« 2008年6月 | トップページ | 2008年8月 »

2008年7月

新聞が崩壊した後のニュースについて。

 はてなブックマークで目についた「新聞業界 崩壊の理由5つ、いや6つ」というエントリを読んでみた。紙媒体の人間としては関心を抱かざるを得ない話題ではある。
 エントリには、毎日新聞の英文サイトでの不祥事をマクラに、標題通りの内容が記されている。

 筆者のChikirin氏が挙げる「崩壊の理由」は以下の通り。

1.市場の縮小
2.マス広告価値の低下
3.販売システムの崩壊
4.編集特権の消滅(価値判断主導権の読み手への移転)
5.記者の能力の相対的かつ圧倒的な低下

 1-3はなるほど的を射ているように思う。
 5は特に根拠を示して論じられているわけではないので、感想はない。


 ちょっと気になったのは4の部分。
 内容の説明としては、以下のようなことが書かれている。

新聞の権力性がどこにあるかといえば、それは「どの記事を紙面に載せるか」という判断権を持っているという点にあるわけです。何を載せ何を載せないか、何を一面にして何を後ろに持ってくるか、それぞれの記事をどの大きさで報じるか。

 これらを通して新聞はそれぞれの事件なり出来事の「価値判断」をするという特権を持っていた。「彼らが大事だと思ったことが一面のトップで大々的に取り上げられ」、たとえちきりんが「これは大事!」と思っても、新聞社がそう思わなければその記事は葬り去られる。これは絶大な権力であったわけです。

ところがネットの出現でこの特権が失われます。

 第一にネットには「紙面の量の制約」がありません。どの記事を載せるか載せないか、という判断は不要なんです。全部掲載しても誌面が足りなくなったりはしない。

 次に一面という概念がない。確かにウエブにもトップページや特集ページはあります。しかし読む人の大半は「検索」したり好みのカテゴリーから順に読み始める。何を大事と思うかは、新聞社ではなく読者が決めるということになった。

 「編集権」が意味をなくした瞬間でした。「デスク」と呼ばれる権力者は、社会の権力者から「新聞社内だけでの権力者」に格下げされたのです。


 このような「新聞ダメ論」をネット上で読む機会は多いのだが、読むたびに思うことがある。ちょうどよいきっかけなので書いておく。

 このエントリに書かれていること自体には、大筋では異論はない(細かいことではいろいろあるが話がそれるので省略する)。
  Chikirin氏が<ニーズがなくなった商品が生き残れることはあり得ないのです。>と書いている通り、世の中の多くの人が新聞を必要としなくなれば、新聞はなくなるだろう。それはそれで仕方がない。

 気になるのは、ここに書かれていないことだ。
 Chikirin氏がいうように新聞業界が崩壊して新聞がなくなったとすると、その後の世の中はどうなるのだろう。
 「世の中は」というより、「世の中のニュースは」どうなるのだろう。


 「ニュースはネットで読むから新聞は要らない」という人は多い。ひとりひとりの行動としては合理性がある。
 ただし、彼らがネットで読んでいるニュースのほとんどは、元をただせば新聞社がポータルサイトなどに売っているものだ。新聞社がなくなれば、それらのニュースも提供されなくなるから、今と同じものを「ネットで読む」ことはできなくなる。

 ま、そうは言っても、ニュースを集めて記事を売る、という商売には需要があるだろうから、新聞紙はなくなっても新聞社は存続する可能性はあるし、ニュースが消滅するということには、たぶんならない。
 ただし、そのような形での収入が、現在の新聞社が読者と広告主から得ている収入に匹敵する規模に成長するとは考えにくい。つまり、業界のパイは小さくなる。
 とすれば、ニュースを売る企業どうしの競争はあまり活発でないものになりそうだし、それぞれの企業がニュースの生産に投資できる額も減る。提供されるニュースの品質は悪化すると考えるのが自然だ。ひょっとすると少数のニュース企業による寡占化が、今よりも進むことになるかもしれない。


 そういう形でニュースが流布するようになり、新聞というパッケージがなくなるとする。Chikirin氏が言うところの<編集特権の消滅>した状態がデフォルトになった状況だ。

 そんな状況を想像することは、新聞というパッケージの意味を改めて考えることでもある。
 現行の新聞社は、さまざまな分野のさまざまなニュースを格付けしながら、それらを一括して、その日の新聞として提供している。オール・イン・ワン形式である。

 インターネットではオール・イン・ワンは成り立ちにくい(そもそも「ワン」を囲い込むことが難しい)。
 新聞のオール・イン・ワン機能が消滅すれば、多種多様のニュースソースから送り出されたさまざまなニュースが、それぞれ並列的に世の中やネット上に存在することになる。
 企業や役所の出すニュースリリース、学者による論文、市民記者によるネットニュース、市民ブロガーのコラム。そのほか、さまざまな専門家が自分の専門領域についていろんなことを書く。

 <新聞記事よりおもしろい日本語ブログはたくさん存在する。新聞の論説委員より深い洞察、新聞記事よりも適切なデータ分析、記者の付け焼き刃のようなものとはレベルの違う専門的な知識を、惜しげもなく無料で提供するネット上のサイトは多数にわたる。>とChikirin氏は書く。
 確かにそうだ。新聞に掲載されているひとつひとつの記事や論説が、圧倒的に高いクオリティを有しているとは思わない。専門家の目から見れば物足りないものの方が多いだろうと思う。

 ただし、<新聞の論説委員より深い洞察、新聞記事よりも適切なデータ分析、記者の付け焼き刃のようなものとはレベルの違う専門的な知識>は一か所にあるわけではなく、ネット上のいろんなところに、それぞれ無関係に存在する。それらを読もうとする人は、自分自身の手でネット上を丹念に探し、ひとつひとつを熟読玩味し、それぞれの価値を検証しなければならない。そうやってブックマークを充実させ、信頼すべきソースを編集していく。そういう作業を経なければ、ネット上にある良質な知識を利用することはできない。


 そう考えた時、新聞の持つ機能がはっきりしてくる。
 新聞がほかのメディアと異なるのは、すべてがひとつのパッケージになっていることだ。
 世の中の主だった分野の主だった出来事が、そこそこの水準の記事になって、数十ページの新聞という形をとり、毎日発行される。その集合体に継続的に目を通すことで、人は、世の中全般について、そこそこの水準で知識と見識と判断力を持つことができる(ことになっている)。

 と同時に、それが大量に流布されることで、1人だけでなく「そこそこの水準の知識と見識と判断力」を共有する集団が形成される、という現象も起きる。
 この現象を重視する考え方もある。
 たとえばベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』には、印刷技術の発達がナショナリズムと国民国家の形成に大きく影響したことが書かれている。
 マスメディアが出現し、同じテキストを大勢の人が読むこと(そして、大勢が読んだ、と誰もが知っていること)により、直接会ったことも話したこともないけれど自分と同じ知識の体系をもったはずの人々を仲間(国民)と認識するようになった、とアンダーソンは論じる(本が手元にないのでうろ覚えで書いてますが)。
 最近の本では、岡本一郎『グーグルに勝つ広告モデル』(光文社新書)が、これを、新聞が常識を形成する、という表現で書いている(これも同前。あとで確認して引用部を修正するつもり)。

 インターネットでは、それぞれの利用者が自分の知りたいことを知り、知りたいと思わないことについて知る機会は非常に少ない。
 Chikirin氏が書くように、ネット上では<何を大事と思うかは、新聞社ではなく読者が決める>のだが、読者ひとりひとりにとって何が大事かは異なる。任意の何人かが集まった時に、どの程度の共通項が存在するのかは、はなはだ心許ない。
 「それぞれの立場もお考えもあるでしょうけど、とりあえずこれはみんなにとって大事でしょ」というもの(岡本一郎の表現を借りれば「常識」)を、これまでは新聞が提示していた。新聞が崩壊した後で、新聞に代わって、その役割を果たすものが、果たして存在するだろうか。あるいは、新たに登場するのだろうか。

 もちろん、新聞が提示する「これは大事でしょ」という「常識」の品質に、出来不出来はある。もっと大事な分野や、もっと大事な出来事があるだろう、という不満は批判は常にあるだろうし、そのような意見をフィードバックしなければどんどん質は劣化していく。かつてはよくできた「常識」だったかも知れないが、時代の変化に適応できていない、という面も強い。

