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2008年9月

王選手がグラウンドを去った頃のこと。

 スポーツを観るという行為の中には、かなりの割合で「失望すること」が含まれる。贔屓チームの勝利や、記録達成の瞬間を目当てにスタジアムに足を運んでも、それが見られるとは限らない。

 私もしばしばその種の期待を抱いて野球場のスタンドに座ることはあるが、偉大な記録や偉大な勝利の瞬間に居合わせたことはほとんどない。ありていにいえばツキがない。
 古くは木田勇が今日勝てば新人で20勝を達成するはずの日にあっさりとKOされ、イチローが2本だか3本のヒットを打てば打率が4割に乗るという夏の夜には、彼には珍しい無安打に終わった。ブライアントやローズの豪快な本塁打見たさに近鉄の試合に行けば、豪快な空振り三振を堪能させられる。1981年、ジャイアンツが8年ぶりに日本一になった時には、優勝が決まった試合のチケットを持っていたというのに、事もあろうに身内の葬式が割り込んで、葬儀場に停っていた車のラジオで優勝の瞬間を聞く羽目になった。

 そんな疫病神のような私がスタンドで目撃した数少ない歴史的事象に、王貞治選手の868本目の本塁打がある。

 1980年、10月中旬の日曜日だったと思う。当時高校生だった私は、友人に誘われて、とある私立の女子高の文化祭を訪れた。文化祭の方は、語るほどのことは何も起きていない(あ、ギターの弾き語りでグレープの「追伸」を聞いて、何て怖い歌なんだろう、とびっくりしたのは覚えている。それまで、さだまさしの声では気付いていなかったが、女性の声で聞くとあの歌詞はなまなましすぎる)。

 午後3時ごろに女子高を出ると、大通りを挟んですぐ向かい側に後楽園球場があった。調べると、午後4時からジャイアンツの試合があるという。これといって予定もなかった私は、友人と別れて、1人で野球を見ることにした。あまり所持金もなかったのだろう、座った席は、おそらくいちばん安かったライト側のジャンボスタンドだった(外野席の上に増設したスタンドがそう呼ばれていた)。
 午後4時などという半端な開始時刻は当時でも珍しかった。なぜこの日がそんな設定だったのかはわからない。

 この年、長嶋監督が率いるジャイアンツは、優勝戦線にからむことなくシーズンを終えようとしていた。前年は、野球協約が想定しない形での契約を強硬しようとしたあげく、イリーガルな移籍によって手に入れた江川卓投手をめぐるゴタゴタが悪影響を及ぼし(心理的なものだけではなく、江川とのトレードで阪神タイガースに加わった小林繁に8連敗を喫した)、勝率5割を切って5位に低迷した。明けて80年、江川はようやく本領を発揮しはじめ(16勝で最多勝を獲得)、定岡、西本、山倉、篠塚、中畑、松本ら、後に主力となる選手たちが台頭してきたものの、最終的に1つ勝ち越して3位に入るのがやっとだった。

 防御率2位から4位に3人が並んだ投手陣を擁しながら低迷した大きな原因のひとつが、長嶋引退後の巨人打線で四番に君臨してきた王貞治の衰えだった。
 前年、久しぶりに三割を切り、実に18年間続けて獲得してきた打撃三大タイトルをひとつも取れなかった王は、80年はさらに苦しみ、打率は2割そこそこに低迷。確か死球が原因ではあっても欠場が増えた。プロ入り初の代打本塁打を記録したのもこの年だった。最終的には.236で規定打席に達した選手中最下位。本塁打は30本にとどまったが、それでもチーム1だったところに打線の弱さがあった。

 そんなわけで、この日の試合はペナントレースの行方にはほとんど関係がなかった。秋晴れの日曜の夕方、外野席の上の方から、のんびりと眺めていたはずで、試合内容はほとんど覚えていない。相手がヤクルトだったことさえ忘れていた。

 ただひとつ記憶しているのは、王がライトスタンドに放り込んだ本塁打だった。
 すでにさほど力感があるわけでもなかったスイングだが、打球はゆったりとした弧を描いて、私のいたジャンボスタンドの眼下にあるライトスタンドに落ちていった。日米野球などを別にして、公式戦で王の本塁打をスタジアムで見たのは、これが初めてだった。だから、私はそこそこの満足感を抱いて後楽園を後にしたはずだ。

 その後、ジャイアンツは4試合の公式戦を戦ったが、王に本塁打は出なかった。シーズン終了後、長嶋監督が職を去り(辞任と発表されたが実質的には解任だろう)、しばらく置いて王の現役引退が発表された。

 上述したように、この年の王の打率は.236だった。プロ入り22年、40歳という年齢を考えれば、引退したとしても不思議はない。
 だが、結果的に彼の最後の1本となった本塁打を目撃した時、これが最後になるかも知れないとか、今年で見納めになるかもしれない、という意識は私にはまったくなかった。まして、あの本塁打が最後になるなどとは考えてもみなかった。
 王が初めて本塁打王になったのは昭和37年(1962年)。私が生まれた昭和39年には55本塁打でシーズン記録を塗り替え、以後ほぼ毎年、本塁打王と打点王を独占し、たまに首位打者もとった。1973年、74年には続けて三冠王となった。
 物心ついた時から本塁打王は王選手と決まっていたのだ。
 1年や2年、他人の手に渡ったところで、また取り戻してくれるのだろうという固定観念のようなものがあったのだろうと思う。

 だから、この年の11月に王が引退を発表した時の衝撃は大きかった。私にとっては、長嶋が監督をやめたこと以上に大きな打撃だったと思う。

 引退発表が、というよりも引退を決めたのがシーズン終了後だったから、王が公式戦で観客に別れを告げることはなかったし、王に別れをアピールする観客もいなかった。
 王が最後の本塁打を打った試合は、優勝から見放されたシーズン終了間際だったから、たぶんテレビ中継もされなかったと思う(昭和の昔には、ジャイアンツの試合はほとんどすべてテレビ中継されるのが普通で、テレビで見られない試合が例外的だった)。プロ野球ニュースは「今日のホームラン」をやっていたかどうか記憶にない。
 だから最後の本塁打は、満員とは言えない後楽園球場のスタンドの3万人かそこらの観衆が見守っただけの、ひっそりとしたものになった。

