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2008年4月

44年前の聖火リレー。

 市川崑監督の映画『東京オリンピック』の冒頭では、確か、アジア各国を東京に向かって走る聖火ランナーの姿が映し出されていた記憶がある。

 調べてみると、1964年の東京五輪では、確かに聖火がアジアを通過している。
 ギリシャ・オリンピアのヘラ神殿跡で採火式が行われたのが8/21。ギリシャ国内を走ってアテネに着いた火は、“シティ・オブ・トウキョウ”と名付けられた特別機で東京に向かったのだが、直行したわけではない。JOC公式サイトの東京五輪特集ページには、こう記されている。

<ギリシャから日本までは、イスタンブール(トルコ)→ ベイルート(レバノン)→ テヘラン(イラン)→ ラホール(パキスタン)→ ニューデリー(インド)→ ラングーン(ビルマ)→ バンコク(タイ)→ クアラルンプール(マレーシア)→ マニラ(フィリピン)→ ホンコン(ホンコン)→ 台北(台湾)と、11の中継地を経て、9月7日に沖縄に到着した。>

 このページにはルートの地図も載っている。途中まではともかく、ビルマ(現在はミャンマー)から東は、第二次大戦の戦場となった地域だ。戦争の終結から19年目。各地には、複雑な思いで聖火を見送る人もいたのではないかと思う。


 東京五輪の聖火リレーは、なぜこのようなコースを辿ったのか。
 NHKのテレビ番組「その時歴史が動いた」では、昨年1月に、「東京オリンピックへの道 ~平和の聖火 アジア横断リレー~」と題して、この聖火リレーを取り上げている。残念ながら私は見ていないが、番組サイトに概要が示されている。

<戦争で多くの教え子を失った田畑は、戦後、平和の祭典としてのオリンピック開催に再び挑戦する。しかし待ちかまえていたのは、アジア諸国の根強い反日感情だった。
田畑は、日本が平和な国を目指していることを伝えるため、戦争被害を与えたアジア諸国を10万人の手でつなぐ大聖火リレーを計画した。アジアの人々は東京への聖火を受け入れてくれるのか。
平和の祭典を目指した東京オリンピック、その知られざる長く険しい道のりを描く。>

 「田畑」とは当時の日本水泳連盟の田畑政治会長。元朝日新聞の記者・役員で、JOCの幹部、1964年の東京五輪誘致の中心人物のひとりだ。1940年の東京五輪(戦争のため中止)誘致にも尽力したらしい。


 番組は、“聖火リレーは成功、平和ニッポンはアジア諸国に受け入れられました、めでたしめでたし”というトーンでまとめられていたらしい。「テレビ批評的視聴記」というサイトでは、そのようなまとめ方に疑義を呈している。 
<侵略戦争の許しや反日感情をスポーツ大会で測る(悪く言えば請う)というのは、田畑の考えたスポーツと国際問題の別離とは言えないものである。オリンピックや競技大会を平和のアピールの場にしようという発想の起点からして、論理的には国威発揚や代理戦争と性格を同じくするものである。>

 まっとうな見解だと思う。NHKの番組サイトに紹介されている田畑の言葉は、国威発揚のために五輪を利用しようという点で、終始一貫している。

 東京五輪における最終聖火ランナーは早大陸上部の選手、坂井義則だった。五輪代表になれなかった一陸上選手が、大会を象徴する最終走者に選ばれた理由には、彼が、広島市に原爆が投下された日に、広島県内(山間部の三次市)で生まれたことが大きく影響している。
(「最終聖火ランナーは原爆の落とされた広島出身の人にやってもらいたい」という田畑の言葉も残っている)

 要するに、東京五輪の聖火リレーは、コース選定から最終走者まで、全体が政治的アピールの場として設計された示威活動だった、と言うことができる。
 “平和の祭典を開催することで、平和を愛する平和国家に生まれ変わったことを世界に知らせたい”というのは、あくまで日本の主観的な目的であって、相手がそのように受け取ってくれたかどうかは、また別の話だ。

 上記のNHK番組サイトの中に、戦後の五輪誘致に際して田畑と岸信介の間にあったやりとりが紹介されている。
<「平和を願ったオリンピックを開催すればアジアの国々も日本は変わったと感じてくれる」「戦争を起こした日本が、都合よく世界平和などといってオリンピックを開催できるような立場ではない」>
 「日本」を「中国」に入れ替えれてみれば、私の心情は岸に近い。同じように感じる人も多いのではないだろうか。


 オリンピック大会における聖火リレーは、ヒトラー政権下のドイツで開催された1936年のベルリン大会に始まる。以後、採火したギリシャから開催国までは何らかの交通機関を利用しつつ運ばれ、国内では走者によってリレーされるのが通例だった。上述の東京大会も、その原則から大きく外れてはいない。
 聖火リレーが世界各地を巡ったのは、2004年のアテネ大会が初めてで、過去の五輪開催都市を中心にリレーが行われた。

