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2007年8月

「引いた相手から簡単に点は取れない」って、そりゃそうなんでしょうけど。

 ハーフタイムでロッカールームに引き上げる日本代表イレブンに対して、国立競技場のスタンドからブーイングが起きた。
 今夜の出来事ではない。シドニー五輪予選での記憶だから、99年10月の最終予選、タイ戦でのことだと思う。*自陣に引きこもって出てこないタイを日本は攻めあぐみ、前半は無得点で終わってしまった。
 この試合には出場していなかった中田英寿が、後にこのことを伝え聞いて「相手が引いて守っていたら、そう簡単に点が取れるものではない」と不快の意を示していたという記憶もある。

 スタンドでこの試合を観ていた見物人の実感として言えば、不満だったのは無得点という結果ではない。引いた相手からはこうやって点を取るんだ、という意志や工夫が感じられないまま前半を終えてしまったことに対してのブーイングだった、と私は感じていた(最終的にこの試合は3-1で日本が勝った)。

 今夜の国立競技場ではブーイングは起きなかった。20時30分に始まった北京五輪最終予選の初戦、ベトナム戦で、前半終了間際に青山が先制ゴールを決めたのでハーフタイムにブーイングが起こらなかったのは当然だが、終盤、前線の選手たちがチャンスを外しまくっても、ゴール裏のサポーターたちは彼らの名前を呼んで励まし続けた。
 だからといって北京五輪を目指す選手たちのプレーが、称賛に値するものであったとは私には思えない。自陣に引きこもるベトナムからどうやって得点をもぎとるのか、選手たちに共通の理解や狙いがあるようには見えなかった。


 「引いた相手から簡単に点は取れないよ」
 ワールドカップやオリンピックの一次予選が行われるたびに、私たちは監督や選手や解説者の口から、この言葉を何度となく聞かされてきた。
 それ自体は身も蓋もない真実だろうとは思う。今夜の試合を観ていても、9番のFW以外はハーフラインを越えようともしない赤いユニフォームの団体の向こうにあるゴールにどうやってボールを届けるのか、考えただけでもうんざりする。
 しかし、選手たち自身がうんざりしたり戸惑ったりしているようだと、いささか困ったことになる。


 引いた相手から点を取る方法が、ないわけではない。いくつかの定石はある。

 最前線に長身でヘディングの強い選手を置いてハイボールを放り込み続ける。
 ミドルシュートを多用してディフェンスラインを前に出させる。
 ドリブルでペナルティエリアに斬り込んで反則をとり、セットプレーの機会を増やす。
 相手守備陣を左右に振り回して疲れさせ、後半に足が止まったところで仕留める。

 このような戦術は素人の私でも思いつくし、テレビ中継の解説者たちも、たぶんこの中のどれかを口にしていたのではないかと思う。
 平山、梶山や本田圭、柏木や家長という格好の実行者もいたはずだが、選手たちがそれらのプレーを意図的に多用していたようには見えなかった。
 私なんぞよりずっとサッカーを熟知している監督やコーチや解説者たちは別の方法も知っているのだろうけれど、別の方法が今夜のピッチに体現されているようにも見えなかった。反町監督のチームが、ドン引きのベトナムを相手にどうやって点を取ろうとしていたのか、私には最後までよくわからなかった。

 1-0という結果は、その意味では不当なものとは言えない。日本はシュートの本数こそ多かったけれど、枠に飛んでいって、惜しいと思えたのは、ほんの少しだった。


 冒頭に挙げたシドニー五輪予選が行われたのは99年だ。ワールドカップには98年から、オリンピックには96年から、日本代表は出場し続けている。20世紀の終わりにはサッカーではアジアのトップレベルの国となり、その頃からアジアの多くの国は、日本と戦う時には守りを固めてカウンターに賭ける、という戦術をとってきた(極端な場合、日本のホームゲームでは攻撃を放棄して最少失点で試合を終えようとするチームさえある)。
 だから、ワールドカップやオリンピックの予選があるたびに、何試合かは必ずこういう展開になる。アジアカップでは本大会でさえ起こる。
 これほど頻繁に遭遇する状況なのだから、特化した対策があってもよさそうなものではないだろうか。
 協会の強化担当者たちが「引いた相手から点を取る」という課題に、もう少し本気で取り組んで、ある程度のノウハウを確立し、簡単ではなくともこれだけやっていれば90分で2点か3点は取れるよ、というノウハウが各年代の代表チームに共有化されていたりしたら…、そんなのは素人の妄想なのだろうか。