 王がファンの前で挨拶をする機会は、11月下旬のファン感謝デーで訪れた。挨拶の後、一塁ベース上に愛用のファーストミットを置くというパフォーマンスが行われたが、どこかぎくしゃくとぎこちなく、実直な彼には似合わないものだった。挨拶の内容も真面目一辺倒なものだったと思う。この日も私はスタンドに足を運んだが、挨拶の言葉を覚えていない。たぶん、型通りの挨拶だったはずだ。

 そうやって、日本プロ野球最高の長距離打者は、静かにグラウンドを去っていった。それはそれで彼らしい別れだったという気もする。


 王監督が今季限りでソフトバンクを去る、というニュースはアメリカ出張中にネットで知った。来るべき時が来たか、という心境だった。胃ガンの手術をしてからは、もうあまり長く現場にいることはないだろうと覚悟はしていた。
 私はホークスのファンというわけではないので、感情的な動揺はあまりない。だが、例えば松中に「お前ひとりに苦労を背負わせてしまったな」と声をかけた、などという報道に接すると涙腺が緩んでくる。まさにそういうことを言う人なのだと思う。
 王監督について王選手については過去にこのblogで書いたことがある。王監督論、王選手論として特に付け加えることはないので、今回は個人的な思い出話をさせてもらった(前回からそんなのばかりで恐縮ですが)。そういえば、「負けることも野球のうち」というのは、王さんがどこかで語った言葉でもあった。

 正直なところをいえば、王さんには一球団の監督というよりも、プロ野球全体の面倒をみていただけないかと以前から思っていた。
 新任の加藤コミッショナーは、ここまでの言動をみていると、かなりまっとうな人物という印象を受ける。王さんが特定球団との関係を離れた後は、ぜひともコミッショナー補佐などの形でコミッショナー事務局に招き、その判断に大いに学び、かつその影響力を生かしていただきたいと望んでいる。

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ヤンキースタジアム最後の試合の前の夜。

 仕事でアメリカに来ている。時差ぼけで夜1時半ごろに目が覚めて、テレビをつけたらESPNで「Yankee Stadium Tribute」と題して、過去の主要な試合のダイジェストを延々と放映していた。

 何時からスタートしたのか知らないが、私がテレビをつけた時には1983年、デーブ・リゲッティがノーヒッターを達成したところだった。続けて、同じ年のロイヤルズ戦で、ジョージ・ブレットのバットに「松ヤニをつけすぎだ」とビリー・マーチン監督がクレームをつけ、まんまと本塁打を帳消しにした試合。策士マーチンの真骨頂ともいえるゲームだ(こんなのを選ぶESPNもどうかしてるが私は好きだ)。
 懐かしい選手がぞろぞろ出てくるのを見たら、やめられなくなってしまった。
(このへんで予告しておきますが、この先も他愛のない個人的な思い出話がだらだら続くだけのエントリーです)

 ロイヤルズはこの3年前、1980年に球団史上初のワールドシリーズに進出した。当時はフジテレビがMLBを中継していたころで、このワールドシリーズも確か全試合を中継した。メディアに口を開かないことで有名だった左の大エース、スティーブ・カールトンをはじめ、本塁打アーチストのマイク・シュミット、いまだに史上最多安打数を誇るピート・ローズ、強肩強打の二塁手マニー・トリーヨらベテランぞろいのフィラデルフィア・フィリーズの前に敗退したのだが、ロイヤルズも若く魅力的なチームだった。
 四割に近づいたこともある好打者ブレットを中心に、ウィリー・ウィルソン、フランク・ホワイト、エイモス・オーティスといった職人タイプの選手がそろっていた。ウィルソンは79年に83盗塁でタイトルを獲得。今では考えられないが、80年代は100近く盗塁をする選手が何人もいた「盗塁王の時代」で、ウィルソンもその主要な一員だった。

 問題の場面では、ブレットが本塁打を打ってベンチに凱旋した後、おもむろにマーチンが審判に歩み寄って説明し、審判団が集まる。バットをながめて話し合い、ホームプレートにあてて(松ヤニがついた部位の)長さをはかった後に、ブレットにアウトを宣告する。一連の動きを不審げな目で眺めていたブレットは血相をかえて主審に疾走し、塁審や他の選手があわてて押さえる。

 もめている場面を見ていて気がついたのだが、抗議に出てきたロイヤルズの選手は白人ばかり。有色人種はブレットをおさえていたマルティネスという選手だけで、ウィルソン、ホワイト、U.L.ワシントン、マクレーといった黒人の主力選手はベンチを出てくることもない。80年代の中西部、まだまだそういう空気は強かったのかも知れない。
 ロイヤルズは81年秋に日米野球で来日し、確か4試合くらい見に行った。ウィルソンの守備位置が日本選手より10メートルくらい前にいることに驚いたものだ。そういえば試合前にウォーミングアップでも、キャッチボールの組み合わせは見事に白人と黒人に分かれていたのを思い出した。

 それにしても、この時点でワールドシリーズ出場から4年も経過しているのに、ロイヤルズの主力選手はほとんど変わっていない。選手の流動性が激しくなった今では考えられないことだ。ブレットとホワイトは確かロイヤルズでキャリアを終えた。

 当時の大スターが何人も出てくるが、監督になった選手は多くはない。ドン・ベイラー、デイブ・ウィンフィールド、ジョージ・ブレット、リゲッティのノーヒッターの相手だったレッドソックスのジム・ライス、ウエイド・ボッグス。すでに殿堂入りしたか、そのうち入るクラスの選手が何人も出てきたが、監督になったのはベイラーくらいか。83年ごろ、阪神と巨人の主軸だった打者が現在そのまま監督を務めているのとは対照的だ。落合も然り。先の北京五輪代表の監督・コーチもみな所属球団のスター選手だった。
 一方、この夜登場したMLBの選手で監督になったのはヤンキースにいたルー・ピネラ、ロイヤルズのフランク・ホワイトなど、好選手ではあってもチームの顔というほどではない。MLBでは選手とコーチは異なる職業とみなされているようだと改めて感じる。