 ただ、Chikirin氏の関心は、そういう次元ではなさそうだ。
 <新聞はそれぞれの事件なり出来事の「価値判断」をするという特権を持っていた。「彼らが大事だと思ったことが一面のトップで大々的に取り上げられ」、たとえちきりんが「これは大事!」と思っても、新聞社がそう思わなければその記事は葬り去られる。これは絶大な権力であったわけです。>という記述からは、新聞が独自の価値判断を加えた上でニュースを送り出すこと自体に否定的なニュアンスがうかがえる。

 私は、多少精度は落ちてもいいからそこそこの信頼性をもったオール・イン・ワンの情報源があった方が楽でよい、と思っている。自分自身があらゆる分野に精通し、手頃な情報源を探索して、ひとつひとつの信頼性を検証し、日々それらから情報を入手する、というような作業をするのはとても手間がかかって、自分のようなものぐさな人間にはできそうにない。全面的に信頼できなくても、とりあえずの叩き台としてそれを利用できれば、ゼロから自分でやるよりも効率がよい。
 そういう意味で、現行の新聞は(内容に対する不満や要望はいろいろあるにしても)利用価値があると思うし、実際に代金を払って購読している。

 Chikirin氏のように考える人が大勢を占めれば、新聞は衰退し、私は不便をかこつことになる。
 いや、たぶん、不便をかこつことになるのは私だけではない。世の中のすべての人が、自分の力であらゆる分野の信頼できる情報源を見つけてアクセスする能力を持つようになるとは考えにくいので(そうであれば「ググレカス」なんて言葉を目にする機会は非常に少ないはずだ)、そうではない、という前提でこの先の話を進める。

 悲観的な見通しとしては、新聞が担っていた「常識」が世の中に提供されなくなると、人々は今よりもさらに自分の関心事以外には関心も知識も持たなくなっていくだろう(トートロジー気味な表現ですが)。
 現在でも、ネット上で見かける論争には、それぞれが基盤とする知識や見識がそもそも異なっていて話がかみ合わない、というものが少なくないように思うが、その傾向はますます強まることになるのだろう。まわり中すべての人がそれぞれ別の国からきた外国人、というようなことになる。対話や議論が成り立つだけの共通の基盤が失われた世の中というのは、かなり厄介なことになりそうで気が重い。

 一方、少し楽観的な見通しとしては、ネットその他の情報源のうち、どれが重要で、どれが信頼できて、どれとどれに目を通すべきかを教えてくれる、水先案内人のような人物や機関やサイトが登場してくるだろう。それらが、新聞に代わって、新しい「常識」を世の中に提供してくれるかも知れない。

 ただし、インターネットの宿命として、水先案内サイトそれ自体も玉石混交になることは避けがたい。ある個人なり組織なりが主宰する以上、そこで提供される「常識」には彼らの考え方によるバイアスがかからざるを得ない。
 だから、水先案内サイトを利用しようとする人は、どのサイトが信頼できるかを見極めなければならないということになるし、結局のところは、自分の好みに合ったバイアスのかかったサイトを主に利用するようになるのだろう。もっとも、それらが新聞のように寡占的状況を手にすることは難しいだろうから*、新聞が提供してきたほどには、広汎かつ強力な「常識」が形成されることにはならないように思う。
 また、それらにおけるバイアスが、Chikirin氏のいうところの新聞の<権力>と違うものになるのか、あるいは似たようなものになるのかは、よくわからない。


 Chikirin氏のエントリは、
大変なこった。

 そんじゃーね。
という言葉で締めくくられている。

 新聞業界が崩壊するかどうかは、業界人にとっての問題で、それ以外の人には他人事である。

 ただし、新聞が崩壊した後でニュースがどうなるかというのは、むしろニュースの受容者側の問題だ。
 そして、世の中のニュース状況が、ここまで考えてきたようなことになっていくのだとすると、ニュースを読む側の人にとっても、なかなか<大変なこった。>ということになるかも知れない。

*
と書いたが確たる根拠はない。googleのように圧倒的な寡占サイトがこの領域に出現するようだと世の中不気味だなとは思うが。

| | コメント (5) | トラックバック (1)

横尾弘一『オリンピック野球日本代表物語』ダイヤモンド社

 ありそうでなかった本だ。あるいは、こういうものがなかったこと自体が野球におけるオリンピックの半端な位置づけを象徴している、というべきか。
 タイトルの通り、野球が五輪の公開競技に採用された1984年ロサンゼルス大会から、正式競技としてひとまず最後となる2008年北京大会の予選に至るまで、野球日本代表がどのようにしてオリンピックに臨んできたかを記している。

 タイトルに「物語」とあるけれど、各大会のスター選手の活躍を描いた“名勝負物語”やNumber的“ヒューマンストーリー”を期待して読めば、いささか物足りなく感じることだろう。著者の記述スタイルはむしろ歴史書に近い。それぞれの五輪大会に向けた日本代表が、歴代の監督の下、どのように発足し、4年の準備期間にいかにして強化を試み、本大会に臨んだかが、粛々と記録されている。
 ロサンゼルスから始まる五輪の各大会ごとに1章があてられているが、本大会だけでなく、チームの発足から4年間に行われた大小の国際大会についてもきちんと記されているので、本書は実質的に、日本のアマチュア野球における国際挑戦史でもある(巻末にはそれらの大会すべての出場選手と勝敗、タイトルが記されている)。


 通読してまず感じるのは、日本代表の勝利という目的のために関係者が一丸となって総力を結集することの難しさだ。
 プロアマ混成の2000年シドニー大会、全員プロ選手で結成された2004年アテネ大会において、現場の指導者や選手たちが直面した困難はむしろ国内の野球界にあったのではないか、ということはこのblogでも何度か指摘してきた。
 が、実はそれはプロの参加を待つまでもなく、日本代表という存在に最初からついて回る宿命だったことが、本書を読むとよくわかる。

 草創期の日本代表に対して、選手を派遣する母体である企業は非常に消極的だった。学生球界との関係も密接とは言えず、日本代表は長い間、ほぼ社会人選手だけで構成されていた。
 ロス五輪では社会人と大学生の混成チームが出場したが、これは予選で敗退した日本がキューバの大会ボイコットで急きょ出場することになり、都市対抗との日程調整ができなかったという事情がある(本書によれば、日本代表の事実上のオーナーだった山本英一郎が、それを奇貨として、参加に消極的だった大学球界を強引に説き伏せて選手を出場させた、という経緯もあったようだ)。

 社会人と学生の温度差は以後も続く。87年、社会人野球の団体である日本野球連盟の体協加盟が認められた際に、学生野球の各団体が出したコメントが紹介されているが、どれも他人事そのものだ。とりわけ日本学生野球協会の広岡知男会長のコメントの冷淡さには、今読むと驚くべきものがある。

<社会人が体協に入るのは、それはそれで結構なこと。学生協会は、設立の経緯から他の組織の下部団体にはなれない。体協に入らなければオリンピックに出さないというなら、こちらとしては出ない。オリンピックにも興行的な要素が出てきたし、変わってきている。大学連盟が、五輪に出たいところは出てもいい、と言っているのは協会との関係からおかしなことだ>

 広岡は旧制中学時代の甲子園に出場し、東大野球部では六大学の首位打者となった経験のある、元朝日新聞社長。このコメントを読むと、野球界全体の流れとは無関係に(そして、昨今の奨学生問題に象徴されるように、教育界とも無関係に)「学生野球」という独自の閉じた世界に至上かつ不可侵の価値を見出す人々が、その信念に基づいて学生野球界を動かしてきたのだということを改めて実感する。
(もっとも、広岡はこの4年後には全日本アマチュア野球連盟会長も兼任し、五輪における野球日本代表を推進する立場になるのだが)


 母体となる諸団体がそんな調子だから、選手たちの意識も揃わない。
 1977年にニカラグアで開催されたインターコンチネンタルカップでは、炭酸飲料をがぶ飲みして体調を崩したり、3位に終わりながら閉会式で記念写真を撮ったりしている選手がいて、監督の松永怜一を激怒させた。
 野球が五輪競技となり、日本代表が相応のステイタスを認められるようになると、別の問題が生じてきた。1992年バルセロナ大会の予選を振り返って、主将を務めた捕手の高見泰範は<バルセロナを目指し、予選はプロセスだと考えている選手と、プロ入りを目指していいプレーをしようとしている選手には、明らかに違いがあった。バッテリーを組んでいても、新谷(博=日本生命、後に西武など/引用者注)との意識の差は感じていました>と話す。
 ロサンゼルス大会から数えて4度目の五輪で、企業や大学の理解も深まり、ドラフト凍結という形でプロからも間接的なバックアップを受けていた1996年アトランタ五輪では、予選リーグ敗退寸前まで追い込まれるが、それも同じ問題がチームに亀裂を生じさせていたからだ、と著者は考えているようだ。

