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“長沼一家”の時代の終わり。

 皆さんは日本の主なスポーツの競技団体で、誰が会長をしているかご存知だろうか。

 野球とサッカーを別にすれば、私の頭にぱっと思い浮かんだのは、日本スケート連盟の橋本聖子会長だけだった。ちょっと考えて、確か陸連の会長は河野洋平だったんじゃないか、と思い出した。あと、お家騒動の日本バスケットボール協会では麻生太郎を会長に担ぐプランが収拾策として取り沙汰されていたが、あれはどうなったんだか。
 水連は“フジヤマのトビウオ”古橋廣之進が長く務めたが、後継者の名前は知らない。日本バレーボール協会でも、ミュンヘン五輪で男子が金メダルを取った時の監督だった松平康隆が会長を務めた時期があったのは知っているが、現会長が誰かは知らない。ウインタースポーツは全部堤義明が仕切っていたような気がするが(ま、ホントに会長職にあった団体は限られているだろうが)、さすがに全部退いたのだろうな。

 と、私の知識はその程度のものだが、たぶん日本人の平均ラインとさほどの違いはないんじゃないかと思う。実際に競技団体や大会運営に関わっていたりしなければ、好きな競技であっても会長の名前までは知らない人が多いだろう。


 そう考えると、会長の改選が、新聞の一面で報じられるほどの注目を集め、ファンの間で予測や賛否が議論になるという日本サッカー協会が置かれた状況は、かなり特別なものといってよい。新会長は、日本のスポーツ界のマネジメントサイドを代表する顔といってよい立場になる。

 もっとも、サッカーがそのような社会的地位を獲得したのは、それほど古いことではない。Jリーグが発足し、日本代表がワールドカップ・アメリカ大会出場に肉薄した1993年当時のJFA会長は島田秀夫という人物。三菱重工の副社長で、三菱サッカー部の部長をしながら協会の仕事をしていたようだ。当時も今も、サッカーファンの間でもほとんど知られていない名だと思う。

 競技団体のトップに立つ人物は、その多くが「競技の世界で大物選手・監督だった人物」か、「社会的地位が高い人物」のどちらかにあたる。「大物選手出身でそこそこの社会的地位がある」とか、「社会的地位が高く、多少の競技経験がある」とかいう場合もあるが、たいていはどちらかに大きくウエートが傾いているので、2つに分類してしまって構わないと思う。

 7代目・島田秀夫までの歴代JFAの会長は圧倒的に後者が多かった。例外は4代目の野津謙くらいだろう(医師で、帝大蹴球部の創設者であり、卒業後もサッカー界にかかわってきた)。


 「社会的地位が高い人物」が会長職にいる場合、その効用は主に団体の社会的信用を担保することにあり、実務的には名誉職に近い。
 冒頭で触れたように日本陸上競技連盟の現会長は元自民党総裁の河野洋平で6代目になる。過去の5人には河野の父で元農林大臣・建設大臣の一郎、その弟で元参院議長の謙三が含まれる(一郎が就任直後に急死したため謙三が後を継いだ)。3人とも早大競走部出身で箱根駅伝を走った元選手ではあるが、会長に選ばれた理由としては、それは副次的なもので、政治家としての実力にウエートが置かれているはずだ。

 陸上競技界には、公道を占有してマラソンや駅伝の大会を開催するために自治体や警察との折衝が不可欠という事情があるので、トップに政治家を戴くことに実務上の意義もあるのではないかと想像できる。
 とはいえ彼らが実際に陸連を切り盛りできるわけではない。陸連の歴代専務理事には帖佐寛章、佐々木秀幸、櫻井孝次、澤木啓祐と著名指導者の名が並ぶから、実質的な団体の運営は、専務理事が担っているということだろう。
 「社会的地位型」の会長を戴く競技団体では、共通してこのような運営が行われているのではないかと思われる。


 JFAでもそのような時代があった。
 1962年に現役選手と兼任で日本代表監督に就任した長沼健は、監督を退いた1976年に協会の専務理事に就任する。同時に会長に招いた平井富三郎(新日鉄社長、5代目)から島田までの3代の会長はいずれも企業人で、実質的な協会の運営は、長沼と、長沼監督の下で代表コーチを務めていた岡野俊一郎が担ってきた。