 そんなことを考えているうちに、テレビは90年代に進んでいる。
 93年、ジム・アボットのノーヒッター。相手はインディアンス、一番センターは後にヤンキースに入ったケニー・ロフトンだ。ヤンキースのセンターはバーニー・ウィリアムス。ライトはオニール。一塁マッティングリーで三塁がボッグス。栄光のジョー・トーリ王朝までもう少し。おお、セカンドのガイエゴが2番をつけている。たぶん、もう今後はこの背番号をつける選手は出てこないだろう。彼の次に背負った男が永久欠番になる可能性は高いと思う。

 アボットスイッチは鮮やか。右手の手首から先がない左投手アボットは、右手でグラブを保持しながら、投げ終えた瞬間に左手にはめて送球や打球を受ける。この時点ですでにメジャーで何年も投げているから、テレビ画面は今さら動作をアップで見せることもない。あまりにスムースに移行するので、事情を知らずに見れば、しばらくは何が行われているのか気づかないだろう。
 彼は競技に直接関与しない部位の障害だったから、普通のメジャーリーガーとしてプレーができた。義足や義手でボールを直接扱うようだと、たぶん問題になったはずだ。北京五輪では義足のランナーの出場が議論になり、結局、国際陸連は出場を却下した。ハンディキャッパーのスポーツはメダルを脅かさない範囲で、という状況はフェアなのか。逆に、器具の力に支援されて世界一になることがフェアと言えるのか。大変な難問だが、パラリンピックが盛んになり、競技水準が高まるにつれて、この種の判断を迫られる機会は増えていく。

 このまま見ていたら朝になってしまう、とテレビを消して無理矢理眠った。
 目が覚めた時には99年、デイビッド・コーンの完全試合が進んでいる。捕手は現監督のジラルディだ。すでにトーリ王朝は始まっている。朝食を食べて戻ると、2001年のワールドシリーズ第5戦。アリゾナとの行き詰まる名勝負だった。ティノとジーターの本塁打で劇的なサヨナラ勝ちを収めるが、結局シリーズは負けてしまう。今にして思えば、これがトーリ王朝が傾きはじめた瞬間だった。この年のオフにジェイソン・ジアンビを獲得しティノ・マルティネスを放出してから、ヤンキースはワールドシリーズに勝っていない。

 ヤンキースタジアム最後の試合の夜は仕事が忙しくて中継を見られなかった。その後、ボストン・レッドソックスがプレーオフ進出を決め、同時にヤンキースのポストシーズンが消滅した。
 ESPNのスポーツニュースではジーターが寂しげな表情でインタビューに応じていた。画面には「キャリアで初めてポストシーズン進出を逃す」とテロップが表示されていた。

 私がヤンキース贔屓になったのはヒデキ・マツイが加入した2003年から。それまでは「悪の帝国」と見なしていたから、たとえば2001年のワールドシリーズは完全にアリゾナ側に立って見ていた。それでもやはり、それぞれの時代のヤンキースには知っている選手も多いし懐かしい。強いときも弱いときも、存在感はどの球団にも劣らない。それがヤンキースという存在なのだろう。
 来年は隣に新しいヤンキースタジアムがオープンする。今年の選手がどれだけ残るのか、新しい選手がどれだけ加わるのか、まだわからない。我が松井秀喜が新ヤンキースタジアムで開幕を迎えられるかどうかも予断を許さない。ま、ヤンキースはロイヤルズとは違って、25年前もそういうチームではあったのだが。

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日本プロ野球パッシングが始まるのか。

 とうとうこういう日が来たのだな、というのが正直なところ。

 先日の都市対抗で橋戸賞(MVP)を獲得した新日本石油の田沢純一投手が、NPBからのドラフト指名を断り、MLB入りを志望することを表明した

 もともと今秋のドラフトでは複数球団が一巡目で指名するだろうと予想されていた有力選手だ。そのクラスの選手が、日本のプロ野球を経由せずにMLB球団入りするケースは、これまでなかった。

 なかったけれど、時間の問題ではあった。
 1998年のドラフト会議でジャイアンツを逆指名して入団した上原浩治(大阪体育大学)は、入団前にアナハイム・エンゼルスにも勧誘されたことを隠していない。上原がエンゼルスを選べば同じ問題が起こったはずだ。
 そして、日本のプロ野球や国際大会であれほど活躍した上原が、ようやくFA権を得て海を渡れるというオフを前にした今シーズン、これほど成績を落としているのを見れば、「行ける時に行っておかないと」と思う若者が現れたとしても無理はない。

 NPBは緊急に対策会議を開いたりしているようだが、田沢はNPB内の人ではない。社会一般のルールからいえば、彼とMLB球団との契約に関してNPBは無関係な第三者であり、口出しすることはできない。

 これまでこういうことが起こらなかったのは、NPBとMLBとの間に紳士協定と呼ばれる約束事があったからだと言われるが、紳士協定である以上、強制力もペナルティもない。MLBのオーナーたちが紳士であるとも思えない。
 10年間放置しておいた問題が表面化したからといって急に騒ぎ立てても、よい対策が出てくることは期待しづらい。1995年の野茂渡米と同じように、これが契機となって、以後同じように海を渡る選手が増える可能性は充分にあると思う。

 2002年ごろに表面化した“世界ドラフト構想”を見てもわかるように、相手は手を出す気満々なのだ。日本側が何を要望しようと、望むような条件をMLBが承諾するとは考えにくい。
 それ以降の6年間で、MLB入りした日本人選手の評価はさらに高まっているだろう。と同時に、松坂を見ていればわかるように、たくさんの球数を投げる日本式の投手の練習方法は、まったく評価されていない(成果を評価するのなら、過程も尊重したらどうかと思うが)。
 “日本人の馬鹿げた指導法で有望な素材が潰されないうちに獲得して手元で育成したい”なんて、いかにも彼らが考えそうなことだと思いませんか。

 これは一青年の「職業選択の自由」に関わる問題だ。自由主義・資本主義・民主主義を旨とする日米両国においては、正義は田沢とMLBの側にある。彼らの自由を阻止しようとするNPBは、非関税障壁だと批判を浴びるのが落ちだろう(そもそも30年前に、ドラフト会議を経ずに行われた江川卓とジャイアンツの契約を、「職業選択の自由」を掲げて擁護したのは読売新聞であった。当時の論理が正しいのなら、田沢の選択も正しいはずだ)。