 歴代の監督たちも、意識の統一や一体感の醸成に心を砕いてきた。
 急きょロス五輪を率いることになった松永怜一は、合宿初日の前夜に<敗戦主義者や怠け者、不平不満を漏らす者はいらない。私の言うことが聞けない者は、今すぐ荷物をまとめて帰ってくれ>と選手たちに宣言する。
 1992年バルセロナ五輪を率いた山中正竹は<私は日本代表も自分のチームと思えるような選手を集めようとした><このチームを勝たせるにはどうすればいいか、その中で自分は何をすればいいのかを考えられる選手を見極めようと>と回想する。
 この山中が、最終合宿の最終日に、右肘を痛めていた西山一宇投手をメンバーから外そうとしたが、別の選手を呼ぶことでチームの一体感が崩れるリスクをおそれて思いとどまったというエピソードには、北京五輪代表における上原浩治の処遇の背景を想像させるものがある。

 星野仙一監督が率いる北京五輪の日本代表を見る上で、本書が示唆するところは大きい。メンバーが発表された今、選手たちが集合し、最終合宿を行い、本大会を戦う中で、どのような困難に直面することになるのかを知るためには、この上ない参考書となるはずだ。

 奥付での著者の肩書きは「ベースボール・ジャーナリスト」となっている。社会人野球誌「グランドスラム」を中心に活動しているようだが、私の印象に残っているのは、落合が中日監督に就任したシーズンに密着した『落合戦記』だ。あの落合に信頼されるというだけで一目置かざるを得ないという気になる。著書自体はけれん味のない実直な文章という印象を持っている。本書もまた、そのように記された労作だ。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

ONE AND ONLY.

 何事にも初めてという時がある。見物人においてもある。

 例えばサッカーにおいて、日本代表が史上初めてワールドカップに出場する試合が行われた1998年6月のトゥールーズのスタジアムに立ち合った時の心境は、この先日本サッカーに何があったとしても、二度と味わうことはないと思う(日本がワールドカップの決勝に進んだりしたらそれはそれは凄い感慨を覚えるだろうけれど、それはそれで別のものだ)。

 そのような意味において、野茂英雄が初めてMLBで投げた頃、テレビを見つめていた心境もまた、二度と味わうことのない性質のものだ。

 関西では阪神大震災が起こり、東京では地下鉄サリン事件が起こり、オウム真理教の驚くべき実態が明らかにされ、バブル経済の崩壊はもはや後戻りできないことが確実になり、政権の座は乱立する新政党の間でたらい回しにされ、日本社会そのものが液状化し足元が崩れていくような世の中にあって、ただひとつ確かに感じられたのが、海の向こうで黙々と投げる野茂の姿だった。私にとって、1995年とはそういう年だった。

 厳密に言えば、野茂は初めてのメジャーリーガーではない。日本人メジャーリーガー第1号はマッシー村上だ。
 が、彼はMLBを目指したわけではない。マイナーリーグで研修するだけの予定が、彼の才能に目をつけたジャイアンツに引き上げられて、アクシデントのようにメジャーリーガーになった。そして、彼の最初の予定のようにマイナーリーグで練習する選手はその後も出たが、彼のようにメジャーに引き上げられる者はいなかった*。開いたかに見えた道は再び閉ざされた。

 野茂ははじめからMLBで投げるつもりでアメリカに渡った。そんなことができるとは誰も思っていなかった時に。
 近鉄と喧嘩別れして日本を出て行き、近鉄時代の一割にも満たないわずかな報酬でロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結び、メジャーで投げられる保証などないままに(しかも前年からのストライキが続行中で試合再開の見通しさえ明らかでなかった時期に)アメリカに渡り、メジャーリーガーとなった。野茂がアメリカでもブームを引き起こすほどの成功を収めた後は、もはや道を閉じることは誰にもできなかった。

 日本野球を飛び出したにもかかわらず、野茂は日本野球を背負っていた。
 今は、誰かがアメリカに行けば「彼はMLBで通用するのか」という目で見られる。その成否は、あくまでその選手個人の問題でしかない。だが、野茂の挑戦は「日本野球はMLBで通用するのか」という命題と一体だった。彼自身が望むと望まざるとにかかわらず。

 野茂は太平洋に橋をかけ、道を作り、向こう側に居場所を作った。
 それは彼が彼自身のために行った工事だったが、結果的には数多くの後輩たちにとっての橋となり、道となり、居場所となった。彼の後にアメリカに渡った選手は、全員が野茂のかけた橋を渡っていったといっても過言ではない。

 2005年のシーズン途中、日米通算201勝目を挙げた直後にタンパベイを解雇され、利腕の肘を手術した彼と契約しようとするチームが現れなくなってからも、ベネズエラに渡ってまで投げ続けた。どんな土地のどんなチームであろうと頓着せずに。ほとんどメディアに紹介されることのなかったこの3年間の彼の歩みにも、凄みを感じる。

 去年あたりの『Sportiva』だったか、野茂の現況を紹介した記事に、野茂は渡米以来、代理人やトレーナーなどのスタッフを変えていない、という記述があった。
 昔から、成功するための要因として「運鈍根」という言葉がある。運と根はともかく、私には「鈍」がピンとこなかったのだが、野茂の野球人生を見てきて、その意味がわかったような気がする。自分を信じ抜き迷わない、そんなある種の鈍感さが、彼を導いてきた要因のひとつになっているのだと思う。


 2008年7月17日、北京五輪に臨む野球日本代表のメンバーが発表されたのと同じ日に、野茂は自身の公式サイトで現役引退を発表した。一行だけのそっけない文章もまた彼らしい。
 昨日までの彼の歩みに、持てる限りの敬意を表する。

 「日本で最も偉大な野球選手を○人選べ」と問われたら、私はそこに野茂の名を挙げる。1人選べといわれたら迷うかも知れないが、○が2以上であれば必ず挙げる。


* 厳密にいえば、日本のプロ野球を経由せずにマイナーリーガーとしてスタートし、96年にメジャーデビューを果たしたマック鈴木がいる。マックだけは、野茂のかけた橋ではなく、自分自身の道を通って渡米したといえる。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

北京五輪野球代表についての感想。

 今日、北京五輪に向けた野球日本代表メンバー24人が発表された。

<投手>
上原浩治G、川上憲伸D、岩瀬仁紀D、藤川球児T、ダルビッシュ有F、成瀬善久M、和田毅H、杉内俊哉H、田中将大E、涌井秀章L
<捕手>
阿部慎之助G、矢野輝弘T、里崎智也M
<内野手>
荒木雅博D、新井貴浩T、村田修一BAY、宮本慎也S、西岡剛M、川崎宗則H、中島裕之L
<外野手>
森野将彦D、青木宣親S、稲葉篤紀F、G.G.佐藤(佐藤隆彦)L


 顔触れを見てすぐに思い当たるのは、星野監督は昨年12月の予選のチームを重視した、ということだ。24人中19人までが予選に出場している。以下の5人が入れ替わった。

OUT 小林宏、長谷部、井端、和田一浩、大村三郎
IN  和田、杉内、田中、中島、佐藤

 予選では9人だった投手が1人増えた。3試合で終わる予選と違い、五輪本大会は試合数が多いのだから当然(投手を10人にするか11人にするか、が選考における最大の論点だった、と山本浩二コーチが記者会見で話している)。
 和田、杉内はWBC経験者(杉内はアマ時代のシドニー五輪、和田はアテネ五輪にも出場した)で国際経験に不足はない。田中、中島はおそらく初の国際大会出場になる。GG佐藤も同様だと思うが、アメリカでのプレー経験がプラスになるかどうか。

 昨年の予選では、昨季好調だった選手を中心に選んだ感があったが、今回のメンバーは必ずしも現在の成績や調子を反映してはいない。パの野手陣では打撃ランキング上位の選手が順当に選ばれているが、セではかなり異なる。投手についても涌井や成瀬の勢いは昨年ほどではないし(とはいえ実質2年目の今年も相応の成績を残しているという意味では評価できる)、上原の不振は深刻だ。
 選ばれたメンバーよりもよい成績を残している選手は少なくない。

 つまり星野監督は、現時点での調子よりも、予選3試合を通じて培われたチームの一体感を重視したということだろう。
 シーズン真っ最中で最低限の準備期間しかとれない本大会のために、一からチームを作り直すことは困難だろうから、これは合理性のある判断だと思う。

