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新聞が崩壊した後のニュースについて。

 はてなブックマークで目についた「新聞業界 崩壊の理由5つ、いや6つ」というエントリを読んでみた。紙媒体の人間としては関心を抱かざるを得ない話題ではある。
 エントリには、毎日新聞の英文サイトでの不祥事をマクラに、標題通りの内容が記されている。

 筆者のChikirin氏が挙げる「崩壊の理由」は以下の通り。

1.市場の縮小
2.マス広告価値の低下
3.販売システムの崩壊
4.編集特権の消滅(価値判断主導権の読み手への移転)
5.記者の能力の相対的かつ圧倒的な低下

 1-3はなるほど的を射ているように思う。
 5は特に根拠を示して論じられているわけではないので、感想はない。


 ちょっと気になったのは4の部分。
 内容の説明としては、以下のようなことが書かれている。

新聞の権力性がどこにあるかといえば、それは「どの記事を紙面に載せるか」という判断権を持っているという点にあるわけです。何を載せ何を載せないか、何を一面にして何を後ろに持ってくるか、それぞれの記事をどの大きさで報じるか。

 これらを通して新聞はそれぞれの事件なり出来事の「価値判断」をするという特権を持っていた。「彼らが大事だと思ったことが一面のトップで大々的に取り上げられ」、たとえちきりんが「これは大事!」と思っても、新聞社がそう思わなければその記事は葬り去られる。これは絶大な権力であったわけです。

ところがネットの出現でこの特権が失われます。

 第一にネットには「紙面の量の制約」がありません。どの記事を載せるか載せないか、という判断は不要なんです。全部掲載しても誌面が足りなくなったりはしない。

 次に一面という概念がない。確かにウエブにもトップページや特集ページはあります。しかし読む人の大半は「検索」したり好みのカテゴリーから順に読み始める。何を大事と思うかは、新聞社ではなく読者が決めるということになった。

 「編集権」が意味をなくした瞬間でした。「デスク」と呼ばれる権力者は、社会の権力者から「新聞社内だけでの権力者」に格下げされたのです。


 このような「新聞ダメ論」をネット上で読む機会は多いのだが、読むたびに思うことがある。ちょうどよいきっかけなので書いておく。

 このエントリに書かれていること自体には、大筋では異論はない(細かいことではいろいろあるが話がそれるので省略する)。
  Chikirin氏が<ニーズがなくなった商品が生き残れることはあり得ないのです。>と書いている通り、世の中の多くの人が新聞を必要としなくなれば、新聞はなくなるだろう。それはそれで仕方がない。

 気になるのは、ここに書かれていないことだ。
 Chikirin氏がいうように新聞業界が崩壊して新聞がなくなったとすると、その後の世の中はどうなるのだろう。
 「世の中は」というより、「世の中のニュースは」どうなるのだろう。


 「ニュースはネットで読むから新聞は要らない」という人は多い。ひとりひとりの行動としては合理性がある。
 ただし、彼らがネットで読んでいるニュースのほとんどは、元をただせば新聞社がポータルサイトなどに売っているものだ。新聞社がなくなれば、それらのニュースも提供されなくなるから、今と同じものを「ネットで読む」ことはできなくなる。

 ま、そうは言っても、ニュースを集めて記事を売る、という商売には需要があるだろうから、新聞紙はなくなっても新聞社は存続する可能性はあるし、ニュースが消滅するということには、たぶんならない。
 ただし、そのような形での収入が、現在の新聞社が読者と広告主から得ている収入に匹敵する規模に成長するとは考えにくい。つまり、業界のパイは小さくなる。
 とすれば、ニュースを売る企業どうしの競争はあまり活発でないものになりそうだし、それぞれの企業がニュースの生産に投資できる額も減る。提供されるニュースの品質は悪化すると考えるのが自然だ。ひょっとすると少数のニュース企業による寡占化が、今よりも進むことになるかもしれない。


 そういう形でニュースが流布するようになり、新聞というパッケージがなくなるとする。Chikirin氏が言うところの<編集特権の消滅>した状態がデフォルトになった状況だ。

 そんな状況を想像することは、新聞というパッケージの意味を改めて考えることでもある。
 現行の新聞社は、さまざまな分野のさまざまなニュースを格付けしながら、それらを一括して、その日の新聞として提供している。オール・イン・ワン形式である。