 選手の側からいえば、従来はMLBでは入団時に多額の契約金を払うということをしなかった*。入団時の一時金は、文字通り日本がケタ違いに多かったので、収入面では、まずNPB入りすることにメリットが大きかった(そこで成功してからMLBに行けば最高だ)。
 だが、田沢についての報道では、MLB側もかなりの金額を用意していると伝えられる。近年はアマチュア選手に代理人がついて入団時の契約金や年俸吊り上げを図っていると聞くので、金銭面でMLBがNPBに近づいているのかも知れない。金の張りあいなら日本がMLBに勝てるはずもない。
 ほとんど唯一のアドバンテージが失われたことも、このタイミングでこういう事態が起こった理由のひとつだろう。

 だから、「10年放置しておいた問題」と書いたものの、10年前から真剣に対策に取り組んだとしても、NPBに何ができたかといえば、はなはだ心許ないものはある。実質的に止めようがなかっただろうとは思う。


 ただ、ひとつだけ残念に思うのは、NPBと社会人球界との間に、どれほどの一体感や信頼関係があるのだろうな、ということだ。

 “日本の野球界をMLBの植民地にしないために、ドミニカのように冬場にしか自国リーグを開催できないような国にしないために、有望な若手は、最初はNPBに入るよう指導してくれませんか。”

 そのように、NPBの然るべき地位にある人々が、社会人球界や学生球界の指導的立場にある人々に頭を下げて回る、というようなことが行われていたら、アマ球界からの直接流出は、少しは可能性を抑制することができたのかも知れない。
(まだ実例がひとつもないうちにそこまでする必要はないのかも知れない。だが、数年経ってこの数行を読み返した時、「あの時にすぐそうやっておけば…」と残念に思う可能性は結構高いような気がしている)
 現実には、慌てふためくNPBに対するアマ球界の視線は、かなり冷淡なものなのではないかと想像している。


 記者会見で田沢の隣に座っていた監督の、大久保秀昭という名に記憶があったので調べてみると、確かに私が記憶していた通りの人物だった。
 アトランタ五輪代表を経て、27歳で近鉄入りした捕手だった。慶大主将として2連覇を経験、日本石油で社会人を代表する捕手となった。
 私が覚えていたのはそこまでだ。Wikipediaによると、プロ入り後は故障で外野に転向、レギュラーを獲得することもなく、通算22安打2本塁打、5年で引退している。梨田監督付き広報を経験後、04年には湘南シーレックスの打撃コーチ、そして06年からは古巣・新日本石油の監督に就任した。

 都市対抗に出場するクラスの強豪社会人チームでで、プロ経験を持つ指導者は珍しいのではないかと思う。選手として活躍はできなかったが、引退後も球団に残り、別の球団からも声がかかるということは、人柄や指導力に一定の評価(あるいは期待)があったのだろう。
 とすれば、田沢の一件については、大久保監督に対してプロ野球界の人脈から、さまざまなアプローチや説得があったであろうことが容易に想像できる。監督付広報をしていたのなら、梨田(現日本ハム監督)から「何とか田沢君を説得してくれよ」などと電話の一本もかかってきたら、苦しい思いをすることになったんじゃないだろうか(実際にそんなことがあったかどうかはもちろん知らないが)。

 にもかかわらず、大久保監督は、渡米するという田沢の意思を尊重し、「いろいろな圧力でご破算になることは避けたい。田沢は純粋な気持ちでいる。非難の声は僕が浴びればいい」と言い切っている。相当な覚悟が感じられる。と同時に、プロ野球界に対する厳しい感情も想像される。田沢だっておそらく、プロ野球で捕手経験をもつ監督に、じっくりと相談したに違いない。その結果、田沢は日本のプロ野球を選ばなかった。


 この一件ひとつで、NPBと社会人球界の関係性まで忖度するのは、想像力過剰かも知れないとはわかっている。
 だが、念願のプロ入りを延期してまでアトランタ五輪に賭けた経験のある大久保監督が、この夏の北京の試合を見たとしたら、自分たちが大切にしていたもの、長年積み上げてきたものに対する敬意の欠如に、深い失望を感じただろうなとは思う。そして、それもまた今回の決断の背景にあるかも知れないな、と。

 この一件がすべて決着し、ある程度の時間が経った頃に、大久保監督が胸のうちをじっくり語ったようなインタビューを読んでみたい。「野球小僧」あたりでやってくれないかな。


*
この点は事実誤認。98年にエンゼルスと読売ジャイアンツが争奪戦を繰り広げた上原浩治の場合、エンゼルスはジャイアンツを上回る契約金額を提示したと当時報道された(ただしマイナー契約で年俸は100万円程度、とも)。MLBでも90年代半ばから日本円にして数億の契約金で入団する選手が現れており、上位指名における高騰は10年前にすでに始まっていた。下位指名選手は今でも安い。

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サッカー界はなぜ鈴木桂治を見逃したのか/追記。

※当初、元エントリに追記として書き加えたのですが、長くなったので独立したエントリにします。そのため文体が違いますが、今さら全部書き直すのも面倒なのでご容赦を。

 前の前のエントリ<サッカー界はなぜ鈴木桂治を見逃したのか。>は、論争を呼びやすいテーマだったせいか、刺激的なタイトルのせいか、当blogコメント欄をはじめ、ネット上のいろんなところでいろんな意見やら批判やらを目にしました。私が知らないことを教えてくれる人も多く、ありがたいことです。
それらを眺めて思ったことをいくつか記しておきます(元エントリのコメント欄と重複するところもありますがご容赦を)。

 言葉足らずの文章だったので充分に伝わらなかった人もいるようですが(汲み取ってくれた人もいるようで、ありがたいことです)、根本的な問題意識は次のようなことでした。

・日本のサッカー選手は一般的に、フィジカル(ここでは、体格および一般的な身体能力という程度の意味で用い、定義について深入りはしないことにします)およびフィジカルコンタクトが、サッカー強豪国の選手に比べて劣っている。
・日本のサッカー関係者は、日本が何かの試合や大会で負けた時の敗因として「日本人はフィジカルが弱い」と言うことがしばしばある。
・しかし、日本でも他の競技には、体格が大きく、フィジカルに優れ、フィジカルコンタクトで諸外国に負けないスポーツ選手が少なくない。弱いのは「日本人」全般ではなく、「日本のサッカー選手」ではないのか。
・では、そこを補うにはどうしたらよいのか。

