「引いた相手から簡単に点は取れない」って、そりゃそうなんでしょうけど。
ハーフタイムでロッカールームに引き上げる日本代表イレブンに対して、国立競技場のスタンドからブーイングが起きた。
今夜の出来事ではない。シドニー五輪予選での記憶だから、99年10月の最終予選、タイ戦でのことだと思う。*自陣に引きこもって出てこないタイを日本は攻めあぐみ、前半は無得点で終わってしまった。
この試合には出場していなかった中田英寿が、後にこのことを伝え聞いて「相手が引いて守っていたら、そう簡単に点が取れるものではない」と不快の意を示していたという記憶もある。
スタンドでこの試合を観ていた見物人の実感として言えば、不満だったのは無得点という結果ではない。引いた相手からはこうやって点を取るんだ、という意志や工夫が感じられないまま前半を終えてしまったことに対してのブーイングだった、と私は感じていた(最終的にこの試合は3-1で日本が勝った)。
今夜の国立競技場ではブーイングは起きなかった。20時30分に始まった北京五輪最終予選の初戦、ベトナム戦で、前半終了間際に青山が先制ゴールを決めたのでハーフタイムにブーイングが起こらなかったのは当然だが、終盤、前線の選手たちがチャンスを外しまくっても、ゴール裏のサポーターたちは彼らの名前を呼んで励まし続けた。
だからといって北京五輪を目指す選手たちのプレーが、称賛に値するものであったとは私には思えない。自陣に引きこもるベトナムからどうやって得点をもぎとるのか、選手たちに共通の理解や狙いがあるようには見えなかった。
「引いた相手から簡単に点は取れないよ」
ワールドカップやオリンピックの一次予選が行われるたびに、私たちは監督や選手や解説者の口から、この言葉を何度となく聞かされてきた。
それ自体は身も蓋もない真実だろうとは思う。今夜の試合を観ていても、9番のFW以外はハーフラインを越えようともしない赤いユニフォームの団体の向こうにあるゴールにどうやってボールを届けるのか、考えただけでもうんざりする。
しかし、選手たち自身がうんざりしたり戸惑ったりしているようだと、いささか困ったことになる。
引いた相手から点を取る方法が、ないわけではない。いくつかの定石はある。
最前線に長身でヘディングの強い選手を置いてハイボールを放り込み続ける。
ミドルシュートを多用してディフェンスラインを前に出させる。
ドリブルでペナルティエリアに斬り込んで反則をとり、セットプレーの機会を増やす。
相手守備陣を左右に振り回して疲れさせ、後半に足が止まったところで仕留める。
このような戦術は素人の私でも思いつくし、テレビ中継の解説者たちも、たぶんこの中のどれかを口にしていたのではないかと思う。
平山、梶山や本田圭、柏木や家長という格好の実行者もいたはずだが、選手たちがそれらのプレーを意図的に多用していたようには見えなかった。
私なんぞよりずっとサッカーを熟知している監督やコーチや解説者たちは別の方法も知っているのだろうけれど、別の方法が今夜のピッチに体現されているようにも見えなかった。反町監督のチームが、ドン引きのベトナムを相手にどうやって点を取ろうとしていたのか、私には最後までよくわからなかった。
1-0という結果は、その意味では不当なものとは言えない。日本はシュートの本数こそ多かったけれど、枠に飛んでいって、惜しいと思えたのは、ほんの少しだった。
冒頭に挙げたシドニー五輪予選が行われたのは99年だ。ワールドカップには98年から、オリンピックには96年から、日本代表は出場し続けている。20世紀の終わりにはサッカーではアジアのトップレベルの国となり、その頃からアジアの多くの国は、日本と戦う時には守りを固めてカウンターに賭ける、という戦術をとってきた(極端な場合、日本のホームゲームでは攻撃を放棄して最少失点で試合を終えようとするチームさえある)。
だから、ワールドカップやオリンピックの予選があるたびに、何試合かは必ずこういう展開になる。アジアカップでは本大会でさえ起こる。
これほど頻繁に遭遇する状況なのだから、特化した対策があってもよさそうなものではないだろうか。
協会の強化担当者たちが「引いた相手から点を取る」という課題に、もう少し本気で取り組んで、ある程度のノウハウを確立し、簡単ではなくともこれだけやっていれば90分で2点か3点は取れるよ、というノウハウが各年代の代表チームに共有化されていたりしたら…、そんなのは素人の妄想なのだろうか。
今夜の試合後の記者会見で、反町監督は「非常にリトリートされ、ゲームをクローズされ少ない好機で点を取るという形だったので、非常に苦労しました」と話している。
要するにこれは「引いた相手から点を取るのに苦労した」と言っているのに等しい。8年前からの変化が、用語がカタカナに変わったことだけというのでは、いささか寂しすぎる。