 インターネットではオール・イン・ワンは成り立ちにくい(そもそも「ワン」を囲い込むことが難しい)。
 新聞のオール・イン・ワン機能が消滅すれば、多種多様のニュースソースから送り出されたさまざまなニュースが、それぞれ並列的に世の中やネット上に存在することになる。
 企業や役所の出すニュースリリース、学者による論文、市民記者によるネットニュース、市民ブロガーのコラム。そのほか、さまざまな専門家が自分の専門領域についていろんなことを書く。

 <新聞記事よりおもしろい日本語ブログはたくさん存在する。新聞の論説委員より深い洞察、新聞記事よりも適切なデータ分析、記者の付け焼き刃のようなものとはレベルの違う専門的な知識を、惜しげもなく無料で提供するネット上のサイトは多数にわたる。>とChikirin氏は書く。
 確かにそうだ。新聞に掲載されているひとつひとつの記事や論説が、圧倒的に高いクオリティを有しているとは思わない。専門家の目から見れば物足りないものの方が多いだろうと思う。

 ただし、<新聞の論説委員より深い洞察、新聞記事よりも適切なデータ分析、記者の付け焼き刃のようなものとはレベルの違う専門的な知識>は一か所にあるわけではなく、ネット上のいろんなところに、それぞれ無関係に存在する。それらを読もうとする人は、自分自身の手でネット上を丹念に探し、ひとつひとつを熟読玩味し、それぞれの価値を検証しなければならない。そうやってブックマークを充実させ、信頼すべきソースを編集していく。そういう作業を経なければ、ネット上にある良質な知識を利用することはできない。


 そう考えた時、新聞の持つ機能がはっきりしてくる。
 新聞がほかのメディアと異なるのは、すべてがひとつのパッケージになっていることだ。
 世の中の主だった分野の主だった出来事が、そこそこの水準の記事になって、数十ページの新聞という形をとり、毎日発行される。その集合体に継続的に目を通すことで、人は、世の中全般について、そこそこの水準で知識と見識と判断力を持つことができる(ことになっている)。

 と同時に、それが大量に流布されることで、1人だけでなく「そこそこの水準の知識と見識と判断力」を共有する集団が形成される、という現象も起きる。
 この現象を重視する考え方もある。
 たとえばベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』には、印刷技術の発達がナショナリズムと国民国家の形成に大きく影響したことが書かれている。
 マスメディアが出現し、同じテキストを大勢の人が読むこと(そして、大勢が読んだ、と誰もが知っていること)により、直接会ったことも話したこともないけれど自分と同じ知識の体系をもったはずの人々を仲間(国民)と認識するようになった、とアンダーソンは論じる(本が手元にないのでうろ覚えで書いてますが)。
 最近の本では、岡本一郎『グーグルに勝つ広告モデル』(光文社新書)が、これを、新聞が常識を形成する、という表現で書いている(これも同前。あとで確認して引用部を修正するつもり)。

 インターネットでは、それぞれの利用者が自分の知りたいことを知り、知りたいと思わないことについて知る機会は非常に少ない。
 Chikirin氏が書くように、ネット上では<何を大事と思うかは、新聞社ではなく読者が決める>のだが、読者ひとりひとりにとって何が大事かは異なる。任意の何人かが集まった時に、どの程度の共通項が存在するのかは、はなはだ心許ない。
 「それぞれの立場もお考えもあるでしょうけど、とりあえずこれはみんなにとって大事でしょ」というもの(岡本一郎の表現を借りれば「常識」)を、これまでは新聞が提示していた。新聞が崩壊した後で、新聞に代わって、その役割を果たすものが、果たして存在するだろうか。あるいは、新たに登場するのだろうか。

 もちろん、新聞が提示する「これは大事でしょ」という「常識」の品質に、出来不出来はある。もっと大事な分野や、もっと大事な出来事があるだろう、という不満は批判は常にあるだろうし、そのような意見をフィードバックしなければどんどん質は劣化していく。かつてはよくできた「常識」だったかも知れないが、時代の変化に適応できていない、という面も強い。

 ただ、Chikirin氏の関心は、そういう次元ではなさそうだ。
 <新聞はそれぞれの事件なり出来事の「価値判断」をするという特権を持っていた。「彼らが大事だと思ったことが一面のトップで大々的に取り上げられ」、たとえちきりんが「これは大事!」と思っても、新聞社がそう思わなければその記事は葬り去られる。これは絶大な権力であったわけです。>という記述からは、新聞が独自の価値判断を加えた上でニュースを送り出すこと自体に否定的なニュアンスがうかがえる。