 そして、その解決方法の一例として「他の競技に進んでいる『フィジカルに強い』若者をサッカー界に招き入れる」という策を思いつき、サッカー選手になったかも知れない選手の例として鈴木選手を紹介しました。

 なお、「フィジカル」という言葉を使ってますが、この議論における私の関心は主に「フィジカルコンタクト」にあるとお考えください(反町監督がそのつもりで言ったのかどうかは定かではありませんが)。

 当欄ほかで目にした批判的なコメントは、だいたい次のようなものでした。
 
a)格闘技には階級制があるのだから、好成績は参考にならない
b)成長の度合は予測困難だから小学生を選別しても無意味
c)少年期にフィジカルの強い選手は体格で勝てるから技術がおろそかになり、大成しない
d)フィジカルコンタクトは体格よりも技術。その指導を充実させるべき
e)有望選手をサッカーに囲い込む、という発想はおかしい

 a)については、「階級制があるから日本人でも勝てた」という考え方は、結局、体格が大きい方が有利であることが前提になっています。とすれば、サッカーで「体格のよい選手を連れてくれば対抗できるはず」という仮説を否定するものではありません。

 b)については、確かにそうかもしれません。だとすれば、ある程度成長して体格で優位になることが確実になった選手をうまく指導することも、考えた方がよいのではないかと思います。

 エントリ本文に名前を挙げた寺田、箕輪に加えて、京都の田原、広島で30過ぎてDF転向してレギュラーになった盛田、といった顔触れを見ると、大柄な選手は成長に時間がかかるんじゃないかという気がしてきます。そして、多くの指導者やチームは、そこまで彼らの成長を待てず、結果として成長する前にサッカーを離れてしまうということはないのかな、と。中澤にしても20歳前後から急成長したわけで、決して早熟ではありませんでしたし。
 だとすれば、こういう選手たちには、他の(中学時代からファンタジスタ、みたいなタイプとは違う)指導方法があってよいのではないかと思います。

 c)については、それなら年上の選手の中でやらせりゃいいんじゃないでしょうか。伊東テルのような例外もありますし、解決不可能な問題とは思えません。

 d)については、たしかに(bのような現実がある以上)、対策としては、ここが大事なのだろうと思います。

 そして、d)を実現するためのひとつの手法として、サッカーだけでなく他の競技経験を積ませる、あるいは他競技のノウハウを導入する、ということが考えられます。

 元エントリ本文の末尾にもちらっと書きましたが、フィジカルコンタクトが重要な競技はほかにもあるので、そういうところでサッカーに応用できるようなノウハウを探して教えてもらえたら有効なんじゃないでしょうか。
 鈴木桂治選手には少年期のサッカー経験が柔道に役に立った、と。逆に他競技の経験がサッカーに役に立つ、ということも、たぶん起こり得るのでは。ジダンも柔道経験があるそうですし。あのボディバランスには柔道経験も寄与しているのかも知れません。

 欧州移籍した日本のサッカー選手は総じてコンタクトに強くなります。「それは欧州でプレーしないと身に付かない技術で、Jリーグでは無理」というような言説も目にします。
 これも元エントリ冒頭の問題提起と同じで、「Jリーグでは無理」かも知れないけど、日本国内の他競技にノウハウやヒントがある、という可能性を考えてみてもいいんじゃないでしょうか。これはフィジカルコンタクトに限りません。サッカーにはいろんな動作があるので、応用できる範囲は広いのでは。
 学校なら同じ校内にいろんな運動部があるし(千葉ロッテの唐川投手は、千葉県成田高時代に一時期、陸上部に預けられていたことがあるそうです)、Jリーグでもバスケットやバレーボールのチームを備えたクラブが出てきています。せっかくの条件を生かすことができたらいいですね。

  e)については、そう読まれても仕方のないエントリで、それ自体はごもっともです。
 ここで言いたいのは、「囲い込む」というよりは、「少年期からサッカーだけやってる子以外にも目を向けてみたら」という問題提起とご理解ください。他の競技にも言えることですが、もっと競技間の流動性があっていいんじゃないかと。

 まあ、サッカーには、ある年代でないと身に付かない技術、というのもあるようですから微妙なところですが、それが他競技には目もくれずにサッカーに専念しなければ身に付かないのかどうか、という点は、詳しい方のご意見を聞いてみたいものです。
(大人の技術習得に関しては、ひとつづつの動作の学習に専念するより、複数をランダムに学習した方が、全体に習得の度合が早い、という研究結果があるそうです)

追記(2008.9.9)
「ネット上のいろんなところ」と記しましたが、主に以下の2か所です。

はてなブックマーク > 見物人の論理: サッカー界はなぜ鈴木桂治を見逃したのか。
鈴木桂治を見逃した日本サッカー界/サッカー瞬間誌 サポティスタ

また、冒頭の「根本的な問題意識」を挙げた部分にも記したように、一連のエントリでは「フィジカルとは何か」「『フィジカル』と『フィジカルコンタクト』はどういう相関関係にあるのか」等については乱暴にすっとばしているわけですが、TBいただいたブログや、本エントリの党首さんのコメントなどで興味深い考察をされています。
 
 
追記2(2008.11.19)
長谷川滋利「超一流じゃなくても「成功」できる」(新潮社)2006 から

<メジャーリーグで感じたことは、アメリカの選手は複数のスポーツをプレーすることで、体の使い方が大きく広がるということである。
 たとえばメジャーの好プレー集で外野手がフェンス際でスーパーキャッチを披露するシーンを見たことがあると思うが、フェンスに向かって走り、なおかつフライを取るのは本当に難しい。実は彼らのボールの追い方は、フットボールのワイドレシーバーの動きなのである。野球のフライの取り方と、フットボールでクォーターバックからパスをもらう受け方はルート取りが違う。野球のボールは外野手に向かってくるが、フットボールのレシーバーはボールが進むのと同じ方向に向かって走るので、こちらの方がむずかしい。しかしこれに慣れると、野球のフィールディングにも応用できるようになる。複数のスポーツをプレーすることのメリットは、意外な動きが他のスポーツの役に立つということだ。>(P.215-216)

