。小野寺と林は、地元の澤田優嗣子、真人香という姉妹と「リンゴスターズ」というチームを組んで大会に参加した。元五輪代表2人と初心者2人、しかも1シーズン限定と決まっていて将来はない、という特殊な内情の中、チームは日本選手権3位に食い込む。小野寺は次のように書く。
<結成して、数か月しか経っていないにもかかわらず、この結果にチームは大満足でした。大会関係者からも絶賛されました。意気揚々、青森に帰ったのですが、予想外に冷たい反応もありました。
 「(予選リーグの)最初の四連敗はなんだったの?」
 「小野寺と林がいれば当然だよ」
 言葉を失いました。カーリングは四人でプレーします。五輪選手がふたりいても、澤田姉妹の力がなければ、三位入賞はなかった。彼女たちがメダル獲得の原動力になったことは、まぎれもない事実です。
 今、青森の関係者は『リンゴスターズ』の三位入賞のことを誰も覚えていないでしょう。あのとき、認めてもらえなかった悔しさをバネに、ふたりは今も頑張っています。>
<『リンゴスターズ』での日本選手権三位入賞は、林さんと私の大切な思い出であり、誇りです。>
 青森に対する、小野寺の屈託が感じられる文章というほかはない。

 とはいうものの、現時点での状況を調べてみれば、青森市もなかなか頑張ってはいる。高校生の全国大会を主催したり、普及にも力を入れているようだ。地元の新聞社が愛好者の大会を開催したりもしている。「リンゴスターズ」の一員だった澤田優嗣子は、選手として五輪を目指すとともに、地元高校カーリング部の顧問として指導にもあたっている。
 青森は、相撲や柔道では名選手を輩出しているし、スキーでも三浦雄一郎というスーパースターを生んでいるが、冬季五輪一般に送り出す選手の数は、雪国のわりに多くはない。カーリングのチーム青森は、小野寺と林が退いて編成が変わった今でも依然として県外出身者ばかりだ。
 そんな中、全国でまだ数少ない専用ホールと「チーム青森」の奮闘がもたらしたカーリング熱は、青森がスポーツで全国の注目を集める、めったにない機会でもある。このままカーリングが青森市に根付いて、自前の「チーム青森」を編成する日が来れば、小野寺たちの苦闘も、懐かしい思い出話として語ることができるようになるのだろう。
 現チーム青森のうちトリノ経験者の3人は、次の五輪の前に大学を卒業する。その時に青森市が彼女たちをどう処遇するのかは、さしあたり興味深い。

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