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ベッテ/シマンク『ドーピングの社会学』不昧堂出版

 著者のカールーハインリッヒ・ベッテはハイデルベルク大学スポーツ科学研究所所長、ウヴェ・シマンクもドイツの社会学者。原著は1995年刊行、「近代競技スポーツの臨界点」というサブタイトルをつけた日本語版は2001年に刊行されている(木村真知子翻訳)。

 いわば一昔前の本のはずなのだが、古さを感じさせない。いや、ドイツや欧州ではすでに古くなっているのかも知れないが、日本ではたぶん1995年よりも現在の方が、この内容にリアリティを感じる読者が増えているのではないかと思う。日本のスポーツを取り巻く状況が、良くも悪くもヨーロッパに近づいてきた、ということかも知れない。

 まずは目次。

序章 ドーピング問題への社会学的アプローチ

第一部 競技スポーツの構造的ダイナミズム

第1章 無限の勝利コードと酷使される身体

第2章 周囲からの煽り

第3章 選手生活の罠

第二部 構造の結果としてのドーピング

第4章 社会的産物としてのドーピングの定義

第5章 不当なイノベーションとしてのドーピング

第6章 ドーピングへの罠

第7章 社会の競技スポーツ離れ

第三部 競技団体の問題解決策

第8章 ドーピング撲滅策とその難しさ

第9章 ドーピング問題の無視・もみ消し

展望 競技スポーツの自己変革に向けて

ドーピングに関する本はいろいろ刊行されているが、その多くは“汚れた実体を暴く!”という類のノンフィクションだ。「ドーピングはけしからん」「スポーツからドーピングを追放すべきだ」と言い切ってしまえば話は簡単なのだが、そういう正義感だけでは割り切れない何かがある、というのが、喉に刺さった小骨のように、私の中ではずっと引っかかっている。話を簡単に済ませたところで、現実のドーピング問題が解決するわけではない。

 本書では、そんな「割り切れない“何か”」を、実に丹念に掘り下げている。著者たちは過去の豊富な研究や文献に基づいて、ドーピングがいかにして生まれ、行われているのか、当事者たちとスポーツを取り巻く環境はドーピングをどのように見なしているのか、といった事柄を論じる。私がこのblogのエントリやコメント欄で示してきた疑問や議論の多くは、すでに本書の中で、ずっと高く深いレベルで論じられている。

 目次を眺めてもわかるように、著者たちは、スポーツ界にドーピングが蔓延する根本的な原因を、競技スポーツが置かれた構造にあると考えている。

 オリンピックのような競技大会における勝利の価値が高まるにつれて、競技レベルは高まり、勝つために選手は練習量を増やすことが求められる。それはスポーツ選手の職業化、さらには選手のみならず、彼をサポートするスタッフ集団“チーム○○”の出現へとつながっていく。

 また、スポーツ大会への人々の注目が高まるにつれて、政治・経済・メディアはそれぞれにスポーツを支援し、スポーツはそれらから主として財政的なサポートを得る。

 そうやって、ひとつの勝利に多くの人々の利害が絡むことになる。だが、マーケティングやビジネスのシステムが精緻な塔のように積み上げられたところで、それらが乗っている基盤は、選手の生身の身体という、いつ崩れるかわからないものなのだ。

経済行為としての投資は、必然的に配当を求める。が、スポーツにおける勝敗とは本質的に不確定なものであり、投資-配当という概念とは相容れない。その相容れないものを、あえて投資-配当の枠組みに押し込めようとする欲望が、勝利の確実性を高める圧力と化す。

つまりドーピングとは、不確定な勝利を少しでも確実なものにするための方法のひとつなのだ。かくして選手自身にとっても、周囲の利害関係者(本書では身も蓋もなく「取り巻き」と表現される)にとっても、ドーピングは有益な手段とみなされる。

 本書の中で特に興味深く感じたのは、ドーピングの定義をめぐる議論だ。

 ドーピング・コントロールの動きは、まずドーピングの本質的定義を定めようとするところから始まる。

1963年特にプロ自転車競技のドーピング・スキャンダルの後、欧州会議はもっと包括的で威力のあるドーピング定義を行った。すなわち「ドーピングは、人為的で不公正な競技成績向上を唯一の目的として、人体にないすべての物質を、あるいは生理的物質であってもそれを異常な形や異常な方法で、健康な人間に施したり用いたりすることである。さらに選手の成績向上のための心理的処方もドーピングと見なされなければならない」(Sehling u.a. 1989:18から引用)と。>P.116

 しかし著者たちは、その本質的定義がいかにして論破されてきたか、どれほど成り立ちがたいものであるかを、身も蓋もなく記している。かなり長くなるが、面白いのでかいつまんで引用する。(以下はP.116-121から)