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満4年とちょっと。

 当blogは、一週間ほど前に開設4周年を迎えました(オンタイムで挨拶しようと思ってたけど、ネットのつながらないところに出張中で書きそびれました)。ここ1年くらいはなかば休眠中のようなものなのに、何か書けば読みに来てくれる皆様にお礼を申し上げます。

 4年というのは長い方なのでしょうか。ついこないだのような気もしますが、考えてみると最初に書いたエントリのひとつはアテネ五輪の感想でしたから、なるほど4年経ったのだなと思います。

 始めた当初は、ブログに対する世の中の過剰な期待感とか、ブログやってる人たちの高揚感をすごく感じた時期もありましたが、それらも一段落して今はわりあい落ち着いてきたようで、気負ったり構えたりせずに居られるようになってきた気がします(ブロゴスフィアと呼べるほどのまとまった世界があるのかどうかは疑問ですが)。
 当時アルファブロガーとか言われて華々しく活躍してた人たちの中には、ブログを足がかりに飛躍していったり(中には、それとともにブログをやめてしまったり)した方も結構おられるようですが、私は特に変わりはありません。実名か匿名かという議論において、どちらかが絶対的に正しいとは思いませんが、こういうことを実生活で仕事に結びつけたいのなら実名で書いた方が良さそうですね。

 私はあんまりここを実利に結びつけようという気がないので、実生活に大きな変化でもない限りは、こんな感じで続けていくつもりです。自分の書いたものをネット上に置いておくことで、いつかそれについて調べようとした誰かの役に立てば、それでいいんじゃないかと思ってます(結果的にグーグルあたりの思う壷なのが癪ではありますが)。

 コメント欄の敷居が高いという声をよく聞くので(そして確かに小煩いレスをすることもありますので)「お気軽にどうぞ」とは言いづらいのですが、気が向いた時には足跡など残していただければ幸いです。

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サッカー界はなぜ鈴木桂治を見逃したのか。

 もうかなり旧聞に属する話になってしまったが、北京五輪後の反町康治・サッカー日本代表監督の総括で気になる発言があった。

「フィジカルの強さがあれば日本のサッカーは完成に近づくと思う」

 よい機会なので、以前から思っていたことを書いておく。
 日本人はフィジカルが弱いとか体格が足りないとか、サッカーの世界では、もう昔々から聞き飽きるくらい聞かされた言説なのだが、私は疑わしく思っている。

 だって、日本は柔道強いじゃないですか。

 最近はいくらか弱くなってきたけれど、それでも大抵の階級でメダルをとっている。決して弱いとは言えない。
 柔道は日本が発祥国だから強くて当然かも知れない。が、とりたててアドバンテージがあるとは思えないレスリングだって、伝統的に結構強い。北京でも、女子だけでなく男子もメダルをとっている。
 フィジカルコンタクトそのものである格闘技で、日本代表は世界のトップクラスに居続けているのだ。

 そんな国がどうして「フィジカルが弱い」と言えるのだろう。

 だから、サッカー界の人が「日本はフィジカルが弱い」というのは、実は単に「日本のサッカー選手はフィジカルが弱い」ということを言ってるのだと読み替えた方がよい。


 ところで、鈴木桂治という柔道家がいる。
 北京五輪に選手団主将として臨んだが一回戦負け、引退も示唆しているようで、もはや選手としては過去の人かも知れない。が、4年前のアテネでは100キロ超級で金メダル。世界選手権も無差別級と100キロ級を制した。2000年代前半を代表する名選手であったことは間違いない。

 足技が巧みなことが、柔道家としての特長のひとつだ。そして、その足の動きは、少年時代に熱中していたサッカーで養われたと言われている。

<柔道家・鈴木桂治。一流の選手でも容易に逃れることが出来ない彼の足技は、ミリ単位の正確さでコントロールできる足の使い方に秘密がある。イメージ通り、精密に足をさばき、相手の動きを制して一本を取るこの技術は、幼い頃に彼が熱中していたスポーツの中で育まれた。
 サッカーである。
 自由自在に動きながら、ボールを正確にコントロールする足の使い方を、子ども時代、鈴木桂治は徹底して身に付けたのである。>(BS-i 超・人

 その小学生の頃、鈴木は柔道をやめる、と言い出したことがあるという。

<それは、柔道の試合で負けた悔しさとサッカーへの情熱が重なったからだった。その際、道場の先生や両親は熱心に説得した。約2カ月悩んだ末に、鈴木は畳に戻ってきた。>(三省堂スポーツ・ジャスト08年7月号

 柔道界にとっては、少年期のサッカー経験が役に立って良かったね、柔道に戻ってきてくれて良かったね、ということで完結するエピソードだ。だが、サッカー界にとってはどうだろう。

 現在28歳の鈴木は、身長184センチ、体重100キロ前後の威丈夫だ。
 彼がもしサッカー選手となって、日本代表のゴール前に立ちふさがっていたら、少なくとも世界のどんなサッカー選手と対峙しても、フィジカルコンタクトで劣勢にたつことは、まずないのではないか。柔道では引退を考える時期かも知れないが、サッカー選手としては次の次のワールドカップくらいまでは狙える年齢だ。ひょっとするとサッカー界は、手中にあった逸材をみすみす逃してしまったのかもしれない。

 引用した記事は柔道家・鈴木の伝記だから、少年時代の彼がサッカー選手としてどうだったかについては触れられていない。どんなクラブで、どんな指導者の下でプレーしていたのかもわからない。
 ただし、<6年時ですでに身長1メートル65、体重60キロ。50メートル走は6秒5の快足だった。>というこの情報が正しいのなら、少年時代にすでに、フィジカルコンタクトに強い選手に育つことが期待できただろうと思われる。
 では、鈴木を指導していたコーチたちは、鈴木に柔道を断念させ、サッカーの世界に引き込むことに、どれほどの熱意をもっていただろうか。

 もちろん、結果論だけで当時の指導者を批判する気などない(そもそも鈴木がサッカーで大成したかどうかなど誰にも判らないのだし、鈴木だって、よく考えたらやっぱり柔道の方が好きだった、ということなのかも知れないし)。

 ただし、長じて柔道選手として大成した鈴木が実はサッカー経験者だったと知った時(知らないかもしらんけど)、JFAで選手の育成に取り組む責任者たちは、逸材を逃したと悔しがり、第2、第3の鈴木桂治に柔道でなくサッカーを選んでもらうためにはどうしたらいいか、を真剣に考えただろうか。問題はそっちの方だと思っている。