 この「予選を勝ち抜いたチームを基礎にして本大会に臨む」という当たり前のことが、アテネ五輪では許されなかった。
 当時の代表チームには「本大会出場は1チーム2名まで」という制約が課されたために、首脳陣はチームをいったん解体して組み直さなければならなかった。チームの求心力を担保していたはずのカリスマ監督は病に倒れ、指導者としての実績が無に等しい代行監督が、この即席チームを率いてアテネに赴かなければならなかったのは周知の通り。
 今回、その種の制約が外れたのは、プロ野球界もアテネについていくらか反省したという現れだろうし、アテネでの一部始終を放送席から見ていた現監督の強い意向にもよるのだろう。

 ちなみにアテネ五輪から連続出場する選手は、投手で岩瀬、上原、和田毅、野手では宮本ひとりの計4人。本来なら黒田、松坂、城島、福留なども連続出場して然るべきだが、彼らはこの間にアメリカに渡ってしまった。


 さて、顔触れを見て気になったことがいくつか。


1)宮本を誰が補佐するのか。

 WBCの代表選手が発表された時、宮本不在で誰が主将役を務めるのか、という懸念をこのblogに書いたことがあったが(後に井口の出場辞退に伴い、宮本はメンバーに加わり、私が期待したような役割を果たした)、星野監督は予選の時から宮本を主将に指名していた。故障やよほどの不振でない限り選ばれるのは確実だったし、それが張り合いになったのか、宮本は打撃でも好調を維持している。

 というわけで今回は主将に不足はないのだが、改めて顔触れを眺めると、野手陣は宮本以外は全員若手の感がある。捕手陣3人はベテランぞろいだが、投手陣の把握に相手打線の研究、ブルペンコーチ役と、捕手業務で手一杯になりそうだから、野手陣に宮本を補佐する選手が必要になってくるはずだ。
 WBCではイチローが主将格で宮本が陰のリーダー、という分担ができていたようだし、アテネ五輪では高橋由伸が宮本の相談相手になっていたようだ。今回の予選では井端や和田がいた。

 今季は必ずしも状態や成績がよくない高橋由伸、井端、小笠原らが最終候補に名を連ねていたのは、おそらくそのような含みもあってのことだったのだろうが、結局は3人とも落選。台中でベンチを引き締めていたと思われる和田一浩もいない。

 年齢的には稲葉はベテランだ。実力も充分でレギュラー出場が予想されるから、候補のひとりではある。が、日本ハムでもそうだが、人格的にとても初々しくて、リーダー格とかまとめ役とかいうのはちょっと違うような気もする(あくまでメディアで見た限りでの印象)。

 期待したいのはむしろ、西岡、川崎、青木といった面々。WBCで“イチロー・チルドレン”として売り出した彼らも、今や国際経験ではトップクラスになっている。予選の後で稲葉が「WBC組についていくのに必死だった」と話していたように、今や日本代表の顔でもある。やんちゃな若手という立場にとどまらず、次のWBCでは宮本から主将を引き継ぐくらいの気持ちで取り組んでくれたらいいなと期待している。


2)誰が打線の核になるのか。

 国際試合、とりわけ準決勝以降のノックアウト方式に入ると、チームとしての精神的タフネス、諦めない力とでもいうものがとても重要になると思われる。
 その時に大切なのは、打線のつっかい棒とでもいうべき打者だ。誰もが「○○さんに回せば何とかしてくれる」と信じられる時に、打者たちは線となって敵に立ち向かうことができる。

 前回のアテネ五輪から、逆の例を見出すこともできる。準決勝でオーストラリアに1点をリードされた最終回。先頭打者だった四番・城島は初球からバントヒットを狙って失敗した。
 奥田英郎は著書『泳いで帰れ』の中で<自分が何とかしようとする者の行為ではない。あとは頼むという、責任回避の行為だ。四番がこれか>とこのプレーを罵倒しているが、私も同感だった。城島は好きな選手だが、これはいただけない。日本はそのまま三者凡退であえなく敗退した。

 灼熱の北京で、選手たちは苦しい時に誰の顔を見ればよいのか。監督か?そりゃ違うだろう。宮本主将といえども、試合に出づっぱりでチームを引っ張るのは難しいだろうし、まして「つないだ走者たちを本塁に迎え入れる」という役割ではない。
 健在なら小笠原あたりが担うはずだった役目だが、いないものは仕方ない。ここは新井や村田に頑張ってもらいたい。台中で、単打に徹した新井は頼もしかった。本大会は彼らにとって一皮むけるチャンスでもある。


3)一塁コーチを誰が務めるのか。

 3つ目は、ものすごく細かい話。五輪ではベンチ入りスタッフの数も非常に絞られる。コーチは山本浩二、田淵、大野の3人だけ。山本が三塁コーチ(これも懸念したのだが、台中では無難にこなした。北京でも頑張ってもらうしかない。暑さが心配だが)を務め、田淵はベンチで星野監督の相談相手、となると一塁コーチは控え選手がやることになる。
 台中ではほとんどの時間帯を宮本が務めていた。走者たちへの指示ぶりは堂に入ったもので、まず不安はない。だが、宮本が試合に出ている間は、誰が代わるのか。

 予選で宮本不在中の一塁コーチャーズボックスに立っていたのは井端だ(アテネ五輪の予選でもやっていた)が、今回は選ばれていない。予選での中日・阪神勢の使われ方を見ていると、荒木、森野ら中日勢が候補と思われるが、選手としてはともかく、コーチとしては心許ない気がする(なんて書いたら失礼だろうか。中日ファンの皆さん、どうでしょうか)。
 スタッフが少ないだけに、試合に出ない選手の役割も普通のチームより重くなる。ベンチの選手たちの表情や態度にこそ、チームの一体感は現れるものだ。


 懸念としていくつか書いたが、このくらいのことはおそらく監督も考えた上でのセレクトのはず。選手たちが、大きなチャンスと捉えて取り組んでくれたらいいと思っている。
 あとは選手たちが開幕までによいコンディションに仕上げて本大会に臨めることを祈るばかり。

追記(2008.7.23)
代表チームの選考は、最終的には監督の専決事項だと私は思っているが、ファンやメディアから批判や異論が出るのは避けられないことだし、異論のある人は言えばよいとも思う。ただし、ファンの酒場談義なら好き嫌いだけで声高に論じてもよいけれど、メディアが批判を表明するなら、相応の根拠は示して貰いたい。

こんな判りきったことを書くのは、今週の週刊朝日の中吊り広告に呆れたからだ。

<やはり中日、阪神偏重で、今年の成績よりも「コネ」が優先!?
  星野ジャパン このメンバーじゃ勝てるわけない!>
http://publications.asahi.com/syukan/nakazuri/image/20080801.jpg

 記事の内容は二宮清純、小関順二、玉木正之らのコメントをつぎはぎしただけのお手軽なもの。個別には傾聴すべき部分もあるが、誰かが「中日阪神偏重だ」とか「コネ優先だ」とか「このメンバーじゃ勝てるわけない」などと明言しているわけではなく、中吊りと記事との整合性は低い。週刊朝日では、中吊り広告が記事とは別に独自の見解を主張することがあるようなので気をつけたい。

 昨年のアジア予選で、普段やらないような苦しいロングリリーフや、ブルペン捕手など試合の外側での地味な仕事を任されていたのが中日・阪神勢だったことは、3試合をきちんと見ていれば誰にでも判ったことだ。今回のメンバー構成を見ても、彼らが同じような役回りになることは容易に予想がつく。人数は多くとも優遇されたとは言い難い(そもそもぶっちぎりで首位独走中の阪神から3人というのは、決して多くはない)。
 そんなことには触れようともせず、人数だけ数えて「偏重」だの「コネ」だのと騒ぎ立てるような振る舞いを「下衆の勘繰り」という。06年のWBC日本代表には千葉ロッテから8人が選ばれたが、あれも誰かのコネだったというのか?

| | コメント (11) | トラックバック (2)

“長沼一家”の時代の終わり。

 皆さんは日本の主なスポーツの競技団体で、誰が会長をしているかご存知だろうか。

 野球とサッカーを別にすれば、私の頭にぱっと思い浮かんだのは、日本スケート連盟の橋本聖子会長だけだった。ちょっと考えて、確か陸連の会長は河野洋平だったんじゃないか、と思い出した。あと、お家騒動の日本バスケットボール協会では麻生太郎を会長に担ぐプランが収拾策として取り沙汰されていたが、あれはどうなったんだか。
 水連は“フジヤマのトビウオ”古橋廣之進が長く務めたが、後継者の名前は知らない。日本バレーボール協会でも、ミュンヘン五輪で男子が金メダルを取った時の監督だった松平康隆が会長を務めた時期があったのは知っているが、現会長が誰かは知らない。ウインタースポーツは全部堤義明が仕切っていたような気がするが(ま、ホントに会長職にあった団体は限られているだろうが)、さすがに全部退いたのだろうな。

