ドラフト89年組と社会人野球の栄光。
ヤクルトの古田敦也兼任監督が、今季限りで監督を退き、現役も引退することを発表した9/19に、広島の佐々岡真司投手も今季限りでの引退を表明した。
この2人、年齢は違うが同期入団だ。89年秋のドラフト会議で指名され、翌90年にプロデビューした。
1年目から一軍で活躍していたが、ブレイクしたのはどちらも2年目だ。佐々岡は最多勝と防御率1位の2冠に加えてチームはリーグ優勝、MVPと沢村賞にも選ばれる。古田は落合に競り勝って首位打者になった。
プロ野球の歴史も70年を超えたが、草創期を別にすれば、彼らが入団した1990年ほど優秀な新人が大挙してプロ入りし、活躍した年はほかにない。検証したわけではないが、たぶんないと思う。ほとんどの球団が、結果的に球団史に名を残す選手を獲得している。
一位指名選手を列記してみよう。
読売:大森剛(慶大)内野手
広島:佐々岡真司(NTT中国)投手
中日:与田剛(NTT東京)投手
ヤクルト:西村竜次(ヤマハ)投手
阪神:葛西稔(法大)投手
大洋:佐々木主浩(東北福祉大)投手
近鉄:野茂英雄(新日鉄堺)投手
オリックス:佐藤和弘(熊谷組)外野手
西武:潮崎哲也(松下電器)投手
ダイエー:元木大介(上宮高)内野手
日本ハム:酒井光次郎(近大)投手
ロッテ:小宮山悟(早大)投手
佐々岡、与田、佐々木、野茂、小宮山がタイトルを獲得、佐々木、野茂の2人が名球会入りしている。
一位以外の主な選手も挙げておく。
広島4位:前田智徳(熊本工高)外野手
中日2位:井上一樹(鹿児島商高)投手
中日6位:種田仁(上宮高)内野手
ヤクルト2位:古田敦也(トヨタ自動車)捕手
阪神5位:新庄剛志(西日本短大付高)外野手
近鉄3位:石井浩郎(プリンスホテル)内野手
日本ハム2位:岩本勉(阪南大高)投手
1位指名では投手優位だったが、2位以下は野手も錚々たる顔触れだ。前田と古田が2000本安打を打ち、石井もタイトルホルダー。新庄と野茂、佐々木、小宮山がMLBプレーヤーとなった。西村はプロ入り4年間で50勝を挙げ、野村ヤクルトのエースとして活躍。岩本も数字的に突出してはいないが、エースとしてチームを支えた時期がある。
MVPを獲得したのは、セで佐々岡、古田(2度)、佐々木。パで野茂(しかも新人の年)。
89年組から主力選手が出ていないのはジャイアンツ、オリックス、ダイエーの3チームか。
ジャイアンツは入団を熱望していた元木大介を回避して(2位狙いだったらしい)慶大の三冠王・大森を獲得し、世間の非難を浴びた。元木はダイエー入りを拒否し、チームに所属せずハワイで自主トレをしながら1年を過ごし、翌年ドラフト1位でジャイアンツに指名されて入団。スーパーサブ的存在として90年代のジャイアンツの顔の1人となった。
オリックスの佐藤和弘は「パンチ佐藤」の愛称で人気はあったが、活躍したとは言い難い。
新人王は、パはこの年の先発投手のタイトルを全部とった野茂、セは最優秀救援投手の与田が、それぞれ獲得した。7勝8sの潮崎、10勝の酒井、13勝17sの佐々岡、10勝1sの西村は、それぞれ運が悪かったとしか言いようがない。
なぜこの年にこれほどの才能が集中したのか。多分に偶然のなせるわざだろうが、それなりの背景もある。
この年の前年、88年にはソウル五輪で公開競技として野球が採用され、日本は決勝でアメリカに負けたが銀メダルを獲得している。84年ロサンゼルスの金メダルに続くファイナリストだ。89年ドラフト組にも、ソウル五輪経験者は、野茂、潮崎、古田、大森、2位指名で西武入りした鈴木哲がいる。
五輪代表組が大挙してプロ入りしたのは、むしろ前年の88年ドラフトだ。石井丈裕、渡辺智男、吉田修司、小川博文、野村謙二郎、苫篠賢治、中島輝士と、これも錚々たるメンバーのはずだが、プロで大成したといえるのは石井と野村くらいか。
