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伴走者が脱落する時。

 スポーツライターの石田雄太に『メダルへの伴走者』(出版文化社)という著書がある。1998年、ちょうど10年前に刊行された本だ。96年のアトランタ五輪、98年の長野五輪(刊行は大会直前の1月末だから、試合結果は反映されていない)を題材に、スケート、スキー、陸上など、主要な五輪競技における用具開発者たちの歩みを描いている。

 最終章の第六章では、「気まぐれな人魚の水着」と題して、アトランタ五輪に臨んだ水着メーカーの苦闘が描かれている。

 当時の水連は、五輪においてミズノ、デサント、アシックスの3社から水着の供給を受けていた。ただし、大会ごとに男子競泳、女子競泳、その他(シンクロ、水球、飛び込み)の3部門に分けて、持ち回りで供給を依頼していたようだ。
 とはいうものの強制力はなく、選手が「普段着ているこのメーカーの水着がいい」と言い出せば、誰にも止めることはできなかった。予選での泳ぎに納得できなかった選手が、決勝で突然、別の水着を着てプールサイドに現れる、ということも充分に起こりえた(事実、ソウル五輪での鈴木大地は、水連が決めた水着でなく、普段から着慣れていた別のメーカーの水着で決勝に臨み、金メダルを取った、というエピソードが紹介されている)。
 だから、供給メーカーの担当者たちは、選手たちが最後まで自社の水着を使ってくれることを祈りながら、スタート台に立つ選手を見つめることになる。本章は、そんな知られざる苦労が軸になっている。

 10年後の6月。五輪代表選手たちにSPEEDO社のLZR RACER(レーザー・レーサー)着用を認めるか否か、という論争は、個々の選手の選択に任せる、という結論で決着した。性能に明白な差が認められる以上、合理的な結論だと思う(水連は時間をかけすぎた、という批判はありうると思うが)。


 今、『メダルへの伴走者』を読み返してみて思うのは、水連と水着メーカーとの取り決めが当時のような緩いものであれば、そもそもこういう論議は起こりえなかった。選手がレーザー・レーサーを着る、と決めれば、それまでだったからだ。
 水連と3社との契約がどのように変わったのか具体的には知らないが、10年前よりも水連に提供される利益は大きくなり、その分、水着着用を義務づける拘束力が強まった、ということなのだろうと思う。それ自体は特に悪いこととは思えない。
 また、メーカーが選手個人と契約を結ぶ、ということも、当時は行われていなかったのではないかと思う。競泳のアトランタ五輪代表選手はほとんどが学生で、数少ない社会人選手も、所属チーム名を出身校で登録している選手が多い。水泳の強化を担ってきたのは、あくまで学校とクラブだった。


 とはいうものの、メーカーの開発競争じたいは、今に始まったことではない。『メダルへの伴走者』にも、水着の開発史が紹介されている。

<一九八四年のロサンゼルスオリンピックの頃から、開発者たちの主眼は「水と水着との摩擦抵抗」というところに向けられ始めた。女子競泳の水着は、ここ十年、飛躍的な進化を遂げてきたといわれるゆえんである。
 デサントと常に開発の先頭を競ってきたミズノが、イギリスのスピード社とライセンス契約を結んで販売している<SPEEDO(スピード)>という水着ブランドでは、一九八八年のソウルオリンピックのために、新素材「アクアピオン」を開発した。
(中略)
 その翌年の一九八九年には、デサントが巻き返す。アディダス社と提携するブランド<arena(アリーナ)>で、超極細ポリエステル製の糸を使った新素材「ストラッシュ」を開発、表面の凹凸を極端に減らすことに成功したため、水の抵抗をこれまでの自社のものから一二パーセントカットできるようになった。
 また競泳用水着のサプライに新規参入してきたアシックスも、一九九二年に世界初のポリプロピレン、ポリウレタン混合の新素材を使った<P2>で、水を吸わないポリプロピレンの特性を生かして、水の抵抗を抑えにかかった。>

 これほど細かい話を知っているのは関係者だけだろうが、オリンピックのたびに選手たちが身に付けている水着の形状が変わっていくことには、普通の視聴者も気付いているはずだ。
 道具の性能によって成績が変わることは、スポーツ界では少しも珍しいことではなく、それは競泳においても例外ではない。

 にもかかわらず今回のレーザー・レーサーが日本の水泳界に大きな衝撃をもたらしたのは、その成績向上幅の大きさもさることながら、それが日本以外のメーカーから登場したことにあったのではないかという印象を、私は持っている。

 上の引用部分で気付いた方も多いと思うが、かつてミズノは日本におけるSPEEDOのサプライヤーだった。両社の契約が解消されたのは昨年の今ごろのことらしい。Wikipediaの記述によると、世界的なブランドとしてのSPEEDOの成功において、ミズノの技術力が寄与した面はかなり大きなものだったようだ。

