『ダークナイト』
注意:TBいただいた「ひねくれ者と呼んでくれ」のさわやか革命さんから「ネタバレモード」とのご指摘がありました。具体的なことは伏せたつもりでしたが、象徴的な部分では結論を割ってしまっているかも知れません。これからこの映画を観ようという人はご留意を。ここで読むのをやめる方には、「抜群に面白いです。でも重苦しいです。辛いです」とだけ言っておきます。
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クリストファー・ノーラン監督が最初にバットマンを手がけた『バットマン ビギンズ』は気に入った映画だったので、彼が再びクリスチャン・ベールを主演に据えた本作も当然のように映画館に足を運んだ。
ブルース・ウェイン(ベール)を支えるウェイン家の執事アルフレッドにマイケル・ケイン、ウェインの会社経営を任される技術者フォックスにモーガン・フリーマン、バットマンと暗黙の共闘関係を結んだゴッサムシティの警官ゴードンにゲイリー・オールドマンという盤石の布陣も前作と同じ。ウェインが愛する幼なじみのレイチェルはマギー・ギレンホールに変わっている。
だが、この映画でもっとも印象的な登場人物は、ヒース・レジャーが演じる悪役ジョーカーだ。多くの観客がそう感じることだろう。
ジョーカーは「悪」を体現した人物だ。
彼はどこにでも現れる。銀行でマフィアの預金を奪い、そのマフィアの本部に乗り込んで自分を殺したほど憎んでいるボスたちと取引し、警察に捕らえられても結局は高笑いしながら出て行く。彼は行く先々で人を苛み、欺き、そして殺す。
彼の行動に動機はない。唇の両端が裂けて吊り上がった顔について、自分がいたぶっている相手に「俺の顔がなぜこうなったか教えてやろう」と少年期や父親とのエピソードを楽しげに語って聞かせるのだが、語るたびに内容が変わる。だから彼の言葉は信用できないし、虐待に遭ったトラウマだとか社会への恨みだとか、そんな言葉で彼の行動を説明することはできない。銀行を襲って金を奪っておきながら、富に執着するそぶりも見せない。
彼を動かしているのは、純粋な悪の衝動なのだ。人を傷つけ、苦しめて殺す、その快楽に溺れるように、彼は次々と罪を重ねていく。
現実には、後先考えず犯罪に溺れるような人物は、大抵はどこかで自滅するものだが、不思議なことに、誰も彼を捕らえることはできないし、傷つけることもできない。その万能ぶりは、まさに“ジョーカー”そのものだ。
そんな人物が唯一こだわりを見せるのが、バットマンという存在だ。
バットマンは(本人と周辺のごく少数の人々、そして映画の観客を除いた世の中の人々にとっては)正体不明の人物だ。奇怪なコスチュームに身を包み、独特の武器を操り、町のあらゆる場所に現れて、暴力をふるう。
結果として、悪を懲らしめて警察に引き渡す、という行動をとってはいるが、彼が他者に対して暴力をふるう権利は、しかるべき機関や手続きによってオーソライズされたものではない(他人の紛争に介入するので、正当防衛というわけでもない)。「正義の味方」として振る舞ってはいるけれど、法治国家や民主主義社会において、実は彼の行動は犯罪以外の何物でもない。
ジョーカーは、そのようなバットマンの本質を見抜いている。にもかかわらずバットマンが民衆の英雄として扱われていることが不快で仕方がない。そこで、ジョーカーはさまざまな方法でバットマンに挑戦する。
「バットマンが正体を現さなければ1人づつ市民を殺す」と脅し、かつ実行する(ジョーカーは殺人を少しもためらわない人物だ。それは冒頭の銀行強盗シーンで強烈に印象づけられる)。レイチェルと、その現在の恋人である地方検事デント(アーロン・エッカート)を誘拐し、それぞれを別の場所に監禁して時限爆弾を仕掛け、「どちらか片方を救えば他方が死ぬ。決めるのはお前だ」とバットマンに迫る。しまいには、危険の迫る町から脱出を図った船2隻に悪夢のような“囚人のジレンマ”を仕掛ける。