 1896年の第1回以来、ほぼ1世紀ぶりに発祥の地で開催される記念大会のために特別に行われた行事を、北京五輪で踏襲する理由が、IOCの側にあるとは考えにくい。北京側の強い意思によるものだろうし*、それが今、こうして墓穴を掘っている。
 そう嗤ってしまうのはたやすいのだが、こと聖火リレーについていえば、我々がやってきたことも、今の中国とそう大きな違いはない。


 上の方に引用した東京オリンピックの聖火リレーのルートをよく見てもらうとわかるが、東京への聖火は中国を通ってはいない。
 中国が拒否したとか日本が遠慮または警戒した、というわけではない。
 中華人民共和国が成立し、中華民国政府が台湾島に移った後もIOCが中華民国の加盟を認めていたことを不服として、1958年に中国はIOCを脱退した。復帰するのは1979年。そのため、東京五輪に中国は参加していない。不参加国を通る必要もないから、聖火リレーのコースに中国を加えるという選択肢は、最初から存在しなかったと思われる。

 もし東京オリンピックに中国が参加していたら、聖火リレーは中国を通っただろうか。その時、聖火は無事に中国を通過することができただろうか。
 長野での聖火リレーのテレビ中継を見ながら、そんなことも考えた。


*
スポンサーの意向が影響した、という報道もある。
http://office.kyodo.co.jp/sports/olympics/beijing/47news/034746.html

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カルラス・サンタカナ・イ・トーラス『バルサ、バルサ、バルサ!』彩流社

 FCバルセロナの本拠地カンプ・ノウ・スタジアムのバックスタンドには、MES QUE UN CLUBというカタルーニャ語の文言がくっきりと記されている(正しくはMESのEの上に’がつく)。
 英語でいえばMORE THAN A CLUB。「単なるクラブ以上のもの」という意味だという。
 これはこのクラブの標語のようなもので、FCバルセロナ周辺のいろんなところで目に付く(たとえば公式サイトのクラブ名の下にも記されている)。

 「単なるクラブ以上のもの」とはどういう意味か。なぜFCバルセロナは「単なるクラブ以上のもの」なのか。
 そんな疑問に回答を与えてくれるのが本書だ。

 日本語版の副題が「スペイン現代史とフットボール 1968〜78」。原題は、直訳すると「バルサとフランコ体制 カタルーニャにとって決定的だった数年間の年代記(1968〜1978)」という意味になるという(訳者の山道佳子が、なぜこういう邦題をつけたのかはよくわからない)。そのへんからもわかるように、これはスポーツライティングというよりは歴史書だ。
 スペインにおいて、バルセロナを州都とするカタルーニャ州は、独自の歴史と文化、言語を持つ地域で、今も独立を志向する動きがある。FCバルセロナは、そんなカタルーニャの地域性を代表するサッカークラブでもある。
 バルセロナ大学地理歴史学部教授で現代史が専門の著者は、クラブにまつわる豊富な史料と当事者たちへのインタビューに基づいて、FCバルセロナがいかにしてカタルーニャの地域性を代表するに至ったかを描き出す。

 20世紀初頭の内戦の後、フランコが独裁体制を築くと、スペインはマドリードを首都として中央集権化した。フランコが率いた反乱軍にとっての敵対勢力、共和国側の拠点だったのがバルセロナだった。そのためか、フランコ独裁体制が確立すると、カタルーニャは政府から強く危険視され、当初はカタルーニャ語を用いることも、自治を要求することも禁じされていた。

 そんな状況下で、カタルーニャの人々が公然とカタルーニャへの愛国心を発露することのできた数少ない(もしかすると唯一の)場が、FCバルセロナのホームスタジアムだった。FCバルセロナの会長ジュアン・ラポルタは日本語版への序文に、フランコの独裁体制下について、こう書いている。
<民主主義やカタルーニャ主義といった価値にとって、私たちのクラブが数少ない避難所のひとつとなった時代>

 とはいうものの、スポーツやサッカーの世界が政治から自由だったかといえば、そんなことはない。内戦以前はプライベートな活動だったスポーツは、フランコ独裁体制下では、独裁政党ファランヘの「国民スポーツ局」によって管理されることになる*。国民スポーツ局は各競技連盟の会長と副会長の任免権を握り、会長は地方連盟の会長・副会長を指名するという中央集権体勢がスポーツ界にもできあがった。

 そして、その体制の下では、FCバルセロナは何かにつけて連盟から苛められ、タイトルがかかった重要な試合では必ず審判がバルサに不利な判定を下し、外国人の獲得などのクラブ運営においても不利な裁定を下されることが多かった、とバルセロナの人々は考えている。逆に、常に優遇されたのが首都のクラブ、レアル・マドリードだ。この本を読むと大抵の人はレアルが嫌いになるだろう(笑)。
(もっとも、英国人フィル・ボールがスペインサッカー事情について書いた『バルサとレアル』では、それらはあくまでカタルーニャ人の主観的な見解とされている)