<この定義は、ドーピングの本質規定にとって後々尾を引くことになるすべての要素を含んでいた。本質規定の決め手になる言葉は《不公正》と《非自然性》である。>

 では、競技スポーツからすべての不公正を排除することができるのだろうか。著者たちは2つの点から否定的だ。

<第一は、周知のことであるが、どんなトレーニングを始める前にも人間の身体的・心理的諸前提は依然として非常に違っているということである。>

<第二に、トレーニングにいろいろな人が関わって工夫に工夫を重ねた結果、不平等が生じることがあるのに、試合ではその点が甘く見られる。>

<勝ったのは、より優秀な選手ではなくてより良好なインフラ構造であったとしても、そのことに何の憤りも発せられないのである。それなのにこのような取り巻きの支援やインフラ構造の不平等をドーピングで是正しようものなら、奇妙にもそれはたちまち《競技スポーツの理念》に反することとされてしまう。>

24時間を競技のために捧げられる選手と、仕事の傍ら競技を続ける選手。コーチ、トレーナー、栄養士などの「チーム○○」に支えられた選手と、自分1人で練習方法を考えながらやってきた選手。この両者の間に「公正」が存在するといえるだろうか。

 そして、著者たちは、ラディカルな思考実験によって「不公正だからドーピングは禁止」という考え方にとどめをさす。

<試合の参加者全員が同じだけドーピングをしたら、どうだろう。機会均等をアンフェアに損なうものだとしてドーピングを追放する試みは、たちまち挫折するだろう。>

 となると、残るは「非自然性」=「不自然性」だ。しかし、これも突き詰めていくとおかしなことになる。

 誰しも思い当たるであろう健康への悪影響を理由にドーピングを定義することは、実はなかなか難しい。

 

<第一に、ドーピングなら何もかも健康に悪いというわけではないからである。その一方で、ドーピング以外で認可され実践されている種々の競技力アップの方法にも有害な結果を引き起こす可能性はかなりあるのである。>

 また、そもそも「選手の健康のため」という理由で禁止事項を設けること自体に問題がある、という。

<選手のためだとしたり顔で庇護者を気取るのは明らかに越権であり、近代になって大きな意味を獲得した個人の自律という理念に逆行する。>

 というわけで健康問題は理由にならない。

<そのかわりに、関係者は《不自然性》を《人為性》と結びつけようとした。>

 しかし、「人為性」というキーワードにも無理がある。

<ここで挙げてきた競技力向上のファクター(引用者注:コーチ、設備、トレーニングやメディカルケアなど)は、選手の社会的環境に由来し選手自身に由来するものではないという意味で、禁止されている薬理学的物質と同様に《人為的》である。それにもかかわらず、薬物の場合は誰もが不正な競技力向上だと考え、すでに実施されているトレーニング方法の場合は誰もそう考えない。>

 つまるところ、ドーピングの本質を定義することは事実上不可能となった。かくして、アンチ・ドーピング運動は、いつ果てるとも知れない禁止薬物リストを作ることに力点を移していく。

 しかし、禁止薬物が指定されるということは、そこに載っていなければ何を使おうと処罰されることはない、ということでもある。

<本質的定義は、曖昧で大した威嚇力もないから有用ではなかった。それに対して列挙的定義は、たしかにそれなりのコントロール力があり警告的である。しかしそれは他方で、何の良心の咎めもなく工夫を凝らしてドーピング禁止と渡り合おうという気にさせる挑発を暗に含み込んでいる。>P.127

 結局、ドーピング・コントロールの試みは、禁止薬物の証拠隠滅方法や新たな薬物を開発しようとする側と、それらを発見し禁止リストに加えようとする側との、果てしない競争となる。ただし、前者は成功すれば莫大な報酬に結びつくけれど、後者はどこまでいっても莫大な費用を使い続けるばかり、という条件の差が、完全なコントロールの実現を絶望的なものにしている。それが95年に書かれた本書の現実認識だ。13年後の今はどうなっていることだろう。

 このほか、選手たちがドーピングに走る心理や、利害関係者たちがいかにしてドーピング共同体を形成し、事態の発覚を妨害してきたか、についての記述は、ほとんど固有名詞が出てこないにもかかわらず、きわめてなまなましく描かれており、背後に豊富な実例とその研究・報告の存在を思わせる。

 ドイツはドーピングに関してはいささか特殊な立場に置かれた国だった。かつては共産圏のドーピング大国・東ドイツと対峙して、その卓越した成績と比較される立場に置かれ、後には東西統一によって、その国のスポーツ界を受け入れることになった。ドーピングに関する経験も問題意識も研究も、他国に先んじているとしても何の不思議もない。そんな国の研究者たちだからこそ書きうるようなリアリティが本書の随所から感じられる。

60年代以降、勝利コードの無限上昇性と停滞気味の選手の身体性の間に横たわる溝を何とか埋め、国際的な舞台で自国の選手たちが活躍できるように最適化する試みが始まった。この時から走り出した科学化の趨勢は、このような背景とともに理解されるべきである。>

<国際的な競技スポーツの舞台で敗北を喫し、それがきっかけでスポーツの専門的知識が切に求められた、ちょうどその時期に、西ドイツではスポーツ科学が分化独立し軌道に乗せられたのである。西ドイツ・スポーツの《スプートニク・ショック》は1968年メキシコ・オリンピックの時に起こった。この時、はじめて東と西に分かれてドイツ選手団は出場したわけであるが、東ドイツが圧勝したのである。>P.40