 と、私の知識はその程度のものだが、たぶん日本人の平均ラインとさほどの違いはないんじゃないかと思う。実際に競技団体や大会運営に関わっていたりしなければ、好きな競技であっても会長の名前までは知らない人が多いだろう。


 そう考えると、会長の改選が、新聞の一面で報じられるほどの注目を集め、ファンの間で予測や賛否が議論になるという日本サッカー協会が置かれた状況は、かなり特別なものといってよい。新会長は、日本のスポーツ界のマネジメントサイドを代表する顔といってよい立場になる。

 もっとも、サッカーがそのような社会的地位を獲得したのは、それほど古いことではない。Jリーグが発足し、日本代表がワールドカップ・アメリカ大会出場に肉薄した1993年当時のJFA会長は島田秀夫という人物。三菱重工の副社長で、三菱サッカー部の部長をしながら協会の仕事をしていたようだ。当時も今も、サッカーファンの間でもほとんど知られていない名だと思う。

 競技団体のトップに立つ人物は、その多くが「競技の世界で大物選手・監督だった人物」か、「社会的地位が高い人物」のどちらかにあたる。「大物選手出身でそこそこの社会的地位がある」とか、「社会的地位が高く、多少の競技経験がある」とかいう場合もあるが、たいていはどちらかに大きくウエートが傾いているので、2つに分類してしまって構わないと思う。

 7代目・島田秀夫までの歴代JFAの会長は圧倒的に後者が多かった。例外は4代目の野津謙くらいだろう(医師で、帝大蹴球部の創設者であり、卒業後もサッカー界にかかわってきた)。


 「社会的地位が高い人物」が会長職にいる場合、その効用は主に団体の社会的信用を担保することにあり、実務的には名誉職に近い。
 冒頭で触れたように日本陸上競技連盟の現会長は元自民党総裁の河野洋平で6代目になる。過去の5人には河野の父で元農林大臣・建設大臣の一郎、その弟で元参院議長の謙三が含まれる(一郎が就任直後に急死したため謙三が後を継いだ)。3人とも早大競走部出身で箱根駅伝を走った元選手ではあるが、会長に選ばれた理由としては、それは副次的なもので、政治家としての実力にウエートが置かれているはずだ。

 陸上競技界には、公道を占有してマラソンや駅伝の大会を開催するために自治体や警察との折衝が不可欠という事情があるので、トップに政治家を戴くことに実務上の意義もあるのではないかと想像できる。
 とはいえ彼らが実際に陸連を切り盛りできるわけではない。陸連の歴代専務理事には帖佐寛章、佐々木秀幸、櫻井孝次、澤木啓祐と著名指導者の名が並ぶから、実質的な団体の運営は、専務理事が担っているということだろう。
 「社会的地位型」の会長を戴く競技団体では、共通してこのような運営が行われているのではないかと思われる。


 JFAでもそのような時代があった。
 1962年に現役選手と兼任で日本代表監督に就任した長沼健は、監督を退いた1976年に協会の専務理事に就任する。同時に会長に招いた平井富三郎(新日鉄社長、5代目)から島田までの3代の会長はいずれも企業人で、実質的な協会の運営は、長沼と、長沼監督の下で代表コーチを務めていた岡野俊一郎が担ってきた。

 1994年、長沼が満を持して会長に就任する。前年、Jリーグ創設に成功し、ワールドカップ出場は成らなかったものの、2002年大会の招致活動が本格化。もはや名誉職のトップを戴いている段階ではなく、会長がサッカー界の顔として自ら動くべき時だった。
 任期中、加茂周代表監督の去就をめぐってのトラブルもあったが、日本のワールドカップ初出場、そして2002年大会招致(半分だが)を成し遂げて98年に勇退。後を次いだのが岡野俊一郎だ。岡野の次の10代目が現職、川淵三郎。JFAも大きくなり、片手間のトップでは通用しなくなった。「社会的地位型」に後戻りすることは、もはやなさそうだ。
 川淵は長沼監督時代の日本代表選手で東京五輪に出場している。長沼と同じ古河電工の出身でもあり、一時はサッカー界を離れていたが、88年にJFL総務主事となり、プロ化を主導した。現在、JFA副会長にしてFIFA理事の小倉純二も古河電工サッカー部のマネジメントスタッフから長沼が協会に招いた人物だ。

 つまり、1994年から現在まで、というよりも実質的には1976年から現在までのJFAは、“長沼体制”の下で動いてきたといってよい。
 トレセン制度、スポンサーとの契約、トヨタカップ招致など、JFAの財政的基盤や指導組織、現在の日本サッカーを支える仕組みは、この長沼時代に敷かれたレールの延長上にある。プロリーグ創設も、長沼のバックアップの下で進められた。

 川淵三郎の後継者には、一時は小倉純二の名も挙がっていたが、結局、犬飼基昭が就任することになった。旧“丸の内御三家”の一角、三菱重工業サッカー部の出身で、浦和レッズ社長を務めた人物だが、上述してきたような“長沼人脈”とはまったく別の出自にある。長沼健はこの6月に逝去したが、まさにその年に、JFAにおける“長沼時代”も終わることになる。


 犬飼は元JFL選手だが代表歴はない。三菱重工業、三菱自動車のサラリーマンだったが、欧州の子会社社長までで、財界人というほどの出世はしていない。
 つまり、前に触れた競技団体の長の類型、「競技界の大物型」と「社会的地位型」のどちらにもあてはまらない。プロリーグを構成する1クラブの経営者として強化・経営の両面で成功をおさめ、その手腕を買われてリーグ・協会に招かれた。新しいタイプのリーダーといってよい。サッカー界だけでなく、日本のスポーツ界全体を見渡しても、このような経歴をもつ競技団体のトップは稀だろう。

 長沼から川淵に至る“長沼一家”の人々は、国内外のスポーツ界が大きく変動した激動期に(しかも、変動の速度に国内外でかなりのズレがあったことが事態をさらに難しくしていた)、時代を見越した舵取りを見せ、稀に見る成功を収めた。長沼や川淵に、晩節を汚したと言われても仕方のない言動があったことは否めず*、とりわけ川淵会長は功績とともに負の遺産を残した可能性も強いけれども、一連のグループとしてみれば、彼らは非常によい仕事をしたと思う。

 だが、その変動期もほぼ一段落した。
 「アマからプロへ」ではなく、完全にプロを前提とした秩序の中で育った選手が大半となり、Jリーグ育ちの指導者が一線に立ち、日本がワールドカップに出るのが当たり前だと信じている観客がスタンドを埋めるようになった。
 長沼は選手から登録料を集め、スポンサーから後援料を引き出すことで協会の財政を安定させたが、これからはJリーグを含めたビジネスとして収益構造を築いていかなければならない。
 サッカー選手へのロールモデルとしての期待、ビジネスコンテンツとしての期待、教育機関としての期待、地域活性化の核としての期待。20年前には存在しなかったか、仮定でしかなかったような社会からの要請が、現実の、しかも相当に強いものとなっている。

 私は犬飼氏の人物や実績、具体的な言動について多くを知らないので、彼が会長にふさわしい人物なのかどうかを論ずることはできない。
 ただ、ここまで述べてきたような文脈においては、サッカー界(あるいは日本のスポーツ界)が経験したことのない新しい課題に取り組むために、新しい経歴のリーダーを選ぶという選択は、適切なものだと思う。決まったからには、よい仕事ぶりを見せて欲しい。

 上述の通り、日本のほとんどの競技団体のトップは「社会的地位型」か「競技界の大物型」にとどまっている。それはひとつには、それぞれの団体が、ハイブリッドな実力者を必要とするような局面にまだ立っていない、あるいは、立っていることに気付いていない(日本相撲協会などはその典型だ)ことを意味する(もちろん、そんな人材が存在しない、ということもありうるが)。
 その意味で、JFAの会長人事および新会長のマネジメントぶりは、日本のスポーツ界全体に新しい局面を開き、大きな影響を与える可能性があるといっても過言でない。