 だから、ラポルタがいう<避難所>は、決して安全かつ安泰な場であったわけではない。バルサが<避難所>たりうるために、歴代会長や役員たちは絶えず戦わなければならなかった。本書は、彼らがいかにしてクラブのカタルーニャ性を拡張してきたか、いかにして政府や連盟の抑圧と戦ってきたかを、過去の新聞雑誌や関係者たちの書簡、そして直接の証言などをもとに明らかにしていく。

 ピッチの上でのプレーについてはほとんど記されていないけれど、唯一ヨハン・クライフだけはクラブ史上の重要人物として登場する。
 それまでスペインリーグでは外国人選手は中南米のスペイン移民の子孫に限って許されていたが、実際には抜け道はいくらでもあったらしい。しかし、他クラブと同じように書類をでっちあげて移民の子を装わせた選手の獲得を却下されたことから、バルサはスペインフットボール連盟に国籍制限の撤廃を働き掛けて、ついに実現させた。
 そんな経緯があるだけに、意地でも世界一の選手を、と狙ったのがクライフである。1973年のシーズン途中に加入したクライフはすぐに大活躍し、クラブを13年ぶりの優勝に導いて、FCバルセロナの名を世界に轟かせた。まもなく生まれた長男につけた名前JORDI(ジョルディ)はカタルーニャ人にとても多い名でもある。クライフが今なおバルセロナで特別な存在であるというのも、わかる気がする。

 75年にはフランコがこの世を去り、スペインでは王制復活と民主化が進んでいく。カタルーニャは自治を取り戻す。以来30年、FCバルセロナは今も「単なるクラブ以上の存在」としてそこにある。今では、ユニセフへの支援と結びつき、貧困に立ち向かうクラブ、という意味合いも帯びているようだ。


 以上をお読みいただければわかるように、これは「スポーツに政治を持ち込んだ」クラブの歴史である。スポーツに政治を持ち込むのが悪なのであれば**、FCバルセロナは厳しく非難されるべきだろう。事実、独裁政権下でのバルサは、そのような批判を何度も受けている。そのような事実をどう捉えればよいのだろう。
 著者のサンタカナは「はじめに」の中で次のように書いている。

<スポーツの世界には、政治とスポーツは混同すべきではないと力説する指導者たちが多くいることを私は知っている。(中略)多くの場合そこには、民主体制の到来のために指一本さえも動かさなかった人たちの名前が連なる>
<スポーツへの政治の介入に反対する人たちは、実際のところある特定の「政治」に反対しているのであって、あらゆる政治、たとえば自分たちの「政治」はそれには含まれないのだ。>(P.9)

 本書の日本語版の刊行は2007年6月、原著は2005年にカタルーニャ語で出版されているから、著者がこれを書いた時には、2008年春に北京五輪の聖火リレーが走る先々で起こった出来事など知る由もない。
 けれども、このサンタカナの言葉は(とりわけ後半は)、「政治をスポーツに持ち込むべきではない」と言い続ける中国政府に対して、そのままあてはめることができる。

 本書を読めば、たいていの人が「バルサ万歳! カタルーニャ万歳!」と叫びたくなると思うけれど(私も多少なっている)、冷静に考えれば、スポーツクラブがこのようにエスニシティや愛国心と直結することを全面肯定してよいものかどうか、というためらいが私にはある。権力者がスポーツに政治を持ち込むのはダメだが反権力ならいい、というほど単純な整理もしづらい。例えば、木村元彦が描いてきたユーゴスラビア・サッカーにおけるクラブ愛と愛国心との結びつきのうち、どれが権力でどれが反権力か、などという判別ができるだろうか。

 ただ、たぶんこういうことは言えるのではないかと思う。
 フランコ政権のようにスポーツを政治の道具として利用しようとした者は、しばしばそこから強烈なしっぺ返しを食らう***。
 スポーツが帯びている政治性は、小賢しい知恵で利用できるほど生やさしいものではないのかも知れない。

*
1992年のバルセロナ五輪の際にIOC会長だったファン・アントニオ・サマランチ(本書によると正しくは「サマランク」だそうだ)は、この国民スポーツ局長を務めていた。バルセロナ出身のカタルーニャ人ではあったが、中央政府内での自身の立場を守るためにカタルーニャには冷淡に振る舞った人物、という印象を本書からは受ける。

**
わたし個人の中にはスポーツに政治が介入することに対する強烈なアレルギーがあった」と書いたスポーツライターがいるが、彼は一時期バルセロナに住んでいたはずだ。FCバルセロナが備えているこれほど強烈な政治性については何とも思わなかったのだろうか。不思議だ。

***
中国政府も以前、サッカーのチベット代表チームがデンマークで試合を行うことを阻止しようとして、かえってデンマーク全土に試合の開催を宣伝してしまったことがある。詳しくはこちら。今回の聖火リレーの経緯を見ると、彼らはデンマークでの出来事から何も学んではいないようだ。

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