 私は、多少精度は落ちてもいいからそこそこの信頼性をもったオール・イン・ワンの情報源があった方が楽でよい、と思っている。自分自身があらゆる分野に精通し、手頃な情報源を探索して、ひとつひとつの信頼性を検証し、日々それらから情報を入手する、というような作業をするのはとても手間がかかって、自分のようなものぐさな人間にはできそうにない。全面的に信頼できなくても、とりあえずの叩き台としてそれを利用できれば、ゼロから自分でやるよりも効率がよい。
 そういう意味で、現行の新聞は(内容に対する不満や要望はいろいろあるにしても)利用価値があると思うし、実際に代金を払って購読している。

 Chikirin氏のように考える人が大勢を占めれば、新聞は衰退し、私は不便をかこつことになる。
 いや、たぶん、不便をかこつことになるのは私だけではない。世の中のすべての人が、自分の力であらゆる分野の信頼できる情報源を見つけてアクセスする能力を持つようになるとは考えにくいので(そうであれば「ググレカス」なんて言葉を目にする機会は非常に少ないはずだ)、そうではない、という前提でこの先の話を進める。

 悲観的な見通しとしては、新聞が担っていた「常識」が世の中に提供されなくなると、人々は今よりもさらに自分の関心事以外には関心も知識も持たなくなっていくだろう(トートロジー気味な表現ですが)。
 現在でも、ネット上で見かける論争には、それぞれが基盤とする知識や見識がそもそも異なっていて話がかみ合わない、というものが少なくないように思うが、その傾向はますます強まることになるのだろう。まわり中すべての人がそれぞれ別の国からきた外国人、というようなことになる。対話や議論が成り立つだけの共通の基盤が失われた世の中というのは、かなり厄介なことになりそうで気が重い。

 一方、少し楽観的な見通しとしては、ネットその他の情報源のうち、どれが重要で、どれが信頼できて、どれとどれに目を通すべきかを教えてくれる、水先案内人のような人物や機関やサイトが登場してくるだろう。それらが、新聞に代わって、新しい「常識」を世の中に提供してくれるかも知れない。

 ただし、インターネットの宿命として、水先案内サイトそれ自体も玉石混交になることは避けがたい。ある個人なり組織なりが主宰する以上、そこで提供される「常識」には彼らの考え方によるバイアスがかからざるを得ない。
 だから、水先案内サイトを利用しようとする人は、どのサイトが信頼できるかを見極めなければならないということになるし、結局のところは、自分の好みに合ったバイアスのかかったサイトを主に利用するようになるのだろう。もっとも、それらが新聞のように寡占的状況を手にすることは難しいだろうから*、新聞が提供してきたほどには、広汎かつ強力な「常識」が形成されることにはならないように思う。
 また、それらにおけるバイアスが、Chikirin氏のいうところの新聞の<権力>と違うものになるのか、あるいは似たようなものになるのかは、よくわからない。


 Chikirin氏のエントリは、
大変なこった。

 そんじゃーね。
という言葉で締めくくられている。

 新聞業界が崩壊するかどうかは、業界人にとっての問題で、それ以外の人には他人事である。

 ただし、新聞が崩壊した後でニュースがどうなるかというのは、むしろニュースの受容者側の問題だ。
 そして、世の中のニュース状況が、ここまで考えてきたようなことになっていくのだとすると、ニュースを読む側の人にとっても、なかなか<大変なこった。>ということになるかも知れない。

*
と書いたが確たる根拠はない。googleのように圧倒的な寡占サイトがこの領域に出現するようだと世の中不気味だなとは思うが。

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コメント

確かに鉄さんの仰る通り「新聞」や「TVニュース」がなくなると非常に困りますね。いちいち検索なんてかけてられないし´д`
とりあえずの「とっかかり」としては欠かせないものだとおもいます。詳しく知りたいならネットが便利でしょうけど・・・。リアルタイムに近いのから過去ログまで見放題ですし。

でも「ネット過多」になるとよりインナーになって行く気がしますね。同好の氏(ん?これでしたっけw)しか集まらないわけで、ある意味では見解を狭めそうですね。
普通は新聞である程度の社会情勢を見極めるとおもいますけどね。
だから無くなんないんじゃないですか?きっと。

投稿: 一介の論客・KTY | 2008/07/29 22:05

ちょっと私には分かりにくかったので、そう言えばと思い出して、
「堀江社長が考える『意思のない新聞』とは。」という記事を読み返しました。

「新聞否定論の人は『意志』と『操作』の終焉、みたいなことをすぐに言うけど、
実際には意志と操作をゼロにするなんてことはほぼ不可能だし、
またできたとしてもメリットない」というような理解で大体合ってますか。