 1994年、長沼が満を持して会長に就任する。前年、Jリーグ創設に成功し、ワールドカップ出場は成らなかったものの、2002年大会の招致活動が本格化。もはや名誉職のトップを戴いている段階ではなく、会長がサッカー界の顔として自ら動くべき時だった。
 任期中、加茂周代表監督の去就をめぐってのトラブルもあったが、日本のワールドカップ初出場、そして2002年大会招致(半分だが)を成し遂げて98年に勇退。後を次いだのが岡野俊一郎だ。岡野の次の10代目が現職、川淵三郎。JFAも大きくなり、片手間のトップでは通用しなくなった。「社会的地位型」に後戻りすることは、もはやなさそうだ。
 川淵は長沼監督時代の日本代表選手で東京五輪に出場している。長沼と同じ古河電工の出身でもあり、一時はサッカー界を離れていたが、88年にJFL総務主事となり、プロ化を主導した。現在、JFA副会長にしてFIFA理事の小倉純二も古河電工サッカー部のマネジメントスタッフから長沼が協会に招いた人物だ。

 つまり、1994年から現在まで、というよりも実質的には1976年から現在までのJFAは、“長沼体制”の下で動いてきたといってよい。
 トレセン制度、スポンサーとの契約、トヨタカップ招致など、JFAの財政的基盤や指導組織、現在の日本サッカーを支える仕組みは、この長沼時代に敷かれたレールの延長上にある。プロリーグ創設も、長沼のバックアップの下で進められた。

 川淵三郎の後継者には、一時は小倉純二の名も挙がっていたが、結局、犬飼基昭が就任することになった。旧“丸の内御三家”の一角、三菱重工業サッカー部の出身で、浦和レッズ社長を務めた人物だが、上述してきたような“長沼人脈”とはまったく別の出自にある。長沼健はこの6月に逝去したが、まさにその年に、JFAにおける“長沼時代”も終わることになる。


 犬飼は元JFL選手だが代表歴はない。三菱重工業、三菱自動車のサラリーマンだったが、欧州の子会社社長までで、財界人というほどの出世はしていない。
 つまり、前に触れた競技団体の長の類型、「競技界の大物型」と「社会的地位型」のどちらにもあてはまらない。プロリーグを構成する1クラブの経営者として強化・経営の両面で成功をおさめ、その手腕を買われてリーグ・協会に招かれた。新しいタイプのリーダーといってよい。サッカー界だけでなく、日本のスポーツ界全体を見渡しても、このような経歴をもつ競技団体のトップは稀だろう。

 長沼から川淵に至る“長沼一家”の人々は、国内外のスポーツ界が大きく変動した激動期に(しかも、変動の速度に国内外でかなりのズレがあったことが事態をさらに難しくしていた)、時代を見越した舵取りを見せ、稀に見る成功を収めた。長沼や川淵に、晩節を汚したと言われても仕方のない言動があったことは否めず*、とりわけ川淵会長は功績とともに負の遺産を残した可能性も強いけれども、一連のグループとしてみれば、彼らは非常によい仕事をしたと思う。

 だが、その変動期もほぼ一段落した。
 「アマからプロへ」ではなく、完全にプロを前提とした秩序の中で育った選手が大半となり、Jリーグ育ちの指導者が一線に立ち、日本がワールドカップに出るのが当たり前だと信じている観客がスタンドを埋めるようになった。
 長沼は選手から登録料を集め、スポンサーから後援料を引き出すことで協会の財政を安定させたが、これからはJリーグを含めたビジネスとして収益構造を築いていかなければならない。
 サッカー選手へのロールモデルとしての期待、ビジネスコンテンツとしての期待、教育機関としての期待、地域活性化の核としての期待。20年前には存在しなかったか、仮定でしかなかったような社会からの要請が、現実の、しかも相当に強いものとなっている。

 私は犬飼氏の人物や実績、具体的な言動について多くを知らないので、彼が会長にふさわしい人物なのかどうかを論ずることはできない。
 ただ、ここまで述べてきたような文脈においては、サッカー界(あるいは日本のスポーツ界)が経験したことのない新しい課題に取り組むために、新しい経歴のリーダーを選ぶという選択は、適切なものだと思う。決まったからには、よい仕事ぶりを見せて欲しい。

 上述の通り、日本のほとんどの競技団体のトップは「社会的地位型」か「競技界の大物型」にとどまっている。それはひとつには、それぞれの団体が、ハイブリッドな実力者を必要とするような局面にまだ立っていない、あるいは、立っていることに気付いていない(日本相撲協会などはその典型だ)ことを意味する(もちろん、そんな人材が存在しない、ということもありうるが)。
 その意味で、JFAの会長人事および新会長のマネジメントぶりは、日本のスポーツ界全体に新しい局面を開き、大きな影響を与える可能性があるといっても過言でない。


