王選手がグラウンドを去った頃のこと。
スポーツを観るという行為の中には、かなりの割合で「失望すること」が含まれる。贔屓チームの勝利や、記録達成の瞬間を目当てにスタジアムに足を運んでも、それが見られるとは限らない。
私もしばしばその種の期待を抱いて野球場のスタンドに座ることはあるが、偉大な記録や偉大な勝利の瞬間に居合わせたことはほとんどない。ありていにいえばツキがない。
古くは木田勇が今日勝てば新人で20勝を達成するはずの日にあっさりとKOされ、イチローが2本だか3本のヒットを打てば打率が4割に乗るという夏の夜には、彼には珍しい無安打に終わった。ブライアントやローズの豪快な本塁打見たさに近鉄の試合に行けば、豪快な空振り三振を堪能させられる。1981年、ジャイアンツが8年ぶりに日本一になった時には、優勝が決まった試合のチケットを持っていたというのに、事もあろうに身内の葬式が割り込んで、葬儀場に停っていた車のラジオで優勝の瞬間を聞く羽目になった。
そんな疫病神のような私がスタンドで目撃した数少ない歴史的事象に、王貞治選手の868本目の本塁打がある。
1980年、10月中旬の日曜日だったと思う。当時高校生だった私は、友人に誘われて、とある私立の女子高の文化祭を訪れた。文化祭の方は、語るほどのことは何も起きていない(あ、ギターの弾き語りでグレープの「追伸」を聞いて、何て怖い歌なんだろう、とびっくりしたのは覚えている。それまで、さだまさしの声では気付いていなかったが、女性の声で聞くとあの歌詞はなまなましすぎる)。
午後3時ごろに女子高を出ると、大通りを挟んですぐ向かい側に後楽園球場があった。調べると、午後4時からジャイアンツの試合があるという。これといって予定もなかった私は、友人と別れて、1人で野球を見ることにした。あまり所持金もなかったのだろう、座った席は、おそらくいちばん安かったライト側のジャンボスタンドだった(外野席の上に増設したスタンドがそう呼ばれていた)。
午後4時などという半端な開始時刻は当時でも珍しかった。なぜこの日がそんな設定だったのかはわからない。
この年、長嶋監督が率いるジャイアンツは、優勝戦線にからむことなくシーズンを終えようとしていた。前年は、野球協約が想定しない形での契約を強硬しようとしたあげく、イリーガルな移籍によって手に入れた江川卓投手をめぐるゴタゴタが悪影響を及ぼし(心理的なものだけではなく、江川とのトレードで阪神タイガースに加わった小林繁に8連敗を喫した)、勝率5割を切って5位に低迷した。明けて80年、江川はようやく本領を発揮しはじめ(16勝で最多勝を獲得)、定岡、西本、山倉、篠塚、中畑、松本ら、後に主力となる選手たちが台頭してきたものの、最終的に1つ勝ち越して3位に入るのがやっとだった。
防御率2位から4位に3人が並んだ投手陣を擁しながら低迷した大きな原因のひとつが、長嶋引退後の巨人打線で四番に君臨してきた王貞治の衰えだった。
前年、久しぶりに三割を切り、実に18年間続けて獲得してきた打撃三大タイトルをひとつも取れなかった王は、80年はさらに苦しみ、打率は2割そこそこに低迷。確か死球が原因ではあっても欠場が増えた。プロ入り初の代打本塁打を記録したのもこの年だった。最終的には.236で規定打席に達した選手中最下位。本塁打は30本にとどまったが、それでもチーム1だったところに打線の弱さがあった。
そんなわけで、この日の試合はペナントレースの行方にはほとんど関係がなかった。秋晴れの日曜の夕方、外野席の上の方から、のんびりと眺めていたはずで、試合内容はほとんど覚えていない。相手がヤクルトだったことさえ忘れていた。
ただひとつ記憶しているのは、王がライトスタンドに放り込んだ本塁打だった。
すでにさほど力感があるわけでもなかったスイングだが、打球はゆったりとした弧を描いて、私のいたジャンボスタンドの眼下にあるライトスタンドに落ちていった。日米野球などを別にして、公式戦で王の本塁打をスタジアムで見たのは、これが初めてだった。だから、私はそこそこの満足感を抱いて後楽園を後にしたはずだ。
