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2007年9月

ドラフト89年組と社会人野球の栄光。

 ヤクルトの古田敦也兼任監督が、今季限りで監督を退き、現役も引退することを発表した9/19に、広島の佐々岡真司投手も今季限りでの引退を表明した。
 この2人、年齢は違うが同期入団だ。89年秋のドラフト会議で指名され、翌90年にプロデビューした。
 1年目から一軍で活躍していたが、ブレイクしたのはどちらも2年目だ。佐々岡は最多勝と防御率1位の2冠に加えてチームはリーグ優勝、MVPと沢村賞にも選ばれる。古田は落合に競り勝って首位打者になった。

 プロ野球の歴史も70年を超えたが、草創期を別にすれば、彼らが入団した1990年ほど優秀な新人が大挙してプロ入りし、活躍した年はほかにない。検証したわけではないが、たぶんないと思う。ほとんどの球団が、結果的に球団史に名を残す選手を獲得している。

 一位指名選手を列記してみよう。

読売:大森剛(慶大)内野手
広島:佐々岡真司(NTT中国)投手
中日:与田剛(NTT東京)投手
ヤクルト:西村竜次(ヤマハ)投手
阪神:葛西稔(法大)投手
大洋:佐々木主浩(東北福祉大)投手

近鉄:野茂英雄(新日鉄堺)投手
オリックス:佐藤和弘(熊谷組)外野手
西武:潮崎哲也(松下電器)投手
ダイエー:元木大介(上宮高)内野手
日本ハム:酒井光次郎(近大)投手
ロッテ:小宮山悟(早大)投手

 佐々岡、与田、佐々木、野茂、小宮山がタイトルを獲得、佐々木、野茂の2人が名球会入りしている。

 一位以外の主な選手も挙げておく。

広島4位:前田智徳(熊本工高)外野手
中日2位:井上一樹(鹿児島商高)投手
中日6位:種田仁(上宮高)内野手
ヤクルト2位:古田敦也(トヨタ自動車)捕手
阪神5位:新庄剛志(西日本短大付高)外野手
近鉄3位:石井浩郎(プリンスホテル)内野手
日本ハム2位:岩本勉(阪南大高)投手

 1位指名では投手優位だったが、2位以下は野手も錚々たる顔触れだ。前田と古田が2000本安打を打ち、石井もタイトルホルダー。新庄と野茂、佐々木、小宮山がMLBプレーヤーとなった。西村はプロ入り4年間で50勝を挙げ、野村ヤクルトのエースとして活躍。岩本も数字的に突出してはいないが、エースとしてチームを支えた時期がある。
 MVPを獲得したのは、セで佐々岡、古田(2度)、佐々木。パで野茂(しかも新人の年)。

 89年組から主力選手が出ていないのはジャイアンツ、オリックス、ダイエーの3チームか。
ジャイアンツは入団を熱望していた元木大介を回避して(2位狙いだったらしい)慶大の三冠王・大森を獲得し、世間の非難を浴びた。元木はダイエー入りを拒否し、チームに所属せずハワイで自主トレをしながら1年を過ごし、翌年ドラフト1位でジャイアンツに指名されて入団。スーパーサブ的存在として90年代のジャイアンツの顔の1人となった。
 オリックスの佐藤和弘は「パンチ佐藤」の愛称で人気はあったが、活躍したとは言い難い。

 新人王は、パはこの年の先発投手のタイトルを全部とった野茂、セは最優秀救援投手の与田が、それぞれ獲得した。7勝8sの潮崎、10勝の酒井、13勝17sの佐々岡、10勝1sの西村は、それぞれ運が悪かったとしか言いようがない。

 なぜこの年にこれほどの才能が集中したのか。多分に偶然のなせるわざだろうが、それなりの背景もある。

 この年の前年、88年にはソウル五輪で公開競技として野球が採用され、日本は決勝でアメリカに負けたが銀メダルを獲得している。84年ロサンゼルスの金メダルに続くファイナリストだ。89年ドラフト組にも、ソウル五輪経験者は、野茂、潮崎、古田、大森、2位指名で西武入りした鈴木哲がいる。
 五輪代表組が大挙してプロ入りしたのは、むしろ前年の88年ドラフトだ。石井丈裕、渡辺智男、吉田修司、小川博文、野村謙二郎、苫篠賢治、中島輝士と、これも錚々たるメンバーのはずだが、プロで大成したといえるのは石井と野村くらいか。