 この文脈の中では、批判する人はほぼいないと思われる科学的トレーニングとドーピングの差は、ほんのわずかなものでしかない。

 このようにして本書では、ドーピングがいかに現在の競技スポーツがおかれた社会的環境と構造的に結びついているか、いかに排除が困難かということを繰り返し論じている。当然ながら、明快な処方箋を与えてはくれない。

 ただし、ドーピングを防ぐための唯一にして決定的な鍵は、本書の中にも示されている。

それは、観客の存在だ。

<スポーツ行為は身体が関わるので、視覚化しやすい。その点で、スポーツ行為は後追いしやすい行為である。この目で見ることができるということがまさに観客を惹きつけるのである。観客は何が起こっているのかを見て自分で判定することができる。>

<クラブや競技団体の舞台裏で何が起ころうとも、スタジアムでは観客の目の前で誰が優れ誰が劣っているのかが決定される。

 ドーピングの暴露はまさにこのような観衆の期待を裏切る。>P.213

<競技スポーツに対する世間の感性がパラダイム変換を遂げてしまうと、それは取り巻きたちの競技スポーツ離れへとつながっていく。というのも、取り巻きたちが競技スポーツで得る利益は《潔白》なスポーツ像に依存しているからである。問題はドーピングが存在することにあるのではない。それは選手自身が担うことである。政治・経済界にとってはドーピングが風評になることだけが問題なのである。風評になると、組織スポーツはスポーツ外の関係グループとの取引の際に大きくものをいうはずの不可欠の潜在的魅力を失ってしまうのである。

 ドーピングは、大衆がスポーツに寄せてきた興味を駆逐する。>P.222

 政治・経済・メディアが一体となってスポーツを支援し、そこから引き出してきた利益の源泉は、ひとえに、多くの人々がスポーツに強い関心を抱いている、という状況に依存している。その前提がなくなれば、このシンジケートは崩壊する。

そして、スポーツを好む観客の多くは、上述のようなドーピングの本質的定義がいかに論理的に成立困難なものであろうとも、それらを飛び越えて、理屈抜きでドーピングを嫌っている。観客がドーピングを是認しない限り、選手や利害関係者たちは、どう言いつくろったところで、彼や彼女を応援している観客を裏切っているのであり、それが発覚すれば、選手はすべてを失う。

 ドーピングに一定の歯止めをかけることのできる最後の障壁、それは、「嘘だといってよ、ジョー」という昔ながらの少年の無垢な一言なのかもしれない。少年少女がいつまでも無垢でいてくれればの話だが。

 最初の方にも書いた通り、これまで当blogのエントリやコメント欄でドーピングについて触れてきた問題の多くが、本書では整理されて深く議論されている(答えが与えられている、というわけでは必ずしもない)。

 ドーピングの歴史や具体的事例はあまり記されていないけれど、ドーピングについて考える上での筋道を手に入れたい人にとっては絶好の入門書である。この夏、北京で起こるかも知れないいくつかの出来事を理解する上でも、下の「オリンピック全大会」とともにお薦めする。

関連エントリ

ホゼ・カンセコ『禁断の肉体改造』ベースボール・マガジン社

「756*」。

ミッチェル・リポートのざっくりした感想。

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コメント

ミッチェル・レポートに端を発したドーピング論議には首をかしげるものが多かったのですが,この記事を読んでもやもやしたものが晴れたような気がしました.ドーピングを生むメカニズムの考察は説得力があると思います.観客がスポーツに「見かけの潔白さ」(公平という幻想と言った方がいいのでしょうか)を求めていて,それに反する行為であるからドーピングは非であるという論も,これまでで一番納得しやすいものでした(全面的に納得したわけではありませんが).

ただ,ドーピングに対する抑止力を観客の視線に求めるのは,苦肉の策とは言え,ちょっと希望的観測のように思います.

基本的な利害関係が変わらない限り,いかに世間の目が厳しくなり違反者が厳罰に処されようとも,成功を渇望する欲望は抑えきれないでしょう.失うものは何もない(と本人たちが思っている)下積みの選手たちは数え切れないほどいます.

また,残念ながら現代の観客はすでに禁断の果実を手にして,無垢な精神を失ってしまったように思います.アマチュアスポーツがどんどんプロ化をして勝利圧力が増大するにつれ,観客の意識も勝利至上主義が強くなって,公平性の概念が希薄になっているような気がします.

投稿: さへき | 2008/04/03 10:09

>さへきさん
>ただ,ドーピングに対する抑止力を観客の視線に求めるのは,苦肉の策とは言え,ちょっと希望的観測のように思います.

苦肉の策というより、それ以外に抑止力になりうるものがない、ということでしょう。希望的、というのはおっしゃる通りです。

本書には、ドイツの十種競技の選手たちが連名で「自分たちはドーピングをしない」と宣言し、競技団体に検査を要求したという動きについても紹介しています。選手自身がそのように自浄力を発揮するのは最良のシナリオですが、規模の小さい競技だから成り立つ話かもしれません。


投稿: 念仏の鉄 | 2008/04/04 01:56

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