その後、ジャイアンツは4試合の公式戦を戦ったが、王に本塁打は出なかった。シーズン終了後、長嶋監督が職を去り(辞任と発表されたが実質的には解任だろう)、しばらく置いて王の現役引退が発表された。
上述したように、この年の王の打率は.236だった。プロ入り22年、40歳という年齢を考えれば、引退したとしても不思議はない。
だが、結果的に彼の最後の1本となった本塁打を目撃した時、これが最後になるかも知れないとか、今年で見納めになるかもしれない、という意識は私にはまったくなかった。まして、あの本塁打が最後になるなどとは考えてもみなかった。
王が初めて本塁打王になったのは昭和37年(1962年)。私が生まれた昭和39年には55本塁打でシーズン記録を塗り替え、以後ほぼ毎年、本塁打王と打点王を独占し、たまに首位打者もとった。1973年、74年には続けて三冠王となった。
物心ついた時から本塁打王は王選手と決まっていたのだ。
1年や2年、他人の手に渡ったところで、また取り戻してくれるのだろうという固定観念のようなものがあったのだろうと思う。
だから、この年の11月に王が引退を発表した時の衝撃は大きかった。私にとっては、長嶋が監督をやめたこと以上に大きな打撃だったと思う。
引退発表が、というよりも引退を決めたのがシーズン終了後だったから、王が公式戦で観客に別れを告げることはなかったし、王に別れをアピールする観客もいなかった。
王が最後の本塁打を打った試合は、優勝から見放されたシーズン終了間際だったから、たぶんテレビ中継もされなかったと思う(昭和の昔には、ジャイアンツの試合はほとんどすべてテレビ中継されるのが普通で、テレビで見られない試合が例外的だった)。プロ野球ニュースは「今日のホームラン」をやっていたかどうか記憶にない。
だから最後の本塁打は、満員とは言えない後楽園球場のスタンドの3万人かそこらの観衆が見守っただけの、ひっそりとしたものになった。
王がファンの前で挨拶をする機会は、11月下旬のファン感謝デーで訪れた。挨拶の後、一塁ベース上に愛用のファーストミットを置くというパフォーマンスが行われたが、どこかぎくしゃくとぎこちなく、実直な彼には似合わないものだった。挨拶の内容も真面目一辺倒なものだったと思う。この日も私はスタンドに足を運んだが、挨拶の言葉を覚えていない。たぶん、型通りの挨拶だったはずだ。
そうやって、日本プロ野球最高の長距離打者は、静かにグラウンドを去っていった。それはそれで彼らしい別れだったという気もする。
王監督が今季限りでソフトバンクを去る、というニュースはアメリカ出張中にネットで知った。来るべき時が来たか、という心境だった。胃ガンの手術をしてからは、もうあまり長く現場にいることはないだろうと覚悟はしていた。
私はホークスのファンというわけではないので、感情的な動揺はあまりない。だが、例えば松中に「お前ひとりに苦労を背負わせてしまったな」と声をかけた、などという報道に接すると涙腺が緩んでくる。まさにそういうことを言う人なのだと思う。
王監督について、王選手については過去にこのblogで書いたことがある。王監督論、王選手論として特に付け加えることはないので、今回は個人的な思い出話をさせてもらった(前回からそんなのばかりで恐縮ですが)。そういえば、「負けることも野球のうち」というのは、王さんがどこかで語った言葉でもあった。
正直なところをいえば、王さんには一球団の監督というよりも、プロ野球全体の面倒をみていただけないかと以前から思っていた。
新任の加藤コミッショナーは、ここまでの言動をみていると、かなりまっとうな人物という印象を受ける。王さんが特定球団との関係を離れた後は、ぜひともコミッショナー補佐などの形でコミッショナー事務局に招き、その判断に大いに学び、かつその影響力を生かしていただきたいと望んでいる。
| 固定リンク
| コメント (4)
| トラックバック (0)
最近のコメント