 だが、ミズノは創業100周年を機に、SPEEDOとの契約を解消し、自社の水着ブランド「ミズノスイム」を立ち上げ、看板選手として北島康介とや武田美保と契約し、チームも結成した。自社の技術力をもってすればSPEEDOを凌駕できる、という自信もあったのだろうと思う。
 書いている方の素性は不詳だが競泳水着事情に非常に詳しいblog「ぱ〜まねんとヴァケーション」の、契約解消以前に書かれたエントリからも、そのような周囲の評価がうかがえる。

 レーザー・レーサーが発表されたのが今年2月。3年をかけて開発した、と謳っているから、ミズノと提携していた当時から開発は始まっていたことになる。ミズノがこの新型水着の存在をどこまで把握していたのかはわからないが、結果からいえば、レーザー・レーサーの存在が、SPEEDOをミズノとの契約解消に踏み切らせた、という面もあったのだろう。

 いわば、見限った相手から強烈なしっぺ返しを食らったようなものだから、ミズノにとっては衝撃も大きかったに違いない。
 水野正人会長はJOC副会長でもあるから、日本のスポーツ界および水連への影響力も当然ながら大きいはずだ。レーザー・レーサーの出現から、昨日の「五輪での着用容認」決定まで、外部から見れば動きが鈍いのではないかと思えるほどの時間をかけて、水連が慎重に検討を進めてきたのは、このミズノの存在の大きさとも無縁ではないだろう。上に紹介した「ぱ〜まねんとヴァケーション」の最近のエントリでは、契約解消の経緯に触れつつ、ミズノの姿勢を厳しく批判している。ここに書かれたミズノの政治力行使ぶりがどの程度事実なのかはわからないが、ありそうな話だと思わせるだけのリアリティはある。
 とはいうものの、最終的にはレーザー・レーサー容認という結論が出たのだから、現時点でこれ以上の批判は無用だろう(今後の水連のオフィシャルサプライヤー契約のあり方については、この教訓を反映したものにしてもらいたいが)。あとは本番までにどこまでその性能に迫れるか、ミズノにもデサントやアシックスにも期待したい。


 ただし、水連は容認しても、メーカーと契約している選手にとっては、すんなりレーザー・レーサー着用というわけにはいかない。彼ら彼女らは、五輪でそのメーカーの水着を着用することが義務づけられているはずだ。
 今朝(6/11付)の読売新聞の解説に、こんな一説がある。

<問題は弱い立場にいる契約選手だ。ある代表関係者は「契約があるため、公の場でLZR着用希望を言えずに困っている選手がいる」と打ち明ける。メーカーが開発競争で敗れたことに起因する話とはいえ、双方に不幸を招いてしまった。>

 読売の記事では、水連は「各社と個人の話。その過程で問題があれば(水連として)相談に乗る」とコメントしている。解説記事は<水連が選手を守りたいのなら、今こそ水泳界の指導者として積極的な問題解決に乗り出すべきだ。>と不満そうだ。

 率直にいうと、こういう論調には違和感を覚える。
 選手とメーカーとの契約には、水着のほかにもさまざまな利便の提供が含まれているはずだ。選手は、水着を含めて、そのメーカーが供給する競技環境がベストだと判断したから契約を結んだのではないだろうか*。F1レーサーがシーズンの途中で「あっちのチームのエンジンの方が優秀だから、あっちに乗り換える」と言い出すようなものだ。

 もちろん選手にとってもメーカー側にとっても難しい局面ではある。自社製品で勝ち目の薄い戦いに挑むべきか、他社製品でもメダルを獲得できる可能性が高い道を選ぶべきか。どちらを選んでも完全な満足は得られない。
 だが、メーカーと契約し、事実上のプロ選手として競技活動を続けているのであれば、そこは選手自身がメーカーと正面から話し合い、最善の道を探るべきだろう。
 上にリンクした「ぱ〜まねんとヴァケーション」には、オランダの強豪ピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドが契約メーカーに違約金を払ってレーザー・レーサーを着用している、と紹介されているが、それもひとつの解決方法だ。

 そのような大人としての話し合いができないのであれば、選手は、水着だけを提供されていた10年前と同じ位置に戻るしかないのではないだろうか。

 善くも悪くも、この10年でアマチュアスポーツ界はずいぶんと遠いところまで来てしまった。選手にとっても、伴走者たちにとっても。


*
 この一連の議論は、あくまで、選手が最高水準の競技環境を契約メーカーから提供されている、という仮定のもとに書いている。もし、契約はしていてもアルバイトしないと食べていけない、なんてレベルであれば別。
 また、昨年5月以前にミズノと契約した選手も、同列にはとらえられない。北島康介が最初にミズノと契約した時、彼はSPEEDOのアドバイザリースタッフだった。途中で水着を変えたのはミズノの方なのだから(途中で話し合いはあったのだろうけれど)、北島に選択肢を与えないようでは道義的に疑問だ。

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