 今夜の試合後の記者会見で、反町監督は「非常にリトリートされ、ゲームをクローズされ少ない好機で点を取るという形だったので、非常に苦労しました」と話している。
 要するにこれは「引いた相手から点を取るのに苦労した」と言っているのに等しい。8年前からの変化が、用語がカタカナに変わったことだけというのでは、いささか寂しすぎる。


*(2007.9.11)
タイ戦と書いたのは私の記憶違いのような気がしてきた。97年6月25日に行われたワールドカップ・フランス大会1次予選の日本-ネパール戦での出来事かも知れない。前半1-0、最終的には3-0。中田英寿も出場していた。

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「756*」。

 バリー・ボンズがハンク・アーロンの通算記録に並ぶ755本目の本塁打を打った映像をニュースで見た。スタンドには「*」と大書した紙を頭上に掲げた観客が何人もいたようだ。756本目の時にどうだったかは見ていないが、たぶん同じような観客がいたのだろう。
 この「*」とは、「ボンズの記録は筋肉増強剤の助けによって作られたものだから、アーロンの記録とは別扱いの注釈付き参考記録である」という主張を象徴しているものと思われる。ロジャー・マリスが1961年にベーブ・ルースのシーズン本塁打記録を超える61本を打った時、「ルースの時よりも試合数が多かった」という理由でレコードブックに「*」付きで掲載されていたという故事を踏まえたものだろう。

 ボンズが筋肉増強剤を使用したか否かについては、法廷で明確に結論が出たわけではないが、かなり疑わしい状況にあることは否めない。彼がピッツバーグ・パイレーツで売り出した頃(ボンズとボニーヤでBB砲、と呼ばれていた)には、スピードを売り物にした、すらりとした体型の選手で、30本塁打30盗塁を毎年のように達成していた。異様なまでに上半身が発達した現在の彼とは別人のようで、それはマーク・マグワイアにおける体型の変化ともよく似ている。

 どのような形にせよ、ボンズは薬物を使ったのだろうと私は思っている。それは好ましくないことだとも思っている。では彼の記録は無効なのか、あるいは「*」をつけて参考記録として扱われるべきなのか、といえば、これはなかなか難しい。
 どのような競技においても、時代とともに競技環境は変わる。陸上競技において、靴や衣類、競技場のトラックの土質、計時装置などの技術の発展は著しく、現代の選手たちは大いにその恩恵に預かっているはずだ。水泳も同様で、水着は水の抵抗を減らす方向にどんどん発達し、50年前のそれとは似ても似つかない。
 が、だからといって、その変化が記録の扱いに反映されることはない。

 野球の記録は、陸上や水泳のように、時間や距離という絶対的な数値ではなく、相手選手との対戦結果という相対的なデータである。敵と味方、投手と打者が等しく競技環境の変化にさらされ、その恩恵を受けているのであれば、どちらか一方に有利になるわけではない、とも言える。バリー・ボンズと同時期の選手であれば、投手であれ野手であれ、筋肉増強剤を使うことは可能だった(当時はそれが禁じられていたわけではない)。

 環境の変化が野球の記録にどのような影響を及ぼすかについては、過去にも少し触れたことがある(グールド進化理論が示すイチローの価値。)。現代の選手が昔に比べて有利だと言えば言えるし、不利だとも言えば言える。どちらともいいようがない。ベーブ・ルースの時代にはMLBは有色人種を締め出していたのだから、1946年以前の記録にこそ「*」が付けられるべきだ、という主張(があるかどうかは知らないが今思いついた)にも、うまい反論は見つからない。
 「これは○○だから参考記録扱いにすべきだ」という話は、言い出せばきりがない。球団数を拡張した年は全体のレベルが下がるのだから「*」をつけるべきだ、試合数が変わった年には「*」をつけるべきだ、などとやっていたら、すべての記録に「*」をつける羽目になる。