 なお、冒頭で「野球とサッカーを別にすれば」と記した。
 日本サッカー協会会長の特殊性は縷々述べてきた通りだが、野球を別にした事情はまったく異なる。野球には統括的な競技団体がないので、他団体と比較しうる「会長」が存在しない。論じようがないのだ。
 強いて言えば、五輪に代表チームを送り出す母体組織(というかトンネル団体)である全日本アマチュア野球連盟の会長は松田昌士・元JR東日本社長であり、NPBコミッショナーの加藤良三は前駐米大使。いずれも野球界の人物ではなく「社会的地位型」にあたる。かといって、その片腕として現場を切り盛りする野球人がいるようにも見えないのが、この世界の何とも重苦しい現状を表している。


*
 ただし、長沼は97年のワールドカップ最終予選で代表チームが危機に瀕した時、自らの手で加茂周を更迭することで、“腐ったリンゴ事件”に落とし前をつけたとも言える。川淵は、批判を受けた言動に対して落とし前をつけていない。そこは区別しておきたい。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

オーバーエイジ枠は手段であって目的ではない。

 野球における五輪の地位をどう考えるのか、てな話は、このblogで何度も書いてきたのだが、サッカーにおける五輪の地位というのも、同じくらい奇妙なものだ。

 メキシコの銅メダルまでさかのぼって語ろうとは思わないが、かつてはアマチュアの大会だったものが、84年ロサンゼルス大会では「プロ容認、ただし欧州と南米はワールドカップ不出場選手のみ」という奇妙な規定に変わり、92年バルセロナ大会からは23歳以下に限定、さらに96年アトランタ大会から「年齢制限外の選手を3人まで使ってよい」ことになって現在に至る、というのが五輪サッカーのレギュレーション小史である。

 FIFAにとっては自前のワールドカップこそサッカー界で最大の大会だから、他の大会は格下にしておきたい。IOCはすべての競技で五輪を最高水準の大会にしたいし、特にサッカーは試合数が多く集客が望める人気競技だから一流選手を出してほしい。2つの国際団体のせめぎ合いの結果として出てきた妥協案が「U23+オーバーエイジ」になったのだと理解している。

 そのような妥協の産物である大会に、どういう姿勢で臨むかというのは、これはもう各国が独自に判断するしかない。伝統的には、南米やアフリカは比較的熱心で、欧州はやる気が薄い、という傾向があったように思う。
 欧州主要国では21,2歳でビッグクラブの主力だったり、主力に手が届きそうな選手は珍しくなく、そういう選手はたいてい五輪には参加しない。そもそも同じ年の6月に欧州選手権が開催されるので、代表選手は当然ながらそちらを優先する。
 一方でブラジルのように、他の主要大会では優勝しているのに五輪だけ金メダルがない、という理由で国民から追い立てられるように優勝を狙っているらしい国もある。
 「世界」といってもその実態は一様ではなく、どこかのやり方を真似しても意味はない。日本は日本の事情に応じて取り組み方を決めればよい。

 というわけで、日本の事情を考えてみる。
 日本では、五輪の社会的地位は非常に高い。44年前の東京オリンピックの成功体験がいまだに影響しているのかもしれない(その後の札幌、長野の2度の冬季五輪も、成功といってよいと思う)。
 たぶん、世界の主要競技の趨勢は、五輪から競技別世界選手権に重心を移しつつある(少なくとも両者が同等になりつつある)のではないかと思うが、日本では今も圧倒的に五輪のステイタスが高い。そういう国民の視線が、必ずしも五輪が世界一の大会ではない野球やサッカーにも、大きな影響を与えている。
 だから、国内での人気を維持するために、五輪に出場し、ある程度勝ち進むことが必須となっている。

 一方、サッカー界内部の都合としては、将来A代表入りが期待される(あるいはすでに選ばれている)有望な若手に国際経験を積ませることが重要になってくる。欧州や南米、アフリカの強豪国、あるいはその選手たちと直接対戦する機会の少ないJリーガーにとっては、五輪本大会は貴重な機会だ。長い目でみればA代表の強化に役に立つ。

 ちょうどオーバーエイジ制度が作られた96年アトランタ五輪から、日本は4大会続けて五輪に出場することになることになった。
 これまでの3大会では、枠をどう使ってきただろうか。

 96年アトランタ五輪で、西野監督はオーバーエイジを起用しなかった。結果はグループリーグ敗退。とはいえ2勝1敗、優勝国ナイジェリア、銅メダルのブラジルと同組で、かつブラジルに勝ったことを考えれば、大健闘といってよい。
 ただ、私的な感想をいえば、あのチームにカズや井原がいれば結果は違っていたかも知れない、という思いは残る。あのチームには城のほかに信頼に足るFWがいなかったし、ナイジェリア戦の終盤、精神的なもろさを露呈した守備陣に、精神的支柱となれるリーダーがいたら、とも思う(これが、たらればの結果論であることは承知している)。

 彼らの起用が見送られた理由はわからない。ただ、Jリーグが発足した時からこの96年まで、西野はずっとJFAで仕事をしていた(オフト監督時代には山本昌邦と一緒にスカウティングを担当していたはずだ)。日本リーグ時代に監督経験があったわけでもない。当時の西野には、指導者としてプロのJリーガーを扱うだけの力量がなかった、あるいは、その自信がなかったということだったのではないかと私は思っている(93年ごろ、テレビ解説をしていた西野が中継を通してカズと話す場面を見たことがあるが、「西野?誰だっけ?」というカズの軽口に絶句していた)。

 2000年シドニー大会では、GK楢崎、DF森岡、MF三浦淳が起用された。2勝1敗で決勝トーナメントに進出、アメリカにPK戦で敗れてベスト8。結果は悪くないが、もっと勝てたのでは、というもやもやを抱いたファンは少なくないだろう(2002年のワールドカップでもほぼ同じことが言えるのだが)。
 当時のトルシエ監督は、A代表と、この前年に行われたU20世界選手権の監督を兼任しており、3世代の代表が同じコンセプトの戦術で指導されていた。選手自体もかなり重なっており、合同で合宿をしたこともあったように記憶している。オーバーエイジは3人とも20代半ば。戦術理解、年齢差、監督との関係、いろんな意味で障壁は小さく、無理のない起用だったと思う。

 当時は、チーム力をアップさせるという点で、この3人にどれほどの効果があるのだろう、と思った。
 が、今にして思えば、むしろ、アトランタ世代でありながらアトランタ五輪に出場していない3人に国際経験を積ませる、という意味があったのではないだろうか。
 2年後のワールドカップ日韓大会で、楢崎は正GKとなり、森岡はフラット3の要として開幕戦に先発した(試合中のケガでリタイアし、以後は“バットマン”宮本にその座を譲らざるを得なかったが)。三浦もシドニー五輪と同年のアジアカップや翌01年コンフェデカップに出場している。シドニー五輪の時点で、トルシエが3人を2年後のワールドカップのレギュラー候補と考えていた可能性は高い。

 2004年アテネ五輪で、山本昌邦監督はGK曽ヶ端、MF小野を起用した。FW高原も呼ぼうとしたが、彼が2002年ワールドカップを断念する原因となった血栓塞栓症の再発により果たせなかった。結果は1勝2敗でグループリーグ敗退。
 この件についてはだいぶ前に少し触れたことがあるが、本大会直前にチームの心臓部を取り替える、というやり方にはあまり感心しなかった。構想通りに高原も参加できていれば結果は違ったのかも知れないが、すでに代表の主力だった2人にとってどれほどのメリットがあったかは判然としない。他の選手についていえば、山本が掲げていたキャッチフレーズ「アテネ経由ドイツ行き」を実現させた選手は、駒野と、直前に故障した田中誠の代わりに呼ばれた茂庭の2人だけだった(南アフリカに行きそうな選手は6,7人、あるいはそれ以上になりそうだが)。

 で、ようやく話は北京五輪代表にたどりつく。
 反町監督が6月30日に発表した合宿メンバーは20人。本大会のエントリー枠は18人で、基本的にはこの20人が最終候補と考えられる(故障中の長友など、リスト外から最終メンバー入りする可能性を残している選手もいるが)。
 リストに入ったオーバーエイジはMF遠藤のみ。FW大久保も招聘しようとクラブと交渉を続けていたが、結局断られて断念した、と伝えられる。

 過去3回のケースと比較すると、反町構想はアテネにおける山本昌邦のそれに似ている。
 ただ、遠藤は状況によってはサポートタイプの仕事もできる選手だ。メンバーに加えたが最後「遠藤のチーム」にせざるを得ない、ということにはならないように思う。そこは小野とは違う。