ただ、これらの顔触れを眺めると、社会人出身者が質量ともに圧倒的に優勢を占めていることに気づく。
88年の五輪-プロ組のうち、大学生は野村と苫篠だけ。89年ドラフト組でも、プロ入り後に活躍した選手のほとんどが社会人か高卒だ。大卒で目立つのは佐々木と小宮山ぐらい。
社会人野球がもっとも世の中の注目を集め、人々に支持されていたのは、たぶん戦後まもない時期だと思うが、80年代は別の意味で、ひとつのピークだったのではないかと思う。当時の社会人野球の状況に詳しいわけではないが、この時期、アマチュア球界が代表チームの選抜と育成に特別の力を注いだであろうことは想像に難くない。
84年のロサンゼルス五輪で初めて野球が公開競技として採用され、日本は金メダルを獲得した(予選では負けたのにキューバのボイコットに伴って急遽代替出場が決まったためか、この時の代表には大学生が多い)。
88年のソウル五輪にはディフェンディングチャンピオンとして臨み、次のバルセロナでは正式種目として採用。もともと日本の国際試合はアマチュア球界のものだった。社会人球界にとって、五輪は大きな強化のモチベーションになったはずだ。
それまで国際試合には「外人は変則投手に弱い」という考えから技巧派が重視されてきたが、ソウル五輪の投手コーチを務めた山中正竹は「90マイル+サムシング」というコンセプトを立て、144キロ前後の速球と、決め球になる変化球を持つ投手を選抜した。それが野茂のフォークであり、潮崎のシンカーであり、石井丈裕のパームボールだった。
折しも日本経済はバブルの好況下。企業が野球部につぎ込める予算も膨らんだことだろう。
選手たちにとっても五輪は大きな目標となった。この時期、プロでスターになれそうな好素材の中に、「五輪に出場してメダルを取ってからプロ入りする」という目標をもって、高校・大学の卒業後にすぐにはプロに進まず、社会人入りする選手が出てきたという印象がある。
そんな才能ある選手たちが、負けたら終わりのノックアウト形式の国際大会でキューバやアメリカの強打者たちと渡り合って鍛えられた。ドラフト指名88、89年組に好投手が目立つのは、そんな経験と無縁ではないだろう。
92年のバルセロナ、96年のアトランタの後も、五輪代表選手たちはプロ入りした。そのうち社会人出身でプロで成功したのは野手が多く(大島、松中、谷、福留)、投手は80年代に比べて小粒になっている。日本代表の選抜・育成方針に変化があったのかどうかはわからない。バブル崩壊後の90年代、社会人チームを縮小・廃止する企業が相次いだ影響は、大きかったに違いない。
そして、2000年シドニー五輪でプロ選手の参加が解禁されたことで、五輪のために社会人野球入りする選手は姿を消した。21世紀にプロ入りして活躍している即戦力選手の大半は大卒だ。
今後も社会人野球で成長する選手はいるだろうけれど、五輪野球がプロのものになった今(そして五輪から野球が消える近い将来)、1989年ドラフトのような大当たりの年は、もう二度と来ることはないだろう。
89年組のうち、高卒の前田や種田(北信越リーグの宮地克彦もいる)、大卒の小宮山は健在だが、古田と佐々岡が引退すれば社会人出身者は全員が姿を消す(もっとも、野茂はまだMLB昇格を諦めてはいないに違いない)。
ま、佐々岡にはたぶん代表歴はないので、この2人に国際大会における「アマ野球・黄金の80年代」を象徴させるのは、いささかこじつけ気味ではあるのだが、2人の引退を同時に聞かされると、どうしても私は、あの大当たりの年に颯爽と登場して暴れまくった社会人出身者たちを思い出さずにはいられない。
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