 なお、冒頭で「野球とサッカーを別にすれば」と記した。
 日本サッカー協会会長の特殊性は縷々述べてきた通りだが、野球を別にした事情はまったく異なる。野球には統括的な競技団体がないので、他団体と比較しうる「会長」が存在しない。論じようがないのだ。
 強いて言えば、五輪に代表チームを送り出す母体組織(というかトンネル団体)である全日本アマチュア野球連盟の会長は松田昌士・元JR東日本社長であり、NPBコミッショナーの加藤良三は前駐米大使。いずれも野球界の人物ではなく「社会的地位型」にあたる。かといって、その片腕として現場を切り盛りする野球人がいるようにも見えないのが、この世界の何とも重苦しい現状を表している。


*
 ただし、長沼は97年のワールドカップ最終予選で代表チームが危機に瀕した時、自らの手で加茂周を更迭することで、“腐ったリンゴ事件”に落とし前をつけたとも言える。川淵は、批判を受けた言動に対して落とし前をつけていない。そこは区別しておきたい。

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コメント

>ただし、長沼は97年のワールドカップ最終予選で代表チームが危機に瀕した時、自らの手で加茂周を更迭することで、“腐ったリンゴ事件”に落とし前をつけたとも言える。川淵は、批判を受けた言動に対して落とし前をつけていない。そこは区別しておきたい。

落とし前つけてないでしょ。
加茂で行けなかったら私が辞めるって堂々と記者会見で発言されたはずですが。
加茂を更迭と同時に会長をやめるのが当たり前。
それどころか任期一杯、お勤めされたようで。
もちろん給料ももらってたと思うのですが。
常識では考えられませんね。

投稿: | 2008/07/13 11:52

2008/07/13 11:52の無記名のコメントについて

>加茂で行けなかったら私が辞めるって堂々と記者会見で発言されたはずですが。
>加茂を更迭と同時に会長をやめるのが当たり前。

私はワールドカップ出場という結果を出したのだから許容範囲だと思っていますが、そういう捉え方も当然あると思うので否定はしません。「落とし前をつけたとも言える」という表現をしたのは、そこがあったからでもあります。

ただし、

>もちろん給料ももらってたと思うのですが。

JFAの会長に給料が出るようになったのは現職の川淵氏からで、長沼さんの頃は無給だったはずです。
孫引きになりますが、こちらのサイトの週刊誌記事引用の中に<岡野氏の代までは会長も名誉会長も無給だった>という記述があります。
http://soccerunderground.com/blog/archives/000883.html

他のソースでも読んだ記憶があるので、まあ確実だと思うのですが、

>もちろん給料ももらってたと思う

とおっしゃる根拠があればご教示ください。

投稿: 念仏の鉄 | 2008/07/14 00:53

「見物人の論理」さんの考えにまったく同意です。
日本協会の歴代会長の流れ、そして長沼一家(この言葉はちょっとそぐわない気がしましたが)がめまぐるしい時代にうまく日本サッカーを導いたこと、など私もそう思います。
(また「陸連」に関する部分、公道占拠云々は「ああ、確かにそういうことなのだなぁ」と得心しました)

あえて付け加えるならば、かつてのサッカー協会会長(あるいは他団体=財源に乏しい組織の会長)は経済的に余裕のある人しか務められないという側面もあったようです。

上記とも関連しますが、「無給」であるため、です。
野津会長も(サッカー歴より)お医者さんであったことが大きかったようです。

投稿: 通りすがり | 2008/07/14 20:02

>通りすがりの方

>長沼一家(この言葉はちょっとそぐわない気がしましたが)

確かに。「長沼人脈」「長沼系列」など、いろいろ表現を考えましたがどれもしっくりきませんでした。彼らは(川淵氏を例外として)、これらの言葉が持つ臭みをあまり感じさせない、ということなのかも。

>かつてのサッカー協会会長(あるいは他団体=財源に乏しい組織の会長)は経済的に余裕のある人しか務められないという側面もあったようです。

岡野氏がJFAやJOCで活動し続けることができたのも、和菓子屋という家業があってこそだったのでしょうしね。

投稿: 念仏の鉄 | 2008/07/15 08:08

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