 遠藤は、キャリアと実力のわりに、代表では恵まれてこなかった。日本が準優勝した99年のU20世界選手権では、稲本の不振によりレギュラーの座を得て活躍したが、同世代が出場したシドニー五輪は予備登録メンバーとしてスタンド観戦。02年、06年のワールドカップにも出場していない(06年はベンチ入りしたが試合には出られなかった)。
 現時点で遠藤は日本のA代表のもっとも重要な選手のひとりであり、2010年にも主力と期待されている。遠藤自身も出場経験のない五輪に意欲をもっていると伝えられる。
 そんなわけで、遠藤の招集は理解できる。
 ただし、8月の北京は滞在するだけで健康に支障をきたしそうな土地でもある。9月以降のワールドカップ最終予選に悪影響を及ぼす懸念が少しでもあるならば、それを犠牲にしてまで出場することはない、とも思っている(発熱で検査入院、と伝えられるだけになおさらだ。彼は内臓疾患で長期休養を余儀なくされたこともあるのだから)。

 一方、反町監督が大久保を欲するというのは解せない。
 五輪は普通のサッカーの大会よりも登録できる選手数が少なく、全部で18人しか連れて行けない。大久保のように退場の多い選手を選んだら、貴重な登録枠のひとつを数試合にわたって空費するリスクが大きくなる。北京に二十何人も連れて行けるのなら別だが、18人枠がある以上、大久保選出には賛成しがたい。

 いずれにしても、オーバーエイジに誰が選ばれるのか、という点だけに集中した報道にはいささか疑問が残る。
 ここまで書いてきたように、まず考えるべきは「北京五輪で何を目標にするのか」ではないだろうか。

 代表人気の盛り返しを狙って、どんな手を使っても北京での好成績を求めるのか。有望な若手によい経験を積ませ、「北京経由南アフリカ行き」となる選手を増やすのか。そのどちらに重点を置くかによって、オーバーエイジ枠の使い方は変わってくるはずだ。
 それとは別に、年代別世界大会に出場しそびれた中堅選手に国際経験を積ませる、という使い方だってありうる。
 また、ワールドカップ最終予選(と、順調にいけばその後の本大会)を控えた岡田代表監督にも、北京五輪はこういう選手起用をしてこう戦ってほしい、という希望は、たぶんあるのではないかと思う。

 そして、以上のどれを五輪の主目標とするか、という判断は、反町監督ではなく、JFAが決めるべき性質のことだ。
 そこを明確にしようとしないのはいつものことだが、まったく感心しない。

 ちょうどこの夏は会長の改選期となり、なかなか方針を出しづらい時期ではあるけれど、そうでなくても川淵現会長はその種のビジョンを明確にすることがまずなかった(あれほどよく喋るのに、肝心のことははっきりしないのだ)。次の会長が誰になったとしても、会長としてやるべきことをやり、現場に任せるべきことは任せる、というメリハリのあるリーダーシップを発揮してほしいものだ。
 今のまま五輪に突入してしまったら、どんな結果が出たとしても、それをどう評価すればよいかという基準が、私にはよくわからない。

 あるいは反町監督が、表向き口にはしないけれど、内心では密かに上のどれかの目標を定め、照準を絞っている、という類の腹黒さを備えていてくれたら、それはそれで頼もしいのだけれど。


追記:
JFAは7/14に北京五輪に臨むU-23日本代表メンバー18人を発表。反町監督が当初構想していた大久保は神戸が派遣を拒否、遠藤は体調不良のため、オーバーエイジ枠の起用はなくなった。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

彼我の差を埋めるもの。

 EURO2008の決勝戦が行われる直前の週末。中断していたJリーグが再開した。
 6/29日曜の夜に東京MX-TVで放映されたFC東京とジェフ千葉の試合を見た(風邪ひいて伏せっていたので味スタには行けず)。

 3週間にわたってオランダの派手なカウンターやスペインの超絶的なパスワークに馴らされてきた目には、我が東京の選手たちのプレーは物足りなく映る(もちろんジェフも)。パスはスピードも精度も劣り、ミスも目立つ。雨が強かったから、と言いたいところだが、EURO上位国の選手たちは、大雨の中でも自在にボールを操っていた。

 だからといって、今週あたりいろんな職場や学校で口にされたり、ネット上にも転がっていそうな、「EUROを見ちゃうとJリーグなんて見てられないよ」などという言説に同意する気はさらさらない。
 自分の子供が属する少年野球チームの試合を、「MLBよりレベルが低いから」という理由で見ようとしない親がいるだろうか。私は子供を持ったことがないから想像で書いてるだけだが、贔屓のクラブ、自国の代表というのは、子供とまでは言わなくとも身内のようなもので、どんなに出来が悪くても関心を失うことはできない。
(もっとも逆に、EUROには日本が出てないから気楽に楽しめる、という面はある。ワールドカップもかつてはそういう大会だった)

 とはいうものの、いうまでもなく彼我の差は大きい。
 あのパスが、あのボールコントロールが、あのシュートが、あの突破が、あのオーバーラップが、あのインターセプトが、我が日本代表の選手たちにできるだろうか、と思う局面が数えきれないほどあった。一瞬のチャンスを冷徹に決め、厳しい局面を凌ぎ抜くタフな精神力を、彼らが持ち合わせているだろうか、とも。日本はスペインのサッカーを目指すべきだよ、と思った端から、あれは中盤の4人の超絶的テクニックやフェルナンド・トーレスのスピードやマルコス・セナのボール奪取があるから成り立つんだろ、という内なる声が追いかけてくる。

 監督がどうの戦術がどうのと言っても、いちばん大きいのは選手の力、というのがたぶん身も蓋もない真実なのだろう。一対一でことごとく競り負けるような力量差があれば、戦術でどうにかするといっても限度はある。監督の能力が勝負を分けるのは、あくまで選手の力量がある程度拮抗している場合。それ以上の差を埋めることのできる指導者も、いるかもしれないが、世界中探してもそれほど多くはないと思う。

 日本代表の6月の連戦の中で、すでにベテランの域にある中沢佑二は、若手が練習で100%を出し切ることをしない、と苦言を呈したと伝えられた。練習で100%の力を出し切らなければ、試合でそれを発揮することなどできない、と。
 その伝でいえば、国内リーグもまた同様。普段の試合で100%の力を出しきっていない選手が、国際試合でそれ以上の力を発揮することはない。

 EUROで見たようなあのパスを、あのボールコントロールを、あのシュートを、あの突破を、あのオーバーラップを、あのインターセプトを我々の代表選手たちができるようになるためには、まず毎週のJリーグでそれに挑み続けるしかない。
 そして、たとえばトルコのようにタフで不屈の精神力を発揮するためには、やはり日常の試合で、何点差があろうと、残り何分になろうと、諦めずにゴールに挑み続けることが大切なのだと思う。Jリーグでそれができない選手が、欧州に移籍したからといってできるようになるものなのだろうか(これまで欧州に行って成長した選手の多くは、Jリーグですごした数年の間にも、着実に成長していたと思う)。

 件の試合で、FC東京は開始早々に中盤の重鎮・今野を一発レッドカードで失った。
 ここで、例えば2トップの一角を下げて守備的MFを投入する、というやり方もあっただろう。自陣に引いて前半を無失点でしのぐ、という選択肢もあったかもしれない。だが東京は、選手交代をしないままパスを回して攻め続け、前半終了間際に先制点をもぎとった。
 後半は攻勢に出たジェフに押され、CB佐原がケガの治療で外に出ているうちに失点。それでも城福浩監督は、佐原を交代させず、3人の交代枠すべてに攻撃的な選手を投入し、最後まで攻め続けた。

 結果は1-1の引き分け。勝ち点で首位に並ぶチャンスのあった試合で最下位チームと引き分け、という結果は苦いものだ。
 だが、新監督のもと、チームも個人も成長していこうというこのクラブには、こういう戦い方がふさわしい。不利な局面でもリスクを恐れずに前に出る姿勢を貫くことは、長い目で見ればタフなチームを、そしてタフな選手を育てるはずだ。挑んで得ることを知った者だけが、さらに前に進むことができる。贔屓のクラブには、好調の時も不振の時も、そういう姿勢だけは持ち続けてほしい。

 それだけでJリーグが欧州に追いつける、とは言わない。だが、そうやって「もっといい自分」への第一歩を踏み出すことからしか、彼我の間にある長い距離を埋める作業は始まらない。


(説教臭いところは、己に言い聞かせている独り言だと思ってください…)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