 要するに私は、「日本のサッカー選手がフィジカルに弱い」理由は、単にサッカー界がフィジカルに強い選手を大事にしないからではないのか、と疑っている。ドリブルやパスの巧いテクニシャンばかりに注目して、大きくてごつくてテクニックを身につけるスピードの遅い少年たちを軽んじている、ということではないのだろうか。その結果、サッカーをやめて去ってしまう少年もいるのではないか。
 日本を代表するセンターバックである中澤佑二は、プロ入りするまで、あらゆる世代の代表と無縁に過ごしてきた。フロンターレの寺田や(今は札幌にいる)箕輪も、代表と名のつくものはユニバーシアードが最初だったはず。最近の代表の「屈強なディフェンダー」たちは、JFAの若年層育成担当者たちの目にとまらなかったことになる。中学・高校時代から全国的に知られていた攻撃のスターたちとは対照的だ。

 だとしたら、そこが変わらない限り、百年経っても日本のサッカーはフィジカルが強くなんかならない。
 JFA幹部は、嘆いている暇があったら、フィジカルが強くなりそうな若年層を集めて鍛えてみたり、柔道やレスリング、あるいはラグビー界の指導者にフィジカルコンタクトを鍛える方法を聞きに行ってみたらいいんじゃないだろうか(すでにやってたらすみません)。


※コメントその他に関する感想等を<サッカー界はなぜ鈴木桂治を見逃したのか/追記。>にまとめました。合わせてお読みいただけると幸甚。

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いっそWBC代表は日本一のチームが出たら、という試案。

 9月1日のプロ野球実行委員会で、来春の第2回WBCの監督人事は議題に上ったが、結論は出なかった。

<日本代表監督の人選は、加藤良三コミッショナーを中心に、有識者の意見もふまえて進めることで一致した。
 実行委では、各球団が人選の方法について意見を交換。「日本シリーズ優勝監督など、選考基準を設ける」「選考委員会を設置する」などの声も出たが、まず、前回のWBCで日本を率いた王貞治・ソフトバンク監督ら、有識者の意見を聞く作業にとりかかることになった。>(読売

<来年3月に米国を中心に開かれる野球のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表監督の選考が、加藤コミッショナーに一任されることとなった。(中略)実行委員会では、中日などから「前年の日本一になった監督がWBCの監督をやるという方式は」という意見が出されたが、「現役の監督は難しい」という声もあった。「選考委員会を作っては」という意見も出たが、今月中に結論を出すためには時間がないということもあり、加藤コミッショナーが判断することとなった。前回大会で優勝に導いたソフトバンクの王監督らから意見を聞いて選定を進め、12球団に諮ることとなる。>(朝日

 コミッショナーを<中心に進める>と<一任される>ではずいぶんニュアンスが異なる。どっちなんだと言いたくなるが、まあ1日だけの話し合いでいきなり監督が決まるよりは、選考方法も含めて、きちんと検討した方がいい。

 各紙報道を読むと、<一任>という表現は、「今年の日本一監督にする」「選考委員会を作る」といった各球団からの提案が、時間がないという理由で却下されたところから出てきたもののようだ。

 昨日までの報道では、「今季日本一監督をWBC監督に」という提案が目立っていた。主導していたのは中日だ。
 西川球団社長は<「何のルールもなく恣意(しい)的に決めるのはおかしいでしょう」><「私は星野では駄目だと言っているわけではない。だが、なぜ星野なのかという理由が必要でしょう。それに代表の監督は現役監督でなくていいのかなとも思う」」>と語っている。

 ジャイアンツの首領の「星野君の他に誰がいる」という発言に対抗するもの、という印象を受けないでもないが、仮にそうだとしても、これはなかなかよい提案ではないかと私は思っている。

 理由はいくつかある。

 第1に、現役監督を除外すると、候補者の数は乏しい。体力と意欲を兼ね備えた優秀な指導者がいれば、各球団がそう長いこと放ってはおかない。

 日本シリーズで優勝経験があり、今は現場を離れている元監督といえば、上田利治、古葉竹識、森祇晶、権藤博、若松勉、伊東勤らの名を挙げることができる。とはいえ上田、古葉、森、権藤はすでに70代、現場を離れて10年以上経つ(古葉は大学野球部の監督だが)。今さらこの激務に担ぎ出すのはあまり現実的とは思えない。
 若松や伊東は、私は面白いと思うが、各球団やスポンサー筋を納得させるには押し出しが弱いかもしれない(そんな要因を考慮しなければならないのも情けない話だが)。

 第2に、現場感覚の有無というものがある。あるらしい。
 たとえば選手の調子を判断する目、試合の勝負所をつかむ感覚といったものは、日々現場で戦っていないと、衰えたり狂ったりするものだという。私にははっきりとはわからないが、どんな仕事でも現場感覚というものは大事だ。野球の世界にもそれがあるだろうということは想像に難くない。
 今週発売の週刊ベースボールではライターの木村公一が「韓国はなぜ金メダルに輝いたのか」という記事を書いているが、そこでは韓国代表の金卿文監督の手腕が高く評価され、その采配が際だった理由として「現職の監督だった」ことが指摘されている。監督もコーチ陣も全員が現職だったそうだ。

 第3に、準備期間の不足がある。
 「日本シリーズの優勝監督にする」「選考委員会を作る」という提案は、実行委員会で「時間がない」という理由で採用されなかったそうだが、現実には、誰がなったところで時間はない。実際に選手を招集して練習ができるのはおそらく2月中旬あたりから。それなら現役監督であっても大した違いはない(スタッフの招集を手際よくやれれば、という条件は伴うが。これは、監督以前に、しっかりしたGMを決めることの方が大事だろう)。

 そんなわけで「日本一監督をWBC監督にする」という中日案はなかなかよいと思うのだが、私はこれをさらに進めて、「WBC日本代表チームは、今年の日本一球団を母体とする」ということにしたらどうかと思っている。