 王貞治は日本のプロ野球で868本の本塁打を打ったが、彼自身は「アメリカとは環境も違う」として、決して自分の記録が世界一だという言い方はしない。思慮深い発言だと思う。
 王の記録を貶めようと思えば、材料はいくつもある。彼の現役当時は、プロ野球の使用球場は今よりもずっと狭かった。セントラル・リーグのフランチャイズ球場のうち東京ドーム、横浜スタジアム、ナゴヤドームは彼の現役生活の晩年または引退後に作られたものだが、その前に各球団が使っていた球場では、ホームベースから外野フェンスまでの距離はいずれも今より短かった(甲子園にも王の現役時代にはラッキーゾーンがあった)。
 また、彼が愛用していた圧縮バット(バットの材質である木材に樹脂をしみこませて加工を施し反発力を強めたもの)は、彼の引退後に使用が禁止され、現在では使う選手はいない。
 これらの条件に助けられて王は本塁打を量産したのだ、と言う人もいる。それらが王にとって好材料であったことは否定できない。

 しかし、それらの条件は同時に同時代の選手すべてに当てはまる。球場は誰にとっても狭かったし、圧縮バットはその気になれば誰でも使えたはずだ。だが王ほど本塁打を打った選手はほかにはいなかった。

 王がシーズン55本塁打を打った昭和39年を例にとると、セ・リーグの総本塁打数は724本、1球団あたりの平均は120.7本だ。打率トップ10の選手の中で王に次いで本塁打が多いのは長嶋(巨人)とマーシャル(中日)の31本、さらに桑田(大洋)27本と続く。王の突出ぶりがわかるだろう。
 ちなみに昨年のセ・リーグ総本塁打数は821本、1球団あたり136.8本だ。球場が広くなり圧縮バットが禁止されて本塁打が出にくくなったのであれば、この数字は辻褄が合わない。
 要するに、ある特定の要因を抜き出して成績への影響を論じることは、そう簡単ではない。

 王が活躍した昭和40年代を通じて、状況はおおむね似たようなものだ。セ・リーグ全体の打撃が低調で、3割打者は数人しか出ず、本塁打も出にくい中で、王ひとりが40本以上の本塁打を量産しつづけた。その結果が868本という記録になった。
 記録を作ったことが王の価値なのではない。他人がなかなか打てない本塁打を打ちまくったことに価値があるので、記録はその結果に過ぎない。私たちは、ともすればそこを見失い、あるいは取り違えそうになる。

 繰り返しになるが、野球の成績は相対的な対戦結果である。「レフティ・グローブとノーラン・ライアンとロジャー・クレメンスの誰がもっともスピードがあったか」を比較することは(信頼すべき計測結果があれば)可能だが、球速そのものは野球の記録ではない。そして、「3人の誰がもっともいい投手か」を比較しても、誰もが納得する結論は出ないだろう。打者においても同様だ。
 選手ひとりひとりが生き物であるのと同様に、それぞれの対戦もまた生きている。記録というものは、その生きた営みのうちの、ごく限られた側面を保存して物語る手段に過ぎない。大事なのは目の前のひとつひとつのプレーなのだ。

 これから長い間、レコードブックの本塁打記録の筆頭に記されるバリー・ボンズの名を目にするたびに、私たちはそのことを思い起こすことになるのだろう。
 記録を過大視する傾向に冷や水をかける、という意味では、それはひとつの効用なのかも知れない。

 それにしても、ベーブ・ルース以後、シーズンと通算の本塁打記録のいずれかを塗り替えようとする選手は、さまざまな苦しみを味わい続けている。「*」のレッテルを貼られたマリス、人種差別に苦しんだアーロン、そしてボンズ。記録達成当時は祝福だけを受けていたマグワイアも、後には汚辱にまみれてしまった。
 次にボンズの通算記録に近づく選手がいるとすれば、先日最年少で500本塁打を打ったA-Rodだろう。彼の行く手には何が待っているのだろうか。

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