 ただ、これらの顔触れを眺めると、社会人出身者が質量ともに圧倒的に優勢を占めていることに気づく。
 88年の五輪-プロ組のうち、大学生は野村と苫篠だけ。89年ドラフト組でも、プロ入り後に活躍した選手のほとんどが社会人か高卒だ。大卒で目立つのは佐々木と小宮山ぐらい。

 社会人野球がもっとも世の中の注目を集め、人々に支持されていたのは、たぶん戦後まもない時期だと思うが、80年代は別の意味で、ひとつのピークだったのではないかと思う。当時の社会人野球の状況に詳しいわけではないが、この時期、アマチュア球界が代表チームの選抜と育成に特別の力を注いだであろうことは想像に難くない。

 84年のロサンゼルス五輪で初めて野球が公開競技として採用され、日本は金メダルを獲得した(予選では負けたのにキューバのボイコットに伴って急遽代替出場が決まったためか、この時の代表には大学生が多い)。
 88年のソウル五輪にはディフェンディングチャンピオンとして臨み、次のバルセロナでは正式種目として採用。もともと日本の国際試合はアマチュア球界のものだった。社会人球界にとって、五輪は大きな強化のモチベーションになったはずだ。
 それまで国際試合には「外人は変則投手に弱い」という考えから技巧派が重視されてきたが、ソウル五輪の投手コーチを務めた山中正竹は「90マイル+サムシング」というコンセプトを立て、144キロ前後の速球と、決め球になる変化球を持つ投手を選抜した。それが野茂のフォークであり、潮崎のシンカーであり、石井丈裕のパームボールだった。
 折しも日本経済はバブルの好況下。企業が野球部につぎ込める予算も膨らんだことだろう。

 選手たちにとっても五輪は大きな目標となった。この時期、プロでスターになれそうな好素材の中に、「五輪に出場してメダルを取ってからプロ入りする」という目標をもって、高校・大学の卒業後にすぐにはプロに進まず、社会人入りする選手が出てきたという印象がある。
 そんな才能ある選手たちが、負けたら終わりのノックアウト形式の国際大会でキューバやアメリカの強打者たちと渡り合って鍛えられた。ドラフト指名88、89年組に好投手が目立つのは、そんな経験と無縁ではないだろう。

 92年のバルセロナ、96年のアトランタの後も、五輪代表選手たちはプロ入りした。そのうち社会人出身でプロで成功したのは野手が多く(大島、松中、谷、福留)、投手は80年代に比べて小粒になっている。日本代表の選抜・育成方針に変化があったのかどうかはわからない。バブル崩壊後の90年代、社会人チームを縮小・廃止する企業が相次いだ影響は、大きかったに違いない。

 そして、2000年シドニー五輪でプロ選手の参加が解禁されたことで、五輪のために社会人野球入りする選手は姿を消した。21世紀にプロ入りして活躍している即戦力選手の大半は大卒だ。
 今後も社会人野球で成長する選手はいるだろうけれど、五輪野球がプロのものになった今(そして五輪から野球が消える近い将来)、1989年ドラフトのような大当たりの年は、もう二度と来ることはないだろう。

 89年組のうち、高卒の前田や種田(北信越リーグの宮地克彦もいる)、大卒の小宮山は健在だが、古田と佐々岡が引退すれば社会人出身者は全員が姿を消す(もっとも、野茂はまだMLB昇格を諦めてはいないに違いない)。
 ま、佐々岡にはたぶん代表歴はないので、この2人に国際大会における「アマ野球・黄金の80年代」を象徴させるのは、いささかこじつけ気味ではあるのだが、2人の引退を同時に聞かされると、どうしても私は、あの大当たりの年に颯爽と登場して暴れまくった社会人出身者たちを思い出さずにはいられない。

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柔道の国際的地位は嘉納治五郎の政治力によって築かれたのではなかったか。

 開幕に先立つ国際柔道連盟総会での理事選挙で現職の山下泰裕が落選し、開幕日には、重量級を背負う鈴木桂治と井上康生が2回戦で相次いで微妙な判定で敗退。リオデジャネイロでの世界選手権は、日本の柔道界にとって試練の場となっているようだ。

 判定そのものが正当なものかどうかを語る資格は私にはない。そもそも試合映像を見ていないし、見たところで判断できるほどの知見はない。ただ、報道によれば、どちらも審判員が集まって協議した末の判定であり、鈴木の試合ではビデオ映像を見返すこともしている.
 ならば、これを誤診と決めつけるよりは、これが国際柔道連盟の判定基準なのだと考えるほうが生産的だ。少なくとも、日本の柔道の指導的立場にあり、対策を講じていかなければならない立場の人々にとっては。