 現役監督がWBC監督に就任する上で最大の障害は、監督がシーズン前にチームを離れることにある。WBCで世界一になった王監督は、その年、ソフトバンクを日本一にすることができなかった。
 監督がチームを離れるのが問題になるのなら、チームの主要部分も監督にくっつけて一緒に行ってしまえばよい。前年の日本一チームなのだから、要所要所に優秀な選手はいるはずだ。外国人に頼っている部分や弱い部分を他球団の選手で補えば、代表にふさわしいチームができるだろう。監督も含めていつも一緒に試合をしている選手たちなのだから、意思の疎通にも問題はないはずだ。シーズンに向けた調整も同時にできる。外国人や非主力選手が分断されるという問題はあるが、なんなら練習相手として何人か帯同させてもいいかもしれない。

 暴論だとお思いだろうか。
 もちろん、本当に最強のチームを作るのなら、常勤の代表監督とスタッフを置き、各チームから選手を選りすぐってチームを編成するのが本来の姿だろう。
 しかし、北京五輪に向けた日本代表のチーム作りを見ていると、そういうやり方では結局うまくいかないのではないかという懸念を覚える。テストや準備がほとんどできないからだ。

 国内のプロリーグが進行する傍らで代表のチーム作りを進めなければならない、という点で、野球とサッカーは似ている。だが実際には、監督が準備のためにできることには大きな違いがある。
 北京五輪のサッカー日本代表は、昨年暮れに出場を決めた後も、何度も代表合宿を行い、練習試合を行い、海外での国際大会にも参加した。代表監督はそこで新しい選手を試し、本大会には最終予選とはかなり異なるメンバーでチームを編成した(その結果がろくでもなかったというのは、また別の話)。

 反町監督が選手を集めて合宿や海外遠征をしていた間、星野監督はチーム作りのために何ができたか。所属チームで練習し、試合をする選手たちを、ただ視察し、話すことだけだった。

 7月に発表された代表チームには、「故障者が多い」「今季の成績を反映していない」「予選のメンバーに固執しすぎ」などの批判が浴びせられた。本番でも故障で満足に働けない選手が続出したため、この選手選考は敗因のひとつとして非難を受けている。
 だが、私はこの点に関しては、あまり星野監督を責める気にはなれない。
 (代表合宿を招集した段階で、本番に間に合わない選手の見極めは必要だったと思うが)

 ある選手が国際試合で通用するか否かを予想するのは難しい。西岡のようにまるで平気な選手もいれば、青木や新井のように経験を積んで力が出せるようになった選手もいる。
 北京では、予選不参加の西武の中島とGG佐藤が加わった。今季好調だったからだ。結果として、中島はそこそこ働き、佐藤は最後の2試合で日本を破滅に導いた1人となった。要するに、使ってみなければわからない。

 だが星野監督に、彼らを実戦でテストする機会は与えられなかった。
 とすれば、国際経験のない選手は、チームにとってある種のリスク要因となる。新顔が増えるほどリスクも増える。だから、「栗原を連れて行っておけば」という類の批判には、ほとんど意味がないと私は思う(小笠原、井端、和田一浩といった選手なら、成績やプレー以外で力になっただろうとは思うが)。

 十分な準備やテストができないのなら、オールスター的選抜チームが機能するのは難しい。国内リーグの成績だけで編成された「最強チーム」は、絵に描いた餅に過ぎない。それなら、既成の強いチームをベースに代表を構成した方が、まだしも間違いがないのではないか。

 こういう考え方は、実はほかの団体競技では珍しくない。

 日本のバレーボールが強かった頃には、特定の実業団チームの監督が自チームに多少の補強をして国際大会に臨む、というやり方で成功をおさめていた。東京五輪で優勝した「東洋の魔女」は監督以下、日紡貝塚がベースだったし、70年代の女子代表もほとんど日立とユニチカだった。

 サッカーでも似た例は多い。「トータルフットボール」と称えられる74年ワールドカップのオランダ代表は、アヤックスとフェイエノールトの混成チームだ。旧ソ連や現在のロシアも、特定クラブを中心に代表を編成することが多いように思う。

 野球の日本代表が、数年に一度の特定大会のために一時的に結成され、しかもそのための準備期間が満足にとれない、という条件の下でしか活動できないのであれば、出来合いの強いチームをベースに結成するという手法は、検討に値する選択肢だと私は思う。

 というわけで、次の実行委員会までの間に、中日球団はもう少し頑張ってロビイングをして、チームごとWBCに送り込むべく暗躍してもらいたい(って、中日が日本一になれるかどうかという問題もあるがそこはとりあえず措く)。
 


 と、ここまで書いてきて、大きな要因を見落としていることに気がついた。
 北京五輪とWBCでは、条件が大きく異なる。WBCにはMLB選手の出場が可能だ。

 松坂、黒田、岡島、斉藤、城島、岩村、松井稼、松井秀、イチロー、福留。ほとんどのポジションで日本のナンバーワン選手はアメリカにいる。そうでなくても、WBC本大会はアメリカの球場とアメリカの審判で行われるのだから、同程度の力量ならMLB選手の方が有利だろう。

 もし前回と異なり、彼らの大半が日本代表としてWBCに参加するのであれば、「日本一の監督とチームで参加」という形は成り立ちにくくなる。MLB組を主力に据え、NPB組は脇を固める、という形でオールスターチームを作るのがよいかもしれない(皮肉なことだが、この構造はシドニー五輪代表におけるプロ選手とアマ選手の関係に酷似することになる)。

 これは要素レベルでいえば掛け値なしに日本の最強チームとなる。
 ただし問題は、誰がそれを率いるのか、ということだ。

 第1回WBCの日本代表は、イチローが王監督を深く尊敬していたからチームとして成立した。イチローほど気難しい選手がほかにいるかどうかは別として、この錚々たるメンバーが指導者として認め、彼らに同じ方向を向かせることのできる人物でなければ、このチームの監督を務めるのは難しい。
 (極端な話、イチローは星野仙一を自分の監督として認めるだろうか。なかなか微妙な気はする)

 さて、そうなると誰がいるのだろう。MLB監督としても相応の実績を残しているボビー・バレンタインあたりがいいのだろうか。

 そういえば、MLB所属の日本人選手の全員から、掛け値なしに深く尊敬されている人物が1人、在野にいた。野茂英雄がベンチに入れば、彼らは文句なしにまとまるかもしれない。
 だが、彼をベンチに従えることができたはずの人物は、すでにこの世にない。仰木彬が健在であったら…。

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