いま『2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?』という本を読んでるのですが、
おもしろいですよ。「新聞は信用しないが2ちゃんねるは信用する」
みたいな人が増えてるとしたらちょっとどうなのか、みたいなことを
ひろゆき氏が語っています。

投稿: nobio | 2008/07/29 23:00

>一介の論客・KTY さん

>とりあえずの「とっかかり」としては欠かせないものだとおもいます。詳しく知りたいならネットが便利でしょうけど・・・。

そうですね。新聞とインターネットと両方使える現状が、いちばん便利でいいと私は思っているのですが。

>普通は新聞である程度の社会情勢を見極めるとおもいますけどね。

私もそうは思いますが、我々の「普通」がどこまで通用するのかについては、あまり自信がありません。そんなものは必要ない、と思っている人が結構いるような気がします。


>nobioさん

>「新聞否定論の人は『意志』と『操作』の終焉、みたいなことをすぐに言うけど、
>実際には意志と操作をゼロにするなんてことはほぼ不可能だし、
>またできたとしてもメリットない」というような理解で大体合ってますか。

自分でも後から読み返してみましたが、あの話の延長ですね、これは。
で、ご理解については、最初の2行はそんなところだと思いますが、
「できたとしてもメリットない」というよりは、
「できたとしたら、その方が読者は大変かも」というところです。

『2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?』は出た頃に読みました。
彼の身も蓋もないリアリズムには感心することが多いです。
インターネットに幻想(よい方でも悪い方でも)を抱く度合が、世の中でいちばん小さい人かも知れませんね。

投稿: 念仏の鉄 | 2008/07/30 00:45

鉄さん、ご無沙汰しておりました。福岡の馬場です。

私も、新聞は「凡庸な常識」を提供することが、いちばん大事な仕事なんだろうなぁと思います。

これだけ世の中が複雑化して膨大な情報があふれかえっているだけに、新聞のもつ「何が大事で何が大事でないか」ということをフィルタする「インデックス機能」はかえって重要になってきていると思います。

Chikirin氏のような方には気にくわないかもしれませんが、自分とは縁もゆかりもないが世の中にとって重要なことというものは確かにあるのであり、それはやっぱり新聞(及びマスコミすべて)に教えてもらうしかない。その方が、親兄弟や知人、近所の人に教えてもらうしかない「マスコミ以前」の社会の状態よりも、たぶん相当にマシです。

自分の興味関心に沿うものだけをネットの情報の海の中から拾って来ればいいじゃないか、という議論は、市民が「自分と直接関係ないこと」について判断を求められるという民主主義社会の「面倒くささ」に対する理解を欠いていると思われます。

民主主義とは、例えば郵政民営化みたいに(笑)、大多数の国民とって「どう考えても自分と関係ないこと」について国民に判断を要求する制度です。そしてその判断の結果が、結果として国民自身に大きく跳ね返ってくることになります。

そういうとき、私はやはり新聞を熟読すると思います。
「2ちゃんねる」の意見を参考にするのは、いささか怖すぎます(笑)。

投稿: 馬場 | 2008/08/05 12:56

>馬場さん
>自分の興味関心に沿うものだけをネットの情報の海の中から拾って来ればいいじゃないか、という議論は、市民が「自分と直接関係ないこと」について判断を求められるという民主主義社会の「面倒くささ」に対する理解を欠いていると思われます。

なるほど、これは確かにそうですね。
かつて権利として獲得したはずのものが、時間が経つうちに制度あるいは義務に近づいて、人々を縛っているかのように受け止められてしまう、という現象はいろんなことに起こりますが、「民主主義」や「新聞」にもそのような傾向があります。

投稿: 念仏の鉄 | 2008/08/06 00:35

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» 読後評:グーグルに勝つ広告モデル なかなか読ませる、2008年現在マスメディアの今後ビジョン例。 [日々 是 変化ナリ 〜 DAYS OF STRUGGLE 〜]
感想を一言にいうと、今年1月に出版された「明日の広告:変化した消費者とコミュニケーションする方法」(著者:佐藤尚之氏 CMプランナー→ウェブ・プランナー→コミュニケーション・デザイナー。1995年から個人サイト「WWW・さとなお・COM」(http://www.satonao.com/)を運営してきたネット感覚も兼ね備えたクリエイティブ・ディレクター)と、印象が非常に近い。 (参考:2008-01-18  読後評:明日(あした)の広告 現役感バリバリのコミュニケーション論。これは必読書!) 違い... [続きを読む]

受信: 2008/08/03 21:07

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