 日本の審判と海外の審判の間には、さまざまな傾向の違いがあると言われている。井上・鈴木の敗北に関する記事の中でも、「後から技を掛けた方がポイントになるのが最近の国際大会の傾向」(国際柔道連盟・川口孝夫審判委員/東京新聞9/14付夕刊)、「外国には反応が良すぎる場面を、見た目でポイントに取る審判がいる」(全日本柔道連盟・上村春樹専務理事/読売新聞9/14付夕刊)など、国内外の判定基準の違いに言及する専門家は多い。

 傾向の違いというだけでなく、国内大会と国際大会ではルールそのものも違う。全日本柔道連盟公式サイトの柔道資料室を開くと、「国際試合審判規定(国際ルール)解説」と「講道館試合審判規定(国内ルール)解説 」が並べて記載されている。
 たとえば、国際ルールでは「指導」は回数によって「効果」「有効」「技あり」「一本」と同等の意味を持つ(つまり4回指導を受けたら敗戦)が、国内ルールではポイントとは無関係。また、国内ルールに「効果」は存在しない。試合場のサイズや試合時間も異なる。

 海外の選手は常に国際ルールで試合をしているが、日本の選手は国内では講道館ルール、国際試合では国際ルールを使い分けることを余儀なくされる。さまざまな歴史的・思想的な背景があってこのような事態になっているのだろうけれど、現実に目の前の試合を戦う上では、これは日本の選手だけが背負っているハンディキャップだ。全日本柔道連盟は、あえて自国選手に不利になるダブルスタンダードを採用しているということになる。

 たとえばカラー柔道着の採用問題の時、あるいはこのような判定に対する考え方のギャップが(主に日本に不利な判定という形で)露呈した時、日本の柔道家たちは「外国人は柔道に対する理解が足りない」と嘆くことが多い。
 しかし海外から見れば、「『柔道』と『Judo』は違う」というのが、身も蓋もない現実なのではないだろうか。

 斎藤仁日本代表監督は鈴木の敗戦の後、「柔道じゃねえ」「こんなの政治だよ」と吐き捨てたと伝えられる。
 彼の中では、柔道と政治とは相容れない概念であり、政治は唾棄すべきものらしい。


 だが、講道館柔道の歴史を紐解いてみると、そういう考えはいささかナイーブに過ぎるのではないかと思えてくる。

 現在、世の中で「柔道」「Judo」と呼ばれている競技は、嘉納治五郎が創立した講道館柔道をいう。打撃を主としない組み手による格闘技はそれ以前にも多数存在し、多くは柔術を名乗っていた(「柔道」は嘉納の造語ではなく、講道館以前からも存在していたが主流ではなかった)。
 いくつかの流派の柔術を学んだ嘉納が、武術だけでなく智育、体育、徳育にも効果のある武道を目指して講道館柔道を創始したのが明治15年(1882)、弱冠23歳の時だ。明治18年から開催された警視庁武術大会で力量を天下に示したことから社会に認められ、海軍兵学校や学校での正課として採用され、全国に普及していった。

 こう書くと、まるで川が上流から下流に流れるが如く、柔道がその素晴らしさによって自然に広まっていったような印象を与えるが、それほど簡単はなずはない。海軍や学校の正課に採用される過程では、さまざまな交渉や根回し、プレゼンテーションや諸手続きが欠かせなかったはずだ。
 そこを順調にクリアし、並み居る他流派を押しのけて、短期間で「柔術」界を代表する存在に講道館柔道を育て上げた嘉納治五郎の手腕は、尋常ではない。嘉納の自伝を読んでも、これらの過程で具体的に何をやったのかはほとんど記されていないけれど。

 嘉納は優れた武道家であると同時に、東京帝大を卒業して学習院教授や東京師範学校(後の東京教育大、現在の筑波大の前身)校長、文部省の局長などを歴任した教育官僚でもあった。後には貴族院議員にもなっている超エリートだ。学生時代から培った政界・官界での人脈、教育行政や学校経営における手腕は、講道館の制度・組織を整備し、政府や軍、教育界によってオーソライズされていく上で、大いに役に立ったことだろう。

 嘉納はまた、アジアで最初の国際オリンピック委員会メンバーでもある。藤堂良明「柔道の歴史と文化」(不昧堂)によれば、明治42年(1909)、駐日フランス大使ゼラールが友人で近代五輪の創始者ピエール・ド・クーベルタン男爵の依頼で、アジアを代表して日本からオリンピック委員を迎えたいので適当な人物を推挙してほしい、との依頼を受けた。