お気づきの通り、ジョーカーはバットマンに直接的に暴力をふるったり、殺害を企てたりはしない。ただバットマンの内面を執拗に攻撃する。物理的に傷つけられ、殺されるのは、もっぱら彼の周囲の人々であり、あるいはブルース・ウェインとは直接的に関係をもたない市民だ。
そうすることによって、あるいはそう予告することによって、ジョーカーはバットマンを窮地に陥れる。市民はバットマンを憎み、仮面をはぎとることを望みはじめる。
どちらを選んでも救いのない難問を、バットマンは次々に突き付けられて苦悩する。
2時間半を超える長い上映時間は、めまぐるしいサスペンスとアクションで息つく暇なく埋め尽くされるけれども、そこに爽快感はない。バットマン=ウェインは常に不条理な罠を仕掛けられ、悩み続ける。観客にとっても重苦しい時間が続く。
バットマンがこの苦しみを脱し、ゴッサムシティに平穏を取り戻すための、もっともシンプルで、簡単に実行できる解決方法がひとつある。
ジョーカーを殺すことだ。
ジョーカーは組織を持たず、常に自身が行動する(手下を伴うこともあるが、金で雇ったその場限りの関係であることが多いようだ)。一対一の格闘になれば、ジョーカーはそれなりに手強いけれど、おそらくはバットマンの方が強い。ジョーカーの居場所を突き止め直接対峙しさえすれば、ジョーカーを殺すことはバットマンにとってさほど難しくない。
だが、バットマンは人を殺さない。ジョーカーに対してだけではなく、バットマンとして活動する際、彼は基本的に人を殺さない。あくまで悪行を阻み、相手の自由を奪って警察に処分を委ねるところまでにとどめている。それがバットマンの正義であり、信念なのだろう。現代の正義とは、実に不自由なものなのだ。
つまり、ジョーカーが挑戦しているのは、バットマンの信念なのだ。バットマンの心を折り、その姿を市民に見せつけることこそ、ジョーカーの望むところなのだろう。あるいは、バットマンの中から邪悪な側面を引き出すのでもよい。
コインの裏表のように似通ったところもある2人だが、ジョーカーが完全にオールマイティな存在であるのに対し、バットマンは「正義」「不殺生」という信念で己の手を縛っている。ジョーカーに守るべきものは何もない。バットマンはたった1人で(警察と協力してはいるが)市と市民を守るという誇大妄想に近い目標を常に抱いている。
だから、ジョーカーはいつでもどこからでも攻撃可能で、バットマンは常に後手に回らざるを得ない。個人的な弱点を執拗に攻撃され、受忍の限度を超えたバットマンは、怒りのあまりジョーカーを殺したい衝動に支配されそうにもなる。そうなればなったで、ジョーカーにとってはある種の勝利でもある。
耐えに耐え続けるバットマンは、まるで神が与えたもうた試練によって信仰を試される宗教者のようだ。これはある意味で、「正義」を教義とする宗教映画のようなものである(だから、厳しい試練に屈してダークサイドに墜ちてしまう登場人物も描かれる)。
重苦しい緊張感に支配され続けるこの映画は、結末もまた苦いものになる。第3作に含みを残すラストとなったが、それが作られることになったとしても、やはり苦いものにならざるを得ない。町に平和が訪れ、後を託せる人物が現れたら、バットマンを卒業して一市民に戻りたい、というウェインの願いは、当分かなえられそうにない。
映画の中でわずかに示される希望の光は、思わぬところから差してくる。乗客を満載した2隻の船が、いかにして“囚人のジレンマ”を脱するか。その過程は、この戦いの本質が、実はバットマンとジョーカーという2人の個人の間のものではないのだ、ということを静かに語っている。
『ダークナイト』の中で描かれる「正義」と「悪」は、すぐれて現代的な「正義」であり、現代的な「悪」だ。21世紀にふさわしい寓話ともいえる傑作となった。
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