*(2007.9.11)
タイ戦と書いたのは私の記憶違いのような気がしてきた。97年6月25日に行われたワールドカップ・フランス大会1次予選の日本-ネパール戦での出来事かも知れない。前半1-0、最終的には3-0。中田英寿も出場していた。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
ご無沙汰しております。
> 用語がカタカナに変わったことだけというのでは
むしろ、「用語がカタカナに変わったこと」そのものに危機感を覚えております。どうして、物事をわかりづらく翻訳するのか。結果的に、チーム作りの意図(多分反町氏には意図があると信じているのですが)が選手にうまく伝わっていないのではないかと危惧します。
鉄様がおっしゃる「ノウハウ」は、日本協会で伝授されるのではなく、選手個々が身につけるものだと思っています。つまり協会の強化担当者にできる事は、「そのような感覚を持った選手を選ぶ事」、「若年時にそのような感覚を持った若者をつぶさない事」くらいではないかと。そう考えると、(少々甘い採点ですが)水野と柏木はそれなりによくやったのではないかと。
そして、上記の危機感にかぶるのですが、そのような感覚を持っているはずの、本田圭祐と梶山が機能しない事は深刻な問題に思えてきます。
投稿: 武藤 | 2007/08/24 22:26
>武藤さま
これはこれは、ご無沙汰してます。
>むしろ、「用語がカタカナに変わったこと」そのものに危機感を覚えております
用語を(主にカタカナで)統一するというのは、協会の指導指針の一環でしたね。各地から集められた選手たちが、用語の違いに戸惑わずに済むメリットと、およそ日常生活でも学校でも聞いたことのないような横文字の羅列に戸惑うデメリットと、どちらが大きいのか。現場の方の感想など聞いてみたいものだと以前から思っています。
>鉄様がおっしゃる「ノウハウ」は、日本協会で伝授されるのではなく、選手個々が身につけるものだと思っています。
おっしゃることはわかります。ただ、例えば、川中島合戦の車懸りのように、などというと大袈裟ですが、相手の嫌がりそうな特定の攻撃法を執拗に繰り返し90分かけて崩していく、というような(ノルウェーあたりがやるような単調かつ退屈な)戦術は、日本代表ではまず見られませんし、そもそもオプションのひとつにすら入っていないのではないかという気がします。
それは日本人の嗜好、あるいは個々の監督の問題といってしまえばそれまでですが、指導者を育成する側にも、そのような傾向を助長するバイアスがあるのではないかな、と想像しています。
選手個々の判断力の育成が日本サッカー全体の課題とされている以上、「とにかく平山の頭に合わせて放り込め」という類いの戦術は認められない…ということなら、問題は武藤さんがご指摘するようなところに収斂していくのでしょうね。
柏木はよくやっていたと私も思います。水野は頑張っていたのはわかりますが、効果的だったのかどうか。ま、それはむしろ他の選手の問題かも知れませんが。
投稿: 念仏の鉄 | 2007/08/25 00:09
通りすがりで大変失礼ですが、提示された選択肢の中で一つ重要なものが抜けているようにお見受けします。おわかりだろうと思うのであえてそれは何かは書きませんが。
「引いた格下相手に対する攻略法の第一選択」で「サイドアタックをかける際の第一目標」でもあるはずなんですが、日本人選手は呆れるほどそれをしないし、ファンのレベルですら皆目見当にないという……
それが一番の問題じゃないかと私は思うんですけどね。
投稿: 通りすがりですんません | 2007/08/25 15:12
>通りすがりですんませんさん
遅くなって失礼しました。
通りすがりの方の書き込みは全然構いませんが、「重要なもの」についてははっきり書いていただいた方がいいんじゃないかと思います。
投稿: 念仏の鉄 | 2007/08/27 22:45
おひさです。お元気ですか。
そういえばこれって、
オフトの時代からアジアでは課題になってた気がしますね。
なんかなつかしいなぁ。
投稿: 松岡美樹 | 2007/09/11 11:11
>松岡美樹さん
こんにちは。更新頻度は落ちましたが、ぼちぼちやっております。
>オフトの時代からアジアでは課題になってた気がしますね。
もう少し後で起こった現象だと思います。オフト時代の日本はまだそこまでアジア諸国に強豪と認められてはいませんでした。93年のアメリカ大会1次予選ではタイと2試合やって、どちらも1-0の辛勝でしたが、誰も「格下に苦戦」なんて言わなかったなあ。ヨーロッパの中堅国と満員のアウェーで引き分けても批判される今日とは隔世の感がありますね。
投稿: 念仏の鉄 | 2007/09/12 00:24