<ゼラールはクーベルタンの依頼に応じて、日本国政府外務省に助言を求め諸方面に意見を求めた結果、講道館柔道創始者であり高師校長として生徒に長距離や水泳を奨励しスポーツの先覚者であるということで、嘉納が推薦されたのである。>(同書)

 すらっと読み流してしまうところだが、柔道が五輪競技に採用されたのは1964年の東京オリンピックが最初。この時点ではまだ欧州でもあまり知られておらず(欧州で最初の講道館道場「武道会」がロンドンに開かれたのは1918年)、オリンピック競技会において柔道はアウトサイダーでしかない。
 にもかかわらず嘉納治五郎が外務省や諸方面に推挙されてオリンピック委員になったのは、講道館柔道の創始者であることに加えて、東京高等師範学校校長という彼の立場が大きくモノを言っているに違いない。(注1)

嘉納は以後、オリンピック委員として精力的に活動した。五輪大会への選手の選出母体として大日本体育協会を設立し、初代会長にも就任した。ストックホルム五輪とアントワープ五輪には団長として参加。第12回五輪(1940年)を東京に誘致する上でも、嘉納の力は大きかったようだ。
 1938年、日中戦争に突入していく中で、日本での開催を危ぶむ声が強まり、IOCはカイロで総会を開いた。
<厳しい応酬の中で嘉納の必死の英語での抗弁が行われた。白熱した論議の結果、東京と札幌(冬季)両大会の開催は最終的に承認された>と「柔道の歴史と文化」は記す。諸外国の委員を相手に孤軍奮闘して、議論を現状維持まで押し返したのだ。この一事をもってしても、嘉納の交渉力の見事さが伺える。
 しかし、嘉納はこの後、カイロからアメリカを経由して帰国する最中の船上で病没。後に日本は東京五輪の開催を返上し、幻に終わる。

 恥ずかしながらこれまでは、講道館柔道の創始者で学習院の先生、という程度の知識しかなかったが、ちょっと調べてみただけでも、この嘉納治五郎という人物、実に凄い人だ。日本のスポーツ界では空前絶後の巨人ではないか。柔道だけにとどまらず、彼がいなければ日本のスポーツ界や体協・JOCの在り方、IOCにおける日本の地位は、ずいぶん今と違うものになっていたかも知れない。

 日本の柔道界の指導者たちが、嘉納治五郎の教えを学び、守り、広めるために尽力していることは疑いがないし、貴いとも思う。だが例えば、長く日本代表監督のような立場にあるような人物なら、畳の上だけでなく、畳の外で嘉納が成し遂げた超人的な偉業についても学び、受け継ぎ、同じように戦っていくことを、少しは考えた方がよいのではないかと思う。

 自分たちが世界に柔道を教えたのだ、という歴史を棚上げして現状だけを見れば、世界の「Judo」に日本だけが「柔道」で立ち向かわなければならない現在の国際大会は、並み居る「柔術」に講道館だけが「柔道」で戦った警視庁武術大会 に似ている。そのくらいの危機感を持って畳の内外であらゆる手を尽くさなければ、「Judo」を「柔道」に引き戻すことは難しいのかも知れない。


 それにしても、そもそも日本の柔道界は、何故にあれほどまでに海外に柔道を普及させることに熱心だったのだろうか。機会があれば、もう少し調べてみたい。

(注1)
嘉納治五郎がIOC委員に選ばれた経緯については、こちらにも詳しい。

(追記)2007.9.18
武藤文雄のサッカー講釈/サッカー狂から見た柔道世界選手権>というエントリで武藤さんが、サッカーの各国のスタイルの違いになぞらえて、次のように書いている。
<様々な国の人々が「柔道」を自国なりに解釈し、日本と異なるスタイルで戦ってくるところが、国際試合の面白さだと思うのだが。>
確かにそうとも言える。そう考えると、これはひとつ前のエントリ<「引いた相手から簡単に点は取れない」って、そりゃそうなんでしょうけど。>に通じる問題でもあるな。「相手が組ませてくれないから柔道にならない」と日本の柔道家たちが言い始めてから、いったい何年経つのか、と。
今朝の「とくダネ!」では谷亮子の優勝を扱ったコーナーで日下部基栄が「相手は組ませてくれない。日本の選手と組んだら負けだと思っている。それで日本の選手は苦戦している。でも、組ませてくれなくても投げられるのが亮子先輩なんです」と話していた。なるほど。

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