宇都宮徹壱『股旅フットボール』東邦出版

 FC岐阜の練習風景を見たことがある。まだJFLに上がる前だったかどうか。
 岐阜市内の長良川河畔、住宅もまばらな郊外に、高級ホテルと会議場が忽然とそびえている。近くには立派なスタジアムも。
 練習場はそのまた近くの、こちらは地方都市によくある小さなスタンドのついたグラウンドだった。選手たちは、それぞれの前所属チームなのだろう、J1、J2、そのほか見たこともないようなユニホームを思い思いに身につけて練習に励んでいた。
 ミスター岐阜ともいうべき森山泰行は、どこか故障でもしていたのか、別メニューでトレーナーに付き添われながら、ゆっくりとピッチの外側を走っていた。
 ピッチ内にも何人か見覚えのある選手が認められたが、あの森山を、こういう場所で見ることには、特別な感慨を覚えた。

 そういう光景は、おそらく全国のさまざまな場所で見ることができる。森山ほどのビッグネームではなくても、Jリーグで、年代別代表で、あるいは高校サッカーで、名前を聞いたことのあるような選手が、JFLや地域リーグで戦い続けている。全国にはJリーグを目指すクラブがずいぶんたくさん誕生しているようだ。

 以前、『スポーツ・ヤァ』の休刊についてこのblogで書いたことがあったが、ヤァよりもずっと残念だったのは『サッカーJ+』の消滅だ。徹底的に国内サッカーにこだわり、毎号見開きでJ1J2全クラブの特集記事を載せていたこの雑誌で、もっとも楽しみにしていた連載が、宇都宮徹壱の「股旅フットボール」だった。
 全国9つの地域リーグで、それぞれJリーグを目指すクラブを訪問しルポするという企画。9地域10クラブについての文章に、地域リーグからJFLへの登竜門である全国地域リーグ決勝大会、さらに、その予選を兼ねて特殊な地位を占める“全社”こと全国社会人リーグ選手権のルポを加えてまとめたのが本書だ。『サッカーJ+』が残した貴重な遺産ともいえる(ついでにいうと、えのきどいちろう『サッカー茶柱観測所』の白眉ともいうべき巻末の文章「一心同体 柏バカ万歳」も、この雑誌に掲載された文章だ)。

 地域リーグは、J1、J2、JFLと数えていくと、日本における4部リーグにあたる。
 紹介されているのは、グルージャ盛岡、V.ファーレン長崎、ファジアーノ岡山、ツエーゲン金沢、カマタマーレ讃岐、FC岐阜、FC Mi-OびわこKusatsu、FC町田ゼルビア、そしてノルブリッツ北海道FCと、とかちフェアスカイジェネシス。取材時から2年、すでにJ2入りしたクラブ(FC岐阜)もあれば、本書を読むまで名前も知らなかったクラブもある。
 それぞれのクラブに、誕生の背景があり、歴史があり、人々の来歴があり、地域性があり、そして夢がある。J昇格までの具体的な見取り図をもっているクラブもあれば、まだ手探りの夢でしかないクラブもある。ともあれ、この国に、これだけの多様な夢があり、夢に向かって走る人々がいる、ということに、単純に感動を覚える。


 とはいえ、宇都宮は、ただ夢を称揚するだけではなく、夢と背中合わせに存在する苦い現実についても言及、または示唆している。


 ひとつは、これは思いも寄らなかった現象だが、地方都市を拠点とするスポーツクラブの増加だ。

 以前、高松を訪れた時に、市だか県だかの観光案内施設の中に、地元のスポーツクラブに関する展示を見て、面食らったことがある。
 野球の香川オリーブガイナーズは試合を見たことがあるし、サッカーのカマタマーレ讃岐は、そのインパクトのある名前を記憶していた(羽中田昌が監督に就任してから開幕までに密着した『情熱大陸』も見たし)。だが、そのほかに女子バレーボールの四国Eighty8Queenがあり、バスケットbjリーグの高松ファイブアローズがあり、アイスホッケーのサーパス穴吹がある。こんなにあるのかとちょっと驚いた。
 こぢんまりとした高松市にこれほど多くの地元チームがあったら大変だな、とも思ったが、本書ではまさにそのカマタマーレの記事の中で、スポンサー企業を獲得する上での困難について触れられている。競技間の競争が生じてしまっているのだ。

 おそらく、高松だけでなく他の土地でも似たようなことは起こるだろう。
 とすれば彼らは、Jリーグへの道程だけでなく、地域内での経済的自立や他競技との壁の解消とも取り組んでいかなければならない。
 理想的にはFCバルセロナのように総合スポーツクラブとして統合されればよいのだろうけれど(新潟ではかなり現実に近づいている)、それぞれ出自も違えば、異なる歴史も背負っている。まして地方になるほど人のしがらみは重い。部外者が考えるほど簡単にはいきそうにない。


 もうひとつは、本書に明記されているわけではないが、最近Jリーグが発表した将来構想に関わってくる。
 現在、Jリーグのチーム数は、J1が18、J2が15の計33を数える。Jリーグ将来構想委員会では、J1はこのまま、J2は22まで増やし、以後はJFLと3チームの自動入れ替えを行う、と発表した。

 単純計算すれば、残る椅子は7。
 本書にはJ参入を目指すクラブが10紹介されている。FC岐阜はすでにJ2入りを果たし、残るは9チーム。そして、本書では取り上げられなかったJを目指すクラブも少なくない。

 正確な数を把握するのは難しいが、Wikipediaの「Jリーグに将来参加を目指しているチーム」によれば、JFLに準加盟クラブが5、それ以外でJを目指すクラブが3。地域リーグ所属クラブは20を数える。さらに5部リーグにあたる各都道府県リーグに所属するクラブにも、J参入を掲げているクラブは数多い。
 要するに、すでにJリーグのキャパシティをはるかに超える数のクラブが、J参入に手を挙げていることになる。

 もちろん、手を挙げたからといって、加入条件を満たせるとは限らない。実際に加入申請を行い、準加盟が認められるクラブはずっと少なくなるだろうけれど、残る椅子の数を上回る可能性は充分にある。

 心配なのは、Jを目指したクラブが、相応の組織力と相応の戦力を備えて、なおかつ彼らの前に同じ椅子を目指すクラブが長蛇の列をなしている時、彼らは自分たちの番が回ってくるまで、その組織力と戦力を維持することができるだろうか、ということだ。
 上位チームが入れ替え戦の対象となってはいても、JFLそのものはJ3、つまりプロリーグではなく、あくまでアマチュアの全国リーグだ。地域リーグや県リーグも同様。それはつまり、Jを目指すプロ仕様のクラブが経営を成り立たせるだけの収益構造を用意していないことを意味する。

 FC岐阜は異例のスピードで地域リーグからJ2まで駆け上がったが、彼らはある時期からそれを意図していたという。
 アマチュアの弱小クラブがJ2昇格に足る実力を備えるためには、選手の人件費を始めとする先行投資が必要となる。しかし、スポンサー収入をはじめとする収益が本格的に期待できるのは昇格後。多額の先行投資を行いながら何年もアマチュアのまま足踏みしていては、経営が支えきれなくなってしまうのだ。

 岐阜は計画通り、短期間でゴールに飛び込むことができたが、これからJ参入を目指すクラブの中には、岐阜が恐れた「負のシナリオ」に直面するところも少なからず出てくるはずだ。それは必ずしも、それぞれのクラブだけの責任ではなく、アマチュアリーグを3部扱いしているというJリーグ側の構造的な問題でもある。

 Jリーグが、百年構想だ、各県にJクラブを、と夢をふりまき、各地に種をまいた結果、それぞれの土地にJを目指す人々が生まれた。
 目指しても力が及ばないところは仕方がない。だが、Jでやっていけるだけの総合力を備えたクラブに育ったにも関わらず参入までには絶望的な壁がある、という状況に陥ったとしたら、Jリーグは、何らかの手をさしのべるべきだと私は思う。

 本書の中で、ツエーゲン金沢のGMが『余所者、若者、馬鹿者』という金沢の諺を口にしている。何事か新しいことをなすのはこの3種類の人間だという意味らしい。
 その通り、当事者たちは腹を括って馬鹿者と化し、損得抜きで突っ走らざるを得ない。
 だからこそ、夢を振り撒き、種をまいた側は、育った夢をきちんと収穫する責任がある。それができなかったとしたら、百年構想は一気に萎んでしまう危険をはらんでいる。
 取り越し苦労かも知れないが、このシナリオは、もしかすると数年後には直面するかもしれない、ありうべき未来でもある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年6月 | トップページ | 2008年8月 »